来月にはこのブログは20年目を迎えることになる。ということは、高校を卒業してからもう20年にもなるということだ。月日はあっという間に流れるなぁと思う。
最近はめっきりブログを書かず、何か思ったことをふらっとネットに書くのはTwitter、流石にもう少しまとめるかと思ったら時間がないからYouTubeで喋るというのが常態化してしまった。これはあまり良いループだと思ってはいなくて、やはり文章で書いてわかることもたくさんあるわけで、Twitterでふわっと思ったことはあくまでふわっと思ったことであるので(何を言っているんだ俺は笑)、あまり深い思考にはなりようがないわけだ。そのようなシーンでは(みんなあまり意識してはいないが)ノリが重要になってくる率が高くなるわけで、まぁなんというかDQNっぽさを利用して書いていたりもする。すると、真意を伝えようというムーブよりも「あー、こういうふうに受け取られるんだぁ。へぇ」みたいに感心している自分がいる。コミュニケーションを取るよりも、実験観測としての自分の方が強い。もう少しきちんと伝えなきゃね、ちゃんと考えをまとめなきゃね、と思いながらも、目の前にスマホがあってXというアプリをタップすれば世界発信できてしまうわけだから、なんとも難しいところだ。
20年近くネットでなんらかの発信をしていると、だいたいどんな人が自分のアンチになるのか、よくわかってくる。
それは、ズバリ「優等生から降りれなくなってしまった人」である。まぁ確かに、このタイプは言っちゃえば、真面目であるだけが取り柄なので、そりゃあ俺との相性は悪いだろうなと思う。ネットでそういうアンチが感情的になってくる様子を見ると、「こういう現象って面白いよなぁ」とまったくもって人間扱いしていない自分に気がつく(まぁその多くは、向こうから絡んできている、かつ、建設的なツッコミではなく誹謗中傷に近いこともあるので、許してね)。それはまずいかしらと対話をしようとするが、顔も知らない会ったこともない人にそこまで気を向けるのもおかしいかと思い直し、だいたいが無視。けれど、同じようなくだらないツッコミが増えてくるとそれを放置しておくのもどうかと思ってくるので、殺虫剤を撒くようにひとりだけ晒しあげる。みたいなことをしていることが多い。
まともに議論をしようとしても、顔の見えない状況下だと、このタイプは余計に「どこかしらで勝てば良い」というのを目指しているので、あまり有意義な対話にならないことが多い。しかし、同時に、そのツラさがかなり理解できるのも俺なのだけどなぁ、と思ったりもする。
「クズ」の定義を俺は明確にしていて、「自分の安定化・向上を目的として弱者を迫害する人」としているのだが、この定義を明確に述べていても、いつの間にかクラスの中で一番ノリの良い人たち(=:Aグループ)とごっちゃにしてしまう人たちがいる。頭がそこそこ良いのにも拘わらず、である。DQN的なノリというか、単なるノリの良さも、重要になるシーンがあることを一切受け入れることができない。こういう人たちを「優等生から降りれなくなってしまった人」とここでは定義している。
この人たちはそもそも「ノリの良さ」を認識することができない。観測しないことが身体に染み付いてしまっているためである。だから、往々にして、誰かがノリによって得していることを、「顔の良さ」などの身体的特徴に落とし込んで理解しようとする。「あの人ははじめから顔が良いから、あんな調子こいたことができるんだ」というように。
これはものすごーく損である。別に本人のノリが良くならなくても良い。だが、その価値観だけはあったほうが、あらゆる現象が理解しやすいし、賢さと同じで技術としてある程度後天的に身に付けることができるものだと思っているほうが(実際にそうだと思うが)、変にこじらせる必要もなくなる。
さらに、AグループやDQN集団の中にもさらにキャラクタライゼーションがあること、ノリの良さを纏った賢さがあることを認識することができない。DQNはDQNでしかないと思っているからである。だから、他人の痛みが理解しにくくなる。実はこれはほとんど差別していることと変わらないのだ。
はっきり言って、高校物理を前提に学部で習う物理学を統計力学までお伝えする会を週2回、2年間もこなし、その目標をきちんと達成できている現在の俺の思考力は、たいていの優等生キャラを凌駕すると思う笑。その俺が、レペゼン地球がーとか、ディズニーランドって面白いじゃん、とか言ってれば、優等生から降りられない人たちからはそりゃ嫌われる。当然っちゃ当然である。
まぁ俺からすると、(誰かから承認を得るための)勉強(やそれに準ずる努力まがいの作業)ばかりしているから本当の意味で頭が良くならないのだよ、と思ってしまうが、ノリの良さそのものを認識していないのだから、もっともっと手数を増やさなければ、と思うだけなのだから、いつまでも分かり合えないわけよね。
はて、俺はいつ優等生を降りたのであろうか。もう記憶が定かでないほど、遅くともこのブログを始めた頃には、すっかり降りてしまった後だったように思う。
とするならば、、小学校の頃は確実に優等生側だったはずだ。・・・小学6年生から日能研に通って自分なんて大して頭良くないと気がついた時か?はたまた、中学では成績が良かった自分が高校ではぜんぜんぱっとせずに、夜遅くまで遊んでいた頃だろうか?それとも浪人した時だろうか?優等生は浪人しなさそうだしね。
周りを見渡せば、フォロワーも含めて、小学校のテストでは100点なのが当たり前だった、みたいな人ばかりになってしまっている。それはあくまで一つの能力の指標で、、というか能力以上に、今をとにかく楽しんだり、自分がとりあえず心地良いことが大事だというDQN側の思考も、実はかなり重要なのではないかと思うのだ。
優等生から降りられない人ほど、過労死や過労自殺に近いポジションにいるだろうし、頑張り過ぎてしまうのは自分自身を大事にできないからだ。本当は自分を大切にしたいけれど、自分に対する特別視が当たり前になりすぎて、その眼差しが消えることを恐れすぎて、自分がやりたいことよりも先に「先生や上司から何を求められているか」を優先させてしまう。君が何をしたいのか、を本当に求められている場面でも、何が優等生のコメントであるかを探してしまうのは、一周回って頭が悪いと言わざるを得ないのに、ね。
優等生キャラはキャラを守るが故に自分自身を大事にできない。
ここをウィークポイントだと思ってもいないところがウィークポイントで、自分に対する客観的視点が少ないので、系を正しく観測するための基本OSが備わっていない。
久しぶりにここで書こうと思ったのは、俺自身も価値観のフェーズが変わろうとしているからだということに他ならないかもしれない。
ここ何年か、(キャラ付けの意味も多少あれど)「物理さえやっていれば賢くなるよ」と言い続けてきたが、、この「ノリの良さ」の指標の重要さを理解せずに、いくら物理学をやっていても、おそらく楽しくないだろうと思うし、結局のところあまりちゃんとは理解できないんじゃないかと思うようになってきた。そりゃ物理自体はできるようになるかもしれないが、あまりそれは意味をなさない(人が多いだろう)。
「正しいことを正しいというために物理学をやっている」と理論研の先生に言われたことがあるが、その意味が、いま少し分かってきた気もする。
最近はめっきりブログを書かず、何か思ったことをふらっとネットに書くのはTwitter、流石にもう少しまとめるかと思ったら時間がないからYouTubeで喋るというのが常態化してしまった。これはあまり良いループだと思ってはいなくて、やはり文章で書いてわかることもたくさんあるわけで、Twitterでふわっと思ったことはあくまでふわっと思ったことであるので(何を言っているんだ俺は笑)、あまり深い思考にはなりようがないわけだ。そのようなシーンでは(みんなあまり意識してはいないが)ノリが重要になってくる率が高くなるわけで、まぁなんというかDQNっぽさを利用して書いていたりもする。すると、真意を伝えようというムーブよりも「あー、こういうふうに受け取られるんだぁ。へぇ」みたいに感心している自分がいる。コミュニケーションを取るよりも、実験観測としての自分の方が強い。もう少しきちんと伝えなきゃね、ちゃんと考えをまとめなきゃね、と思いながらも、目の前にスマホがあってXというアプリをタップすれば世界発信できてしまうわけだから、なんとも難しいところだ。
20年近くネットでなんらかの発信をしていると、だいたいどんな人が自分のアンチになるのか、よくわかってくる。
それは、ズバリ「優等生から降りれなくなってしまった人」である。まぁ確かに、このタイプは言っちゃえば、真面目であるだけが取り柄なので、そりゃあ俺との相性は悪いだろうなと思う。ネットでそういうアンチが感情的になってくる様子を見ると、「こういう現象って面白いよなぁ」とまったくもって人間扱いしていない自分に気がつく(まぁその多くは、向こうから絡んできている、かつ、建設的なツッコミではなく誹謗中傷に近いこともあるので、許してね)。それはまずいかしらと対話をしようとするが、顔も知らない会ったこともない人にそこまで気を向けるのもおかしいかと思い直し、だいたいが無視。けれど、同じようなくだらないツッコミが増えてくるとそれを放置しておくのもどうかと思ってくるので、殺虫剤を撒くようにひとりだけ晒しあげる。みたいなことをしていることが多い。
まともに議論をしようとしても、顔の見えない状況下だと、このタイプは余計に「どこかしらで勝てば良い」というのを目指しているので、あまり有意義な対話にならないことが多い。しかし、同時に、そのツラさがかなり理解できるのも俺なのだけどなぁ、と思ったりもする。
「クズ」の定義を俺は明確にしていて、「自分の安定化・向上を目的として弱者を迫害する人」としているのだが、この定義を明確に述べていても、いつの間にかクラスの中で一番ノリの良い人たち(=:Aグループ)とごっちゃにしてしまう人たちがいる。頭がそこそこ良いのにも拘わらず、である。DQN的なノリというか、単なるノリの良さも、重要になるシーンがあることを一切受け入れることができない。こういう人たちを「優等生から降りれなくなってしまった人」とここでは定義している。
この人たちはそもそも「ノリの良さ」を認識することができない。観測しないことが身体に染み付いてしまっているためである。だから、往々にして、誰かがノリによって得していることを、「顔の良さ」などの身体的特徴に落とし込んで理解しようとする。「あの人ははじめから顔が良いから、あんな調子こいたことができるんだ」というように。
これはものすごーく損である。別に本人のノリが良くならなくても良い。だが、その価値観だけはあったほうが、あらゆる現象が理解しやすいし、賢さと同じで技術としてある程度後天的に身に付けることができるものだと思っているほうが(実際にそうだと思うが)、変にこじらせる必要もなくなる。
さらに、AグループやDQN集団の中にもさらにキャラクタライゼーションがあること、ノリの良さを纏った賢さがあることを認識することができない。DQNはDQNでしかないと思っているからである。だから、他人の痛みが理解しにくくなる。実はこれはほとんど差別していることと変わらないのだ。
はっきり言って、高校物理を前提に学部で習う物理学を統計力学までお伝えする会を週2回、2年間もこなし、その目標をきちんと達成できている現在の俺の思考力は、たいていの優等生キャラを凌駕すると思う笑。その俺が、レペゼン地球がーとか、ディズニーランドって面白いじゃん、とか言ってれば、優等生から降りられない人たちからはそりゃ嫌われる。当然っちゃ当然である。
まぁ俺からすると、(誰かから承認を得るための)勉強(やそれに準ずる努力まがいの作業)ばかりしているから本当の意味で頭が良くならないのだよ、と思ってしまうが、ノリの良さそのものを認識していないのだから、もっともっと手数を増やさなければ、と思うだけなのだから、いつまでも分かり合えないわけよね。
はて、俺はいつ優等生を降りたのであろうか。もう記憶が定かでないほど、遅くともこのブログを始めた頃には、すっかり降りてしまった後だったように思う。
とするならば、、小学校の頃は確実に優等生側だったはずだ。・・・小学6年生から日能研に通って自分なんて大して頭良くないと気がついた時か?はたまた、中学では成績が良かった自分が高校ではぜんぜんぱっとせずに、夜遅くまで遊んでいた頃だろうか?それとも浪人した時だろうか?優等生は浪人しなさそうだしね。
周りを見渡せば、フォロワーも含めて、小学校のテストでは100点なのが当たり前だった、みたいな人ばかりになってしまっている。それはあくまで一つの能力の指標で、、というか能力以上に、今をとにかく楽しんだり、自分がとりあえず心地良いことが大事だというDQN側の思考も、実はかなり重要なのではないかと思うのだ。
優等生から降りられない人ほど、過労死や過労自殺に近いポジションにいるだろうし、頑張り過ぎてしまうのは自分自身を大事にできないからだ。本当は自分を大切にしたいけれど、自分に対する特別視が当たり前になりすぎて、その眼差しが消えることを恐れすぎて、自分がやりたいことよりも先に「先生や上司から何を求められているか」を優先させてしまう。君が何をしたいのか、を本当に求められている場面でも、何が優等生のコメントであるかを探してしまうのは、一周回って頭が悪いと言わざるを得ないのに、ね。
優等生キャラはキャラを守るが故に自分自身を大事にできない。
ここをウィークポイントだと思ってもいないところがウィークポイントで、自分に対する客観的視点が少ないので、系を正しく観測するための基本OSが備わっていない。
久しぶりにここで書こうと思ったのは、俺自身も価値観のフェーズが変わろうとしているからだということに他ならないかもしれない。
ここ何年か、(キャラ付けの意味も多少あれど)「物理さえやっていれば賢くなるよ」と言い続けてきたが、、この「ノリの良さ」の指標の重要さを理解せずに、いくら物理学をやっていても、おそらく楽しくないだろうと思うし、結局のところあまりちゃんとは理解できないんじゃないかと思うようになってきた。そりゃ物理自体はできるようになるかもしれないが、あまりそれは意味をなさない(人が多いだろう)。
「正しいことを正しいというために物理学をやっている」と理論研の先生に言われたことがあるが、その意味が、いま少し分かってきた気もする。