たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

だってココロの奥は違うんぢゃない?

2024-04-11 03:48:52 | Weblog
 「本当に」とか「全力で」とか「圧倒的に」とか「本気で」とか、キミはいつもそういう形容をしたがる。
 そんな無駄な形容をするたびに、言葉がココロと乖離していってしまい、交わす言葉の記憶を改竄する術が上達していく。

 形容は事実を装飾する道具ではないし、言葉は自分の気持ちから逃げるための乗り物ではない。隠蔽体質の根幹は言葉遣いに現れていることにきっと気がつけないでいるのだろう。
 「みんなで本当に成長して、全力でやり遂げて、圧倒的に勝利して、本気で取り組むんだ」という言葉では、どんなに高鳴る鼓動を演出したとしても、情報量はゼロなのである。その言葉に魅かれてついてゆく人は、言葉の意味を考えていないその場限りの人だけだ。

 そしてah、キミが組織する集団は、「感謝」するのである。本当に、全力で、圧倒的に、本気で感謝するのである。
 他者から嫌われない言葉を並べるのは簡単だ。自分の好き嫌いを述べずに、他者の様々な言動に対して表面的に「感謝」を示し続ければ良い。単に感謝するだけではなく、組織内のすべての人に「感謝」を強要する。その強要に違和感と躊躇のない人間を選出し続ける。すると下心でさえ信じたい弱い人たちが群がっていく。そうすれば、キミが強い言葉によって作り上げた絵空事の世界が維持され続ける。
 でも、そんなに長くは続かないんじゃない?そんなんじゃダメじゃない?キミが虚業種から学んだことを活かしているつもりで、現実をずっと見続けなくちゃいけない職種を選んだ時点で、詰んでるんじゃない?

 青春時代におけるリア充によるいじめの贖罪としてキミたちが「感謝」を他者に強要し続ける限り、反省の色は見えてこない。やっていることは、あのクラスやあの部活の頃と同じ。まぁ、あの頃と違って、本当に命果てちゃうリスクがあるんだけどね。

 本当の意味でリア充なら、そんなもんじゃないだろ。
 もっと全力で、自分の中のイケナイ気持ちとも向き合えよ。
 そうすれば、下手な芝居さえも圧倒的に盛り上がるようになる。
 本気で、キミも正しくなるためにね。

 自分のココロの奥をきちんと探っていって、そこから逃げるために言葉を用いずに、そのココロを正確に捉えるためにABCを使って、現実とうまく折り合いがつけられたなら、、今度は太陽の下で、また会おうぜ。
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2024-03-09 03:18:27 | Weblog
 新年明けてから自分の誕生日までブログもYouTubeもやらなかったのは、ネットで何らかの発信をし始めてから、初めてじゃないか。
 遅くなりましたが、なんとか現場復帰しつつあります。新年が始まってすぐに緊急事態が起きまして、生活がかなり一変しました。それについては4月ごろまでにYouTube限定公開で詳しく説明しようと思うので、俺のことを直接知ってる方で聴きたい人は連絡してください(物理会の参加者などの方には直接貼りますので大丈夫です)。今の段階で言うべきではないかもしれないけれど、そこそこは公益性があると思うのでいずれは全体に公開すると思いますが、何年先になるか分からないので、聴きたい人はぜひ。

 色々と計画がズレながらも何とか復帰できていること、その下地を作ってくれているすべての人とこの国のあらゆるシステム、そして、運良くこの時代に生まれ、サイエンスがこれだけ発達していること、何よりも現状を知って手を差し伸べてくれた人たちに、心から心から、ありがとう。
 あと、痛みがなければ生きていけない。けれど、痛みが大きすぎれば身動きが取れなくなってしまう。そんなときに必要なのは、実はほんの少しの痛みなのかもしれない。
 ・・・そんなことを思いました。

 大きな犠牲と変化とともに、素晴らしい巡り合いも同時にあった。本当はそのことだけを書きたいのに、その瞬間にすぐに記録として残したいのに、そうはできなかった。まぁそれも”運命”なのかもしれない。何よりも、どんな形であれ、”命”が”運”ばれて良かった。
 生活環境の一変と同時に、世界の観測の仕方も一変させられてしまったので、何がどう変化したのか確認しようがなかったりもする。年下の子たちを年上に感じざるを得ない心情になってしまえば、心配事のレベルもかなり変わる。もっともっと、自分自身がしっかりとこの国のこの状況を打破させていかないと、もしくはそれに準ずるより良い環境を捜し当てないと。

 無難さに収束させてしまうことがありふれた状態であるのに、より無難さから遠ざかるを得ない現状を考えてみると、これまでの軌跡はすべて間違っていなかったのだろうなと実感する。これからもっと楽しくなるし、この厳しい現状も楽しめている。
 これまでの道のりで、傷つけてしまった人、時間を無駄にさせてしまった人に対しても、どうか同じ気持ちで、今も楽しく未来も楽しいと確信できる状態でいて欲しいなと思っている。いま(たとえ俺から)絶縁を選んでいても、少なくとも俺は、あなたに対してそう思っているよ。

 憎悪を向けられても、その知覚があることそのものが嬉しい。
 どんなに言葉の刃を向けられても、どんな理不尽な扱いを受けても、それを認識できることに感謝してしまう。
 そんな自分になりたくはなかったけど、そう思う存在を感じることができるのだから、ものすごい可能性に満ちている。

 さあ、ここから、また、はじめよう。新しい絶対的な仲間もいる。
 そんなふうに思う誕生日です。
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2023年振り返り

2023-12-31 03:12:55 | Weblog
 2023年がどうであったか、という話を少しだけ書こうと思う。
 ブログをもう少し書こう書こうと思いながらここ数年間更新が滞っているのだけど、それは逆に言うとコツコツする時間が長くて、物理会やったりピアノを弾いたり、意外といわゆるインプットが多い1年だったかもしれない。物理会はインプットなのかって感じだけど、まぁあれは俺が物理学を基礎からきちんと再確認していく場であるという位置づけも強いので。

 世の中はものすごい変革の時期で、あらゆるものが崩壊していってるよね。これはハタから観ているととても面白くて、刺激ジャンキーな気持ちを掻き立てられるのだけど、この変化で人生が激変してストレスが増えてしまう人もいることを思うと、そんなに笑い事ではないはずで、実際にそれらの事件や告発を一般化して身の回りに置き換えてみると、他人事では片付けられないものばかりであった。
 この変革期をまとめて云ってしまうなら「実力不足を権威によって補って、理解する気はないけど偉ぶりたい人たちが実際に権力を持っていたのだけど、彼らが出力するモノの品質が悪すぎて、崩壊しまくっている」だと思う。こういうことを言ってしまうとバカみたいなんだけど、そういえば俺って、自分の実力について不安に思ったり恥じたり卑屈に思ったことが少ないなと思う。権力に認められる努力を一切していないことが流石にマズイかしら?と不安に思うことはあるけれど、実力をつけることに最適化していると、どうしても「このバカに認められるために使う時間がもったいないな。今ここで勝負じゃないだろうし、いいや、今は能力だけきちんとつけよう」になることが多い。

 昨今、皆本当に短絡的な結果を求めるようになってしまった。バズれば良いやと思う人、変なキャラ付けをして満足させようとする人、単なる馴れ合い人事を肯定化するために言い切る言葉ばかりを使う人、内容の精緻さは気にせずメディアや大衆に受け入れられそうな目標を嘯いている人。
 こういう人たちをバカにすることにも飽き飽きしてしまっていることにも、今年は久しぶりに海外にも行って現地や飛行機の中で色んな国の人と話したので、痛感させられた。合理的に考えてロジカルに方向性を見出すにはまだ若すぎる気もしていて、とりあえず手当たり次第に自分にとってやるべきことを行い続ける中で、本当にこの国で良いのか、本当にこの分野で良いのか、本当にこの人たちを自分の信頼ゾーンに置いて良いのか、ということは、繰り返し問い続けなくちゃいけないのだろう。そういったことを思い知った1年であったと思う。

 来年も、おそらく「え?これが崩壊するの?」という意外なものが音を立てて崩れ去っていくだろう。その際にも、俺の大きな武器になってくれていそうなのは、物理学である。
 今年は研究でも日常でも物理学からの知見が本当に役に立つことが多いなと感じさせられた。具体的な事象から本質だけを抽出してきて、一般化された論理展開を他の具体事象に適応し、本質をリファインしていく。この作業を精緻に行う指針をくれる物理学には本当に感謝しているし、俺が今多くの人に確実に人生観が豊かになって重要な武器になるであろうと心からオススメできるのは、これ以外にはない。
 物理学では、ついに統計力学に入り、統計力学の前提となる知識に関してはすべて纏めることができた。2022年の3月から週2回(毎回1時間)で続けている取り組みであるが(これのせいでブログの更新が滞っている気もするが、言い訳にはしたくないですw)、ここまで前提をきちんと話さないと統計力学に導入できないというところに、改めて物理学の専門性の高さを感じる。自分ですべて最初(高校知識)から伝えてみて、はじめて世間との乖離を強く感じた。そりゃ俺がいくら「数理統計知らなかったら実験まともにできないでしょ」「フーリエ変換できなかったら理系じゃないわ」と言っても伝わらないわな、と実感しましたよ。正直自分がすべて説明してみるまで「たいしたもんじゃない」という印象が強かったのだけど、やればやるほど「やってみるまで重要性に気がつけないし、だから多くのバイオ系や化学系が”自由研究”から抜け出せないよな」と痛感させられている。
 今年は、物理数学、熱力学、量子力学、数理統計学と大学2年生から3年生くらいで習う内容をお伝えしていたけど、それぞれで10記事はかけるほど言いたいことはたくさん出てきている。またいずれ、どれかの回を公開して、あの会に参加していない人にも貢献できるようにしたいと思っている。来年は週1回になるので、少しはブログを書く暇があるかも?

 そして、来年は、個人的にとても良い出会いになることが確約されている。一喜一憂するそのレスポンスが確実なものとなる時、あらゆる困難も楽しみに変わっていくだろうし、だからこそ生き方として本気でいなければいけないなと思っている。
 良いお年を。ようこそ、この乱世へ。
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日本お気持ち国の病人たち

2023-10-09 02:48:51 | Weblog
 このブログを始める時(2005年)、「まあ別に本名だろうがハンドルネームだろうが、あまり関係ないか」と思ったことをよく覚えている。
 しかし、多くの人はそうは思わないらしく、匿名性の中で自分を暗闇に隠しながら、インターネット上で発言することを選ぶようだ。当時はTwitterがないので、2ch文化が非常に強かった。ブログもまだそこまで流行っているわけでもない頃で(ブログといえば眞鍋かをり、みたいな頃ね)、当然のようにインターネット上での渾名を自分につける人が多かったのだ。

 「ネットでは匿名」という気持ちは分からなくはない。実名で何かを発信しているということそのものが日本社会におけるタブーのようなイメージもあったし(今もある?)、何よりも、自分が変なことを言ってしまった際に守ってくれる匿名というヴェールが欲しい気持ちはあるだろう。実際俺だって(更新頻度は高くはないが)Twitterで匿名アカウントはあるし、ある種の安心感はあるし、匿名の中で面白さはあるだろう。

 しかしながら、この匿名文化がもたらす功罪は意外なところで実はとても大きかったのかもしれないな、と最近思うのである。
 Twitterを見ていても、YouTubeのコメント欄を見ていても、多くの人が「ジャッジしたがり」の病に冒されている。

 評価することには非常に慣れているくせに、評価されることには異常なくらいに抵抗する。ゆえにいざ舞台に上がらなければならない瞬間に、現実とのギャップを大きく感じてしまうのだ。よく「理想と現実のギャップ」などという言い方をするが、そうではなくて、どちらかといえば「普段のジャッジと現実との乖離」だ。この”普段のジャッジ”を匿名でやってしまっているところに問題がある。

 例えば私も、このブログをやりはじめた頃は浪人生であったから、今から思うと必要以上にジャッジしたがりであったのではないかと思う(ぜひブログ開設当時の記事を見てくれ、と言いたいところだが、今よりももっともっとイタイので、なるべくなら見ないで欲しい)。自分はどこの大学もまだ卒業していないのにも拘らず、「マーチ出身かよ」などと大人に対して思ってしまったりするわけである。これは大学院生になっても(自分はそうではなかったと思うが)同じような現象が起こりがちになる。4年生やM1は論文を書いていなくとも等しく許される時期であるから、「あの先輩、大学院に5年以上もいるのに1本も論文ないとか、ヤバすぎだろww」などとなりがちである。
 インターネット社会が発展していない場合、こういう例に陥っても、年月が経てば自然と治る。博士課程に進んでもなかなか論文を出せない自分に気がついたり、無事大学に入学してもサークルが楽しすぎて卒業が危なくなったりすれば、自分が幼かったのだと気がつくことができるのだ。

 だが、インターネット上で匿名でジャッジすることに慣れてしまえば、治すタイミングを見失う。自分自身は論文を書いたこともなければ、大学院で修士号すら取得できずに退学したのだとしても、まるでどこかの大学教員を装って「こいつ論文数少なくね?」「旧帝大以外で院通ってて大丈夫なの?」と調子こいたことを言えてしまうのだから。

 残念ながら、ネット上において、虚偽や秘匿を含む批判は短期的には真実を言っている有益な意見と見做されることがある。そうすると、実社会で肯定化されていない分、こんなちょっとの肯定化ですら調子乗らせるポジティヴフィードバックがかかってしまい「自分は偶然に不運で上手くいかなかったが、こいつは運があるにも拘らず、ちゃんとしていない。引き摺り下ろせ!」となる。
 俺は言っていること自体は当たってる!俺は何者でもないが、運さえあれば、有能なんだ!だから結局この社会は親ガチャじゃないか!すべては運じゃないか!と、根拠のない学説を盲信することを厭わなくなる。そして、運よく目立っている(と彼らが思い込んでいる、実名で世に出ても恥ずかしくない勇気のある)人を叩くことで、自分の承認欲求を満たそうとするのである。

 そう、匿名文化による功罪は、コンプレックスと嫉妬を増幅しやすくし、現実にも虚偽や話を盛ることに罪悪感が薄れてしまうことである。
 そして、それらをさらに煽るコンプレックス商法とも言えてしまうYouTubeチャンネルやインフルエンサーが日銭を稼ぐことに一生懸命になるのだ。そいつらを真に受ける若い世代が、あの頃の俺と同じように、自分の現状を棚上げにして、時期が来ていないことを大義名分に、「東大以外はクソ」などの腐った言説に対して自分なりの”適切な批判”を考えることに一生懸命になる。しかし、あの頃のように、その態度を治すタイミングはない。いつまででも自分を装ってしまえるから。
 時間が経てば経つほど、自分が決めた設定とキャラクターをself-consistentにするための一手を打ち辛くなり、本来の自分自身を侵食していく。もうどうしようもなくなったときに、人はアカウントそのものを消したり、名前を変えたりする。そんなことを何度も何度も繰り返す。自分が何者であるかにこだわるくせに、一貫性がまったくない。

 こうなってくれば、匿名文化を維持している皆にとって嫌なことを言う人は敵であり、それがいくら真実や再現性に基づく帰結であったとしても、批判の的となる。
 その現象をホワイト化と名前をつけたり、単に「コミュニケーション能力が重要」などと馴れ合ってみたりするのは自由なのだが、今よりも犠牲を減らすためには時に科学的事実などについては、みんなにとって嫌なことでもハッキリと主張せねばならないことも多々ある。それを日本語の使い方の問題にすり換えたりすることは簡単なのだが、そういった誤魔化しを正当化してしまうからこそ「auで復旧しないのをどうにかしろよ!」などと”お気持ち”を表明し続けることが正当化されてしまったりするのだ(みんな去年のことはもう忘れちゃったかな)。

 もはや「日本お気持ち国」と「日本科学立国」に分けるしかないのだが、問題はもっと深刻である。

 「お気持ち」を重視する人が「科学的事実」を重視する人よりも多いことは世の常である。俺もどちらかを選べと言われれば、事実よりも気持ちを選ぶし、実際多くの人はそうではないかと思うのだ。
 が、「匿名で人を叩きたい」という腐った気持ちを踏みにじらないようにと、さらに、その望みを叶え続けてしまった結果生じてしまっている"ジャッジと現実の乖離"を目の当たりにさせないためにと、個々人の(どうでもいい)立場と顔に泥を塗らないようにしていくのは、昨今の日本社会では限界なのだ。ただでさえ危機的状況なのに、自分はレベル100の人間をジャッジする暗闇に潜むエージェントだと信じてやまない多くの愚かな人たちのために、本当にレベル70くらいある人たちの言動を規制してしまうことになるのだから、危機はもっと増す。

 と、ここまで言われても、この記事に対しても、匿名で何かを言いたがってしまう。まだ気がつけない。

 「実名で書かないと何の意味もない」という価値観を浸透させ、匿名文化がもたらす功罪の根幹を潰さない限りは、相手にとって心地の良い、しかし長期的に見ればとんでもないことになる「薄っぺらな嘘」は肯定化され続けるので、今の体制派はほくそ笑むだろうし、一般庶民がみんなで損をし続けることになるだろうと思う。

 さて、ここまで読む体力があるくらいには賢いレベル10くらいの諸君、自分を晒すだけの勇気は持てたかな?
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自由の代償

2023-10-08 01:56:40 | Weblog
 戦いに疲れて呆れてしまった側から眺める景色は、どうしたって滑稽に観えてくる。
 いつまでもいつまででも何かの政治力学に翻弄され、その波に飲まれるせいで急かされて恐怖を抱きながら、一つのことに最適化していくことで陣地取りゲームをしていくやる気のない態度をせせら嗤って、自分だけ本質を掴みながらコスパ良く生きていけることは気分の良さを感じることだってある。

 バカげた勝負に一生懸命になる前に積分の一つでもまともにできるようになったらどうだろう。
 それに気がつくためにはまず寝ないといけないけど、寝る暇なんて無いと思い込むことで自分を正当化しているのだから、無理だろうなぁ。
 そういう時代が自分自身にもあったことを憂いながらも、差し伸べた手がいつも傷つけられてしまう状況では、どうにもできないじゃないか。

 などと思いながら夜空に煌く星々を見上げ、まだ会えたことのない、しかし誰よりも会いたいあなたへの想いを馳せる。

 近い将来、もう一度この不毛な戦いを繰り返す必要があるのだろう。それはきっと代理戦争というカタチになってしまうだろうし、だとしたら、まったく新しい世界に繰り出して、そこで戦ってみるほうがいくらかマシなんじゃないか、と思ったりする。

 この世界では、何かの繋がりを保とうとした際には、必ずこの空間に描像させなければならない。寒ければ寒いと言わなければ分からないし、ムカついたらその場を離れなければ理解されないし、この世界からいなくなりたい時は必死にアピールをしなければ支援してもらうことはできない。
 そして、大人になればなるほど、誰が誰よりも上だとか下だとか思いたい子供っぽい気持ちを巧妙に隠しながらも、上手に主張する術を学んでしまう。それを過学習してしまうようなシステムに身を置き、そのシステムのバカバカしさに気がついたとしても、システム全体から距離を置くことで孤立化することを自ら望み、自分以外のものすべてを蔑むことで溜飲を下げるやり方に帰着させたくはない。

 競争なんて起こさなくとも既に世界は危機に瀕している。すぐに競争にかかる取引コストの多さに気がつき、徐々に協力していかねばならない。
 馴れ合いを辞め、本当の意味で戦うべき物理現象に対抗していかなくちゃいけない。そのためには、この世界にあなたが必要で、俺たちは助けてもらうことを期待している。

 人は誰でも歳を取るし、歳を取れば自然と智謀知略も思いつくし、しかしそれと共に自分にとっての必然性が増えていき、確立したお決まりのパターンが原因で次第に何もできなくなっていってしまう。
 その鼓動がいつか止まってしまう時、このヘンテコな世界をめいいっぱい楽しめたなという気持ちに、どうかなっていて欲しい。

 きっと、短いようで長くて、長いようで短い。きっと、大人っぽい子供のままに、子供っぽいままの大人になっていく。
 そんな日々を笑い合えるように、自分自身の自由の代償として矢面に立たせてしまっている人たちに一瞥を投げることでリスペクトしながらも、自分なりに先に進んでいきたいと思っている。
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君に期待しているよ

2023-07-13 02:00:43 | Weblog
 煩雑なことは何も理解しないままに尊敬されたい。
 この国に住む大多数の自分勝手な連中の、このちょっとしたズルい気持ちを叶えるために、有能な人間は常に抑制され、忙殺され続ける。

 きちんとステップを踏みさえすれば、誰でもきちんと理解できるような論理体系しか、この世には存在していない。しかし、ステップを踏めば・・・というエクスキューズはいつだって忘れがちであり、理解できる人と理解できない人には遺伝子レベルでの差異があるかのように語る人も珍しくない。
 そして、それを本気で捉えた人が、悔しさを滲ませ苦し紛れに、難しいことをしている人は趣味である、という解釈をする。それを流布することで立場を得ていき、徒党を組んでいく。きっとそれが何重にも起きてしまっているのが、今の状況なのかもしれないね。

 自分に理解できないものは価値のないものだ、という発想は稚拙だ。偉そうに上から「ワラワにわかるように説明してみよ」というバカは、まずは立場を下りてもらわねば公益性に欠ける。
 ひとがみんなのために実直にやっていることをまともに理解しようともせずに「必要な研究をしろ」「趣味の研究をするな」「儲かる研究をしろ」などと研究者に偉そうに話すわりに、具体性のない精神論に終始しながら、何かの制度やルール造りだけをするのであれば、そもそもあなたが邪魔なのであり、きちんと周囲を見渡して羞恥心を思い出せば良いだけなのではないだろうか、ということを、政治力学に翻弄されすぎて、理系ですらもみんな忘れているのである。必要なことしかしていないのにも拘らず、そういうことを風潮するクズが一人でもいれば、有能で本当に期待ある人からいなくなってしまうだけである。そして、別の場所で、本当に好き勝手にやり始めてしまう。

 好きなことをやることと、好き勝手にやることとは、圧倒的に違う。好き勝手にやりはじめてしまえば、それは、その時間を無駄にしてしまう。
 たとえば、「研究は自分だけのためにやるものだ」「自分の満足が目的だ」と開き直れば、それは結局のところ、自分自身の満足にもならない。というよりも、スタートラインにも立てないまま死んでしまうだろう。
 好きなことはどんなことだって、誰かのためになるし、実益になる。必然性を追いかけて、まともな誰かに心から「ありがとう」と言われるたび、それは間違っていなかったと噛み締めることができるだろう。

 くだらないヤツほど、君に対して「期待している」と言ってくるだろう。俺様が退屈にならないように何か面白いものを持ってきてくれ、と言っているのに他ならない。そんな状態のヤツは物理現象だと思った方が有意義だ。
 定型文を簡単に言うことで、とりあえず対応できたと思い込んでいる人を、実質的にも精神的にもきちんと捨て去って、身の程を気がつかせてあげるためには、その期待の言葉に具体性と気持ちを同時に抽出してくること。君は、それができなきゃいけない。

 そのためにはまず何よりも、君自身が本気で「できる」と思っていなきゃ、どこまでいっても達成されないし、最悪の場合、誰かに「達成した」ということにさせられるだけである。
 達成できていないのに、その力が備わっていないのに、カタチだけ達成してしまうことほど怖いことはない。どんどん生気がなくなっていき、目が死に、身も心も不健康になるだろう。それほどに麻薬は恐ろしいものだし、怖いのは本人は良いものを摂取しているのに悪化するから、自分だけでなく他者にも、とんでもない不利益を被る可能性がある。

 自分で押したやる気スイッチなら自分以外の誰も消すことはできないが、誰かに押されたやる気スイッチはいつでも消される可能性がある。その恐怖と常に隣り合わせで生きていくよりも、まずは自分自身が「できる」と思いながら、煩雑なことでも一つひとつのステップをちゃんと踏んで、レベルアップしていこうぜ。
 ・・・きっとこれを読んでいるであろう君に、俺は期待しているよ。
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どうして「話せば分かる」と思ってしまうのか

2023-07-02 03:42:00 | Weblog
 どちらかが信頼関係を裏切る瞬間、実は裏切る側はそれを認識できていないことが多い。
 完全に信頼が消失しているにも拘らず、話し合おうとしたり、みんなで集まる機会を作ろうとしてしまうのは、幻にしてしまった何かの繋がりの実在を信じているからに他ならない。

 「話せば分かる」というのは、誰もが陥ってしまうトラップ。
 昨今、どんなに酷いことをしても、後から話せばどうにかなると思っている人が増えている気がする。それは、その人とどれくらいの信頼関係を構築できているか可視化されていると勘違いしやすい技術が浸透してしまったことにも原因があるかもしれない。自分の投稿に沢山のいいねやスタンプがついていれば、それだけで支持されていると思いやすい。毎日毎日、顔をつきあわせなくても会話ができてしまえば、何かの信頼関係があると思ってしまいやすい。

 当たり前だが、身内を殺されたとして、話して分かるわけがない。話しても無意味である。
 これが極端な例として、日常に還元してみてほしい。酷い仕打ちをして、コミュニケーションで胡麻化して、つっこまれても良いようにディフェンスして、有無も言わせないのであれば、それはただオラオラしているだけであり、ただ傲慢なだけであり、潜在的にものすごく敵を増やしている行為なのだ。それに気が付いているか?
 話しても分からないことがあるからこそ、大人同士の円滑なコミュニケーションのために法や契約が設定されている。にも拘らず、「部活やってんのか?」「いつまで大学のサークルノリなんだよ」という"いい大人"があまりにも目立つ。

 逆にそれまでに信頼関係を構築できていれば、話したら分かるかもしれない。熱い気持ちを持った結果としての行動や言葉が原因のトラブルなら、もしかしたらその理由を分かってもらえるかもしれない。話して話して、とことんに掘り下げて、お互いに傷つく気で喋りつくしてみれば、もしかしたら「裏切り」は勘違いかもしれない。けど、誤解は解けても言葉は遺るし、構築してきた信頼関係がニセモノだったのかもしれない。そのリスクをかけても良いのであれば、話す価値はある。

 そう思ってもらえない場合、話しても無駄。話すだけイライラするくらいなら、そんな機会を設けることにデメリットしかないだろう。
 もっとリスクの高い行為だってある。話してもらえたとして、本音で話しているフリをされてしまうことだ。相手は、こちらのことを、人間関係だと思っておらず、下手したら生命現象だとも思っておらず、ただの物理現象だと思っていて、仕方なく何か得になることを探している可能性だってある。

 信頼とは、過ごした時間の長さと双方の本音度合いを変数とした関数である。長い時間を過ごしていても信頼が得れていないことはあるし、本音は片一方だけでは無意味だ。
 よく生じてしまうのは金銭による信頼の勘違いだ。たいていの社員はカネが貰えるからこそ、拘束時間が長くとも我慢するし、本音を言っているフリもする。別にその会社が好きなわけじゃないのだ。それを信頼だと勘違いしてしまうand/or勘違いしたくなる経営者は多いだろう(だからこそ経営者は孤独であり、占いや宗教や女遊びやコンサルにハマりがちになる)。重要なのは、金銭や権威が発生していない状況でも自分にどれくらいついてきてくれるか?なのだが、ほとんどの人間は自分が見たいものしか見ようとしないので、認識できない。
 で、気が付いた頃には、カネや権威が実力と乖離し過ぎており、深海でペシャンコになる等の大変な事態へと発展してしまう。

 社会に出て、ある程度の権威や言葉を得てしまうと、誰もバカヤローとは言ってくれない。自分がどんなにバカヤローでも、そう指摘してくれる人は、極めて少なくなる。
 だから、魂に触れるコミュニケーションをしようとして、バカヤローと言ってきたヤツは異常者だとレッテルを貼りたくなる。貼ろうかどうかと迷っていると、カネと安定のために群がってきただけの信頼関係が本来は皆無なのにも拘わらず「俺は彼を信頼している」と思ってしまっているクズが、「あんなやつ、社会常識ないからヤバいですよ。縁を切りましょう」と嘯いてくる。そして、孤独が加速するのだ。

 だから、話しても無駄だという"場"は加速する。どんどんクズしか周りにいなくなる。指数関数的に、ね。
 一言だけ生の言葉を聴いてほしい。「ごめん」って。「誤解だよ」って。そうしたら!って思ってしまうのは、信頼関係を測り間違えていた証拠。

 …だから、、話しても無駄。確かにそれはそうかもしれない。
 けど、俺の考え方を、ここでそうやって盗むのは勝手だぜ?許してやるよ。
 さぁ、そして、どう飛ぶのか。面白いもんを見せてみろよ。
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物理学で退屈しないためには

2023-06-28 01:13:28 | Weblog
 俺らは死ぬまでの暇つぶしをどのように過ごすかに常に頭を悩ませている。
 大抵の人は、仲間とくっちゃべって、その中のありふれた愛情や関係性をホンモノだと名前をつけて、本当は直面すべき「いずれは死んでしまう」という現実から目を逸らす。

 誰だって自分の人生が退屈だとは思いたくない。だから、必要以上に表面的な感謝を振りまいてみたり、権威や金に最適化して有意義だと思い込んでみたり、死ぬかもしれないのに海底に行ってみたりバンジージャンプをしてみたり、、大抵はそんなことをするのだろう。
 さらに、そこにランキングやヒエラルキーを定義して、どっちが上でどっちが下か、マウントをとったりとられたりするわけで、そういうことをしていれば、他者から自分がまさか暇だとは認識されないからだ。

 だが自分の人生が退屈かどうかは、他でもない自分自身が一番わかることだ。他人から暇と思われなかったとしても、どんなにカレンダーに予定を埋めて忙しくしていたとしても、どんなに自分に「俺は充実しているんだ!」と呪いをかけてまくったとしても、退屈であるかどうかは自分だけで判断される。そして、大抵の人は、退屈に陥っているのだと思う。

 「そうではない。自分にはこれが!」と思っている人の中には、物理学を日々繰り返し鍛錬している人もいるだろう。
 かつてパスカルは気晴らしから抜け出すための唯一の方法は「信仰」だと考えていたらしい。一神教であるキリスト教における信仰する対象を、イエスキリストから再現性に置換した自然科学の基礎である物理学は、現代社会で信仰するなら一番の宗教かもしれないね。
 それは正解に近いのかもしれないが、、大抵の物理学徒は、他者と本当の信頼関係を構築することからの単なる拒絶として物理学を志しているという現実も、俺はよく知ってしまっている。

 その例というわけではないが、とても示唆的だった事例をTwitterで見かけて、、大学レベルの物理学を鍛錬している中学生が、素粒子理論を専攻している大学院生に学習の仕方で批判を受けたために、「もう物理学へのモチベーションを失ったしまった」と言っていたのを見かけた。なんだかとても切なくなってしまって、、彼に必要なのは物理学の理解や計算力よりも、もっと単純でありふれたものなのではないかと思ってしまった。
 ありふれた関係性なんてもんにしがみ付いても仕方ないと思う一方で、それらの経験が不足しているために、物理学などの自然科学のコミュニティーにそれらを求めるのであれば、物理を学ぶまでに得なければいけない鍛錬が足りていないのかもしれないよなぁってね。

 物理学を理解する上で、計算を追っているだけではダメ。定性的な理解を繰り返していてもダメ。
 定量的な理解も定性的な理解もしながら、自分なりに噛み砕いて、きっちり吸収していかなくちゃいけない。これは物理学が顕著ってだけで、物理学以外でも、本来は同じだろうと思う。「概要は理解した」と言って何もわかっておらず、ただ用語を知っているだけで満足している人で世の中溢れかえっているが、この人は!と思う人は、物理学の知見がなくても、本当の意味で理解するために重要なことをよく理解している。
 おそらく、この程度のことは上記した中学生も分かっていただろう。

 しかし、たった一人にほんの少し批判されただけで「もう物理をどうしてやっていったら良いのか。。」と思ってしまうのであれば、それは物理学にとっかかる前に得るべき「何か」を得ていないのではないか、と疑わざるを得ない。そして、それは、大人である我々も例外ではなく、自分ごととして、よくよく考えなければいけないことなのではないだろうか。

 たしかに、「いずれは死んでしまう」という現実から目を逸らさずに本質的に生きていきたいのであれば、物理学くらいは軽く理解する気概を見せて欲しいものだ。
 コミュニケーションという名の「馴れ合い」ばかりを重視して、忙しいフリに一生懸命になっているバカどもがくだらないマウンティングをかましてきて、実際に何かの実益を損ねたりすれば、ある一時期、物理学などに助けを求めたくなる気持ちはよくわかる。
 けれど、当たり前のことを人並みに経験することで、ありふれていたとしても、愛情と信頼関係の存在を信じられる程度には、それらを自分の生きる上での土台としていたほうが、逆に人生に退屈しなくて済むのではないだろうか。
 俺自身が中学のときに、学校の勉強なんてうざいとしか思わず、直列やら並列やらの計算なんかめんどくさいとしか思わず、ましてやその先の物理学なんて興味も持たずに、ただただ友達と夜遅くまで話しまくって、誰が好きだとか嫌いだとか、あの先生むかつくだとか、そういうありふれたくだらないことをしていたことが、今、物理学を使ってバイオロジーの分野に身を置かせてもらって研究し、日々、多くの人に現代物理学を分かってもらうためにはどうしたら良いかを考える上で、非常に役に立っているなぁと個人的には思う。

 別に俺が良い状態というわけではないと思うし、俺が当たり前のことで欠落している部分はたくさんあるのだけど、、何事もベースをしっかり保っていなければ、少なくとも保とうとしなければ、崩れ去るのは早いのではないか。と勉強させてもらっているよなぁということは、ここに書いておこうと思う。

 そして、俺は、家族や友達と何か共通のことで楽しむことを通じて得られる信頼関係を信じていながらも、暇でない証明に権威や金を得るような態度にはできる限り関わらないようにして、再現性を神とする自然科学という信仰を淡々と進めていきたいと思っている。
 最近すごく思うのは、この信仰には、必ずしも友達は必要ではないということだ。仲間は必要だけどね。それが(自分の判断として)退屈しないコツだと思うけど、それもきっと(他者から見れば単なる)暇つぶしには違いない。
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この理不尽な世界へようこそ

2023-06-12 00:34:07 | Weblog
 自分自身が人生をかけて取り組む仕事について「これだ」と決めて、それを分かりやすく説明しようとする過程で、承認欲求に負けて何かの虚偽が入ってしまえば、たちどころに「心でっかち」になる。

 分かりやすく説明するということは、どうしてもそこに不正確さが介在してしまう。この世は誰にとっても分かりやすいわけではないから、分かりやすさを最も重視してしまえば、真実から言葉を収束させる精度が落ちていき、「自分がしたいこと」が「自分が他者を納得させて承認を得る上で必要なこと」に還元されてしまうのだ。それは常に、虚偽と表裏一体となる。

 進化を研究したいのに情報理論やエントロピーを理解しようとしないとか、カナダのブームを起こしたいのにカナダに行ったことがない状態を継続してしまうとか、一度も話したことがないのにその人を愛してしまうとか、医療系のビジネスを興そうとするのに安全性について殆ど考えていないとか、救済したいと言っているのに修行と称して多くの人を殺すとか、、よーするに、自分の能力と自分の能力でできる範囲を一切考慮せずに、上の人や大衆から称賛されるからと気持ちだけが先行してしまう状態に、俺たちは十二分に注意しなければいけない。

 そうしないと、誰かを傷つける可能性が高いからだ。
 そうしないと、あなたが思い描いている、その価値観のなかでも、達成されない可能性が高くなるからだ。

 たとえば、こういうことを当人に俺が言ったとする。そうすると返ってくる応えは決まっていて、「価値観が違う」というようなことを必ず言う。
 理論ではなく実験系を構築することを重要視しているんだとか、現地に行ったことが無くても自分なりのカナダを伝えられるだとか、直観ですべてがわかると嘯くだろうし、ビジネスとしてお金を稼いで早く利潤を得ることが重要だと言うだろうし、救済するためには死をも厭わないなどと言うだろう。
 しかし、価値観が違うんだ!という反論は、まったくもって的を射ていない。なぜなら、俺はそもそも、進化に興味がないし、カナダに興味がないし、あなたが誰を好きでもどうでもいいし、君らの集団が大きくなることそのものなどどうでも良いし、世界中の人を助けるなんてことにそもそも関心がない。そうではなく、あなたがそれをしたいのであれば、まずは情報理論を知らねば、まずはカナダに行ってみなければ、まずは相手と話してみなければ、まずは安全性を担保せねば、まずは何が誰にとっての救済かを定義しなければ、あなたのその価値観のなかでも達成できないのだけど、それは良いの?と思っているわけで、価値観が違うことなど100も承知なのだ。

 そう。。変な回帰から脱さないと、いつまで経っても人生はスタートしないだろう。

 安全性の問題点について認識したがそれをどうでもよいことだと見做した→何もわかっていない大衆or上の人から承認を得て立場が上がった→立場が上がったことでさらに重要な問題に気が付くがそれをどうでも良いことと見做した→さらに立場が上がった

 こういったループから抜け出すためには、「重要そうなことをどうでも良いことと見做さないできちんと追求する」というようなことをしても無意味だ。むしろループを早めることで、その首の締り方を実感するしかない。そうすれば自然と「このままではまずい」と思える。

 そういう意味では、自分が「これだ」と思うものを信じて、突き進んでみるしかない。とことん、ね。
 けど、その過程で傷つく人が出ることを看過することはできないよなぁ、と思うのよね。そして、傷つけた人を認識することで人生を棒に振るその人を、そのままにしておくのは、俺の倫理観に反すると思うのだ。

 だから、その時にその場では伝わらなかったとしても、俺はきちんと総体的に見たときの「当たり前」を伝える必要があると思う。それを、「多角的」ではなく「他角的」と揶揄されても、それが傲慢だと言われても、自分の倫理観について自信を持っていなければいけないんじゃないかと思うのだ。
 「相手のことを尊重する」と言ってしまえば、それは簡単だ。だけど、尊重するがゆえに、当たり前のことを当たり前に思いつくだけの思考力を鍛錬しながら、主張すべきことを主張できなければ、この世の中で安全に楽しく生きていくことが難しいのではないかと思っている。

 ・・・あなたがやってくるこの世界は、こんな不条理に満ちている。弱いことは悪いことじゃないはずなのに、弱いままで心だけを大きくしても、他の誰かが傷ついてしまうような理不尽さに溢れてしまっている。それは、この時代特有なのではなく、ユニバーサルにそうなのではないかと思っている。けど、だからこそ、価値観なんかよりも倫理観をまずはきちんと磨いて欲しいと願っているのだ。優しくあって欲しいし、何が優しいのかを考究し続けて欲しい。その想いを、ここに記しておく。それはきっと、あなたがこれを読める頃には、何かの助けになっているはずだ。
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自分の心を曖昧にしても信仰を貫きたい人たちへ

2023-05-15 01:39:48 | Weblog
 真実から目を背け続ければ、誰も傷つけずに済むのかもしれない。

 無知を無知のままに、もっと別の大きなことが自分の使命であると他者と自分自身に対して言い聞かせ、実際に起きている現場を自分の目で見ようとせず、そこから出てくる声をすべて「文句」だと決めつけてしまえば、とりあえずは心の平穏を保ててしまう。
 人には誰であっても名声を求めている。承認を求めている人は一部だし、勝利を求める人も一部だし、富を求めている人も一部だろう。しかしながら、名声を得ることを拒絶する人はいない。そのために、何かの結果を演出することで立場を維持しようとしたり、逆に結果を出すことを避けるかのように実力を蓄えてみたり、自分は所詮ただの駒であることを強調して率先して嘘をつくことで有益な情報を搾取しようと試みたりする。

 有能であればあるほどに、広い景色を見ることができてしまう。そして、時に、しなくても良いほどの心配事を起きる前から予期してしまう。
 それらは、有能な者よりも能力がない誰かから見れば、邪魔でしかないだろう。ここで普段水を使っていることが、森の向こうに住む誰かの飢餓を早めているとは、誰だって思いたくない。広い視野は、クラスター化しているある一つの集団にとってみれば、不利益そのもの。ある一つの枠組みしか見ないことで、名声を維持したり新たに得ようとしたりしている者からすれば、高い視点に立って自分たちが誰かを傷つけていることを認識することは、タブー以外の何物でもないのだ。

 だからね、無能力なままに分不相応な立場を得てしまい、そこに固執してしまうことは、すなわちクズになってしまうのだと思う。
 久しぶりにブログを更新したので、ここで云うクズを明確に定義しておくが、クズとは「弱者を圧制・迫害することで、自分の立場を維持・向上しようとすること」である。

 けれど、それも認識さえしなければ、誰も傷つけていないことになる。認識できないのだから、認識させようとしてくる人を「批判ばかりして」「文句しか言ってないじゃないか」と糾弾してしまえば良い。
 不安を煽るビジネスをすることや、安全性が担保されていない状況なのに販売してしまったり、無意味なものに意味があるかのように豪語することで高額な投稿料を要求する出版社に税金を使ったり、そういったことは批判にも値しない「何もやらないほうが良い」ことなのだ。
 認識を曖昧にしておけば、頑張る価値が幻として発現する。だから、明確に光を照らそうとする人を除外し続ける。そうすれば、そこで頑張る信仰をそのままにすることができるから。社会人という信仰や、論文という信仰を。

 「自分の心を曖昧にしても信仰を貫きたい」
 本当の意味での名声を得るためには、そんなことをしていちゃいけないはずだよね。

 ・・・と、ここまでが、あの時に、、4年前に得た帰結だったはずだ。

 あれから世界は一変してしまった。それはどうしようもないことかもしれないし、必然的だったかもしれない。
 心配しなくて良いはずだった不安は的中し、ある一部分だけを見つめることで世界全体を巻き込むようなクズが支配する渦中に見舞われてしまった。

 けれど、断絶させていたのは、それとは何も関係がない。シンプルに、俺が人生で一番ヤバい時に、助けてくれなかったから。それでも直面しないことを選択したから。そして、それを肯定化したからだ。俺のことよりも信仰を選んだのだ。
 これに関して許すつもりはないし、信頼が戻る可能性もかなり低いだろうと思う。心と認識を曖昧にし続けて自分は正義だと思いこんでいたい者にとって、俺は「いてはいけない存在」なのだ。その俺が一切関わっていなかったのだから、どの方向に加速したのかは大方見当がつく。

 それでも、しぶとく復帰した自分が今このタイミングで求めているのは、即物的な契約のせいではない。それは大義名分に過ぎない。
 そのせいで露呈した彼の大きな問題に対して、一矢報いてくれる価値観とアイディアを心のどこかで期待しているから。よーするに、今それくらいヤバくて、困っているのだ。俺のことではないからこそ、というところは大きいけれど。利己心よりも利他心の方が頑張れるのは、むしろ俺のほうなんだよ。。

 それに、、俺が本気で怒っていることは十二分に伝わっただろうし、ね?
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見切り

2023-04-17 01:14:50 | Weblog
 長い安定期を終えようとする音がどこからともなく聴こえてくる。

 激変していくときに重要なのは、どうしても早くならざるをえない頭の回転をゆっくりにすることで余裕を作ること。それはブラフでもあるし、事実にもなる。
 そう、ここでこのように宣言するのも、俺の一つの選択。そして、見切ってしまっていることの証憑。ただし、その範囲は、多くの人が思っているよりも遥かに広い。

 あらゆる方向からリスクが襲ってきている輓近で、生き残る可能性を高めるためには、
 ・可能性をなるべく広く保っておくこと
 ・能力を高めることだけに最適化すること
 ・クズを周囲から排除して信頼関係を高めること
 に尽きる。

 それはここ10年変わらない方針だと言って良いだろう。
 この国の「普通」の景色を観ることの目的はすでに達成し、その環境下をどのように再構築するべきかの指針を得ている。だとすれば、やるべきことはシンプルだし、これからの動乱にどうにか自己保存的な系を掌握し続けることはできるはずである。

 面白いものを観たい。それももういいじゃないか。この角度からはもう十分に観ただろ。
 信頼できる友達が欲しい。それももう要らないか。友達はいなくても信頼できる仲間はいるだろ。
 思考力が欲しい。これだけは、帰国して以降もっと、喉から手が出るほど欲しくなったね。

 やりたいこととできることの平衡値をやりたい寄りに収束させるためには、可能性を広げ、能力を高め、信頼関係を得るしかない。
 その答えが出る。そして、カワラナイことをカワレナイままに、大きく変化を迎えていくだろう。
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"量子力学でスピリチュアル"的なクズが現れる根源的な理由

2023-02-22 00:16:11 | Weblog
 俺が学部教養レベルから統計力学までをお伝えする”物理会”、昨年の3月から始めたのでもうすぐ1年になる。週2回各1時間ずつ物理会を開いているので結構な頻度だが、すっかり慣れてしまった。

 他人を巻き込んだとしても途中で辞めがちな俺が1年も続いたかぁ、というのが本音なのですが笑、やっと量子力学の第1回目まで来ました。高校数学と高校物理を一通り終えている人を集めて行なってるのですが、いわゆる前期量子論というのをお伝えするまでにここまでかかる。
 超高速でやっておりますが、微分方程式の解き方で9回、ベクトル解析で12回、線形代数は3回、物理数学が6回、力学・解析力学が15回、電磁気学が19回、熱力学が14回(まだ途中)。熱力学は直接に量子論を理解するのに必須ではないので除外すると合計64回。つまり64時間も俺の話を聴かないと、量子力学に導入できない。当然だが視聴者には「絶対に毎回復習してね」と言っており、お気づきのように線形代数は「計算方法は教えたと思うからよく演習しといてね」と投げてしまったので、普通よりも圧倒的に量が少なくてコレである。

 正直、いくら統計力学に必須な部分だけとはいえ、量子論を俺ごときがお伝えするのは、非常に抵抗がある。物理学科だと、素粒子理論か物性でも基礎論に近い研究者が教えるイメージがあるし、卒研しか理論研(低温物理)じゃない俺が、いくら世間から物理学が専門の研究者だと思われていてもソフトマターとか生物物理とか割とチャラい分野の俺が、やっちゃってええのかなぁ?と不安を抱いていたのだが、、インターネットで「量子力学」を検索すると、その不安定さを遥かに凌駕するやべえヤツらが量子力学を騙っているので、だんだんと「いや、さすがにここまで酷くないし」「一応俺、駒場での物性セミナーずっと出てて、たいていの話はフォローできるくらいには理解しているし」「今も勉強を続けているし、自分が理解している範囲の中で最大限に無矛盾なことを伝えれば、とりあえずは良いんじゃないだろうか」と思うようになってしまった。

 この”量子力学で自己実現系の人たち”というか”量子力学でスピリチュアル的な人たち”がこんなにも多いのは、物理学徒としては非常に遺憾だし、侮辱的だと感じるし、馬鹿にされているように感じる。
 だって、こっちが本気できちんとお伝えすると、前提知識だけで64時間も述べなくちゃいけないような内容ですよ?それを「概要だけは誰でも理解できる!」「数式なしでもちゃんと学べる!」「量子力学的にお金はこういう意味でー」とか長くても数十分の動画でやられたら、流石に黙ってはいられなくなってくるのよね。

 確かに、量子力学を学ぶことで、その独特の理論構造を学ぶことで得られた思考力が日常に活かされているんじゃないかな、と思ってしまうことがなくはない。価値観が変わった気がして感銘を受けている気がすることもあるだろう。
 だが、だとするならば余計に、量子力学そのものをきちんと伝えるべきではないだろうか。量子力学そのものをきちんと学んでみて「(俺ではない)君自身はどう思うか?」と興味を持つのが自然ではないだろうか。量子力学で理解したことを勝手にスピリチュアル的な内容に活かせると思ってしまったことを、量子力学という現代科学の結晶にタダノリすることでカネをとっているのは、クズとしか言いようがない。敬意がないし、それを本気で研究している人を馬鹿にしている。

 さらに言うと、「数式なしで理解できる!」というのも、俺は大嫌い。なぜなら、数式があったほうが理解することは絶対に簡単だし、量子論に関してはそれが特に顕著だからだ。積み重ねの大変さを皆主張するが、怠惰な自分に打ち勝って積み重ねさえすれば、誰でも絶対に理解できる。
 これまで生きてきた直観が効かないのが量子力学であるので、「とりあえず計算できる状態になっている」「よくわかってはいないけど量子力学を使える状態にはなっている」という段階を経て、量子力学の内容を本質的に理解していく、という順番を取る方が遥かにラクであると思うからだ(というか殆どの物理学徒はコレでは?)。

 アウトリーチ活動にばかり注力する研究者クズレが「数式なしで」とかテキトウなことを言い出し、その行いがそこそこはチヤホヤされてしまうために、じゃあそれを使ってさらに大衆が求めていそうなことを言って金を儲けてやるという人たちが現れる、というのが、量子論でスピってるクズが現れてくる流れなのではないかと思う。

 二重スリットだけでも不可思議だ。電子が干渉を起こしていないのに干渉縞が現れること、スリットに検出器を置き電子の運動を観測すると干渉縞は消えること。これだけでも、正しく状況を掌握するためには、複素ヒルベルト空間で状態ベクトルを定義したり、量子もつれ(エンタングルメント)の話を理解しないといけない。数学的なセットアップや解析力学や電磁気学のアイディアなしに、それら実験事実を見せつけられれば、ただの魔法である。
 「電子って、まっくろくろすけみたいなもんで、恥ずかしがり屋なんだよ」みたいな解釈にならざるをえない。そういう解釈は子供には良いかもしれないし、冗談の範疇では素直に笑えるが、大人はそれを本気にしてしまってはいけない。

 ここで俺が言いたいことは、大衆からのフィードバックを得ることと、それに最適化することは別だということである。
 大衆から素直な感想を聴くのは大事なことだ。「数式なしで理解したい」「もっと日常生活に絡めて説明をしてほしい」「役に立つことで説明してほしい」
 こういった意見そのものは尊重されるべきである。

 だが、これを読んでいる読者が理系であるのならば、、理系であることに自信とプライドがあるのならば、研究者だろ?その卵だろ?、そんな言葉に最適化してはいけない。上から目線で「まぁ気持ちはわかるけど、それじゃダメなんだよ。ちゃんと俺の話を訊けや」と言えなくちゃいけないのだ。
 こういう当たり前を一人ひとりが忘れてしまったから、現代科学にタダノリして他人を騙して稼ごうとするクズが現れてしまったのではないだろうか。よーするに、反省しろ!!ということだ。

 確かに大衆の要望、(ときとして)すなわち権威ある人間に最適化していれば、カネが得られるかもしれない。そんなことよりも、もっと大事な価値観があるからこそ、君は理系になったんじゃないのか?
 理系を選んだ時の純粋な自分を思い出せよな!
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与えられた課題に疑問を抱かない能力のリスク

2023-02-05 03:43:55 | Weblog
 10年ちょっと前くらいに「鈍感力」というのが話題になっていた。当時はよく分からないなぁと思っていたが、これを「与えられた課題に疑問を抱かない能力」と書き下せば、何を言っているのか非常によくわかる。

 自分の本当の興味関心や、組織にとって本質的に何が必要なのかを考え続けるよりも、この国では、上から降ってくるものをとにかく漫然とこなしていけば良い、という価値観に溢れている。
 真実から目をそらし妄想の世界に入っていくことこそが承認を得られる手段であり、何かの基本的な感情を欠かさなければ、正気を維持することさえ難しい。

 まずもって目上の人を尊敬している素振りだけは絶対に忘れないようにして、日々忙しそうにして、降ってくる課題に対しては一切の疑問を持たずに、それを最重要視して取り組み、目上の人の都合の良い結果を引っ張り出してくることが、勝利への方程式なのだろう。

 では、与えられた課題に対して疑問を抱きまくったら、どのようになるのか。
 非常に簡単である。先に進まないし、何も生み出せなくなる。

 かけ算の九九を覚えなくちゃいけないときに、やたらめったら、その目的と必要性を訊きまくってくる子供がいたら、うざくって仕方ない。教育とは、その課題に取り組む前には思いもよらなかった価値観に気が付くことなのであるから、言われたことをとにかくやってみて、やらされてみて、それから必要性や重要性に気が付いていくことは十分にありえる。
 二次関数をあんなにやらされるのがまさかファンデルワールス力を計算できるようになるところまで使えるとは思いもしないだろうし、大量の文章を理解したり書いたりする上で英文法や国文法はものすごく役に立つのだがそれを中学生で理解するのはなかなかに難しいだろう。

 しかしながら、それは、実力のある者が、実力の発展途上である者に課すからこそ意味があるのであって、実力のない者がどんなに誰かに強要しても、コントロールすることにはならず、ただの疲労困憊に終わることのほうが多いだろう。
 ただ単純に、カネのある者が、政治力学で上の立場であるだけの者が、親が、教師が、上司が、何かの課題を強要したところで、それは誰のためにもならないことのほうが遥かに多いのだ。ここを勘違いしては絶対にいけない。

 決定権だけは譲らないし、お前のほうがすでに実力があるかもしれないが、もっと態度を改めて、もっと謙虚に、そしてもっとコミュニケーション力を高めて、と多くを求めていく。さあ、とにかく特許を書け。論文を書け。何も考えるな。そもそもお前は考えすぎなんだよ。権威に尻尾を振る方向にだけ考えればそれで良いんだ!それだけに最適化すれば良いんだ!素直になるんだ!そして、周囲に感謝しろ!ってね。

 さて、今年もポケモンバトルがそろそろ落ち着き始める頃だろうか。
 代理戦争で傷ついた瑕は、ちょっとやそっとじゃ消えない。この腐った世界のどこかで悲鳴が響いた数だけ、そのレバレッジは大きなものになっていく。

 そのリスクが暴発しそうな様子を観察しながら、爆発させる触媒としてどのように振る舞うべきか、課題を与える。
 人間はね、、興味のあることなら、どこまででも貪欲になれるものなんだよ。

 それを肴に酒を飲める余裕を持つくらいの新世代の人たちと、真に豊かな世の中で、どのように暮らし、苦痛を減らしていけば良いかにのみ、興味があるのだと思う。
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大概の"若き天才"

2022-12-28 02:36:12 | Weblog
 若さとは、努力していないのに何故か成功してしまった感を出すのに、必死な状態である。
 これはどうしてなのかよくわからないけど、割といつの時代も、誰にとっても、これを定義としてしまっても良いくらい、若い時代にユニバーサルに成り立つ性質なんじゃないか思う。

 広い社会の中で若い時期に若いままで他者より一歩抜きんでるためには、ハッタリこそが重要になると言うことなのだろうか。確かにそれは有効な手段で、昨今は特に、本質的にどうであるとか、実際のところはどうであるとかよりも遥かに、「他者からどのように見えるか」こそが重要であるから、「若くして〇〇!」という標語に皆飛びつく。
 すんげえ努力して、コツコツやりまくって、60過ぎてやっと花開く。という人生よりも、20代ですでに脚光を浴びていて、天才だと言われていた。という人生のほうが、魅力的に映ってしまうのが若さなのだ。

 アカデミアではしばらくこの方法を用いて大学院生を獲得する構造が存在していた。20代で准教授、研究室持っているあの先生は天才だってね。
 ビジネスでも同じこと。若くして起業した敏腕若手社長!ってね。

 20代前半であれば、どんなにすごい実力があるのだろうか、自分もそうなるチャンスがあるんじゃないだろうか、そのカギはなんだろうか、若いボスだから自分と意見も合いやすいんじゃないだろうか、と期待して、そういう場所に赴きやすくなる。

 しかし、実際にそのなかに入ってみれば、多くの場合で、思ってもみなかった実力以外の力がものすごく働いていることに気が付く。
 恩師という名の「上の先生」と頻繁にやり取りし、「上の先生」の前では、まるで学生のように従順になる若手天才大学教員を見て、察するのである。この人個人の能力が特別すごいわけじゃないんだ。気に入られる能力がはるかに高くて、そこそこ無難なだけなんだってね。
 世の中には「起業した人」ではなく、「起業させられている人」「社長をやらされている人」というのがそこそこいることにも気が付くだろう。株式保有率を見れば誰のものかは最初から一目瞭然。そうでなくとも、VCの手となり足となっているケースさえもある。

 よーするに、ほとんどの若い天才と言われている彼ら彼女らは、ドーピングをしているだけ。そして、その薬剤がいつの間にか自分自身をも侵食していたことに気がつかされる。

 彼ら彼女らが「俺はこんなふうに成り上がった!」「圧倒的に成長しよう!」と虚勢の声を上げれば上げるほどに集団全体から本質が失われ、媚び諂う能力について「狭い世界だから敵を増やさない方が良い」「批判だけではなく提案を」とそれらしき言葉を使うほどに、若さがどんどん失われていく。やはり、努力して、着実に実力をつけてから、ゆっくり一歩一歩成功した方が良いんじゃないだろうか、と気が付いていくのだ。

 自分より若い子が、努力していないのに何故か成功してしまった感を出すのに必死な状態を見つけると、滑稽ではあるが、羨ましく思う。まだ、あの薬の心地よさを心から味わえているのか、と。
 けど、自分より年長者が、いつまでも若い状態から抜け出せない姿を見つけてしまうと、滑稽さだけが残り、こうなってはいけない、と強く思う。

 天才じゃないのに天才に見せたい気持ち。すごくないのに、すごいんだって見せたい気持ち。それを達成するために頑張ることは、努力では決してない。なぜなら、誰のためにもならないから。あなたの一過性の不安な気持ちを、少しの時間だけ拭うだけだから。それは、あなた自身のためにもならないから。
 それでもあなたは、「大衆から天才に見えている状態」から自他共に認める「本当の天才」になるために、まだまだ媚び諂い続ける?忘れちゃいけない。時間は平等に与えられている。媚び諂っていることに大忙しなのだから、本当に成長する時間なんて、とれるわけがねーんだぜ?
 けど、今の立場を守り続けねばならない。立場を守らないと成長するチャンスも環境も他にないと思っているし、本当に立場を捨てちゃえば、迷惑をかけてしまう人がたくさんいる。そして、何より虚勢が嘘だと大衆にバレてはいけないから。

 それはすなわち、クズにならざるをえない選択肢しか残らない最悪の布石。若さを若さのままにして大人になっても幸せなんかじゃない、って気が付くのが、大人への第一歩なんじゃないだろうか。
 これが、俺自身の三十にして立つ、であったと思う。
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頭良いフリが得意だと思っている人たちへ

2022-11-13 00:34:22 | Weblog
 昔、島田紳助という芸人が「紳竜の研究」というDVDのなかで、「知識のドーナッツ化」という話をしていた。
 「テレビタレントは賢い必要はないねん。賢いんちゃうかなっと思われたらそれでええ」と言っており、「賢いんちゃうかな」と思われるためのメソッドとして、誰でも知っているような中心にある知識を覚えるのではなく、1分野1箇所、自分が心から好きになれるものを探して、それを熱く語ったら、テレビに映るチャンスが上がる、ということを言っていたのだ。

 確かに、情報量というのは、レアであればあるほど価値がある。だから、ある分野の中の誰でも知っているようなことを話すよりも、少しレアな情報を話す方が「めっちゃ詳しいんじゃねーか?」というブラフになりやすい。この手法は、正直、自分自身が(多かれ少なかれ)やってきているから、よくわかる。
 例えば俺は世界史なんてよく知らないが、オリエントとローマだけはそこそこ知っている。単純に古代の国々の話は価値観が極端に違くて面白いし、ローマにも旅行に行ったから勉強しただけだ。ギリシアとオリエントの中継貿易ゆえに金属貨幣を世界で初めて鋳造したのがリディア王国。BC600年くらいのときに、商人としての本質を掴んでいたなんてスゴいよなぁ。などと、適切なシーンで文系さんに使えれば、確かに、世界史を全く知らないヤツという評価にはならない。あわよくば、こいつ理系のくせに世界史まで網羅してんのかよ、っと思わせることすらできる。けど別に、他の時代の他の地域のことは中学の社会科レベルしか知らない。

 1分野1箇所だけでも、それなりに知っていれば、それは、まったく知らない人にはならないわけだ。

 しかし、物理屋さんのなかで、電磁気学でマックスウェル方程式が、などと言えば、それは当たり前にみんな知っていることだから、全くもってすごいとはならない。まぁ実際、文系が「マックスウェル方程式がー」なんて言い出したら、それだけで俺は拍手してやるけど。あくまでもドーナッツ化が重要で、みんなが知っている中心的な知識には、みんな興味を示さない。
 (文系の中で話すのであれば、マックスウェル方程式くらいが良いかもしれない。彼らにとっては「物理学」が一分野であり、物理学といえばニュートンの運動方程式が中心知識だからね)

 確かにこれで、大して勉強していないのに「おお、こいつはめっちゃ詳しいんじゃないかな」って思わせることができる。けれど、この方法には、致命的な欠陥がある。それは、何時間も話すような場では、簡単にバレるってことだ。
 あくまでも1人が連続で喋る時間が30秒以内であることが多いテレビ番組、あくまでも1回につき140文字しか書くことができないTwitterなどでは、非常に有効であるが、専門家同士の長時間の議論では「なんだ、こいつは。基礎基本がなっていない、ただのバカだな」となるだけである。

 きちんと言っておこう。ちゃんと専門家・研究者でありたいのであれば、きちんと基礎基本を抑えること。
 この方法は、他者に対してのブラフなわけだから、特に理系が自然科学の中でやってはいけませんよ?しかしながら、理系の世界ですら、ブラフが前提になってしまっているのが、本当に腐ってきているところなんだけどね。
 (そして、何かを知っているということが、何かを知らないことであるレッテル貼りにすらなってしまうところは、すでに本当に腐っていると思う。物理がそれだけできるのだから、生物学のこれは知らないだろう?みたいなね)

 (ここで物理会参加者に無意味に緊張感を与えてみよう笑)たとえば、俺が週2回やっている物理会では、最後には必ず一人ずつコメントを言ってもらうことにしているが、「ドーナッツ」に関する内容ばかりであると、高校生・浪人生くらいのときの俺と同じなのではないかなっと思っていたりはする。
 要するに、本論の無理解を棚に上げて、俺が喋った内容の中でアドバンストな内容や要約的な部分にだけフォーカスを当てて、そこを定性的に質問することで「本論はわかっているに決まっているじゃないか」という無言の主張をしているんじゃないだろうか、ということだ。本論のなかで真っ直ぐには理解しにくいところは沢山ある。そして、個々人にとって疑問に思うべきである箇所、即ち「正しい疑問」というのが、必ずある。これをどれくらい俺に開示できているかというのは、俺は、(少なくとも)お伝えしている範囲の物理学はある程度掌握している、かつ、知識のドーナッツ化に関する知識もあるので、申し訳ないけれど見抜けてしまう時がある。
 別に、背伸びの質問をすることが悪いことではない。そうやってモチベーションを高めなくちゃいけない時期もあるだろう。ただ、それがあまりに長いと、結局は「物理学というトリビアを多少知っているだけの、賢さを演出したいだけの人」から抜け出せない。そういうことが嫌だから、物理学をガチろうと思ったんじゃないのかな?

 前の記事でも書いたが、現代の日本はルンペンブルジョアジーが支配している、崩れかかっている社会である。
 彼ら彼女らは頭良いフリに関してはプロ級であり(といっても、東大駒場やミネソタ大にいる教職員・大学院生のそれから比べると、かなり劣るが)、当然のように「知識のドーナッツ化」の手法を使ってくる。悲しいことに、この程度のやり口でSTEM人材をコントロールできると思ってしまっている部分があるが、そのメッキが剥がされるとわかるや否や、数の暴力を使って、言論弾圧をしてきたり、組織を強制的に崩壊させたりする。まぁだからこそ崩れそうなのだけどね。

 「賢いんちゃうかな?」と思わせることなんて、誰だってできるし、容易。
 問題は、テレビタレントならいざ知らず、そんなことをしている連中に大きな決定権を渡していること。

 そう、これは勝利宣言。君らはいずれ、俺らが徹底的に鍛え直してやるよ、っていうね。
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