たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

どうにもならない今日だけど

2014-10-31 00:47:11 | Weblog
 前から言ってることだが、俺は子どもが好きじゃない。理由は簡単で、俺とは話が合わないからだ。

 子どもとは、まだこの世の中にまっさらな期待をしていて、そこに永続性があるかのように錯覚している状態であるわけだから、日本語の使用がどうのということではなく、とても(少なくとも俺なんかと)話をすることなどできない状態だと思うのだ。
 この世は残酷で理不尽であり、生きている意味なんて特に何もなく、どんなことも期待など何もできないという真実を知らない者と、俺は話をすることが苦手である。

 期待とは、文字通り、期を待つだけの行為である。それをただまっさらにしてさえいれば永続的だと考えてしまうような価値観で、この残酷な状況が一変するとは思えないし、諸行無常の世に何かを寄与させることなど不可能だ。
 期を待つことが最善であるような価値観を持ってしまうから、実際に期が来た時にチャレンジできないのだ。むしろ、どんな状況であっても、とにかく一歩前へ強引に足を出していこうと思っている価値観を持っているからこそ、実際に期が来た時に正しく行動できるようになるのだと思う。

 それほどまでに行動をし尽していたって、理不尽に無意味な行動と化してしまうことは多い。弱い自分を守るために、冷たい言葉を平気で放って攻撃して、それが巡り巡ってまた自分に傷をつけてしまうことも多いだろう。

 その傷にみあう何かを過剰に求めたりして、「幸せを感じるためには不幸が同じだけ必要なのだ」とまた根拠のない自分にとって都合の良い普遍性を仮定してしまうのが理系の悪いところだ。
 そうではなく、生きるということは、風に遊ばれるような理不尽に耐えて、「痛い」ということを経験し続けることなのだと俺は思う。

 どのように生きても、生きている限り、痛い、ツライ、やめたくなるし、泣きたくなるし、それがまた自分を追いやって、余計に時間がかかったり、後ろ向きに歩いてしまうこともあるだろう。どのように生きてもそうなのだから、せめて、自分の思うままに生きてみたらいいのではないかと、最近特に思うのだ。

 どんなに滑稽であろうと、どんなに惨めで、どんなに愚かで、どんなに他人よりも時間がかかり、どんなに貧しくとも、とにかく自分が感じるまま思うままに、自分の心に実直で、まっすぐ楽しく生きている人のうち、なるべく本質的な信頼関係を望んでいる人が、俺は好きだ。

 世界中の誰にも共感されなくとも、俺はこの気持ちを曲げることはない。
 そして、それは、多くの幼い子どもも、同じ気持ちを持っているという気がしている。

Wind Climbing~風にあそばれて
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好きなことを好きにやり続けるコツ

2014-10-29 01:04:04 | Weblog
 好きなことをずっとやり続けていれば、その好きなことが自分を苦しめることもあるだろう。
 それがたった一つだけのことに集中しているのであれば尚更だ。すべてが敵に思えて、仲間すら仲間に思えなかったり、逆に仲間じゃない人を傍においてしまったり、世間全体への猜疑心が深まっていく。

 しかし、もし、好きなことがきちんと定まっているのなら、それはとても幸せなことだと想う。俺は、どんな分野に関しても強い関心の気持ちを持続できるだけの自信は無いし、それで普通であると思っている。ここでいう普通とはマジョリティのことではなくて、自分の人生においてありふれているということだ。

 誰にでも好きなことがあるはずで、それを一つに定めながら、突っ走ることができたなら、世の中はもっと生きやすいのかもしれない。現実は、殆どの人が、特に何も好きなことはなくて、ただただ物理的に生きていくことに精一杯。
 だとしたら、20歳でその生涯を閉じた数学の天才ガロアは幸せだし、明治維新の精神的指導者であり30歳でその生涯を閉じた吉田松陰もまた幸せであるのかもしれない。なんの大成も結果的に観れなかったかもしれないが、自分の信ずる道をただひたすらに駆け抜けることができたのだから。

 ただ、間違えてはいけないのは、この今の時代に本当に必要なのは、超スゴイ0.01%の天才みたいなヤツの出現を許容し、無難で信念のないヤツが平均的に得するようなシステム作りではなく、これからの世代における、あくまでも平凡な実直さを持った若者が、いかにして自己実現しやすいシステムを創るかであると思う。
 確かにどんなシステムのなかからでも、素晴らしいモノづくりは自然と出てくる。胸を打つような文章や素晴らしい音楽やあっと驚く芸術的表現や革新的な研究は、どのような環境でも、いくらでも、どうにでも、絶対に自然に、世に出てくるだろう。だから新しいシステムなど考えずに、表現者は表現そのものに専念せよ、研究者は自然科学そのものに専念せよ、っと、能力も無いくせにヒエラルキーの上位にいたがるクズによって、有能な人材を奴隷のように使うシステムが、どこの分野のどこの世界でも正当化されている。

 スーパーマンのような若者を想定したり期待したりするのではなく、超スゴイヤツ0.01%を許容できるからOKって話ではなく、普通よりはまぁまぁスゴイ程度の、やる気あるヤツらのなかの一番多い集団にとって、どうしたら環境としてより良くなるかを、俺ら若い世代が率先して自ら考えださねばならない。
 じゃなくちゃ、これまで通り、この国は、いやこの世は、少数精鋭によって支えられる不安定な状態が続いてしまうだろう。

 まったく想定しなかった、まったくの新しいモノを観るためには、たった一人のヒーローやヒロインを待ち望むのではなく、ありきたりの有能さをいかに評価するかを考えるべきなのだ。こんな世の中だからこそである。

 まぁ、とりあえず、まさにその、ありきたりの有能さ、くらいの能力をつけなくちゃ、だけどね。笑

 それが大好きなみんなにとって、より良い新しいシステムを考え続けること、、そんなことを考え続けることこそが、好きなことを好きにやり続けていくコツなのかもしれない。
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「星野君の二塁打」について

2014-10-28 00:20:09 | Weblog
 今日は、かなり今さらだが、「星野君の二塁打」について話そうと思う。
 このブログは「日記」であることを公言しているので、言うまでも無く今日一日はこの物語についてたくさん考えました。

 原文はネットを探せばあるが、ここでは簡単なあらすじを「空気読みたい大人のブログ」様の「星野君の二塁打という話をオトナになった今改めて考えてみた」という記事から引用させていただくことにします。


 以下、引用。

 とある野球の大会への出場が決定する予選の最終試合でのこと。同点の最終回裏の攻撃、ノーアウトランナー1塁の場面でバッターは星野君に回ってきた。監督からはバントを命じられたが、絶好球が来たのでバントの指示に背いて二塁打を放った。そして、星野君のチームは次の打者が犠牲フライを打ったためこの試合に勝利することができた。しかし、翌日に監督はバントの指示に背いた星野君に「共同の精神や犠牲の精神の分からない人間は社会の役立つことはできない」と話し、大会への出場停止処分を下した。

 引用終わり。


 かなり日本社会の縮図的な内容なのですが、この「星野君の二塁打」という文章は日本の小学校の「道徳」の教材としてよく使われます。実際、俺も小学校の頃に読んだ記憶があります。
 ハッキリ言って、能力よりも権威のが大事なことを伝えるなんて、なんつー胸糞悪い内容の文章だ、っと最初(少なくとも小学生の頃)は思いましたが、他人の感想を聞けば聞くほど、色々考えさせられるなぁっと思ってしまいました。

 この話を他人にふると、面白いほど、その人の性質がでます。だいぶ前だけど、よく飲み会でこの話を色んな人にふってました。『…』は俺の反応。

 「監督の言うことは絶対でしょ!野球って、監督までユニフォーム着るくらいの、そういうスポーツだから」『だから、俺は野球みたいなスポーツ根性系は嫌いっす』

 「監督がその資質を見抜けなかったのが悪い。それを見抜くのが監督の仕事だから。結果オーライじゃん」『でも、日本社会のなかで、こういうことって、めちゃくちゃ良くあることだと思うんだけどなぁ』

 「これ、ここ!異存はないって約束したよな、って確認するところ、めちゃくちゃムカつく。上から言われたら、うん、って言うしかないくせに、その、うん、って言ったことを理由にしてくるあたりがないわー」『まぁ、スクールカーストのなかのグループでも同じことがあるし、実社会ではもっとわかりにくくそれを責めてくるから、もっとヤバいけどね』

 「研究では個人主義っていうか成果主義が大事だと思いますよ?でも、これはチームプレイだから、星野君が悪い」『いやいや、お前、その研究において、先生に媚び諂ってるじゃーん。それに、研究においてこそ、こういうシーンが多いってわかってるからこそ、媚び諂ってるんでしょ?』

 結果を出せばイイってもんじゃない。チームのために我慢する精神と個人の犠牲で勝ちを達成するということの大切さ(くだらなさ?)を教えるために、この教材が存在していることも、日本の道徳教育の現場では少なくないのだ。

 チームプレイと言うなら、この監督のこの行為こそがチームプレイを乱していると言えるのではないだろうか、と俺は思う。ヒエラルキーがあることを前提として、「星野君の今後のためを思って、言うこときかなかったから、試合には出さない」とやってしまうのは、教育におけるおこがましさを物語っている。
 二塁打にチャレンジするというのは、チームにおいてのリスクだ。そのリスクを個人が全面的に被り、さらに結果まで出したのにも拘らず、それを全否定されてしまうなら、チームのことなんてどうだって良いから、とにかく監督の言われたままにすれば、チームは負けても誰からも否定されずに、それで良いだろう、となってしまうのではないだろうか?
 こんなものを道徳教材にしてるから、日本では、まったくの新しいものが創れない。

 例えば自然科学の「研究」に落とし込んで考えてみれば、先生に言われた通りにさえやっていれば、たとえ結果が微妙でつまらなくても、先生は自分の非を決して認めないことを利用してしまえば、先生がムリヤリ勝手に意味ありげに解釈してくれてしまうわけで、その結果が成果に繋がりやすい。
 逆に先生に言われたことをやらないで、自分が先生の予測よりももっと面白い計画を立てて実際に結果が出せたとしても、先生の機嫌一つで、その結果は成果にはつながらないし、なぜ私が助言したこれをやらずにこんなくだらないことやっているのだ、ということを超えるほどの圧倒的絶対的な精緻さと面白さを一挙に求められてしまう。

 さて、あなたは、どちらを選ぶ?しかも、星野君と監督のように、簡単には不条理が露出されないように、仕組むような現代社会なんだぜ?

 これは俺のあくまで理想なのだが、監督はあとで星野君にこっそりこう言えば良かったんじゃないかと思っている(ちなみにこの感想はまだ誰にも言っておらず、初めてここで公開する)。

 『星野君、ぼくの、君に関する見込み違いをどうか許してくれ。できれば、他のみんなには、指示通りに二塁打を打ったということにして欲しいのだ。そうでないと、今後のチームワークに必ず支障がでる。そして、これ以降は、どうか、、こんな無能なぼくの指示に、どうか、従って欲しいのだ。今回は結果オーライかもしれないが、いつも上手くいくとは限らない。今後はぼくも、期待を想定しながら、作戦を立てるようにするから、よろしく頼むよ』

 もちろん、この閉鎖的な島国で、このようなマジの信頼関係が受け入れられるとは、とうてい思えない。
 しかし、俺は、確かに、こうやって、俺自身のマジの本音をちゃんと共有することで、生徒たちと信頼関係を築いてきた(つもり)だし、それが彼ら彼女らのためになっていることを小さく願っている。これこそが、星野君の今後にとっても、よりよく寄与するはずである。


 「大人になればわかるよ」
 っと言われ続けて、俺はもう十分に大人になったが、そのような思考停止を押し付けられた、だいたいのことは、やはり未だにわからない。それは当たり前で、こういう思考停止なことを言う大人は、俺の7歳の頃よりも、遥かにバカだからだ。最近は、PIになればわかるよ、とか、もう少し年齢がいけばわかる、などと言われることもあるが、それもきっと同じだろう。

 私もかつて、そのように幼く熱い感情を確かに持っていた。だが、これから歩むであろう社会の冷たい風を受けたなら、きっとその考え方は変えざるを得ない、、という忠告なのだろうが、その忠告こそが「社会の冷たい風」の本体であり、ハッキリ言って余計な御世話だ。

 幼く暖かい想いが社会の冷たさに触れることで冷たい側に、みんながみんな、なるわけじゃないのだ。だって、ご存じの通り、この世はエントロピー増大則に従って、冷たさがむしろ暖められていくのだから。

 精神教育をしてやろう、などという、監督から星野君への、おぞましいほどの狡さを同じように持っているヤツは全員、俺が、ぶっ飛ばしてやるぜ(笑)
 いや、マジで。ただし、俺は体育会系ではないので、言葉でぶっ飛ばすだけだけど。

「星野君の二塁打」について with たなかゆうき

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科学にロマンはあるか? -科学好きな若者へ-

2014-10-27 01:12:11 | 自然科学の研究
 自然科学は夢を現実にするのに十分すぎるほどの手段を持っている。
 誰もが自然現象のなかで生活をしていて、そこで生じる不思議な現象やそれらを論理的に成り立たせるための理屈に興味を持っている人はきっと多いだろう。

 あらゆる自然現象はそれだけで人の心を動かす。科学のことを考えるだけでも胸がワクワクするし、楽しくなることができる。
 宇宙、細胞、昆虫、火山、化学変化、超伝導、数論、素粒子、生態、大気、地層、原子分子、、あらゆる自然科学のキーワードを聴くだけで楽しくなるし、それらを観てるだけでめちゃくちゃ楽しい。

 それなのにどうして、多くの研究者は目が死んでしまい、やる気のある大学院生ほど研究の現場を去ってしまうのだろうか?
 どうして繫文縟礼のために研究者とその卵たちが(実質的に)死んでいかなくちゃいけないのだろうか?

 いつしか自然科学は、自分を強く見せるために相手をバカにしたり、結果が無ければ夢も語れない潮流になってしまったがゆえに、目標がきちんと定まっておらず分野に依存した形式的な作業を研究行為だと偽り続け、「(論文や科研費の申請に)書ける」ということが口癖になり、クソつまらない内容を面白いと讃えることが習慣化されてしまった。
 そして、まだ夢を持ち目が輝いている、新しいM1や卒研生が入ると、みんなでそれをバカにして、「現実をみせる」という大義名分のもと、みんなでその気持ちを殺し、殺してしまった現実を観ないで「あの程度でやめてしまうんだから、彼(女)は研究者には向いていなかった」と決めつける。

 嗚呼、楽しい科学がどんどん楽しくなくなっていく。

 「お前なんかに、そんなこと、無理に決まってんだろうが!だから、どうでもいいことを巧く誤魔化して、とにかく当たり前のことを書け!」ということを教えることが大学院教育の場なのだ。

 しかし、本当に科学が大好きな、そしてそれを志す若者(特に理系の大学院生)は、よーく考えてみよう。
 50代、60代のクズたちだって、本当は、夢を観ていたいのだ。本気でフェルミのパラドックスに挑みたいし、本当の本当に生命とは何かを知りたいし、ロマンを持って研究を進捗できる科学式を知りたいのだ。

 確かに彼らは最低であり、ほっておいても(本当に)すぐに死んでしまうから、無視し続けても良いかもしれない。だけど、無駄な時間を過ごしてしまったから、相手にもそういう時間を過ごさせなければならないと考えているクズをも、正しく楽しく科学を進捗させる術に巻き込むほどのまっすぐさが、これからを創る我々に必要なんじゃないだろうか?

 だとしたら、すべきことは何か、もうわかるはずだ。

ラーメンズ 「科学の子」 part1


ラーメンズ 「科学の子」 part2
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無信不立

2014-10-25 00:51:12 | Weblog
 てめーの頭で物事をまったく考えもしないくせに、自分が正しいことを言うことがまるで決まり切ってるような態度をとるヤツが、俺は心底苦手である。

 こっちの理解してるレベルを一切考慮せずに、「訊いてきてるんだから、たかはしくんは何も知らないんだろ?」と俺がまったく何も知らないものと勝手に決めつけて、上から目線で極基本知識を偉そうに披露してくるCグループ(ノリの悪い連中)も単純にイラつくのだが、それと同じくらい「はいはい、めんどくさいから、たかはしくんが正しい、でいいよ、はいはい」みたいなAグループ(ノリの良い連中)も、お前が何にも考えてないことを理由にして、お前が正しいかもしれない可能性を残してんじゃねーぞバカヤロー、そんなん1ミリも正しくも何ともねーだんからな、っとイラついてしまう。

 こういった連中とは、コミュニケーションしないに限る。この世の果てまで永久にさようなら願いたい。
 なぜなら、コミュニケーション能力が高いとか低いとかではなく、こういった連中は、コミュニケーション能力がまったく無い。だから、原理的にコミュニケーションできない。
 電話を持ってない人に電話をかけることができないのと同様で、こういった最低限の人と人との関わり方を身につけてない人と頑張って分かりあおうとしても、頭の回線が繋がっていないのだから、それは絶対に不可能なのだ。

 Aグループにありがちな、自分の思っていることはみんなも絶対に思っているはず、思っていないわけがない、思っていない人はオカシイ、という価値観。
 Cグループにありがちな、自分がスタンドアローンに考えてやってきたことはヒエラルキー上層部に君臨するためには絶対正しく、スタンドアローンになれないバカは、権威によって閉めだしてしまえ!、という価値観。

 どちらも、少なくとも学問をやる上ではものすごく邪魔な価値観であり、そんなモノづくりのやり方では、本質に嘲笑われてしまう。
 めちゃくちゃ難しいことを言ってるのはわかるが、モノづくりをするための集団のリーダー的存在は、Aグループの良い部分とCグループの良い部分を同時に合わせ持つ、つまり、自分の好きなヤツだけで構わないからそれなりに周囲に対して関心があり、なおかつ、コツコツと真面目に物事を取り組むような姿勢が必要なのだ。

 それこそがメンバーからの信用を生む。
 信なくば立たずなのだから、この最終ラインを見据えなくてはいけない。ここさえ見誤らなければ、研究室内がめちゃくちゃスタンドアローンになって、まともに他の院生が何をどうやって研究してるかも知らないとか、逆に研究がおろそかになってなぁなぁになるとか、そういったことにはなりえないはずだと想う。

 自分(たち)への特別扱いを当然視するような個人と集団には未来が無いことを、もっときちんと確認すべきなのだ。

 確かに、自分にとって大切な誰かに手を差し伸べようとするときでさえ、自分のことだけを考えてしまいがちなくらい、世の中は冥い。しかし、だからこそ、滅私できるだけの勇気を、我々若い世代が持たねばならないのではないか。
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教育におけるトリアージュ

2014-10-24 01:11:57 | Weblog
 「じゃぁ、これを覚えれば良いわけね!」
 『違うって。この論理構造全体をきちんと理解してマスターしなくちゃいけないんだよ』
 「でも、結局これ覚えていれば点数とれるじゃん」
 『そんなことないって。それだけで得点できないような問題を作るのは、物理屋は得意だから』

 物理は覚えてはいけない、とよく言われる。
 歴史は人名や年号や事件名を覚えれば良く、国語も英語も本文をぜんぶ丸暗記してしまえば良いわけで、数学だって公式を覚えてしまえば得点できるから、物理ではあまり覚えすぎてはいけない、というのは他の科目とは対照的な一つの価値観であり、物理にアンチテーゼ厨が多い一つの原因である。
 (その証拠に、物理学が専門のヤツどーしで話してると、「いや、こうこうこうだ!」とリアクションがすべて否定から始まることがとても多い)

 俺は、こういう単なるアンチテーゼ厨の高校生には率先して、
 『そうかなぁ。。確かに単純に公式を暗記するだけじゃ物理は得点できるようにならないけど、結局のところ、その公式を覚えてなきゃ思いつかないようなことって多い気がするけどね。だからそりゃ、覚えてるだけじゃ無理なんだけどね。論理構造全体をマスターする、って言い方のが正しい気がする』
 っと言っていた。

 アンチテーゼになってりゃイイ、ってのもただの価値観の暗記なわけで、自分で追体験した結果じゃないんだとしたら、公式を覚えりゃなんとかなるだろ、って発想と等しくダメだと思うのだ。
 それでは、物理どころか、単純なロボットにしかならないだろう。

 教室に入れば、あらゆる段階のあらゆる種類の生徒が多数存在している。物理で公式を覚えようとしている生徒には『物理は暗記してはいけない』と言いたいし、アンチテーゼ厨になって物理の公式を暗記するのは良くないと思いこんでいる生徒には『暗記する必要があるものは意外と多い』と言いたい。
 聞き手によって意見を大きく変えたい場合、自分自身が引き裂かれそうになることは、教育の現場では本当に多いと思う。

 ここで、無難に安全に、を心がける自称「大人」は、平均値と最大多数の最大幸福を狙っていくわけだ。いわば、教育におけるトリアージュを行う。このタイプは、決してヴィランズではないが、逆に英雄でもないために、民主主義において最も厄介だ。
 教育とは、いわば、相手にとってのより良き(いまの「物理」の場合だと「理解」)を助ける社会的働きを言うわけだが、この場合は、自分が助けられない相手を見棄てることで、周囲から観た時の自分の自己無撞着性を守るわけだ。

 年齢を重ねれば、もしくは他人のことに無頓着すぎるガチCグループ(マジでノリの悪い集団)が教える立場である場合、この平均値すら見失って、どんどん教える側と教えられる側が乖離していく。それは、少数ではあるが確実に見棄ててきてしまった人たちの怨念なのかもしれないけど。
 教える側は、いわば心の難聴となり、生徒たちの意見に故意に耳を傾けなくなる。Use it or lose it。そしてそれがだんだん本当の難聴になってしまう。だから、年配の先生の授業中に、その先生の何かを生徒同士で嘲笑しても、その年配の先生がまったく気がつかないことが多々あるのだ。そしてまったく気がつかない、自分たちとは違う生き物が、生徒たちにとっては何とも滑稽でバカらしく映り、また嘲笑のネタになってしまうのだ。
 そして、そんな教える側は、ものごとをややっこしくすることで権威を保とうとする。無能さゆえに、威厳を保とうと無駄に厳しくなる姿勢は、学問の純粋な楽しさや喜びを置き去りにしてしまうだろう。

 だとしたら、どんなに他人から子どもだと言われても、俺は他人の心に対して、特にお金を頂いている生徒たちの心に対して、自分が手を施さないと決めつけた印である黒タグをつけたくはない。
 清らかな心を持っていながら、能力が無いせーで自分にも他人にも余計な不幸を招いてしまう小さな善人にはなりたくないのだ。Aグループ(ノリの良い集団)の気魄を欠いた善良さは大変に空しいものなのだから。

 『だから、いつか、この物理で、そういう夢を持っている子の助けになってあげて』
 たったひとりに対して、それを今から一番、体現できるよね?

Disney's Fantillusion Parade - Music of the Parade of Disneyland Paris
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2014-10-22 01:51:35 | Weblog
 情報とは乃ち履歴である。

 過去におけるあらゆる集積がなければ、エネルギー的に得できるコツ(≒情報)は絶対に得られないわけで、対象がコツを得ている理由があくまで環境によるセレクションのみならば、情報はイコール完全に履歴である。

 この視点に立つと、ランダムな配列によって多種の遺伝子が混在しているプールのなかの、一つひとつの種類の遺伝子の塩基配列は、情報ではない。それらは、あくまで、ただの配列だ。ここからスクリーニングして、ある目的にとって有用な配列が分かった時点で、それこそが情報なのである。
 よって、やはり、履歴のない情報なんて有り得ないし、履歴を残す仕組みさえ作ってしまえば、情報を取りだすことは必然なのだから、辿った足跡こそが情報だと言っても過言ではないでしょ?

 インターネットは情報だらけなんかじゃなくって、このブログも含めて、ゴミだらけなのだ。
 しかし、ある人のある目的を達成するために有用であるならば、ゴミみたいなこのブログや膨大な2chのスレッドが、はじめて情報に転移する。そして、それを他の手法で発信したり、誰かに話したりすれば、それは履歴現象であり、それこそが情報になるわけだ。

 そうこうして、みんなで繋いでいく言葉こそが、人にとっての情報となる。そして、それはとても生命っぽい。
 繋いで生きて繋いで生きて、の繰り返しがフィジカルな部分以外に、生きていく術のコツとしても成り立つ。音楽なんて、もろ履歴の集積としての情報を利用した、体現手法だしね。

 全部、情報と熱力学で考えることができるんだったら、光合成からぜーんぶ、地球生命のコスパーの良さは、エネルギー保存されているんだろうか?あらゆるコスパーの良さを人類は知ってるわけだけど、それをも全部、太陽エネルギーからの長い履歴としての情報で表現できて、物理学で計算できたとして、それ以上にどうにかしてエネルギーを生命が生み出しているんだとしたら、それこそが、物理現象と生命現象のアノマリーになりうるのかもしれない。

 まったく経験がなければ、他人に対してアドバイスをすることはできない。でも、あらゆる経験をすることで、実際に経験していないことでも適確にアドバイスすることができるようになることもある。
 それらの集積が、典型とかパターンとか、ある程度、断定的にものごとを予言できる力の源だ。そして、適切に考え尽せば、大抵のことは、予測してピタリとあてることができる。

 そのパターンに悪いことでハマりがちだと、「やめときなよ」とか「あんなやつほっときな」とか「そのまま突っ走ると危険だよ?」とかのアドバイスになるわけだ。
 だけど、それを超えて不利益をあえて取ってしまうとき、、それが実生活上で一番厄介な「気持ち」というやつであり、日本人がコントロールしてしまいがちな、しかし何ともコントロールしにくい、不確定要素としてのバグ。

 …履歴の集積であるノートを観て、そんな情報を取り出してしまった。これが俺が振り返れなかった理由なのだということを痛感させられる。権威にも机上の空論にも屈さないが、所詮、俺は暴力に屈する。
 当時の自分の本気さと現状のギャップに泣きたくなるほど、冷酷な情報で、、本当に、どうしてこんな風になってしまったのだろう。どちらにせよ、すべてが終わる時、真実は単純であることが示されるのだろう。

 そして、このゴミが、情報に変わる日が来る。

m-flo / come again
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能も無いのに爪を隠す

2014-10-20 22:49:18 | Weblog
 能ある鷹は爪を隠す。
 だから、多くを語りすぎれば、無能であると思われてしまう。自分からペラペラ余計なことを話したり、当たり前すぎることをわざわざ口に出して語ることは美学に反するし、他人に無能だと勘違いされることも多い。

 よって、多くの場合は、とにかくまずは静観しているのが勝利の鉄則だ。

 その上で、誰かがボロを出した時に、正しく修正すれば良い。そうすれば、周囲は優秀であると認知してくれるわけだ。正しく評価されるというのは難しく、これほどの秀才さを持ってしても、なかなか他人は優秀であることを認知してはくれない。だから、確実に安全に、相手の第一印象としてのイメージ通りの、世間がナンバー1と称する賢さを相手に魅せていくことが必要になる。

 何も喋ることがない場合は、無理に喋ることは無い。何か他人から訊かれたとき、自分の意見をしっかりはっきり言えば良い。
 自分の意見を言う時も、自分が確実に知っている得意分野に少しずつ軌道修正することがポイントである。もちろん、すべての分野をカバーしていれば尚のこと良いが、知識の集積に尽力できている分野を話すほうが安全だ。

 これだけのことをしても、不当に評価されてしまうことは多い。
 なんでもかんでも意見を言ってしまえば、それはバカみたいだし、あえて意見を言わない、相手を思いやる気持ちを持ちながらの、達観視を大事にしていくことが、必勝法だと思うのだ。

 『バーカ、意見があるのに、あえて言わない、なんて、良いはずがないだろ。その意見を持ってる意味ねーじゃん。それに、どんなに相手の揚げ足取りをしてたって、誰もお前なんて有能だと思わねーっつーの』

 その程度の頭脳でそれだけ語れることがバカであることの証。
 やはり、能ある鷹は爪を隠す、という格言は正しい。

 『能も無いのに爪を隠してる無能に、バカと言われる筋合いはない。それに、俺が爪を隠してないと思ってるなんて…』
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好きな研究をできるのは誰か?

2014-10-19 04:00:37 | 自然科学の研究
 ハッキリ言ってしまえば、理学の研究は何の役にも立たないし、生産性も何も無い。
 そのわりに、実験検証をしなくてはいけないため、お金はものすごくかかってしまう。(少なくとも緊急的には)何の需要もないわりに、下手なベンチャーよりもがっつりお金だけは必要であるという矛盾した点を抱えている。

 そこで、カネにならない多くの研究は国の税金に頼っているわけだ。直近で必要が無いからと言って、理学が必要じゃないわけじゃない。理学は多くの人の幼心に宿る根源的な知的好奇心を満たすとともに、それを利用して未来の生産性を高めるものだからだ。であるので、その遠い未来への投資として、みんなから少しずつお金を頂いて研究をしているわけである。

 しかし、身の周りを観ていると、どうも、みんな、自分自身が本当に(理学にとって、もしくは、自分にとって)必要だと感じられる研究ができていないように思う。簡単に言ってしまえば、好きな研究をすることができないどころか、与えられた研究のなかで好きなやり方で研究することさえ困難なようだ。

 極端な二点を取ってみると、、卒研生は右も左も何もわからないから、とりあえず選んだ研究室にアジャストするべきであり、自分が好き勝手に研究できるような状況ではとてもない、というのが殆どだろうと思う。
 かといって、教授職についているおっさん連中も、学生のうちは好きな研究がまだできますからイイですよね、と漏らしているのを何度か訊いたことがある。

 では、一体全体、誰が好きな研究が好きなようにできるのだろうか?

 その中間である、大学院の学生やポスドクや若手研究者ができるか、というと残念ながらそんなこともない。
 何かを純粋に知ろうと想い、多角的に動こうとしても、上に立つ偉そうにコントロールしたがってる連中が、寄ってたかってめちゃくちゃにしてしまうし、何よりも自分で自由に使えるお金が無いのだ。もちろん、若手独自の科研費もあるが、大抵の場合は、先生あってこその研究費。だから、一度、理論研に入ってしまえば、突然実験したくなっても実験することは難しいし、かといって実験をする研究室の人が、すぐ隣の他の研究室にある実験装置をすぐに使えるかと言ったら、そんなこともない。
 そこには、明確にお金と、それを使う為の大義名分で溢れているからだ。

 そもそも、いまや理学は、難しすぎるか、複雑すぎるかの二択。一般の人がある研究の重要度を自力で算出することはほぼ不可能に等しいし、たぶん俺は、普通の大学院生よりは、遥かに様々な範囲を見聞きさせてもらっているけれど、それだって、価値の判断がすぐにはつかないことが多い。さらにひどいことに、研究の世界では「その研究の本当の価値」を喋ることはタブーとされている。「理系は自然現象そのものだけを考究すべき!」というラクな逃げ方を理系はよくしてしまうのだ。

 だから、知ってる人間が評価すればイイ!、相互評価すればイイよね、っとなるわけだ。
 というわけで、政治力学が生まれ、民主主義だから数の論理で、他の物事をまったく何も考えていない専門バカな今の50代60代の量産系クソ研究者どもが、研究を上から勝手に評価するわけだ。専門バカと言えば聞こえはいいが、よーするに、評価と称して自分の立場を主張しているに過ぎない。よくゼミで、優秀な雰囲気を「あえて本当のところは何も語らない」感のみで醸し出しているクズな若手が、質問と称して自分の意見を述べていることがあるが、代案なき批判をしてしまうところが若手も老害も物理現象として何もカワラナイなぁと思う。

 かといって、50代60代の人達も、相互評価に苦労している。なので、ベテラン研究者は、科研費の申請に書いたとおり、もしくは報告書に書きやすいような、実験をすること、色んな意味でコスパーの良い論文が書けるようなテーマを、若手や学生に強要するし、そこに耐えていける人こそが研究に向いているのだ、と心底思ってしまうわけだ。

 問題の根本をもう少し考えてみよう。

 「あの先生はおカネをとってくるのが上手い」
 とよく訊くが、それがイコール優秀な先生ではないし、不正確なコメントだ。正確に言えば、「あの先生は、多数決を利用して、ただおカネを貰ってくることだけは長けている」とかかなぁ。

 よーするに、テストでイイ点数をとった子どもが、お母さんに褒められて、お金を貰っているのと、何もカワラナイのだ。
 そして、その貰ったお金(科研費)で、新しい参考書(実験装置)を買ったり、塾に行ったりして(学会に行ったりして)、もっとレベルの高いテスト(学術雑誌)でさらにイイ点数を取る。だから、またお金(科研費)がお母さん(国)から貰えるが、それをまたもっともっとレベルの高いテスト(学術雑誌)でイイ点数を取るためだけに使ってしまっているわけだ。テストは、絶対に正しいことがはっきりしているから、まだ良い。しかし、研究はそうもいかない。研究が上手くいくかどうかは賭けだからだ。だからこそ、不正が起こる。本末転倒も甚だしいが…。(ちなみに、研究費の殆どを大義名分に使い、余ったお金で自分のやりたいことをできそうな気もするが、報告書がある以上、そうもいかないだろう。だいたい、年末になるとやたらめったら試薬を買ったり、余ったお金をどうしようか、というのは、研究室に限らず、どこの世界でもあることだよね。)

 誰かからお金を貰っている限りは、自由に好きなテーマを好きなやり方で研究できるわけがない。カネを大義名分で貰っている限り、理系は全員、文系(主に役人)の奴隷だ。理系に比べて、バカがマジョリティをどうしようもなく占めてはいるが、数が多いのだから、、民主主義に従えば、まぁ、当たり前のことだよね。

 だけど、忘れないで欲しいのは、俺ら学生は違う。本来的には自由に研究できるはずなのだ。
 学生は大学にカネを支払って研究させてもらっている立場だ。研究にしか使えないカネである研究費と完全フリーなポケットマネーである学費を、対等に扱ってはいけないことは、市場の論理から考えれば普通のことだと思うが、こうした当たり前の論理に対しても、理系は自然科学に専念すべし!という宗教を信じ切って、経済を何も考えたことが無い理系からすると、「君の学費は試薬代に消えてるからね?」などと平気で言ってしまうのだ。
 まぁ、だから、俺らよりも下の世代、特に修士課程の学生には、自ら自由に研究している姿を、俺は実はめちゃくちゃ期待していたりする。もちろん、小中高と奴隷気質を染み込ませる日本の教育システムのなかで育っている現状を考慮すると、すごく難しいとは思うけどさ。

 そう、、というわけで、おそらく、少なくともこの日本では、好きな研究テーマを好きな方法で研究している人なんて誰1人としておらず、、今後、自然科学、特に理学は、独自の経済体系を確立せねば、いずれは崩壊してしまうだろう。

 代案なき批判は嫌いだ、と言っていながら、俺はこれについて代案をあまり思いつけていない(ここで公開できないくらいフワフワしたものはあるけれど、そんなものでは意味が無い)。もう少し考え抜いてみないと、たぶん解は見えてこないだろう。。もっともっと、頑張らないとなぁ。

 でもまぁ、大丈夫。今の20代と40代(と50代のすごく前半)は、まだ、期待できるから。
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情熱で報われる孤独を信じていた

2014-10-18 01:00:54 | Weblog
 カワラナイ信頼関係のうえで楽しくやっていきたいと願っても、大抵の場合は現実に打ち拉がれ、脆く崩れ去ってしまう。そうなったときに、人は、情熱で報われる孤独を信じてみたくなる。
 せめて、孤独の中で有益な結果を求め、その後に、自分がトップにさえ立てれば、みんなで自己実現できるのだという幻想を抱きやすくなるのだ。

 そのやり方では、いつまでも孤独は孤独のままである。楽しさはそうやって創発するものではないし、ましてや、単純な分業や時間配分をコントロールする程度では達成できないだろう。だって、いつまで経っても、とびっきりのホンモノの信頼関係をどうやって築くべきかの学習はできないのだから。

 それがわかっていても、せめて孤独で得られる結果が欲しくなる。というよりも、一時的に孤独であることこそが、自己実現しやすく、それこそが大人であるということなのだ、という安直な論理体系に縋ってしまうのだ。
 まぁ確かに、、いくら俺にCグループ(ノリの悪い集団の総称)だってバカにされても、ファミレスでみんなで試験勉強するより、帰って一人で試験勉強した方が良いに決まってるからね。

 でも良く考えて欲しい。情熱で報われる孤独に縋ってしまうようでは、それが結果的に上手く行ったとしても、諸行無常。いずれは古臭いことになってしまうし、どんなにスゴイ成果を上げたとしても、300年後には風の前の塵に同じ。
 一方で、どんなに不景気だって、ホンモノの信頼関係はインフレーション。しかも、世代を超えて永久に存在していくことができる。

 だとしたら、少し損をしてしまうとしても、価値観が共有できるみんなで、ちょっとずつフロンティアラインを確実に押していき、常に大きく多角的な視点で、倫理的に正しい生き方をしていたいよね。

 だから、情熱で報われる孤独に縋っている自分から、少しでも抜け出して欲しいと願っている。

The animated guide to a Ph.D.
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ぜんぶの色が好き

2014-10-16 00:44:37 | Weblog
 緑とは何かをわかるためには、少なくとも経験として、他の色を観てみなければ決してわからない。
 青や赤を観ることが誰でもすぐに思いつくが、もしかしたら茶色もピンクも黄色も、様々な色を観てみる必要があるのかもしれない。だからといって、やたらめったら色々な色をただ見るだけでもダメだし、どのように観えるか、どうして観えるか、まできちんと観なくちゃいけないのかもしれない。

 そもそも色とは光がなくてはその色が何色かを判別することはできない。だから、ある側面からそれが何色かがわかるためには、まずはきちんと(様々な種類を含んだ)白色光をあてなくてはいけなくて、その上でコスパーのために、適材適所に励起光をあてなくてはならなくなるだろう。
 青、赤、緑、という色は、人間が勝手に区切って決めたモノだ。波長は数字で連続的に表されるし、当然、励起光と蛍光は異なる波長である。

 なのに、大抵の観察者は、自分は赤が好きだから、青こそが論理的に正しいから、緑のほうが人気があるから、と自分勝手に決めつけて光をあてる。そして、それが正しいことだと信じている。最近では、緑を知るために、黄色をあてたり、茶色がかった灰色をあてたりしていることが流行っているようだが、そんなことをしてたって、緑とは何か、わかるわけがない。
 マジで必要なのは、一人の人間が、「本当に信頼関係がある」一つのグループが、いっきに白色光をあててしまうことである。

 しかし、それをしようとすると、全員が寄ってたかって、壁を造る。何も見せないように壁を造るのだ。暗闇の中に、突然すべてを照らしてしまう光がやってくることを、恐れているのかもしれない。

 いや、それは違う!
 暗闇で雨がしとしと降っていても自分のもとに雨が振ってるかどうかはわからないが、街灯が空を照らす瞬間に真実が明るみになるのと同じで、自分が見つめている対象が雨で色褪せている真実を知るのが怖いのだ。そこにはもはや、自分色で観えるものは何も無いという真実を知るのが怖いのだ。
 だから、破境させないうちに、いっきに壁を造る。誰もここへ入れさせない。ヤツの息がかかった者を私のテリトリーに入れるな!と言わんばかりに壁をどんどん造っていき、いずれ政治力学の闇の中で死んでいくのだろう。

 あらゆる色を含む光で何色かの真実を観るのは、勇気も根気も論理もいる。実は、それができなかったのではなく、できてしまったからこその結果なのかもしれない、と最近思っている。

 ポジティブなのは良いことだが、、あまりに壁を造る世界にいても仕方ない。初心者に対して何かしらの奴隷を課し、何処に行っても別に自由だよ?と冷笑しながらも、そこにアジャストしなければ死に耐えてしまうような社会を許し続ける、そんな世界ならば、未練は何もない。

 だって、俺は、本当にぜんぶの色が平等に好きなのだから。っというか、みんなだって、ホントはそうだと信じている。

どんな色が好き
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「LINE ステージ」面白すぎ

2014-10-14 01:48:05 | Weblog
 LINEのゲームは時間の無駄以外の何ものでもない。これ以上に無駄なことを俺は知らない。
 「いや、ゆーて、これはログインするだけっす」「ただみんなにハート送るだけだから」「くつ送って、ログインして日々のプレゼントゲットするだけっす」「毎日のミッションしかやってません」。待て!そのすべての時間を、例えば全部、スペイン語のお勉強に使ったとしたら、5年後にはそれなりに話せるようになっているだろう。

 1日たったの数分というならば、その数分を価値あることに使うべきだ。
 LINEのゲームなんて、世界的にみれば、やってるのは、日本と周辺のアジア諸国くらいだろ。だいたい、LINEのゲームなんてーのは、日本社会のくだらない縮図そのものだ。毎日、顔だけ出しときゃ高得点がとれるゲームしか存在しない。それは、研究というクソ狭い社会しか知らない俺ですら分かる。
 学生の俺が見てる限り、新学術の会議や何か予算で仕組まれた会議のほとんどは、多くの人がただ顔だけ出しておけば良いと思っており、何も喋らずにパソコンかたかた。さきがけでは若手研究者がおっさん連中にイイ顔するために聞いてるフリして、端っこの席では居眠りして、エラそうにできるやつはそこでしか偉そうに喋らないで、内輪感を全力で出す。あのー、皆さんが高校生で、俺が高校の教員だったら、ガチギレしてるレベルですけど?おいおい、小学校の学芸会より酷いじゃねーか。

 そう、みんながみんな、とりあえず顔だけ出しときゃいいと思ってるような、くだらない場所にいても、本当の実力は決してつかない。それでいて、自然科学の本当の重要なところは、本音として酒がなくちゃ喋れない、むしろそれが本質だ!、とかありえないことを平気で言っちゃうような、ろくでなししかいないような集まりにいても、LINEのゲームと同じくらい、時間の無駄だよね。
 だって、本当に有用な研究会や能力をつけられる集まりは、他にもたくさんあるわけだから。

 定期的に顔だけ出しておけば高得点がとれるシステムが大好きな日本人がハマりやすいLINEのゲームってマジでダメやな。
 能力をつけないで、上のバカにとにかくペコペコすることこそが素晴らしい、と評価する我が国が凋落しないわけがない。

 が、、何事にも例外はあります!!笑
 「LINE ステージ」

 これはマジで面白いぜぇ!!!!笑
 先月リリースされたばかりの新しいゲームで、音ゲーです。(最近ぜんぜんやってないけど)音ゲー大好きな俺としては、めちゃくちゃ面白いっす。これ、全然誰もやってないけど、ぜったい流行ると思う!曲もたくさんあるし、これ無料でいいの?って感じ。(ヲイヲイ、さっきと言ってることがまるで違うぜぃ。。)

 …だって、俺、音ゲー大好きなんだもん、しょうがないじゃん。
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「ABCグループ理論」カミングスーン

2014-10-13 02:33:56 | Weblog
 ユングの分析心理学をベースに、ABCグループ理論を最初に俺(ら)が提唱したのが高2のときだから、あれから、もう10年以上経つ。
 この記事で初めて、世界のすべての人間関係を説明できるパワーをも持つABCグループ理論を知る人もいるだろうから、簡単に概要を述べよう。

 中学や高校のクラスを想い浮かべて欲しい。皆、そこにグループや群れが存在することは主張するが、優位性があることまでは、あまり口にしない。早い話が、スクールカーストを3段階にランク付けしたものであり、それが大人になってもぬぐえない価値観になっているということを言っているだけである。
 だが、これを仮定すると、世界のあらゆることから日常のあらゆることまで、一気に色々説明できてしまうのだ。(ex. アフリカがなかなか発展できないワケ、アメリカが強い理由、いじめ、年の差カップルなどなど多数)

 一番上のノリのいい集団(ギャル、ヤンキーなど)がAグループ、中間のどっちつかずな集団(ごく普通の人たち、なごみ系)がBグループ、一番ノリが悪い集団(オタク、がり勉系)がCグループである。そのグループのなかにも、それぞれに3つ、上中下という階層が存在している。
 A上は全体の5パーセント以下、理系はどんなに頑張ってもA下までしかなれない。B上~A下が、一番コスパー良い。C下は、全体の3パーセント以下。ちなみに筆者はC上に属している。

 これを俺は日常的に、『それAグループ的すぎる(笑』『そりゃCグループだからしゃーない』などと使うため、俺と行動を共にする場合や俺と一緒にいる時間が長い人は必然的にこの言葉を使うようになっていってしまう。(みなさん、ごめんなさい)

 そして、いま、この論理体系を書籍化しようとしています。どこまでマジになるかわからんし、全然進んでいませんが、とりあえず(D論書きながら)書けるところをどんどんTeXで書いていますし、1年以内くらいで、途中までの形式でここで一般公開するくらいはできるようになるかも。出版社に勤めている後輩から、できたら是非見せて欲しいと言われてますから、もしかしたらワンチャンあるかも??


 目次と簡単な概要をここに残しておきます。一応言っときますが、以下の文献に関しては、著作権は高橋慧にあります。

「ABCグループ理論」

概要
本書は、ABCグループ理論についての入門書である。本書は商業目的に書いた本ではなく、あくまで理論を説明する目的であるため、単純な面白さを目的に本を読まれたいのであれば、血液型占いなどの娯楽本を読むことをお勧めする。初学者向けに平衡論のみを詳しく述べ、時間発展系については別の機会としたい。

第1章 グループの定義
1.1 グループ分けの意義
1.2 AグループBグループCグループとは?
1.3 グループ分けの必要性
1.4 グループを感じ取る具体例

第2章 Aグループ
2.1 Aグループの特徴と価値観
2.2 Aグループの上中下

第3章 Cグループ

第4章 Bグループ

第5章 グループ間相互作用
5.1 AグループとCグループの共通点
5.2 AグループとBグループの大きな違い
5.3 BグループとCグループの本音

第6章 年齢と地位への応用

第7章 恋愛への応用
7.1 同グループである場合の恋愛の容易さ
7.2 年齢差とグループ差の等位関係
7.3 多集団多世代シミュレーション

第8章 時間発展を考慮したABCグループ理論


 こないだ、ある外国人研究者に「アフリカが発展しにくい理由とアメリカが強い理由」をABCグループ理論から説明したら、最初は怒りながらも次第に納得してくれ、最後には「なぜ君は社会科学を専攻しなかったんだ?」とまで言われました(笑)。『ごめんなさい、自然科学のほうが賢くなれるからー』しかもその人、しばらくABCグループが日本特有の文化だと勘違いしていました(まぁそれは俺の英語力不足のせいだけど笑)。
 これを使ったシミュレーション研究はいくらでも思いついているんだけど、誰か共同研究してくんないかなぁ。(そんなヤツいねーよ笑)

 ちなみに、これを聞いて、怒る人や、グループの存在を頑なに否定して「そんなのダメでしょ。みんな平等だろ」とか言うヤツの偽善者率は半端無いです。自分のズルさが言語化されるのは、そりゃ怖いだろうけど、むしろ今の現状をきちんと言語化したほうが、いじめや紛争は減ります。
 これを聞いてイラつく人は、だいたいC上かA下なんですが、C上はCグループ内だけしか見ずにCグループの中だけでのさばっていることを指摘されるのが厭らしく、A下はAグループに所属しながらコスパー良く自分の主張を全体に通していくズルさを指摘されるのが厭なようです。

 むしろ、俺はみんながもっと平等になるように、いじめがなくなるように、と思って、この言語化をしているので、許してね。笑

 っというわけで、「ABCグループ理論」カミングスーン。
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スターラブレイション

2014-10-12 03:58:51 | Weblog
 新しいことを目指して進捗していけば、トライ&エラーを繰り返すのだから、指数関数的にやるべきこととやるための時間は増していく。それが繰り返しの再現性を求められる自然科学であれば、なおさらだ。
 次はrtじゃなくて40℃くらいでやってみようか?、バッファーだけをこのタイミングで入れてみようか?、今度からはスライドガラスは○○研のプロトコルで洗ったヤツで!、など作業ばかりが増えていくのだ。

 だからこそ、あらゆる不必要な作業とルール、無駄な習慣とおまじないを、論理と勇気で捨てていくことが重要になる。そうでなければ、時間が無限に無ければ、新しい発見は得られないだろう。何が本当はいらない作業なのかを見極め、迷う心を舞い散らして強く強く駆け抜けてくことは殆ど神業に近いのだが、実験研究に限らず、あらゆる場面で日常においても本質を抽出するときに要求される。

 誰も、それでなんとなく上手くいっちゃってることを改善しようとは思わない。とにかく無難に数を稼いだり、負けない方針に従順になってワーカーホリックになっていれば成り立つからだ。
 だが少なくとも理系の態度として、それで本当に良いのだろうか?確かにそういう人も必要かもしれないが、自分自身に研究の最高峰を課すのであれば、それではいけないはずだ。たとえ不器用でも、いかにして論理を使って作業をサボり、その分だけ進捗していくか、を真剣に考えなくっちゃね。
 ほんの少しでも良い。どんなに小さなことでも構わないから、一回一回の実験操作に対して、あらゆる面での改善を試みるべきであり、絶対に同じ実験を繰り返していてはいけない!

 論理性を使って無駄を省いていけば、それを無駄かどうかなんていっさい考えもしない(単なる)信者から、誤解されるだろう。抜け駆けか、権威への反抗か、基本も知らないのか?、と、くだらない政治力学の闘争にまきこまれるだろう。しかし、かつて描いた理想の自分になるために本気であるなら、どうでもいい人間関係は適度に無視し、想いに対して真っ直ぐでなくてはならない。

 大丈夫を口癖にすることで自分に麻酔をかけたりして、このような弱さをきちんと超えてく笑顔こそが、次世代に新しいものを供給することができる。泣いたり笑ったりわめいたりしながらも、ココロをちゃんと保っていく。
 その先に確実にある空は最高に美しいのだから。

 「この先もそうやって強がり言って同じように生きてくの?」
 当然。そうでなければ、いくつかの意味でホンモノを掴めないのだから。

スターラブレイション/ケラケラ(Cover by Goose house)
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対応のワナ

2014-10-10 02:09:05 | Weblog
 その場凌ぎをするためにお仕着せの制度の中で誠心誠意に「対応」し続けることを繰り返していては、いつかは凋落してしまうだろう。

 研究者や理系がまず一番に考究すべきなのは、制度をいかにするか、環境をどうセッティングするか、である。それをただ単純に、上からの制度や文系が提示するルールに対して「反応」しているだけでは、何も実現できない。何かを「書ける」ことしか考えられないくせに、理系は研究内容に専念すべし、と、旧態依然派にとっての都合のいい言葉で、また無難に「対応」を繰り返すことこそが生き残る道だと勘違いしている。そのような生き残り方では、生きる意味は塵一つだってありゃしない。

 いつだって今からしか始まらない。いつかてっぺんに立った時のために、もっと良い状況になった時のために、今は我慢、という発想は捨てるべきだ。
 そんなんだから本末転倒になるんだぜ?本質を知るための副産物として始めたはずの資格試験への学習が、いつの間にか表面的に資格そのものをとることに終始してしまったりするのだ。

 どうせ本末転倒になるなら、それが起こることを前提にしてしまい、どうやってせめてもの利潤を出していくかを考えるべきだ。どうせ倒れることは決まっているのなら、せめて面白くしてしまったほうが良いんじゃないかと思うのだ。
 そんなフェイルセーフを偽悪的に用意しておくことこそが、俺の必勝パターンで、楽しく能力を得ていく術なのかもしれない。

 まぁ、本末転倒になってしまった、という気持ちさえあれば、まだ希望は持てる。だって少なくとも、本質はそれじゃないことには気がついているわけだから。
 本当に問題なのは、それを恐れて、目先の利益にとってのコスパーの良いことにしか対応しなくなったり、それもすべて失くして、何にもチャレンジしなくなることが習慣化してしまうことのほう。

 間違っても良い。とにかく、全力で自分を出すカッコ悪さこそが、カッコイイのだから、、自分をほんの少しでも出してみたらどうだろう?

東京03 万引きの謝罪
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