たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

この日々は無駄じゃない

2013-09-30 03:16:57 | Weblog
 何かの目的を持って集団化することは、そこに属さない他人達への御為ごかしをすることである、と思ってしまうほど乱れているこの世界で、我々は生活をしていかなきゃいけない。
 必要無いモノを無理矢理売りつけたり、それまでの権威で弱い者から搾取したり、震災や難病に託けてグラントをとることが横行していたりして、しっかりと心開いて本音を言うことは悪であり無能なことであり、本来は価値が無いモノに大義名分をつけて誤魔化すことで生き残ろうとする手段が、まるで素晴らしい戦略であるかのように若者へと教育されている。

 だから、ただ実質的な上昇志向だけがあることが、イコール夢があることだと勘違いしている若い人も多い。
 なんと悲しい世界であろうか。真っ直ぐ、本当に必要なことを追究して、楽しめるように、正直者がバカをみないように、ホンモノの気持ちを持って集団化するためには、孤独の時間がどうしたって長くなってしまうのかもしれない。

 この世界であれば、(実質的に)負けていることは(精神的に)勝っていることと同値である、と言っても過言ではない。まぁ確かに、この現状であれば、齷齪言われたことだけをただ毎日こなして過ごしたり、残業代もつかずに深夜まで仕事をすることで、何かの言葉を得たり、くだらないプライドを維持しているよりは、ひきこもりになったり、不満を抱いて何もかもがイヤになってしまって、実質的には何も得られないことのほうが、(生命として)正常(な反応)であると俺も思う。
 でも、そこに対して、もう少しだけでも、真っ直ぐ楽しんで、頑張ってみようよ。待っていれば、味方は必ず現れるし、幸せと痛みは絡まって現れるものなんだし。

 絶対に状況は一変する。だんだん変わるのではなく、相転移するかのように、より良くなる。
 一人きり悩んで泣いているこの日々は無駄じゃない。無駄にならないように、俺らで、なんとかしてみせなきゃね。

 今望んでいる最高の予想が、未来には待っている。だから…。

 Fayray - look into my eyes
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Serendipitously-detected Theory

2013-09-28 01:48:15 | Weblog
 あることを目指して一生懸命動いていたけど、その過程で当初の目標とは別の楽しい価値観を見出す能力をセレンディピティと言う。
 研究の世界でよく用いられる言葉で、過去の素晴らしい研究者たちがセレンディピティを発揮してくれたおかげで、今日さまざまな進捗がなされていると言っても過言ではない。

 例えば、日常用品では電子レンジの発明やマジックテープの発明なんかもそうだし、いくつかの有名な薬の開発、最近のだと田中耕一先生の高分子質量分析なんかもそうだったよね。
 みんな、偶然転がっていたチャンスをきちんと業績にして、かなり大きな研究成果を残している。

 こういうことがあるから研究は楽しいわけだけど、逆に、こういう研究成果を狙った実験系や理論モデルを最初から組むことには、俺は反対する。
 多要素で時間発展させれば何かしら起こるだろう、非線形項を追加しておけばそれらしい振る舞いが確認できるだろう、機能性を沢山もった分子を使えば面白い動画が取れるだろう、これらは目標も無い、無計画な進捗のさせ方で、結局は誰かが傷つく可能性が高い。

 実験をしている中で予想外の面白い結果が出てくることは、普通に研究していれば、よくあることだ。そこに対して、きちんと解析ができるかどうか、見過ごさずに、結果を詰めることができるかどうかが、セレンディピティを発揮できるかどうかだ。

 だから、あらゆる方面に興味を持ちながら、(理系に限らず)色々な人に実験データを見せながら、ディスカッションをさせてもらいながらも、でも、基本的には、明確な論理や価値観や哲学を持ってして、予測としての目標達成を意識して進捗させ続けなければ、ありきたりの当たり前の結果にも、偶然の素晴らしい結果にも、結びつかない。
 偶然の素晴らしい結果に気がつける能力であるセレンディピティを発揮するためには、多角的に物事を捉え、楽しい気持ちを忘れずに、基礎である各学問の教科書をきちんとマスターし、優しさを発現していくことが大切。

 そっ、自然科学に限らず、セレンディピティを発揮させれば、思いがけず見抜いた理論として、あらゆる問題が解ける。
 直面している、一番解きたい問題を解決させるためには、セレンディピティを発揮させることこそが大切だと、俺は想っている。

 自然現象としての偶然を待ちわびるのではなく、あらゆる方面に自分の領域を展開させていき、「積極的に待つ」ことでチャンスを絶対に逃さないスタイルこそが、この問題を解決させるのだ。
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価値ある言葉で

2013-09-27 01:20:01 | Weblog
 誰かに言わされているだけの言葉で何かを伝えようなんて、そもそも間違い。
 そんなことにも気がつかないなんて、、最近やっぱり、自分の課題ばかり見つかる。どうしたら良いか?、の答えだって、なかなか出せないし。

 幼い論理性と一緒に、それらしい言葉を並べていくだけで、誰か一人でも満足するような小さなスケールの世界なら、話は簡単だ。それだけじゃ、事実に基づいた正しい論理や伝えるべき気持ちが伝わらない可能性は高いけど、何も考えずにその人が好きなそれらしい言葉だけを冷徹に選ぶだけで、たった一つの真実を無視することで、一人だけでも満足するなら、他のことに比べれば、まだマシ。

 上手く伝わらなくて、どうしたって、すれ違うばかりで、どうすればいいかって、ずっと考え続けているけど、深いため息の奥底に眠る実質的な問題は、誰にも気がつかれずに息をひそめている。

 完璧主義で、理想を追いすぎ?いやいや、普通に達成できるようなことすら、何かの気持ちのゆらぎのせーで上手く行かないんだから、そんな高級な話じゃない。
 もっと単純に、短絡的に、ワンステップ以下の思考で、想いつくようなことが、できない。

 どうにもできないから、即物的な誰かのつまらないジョークに笑みを浮かべてみたりして、俺ってこんな状態でも、これくらいは表情を創れるんだ、って確認して遊んだりして。優しくされたり優しくしたりで、本当の意味で自然とこぼれる笑みなんて、久しく感じとれていないかも。

 はっきりと伝えるべきことがわかっている、コンピュータのように1と0だけで記述できるようなことだけは、(お互いに)伝えることができているのに。
 それすらできなくなる日が来るその前に、なんとか普通に笑いあえるように戻れたらイイなぁ。そのためには、それらしい言葉を自分の心に飲み込んだりするんじゃなくて、心から自然に出た言葉を伝えていけばイイのかもね(それが何よりも難しいんだけど)。

 もし本当は、気持ちと気持ちはきちんと通じ合っていて、なのに、実的に離れてしまうことが運命なら、こんなに悲しいことは無い。そういえば、あの日の物理的偶然から、ひとつずつ、こわれゆくことになってしまっている気もする。

 こわれゆく中央に気持ちだけはいまだに存在することを願って、物理現象である「運命」は生命現象である「意志」で変えることができるはず、っと想いながら、実験と解析を繰り返していたりする。

スガシカオ Happy Birthday
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正論の責任

2013-09-26 01:28:29 | Weblog
 正しいことは他人を傷つける可能性が高い。
 だから何も意見を言わない、何も言わずに寄り添っていく、って手段を取る人が多いけど、そんな風であっては寂しいよね。俺は、正論と相手の感情、これら2つの事象について、感情側にちょっとだけ重みづけしながら平衡点を探し、より良き方向に持っていくというのが、今のところ、ベストな関係性の詰め方だと想っている。

 とすると、俺は、基本的な価値観として、どうにか少しでも自らの力でより良き状態に変えていこう、っと願っている気持ちを宿している他人じゃなければ、原理的に合わないし、わかりあえない。
 何かダメな事実があっても、何か自分のせいで(顔も見えない)他人に迷惑をかけ続けているんだとしても、いつまでも「事情があるから」とイイワケをして、「誰かが変えてくれる」「物理現象として運命が変えてくれる」と他人任せな気持ちを抱くことに「願い」という純粋な言葉を使わないで。

 時に、俺は、事実や正論を言いすぎてしまうことも確かにあって、反省することもある。それは日常生活でもそうだし、このページでもそうかもしれない(そう思っても一度あげた記事は消していない)。
 ただ、その事実が露呈してしまったことに対して、発言者である俺や、もっと弱い誰かに、怒りをぶつけるのは、筋違いもイイとこだ(それによって俺が反省すべきことは、俺が一人心の底で、反省すればいい話である)。俺が言わなくても、誰かが言わなくても、事実は事実として冷酷に存在し続けるし、その不利益のせいで、どれだけの人間が泣いているか。

 例えば(というと最近いつもこの話題だけど(笑))、研究しているフリが上手い、多くの研究者は、もっともっと反省して欲しい。総量として、『意味あるんですか?』と言い足りないくらいだ。
 その、くだらない現状維持をするために、どれだけの予算が使われていて、そこで大したことない内容だからって文系から予算は削られ、本質的な後輩育成が全然できなくて、どれだけ顔も見えない、理系を志す、本当に意欲のある大学受験生が、その道を諦め、泣いているか。みんな、現場をきちんと観ていないから、いけないのかな?

 一般入試、推薦入試、AO入試は、すべて、杜撰な評価基準だ。理系のなかで、そのテキトーな評価基準を偶然クリアしてしまった我々は、きちんと必要な研究をする義務がある。

 (定期or入学)試験前に沢山暗記することができた、上の人の言うことをきいて指示通りに動くことができた、ということだけしかできていない俺らの、くだらないプライドを守るために、存在を肯定するために、(世界中に)何千万人の他人が泣いているかを、もっともっと真剣に考えて欲しい。

 確かに、こういう正論は、他人を傷つける。でも、毎日、知を得ることができうる、知を開拓することができうるわけで、それ以上のベネフィットを俺らは得ている。
 だとしたら、事実を露呈された時に、矛先を発言者側に向けるのではなく、少なくとも現状よりも、より意義のある研究をしようとすべきで、自然現象に対して、怒りをぶつけていくべきなんじゃないかな。本当に深く内容について考究していかなきゃいけなくて、誤魔化し方を共通認識として持とうとなんてしてる場合じゃない。

 正論に対して、経験の長さで覆そうとする愚か者も多い。
 中学生の頃の俺と、まったくカワラナイ正論で返せてしまう、その最終手段は、弱さと負けの宣言になってしまう。

 「私は何十年もこの仕事をしてきたのだから、私が正しいんだ!」
 『目の前にいる生徒のことを考えられないで、ご自分のプライドを押し付けることが正しいわけがないじゃないですか。あなたの何十年というのが、それっぽっちの何十年だったんですね。』

 今度は逆に俺が、下の世代からそういう風に言われないように、少しずつでも、ここからの状況を、どうにか打破していかなきゃなぁ。
 正論の責任は、発言者に与えられると勘違いしている集団の空気が多いけど、人体への放射能の影響を主張した専門家にその責任が無いのと同様に、事実として当事者に降りかかるのだから。
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ありがとう

2013-09-24 02:36:03 | Weblog
 拙くても、手を取り合って達成することにこそ、価値がある。
 確かに何かをすぐに達成したいなら能力がある人同士で組んだ方が良いし、誰か絶対的なリーダーがいて、その人にすべて従うようなスタイルの方が、実質的には上手く行く。だけど、それじゃぁ何にも面白くない。
 でこぼこなまま、一緒に積み上げていくからこそホンモノになるし、心から楽しめるようになる。

 心から楽しむ、ってことは、実質的に良いことばかりじゃない。ケンカすることもあるだろうし、泣きそうになって強がり合うこともあるだろう。最初から能力がある人たちのチームが羨ましくなることもあるし、それが泣き空の発端となってしまうこともある。
 でも、いつまでも一緒に笑っていたいことを望むのなら、どんな困難だって晴れわたって行かせられるように、仕向けなきゃね。

 誰よりも優しいその手で創りあげたのに、こぼれてしまったひかりを、大事に集め始める。
 そして、ありふれていることだって、どんどん輝きだしてく。それは懐かしさの中から引き出されているのではなく、信頼関係が深くなっていくにつれて、関係性の構造が精緻になっていき、心と心の繋がりの中に宿っている普遍的なモノが現実に発現されるということだ。俺は、そうであること、そうなっていくことを、期待してやまない。

 喜びも、悲しみも、分かち合えうるなら、その関係性を信じ続けてみなきゃね。能力が無さすぎて解析することが難しい不器用な伝え方であっても、絶対的な慧眼さを持ってすれば、器用へと変換されるはず。
 そして、大切な瞬間に、ターニングポイントに、ありがとう、って素直に言い合えたら、これ以上に楽しいこと、これ以上に価値のあることは、ないよね。実質面だけにこだわらず、信頼関係を主軸にして考えるからこそ得られる尊さ。

 信じたこの道を、確かめていくように、ゆっくりと、ゆっくりと、歩き出そう。

Chris Hart 「ありがとう」 原曲いきものがかり


 (この曲に関しては、説明をしたいので、少しだけ説明します。
 もともと、いきものがかりが2010年に発表した「ありがとう」。これを2013年、米国サンフランシスコ出身の歌手であるChris Hartさんがリメイクしました。いきものがかりのリーダーである水野良樹さんが作詞作曲で、原曲はもちろんボーカルの吉岡聖恵さんが歌ってるわけですが、俺はどうしてもこの曲は男性側の気持ちの歌詞とメロな気がします。特に、「繋がれた『右手』」っと表現しているところが、男っぽいなーって思うんです。
 原曲も大好きなんだけど、そんな理由もあって、男性歌手で、しかも大和魂がしっかり宿っているChris Hartさんが歌うと、とてもしっくりきて、もっともっと曲が引き立っている感じがしました。っで、今回はこっちのバージョンを紹介してみました。)
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誤魔化しの世界で

2013-09-23 03:21:18 | Weblog
 孤独の時間が長いと、何かが成功しないことや上手く行かないことが慣れてくる。
 何かのチャンスを掴みかけたり、何かの成果を出しかけたり、信頼関係が育めそうだったりして、少しだけ期待していて、直前で理不尽な物理現象として破綻したり、最低な誰かによって踏みにじられたりすると、残念だなって想う気持ちよりも、やっぱり(自分は成功なんてしないんだ)なって思う気持ちのほーが強く発現される。

 失敗することに慣れてきてしまって、たまに成功しそうだと、逆にどんな風に表情を創ったらイイのか、とても不安で。案の定、失敗してしまえば、やっぱり、って思って、感情を注ぎこまないことが得意になってきてしまって。

 あれから、あなたの2倍以上、何度も何度も、この状態としての結果になっていることの哲学的な意味を見出そうとしたりして、実際に、あの時はああなって良かったんだって思っている自分が、少しだけ怖い。そんなわけないのに。
 (少なくとも俺にとっては)悪い結末になっているのにも拘らず、良かった、って心から想ってしまう、その原因は、そんなにも負けたくないから?、掴んだ先に待っている問題を乗り越える勇気が無いから??

 これから、状況を打破できるのだろうか?それとも、何かで納得する機会は訪れるのか?それすらもないのかな?
 ただ一つだけ言えるのは、あの頃から今に至るまで俺がずっと思い描いてきた輝かしい理想は、そこに存在している誰もが諦めきってしまっているということ。
 研究一つとってみても、研究をしていると名乗っている、みんながみんな、自然現象を冒涜し、誤魔化し方を教授し学び、それを平然と扱い、平然と発表し、ただ無意味な実験操作と完備性のない理論の構築を繰り返している。スゴイ!っと心から思える研究内容は、100聞いて1くらいしかないし、ダメな99のうち50は大義名分すらままならない、研究を行っている(と勘違いしている)者が今のまま存在するためだけにただ行っている、どうでもイイ内容。そして、それに対して、何も内容を考えようとすらしないヤツらが予算を決定する。

 そんな中で、少しでも、っと、より良い方向へ無理矢理動かしてみても、失敗することのほうが多くて。。そして失敗してしまえば、俺自身、初めからそんなにみんなに期待していないから大丈夫、っと上手く行かないことに心から納得し始める。

 俺は、心の奥底で、仲間こそが切り札だと想っているし、信頼関係と気持ちだけが大事って想っている。だけど、頭脳では、うわべだけのみんなの振る舞いに対して、誰一人信用するな、っという冷徹な計算結果が、常に出力されている。
 その頭での解析結果を無視し続けてきて、確率は半々くらいだけど、ダメになったその時に、誤解が解けている人に対しても、でも争ったときの言葉は消えないから!、って冷酷に思ってしまったりする。

 唯一の救いは、俺の気持ちはどうなってしまっても、実空間上での身体そのものは動く、ってことだ。
 俺の気持ちはどうであれ、俺の身体は動くし、正しいことも考えられるしそれが言えるし、一つひとつ(気持ちの極表面的な振る舞いを示す)感情を働かせることができる。

 カラ元気も元気のうち。
 誰の助けも要らないし、そんなことされてもムカつくだけで、たぶん無意味。だってどーせ、心配する感情を、怒りや嫉妬や勝ち誇りたい感情で隠しながら…、でしょ??その程度の能力しかないんだったら、おこがましいよ。

 大丈夫。そのうち自発的に心から、理想に近づけなきゃいけない、それこそが一番解きたい置いてきてしまった課題に取り組む姿勢を教えてくれる、って想えるようになるさ。
 っというよりも、もう想っている。どうやって感情に持っていって、どうやって行動に発現させればイイか、忘れそうなだけ。
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虚しいメリット

2013-09-21 03:26:16 | Weblog
 前から言ってることだけど、自分から行動を起こすことの唯一の実質的なメリットは、いつでも好きな時に自分からやめられるというところにある。

 どんなことでも、自分から何かを発して行動をすることにはリスクが伴うし、それをすることそのものが負け、みたいな風潮すら存在している。

 ゼミでも学会でも、手を挙げて質問をすることは、それが相手の自尊心を傷つける意味でのオフェンスになっていない限り、負け、であるかのような価値観を持つ研究者は多い。論理の穴を疑問とすり替えて質問し、問題点を指摘して満足げな表情を浮かべている意味の無いディスカッションが横行しているのだ。良識ある理論家や技術屋は、問題点を指摘し、ほんの少しでも解決策を自らで発言するようなスタイルをとる。
 ここまでのことは(本当の意味で素晴らしい研究者でない限り)なかなかできないし、大抵の人は優しいわけで、だから、誰も何も質問をしない。そうすることによって、自分が発表の時にも質問しないでね、っと暗に伝えて、時間の浪費としてのゼミや研究会を行い、この誤魔化しをそのまま論文にして、業績にする。ホント、虚偽、偽りを正当化することで、何かを誤魔化すことを考え続けなきゃいけないような研究の世界の一部分は、実にくだらない。自然現象そのものは尊いのに、自然科学として扱っている集団の体系がくだらないのだ。

 ただ、それでも、やっぱり、自分から行動を起こして、挙手するようなスタイルをとるメリットは確かに存在している。
 だって、自らの気持ちに正直になり続け、イヤになったら手を引いてしまえばイイという自由が、自らが発端となって行動している限り、保証されるのだ。しかも、上手く行けば、金儲けにすらなる。
 誰の指図も受けず、知りたくなくなるまで自然科学を探求することもできるし、やめたいところでやめても、一度やめて、またはじめからやり直しても、自分の責任として本質的には誰の迷惑もかけない。

 そう、俺から行動を起こしているくせに、俺から誘っているくせに、アプローチをかけてたくせに、俺が手を挙げて訊いてるくせに、俺がやりたい!ってもともと言ったくせに、途中で突っぱねるなんてヒドイ、なんて想う権利は無いんだぜ?、行動を起こす能力が無いのなら余計にね。

 っま、俺の場合、たいていのことは、嫌いになって、めんどくさくなったから、途中でやめます!、なんてことでは決してないんだけど。熱しやすく冷めにくいから。前者は月のオーダー、後者は年のオーダーで。
 じゃあ、なんで?って言われても、こんなところで書きません。笑

 誰かが、どっちかが、始めなければ、いつまでも始まらない。始めることにはリスクが多いようにとられがちだけど、実はそのリスクと対等なベネフィットが存在する。
 最初に始めた人には、いつでもやめてイイ権利と、成功した時に集団の中で一番嬉しい想いをできる特権が準備されているのだ。

 この虚しすぎる、くだらないメリットは、根源的に一人になっちゃっても平気な俺には最適なのだ。
 っと、そう自分に言い聞かせ続けている。何かの偶然で、自分が自発的に動き出す必然性を見つけられることを期待して。それこそが……?!

 なんちって。
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その優しさに一番の自信を持って

2013-09-18 23:42:29 | Weblog
 何かをすぐに達成したいだけなら、先人や経験者に言われたことだけをこなし、信念など持たないほうが良い。
 それまでの履歴によって無駄に知識や価値観があるほうが、そこで成り立っている体系に合わせずらいし、何よりもそれまでの履歴なんて役に立たないことが多い。だから、とにかく成果だけをあげたいのなら、同じ場所で言われたことだけをただひたすら繰り返しているほうがコスパーが良い。

 しかし、そのやり方で得られた能力は、誰かを実質的に助ける上では、何の役にも立たない。過去に自分が助けられたように助けることすらできず、ましてや自分が経験してもいないような不幸を取り払うことなんてできやしない。
 信念を持たないように努力し、言われたことを繰り返し行うだけの日々を耐える能力なんかで他人を実質的には助けられない。その能力を持ってして、かけてあげられる言葉は「こういう風にして我慢すれば良いんじゃない?」しかない。

 どんなことでもそうだけど、自分が知識として知っていることしか対応できないようにはなりたくない。
 最低限の知識と(それすらも少し質問すれば解決してしまうほどの)思考力さえあれば、あらゆる分野の専門家と対等に開拓していくことが原理的に可能なはずだ。
 思考力がある一定レベル以上になれば、知らないことを知らない!、っということに何ら恥ずかしさを感じなくなる。だって、そんなこと以上に、自分の思考力に自信を持っているから。

 生半可な思考力で紆余曲折しながら得られた能力こそがホンモノの思考力になる。それを持ってすれば、自分が経験した助けられ方だけでなく、その場で考えて解に行きつくスタイルとして、どんなことでも実質的に助けられるようになるはず。
 これこそが、俺が本当の意味で得たい能力だ。

 ただ、忘れてはいけないのは、本当のホントは、能力なんてどうでもイイって想っている、ってことだ。
 実質的に助けることはできなくても、精神的に助けることはできることも多い。優しい気持ちを胸に秘めていれば、ただそこに存在してくれていることだけで救われた気持ちになったりするし、ただ一緒に話をするだけで助けられるし、、実質的に助けようと孤軍奮闘しているのを「もう十分。そこまでで大丈夫だよ」って止めに来てくれることで心に沁みることもある。

 そう想ってみると、実質的な能力なんてつけなくても、精神的な部分だけで、十二分に、誰かを助けられる気もする。
 その場に存在するってだけで誰かに迷惑をかけているという理屈と同様に、そこに存在しているってだけで誰かしらを助けているのだ。それにプラスして、優しさを持っているのなら、それは何よりも尊い。

 まぁ、だからって、より良くするために本当の能力(≒ホンモノの思考力)をつけることをやめないけどね。だって、精神的な部分だけで十分でしょ?って開き直るのだったら、かっこ悪いし、男らしくないしね。

 でも、一般に、実質的な手助けができないからって、必要以上に自信を喪失することは無いのだと想う。
 あなたは、そこに存在しているだけで、誰かを助けている。だから、真面目に経験者の言うことを訊くことなんかに自信を持たず、どうか、その優しさに一番の自信を持って。
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意味の無いモノなど存在しない

2013-09-17 02:19:07 | Weblog
 ホンモノを追っていく、という理想は、かなり難しい。
 どうしたって言葉に騙されちゃうし、自分の気持ちにすら虚偽が発生していたりする。

 たとえば、誰かと比べたりして何かの言葉を得られなくて悔しい、なんて、本質的には間違っているはずなのだ。
 何かの能力が足りなくて悔しい、とか、何かの気持ちの継続性が誰かよりも劣っていて悔しい、なら、話はわかるが、何かの言葉が得られていないから悔しい、だなんてニセモノもイイとこ。

 俺が好きなモノって、何かの言葉を得ようと(だけ)してしまったら、全くと言ってイイほど意味の無い結末になってしまうことが多い。
 知りたい!という気持ちが無くなるまで研究すればイイし、書きたい!という気持ちが無くなるまで書けばイイし、演奏したい!と思わなくなるまで弾き続ければ歌い続ければイイ。それなのに、何かの肩書きを欲しがってしまうようだったら、コスパー悪すぎて、バカバカしくて、こんな分野やってられない。

 逆に言えば、できなかったときに悔しい!、っと思えるのなら辞めちゃダメだし、必ず能力向上へと加速していける。それさえあれば良いけれど、それがないのなら、さっさと他の楽しいことを見つけたほーがマシだよね。

 っと、ここまでが一体系における議論。

 だけど、俺が好きなモノって、一人じゃできないことが多い。ホンモノを追っていくことは難しいけど、みんなで追っていけるなら、それ自体は容易なのだ。
 どんなスタイルに立っていても、、そっ、たとえ政治こそが自然科学を研究する上で一番大切なことなのだっというようなバカげた考え方を持っている者でも、確かな一つの目的に一緒に向かっているのであれば、必要であり、楽しむべき仲間なのだ。

 コントラバスからピッコロまでをたった一台の楽器で扱える「ピアノ」は、通常88鍵盤であるが、ベーゼンドルファーの290Imperialモデルは97鍵盤準備されている。このピアノが9鍵拡張されている意義は、それらの重低音域が鍵盤として扱えるということ以上に、通常準備されている鍵盤を弾くことによって、あまり使われる機会のない追加された弦が共振されることで、より幅の広い音色になるというところにある。重低音域は、(少なくとも俺の耳では)普通の音階としては連続的に聞こえないが、だからといって音楽として必要が無いわけではないのだ。

 これと同様に、まったくの意味の無いものなど存在しないし、その対象が人ならば尚更だ。

 扱っている事象は生命現象でも、物理の素養や化学の知識、社会科や古典などの文系科目を学んでいるからこそ、同じモノを観ても、同じことを発言しても、深みが出てくる。
 それと同様に、あらゆるスタイルの人がいるからこそ、楽しいモノづくりになるし、そこに深みが生まれてくる。

 本当のホントのところの気持ちを言えば、意味の無いモノなど存在しないと、頭ではっきり理解し、心で確かに納得している。ニセモノに観える、意味無く感じられるモノだって、ホンモノのなかに包括されるのだ。
 それらが、正しい気持ちの方向性を示している限り。

 っま、こういうこと言うと、あまり物事を考えないヤツが、喜んで時間やお金を無駄遣いするから、あんまり言わないほうがイイかもしれないけどね(笑)。
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理想に引き寄せられた現実

2013-09-15 03:48:55 | Weblog
 理想と現実は違うものだ。まずそれを飲み込まなきゃ、本質的に何も楽しくならない。
 でも、そこからいかにしてそれらを統一化していくかが大事で、理想と現実は違うんだ!、っといつまでも頭の中でそれらを乖離させ続け、この言葉を繰り返し唱えているだけじゃ、何も意味が無いし楽しくない。

 理論と実験。自然科学については、理想と現実をこう言い換えることができるが、俺はどちらか一方の立場をとる気は無い。

 理論は、ある程度の定式化がなされているモノ、つまり教科書として売られているモノについては、かなり信憑性が高く、高級な理詰めを習得することができる。しかし、ある特異的な現象だけを説明し、それ以前の信憑性が高い理論との一致性を一切考えていないモノも(特に俺が扱う分野では)多いので、その点で理論だけでは不満度が高い。(どこかで一度書くべきかもしれないけど、俺は、現在のところ、物理学のかなり堅い分野の理論(具体的には素粒子・原子核・宇宙・平衡状態やそれにかなり近い非平衡状態における物性等の理論)しか理論として認めていない。)
 実験は、現象そのものを純粋に観察できるという点で、出てきた結果はすべて正解なわけだから、理論よりも一歩有利な立場にいる。しかし、実験系の確立などと称して、理学的にも工学的にもまったく意味の無いヤラセをしながら、ただの大義名分だけを拠り所に実験研究を行っていることが(特に俺が扱う分野では)多いので、その点で実験だけでは満足できない。

 実験系に所属しているから忘れがちになるが、理学を志す限り、理論は主軸となる。
 既存の理論から条件不足なモノや実験結果と不一致なモノを見出し、それらについて新たなモデルを考究したり、新たな実験を行い、新しい理論を創ろうとすることが、理学研究の主な仕事であると思う。
 ということは、既存の理論について、深く知らなければならないのだ。

 この視点に立ってみれば明らかなように、熱力学や平衡系の統計力学で要請している項目や結論をよく知らずして、非平衡系を研究しようなどと考えるのは愚かな行為であり、生命現象を研究するならばもっとだ。既存の理屈からの不一致や条件不足を埋めるために、モデルを立てなきゃいけないし、実験をしなきゃね。
 完璧な理屈を構築するに至るまでに、様々な技術や別の知見が必要で、そのなかには化学もあるし、蛍光タンパク質やPCRなどの技術、自然に存在する地学的な環境を知ることだって、その一部。これらはただの道具に過ぎない。

 我々が理学の研究としてすべきことは、信憑性が高い物理学の理論の欠点を埋めること、それだけなのだ。
 これは、それぞれの考え方があるから、っというような論理には落としこめない類いのもので、理学系の研究をしている限り、絶対に逃れられないことだと思う。

 ただ、理想と現実は違う(笑)。
 実際には、自分のテーマがここに集約されていくアテもなく、理想はこうなのだけど、っと不満になっているかもしれない。もしかしたら、そんなことすら頭に無くて、環境的にただなんとなく大学に残ってしまって、自分の存在を維持させるために、分野を衣に纏い、それで防御した気になって、そこに存在し続けているだけなのかもしれない。理想と現実は、あなたが思っているよりも、遥かに近いんだけどなぁ。

 理論と実験は歩み寄らなきゃいけないし、理想と現実も歩み寄らないといけない。
 「理」と「実」の一致のさせ方における自然科学と日常生活の決定的な違いは、理論は実験結果という絶対的な事実に確実に合わせていかねばならないが、理想は現実に合わせる必要は本質的には一切なく、意志を持って無理矢理にでも理想に現実を近づけていこうとしなければならない点にある。っそ、これこそが物理現象と生命現象のanomalyであるのだ。
 だから、せめて俺の前では、現実を見過ぎて、あなたの素晴らしい理想を現実に即したカタチに変えたりしないで。

 子どもの頃から夢みている、純粋過ぎて直視できないほどの理想は、物理現象としては絶対に実現しえないが、俺らなら絶対に実現することができる。
 そのパートナーや仲間を、守ったり、助け出すためなら、どんなことでもできてしまうところが、生命現象の尊さなのだと思う。

 自らの理想だけでなく相手の理想をも主軸に、現実をその理想に引きずっていくだけのパワーを発揮しようとしたときだけ、お互いに心からの笑顔で溢れるし、繰り返しの生活は一変し、日々、楽しくて仕方なくなるのだと思う。

 どんなことが起きても、俺は、この理想を捨てる気はない。
 理想に引き寄せられた現実、さらには実験結果に即した理論は、いつからでも構築し始められると信じている。
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誤解が解けても言葉は残る

2013-09-10 00:39:38 | Weblog
 すれ違いは、相手との信頼関係を深めるチャンスだ。
 普通の関係性をきちんと保っていれば必ず変換点が来るし、そのなかのどこかで相手を信用しきれない瞬間が生じて、お互いにお互いのことが信じられなくなる。そこから、いかなる誤解であっても、気持ちが物理現象に負けることは絶対無いし、ちゃんと気持ちと気持ちが繋がっているなら、必ず元通り以上に戻る。

 だから、すれ違っているとき、つまり本気でムカついて信用できなくなりそうなときは、想いをきちんとぶつけたほうがいい。
 恐れずに、心からの言葉だけを心と同じ速度で伝える方が、元に戻った時に信頼関係は元通り以上になるのだ。相手からだってそれくらいの反撃はやってくるけど真摯に受け止めて、感情がまた動いたならまた想いをぶつけ返す。

 これが乗り越えられないなら、それは、最初っからホンモノじゃ無かったってことで、そんな関係はさっさか切った方がコスパーがイイ。
 俺は、そういう風にして今まで過ごしてきたし、これまでの関係性について、自分だけで選んでおらず、相手にも対等に選んでもらうことをしているからこそ、自信がある。

 だけど、俺が忘れがちなリスクがあって、それは、誤解が解けて関係性が戻った後であっても、トゲのある言葉や傷つけあった言葉は、心に残ってしまうということだ。
 誤解だったけど、もし本当にあんな状況になったらこういう風に対応してくるんだ、ってところが心に効いてしまえば、それは、戻ったことすらどちらか側だけの幻想なのかもしれない。

 どんなに即物的でくだらないことであっても、どんなに猫パンチのつもりであっても、どんなに精神的にどうしようもない状態で仕方なかったんだとしても、傷ついたであろうこっちの表情をこっそり確認しているイジワルな笑顔をこっそり確認して愛しさを感じたとしても、言葉そのものは刺さったままだし、その相手の心に残る。
 ぶつかり合う時に、このリスクを、決して忘れてはいけない。

 ただ、失敗は原理的にありえない、と決めつけてしまったほうが成功しやすいのと同様に、傷つくことを恐れすぎては何も行動できないのだから、せめてリスクを感じながらも、ぶつかることを露わに避けたくは無い。

 こういう部分が、俺は、現実をあまりにも軽視していて、我儘なのかもね。
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2つの半純血

2013-09-09 01:14:32 | Weblog
 我々が直面するすべての問題は「気持ちの問題」に帰着する。
 にも拘らず、あらゆる問題を物理的な問題として落とし込み、その上っ面で解決しようとするのは、愚の骨頂だ。

 例えば、ケータイやLINEをいくら規制しても、いじめは存在する。技術を規制することで、何かの問題を技術のせいだと決めつけるよりも、もっと根源的に解決しないとね。
 根元から抉り問題を解決しようと努めるべきで、やり始めてしまえば、そんなに大変なことではないと思う。凶悪犯罪を無くすために落書きを消すところから始めるような取り組みの姿勢が大事なのだ(1989年NY市地下鉄の例)。

 そ、必要なのは、問題解決しようとしてますよ、っというアピールではなく、根源的に問題を取り除く姿勢なのだ。
 だから、国家試験で「一種と二種」を「総合職と一般職」と呼び改めても、全席優先席の中から最優先席を設けても、なんにも意味が無い。

 こういうことを言うと、また物事を率直に考えられない人達が、気持ちの問題なのだから、っとめんどくさくないように解釈して、追い詰められている側の、現実の呑み込み方を変えようとする問題解決の仕方がなされることも多い。これも、同様に愚の骨頂である。
 明らかな差別発言や侮辱に対してでさえ、相手が目上とわかると、被害者側に対して「いやいや、確かにあの方はこう仰っていたけど、でもそれは、この部分でもう少ししっかりしなきゃいけないって意味だけじゃないかな。だから、元気だしなよ。」などと説いているのなら、それは本質的に誰も助けていない。ただ、無難に処理しているだけのことだ。

 じゃぁ、どうすれば良いか。
 過去の報われていない想いを、きちんと晴らすしかない。それこそが、助ける、ということだと思う。

 なぜ、立場やグループが下の者に対して精神的もしくは物理的なストレスを与えてしまうような行動をとるのかといえば、それはそれだけ自分が上の者から虐げられていて、残酷な物理現象に勝てていないためだ。
 無意味に攻撃を加えている者に対しても最低限のレベルでは優しく振る舞い、そこに対してより良く改善させようとする姿勢はネゴシエーターの基本事項だと思う。(ただ、そんな風に扱われるような人は、俺の仲間としては役不足だけどね。)

 すべての問題は気持ちに帰着される。それは、誰の気持ちも対等に扱いながら、問題のある気持ちの持ち主を発見し、その問題のある気持ちについて、実空間で解決した時に、はじめて、系がより良くなるということなのだ。
 気持ちを大事にする姿勢と論理的に考える真面目さのそれぞれの血が直前のエピジェネティックな変化を伴いながら受け継がれている俺は、このプロトコルがきちんとできなきゃいけない命を背負っていると思う。

 日々、お互いの異なる部分が怖くて仕方ないことも確かにあって、それですれ違ってしまうことも多い。
 AグループとCグループ、実験と理論、世代の差、金銭感覚の違い、、それらだって、全部気持ちの問題であり、確実に問題の気持ちを持っている人は存在するし、その気持ちは実空間で解決されうるし、最終的に解析的に解き得る。

 だとしたら、偶然をもチャンスに変えながら、より良くなったことに対しては「運命」と名付けてしまうくらい楽観的な生き方をしていたいと思う。
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常により良きのために

2013-09-06 01:40:37 | Weblog
 何かの能力なんて、本当に簡単だし、時間が過ぎてしまえば、勝手に得られるモノすらある。
 努力を少しでもしていれば、ものすごい勢いで変化していけるし、それが習慣化するのもあっという間だ。

 ひと月前の実験ノートを見れば、とても無意味で無計画なことをやっていると感じる。その時その時は、これで成果がでるはず、っと意気込んで実験結果を出しているのにも拘らず、そう思うってことは、それだけ能力が付いているってことだと想っている。
 このページを読み返してみたりして、何年か前を想い出しても、やっぱり今の自分と明らかに能力に差がある。それでも、確かにその履歴を辿っている訳だから、なかなか記事を消そうとは思わないけど、でも、やっぱり無能だなって感じることは多い。

 つい10年前は図書館に入って、ふらーっと読むのは、Tokyo Walkerだった。今は、ScienceやNatureを手に取りたくて、図書館によく行ってしまう。
 つい10数年前は、よく、中延から大森まで、無駄にだべりながら歩いたりしてたっけ。『コスパー』が口癖の今の俺からしたら、信じられないくらい。

 能力と習慣。こんなものは、時間さえ経てば、すぐにでも付けられる。
 1年間研究室に所属すれば、その研究室の研究概要は把握できるし、1年共同研究させてもらえば、いくつかの固有なルールを習得することができる。

 大切なのはそんなことじゃない。時間が経つだけで得られる能力に役立つものなど無いからだ。
 その時、その瞬間に、自分の想いや、大切な誰かの想いを、そのまま維持させるために、時間を超えようとして得られた能力だけが、本当に役に立つ。
 そういう意味で、俺は、何も変わっていないし、変われていないし、何も得られてはいないのかも。
 何かが慣れたり、即物的な作業が得意になって、緊張感が無くなっただけで、今だってTokyo Walkerは読むし、だべるのも大好き、一番得意な理科は今も物理だし、所属外の研究室に行っても助けられてばっかり。根本は、なんにもカワラナイ。

 っそ、気持ちを気持ちで推し量りながら、実生活に役立てるために、時間を超えて、能力を向上させることが、いかにめちゃくちゃ難しいか。
 ただ、そういうことこそが面白いし、尊いし、大切にしたい。そして、なかなかできないからこそ、大切な誰かのために、チャレンジしていきたい。

 どんなことをしていても、どんな集団に属していても、誰に対しても、常に、より良きのために。
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失敗は原理的にありえない

2013-09-04 01:34:57 | Weblog
 自分の気持ちに従って、ある程度きちんとした発現をしていれば、状況はドラスティックにより良い方向に変わっていく。
 いきなり完璧にはならないし、『その程度じゃ全然ダメなんだよ』って想うことも多いけど、より良い方向に向いているなら良いじゃないか、と自分をなだめたりしてギリギリで保ってる。

 そういう風にしていったって、どうにもならないことだって存在していて、何かを変えようと、どうにかこうにかより良くしようとして行動していることが、そんなことしたってまったくの無意味だよ、って言われてるみたいで悲しくなる。
 そんな唯一無二の系について、俺には多様性があるし、って落とし込むことで誤魔化してみたりして、その一部で誤魔化しが誤魔化しじゃなくなってきたりして。だって、確かにこの空虚な心のバラつきのなかで一縷の望みを保ち続けてくれたのだから、、実質的にも精神的にも。こんなにも自分の気持ちに迷うのも滅多にないから、分岐点を楽しめるくらいの余裕を本当は持っていたい。

 状況は劇的に変化していく。おそらく、ここからもっと、すごく早いスピードになるだろう。
 だとしたら、感じるまま、赴くままに、受け止められるモノをしっかり受け止め、寄与できることをしっかり寄与していきたい。

 きっと大丈夫。
 どんなことになろうとも、どのような輝きに包まれようと、任意の人生において、失敗なんて、原理的にありえないのだから。
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スイミー達の強さ

2013-09-02 02:10:55 | Weblog
 人と人との関係性は、繋がれば繋がるほど、無能で意味の無いモノになりやすい。
 一人ひとりに対してそれぞれの気持ちが純粋なことを感じても、集団化してしまえば、まるで本性を現したかのように自分(達)勝手になってしまうような状況は、よくあることだ。

 それがわかっているから、定期テストの前や何かの勉強をするときは、一人でやったほうがコスパーが良い。
 誰かと、もしくは、仲間で、深夜~早朝にファミレスとかで、定期テスト直前に対策するなんて、バカみたい?みんなで対策してるんじゃなくて、なぁなぁになって、だべって、関係無い話になったりして、いつまでも試験範囲の内容にならない、ってなっちゃうのが、関の山でしょ??

 そういう経験と、そういう教育の仕方を(こちら側が)しているから、もう、みんなでやらなくちゃいけないテーマ(研究)が降りかかっているのに、きちんとした集団化の仕方ができない。というよりも、きちんと集団化して、全員で勝ち、それぞれでも勝つ、っというやり方を知らないのだ。
 大学以降ってのは、いわゆる、お勉強するところではないんじゃない?褒められたり、認められたりが無いなら勉強しないってなったり、それら褒められることが一切なくなっても、それ以前からの履歴で、ただ真面目になってることから抜け出せず、こうやって我慢することこそが研究や仕事では必要、なんて手っ取り早い論理化をしてることから、どうにかこうにか抜け出さなくちゃね。じゃなきゃ、どんどん優しさが失われてっちまうぜ?

 確かに、ヒトも他の生物も、集団化してしまうと、一個体としては弱くなりやすい。
 しかしそれは、信頼関係という絶対的なラインを無視した集団化の仕方をしたら、バカになるというだけだ。目には見えないきちんとした繋がりも持たずに、集団化すれば、バカになって当たり前だ。

 きちんとした信頼関係さえあれば、集団化ほど巨大なパワーを持つ生命現象はない。
 一個体としては小さいスイミー達の群れが、一匹のとんでもなくデカいマグロにも勝てるように。小学校二年生の国語の教材であるスイミー。真面目すぎて忘れてしまっているかもしれないけど、日本の教育でだって、集団化の本当の意味での強さとその条件を、確かに教えてくれているんだよ?

 俺は、スイミーのようにはなれない。だけど、スイミーの特性を見出して、それを全体の目として自己実現させるだけの思考力は十分にある。
 現実には、どうしたって一人にならなきゃ得られない、思考力も存在する。それが必要とされる瞬間には、すぐに必要な種としてisolateできるのが、本当の意味での信頼関係だ。

 ≪K君、悪いんだけど、ここで2人にならせてもらってイイ?≫
 『もちろん、大丈夫。』【K君がイイなら、僕は。】
 ≪ありがとう。でも、これも、、すごいことだよね。≫
 『え?どういうこと??』
 ≪いやいや、だって、こいつと2人で喋りたいから、、って、なかなか言えないぜ?≫
 『まぁ、俺も、2人ともに、そういうこと言うことあるし、、それだけ信頼してるってことだよ。』
 ≪そうだけど、当たり前になっちゃってるけど、スゴイよね。≫
 【キモいから、そろそろやめろよ。笑】
 『確かに。笑』≪だな。笑≫

 俺の最大の武器は仲間。ただのバカげた集団化ではなくて、信頼関係のある仲間が、いくつかの集団として、確実に存在していることだ。
 まぁ逆に言えば、この仲間たちのためにも、ただ集団化してるだけで強くなっている気になってる100以上の総数くらいなら、俺一人で、簡単に勝てなきゃいけないんだけどね。

 Aグループの能力(集団化の能力)とCグループの能力(一人でコツコツと思考力を高める)を共存させれば、どんな問題だって、乗り越えていける。スイミー達の強さを、現実で、確かに発現していけるのだ。

スイミー Every Little Thing
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