たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

来年はブログをもっと書きます!

2017-12-31 19:56:53 | Weblog
 さて、今日で2017年もおしまいですが、皆さんはこの1年はいかがだったでしょうか?

 俺個人に対しては、アメリカに住んだり、そのなかで色んな経験をさせてもらったり、でも結局1年間だけだろ?ってなったり、客観的にみるとその部分だけで判断しちゃいがちだと思いますが、俺からするとそんなこともなく、たくさん経験はさせてもらってるけど何も得てないから考察して何かを得れるのは来年以降(2018年以降)になるだろうなぁ、いろいろ成果が出て安心することも多かったなぁ、等と思っています。

 正直、ブログを全然更新できなかった1年で、「やるやる!」と言ってるわりに何も書いてなくて、書かなきゃいけないことが溜まっていて申し訳ないんですが、来年はそれを一気に書き上げられたらなぁと思っています。
 というわけで、古くからブログを見てくれてる皆さん、ごめんなさい。まぁ、YouTubeのほうに、少しは流れていると思いますが、、やっぱり文章も書きたいよねぇ。文章のほうが、まだまだ影響力も強いし。

 来年はブログを書くぞ!、という意気込みで、今年は閉めたいと思います(笑)
 では、よいお年をおむかえください。
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"環境が悪い「俺」"と"期待が重荷の「私」"

2017-12-27 02:49:21 | Weblog
 「努力したぶん、報われる」って先生たちは言うけど、俺のように家庭環境の悪い人間がスタートラインに立てるだけのシステムが最初から無いんだから、やる気がないのは当然じゃん?

 生きるだけで精一杯の状況は常に俺らを束縛していく。言葉さえも、語彙力のないせいで、最低限の不自由なものを使わざるをえない。
 悲しいことに、いつも目の前のことに対応し続けなくちゃいけないから、いつも頭がフル回転で、まともな学習になっていかないのだ。だから、感想を言えと言われても、「楽しかった」「面白かった」が精一杯なんだよ!

 この世は不平等であり、生まれながらに決まってしまう。運の良い人は、「自分の努力のおかげだ」って顔をしているけど、やる気だって、有益な情報だって、継続だって、経済的な安心感があるからこそ手にできる。それらを自分固有の努力に還元してしまうような論理の拙さに安心したりして、そういう意味では、意外と平等なのかもな?

 俺みたいに、周囲の環境が悪ければ、生きていくために戦術的にならざるをえない。
 他のラッキーな人たちは、戦略的になれる幸せを、せめて味わって欲しいと思う。


 「努力したぶん、報われる」ってオトナたちは言うけれど、私のように躾に厳しい家庭環境に身を置いてきた人間は、「できて当然」という評価を常に受けるんだから、やる気がないのは当然でしょ?

 期待に応えるだけで精一杯の状況は常に私たちを束縛していく。言葉さえも、「知らない」と言いにくいせいで、自分にとっての最高知識を常に使わざるをえない。
 悲しいことに、いつも目の前の結果を精緻に出すことを要求され続けるから、いつも頭がフル回転で、まともな学習になっていかないの。だから、感想を言えと言われても、大人が喜びそうな教科書通りの回答を提出するのが精一杯で…。

 この世は不平等であり、生まれながらに決まってしまう。自由になる権利がある人は、「自分たちだって期待されてみたい」って顔をしているけど、やる気だって、有益な情報だって、継続だって、自由度を与えられているからこそ手にできる。それらを自分固有の特質だって判断しちゃうような間違った直観を疑わないところに安心したりして、そういう意味では、意外と平等なのかも?

 私みたいに、周囲からの期待が強ければ、結果を出すために戦術的にならざるをえない。
 他の自由な人たちは、戦略的になれる幸せを、せめて味わって欲しいと思う。
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嬉し涙溢れるこの瞬間

2017-12-23 03:18:07 | Weblog
 ヒトは誰しも、純粋さだけを発現し続けることはできないし、不純さだけを発現し続けることもできない。
 打算を一切含まない会話など存在しないし、逆に、真心を一切含まない行為など存在しない。あくまでも、比率の問題なのだ。

 誰だって、子供くらいにはクリスマスの奇跡やサンタクロースの存在を信じていてほしいという願いを持っている。と、同時に、純粋な気持ちを普段自分が発現できていないぶん、子ども達にそれらについて純粋であってほしい、と押し付けるエゴも持っている。
 いつだって、願いとエゴは微妙で、それらをコントロールする純粋さと不純さの割合は、どんなに正確に測定しようと思っても、なかなか掴めないものだ。

 それが、願いなのかエゴなのか、その気持ちが、純粋なのか不純なのか。
 離れられない、光と闇。誰もが、絶対矛盾的自己同一性を抱えている。

 純粋さと不純さは、共存している状態こそが、実は自然なのだ。

 これが、時間変化するし、多体系にもなる。
 入口は純粋な気持ちからだったとしても、行為を繰り返して試行回数を増すほどに不純さの要素が入ってくることもあるし、その逆ももちろんある。
 相手の純粋さだけを抽出して付き合おうとすれば、必ず不純さが無視できなくなってしまい、「この部分さえなければ最高なのに」と結論づけたがる関係性は、いつだって長続きはしない。誰かを敵認定してしまえば、その瞬間だけラクにはなるけど、そのぶんそこから得られる新たな知見に自分から逃げてしまうことになってしまう。100%無意味な集団など存在しないし、100%正義の集団なんて存在しない。

 そんな性質のこの世界の中で、好きな人を選んだり、嫌いなものを決めたりしなくちゃいけない。
 しかし、「あなたの不純なところも含めて好きです」という言葉がどこか薄っぺらい一方で、「あなたの純粋な部分が好きです」というのも、不純さを見抜けない、ただの無知っぽく聞こえて、「好き」を説明することはとても難しい(当然、「嫌い」も)。

 俺は、「好き」とか「嫌い」って判断基準は、純粋さや不純さというパラメータを超えた先にあるんじゃないかと思う。この純粋さと不純さの要素を決めている「人格」というやつが、どうであるか。これは、イイとか悪いとかでは語れないし、経験でも努力でも環境でも遺伝子でも、どうにもならない「何か」であると思うのだ。

 その「何か」が2人以上の関係性で共鳴するとき、それを「運命」と言いたがる。
 レ点をつけて「命を運ぶ」この言葉は、泡沫であることも多いし、永遠に続く可能性もある。永遠に続く場合、つまり、時間依存性の無い「運命」は「ホンモノ」だと定義されるが、、そんなことはどうでもいいくらいに、嬉し涙溢れるこの瞬間(いま)を、噛みしめていたいと思う。

 その涙は、自分が想像していたよりも、ほんのちょっとのエゴしか入っていなかった。多分な純粋さが含有している涙に自分で驚きながらも、本当に好きなんだと、また噛みしめていく。
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