たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

正解のタイミング

2014-02-27 01:19:04 | Weblog
 正解が観えたときに、それを伝えるタイミングはいつだって困窮を極める。
 最高のタイミングは、自らの主義主張の誇大と韜晦の中間にあるはずで、その平衡値を見極めた者だけがその瞬間を迎えることが可能となるのだが、言葉にして伝える限りどうしたってその2つの呪縛からは逃れられない。

 特に、俺が主張する内容、手渡すモノや伝えるための言動は、そもそも、忖度し過ぎるのがちょうどいいくらいに綿密に閉ざされていることが多いゆえ、そのメッセージの正確さに対する時間依存性まで考慮してしまうと、パラメータが多すぎてその一瞬では判断がつかない。
 深読みし過ぎたときに何もないものを提供するほど、俺は甘くはない。その体現の代表的な事象こそが、このページなのかもしれないが。

 本質的な状況の変動は、人の心のなかに新たな価値観が宿り続けるようになることから始まる。
 革命が具現化せずとも、他人の心のなかでそれらの想いが理論的に達成されることにこそ、価値が有り、意味が有るのだ。

 つまり、最高のタイミングで正解が伝わることが何かを変えうることの必要条件。そこに信頼関係という軸を時間に対して緩やかに用意することで、十分性の担保をとることが可能になる。

 そんなタイミングを運任せにするには、いささか勿体無いことなのかもしれないが、天に訊ねる、というのは、もしかしたら、一番本質的なことなのかもしれないね。
 だってそのほうが、覚束無い行き先について、運命と意志の両者をイイ感じに絡めることができるのだから。
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虚勢の正体

2014-02-26 01:17:01 | Weblog
 自信の無さを隠したいとき、人は虚勢を張る。自信の行き先は、能力だったり、気持ちだったり。

 だから、自分がわかったギリギリのことを相手に対して当然でしょ?という空気感を出しながら喋ったり、専門用語に専門用語を重ねてひけらかしたり、論理を追究し自らの思考力の側面だけを全面に押し出した自分を演出したり、パソコンのキーボードで奏でるメロディのBPMの値を大きくしてみたり。
 虚勢の張り方は人それぞれだが、いつもいつまでも虚勢を張っていれば、相手に慧眼さが無い限り、そんな方法では信頼関係は得られないし継続しえない。

 でも、自分がよく知らない範囲について相手がよく知っていることが明るみになり離れていってしまいそうで不安だから、自らに武器がなさすぎてレゾンデートルが失われそうで不安だから、心を見抜かれて小バカにされて自分がもっと攻撃してしまいそうで不安だから、圧倒的に本当のことをすぐに言ってきそうでそのせいで辛くなるにも拘らず支えてくれ無さそうで不安だから、だから、虚勢を張る。

 虚勢の正体、それは、褒められたいだけ褒められていないこと、認められたい度合いだけ認められていないこと、わかりあいたい気持ちだけわかりあえていないこと、受け止めてもらいたいだけ受け止めてはくれていないこと、に帰着される。
 そこに気がついているならもっと、、って、期待するけど、相手にも同じだけの虚勢を張る理由があるのだ。

 距離がこのまま平行に続いていく不安を抱えながら、次に選ぶ一手こそは、その虚勢を打ち破る秘策になるはずだと願いながら、行動を提出していこう。
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大学ですべきこと

2014-02-25 01:21:15 | Weblog
 大学に所属している者は、自分が学問探求における代表者であることを決して忘れてはならない。

 あなたよりも学びたい、あなたよりも知を探究したい、どれだけ多くの人間が、あなたの生活を羨んでいるかを考えてみれば、何かを誤魔化したり、何かの立場を守ったり、何かを諦めたりすることが、どれだけ贅沢で卑怯なことで、許されないかを知ることができるだろう。
 大学は、有能な人間が知識や能力をひけらかすために来る場所であるはずがなく、無能さを誤魔化し続けたい人間が来る場所でもなく、純粋に学びたい人間が全員来るべきところなのだから。

 だから、何かの申請書に「書ける」ために、学会に出席したり、論文を投稿したり、そのための自分にとって都合の良いストーリーを考えたり、ただ命令に従ったり、プライドを先行させたり、そういったことは知を獲得する正しい態度ではないはずで、そんなんじゃ、自分の良心や多くの貧困層に顔向けができないよね??

 日々、本当の意味での知を獲得するために、すべきことは明らかだ。
 そう、俺たちは、諦めることすら許されていない。本当の意味で常に知を探究し、本当の意味での知を大学にいる者全員が獲得できうる環境作りを、真剣に考え続ける義務がある。

 それだけが、税金を使って研究業務をしている我々の仕事であると俺は思う。

 しかし、今のシステムのなかでは、くだらない競争は避けられない。非人格者が成功しやすい社会のなかで、正しさを基に戻すのはかなりの労力と時間を要する。
 諦められない俺たちは、その中から打開策を明確に理想化し、それを現実の系に照らし合わせながら、確実に具現化していく作業が(学問そのものから)求められているのだ。そうでなければ、他人任せとカワラナイのだから。

 俺は、おそらく、情に厚いわけではなく、それこそがシステムにとって最優先だと考えているだけ。
 もっともっと冷酷になって、系を強制的に変えていく気概が必要だと自分に課していく。

 それが求められているならね。いつだって、どんなときだって、オーディション。そんな思考をする、とっくの昔から俺は、常に冷酷に評価を行ってきているのだから、切り捨てるべきところは簡単に切り捨てるし、大事にするところはとことん大事にする。

 いつだって、そんな方法で、強制的に前に進んできたのだ。この系だって、まったく同じだ。
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忠誠か自由か

2014-02-23 03:30:38 | Weblog
 「そんなに文句があるなら、やめりゃーいいじゃん。」

 っと言われたときに、あなたは、それ以上文句を言わないで淡々と作業をこなし、成果を出そうとするタイプか、それとも自由を求めてその場所を去り、よそで成果を出そうとするタイプか。
 いや正確に言うなら、単なる忠犬になりながら言葉だけを拾い、周囲の仲良しぶった連中に「いつか成果を出す」と嘯きながら、身をすり減らしていくかタイプか、それとも、こんな環境がダメなんだと粋がり、よそに行くと言いながら堕落して逃げていくタイプか。

 「だって所詮、学校ですよ?やめたかったらやめればいい。やめるのは、いつだって自由でしょ?」
 「雇用してる、っていったって、やめる権利はいつだってあるんですから、そこは当然自由です。」

 思考力が乏しいヤツはこのように、「やめるんだって、残るんだって、自由なんだから」っと迫ってくる。
 しかし、どの教育課程でも「自由になる方法」は誰も教えてくれないし、自然選択できるだけの能力を奪い続けているにも拘らず「自由なんだから自由にやればいいじゃん!」と迫るのは、バカとしか言いようが無い。まぁ、大抵の社会と権威主義者と自称「大人」は、まさに、このバカなんだけどさ(笑)。

 自然選択をして、本当に自由な状態となって、そこから自己実現しようとすれば、舞台に上がるのはどうしたって遅くなるし、それは一生舞台に上がれない不安を抱えることと同値になる。

 そ、だから、もし舞台に上がりたいだけなら、推薦入試で早稲田大か慶應大に行くことが、この日本における、もっともコスパーの良い最初の一歩となるのだ。そんな気概じゃ、舞台に上がる意味がなくて、本当は逆にコスパーが悪いのだが、大丈夫、そんなあなたなら、本当の意味でそれに気がつくのは、きっと、死の間際だから。

 成功したいだけ、なら、少なくともアカデミックな世界に残るのはコスパーが悪すぎるし、実は他のことでもそうだと思う。
 難しいもんだね、、優れる人には忠義の心なく、忠誠心の塊のような人には思考力や技術は宿らないのだから。

 「忠誠を誓うか?誓うなら、さっさと作業を繰り返せよ、奴隷!時間さえ経てば、舞台にはあげてやるんだからよぉ!誓わないのならば、それもよかろう。お前は自由なのだ。勝手に自分一人で生きて行きたまえ!」

 っと、忠義の塊のような無能な奴隷が、もっと無能な下の奴隷に対して、偉そうに言い放つ。ね、バカな構造でしょ(笑)
 こういうことを何世代も繰り返してきているから、忠誠心のあるたいていの「大人」は無能であり、優れた人間はプライドだけが先行し舞台にすら上がってないから時間が経てば無能になり、それら無能なヤツが理解できないことは価値の無いこととして扱われる。

 そんなことしてたら、潰れちゃうよ?この国は。
 あ、そっか、っていうかすでに、凋落してるもんね。笑

 そして、俺は、幸運なことに、本当の意味で、自由になるメソッドを持っている(正解は教えません、考えてね笑)。それだけで評価されるべき他人から評価されるわけで、もしこのまま俺が完全に上になってしまうようなことがあったなら、俺も同じことをするのかもしれない。
 そんな俺に、忠誠を誓うか?ってね。

 まさかぁ、俺は本当の意味でさびしがり屋だから、そんなことはしないよ。っと自分の心だけに忠誠を誓ってみる。

 『でもなぁ、賢いからね。俺だけじゃ、到底むり。』
 「大丈夫、少なくとも、ああいった行為が人道的じゃない、って考えられているんだから君のが賢いですよ。」

 やはり自分の強みが、信頼関係に帰着されることを胸に、またここで頑張りたいと想う。
 ただし、、タイムリミットまでね。
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根を手中に

2014-02-20 00:05:58 | Weblog
 あの頃、いくら考えてもその手だてが思いつかなかったことが、いま俺の手中にある。
 あの時に言われたように、時間からの圧倒的な抑制が存在していて、悲しいことにその次元では近づいてしまっているせいなのか、何かを自発的に思いつく手法を俺自身が得たからなのか、わからないけど、とにかくいま、計算は終わりself-consistentに解け、方程式の根は俺の手のなかに確かに存在している。

 すべては間違っていなかった。存在しえないかに思われていた解は存在していたし、あとはそれをどうアプライするかを考えるだけだ。
 腕を組みながら偉そうにゼミを訊いていても、どんな内容だって何も理解できずに知識自慢しかできないが、きちんと自分の手で追ってみて流れを掌握しながら、純粋に自分たちのスキルアップとしてのオフェンス(質問)をしていけば、新しくMovementが起こるのと同じで、真面目に自ら取り組めば確かに到達できるこの根は、微妙なバランスのなかで成り立っていることが確かに実感できた。

 この大地で観た真実は普段の主張を指示するもので、そういったことのなかからも、気がつくきっかけになっていたのかもしれない。
 俺は、こっちのスタイルと同じように、、まぁ、もともとこっちにかなり影響を受けた人を尊敬して始めたことだから当たり前だけど、きちんと自分の手で追うことが大切だと思っているし、ほらね、こっちではそんなの当たり前じゃん。経験したり、実感したり、そうじゃないなら何も本質的じゃないし、そのなかから、初めて新しい正解や、新しい真実が観えてくるのだ。まぁ、理論はそういった作業の時間を凌駕できるものであるはずなのだけど、(多くの理論研が達成できているかは別として)少なくとも俺は、そこまで天才にはなれないということなのかも。

 さぁ、ここから、また、今度は伝える手法を素早く正確に考えなきゃいけない。時間を大事にするか、正確さを大事にするか。
 何かの価値観に捕われている人に新しい根を提供するためには、この2つの方法しか、原理的に存在しない。前者はナイフで縄を切り裂くから早いが傷つける可能性が高まり、後者は傷つける可能性は低いが縄を解いていくのに恐ろしく時間がかかってしまう。

 ゴールは観えた。高校数学の問題は図を描ければ半分は正解、ってよくいうけど、こういうこともそうなんだろうか。
 遥か彼方、遠い大地から見上げた学問の空は、確かに、希望の光を宿していた。天は直向きな態度を決して裏切らない。

 すべては一点を指し示し、実を伴った論理はこの何よりも難しい問題を達成する。

 やはり、論理を追究し続けていく思考力と、目の前の作業をきちんとこなす忍耐力が備っていなければ、大切な人を助けることはできないし、何かを変えることもできないし、自然科学の何かの側面を理解することすら困難なのだということを、痛感することができた。

 それは、これから先においても、有用な経験だったのだろう。このタイミングでこれを想うことも天意なのだろうか、と自分の意志に確認し、これより帰路につこうと思う。
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圧倒的な論理の使い道

2014-02-13 01:27:30 | Weblog
 知識と経験だけでは論理を凌駕することはできない。

 圧倒的な論理に対して、知識や経験や地位で対抗しようとしても、勝てるはずが無いのだ。論理とこれらが対等だと思ってるなら、とんだ甘ったれだ。前にも書いたように、学問には論理の優劣があって、数学と物理学だけが、大学教養レベル以上になったときに、高校数学以上の論理的思考力を使わなくては理解できない。それこそが「現実」。
 論理を相手に、知識や経験や地位などで抑えつけようとすることは、機関銃に日本刀で立ち向かうことと同値、超サイヤ人3にピストルで立ち向かっていることとカワラナイ。

 賢ささえ持っていれば、論理のいろはさえ身に着けていれば、知識や経験なんて一切なくても、どんなことだってできるようになれる。
 論理さえあれば、本人にとって前提知識や経験がまったくない世界の「(原理的に)わかる」話を訊いたその瞬間に現状と問題点とその解決策を論じることができ、その世界に入って3ヶ月でものづくりとして価値のあることを提案できるようになり、6ヶ月も経てばその人がいなければ成り立たないような唯一無二のストーリーを創ってしまうことさえ、可能だ。

 まぁ、どんなことであっても(少なくとも学問のなかであれば)、自分の賢さでこれくらいできるぜ!って気概がなくちゃ、論理が強みとは言えないけどね、っと自分に課している。
 実際、多くの物理系の理論研PIなら片手間にできてしまうことだと思う(もっと早いかも?)。じゃなくちゃ、実証学問である自然科学なのに、実験や観察を一切しないorしようとしない、物理の理論研なんて、ただの他人任せだからね。

 ただ、知識にしても、経験にしても、地位にしても、相手にしたくない無意味なザコを蹴散らす、という意味では、コスパーがイイ武器だと思う。
 例えば大学や研究の場以外で、俺が何か学問的なことを言ってしまえば、友達以外、ほとんど誰も反論してこない。それはそれでよくないことなんだけど、どうでもいい相手を一発で黙らせる「言葉」を持っているわけで、気がつかないところでコスパーがイイのだ。
 だから勘違いしがちなんだけど、何かの実験系を構築したことだけでドヤ顔したり、知識の集積である論文リストだけを参考に次の実験を考えるようなスタイルでは、それもまた他人任せなのだ。

 実験研は、ここから先は誰か賢いヤツが勝手に考えてくれるでしょ?、っと考え、理論研は、こうだと考えてるんだけど誰か技術があるヤツ実験で実証しろよ、っと考えがちで、それがマッチするときは最高なんだけど、その確率はたぶん結構低くて、なかなかマッチしないくらい自然科学の各分野が枚挙的になってしまっているのも、また事実。

 自分勝手と他人任せな、ご都合主義が横行しているのが、自然科学の世界なのかもしれない。

 必要なのは、実を伴った論理。このシンプルな要求が、なかなか難しいのだと思う。
 そして、圧倒的な論理とは、まさにこの「実を伴った論理」であり、こういうスタイルをとっていれば、原理的には、知識や経験や権威などは、風の前の塵に同じ。所詮、実空間にある森羅万象は諸行無常なのだから。
 しかし論理は違う。例えば、三平方の定理は、これから先もずっと、これより前もずっと、正しいのだ。

 っま、そんな高級なことでも無くて、問題は、対ヒト、で考えているから、ってこともあるけどね。
 俺が相手だと思ってしまっている限り、俺に論理で勝てないのさ。俺は、自然現象と伝わるメソッドそのものを相手にしているのだから。

 よっぽど褒められてこなかったんだね、よっぽど自分に自信が無いんだね、と冷笑する論理的な自分を、確かな感情を宿した慧眼さが抑制する。
 だって、敵は自然現象、どんなヒトも、最終的には、すべて仲間なんだから。ってね。

 そう想えたときに、次の一手が、ただの賢さではなく、聡明さに転移して、提出されていく。

 無能なまま、賢さを身につけないまま、技術を身につけないままに、しかし過ぎ去った時間によって蓄積してしまった、見栄とプライドを守るために、弱者を傷つけることは仕方ないことだ、なんて考えている人は一人もいない。
 無能なままを良しとして無能でいる人なんているわけがないし、誰かを傷つけて自分を守ることが正しいと思っている人なんて、1人もいるわけがない。そう観えてしまうときこそ、どうしたらいいかわからなくて困惑しているのだ、と考え、圧倒的な論理によって、正しくそして優しく、手を差し伸べるべきなのだ。

 何をしていけばいいのか、徐々にわかり始めている。そして、このわかりやすい問いに何らかの解決策を提示することこそが、俺に課せられた本質的な問題を解くための、「例題」にもならない「例」。

 論理を強みにするなら、、ごめんね、だいぶ遅いですよね?まぁ、はじめから、時間を超えなくちゃいけないことはわかってはいたけど、、あなたを前に、きっと、そんなイイワケはできない。
 その痛みを経験していなくても、その状況の知識がなくても、何の実質的な結果も、今のような権威すらもないあの頃に、自らの論理で、どうにか手を差し伸べられなくちゃいけなかった。俺が、たったそれだけ聡明にあれたら、良かったのにね。

 それでも、もしも、、もしも、待ってくれるなら、必ず!
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手でつかめるくらい近い

2014-02-11 01:27:34 | Weblog
 「大学は、知を獲得し知を開拓する場だ。」

 大学に集うのは最終的に知を獲得したい人であるべきで、そのために仕方なく知を開拓はするが、そういうことが好きな人、楽しめる人だけが来るべき場所が大学だと俺は思う。それは学部生も名誉教授もまったく同様である。
 だから、大学に行く理由として、有能にみせるための誤魔化しやプライドや見栄はもちろん、有能さそのものでさえも、一切介在させてはいけない。ここを間違えると、きっと不幸になってしまう。

 なんの保証もなかったあの頃のほうが、この論理をきちんと理解していた気がする。今、周りを見渡して、自分の状況と自分の心情を確認すると、こんな理想は、バカバカしく感じてしまう。初心を忘れてはいけないね。

 自然科学をはじめとする学問が好きなみんなで、楽しみながら実験したりディスカッションしたりできる、なんてキレイゴト過ぎて、バカみたい。
 殺るか殺られるか、で、ギスギスしながら、オフェンスしたり、ディフェンスしたり、自己防衛のために下の者を傷つけて、しまいにはやめさせてしまったり。。

 大学に来ている人のなかにも、他の誰かや他の研究室の粗や弱みを夢中で探して、それに対して、みんなで手を叩き薄っぺらくバカにして、時間を浪費している人たちは大勢いるし、まるでそれが良いことのように扱われる。
 そんなことしていては、知の開拓はおろか知の獲得すらできないのに、俺も意地悪な笑い方でその中に参加していることもあるのだろう。そういうことは、きちんと反省しなくちゃいけない。

 もう一度、想い出してみよう。あの頃、何が大切で、何が大事で、何だけは譲ってはいけなかったのか。
 あの沢山ある参考書の中から、本当の意味でのコスパーを考えながら、本当に必要なものだけを選定していかざるをえなかったあの頃の自分たちの状況に戻ってみれば、あんなにも学びたかったんじゃないか、そこに対して、どうしようもない理由でドロップアウトしていった人もいたじゃないか、って想い出せるよね?

 イイワケを言った時に、自分さえ誤魔化せていないと感じたなら、笑ってそれを相手に伝えることができるくらいの、心の余裕と信頼関係が、もともとあったのだ。今は心の余裕はたぶん無いんだろうけど(笑)、信頼関係は今だってきちんとある。
 「知の獲得は、おのずと知の開拓につながる」のであれば、開拓をしているはずの俺らなら早いはず。

 明日へのずるい近道はない。だとしたら、やるべきことをみんなで楽しみながらやって、後は時間が教えてくれることを期待しよう。

 そうそ、俺には何かを諦める権利なんて初めっから無い。
 誰に対しても、まっすぐ顔向けができるように、もう一度、ここから始めてみようと思う。だって、せっかく、手でつかめるくらい近い距離まで来たのだから。

三浦大知「Time Will Tell」cover(zero gravity 2010.12.29)
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巧く誤魔化すことでは得られない能力

2014-02-10 01:39:13 | Weblog
 俺は、2003年からずっと、あるきっかけで、なるべく誤魔化さずに、自然現象を正しく理解してこようとした。
 それを評価されたことは、一度も無い。

 答えを先に観るのは簡単だ。そしてそれを単に覚えるのもラクだと思う。でも、そうやってきてしまえば、フロンティアラインまで来たときに、決して対応できない。対応するだけの能力が備わらないのだから。
 だからこそ大学受験のとき、特に現役のときは予備校や塾にすら通わなかったし、浪人のときだってそういうスタイルを取らないなら、お勉強なんてする意味がないと思ってきた。だからね、推薦やAOなんて、俺らにしたら、論外中の論外。
 しかし社会では、上から与えられたことをテキパキ作業としてこなし、巧く誤魔化した人だけが、舞台にいてそれが評価される。

 結局のところ、日本では、世襲制とそれに群がる忠義の心を持つ人間たちを大量に配置することで、セレンディティピーを狙うことでしか、世界と勝負できない。
 「それでもいいんですよ。一定数、素晴らしい研究は、勝手に出てきますから。」と言う、俺がもっとも尊敬する研究者の一人の言葉からも伺える。

 何かを本当に理解したり、何かを本質的に変えようとしたり、誰かの気持ちを大事にしようとしたり、そういうことをいかにやってきたか、いかに考えてきたかよりも、いかに巧く誤魔化して上の者に従ってきたか?、のみが評価される。
 それは、理学における研究についても、まったく同様であり、むしろ、その性質がエンハンスされている。自然科学を志したい高校生がもしこれを観ているなら、よくここの部分を、心得ておきたまえ。

 巧く誤魔化して指示を忠実にきいた奴が、勝つ!そういう奴が舞台に上がる。
 そう、日本だって勝負できないわけじゃないさ。勝負できる能力のある人間が、舞台に上がっていないだけだ。

 こういう論理に関して、誰も、ただの一人も、どんなに高い名声がある研究者でも、反論できない!!
 それがこの国の自然科学における研究の現状だ!

 「生命とは何か?」
 その疑問に一言で答えを述べることができるようになったのだから十分じゃないか。と過去の俺が教示してくれる。
 お金や地位や他人からの評価よりも、何よりも、10年前、俺が一番知りたかったこの解答を手にすることができているのだから。と。

 すべては天意であり、これからもそうなる。もし、この先に意味があるのであれば、そうなるし、意味が無いなら、そうならない。ただ、それだけのことだ。

 巧く誤魔化すことでは決して得られない、この能力が、どれほど価値があるのか。
 これから、それがわかる。
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チョコレート系論理

2014-02-09 01:05:23 | Weblog
 もうすぐバレンタインデーですね。とかいうとアクセス数があがります(笑)

 なんも意味が無くても、タイムリーに言葉を使っただけで、確実にアクセス数が上がるっていうのが、インターネットのシステムの面白いところです。
 だから、様々な言い方で書いといた方が良いんですよ。「セントバレンタイン」、「バレンタインデイ」、「バレンタイン・デー」、それから英語で「Valentine's Day」「VALENTINE DAY」。これだけで今日のアクセス数が100は違うでしょう。
 5年くらい経てば、こういうのも改善されていくと思うけどね。

 さて、いわゆる「釣り」をすると読者も減っていくので、たまには昔のスタイルに戻って、書いてみましょうか。
 初めに言っときますが、僕、このバレンタインというシステムは嫌いじゃありません。全盛期には二桁いったこともあるし、、まぁ、いまはメッキリ、ダメダメ。思ったことそのまま言うようになってから、女にはもちろん、男からも嫌われるようになっちゃったから。

 そうそ、一年で一度くらいは、女が主体的になる日があってもイイと思うのよね。日本には恋愛を公的に行う行事が少ないんです。プロムも無いし、バレンタインデーくらい無いと、少子化がますます進むことになっちゃいそうだしさ。

 ただ、ご存じのとおり、僕は手作りが嫌いです。はっきり言いますが、手作りチョコとか作る女、大嫌いです。
 カカオから作るわけでもなく、市販のチョコレートを溶かして型に流して固めただけの作業をしたくらいで、料理できる女アピールしてる女に未来はありません。
 21世紀、料理はどんどん規格化されています。ここ数年、どこでサラダ食っても、同じサラダしか出てこないことが物語っています。料理ができるなんて、なんのメリットにもならないことくらい、賢い男は見抜いています。

 そんなんよりも、GODIVAでチョコ買ってこい。よっぽど心がこもってるなと男は思うわ。

 GODIVAで買ってきたチョコにメッセージでも添える。これが、付き合ってる相手に対して渡す、もっとも至上のバレンタインデー成功法です。
 え?義理チョコの場合??メッセージ無しのGODIVAで。

 で、飲み会でこういうこと言うと、すぐ「その3倍くらいホワイトデーで返してくれるならいいけどー」とか言う女がいる。
 男は常に、そのリスクに追いやられているのです。うんうん、バレンタインデー最高。

 「どうでもいいですけど、高橋さん、今年のバレンタインデー、アテでもあるんですか?」
 『バレンタインデー??ええ、その頃、俺はきっと、上空1万mから、皆さんの無様な様子を見下ろしてますよ。』

 それが言いたかっただけ笑
 すべて冗談です。みなさま、ロマンティックなバレンタインデーをお過ごしください。

 ハッピーバレンタイン!

【PV】 Perfume - Chocolate Disco(チョコレイト・ディスコ)
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教訓に乾杯

2014-02-08 03:10:17 | Weblog
 人を一番悩ませるのは、自らの魂が道義的に「しまった」と想っているにも拘らず、今どうにもならないと考えている時だ。
 これに比べれば、他人からの侮蔑や悲しみの流れに身を任せておけばいい事柄などが、ラクに思えてしまうだろう。

 「しまった」という自分の心に耳を傾けて、きちんと今できることを見つけることは困難を極める。
 虚偽に守られた見栄やプライドを守りたい一心で、自分にとって都合の良いイイワケを探したり、相手の責任にどう押し付けるかを考えることに忙しくなるし、それが習慣化していて、自らを祀り上げてしまうことだって多い。
 精緻な正解をすぐに見て、それを覚えてしまえば良い、とやってしまうことに慣れてしまっているせいで、きちんとした研究を実施することができないことは、日本のシステムとして致し方ないことだし、俺にはそうなってしまっている人をいかにして自己実現させるかを考え抜く義務がある。

 それには、まず、自らの「しまった」という心の声をきちんと聴いてみる努力をしなければね。そうじゃなきゃ、さすがの俺だって救いだせないですよ。
 人は誰でも、その瞬間になんらかの気持ちを抱いて、その瞬間に実行できず、後から何もできないことであったのに、と思い悩む経験があるだろう。そう、その時間に感じた生の気持ちの存在こそが行動すべき瞬間である証なのだ。その期を逃してしまえば、何も発することができないことのほうが、この世には多い。

 だが、安心したまえ。任意の人生において、失敗は原理的にありえない。
 実力不足がゆえの、無能であるがゆえの、その見栄とプライドを、今こそ解除すべき瞬間であることを、教訓として、教えてくれているではないか。元来、無知の知、という真理から抜け出せた例は、これまで一つも無い。知らないことを「知らない」と訊くことは恥ではないし、あなたが本当に真理を追究したいのならば、不可能なことを可能にする人材を目の前にしても、くだらない見栄とプライドを守りたいがためにそれらができない、なんてことはないはずだ。

 そう、大切な人材を犠牲にしたとしても、少なくとも、教訓を得ることができる。もちろん、そんなことでは俺の仲間にしてあげられないけれど、まずは、自分の「しまった」という声に実直になってみなさい。
 正論を言った責任は、正論を言った者に降りかかるわけがなく、常に当事者に降りかかるものだ。降りかかるリスクが相手にあるからこそ、二者択一と天命に勝っていかなきゃいけないし、上手に正論を言い続けることで救わなくちゃいけない。

 この期に及んで、まだ、誰かを、この俺をも、コントロールしようなどと考えてはいないだろうね?
 その程度の能力と気持ちで誰かをコントロールしようなど、もし思っているのであれば、なんと烏滸がましいことよ。もしそんなことを実行し続けようとすれば、必ず天罰が下る。天網恢恢疎にして漏らさず、俺が何もしなくても世界はそういう風になっているものなのだ。
 コントロールなんてことを考える暇があるのなら、いかにすれば相手の役に立つことができるか、を、身の回りのすべての人について考えるほうが、遥かに徳が高い。

 結局のところ、ラクな近道なんて存在するはずも無く、本当の力をつけなくては、何も意味が無いことを思い知らされる。
 それは俺自身が一番感じてきたこと。だからこそ今がこうなっているのである。

 素直な気持ちを大切にして、今すべき行為をただしていけば良いはずだ。そのような教訓に乾杯!
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かわらない輝き

2014-02-07 00:00:58 | Weblog
 圧倒的な問題を目の当たりにすれば、日々の贅沢な悩みに対しての正解が観えてくる。

 いつも胸にしている、かわらない輝きを今日の自分、昨日よりも、強くしてくれるから、日々のくだらない悩みを着実に解決していくことが、この難解で本質的な問題にアプローチできるということに気がつけるのだ。

 現在が過去に変わるそのたびに、もっと時間をどうにか止められないのかと悩むけれど、ここまでの道のりが真っ直ぐじゃないからこそ、自分の場所に自分の足で辿りつける。忙しすぎる日々の中で、どうにか、攻めの一手を打つ手立てを考え、着実にできることを実行していこう。
 我々は、勉学に励むことができる有難さを手にしている。俺らなら、望みさえすれば、数学も、物理も、化学も、生物も、地学も、農学も、医学も、文学も、倫理も、哲学も、社会科学も、法学も、すべての学問を、きちんと習得できうるのだ。世界中の貧しい人達に比べて、我々がどれほど仕合せか、よく考えて、日々を重ねる必要がある。

 夢を見ることの意味として、ただの消費者が、唯一生産することができる、稀少価値の高い優しさの繋がりを、大切にしていくことが、この世の中には、誰がなんていっても、重要なのである。
 ちぎれた想いも繋ぎあわせたら、永遠に届くはずだし。

 ちょうど一週間後に訪れる移り気な風を利用して、俺だったら、すべてをアデュウすることがきっとできてしまう。しかし、それは、俺にとって、ゲームオーバーなのかもしれないね。

 ならば、俺は誰も何も見捨てない!
 特に、いつもどこか悲しいその笑顔をホンモノの笑顔に戻すまで、真実を探し続けることを、ここに宣言しよう。

 遥か彼方、遠い大地から独りで見つめる学問の空は、その指針に繋がっていることを期待している。

JUJU S.H.E.
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すれちがいの物理

2014-02-04 00:31:29 | Weblog
 準備をしっかりしておけば、現実的にはすべて上手くいくはずだ。
 あらゆる方向からの予測をすることで、予測不能を排除していき、徹底的に精緻にしておく。

 しかし、それでも失敗してしまうなら、それはきっと、気持ちが足りない。情熱が足らないために、何らかの問題を別の次元で抱えたままで舞台に上がろうとすれば、舞台に上がることすら許されない。

 まっすぐさに対して、天はとても厳しいのだ。

 本当にまっすぐか?と常に試してくる。
 きっと、運命でも、意志でも、そんな高級なレベルにはまだまだ達していなくて、圧倒的に足りない何かが情熱によって埋められていないからこそ、その瞬間を迎えることができないのだ。
 そこに対して真面目に努力せずに、いくら即物的に舞台に上がる準備を頑張ったとしても、失敗は必然。

 そう、大事な瞬間に倒れてしまったことも、それを受け入れてくれなかったことも、装置が突然不具合を生じたことも、そして、材料が足りなかったことも、それらですれちがってしまうことも、その情熱の絶対量であるかぎり、もしくは、情熱を向ける方向性がそっちであるかぎり、それらはすべて必然であり、物理的に明確な失敗の原因が存在する。

 早い話、まだ舞台に上がるには至れていなかった、という天の啓示。
 もしくは、その舞台には上がってはいけない、という天の警告なのかもしれない。。

 何が足りないのか。1からきちんと洗い出す必要がある。
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アクセス解析の感想140201

2014-02-01 01:12:27 | Weblog
 ここ一週間くらい、アクセス解析の体験期間がありまして、、ふむふむ、読者の皆様の感じが、いろいろわかりました。それを反映させて、これからもこのページを盛り上げていきたいと思います。
 っていうかさ、NTTレゾナントさん、アクセス解析の体験期間やりすぎじゃない?年間3回くらいやってるでしょ??もう、その程度の機能でカネとれないってことに気がついたほうがイイと思うんだけど。まぁ、それくらい、ブログはじめて飽きちゃう人が多い、ってことでもあるんだけどさ。

 えーっと、まぁ、どういう支持層があるのかくらいは前からだいたいわかってるつもりなんですが、今回予想外にわかったことがあります。

 それは、このブログの売りが、完全に、研究室の選び方 - 『このラボだっ!』と決めるその前に -だということです。

 いまGoogleで「研究室 選び方」で検索するとこの記事が一番トップに出てくるんですが(かなりの自慢(笑))、この記事は一日約30~50PVあるので、総PVが10,000を超えている計算になります。
 だいたい10,000PV以上を得ると、社会的に意味がある記事になるらしいのですが、この記事を読んで、少しでも研究室の状況が変わってくれているなら、2005年からブログやってきて、こんなに嬉しいことは他にありません。これからも書き足していこうと思いますので、定期読者の皆様も、ちょくちょく是非御覧ください。

 最近の記事だと、タートルトークもかなりヒットを重ねていってます(クラッシュへの秀逸な質問 -東京ディズニーシー タートル・トークについて-)。今後もっとヒット数を稼ぐ予感がしていて、嬉しい限りです。
 ディズニー系も受けがイイみたいなので、ネタをいくつか放出していこうと思っています。

 なかなか10,000PV以上稼ぐことができる記事を定期的に書くことは難しいですが、これからも頑張りますのでよろしくお願いします。

 あ、そうそ、それから、前にも同じようなこと言ったけど、「たかはしけい」って検索して、このページに毎日入って来てる人、なんとなく怖いから、今すぐ、ブックマークに追加してね。
 俺のファンなのはよくわかるんだけど、俺も人間なので。。笑
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