たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

今年読んで印象的だった本2019

2019-12-28 01:34:22 | Weblog
 3年ぶりなんですが、このシリーズ簡単にやっておこうと思います。
 Twitterで書いた内容と同じです(少しだけ書き足しています)。そのまとめです。今年はなんとなくフェミ系を考えていたんだなぁという6つです。今年どれくらい本を読んだか、詳細な数は覚えていませんが、たぶん45-55くらいかと思います。これは読破した数で、パラパラめくった数はもう少しありますが。(といういつもの退屈なエクスキューズはこれくらいにしておこう)

 ①「幼年期の終り」アーサー・C・クラーク著
 古典的な有名SFですが、すごく構造がしっかりしているなぁと思いました。冷戦時代、地球上の有名都市の上空に謎の船団が現れるところからスタートする小説で、人類の幼年期の終わりまでを描く。徐々に地球支配してきたオーバーロードの役割が明らかになる。
 1950年代にどのような未来が予想されていたか?を考慮しながら読むと面白いと思うし、地球人類の使命を想像したという点も面白いと思う。ただ、やっぱりこの世界観をすんなりと入っていけるかと言ったら話は別で、ある種の読みにくさはあるかなぁと思う。

 ②「絶叫」葉真中顕著
 ごく普通の女性が、無難な選択をしただけなのに、どんどん生活が成り立たなくなり、最終的に殺人事件を起こすという話。これはその辺の新書に書かれている4冊分くらいの現代社会の問題点(戦後すぐの家父長制のモデルの問題点、労働問題(契約社員・個人事業主など)、生活保護の問題点、性風俗産業の問題点など)をきちんと示していると思う。けっこうきついテーマですが、ハッピーエンドです。その後彼女がどうなったかも、作中にきちんと書かれています(そう思えない人は読めてないので再読したらええ)。かなり長いけど、まったく飽きないで、本に触れたい時間を自然と増やしながら読むことができました。

 ③「物語のおわり」湊かなえ著
 作中内に出てくる途中で終わっている小説を、北海道に旅行に訪れた人たちの間で、次々に手渡されていき、それぞれ物語の終わりを迎えるという話。最終的に、この小説のモデルにも手渡され、本当の終わりを迎える。バラバラかに見えて、きちんと一本繋がってる話で、面白かった。
 湊かなえはイヤミスの女王と呼ばれていますが、この作品はそんなにイヤーな感じはなかったです。ほんと、この人が書く小説は、立体視点が得意だなぁと思います。

 ④「モテない女は罪である」山田玲司著
 これだけ漫画で、1巻完結です。「女はこの恋愛指南書だけ読んでればええ」って思えるくらい内容が精緻でした。タイトルは衝撃的ですが、”モテなさいよ”という意味ではなく、”モテないとまるで罪人みたいなのはどうなの?”という意味です。男が読むと「そりゃそうじゃん」ということばかり。「男にとって、女は、怖いかめんどくさいか、だ」というのはものすごく名言で、よくよく考察してこの一冊を書いたんだろうなぁということがわかります。
 こちらで途中まで読めます。

 ⑤「お孵り」滝川さり著
 "生まれ変わり"の村で起きる惨劇を描いた作品。これはホラーものってなってるけど、俺は「いかに人は縋りたくなってしまうか」って点をとても上手に書いていると思いました。信仰心そのものが「奇跡」を産んでしまう、という表現も秀逸で、「こんなのありえねーじゃん」で本を閉じてしまうともったいない。
 生まれ変わり研究の第一人者イアン・スティーヴンソンは実在の人物だし、バージニア大学医学部では専用のサイトまであって、割と真面目に研究していますので、あながち起こりえないことではないかも?

 ⑥「女性活躍に翻弄される人々」奥田祥子著
 色々な女性が出てきて、この奥田さんとインタビュー形式で話をするのですが、この著者が本当はどう思ってるんだろうか?ということを考えながら読むと、とても面白いです。システムの問題ではなく、お前がクズ女だからだろ、という人が何人か出てきます笑。
 あらゆるシステムが、現場の空気感とマッチしていないことが原因で不幸に見舞われる人も多いのではないか?と思わせるようなインタビューも多く、やはり一つの性別だけ取り出して「活躍だ!」というのが、冷静に考えて無理があるんじゃないかなぁと思わせる内容でした。

 っというわけで、ぜひみなさんも読んでみてね。
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第2の告白

2019-12-27 06:35:16 | Weblog
 今が乗り切れれば、後はどうなってもいい。
 ・・・そう思ってしまって、未来にリスクを託し、現状を打開しようとすることは誰にでもある。多くの人は、実際にその未来が来た時に、そう誓ったことをすっかり忘れてしまうのだ。

 今とにかく目の前の”誰か”を絶対に助けたい。そう思って突き進むこともあるだろう。達成できれば、最終的に理解されなかったとしても、それだけの思考力を兼ね備えることができたなら、大抵のことは乗り越えられるはずだ、と。
 今とにかく目の前の邪気を除去したい。そう思って身勝手さを周囲に押し付けることもあるだろう。この信念と習性を、きっといつかは理解してくれるはずだと確信しているからこそ、耐えきれない溢れ出る不条理を周囲の凡庸さを奪うことで平衡を保とう、と。 
 今とにかく目の前に現れる記憶を消し去りたい。そう思って虚偽を繰り返すことに慣れてしまうこともあるだろう。与えられた理不尽な環境を打破すれば、ずっと思い描いていたありふれた理想に辿り着けるはずだと信じているからこそ、穢れに対して無頓着になることで現実に近づけよう、と。

 そして、、今とにかく目の前の状況に身を委ねていたい。そう思って、問題から目を逸らし続けることに慣れてしまうことも、ある。
 そう、何も行動しないこともリスク。未来の自分に対してリスクを任せ、その責任を果たさなくちゃいけない時になって、はじめて気がつく。「どうして自分は、こんな取り返しのつかない選択を取り続けてしまったのだろう」ってね。

 何か一つのことに最適化するということは、一般性を失うということ。
 ”ここで、すべてを失ってもいい。だから助かってくれ”と願った気持ちは、喩え叶えられなかったとしても、失うことにはカワラナイ。
 “どうしてもこれだけは許せない。それで嫌われたとしても”と決した気持ちは、喩え理想が実現しなかったとしても、嫌われることにはカワラナイ。
 “どんなに汚くてもいい。トラウマを消し去りたい”と書き換えた気持ちは、喩え赦されなかったとしても、汚れてしまうことにはカワラナイ。

 みんな選びたくなかった現実を仕方なく選択している。誰もが、社会性を失いたくて失うわけでもないし、バカになりたくてバカになるわけではないし、クズになりたくてクズになるわけではない。自分の中の弱さを受け入れ、受け止められない想いを現実に最適化させているだけだ。

 「違うでしょ?あなたの弱さはそれじゃない」と未来から確かに声がする。
 『でも、これまで一切見せなかったことを、見抜いてくれる人は、誰もいなかった。今生で誰一人として』
 「強いのね。弱いくせに」
 『実際、”第2の告白”の勝率は悪かった。半々ってところ。幼い頃からの直観は間違っていなかった』

 他者の我慢弱さを、子供が必死に簡単な掛け算を答えているのを見ているのと同じ気持ちで眺め続けていたリスクは、計り知れない。背けたい現実なんて、俺にはないと思っている人がかなり多いが、そんなことはない。問題を見ないふりをし続け、無きものにし続けた。それが人生だ、と思ってしまうほどに。
 でも、今や長年の苦境を乗り越えつつある。一縷の希望を見出すことができている。俺の本当の原罪を、からかいながら笑ってくれる仲間がいる。だから、ある種の”重さ”が、少しは軽減されたんじゃないかと思う。

 きっと、いま俺が期待しちゃっているのは、深刻に受け止める真面目さではなく、”大したことじゃないじゃん”と意地悪な演技をしてくれる、いつもの優しさに他ならない。
 それはそれで貴女にとっては未来へのリスクかもしれないけど、、それだけの価値だって、あるはずです。そう約束します。
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異能ベーション「炭素回収技術」研究に対しての感想

2019-12-19 02:38:42 | 自然科学の研究
 最近気になっている研究開発があるので、それについて徹底的に語ってみようと思う。
 それは、現在、東京大学工学部1年生である村木風海さんの「炭素回収技術」の研究だ。以下の記事によると、『CARS-α(カルス・アルファ、“ひやっしー”と本人は呼んでいるものと同義であると考えられる)』と呼ばれるキャリーケース型の二酸化炭素単離機を開発するプロジェクトで、総務省が推進する異能ベーション2017の「破壊的な挑戦部門」に選ばれ、300万円の研究開発費を獲得したものだ。さらに、この村木さんは「世界を変える30歳未満」として、日本を代表するビジョンや才能の持ち主を30人選出する名物企画「30 UNDER 30 JAPAN 2019」のサイエンス部門にも選出されている。

 「二酸化炭素に恋をした」19歳の壮大な青写真

 異能ベーションは年齢基準等は一切なく、一般から様々なアイディアを募集し、スーパーバイザーの評価を受け、革新的な挑戦に没頭できる環境を提供するためのものである。
 記事の中では、地球温暖化の解決を目的とし、二酸化炭素を回収するためのスーツケースサイズの装置を開発していると書いてある。人工知能が搭載され会話をすることが可能となっており、ソーラーパネルをエネルギー源として用いるため環境に優しいと書かれている。特許も出願・認証されており公開されていたため、具体的にどのような原理なのかを調べてみた(以下)。

 特許の内容

 要約を読むと二酸化炭素回収についての原理は以下の方法を取っている。
・塩化ナトリウム水溶液(NaClaq)を電気分解することで塩酸(HCl)と水酸化ナトリウム水溶液(NaOHaq)を生成させる
・空気中の二酸化炭素(CO2)と水酸化ナトリウム(NaOH)を反応させることで、炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)を発生させる
・炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)が塩酸(HCl)と反応することで、二酸化炭素(CO2)と塩化ナトリウム(NaCl)が生じる
・上記の反応をサイクルさせることで、二酸化炭素(CO2)を空気中から単離する

 正直言って化学がそこまで得意ではない私でも十分に理解できる内容だった(全て高校化学の教科書に載っている内容である)。

 上記の二酸化炭素単離機構とそれぞれの反応を制御するためにコンピュータが内蔵されており、そのコンピュータにユーザーへの対応をするためのアプリケーションも内蔵されている。このアプリケーションへの入力にはモニターおよび音声認識機能を用いており、その指示に対しての出力はモニターへの表示およびスピーカーを通じてなされている。このような家庭・オフィス向けの小型装置を大量に製造することで、科学者だけでなく一般の人に環境問題への興味を持ってもらうことが狙いであるようだ。

以下、特許に記されている具体的な文言である。

【0088】
上述した実施形態のロボット装置本体2は、制御装置31に人工知能を組み込み、家庭用ロボットとして使用できるようにすると良い。かかる家庭用ロボットとして使用する場合、表示パネル45に顔を模した図柄を表示すると、親しみ・愛着がわくので好ましい。また、表示パネル45は、電力消費が大きいため、常時は非表示にしたり、設けない構成を採ったりしても良いが、かかる場合、顔を描いたボード・お面等を適宜位置に配置すると良い。このようにすると、親しみがわくのでよく、表示部を備えない構成とするとさらに低価格な人工知能を利用したコミュニケーションロボットとなるのでより好ましい。
【0089】
上述した各実施形態並びに変形例は、その一部の構成を適宜組み合わせて構成すると良い。また、本発明にかかる二酸化炭素回収システムは、簡易でコンパクトな構成となり、例えば、各家庭やオフィスに配置し、個々の家庭単位やオフィス単位で二酸化炭素の回収を行ったり、教育現場において化学や情報科の教材その他に利用したりすると良い。
【0090】
例えば、各家庭において例えば自宅の室内の空気中の二酸化炭素を回収する処理を行う。すると当該各家庭の住人等は、本システムの運転状況を目の前で見ることができ、二酸化炭素の削減といった温暖化対策の必要性を感じることができる。さらに、この回収システムに限らず、温暖化対策を行う契機付けをすることも期待できる。
【0091】
また、例えばオフィスの各室内等に設置し、その室内の空気中の二酸化炭素を回収する処理を行うと、当該オフィスの室内等で業務を行っている人や、当該室内に訪れた人が、本システムの運転状況を目の前で見ることができ、二酸化炭素の削減といった温暖化対策の必要性を感じることができる。さらに、この回収システムに限らず、温暖化対策を行う契機付けをすることも期待できる。また、オフィスに設置する場合、その設置したオフィスの企業・事業者は、温暖化対策に積極的に取り込んでいることをアピールできるという副次的効果も奏するので良い。
【0092】
さらに、例えば家庭とオフィスの両方に設置されている場合は、より好ましい環境と言えるが、仮に一方に設置されている場合でも、その設置された場所に関係する人は、他方の場所に行っても温暖化対策の必要性を感じ、対策を行うことが期待できるので良い。
【0093】
また、教育現場に設置した場合、空気中の二酸化炭素を回収する原理を教えつつ、温暖化対策の必要性を感じさせることができる。
【0094】
例えばオフィスの一例である会議室など狭く密閉された空間において長時間人が居続けると、室内の二酸化炭素濃度が上昇し、眠気・頭痛などの健康上の問題が起こってしまうが、本装置を稼働させることにより、それを軽減することができる。また、本装置は空気供給装置を本体内部に格納しているため静音性に優れ、音により人の活動を妨げることがない。
【0095】
以上、本発明の様々な側面を実施形態並びに変形例を用いて説明してきたが、これらの実施形態や説明は、本発明の範囲を制限する目的でなされたものではなく、本発明の理解に資するために提供されたものであることを付言しておく。本発明の範囲は、明細書に明示的に説明された構成や製法に限定されるものではなく、本明細書に開示される本発明の様々な側面の組み合わせをも、その範囲に含むものである。本発明のうち、特許を受けようとする構成を、添付の特許請求の範囲に特定したが、現在の処は特許請求の範囲に特定されていない構成であっても、本明細書に開示される構成を、将来的に特許請求する可能性があることを、念のために申し述べる。

 
 この特許技術を組み込んだ機器の実際の性能についてウェブページに記載があった。このCARS-αという装置を用いると、1時間に0.04 gの二酸化炭素を単離することが可能とのことだ。

 ここで、林野庁のウェブページより、森林の二酸化炭素の吸収量を見てみよう。樹齢40年程度のスギ15本が1年間に吸収できる二酸化炭素は4480 kgと書かれている。これは、スギ1本あたりでは298 kg/年の二酸化炭素を吸収することができるということだ。CARS-αの場合は、1年間に直すと40 mg/h × 24時間 × 365日 = 350 g/年である。樹齢40年のスギの木が1本生えている方が、ひやっしー1台を稼働させ続けるよりも約850倍効率よく二酸化炭素を吸収していることになる。村木さんは二酸化炭素の吸収効率を向上させるための研究を行っていくと述べている(CO2回収マシーン「ひやっしー」を実用化し、温暖化を止める第一歩を踏み出す!)が、850倍以上に効率を高められるのかについては疑問である。またこの動画によると、二酸化炭素単離装置のコストについてもスマートフォン1台分程度にしたいと語っているが、スギの苗木を1本400円で買うことができる点(トウヤマグリーン)からも、本当にその装置を広める必要があるのかについては考慮する必要があると考えている。植物の写真を取るだけで、その木が1年間にどの程度の二酸化炭素を吸収しているのかを計算するアプリケーションソフトを作った方がよほど有意義なのではないかとまで考えてしまう。

 正直言って、このプランニングで、血税から300万円もの出資があったことに驚いた。こちらのサイトによると、300万円をかけて21台を生産し小中学校に配布したと書いてあるので、単純に計算すれば1台14万円である。二酸化炭素の単離効率が高いとは言えない装置を20台以上も量産するよりは、(もちろん結果論ではあるが)この予算を使って小中学校内に植物を植えた方が二酸化炭素の吸収といった観点からは、圧倒的に効果が高かったのではないだろうか。

 一般に科学・技術が、”きちんと正しく”評価されるには2通りの可能性がある。
 1つは、科学的に新しい原理であり、既存の現象が説明できること。もう1つは、発明された直後で原理はよく分かっていないが、既存の技術に比べ圧倒的に良い数値が出ていることである。この2つのどちらも満たしていないにも拘らず、評価されている場合は、何か別の力が加わっているケースが多く後に不幸な結末を迎える場合も”ありまぁす!!”。このCARS-αという研究開発については、その計画についても結果についても、なぜ評価されているのか、私にはよく分からなかった。
 しかし、異能ベーションで採択され、実際にものづくりをしたという実績があるからこそ、彼は、東京大学工学部の推薦入試に合格したのであろう。だとすれば、かなりの(サイエンティフィックな)オフェンスに晒され、高い競争率を勝ち抜いてきたのでは、と勝手に想像するが、インターネット上で得られる情報の限りでは、そのような革新的な成果を私自身は感じることができていない。「年齢のわりに」とか「若いのに頑張っている」ということはあるのかもしれないが、最先端の研究をしている若い子はたくさんいる。環境問題が重要課題なのは理解しているが、選択と集中の名の下に、それだけでこのような評価を与えていいのだろうか、と思ってしまった(この考察は想像に想像を重ねすぎではあるが)。

 何か私が気が付いていないことがあるに違いないと思い調べてみると、現在、単離した二酸化炭素をどのように利用するかということについての研究開発も進めているとのことだ。
 例えば、こちらで書かれている内容によると、藻類に単離した二酸化炭素をグルコースに変えてもらうと書いてある。この場合、空気から二酸化炭素を単離する行程を挟む必要性があるのかといった点について疑問が残る。

 アルミホイルを利用して二酸化炭素をメタンに変えるということを書いてある文章もあるが、特殊な合金の存在下で高温・高圧条件で成り立っていた反応が、アルミホイルに変えただけで、家庭・オフィスにおける安全が担保される条件で起こるとはとても思えない。本当ならば確かに革新的であり、私の専門である生命起源にも関わるので論文化されるのを楽しみに待ちたいと思う。

 最後に、彼が話しているYouTubeを見て欲しい。

【Kazumi Muraki】Turning CO2 Into Human’s Best Friend
 

 この中で、海外の例を挙げて「二酸化炭素を単離する工場は既にあるが、それは一部の科学者しか関わらない」と述べており、「意識改革をしたい」「それが投票などに繋がれば」という文系的な視点も持ち合わせていることが、自分の研究の意義であると述べている。
 彼が言うように「本当に地球温暖化を解決しようと思う」のであれば、「普及させる」という大義名分を盾にして効率的でない方法で二酸化炭素を単離する計画に出資するのではなく、原理原則から考え直し本質的に必要な研究にきちんと国家が出資することこそが、重要なのではないかと私は考えている。
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弱さの本質 -バカとクズの違いとその相関-

2019-12-13 05:13:28 | Weblog
 昨今、Twitter等のSNSを見ていると、特に高学歴の人たちが「バカ」と「クズ」を混同している様子が見られる。(まぁ、別に最近に限ったことじゃないかもしれないし、あらゆる階層でこの混同は起きているんだけどね)
 単純に誰かを侮蔑する目的で「バカ」「クズ」という言葉を使うならば、確かにあまり定義や性質を意識しなくても良いのかもしれないが、あまりにここが曖昧であると、損をしたり、楽しく無くなったりすることが多いんじゃないかと思うのだ。

 基本的に俺の方針としては、バカとは積極的に関わろうとするけれど、クズとは絶対に関わってはいけない、と思っている。
 きちんと後述するが、しかしこれはなかなかに微妙な問題ないのだ。なぜなら、バカとクズは複雑に絡まり合っている概念だからだ。何かを定義したりモデル化する際に、現実を描像する上での利便性を無視するのはあまり得策ではないのだが、ここではあえてそれを行ってみたいと思う。

 まずは「バカ」と「クズ」を定義をしよう。

 バカについては、一般に「頭が悪いこと」と言われているが、「頭が悪い」とはどういう意味であろう?
 この意味を2つに分解しようと思う。①「論理的でない」と②「頭の回転が常に早い」に分けられると思う。

 ①論理的でない
 いわゆる文系の人たちが「ロジカルシンキング」とか言い出してから久しい。この言葉の意味が曖昧なせいで、「論理的である」という言葉まで何か特別な技術があるかのような気がしてしまう人も多いのではないかと思う。
 “論理的”というのは、逆・裏・対偶を意識した思考の展開が可能な限り精緻であり、必要条件・十分条件・必要十分条件を正しく使い分けていることである。詳しく言い換えれば、「AであるならBだ」という言い方をした時に、「BならAか(逆)」「AでないならBでないか(裏)」「BでないならAでないこと、も当然正しいか(対偶)」を意識した議論をしていること。そして、Bは必要条件でありAは十分条件であることが理解できているか、ということである。(はっきり言えば、こんなことをここに書きたくない。なぜなら、この文章がそんなに論理的ではないことがバレてしまうからだ笑)
 この論理学としての基本原則と、集合の概念がわからない人は、案外多い。これはまぁバカではないだろうか、と思うのだ。渋谷にいれば東京にいることになるが、東京にいるからといって渋谷にいるとは限らない。このように明らかな具体例を出せば簡単だが、相手が独自の意見として「AならばB」と言った場合に、きちんと認識できている人は意外にも少ないものだ(発話者がそれを意識していない場合もあるが)。

 ②頭の回転が常に早い
 インターネットが大衆に受け入れられてからもうすぐ30年になる。ネットはすぐに情報が手に入る分、どうしても頭の回転が早くなってしまう。なので、ネット社会が当然化している人たちの多くが、頭のいい人イコール頭の回転が早い人、と勘違いしていたりする。自転車に喩えればわかりやすいが、ギア1にしてカラカラ一生懸命漕いでも距離は稼げない。ギア6にすればペダルは重くなるが、確実に距離を稼ぐことができる。そして、頭の回転が早すぎることを、空回りしている、と呼ぶのだ。
 頭が良い人というのは、この頭の回転数をゆっくりにしたり早くしたりすることについて、適材適所で選択することができる。クイズの早押しだったら頭の回転は早くしなくちゃいけないが、カントが言ったことを考えるのに回転を早めても仕方ないだろう。
 なのに、バカは、回転が常に早い。ずっと早い状態なのだ。「落ち着いて考えればわかるはず」という言葉も虚しく響き、それでもギアを変えることなく一生懸命に漕ぎ続けてしまうことをバカと呼ぶのだ。そうなると、当然、①の性質が現れやすくなる。稀に①の性質が完璧なままで②の性質を発現している人もいるが、その場合にはアイディアが乏しくなり、低い視点の主張を繰り返すようになる。

 ①と②で程度の差はあれ、だいたいバカとはこういうことだと思う。①か②、どちらかの症状が見られる場合、それはバカな状態と定義できるだろう。受験やテストの点数はあまり関係ない。もちろんそれらで良い成績である方が①や②になりにくいだろうが、実際に高学歴でもバカは沢山いる。
 それ以外にも、知識がどうとか、漢字が書けないとか、いくらなんでもこれくらいの計算はできるだろとか、そういうことはあるかもしれない。だが、それは慣れや習慣の問題であり、根本的ではない。
 ちなみに、論理というのは客観的であるということだし、頭の回転をゆっくりにすることは、相手の思考のペースに合わせるということだ。バカはまともなコミュニケーションが原理的にとれない、と言い直すこともできるかもしれない。

 さて、一方で、クズは全く違う定義だ。
 クズとは、弱者を迫害したり蔑ろにしたりすることで、搾取し、自分の現在の立場を安定もしくは向上させることを言う。一言で言えてしまう分だけバカより簡単に理解できそうに思えるが、クズから非クズまでは連続的に変化するので、なかなかに厄介だ。
 バカは、そうであるかそうでないか、という転移現象。①と②さえ克服してしまえば、どんなに学歴がなくても、どんなにテストで0点を連発していても、バカではないと言える(だからといって、“頭がいい”わけではないが)。しかし、クズの場合は、「どの程度?」というのが常につきまとう。

 例えば見て観ぬフリはクズであろうか? (cf. 見て観ぬフリはクズか?)
 たしかに弱者をポジティブに迫害しているわけではない。努めてトラブルから関わらないようにしているだけである。これをクズであるとするべきか非クズであるとするべきかは、具体的に何を見て観ぬフリをしているかどうかに依ってしまうだろう。
 あからさまに誰かを苛め、物を盗んだり、暴力を振るったりしているのであれば、それはわかりやすくて、むしろ良い。なるべくその人とは関わらなければ良いだけだからだ。そして、このあからさまなクズというのは、ほぼ生涯普遍だと思う(きちんと言えば、30年以上くらいでは治る可能性はある。だが、それを考慮する必要はないんじゃないかと思う。その人と自分との関わりだけを考えるのであれば、30年なんて生涯普遍と何も変わらない)。

 問題は、そうじゃないファジーなクズをどのように捉えるか?である。
 あからさまなクズに流されていたり、「世の中って、そういうもんでしょ」と理解している中間層のクズを見抜くのは、かなり難しいし、どの時点で見切りをつけてしまうかは判断が難しいところである。しかも、このファジーなクズは、3-10年ほどで治る可能性も多分にあり、バカを克服するだけで改善する可能性すらある。ファジーなクズは、どこまで受容できるか、、いや、どの程度までを受容すべきか、という点について、ものすごく厄介なのだ。

 これを意識して前述してきたつもりだが、バカの場合は、明らかに”状態”である。いわゆる”バカな人”というのはおらず、バカな状態に陥り続けている一種の病のようなものだ。
 クズの場合は、状態なのか、それとも、そもそも魂から根本的に腐っているのか、なかなかに結論が出しにくいと思うのだ。

 ここでは、とりあえず、クズを状態として捉えてみようと思う。(少なくとも今は、俺は、クズは状態だと理解している。たぶん、、それで正しいと思う)
 では、どのような場合に、クズになりたくないのに(ここでは誰もがクズになりたくはないと思っていると仮定している)、クズの状態に陥ってしまいがちになるだろうか?これを考えてみるにあたって、バカとの相関性を理解することが重要だと思う。

 クズの定義をよく読めばわかるが、クズとはいわば、生存本能が同じヒトに向けられた状態である。昔、るろうに剣心という漫画で「所詮この世は弱肉強食。強ければ生き弱ければ死ぬ」と繰り返し語った悪役がいたが、まさにこれはクズの状態を開き直っていると言える。
 ヒト以外の多くの生物は、当然のように弱肉強食の世界を生きている。言い換えれば、餌がなければ共食いを厭わない生物は多いのだ。食べるまでいかなくても、同じ哺乳類であるネコ科の動物は、平気で子殺しをする習性がある。これはヒトでいえば、明らかなクズだし、犯罪だ。この生物界での当然の搾取を、なるべく避けようとしてきたからこそ、ヒトは人になり、社会性を規範としたのだ。

 つまり、ヒトから生物的な特性だけを抽出してしまえば、クズになることは明らかだ。クズの(定義の)話を誰かにした時に、高確率で受けとる言葉の一つに「でも、生きていくためには仕方ない」というものがある。
 だとすると、人類(ホモ・サピエンス種)特有の性質を考えると、クズのことをもう少しよく理解できるということになる。人類の特性といえば、やはり知性ではないだろうか、と思うのだ。

 そう、クズは、認識不足ゆえに、陥ってしまう可能性が多々ある。
 例えば、前に「卒研配属以前に早くから研究室で研究することと援助交際の類似性」という文章を書いたが、善悪はバカでは中々に判断がつかないことが多いのだ。「本人たちが了承しているんだから別にいいじゃん」と言ってみたり「別に誰にも迷惑かけていないんだから良くない?」と言ってみたがることの多くは、論理性を有しておらず、頭の回転が速すぎることが常態化してしまっている(=:バカの状態である)ために、当人が認識できない領域に対して多大なる迷惑をかけており、間接的に弱者を搾取していることが殆どなのだ。社会で権威側にいるおじさんたちは、無自覚に、あらゆるシステムを通じて、若者を搾取する。無自覚であるがゆえに、クズだと大声で言いにくい。
 バカは、クズ的な行為やその状態を、認識できない。だからこそ、クズの状態に陥りやすい。

 これ以外にも、現代のメリトクラシーのなかで、バカであるほど比較的低位の階層に属してしまいがちになる。
 低い階層に属していれば、弱者から搾取しないと生きていけない、という恐怖心を抱きやすくなる。弱者から搾取しなくとも生きていけるだけの余裕を与えられるからこそ、ヒトは人らしく生きていくことができるのだ。”衣服足りて礼節を知る”とは善く言ったものだ。

 このように、バカは2つの理由からクズに陥りやすくなってしまう。”バカであるがゆえにクズの状態になっている人”に対して、どのように向き合ったら良いのだろうか。いや、良かったのだろうか。
 これまで、単純にクズを避けようとして、多くの”バカであるがゆえにクズの状態になっている人”を見放してきた。それも冷酷に。そして、ぐうの音も出させないように、俺自身も相手も決してイイワケをさせないような方法で。バカなままであることに何の罪も生じないのに。。バカなままでいながらクズにならないことは、ものすごく大変なことだ。

 しかしながら、”バカでいながらも、クズにならないように努力している人”だって、この世にいる。沢山はいないが、いるにはいる。
 だから、「(知的に)弱いから、イコール、バカだから、仕方ないじゃないか」では片付けられないと思うのだ。そして、その地位や立場などの単純な”言葉”を捨てても、表面的には生きていけるケースが殆ど(だからこそ、実力以上の”言葉”を得てしまうこと、得ようとしてしまうことは、圧倒的なリスクなのだということを、ここでも厳しく記しておく。cf. 無能なヤツはクズか?)。もちろん、現実的にはそうじゃないのはわかるけど、、ね。

 確かに、クズはマジョリティーを占めているし、それが圧倒的な現実としてバカと相関しているような系であるこの世界は腐り切っているのかもしれない。
 でもね、、だからといって、あなた自身が、クズになって良い理由にはならない。クズなままでも開き直って良い理由にもならない。そんなこと、、本当はよくわかってるでしょ?
 そして、クズにならないためにラクをしたいのならば、賢くなろうとする努力をやめてはいけない。俺は、「クズになってしまう弱さを認めろ」という囁きに期待を持つよりも、惨めでもダサくても実際に必死でクズにならないように努力している生きざまに憧れを持った方が、楽しいと思う。

 見知らぬ人が多いノリが良い環境の中でコミュニケーションを取ろうとする時、一番やんちゃそうな人に対して、俺はよく「本当は、すっごい純粋でしょ?」と悪戯に聴いてみる。
 グッと懐に入り込もうとする薄っぺらい戦術だが、この策略の信念は「純粋じゃない人なんて、この世には一人もいない」ということ。

 どれだけ時間がかかってもいい。
 自分の中のクズをなるべく全部追い出すこと。
 そして、純粋さを抽出しようと努め、「生きるために仕方がない!」という自らの囁きに耳を貸さないように努力すること。

 余裕がないからクズ的な行為が横行してしまっている現代社会だからこそ、そんなことに一生懸命になる価値はものすごく高いんじゃないかと思う。それが、今が楽しくて未来も楽しいと信じられる状態である「幸せ」への一番の近道だと、そう思っている。
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Wigner's friend

2019-12-07 04:44:19 | Weblog
 時間は過ぎ去ってしまっても、空間はそのイメージを確かに伝える。
 建物は、建築家が奏でた音楽だ。世界中の旅行者が古代の建築物を巡るのは、古代の音楽を聞くため。その時代に確かに息づいていた空気感を感じることができるのだ。

 だからこそ、何かを理解しようと努める時、目をつぶって空気感を感じることは、とても大事なことだ。その瞬間に描かれるイメージと奏でられた音色をいっぺんに身体に染み込ませることで、直観は鮮明に働くようになる。
 何も変わっていない。変わっていないはずだと自分に言い聞かせても、垂直に降りてくる直観を無視することはできない。冷静であるからこそ、感情が再帰していく。

 知のベールがゆっくりと解かれ、強制的に変わりゆく時の中で、新たな感情に出会うことがあるのだろうか。
 あれから、いろんなことがあった。あれから、いろんなことがあったであろう。未来からの要請に導かれて、何が正解なのかを見つめ直しながら、心に問いかけていく。

 理由の可能性を見出せてしまった時点で、過去については大抵の事柄はどうでも良くなってしまうものだ。問題は、確率論的な現在である。
 まだ開けていないフタを開けたとしたら、、他の誰でもない貴女にとって、好転したと言えることを、心から願っている。
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「数字では語りきれない」から始まるワナ

2019-12-02 05:39:16 | Weblog
 「数字では語りきれない」とはよく言われてきた言葉だが、同時に、発話者の立場や状況、能力などによって、かなり意味合いが変わってきてしまう言葉でもある。
 それが昨今、逆説的に語られ、「結局、数字があるかないかでしょ!」と開き直ることで、思考の怠惰を正当化することが慣習化してしまって久しい。

 確かに、理想論的に述べることに抵抗なく、「数字では語りきれないから」と述べ続けることによって、具体性のない曖昧な絵空事に付き合わされるのはごめんだ。
 だが、これを逆説的に捉え、フェルミ推定などを用いて部分的に定量化することに加え、立場を利用した合理化や反語的表現を巧妙に用いることで、”論理的であること”を全面にしながら、自身のインテリとしてのポジショニングを崩さないで語ろうとする”頭イイと思われたいバカ”が、やたらに多く存在してしまっているのも問題だ。

 数字で冷酷に他者を評価する受験のシステムでは、数字ひとつで大きく歩む人生が変わってしまう。合格最低点が60点だったとして、60点だった者と59点だった者の間には明確な実力の違いは存在しないだろう。テストが実力を完璧に描像できているという信仰を持つ者も少なくないが、大抵の良識ある人は「テストだって完璧ではないからなぁ」と思うだろう。しかしながら、「だから、一般入試では測れない人材を!」と推薦入試やAO入試を多くしてしまえば、目上のおじさんに媚を売る能力が高い人材が選出されるだけである。多様な評価基準を設定したつもりでいても、平気で”承認欲求”が露呈してしまうシステムであったりする。まぁ、人間が考えることなんて、そんなもんだよね。
 博士号を取った直後の論文数について「2と6は変わらない。そんなの先生の方針でいくらでも変わってしまうから」と言った先生がいた。『じゃあ何が重要なのか?』と訊くと、「やっぱり”何か”を持っているかどうかですよ」と言う。こういう人は、「0も1も10も、先生やテーマの依存性は(実は)かなりある」ということに気がつかず、ただ単純に自分に従順な人や自分が好きな人を採用しがちになり、自身が正当な評価をしていると勘違いしてしまう典型である。こうなった時にみんなどう思うかというと、「だったら、単純に数のほうがマシだ!」と思うはずだ。
 そして、あらゆる領域・業種・シチュエーションで、「とりあえず、数字に最適化すりゃーいいんだろ!」となっていくのである。

 そう、、確かに数字は、あらゆる事柄を描像することができる。「数字で語りきれない」という人の殆ど(おそらく99.9%以上)は、単純に数学(や物理学)が苦手なだけである。
 世界に数字(数学)ほど精緻に事柄を表現できる言語は存在しない。代わりに何か他の言語(日本語や英語)で表現できるとでも言うのか?断言しても良いが、(なんとなくでも)定量化してみることほど現象理解に対して有益な作業は他にないのだ。

 Twitterのフォロワー数にしても、YouTubeのチャンネル登録数にしても、確かにそれだけでは適切なその人(やチャンネル)の評価基準を判断することはできないだろう。
 アンチが多いのかもしれないし、コアなファンがいるのかもしれないし、知名度が高いだけの可能性もある。例えば、少し前だが、ベッキーさんとゲスの極み乙女の川谷絵音さんが不倫で話題になったが、ああいった時に、ベッキーさんは知名度だけが高く、川谷さんはコアなファンが多いことがよくわかったんじゃないかと思う。騒動以前の数字だけでみればベッキーさんの圧勝であっただろう。だが、仕事の影響として、最小限で済み、ファンもそんなに離れなかったのは、川谷さんの方であったと思う。(もちろん、恋愛については責任を女性側が取らされる社会情勢、ということもあるので一概には言えないかもしれないが)
 こういったことを定量化しようとする場合は、おそらく何らかの摂動が必要なのだ。上記した例のように何か問題が露呈してしまうとか、クラファンを募集してどれくらいお金を継続的に支払ってくれる人がいるか、とかね。芸能人のクラファンは意外と成功しない、というのは、この辺りにヒントがあるようにも思う(つまり、知名度は圧倒的に高いがコアなファンは少ないから、お金を払ってまで応援してくれる人は少ない、ということなのかも、ってことね)。
 
 この潜在的な、もしくは本質的な”値”を、いかにして摂動を与える以前に引きづり出してくるか?ということについては、中々に難しい。特に誰かをジャッジするための定量化である場合、時間依存性もあるし、評価そのものがやる気を変えてしまったりもするので、摂動を与えることで定量化できますよ、というのは根本的な解決にはなっていないだろう。
 だが、ここで、「だから、数字では語りきれないのさ」と思考停止をしてしまったり、「とはいってもさ、やっぱり(見かけの)数字は大事だよね、とりあえず」と思考停止してしまうからこそ、”頭イイと思われたいバカ”達が闊歩し、さもそれが”賢い大人としての振る舞い”のように語られてしまうのかもしれない。そんな問題認識はできているつもりではいるのだが、俺も、「時間をかけて、ゆっくりと考え続けるしかないよね」ということ以上のことは、残念ながら言えない。

 長い人生において、何かのクライテリアでジャッジされた数字は、一過性の意味しか持ち得ない。だからこそ、そんなに気にしなくて良い。所詮、風の前の塵に同じ。「勝って兜の緒を締めよ」とは良く言ったもんだが、そこで深々と考え続けたところで、偶発的に数字を得てしまいうる状況において、未来の何かに向けて本質的な最適化ができるとは思えない。
 例えば、自身の実力ではなく、大手企業のおじさんに上手に最適化することで年収1500万円という数字を持っている若者が、「これは俺の実力ではありえないから、手放す。実力との差額分は寄付する」ということを、多くの人はできないのだ。自分に適切な額のお金を受け取ることに最適化することができている人なんて、少なくとも俺は見たことがない。それよりも、目を瞑って「社会の中で、上手にコミュニケーションすることができることも、実力のうちなんだ。みんながみんなできるわけじゃない。俺はこの額に値する実力を有している」と思い込みながら、目の前の数字を使って誰か弱者にマウントを取ったりする方がラクだ。それは、あるちょっとした摂動、例えば倒産などが起こっただけで、脆くも崩れ去ってしまうリスクの高いことなのだと、どんなに頭でわかっていたとしてもね。

 だとしたら、自分自身については、なんでもかんでもラッキーなだけなのではないか、と思いながら、今を楽しみ、未来が楽しめるような方向性に向かっていく方が、柔軟かつ頑健であると思うのだ。
 そして、他者を評価・批評する場合には、目の前の数字だけにとらわれないこと。それと同じくらいに、こいつは成功しているからダメなんだ、とか、こいつは失敗しているから実はすごいヤツだ、というような、単純に符号を逆に捉えた思考にもとらわれないこと。もちろん、ケースバイケースで逃げるのもダメだし、将来はAIで判断できるからあと少しの我慢、ってのもダメです。数字の中の一縷の閃きや淀んだ濁りを見落とさないように注意して、常に決めつけないこと、が重要になるのではないかと思う。

 色々書いたけど、一言で要約してしまうなら、「決めつけないで!」っていつもの心の声なのかもね。
 まぁその前に、「その程度の思考力で」ってエクスキューズがつくけどさ笑。
コメント
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