たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

『研究したいの?論文書きたいの?』

2015-05-30 00:55:36 | 自然科学の研究
 理系のアカデミックの世界で生きていきたい全ての人に訊きたい。
 一つひとつ、自分の心に訊いてみて欲しい。

 1.『研究がしたいの?論文を書きたいの?どっち?』

 2.『何かを主張するときに、論文によって既に示されているから、というイイワケを使わない約束ができる?』

 3.『大学院で大学院生が何を習得すべきか、一言で教えて』

 4.『政治と実験的事実の違いが、明確にわかる?』

 5.『学会は誰のためにあると思ってる?』

 6.『再現性がとれるデータだけを扱う?それとも、再現性がとれないことを前提とした論理を構築する勇気がある?』

 7.『自分では明らかに実現不可能な研究計画を、自分よりも学歴と業績が劣る、自分よりも若い人間が持ってきた時に、正しく評価できる自信がある?』

 8.『あなたの分野の研究は、人類にとって絶対に必要だと思っている?それとも、本当は世界中の誰一人として、この研究分野になんか興味はないけど、いつか何かの役に立つかもしれない、という偶然性に賭ける気持ちで取り組んでいて、研究なんて所詮そんなもんだ、と思っている?』

 9.『あなたの研究内容における価値観が、枚挙的でないことを、論理的に示せる?』

 10.『知識の集積を目指す?それとも自分の理解を高める?どちらかなら、どっち?』

 11.『数学と、物理学と、化学と、生物学と、地学。要らない順で消してみて』

 12.『ピペドやIT土方と、博士の違いを教えて下さい』

 13.『研究を進捗させる上で、具体的に、もっとも必要なことはなんですか?』

 14.『科研費も政治も履歴も世間体も、いっさい関係無く、自由に、好きな研究対象を、好きなだけできるとしたら、何を研究しますか?それは、今やってる研究と、どれだけ離れている?』

 すべてに答えてくれるコメント募集(笑)。
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ミヒツノコイ

2015-05-28 23:45:43 | Weblog
 誇らしげに思いながら、俺は彼が話し始めるのを待っていた。

 これまでの俺が、まったく感じてこなかった優越感のなかで、自分に嘘が無いかを確認するように心を洗い出してみた。
 すると、「たかはしくんは、いま、別の場所もあるわけじゃない?」と声が聴こえて、あらゆる視点に立ってみたとき、「俺の場所」は確かにココが正しいのかもしれない、と想ったりした。ここが「別の」場所なら、いわば「主の」場所は、どこだと想ってくれていたりするの?、と気が付いたら、、あらゆる多角的な未必の故意がついに実ろうとしている現実を受け入れていく。
 根本的に臆病な俺は、いくら論理的に正しいことでも、いくら自分の気持ちに矛盾ないことでも、無難さから遠ざかることに罪を感じてしまう。それは、貴女以上だと思う。ただ一つ、圧倒的に違うことは、俺はとにかく行動だけはできてしまうということなのだ。

 「考えすぎない」ということを考慮した「精緻な考え」は、俺にそれなりの「無難さ」を担保させ、小さな小さな集団のなかの大多数の人にとって「無難」だと勘違いされている「異常さ」を、きちんと「異常」だと感じとるだけの感性を与え続けてくれる。

 俺は、毎日やる、と決めても、すぐに毎日やらなくなる。ちなみにこのブログも当初、毎日更新する、と自分に課していた。俺は毎日やらなくちゃいけないことが多い。フランス語も、ポケモンも、論文も。でも、すぐ毎日できなくなる。途絶えるのが早い。でも復活するのも早い。
 「『毎日やる』って決めたのに、今日途絶えちゃったから、もうやめちゃおう」などと精緻な思考を求めるあまりに本末転倒になる物理法則を、俺はよく知っている。だから、すぐに復活する。一ヶ月やめてても、半年やめてても、突然始めたって、誰も困らない。

 「心のどこかでやめていなければ、死なない限り、必ず達成されるんだから、また毎日やりはじめるかー。って、それ何回繰り返してんだよ?笑」というふわっと感を大事にすることこそが、結局のところ、一番続くし、一番精緻な思考回路になる。ショート寸前な思考回路が回復され続けるのだ。

 むしろ、クソつまらないのに、決めたからっつって、毎日やり続けちゃうほうが、遥かに問題かもしれない。

 彼が収束へと舵を切ったそのとき、冷酷な生命現象が周囲を覆っていることに気がつく。これが、権威や名誉や予算の枠組みなど一切関係無い、彼の話に対する「本当の意味でのガチの評価」というやつか。
 俺は、いくら表面的な価値がものすごく高いのだとしても、こんな、なぁなぁな代物に誇りを感じるほど、そしてこの場所を「俺の場所」と思うほど、落ちぶれてはいない。

 良かった。俺はまだ俺のままで、俺の場所は、俺がこれから自由に決めることができるのだ。

 途中でやめちゃうくらいのラフさが、「本当の意味でのガチの評価」を高めるのかもしれない。そこから目をそらすことに慣れてしまった耄碌には早すぎる。

 俺は俺に、この事実を刻み込むべきだ、と偉そうに命令してきた。
 それが、この目の前の彼とスゴイことを起こす、ヒントになるはずなのだから。

 そして、それこそが、、、いや、それを云う権利は、まだない。未必の故意を繰り返さなきゃ。
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確信犯

2015-05-26 23:51:59 | Weblog
 論理性はすべての学問を理解し追究するための礎だ。
 それはちょうど、筋力さえあれば、スポーツ全般がある程度できてしまうのと同じことだと思う。

 俺は、その分野の専門性に落とし込まず、あくまでロジックで落とし込める純粋な学問的興味をすぐに引き寄せたがる。そして、絶対的に専門性が必要な箇所は、他の研究者に完全に任せてしまおうと企んでいたりする。
 だから俺は論理性だけはとことん突き詰めて、思考力を向上させることを諦めず、あらゆる分野に対して適確にサジェスチョンできなくちゃいけないと思っている。

 前にも書いたことがあるけど、思考力の絶対量としては、学部の4年生のときから殆ど変わっていないと思う。少なくとも、大学4年間での思考力の向上度合いほど、大学院時代は思考力は向上しなかった。それは現在の大学院というシステムが何かの能力を向上させる教育機関としての機能があまりにも乏しく、「文章の書き方」「自分の研究の伝え方」などと称して、政治力学の存在を研究者の卵である大学院生たちに知らしめるだけの存在になってしまっていることも多少は影響しているかもしれないが、単純に俺自身が、思考力の絶対量そのものを高めることをあまり望んでいなかったのだと思う。
 あの頃と変わったことと言えば、単純に、あらゆる分野について瞬時に言葉を自分のものにできるスピードだけだ。それは大きいことかもしれないけれど、そこまで大した能力の向上ではない。ただ、どのような分野のどのような趣旨の学会でも、何かしらの発言はできる、というだけのことだ。

 そもそも俺のストロングポイントは、論理性などでは決してない。論理性を武器にできるなら理論研に残っていただろう、、と思ってみたのだが、むしろ、本質的に論理的な人と言うのは、実験ができる研究室に身を置くか。とはいえ、俺は自分ごときの論理性を一番の武器だとは思っていない。

 俺の最大のストロングポイントは、心から信頼できる人が沢山いるということだ。「有能な人が沢山いて、その人達と友達になれたことが東大で過ごした一番の利点だった」などと、東大にいると、よくこういう、可哀相な的外れなコメントを聴いたが、俺はそういう意味ではない。
 能力はどうでもいい。とにかく、俺にとって、ちゃんと信頼できる人がいる、しかも数十名以上!というのが、一番の俺のストロングポイントである。

 この安心感は、俺を行動的にしてくれる。どんなコメントをして、この場でバカにされたとしても、俺から(精神的に)離れない人が確かに存在している、という事実こそが、俺の論理性を向上させ、思ったことや本当のことを言える力を担保してくれ、交渉力まで高めてくれるのだ。

 俺は切るべきカードを決して間違えない。すべては確信犯的に考えまくっている帰結だ。

 だから、安心して欲しい。
 大船に乗ったつもりで、待っててくださいね。
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セダンガール

2015-05-25 02:34:55 | Weblog
 リードしてくれるわりに、意外なところで"抜けている"ところが、一番好きなのかもしれない。
 確実な地図を手にしている僕には、アクセルがほとんど存在しない。とにかく行動したりとか、みんなの前で発言したりとか、そんなこと僕にはできっこないから、きっと、その能力が羨ましいんだ。

 考えなしで行動できる君が羨ましい、なんて言っちゃえば、めちゃくちゃ怒られるだろう。
 君が考えなしに動いてるとは思わないけど、僕から見ると、あんまり考えてないのに、不思議と上手く行っちゃうようにみえるんだよなぁ。そんなんじゃ男としてダメだと思うから、大事なところ、肝心なところで、引っ張ってみたいんだけど、いつも空回り。
 君に押さえつけられた上での意見を君だけに主張することしか、僕にはできないんだ。

 僕には君が必要だけど、君にとって僕は必ずしも必要じゃぁないんじゃないの?と不安になるから、わざと間違えたり、我儘なことを受け入れてくれるか試したりして、愛情を確かめたりしちゃう。こういうとこがダメだね。
 君自身が僕を選んでいるのだからってことを表面上に逐次的に具現化して、ドライビングフォースが少なくとも表面的には君にあるようにしちゃうところが、男らしくない根源かもね。でも、やっぱりこんな僕を選んでいるのだから、そんでもって、君はそこまで考えてはいないんだから、これでいいよね?

 それでも、いつか、何かが起こった時に、僕が君を完全に守るつもりでいる。
 そうなったときでも、現実は、君は持ち前のアクセルで、むしろ僕を引っ張ってしまうのかもしれないけれど。

 そうやって100回、春をみたい。
 と伝えたら、君は笑いながら、珍しく乙女らしい演技を振りかざしてくる。やっぱり、この人しかいない、と確信する幸せの瞬間だ。

セダンガール/Goose house


 (一言だけ、久しぶりに曲の感想を言っときますけど、俺はこういう男、嫌いです笑
 曲は好きですけどね。)
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世間体を捨てれば

2015-05-24 03:45:51 | Weblog
 研究と政治の違いを知らない理系が、深遠な真理に辿りつくことは絶対にない。
 にも拘らず、システムを上手に利用して成り上がろうとするために、即物的な「事実」と称する無意味な枚挙主義に終始する論文を書き、そんなもんが研究なのだ、などと本来の研究と政治を混同している理系多すぎて、税金を支払う国民が納得できるような研究進捗ができていないのが、この世界の現状である。

 論文を書くことが研究者の為すべきことだと思っている人間は、研究の世界には向いていない。政治の世界には向いているかもしれないが。

 何かにつけて、「レフリーが」「書くためには」「この分野では」などと言っているのであれば、理系を選んだ意味が無いではないか。ディフェンスの最終ラインが「分野」や「潮流」になってしまっては、それは本末転倒である以外の何ものでもない。我々は自然現象そのものを観ているのであって、そこに「物理学」も「化学」も「生物学」も「地学」も「数学」も関係無いのだから。
 あなたは、論文を書き、申請書を書き、そのループを繰り返すために研究の世界もしくは理系の世界に入ったわけではないだろう?

 人類が勝手に作っただけのシステム内での物理法則に依存せず、ただ純粋に深遠なホンモノを追究したいという心を持つことが、理系であることの必要条件だ。
 みんなが、システムという枠組みを変えなければならないと想えるくらいの人材になろうという気概がなくてはね。理系こそ、システムを超えろ!

 もちろん、そこまでのホンモノを実績として積み上げていくことは困難を極める。
 現実的には、どんなに自分が満足していなくとも論文を書かなくては研究者として生きていけないし、本当はそこまで好きじゃない研究についてマニアックになって好きなフリをして身を売っていくことが次のポストを決めていったりする。
 ただし、そこに必要以上に一生懸命になったり、システムや世間体のせいにしてイイワケしたりしてちゃダメだ。「文科省がいけないんだ!と先手を打つように言っているから、私はホンモノの気持ちや価値観を否定していることにはならない。自分たちは誤魔化してはいない!」などと言い聞かせることで責任の所在を誤魔化すウソは、やがて自分自身の研究が虚像になっていってしまうぜ?

 そして、虚像の中での現実を受け入れた途端に、自らにとって深遠な研究テーマが天から降ってくる。
 そのときにどう動くか、で、その人の生きざまが現れるのである。人生は一度。その一度で、何を大事にするか、自由に決めることができる。

 そう、、俺は、先回りしてホンモノに「さようなら」を言ってしまう、賢明だが聡明じゃない、その冷酷さが好きになれないの。そんなことしなくても、自分の研究興味と政治の区別がつかなくなった不幸さを考慮して、終止符くらいは貴女に打たせてあげるのに。
 研究と政治、どちらがどちらで、何がホンモノか自分でもわからなくなってきたときには、鏡を観るといい。逆に、ウソを見抜きたくないなら、鏡を観ないで暮らすことだ。

 『いつからでも、好きな研究を存分にやるだけの、ホンモノの生き方をとることはできる。世間体を捨てればね』という残酷な言葉は、自分にウソをつくことで造り上げてしまった「現実」を考える思考には響かず、本当に純粋な心にだけ響くのだと思う。

Ms.OOJA - Ti Amo
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体現

2015-05-19 23:39:59 | Weblog
君の家に着くまでずっと走ってゆく / GARNET CROW


 社会には「堅いモノ」と「柔らかいモノ」が混在している。
 「堅いモノ」っていうのは、親や先生から言われたことをきちんとこなすことだったり、点数とか成果とかシステムだったり、なんというか無難さを含んでいるモノだと思う。逆に、「柔らかいモノ」っていうのは、ノリの良さだったり、仲間と楽しむことだったり、とにかく自分の今の感情に素直になることだと思う。未来を大切にすることが「堅いこと」で、現在を大切にすることが「柔らかいこと」でもイイかも。

 私は「堅いモノ」を選び続けることで突っ切ってきたし、それを一切疑ってもみないと思われるほどに「堅いモノ」の安定性が心地良い。おそらくは、私が思っているよりも、もっともっと自然と私は「堅いモノ」を選び続けているのだと思う。

 それでも、どうでもいい小さな事柄には、「柔らかさ」を含んできたつもりだ。
 「柔らかさ」は私に生きる活力を与え、「堅いこと」を地味に取り組むドライビングフォースを与えてくれた。そんな過去の自分を想い出しながら、ゆっくりと、こう思いつつある自分に気がつく。

 「最も大切なことだけは、柔らかさを、、いえもっと単純に、自分の気持ちに正直になって良かった」

 それは、この素晴らしい大切な一日を迎えられた瞬間だけではなくって、むしろ、何でもない日の、何でもない大切な笑顔を観られたときに、心地良い疲労感のなかで、心からそう感じてしまう。

 「堅いモノ」が「柔らかいモノ」で否定されるかどうかで判定する、「ホンモノ」のリトマス試験紙は、これだけの時間が経っても、コミュニケーションとして色褪せないモノ。
 強い言葉で現実を突きつければ突きつけるほど、そのリアクションで私はきちんと満たされていく。

 そして、私が選んだ以上の「柔らかさ」を存分に含むガキが、突如として私たちの前に現れた。あそこまでだと、流石にどうなの?、と思うけれど、それでもこれからの世代は、それくらいじゃなくちゃいけないのかもしれない、と暖かく見守るだけの度量が、今の私にはある。

 私たちの体現の仕方が、あなたの理想の参考になればいい、、なんて、おこがましいことを、こっそり想っていたりする。

X'mas Acoustic Live 2003 しあわせの風景
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退屈な時間

2015-05-18 23:18:47 | Weblog
 退屈な時間が過ぎていく。
 何をしても、心に思っていることからすると退屈で、ちょっとずつイライラして、いま何も進捗できていない俺を誰か責めて欲しいと願ってみたりして。

 何か変化を与えてみようと想っても、プロトコルから期待される通りの結果しかでない。
 最近の話題になる事件はだいたいが「民主主義の限界」が本質にある。都構想もそうだし、STAPもそうだ。その本質を考えてもみない無関心さが、恥ずかしげもなく自らのレゾンデートルを主張し、俺の専門分野を決めつけてくる。そういえば、彼の予言はピタリと当たったな。

 「たかはしさんが、アクセルを入れた瞬間に、上のほーの人達が、守るでしょうね」
 『常識的で、退屈な一般論による、ありきたりすぎる予測だね。俺がずっとアクセルを入れない可能性だってあるだろ?』
 「ありえないです。だって…」

 そう、ありえない。
 戦うべき時が来たら、いつでも戦えるよう、最高の思考力と場をコントロールする力を保っていなくてはいけないから。そのためなら俺は、演技することも、圧倒的な理詰めで徐々に責めていくことも、相手のレゾンデートルを奪うことも厭わない。そこに責められるべきポイントが確実に存在しているなら余計だ。誰も気がついていない問題点を俺だけが掌握しながら最後まで教えず、俺自身の能力向上を、本当に俺が守りたい相手を守るために行うことは、博愛的になっても、純粋さだけを押し通しても、ロジックとして「正しい」。

 なのに、厳しい言葉を使った時に、ほんのちょこっとだけ残る罪悪感は、俺がCグループだから?自分にウソをついているから?
 いや、そのどちらでもないさ。

 よく切れる鋭い刃のような言葉を俺なりの「より良き」のために使った時に、言葉の刃に俺自身が傷ついていることを瞬時に見抜いて驚いている、あなたの優しい瞳は、どうにかして俺が絶対に助けなくちゃいけない。

 ウソをつかないで必死に生き抜こうとすることが、自分や周囲にウソをつくことでどうにか生き続けることよりも、誰かを傷つけるのだとしても、それでも俺は、理想の水平線を見続けていたい。誰も傷つかずに「より良く」なる方法が、必ず何かあるはずだし、今までだって、それなりに上手くやってきたはずだ。

 個人的な想いが成就した先には、社会貢献がなくては意味が無い。その点、この想いは、完璧な論理によって守られている。
 だから、前を向いて、とりあえずこの無色の世界を生きて、退屈を凌いでみよう。

 …そう想ってから、かなりの時間が経ってしまった。
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交渉

2015-05-18 02:35:46 | Weblog
 もし論理だけで未来を予測し自分だけが勝手に想っている「より良き」に現実を近づけるなら、最低でも10手先くらいは読めないといけないと思う。中途半端な未来予測で失敗してしまうと悲惨だし、何よりも、確実に先を読むだけの論理がないと、当然のことだけど、論理依存では行動ができなくなってくる。

 だからある程度は論理を控えて、とにもかくにも行動してしまい、そこから他人に任せながら頼りながら、現実へと近づけていく方法をとることも大事になってくる。
 だいたいのことなら観察しまくれば、あらゆることがわかってくるし、わかってきながら論理を構築していくこともできる。
 観察と論理構築を繰り返す。

 観察するために必要な実験系を用意し刺激を加えることで、実験対象がこちらが用意した実験系にトラップされたら、あとはじっと待つ。反応がでたら、また論理を構築し、次の実験系を考える。
 徐々に、それこそが人生のパターンだと気がついていくのだ。

 ただ、世の中には、論理だけで推し進めるわけではないにしても、10手先を読み続けなくちゃいけないことだって存在する。
 専門性が上がれば上がるほど、喋らなくちゃいけない人間は専門家ばかりになっていく。20年前、顔をくしゃくしゃにして泣きながら交渉していた頃は、ある意味ではラクだった。子どもの割に意見をしっかり言えるのね、って褒められる裏に、こちらが子どもだということで油断してくれることも多かったからだ。

 絶対に失敗してはいけないことを抱える中で、今も油断はされるかもしれないけど、一筋縄ではいかないことばかりが増えてきた。どんなに泣きたくなっても、いま、最後に泣いてしまうわけにもいかないしね。

 実はものすごく表面的なところだけしか見せてあげていないにも拘らず、愛着を持たせてしまったのではないかと思うときに、わざと勢いよく突っぱねるところは、誰かさんに似てるかもしれないね。

 ここ5年足らずで、ましてや昨日今日、この能力を得てきたわけじゃない。得たくも無い能力を得なければならなかった悲惨さを、最終的にはきっと誰も理解してはくれないだろう。そういう意味では、俺こそが、いっさい誰にも期待していない。期待できない。
 顔色と所作を伺いながら、瞬時に性質を見破り、こちらが見破られそうになってしまう攻撃を確実にディフェンスし、実験系を構築し、そこに引きこみ、観察し、未来を予測し、対応策を考える。

 これから、観たくない現実や過去が現れ、そこからさらに掘り返したとしても、未来を創るために、自分の思考力不足だと想えるだけの強さが俺にはある。
 それがあるのかどうか、この待ちの時間に、ゆっくり考えて欲しい。

 もちろん、世間的にはスゴイことを相手に戦っているのかもしれない。
 でも、このさらに先の敵はこんなもんじゃないぞ!
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新天地に来て変わったこと

2015-05-16 01:10:17 | Weblog
 さて、新しい場所に来て1週間強が経ちました。
 このくらいの新鮮なうちに、これまでの研究のやり方と異なってきた点をまとめてみようと思います。特定されない範囲で(ダウト!笑)。

 一言で言うと、やっぱり俺って、仕事になるとスタイルがあからさまに変わる、けっこうわかりやすい性格だよなぁっと思いますが、、自分でそう思ってるだけかもね。


 1.明らかに着地点が見えている研究テーマ

 これまでは、どこを着地点(目的)にすればいいのかの天下りは一切なく、とにかくこれが面白そうだから、これがうちの実験室でやれるから、って感じでテーマを提案され、価値観は後から俺が追加しなくちゃいけない(わりに文句を言われる、みたいな笑)スタイルが多かったですが、これからのテーマは完全に着地点がみえています。
 ラクっちゃラクだし、つまらないっちゃつまらない。意外かもしれませんが、俺は、実は、言われたことやってるのが一番向いているタイプ。それじゃいけないと思ってて、俺をただコントロールしようとする大学教員とはソリが合いませんでしたが、、カネ貰ってると、俺が向上しようがしまいがカネを支払って頂いている側には関係ないので、別にそういうことでイライラしないんですよね、不思議と。

 2.引き継ぎのテーマ

 今まで、ラボ内でテーマを引き継いだり、ラボでこれまでにやってきたテーマをさらに積み上げる、みたいな経験が一切ありませんでしたが、今回は引き継ぎのテーマ。いやー、これってマジでラクだね。これを学生時代に経験しちゃいけません。
 目的達成までのゴールにより近いってだけじゃなくて、これをやればある程度は絶対にストーリーになる、ってことが決まってるのは気持ちの持っていき方として本当にラク。ただ、これもお金貰ってるから成り立つだけであって、カネ払ってたら、俺が思う本質的な価値観で俺がやりたいことをやります、って言うかもね。だって、あまりにも気持ち的にラクだから。

 3.規則正しい生活になった

 こりゃもう社会人として当たり前なんですが、めっちゃ規則正しいので、満員電車が辛いし、朝起きる時は眠いんですが、不思議とその後の身体は元気。やっぱりサーカディアンリズムは大事なんじゃろか。
 まぁ、こないだまでも、そこまで生活リズムが狂ってたわけじゃないですが、サラリーマン級になると、ちょこちょこ違う。実験量も明らかに増えているし、それで別に辛くない。最初だから?その可能性も高いけど、規則正しい俺!みたいな感じで自信になります(笑)

 4.実験ノートに結果を書くようになった

 実験ノートに結果書いてるのってマジで意味が無いと思うんですが、、だってパソコンで管理できるし、条件も全部書いちゃえばいいし、、何故か言われてもいないのに実験ノートに結果を書いています(笑)。仕事だからか、完全な仕事だからなのか??
 だからと言って、今凄く効率が良い!、やっぱり実験ノートにはやったことだけじゃなくて結果を書くべきだ!、とまでは言えませんが、とにかく変わったことです。

 5.チューブがいっぱいでも、そこまで、めんどくせー、と思わない

 これもなんでだろう?これまでだとチューブが6本を越えた時点でイライラして、めんどくせー、うぜー、っと思ってましたが、30本以上あっても、今は全然大丈夫。はぁぁめんどーだな、っまいいか、くらい(笑)。
 テーマに対して良い意味で思い入れが無いからでしょうか?でも仕事だからそれでいい気がしますけど。とにかくきちんと結果を出せばいい、ってほうが、やっぱり俺にとってはラク。が、まぁ、これでいいのかなぁ?とは思う。

 6.マクロな実験系

 っま、具体的にはマウスなんですが、これまでこんなに大きな実験系はありませんでした。目で観える現象を追うことは殆どありませんでしたから。ちなみに、はっきり言って、これだけは、トラウマです。ウマウシです。怖いっす。可哀相っす。思った以上に。
 次第に慣れると良いのですが、、慣れなかったら、、まぁ、ニートになればいっか(笑)

 7.まともな人しかいない

 全然変わった人がいません。じょーしき的な人しかいません。さすが病院。営業の人まで含めて、極めて、まとも。まぁ、前のキャンパスが変わった人しかおらず、その中でも前の研究室は、一癖も二癖もある、どころじゃ済まない、曲者揃いでしたから、そう感じるだけなのかもしれませんが。
 良く言えば、ちゃんとしている。悪く言えば、面白味が無い。医療機関に面白味など要らないので、これでいいのでしょう。


 そんなもんかなぁ。
 さてさて、ここから飛躍する予感。凄いことが、起こるぞ、きっと。そのために頑張りましょ。
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目を開いて夢をみるには

2015-05-15 00:28:45 | Weblog
 実際に目の前で観えている、ただの繰り返しの生活の人生から逃げたいと思っても、実際に逃げる人は少ない。目を瞑って、惨めじゃない、こんなはずじゃない、今にきっと、と思い込むほうがラクだからだ。

 みんな、心のどこかで、こんなはずじゃないから、劇的に生活を一新したい!、という気持ちを抱えながらも、踏み出す一歩が怖すぎて、これまでの繰り返しの生活を完全に否定できるだけの期待を次の人生に抱けなくて、今日はまだいいや、って行動できない。

 もっともっと、虚無的に考え切ってみるべきだと俺は思う。
 あなたが思い悩んでいることなど、100年も経ってしまえば誰もが忘れている程度のことだろう。だとしたら、自分が一番想い描いていたい理想を実現しようとしたほうが、一番良いんじゃないかと、俺は思うのだ。
 論理的に考えれば考えるほど、この世すべてが夢をみているのと殆ど同じなのだという帰結に収束する。ならば、考えすぎて行動できないというのは、最ももったいないことだ。

 経験から予測される様々な論理を無難と定義するなら、この世に生きる価値などない。この世のすべてがReproducibleであるということを仮定とすることで成り立っている自然科学という武器で突き詰めるべきは、むしろ、何がreproducibleではないか?、ということであり、人生のなかでも、これを意識しないのなら、考え方だけではなく心まで虚無的になってしまうだろう。

 目を開きながら、みたい夢を確実にみるためには、一番観たくない現実から目を逸らさず、気持ちの純粋さを最後まで貫き通すだけの自信が必要なのだと思う。
 少なくとも、あなたと夢をみるためには。

 そのための第一歩。もはや獲物は俺の爪にかかったも同然。
 あとは油断しないだけである。
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「重い」って言わないで

2015-05-12 23:17:54 | Weblog
 物理学だとか医学だとか、自然科学の中の小さな分野のなかで終始し、その小さい枠組みこそが世間で現実であるという勘違いを、これからの世代は持っていてはダメだ。
 どんなスポーツでも筋力が無いとできないのと同様で、自然科学は思考力がなければ理解できない。拙い思考力を隠すために、小さい分野のなかの知識量でカバーしようと思うと、テクニカルタームのオンパレードになる。そしてそれは、もっと広い社会から、ちっぽけな自分達を遠ざける行為であり、その小さい集団を取り囲む環境変動に対して極端にフラジャイルになってしまうだろう。

 そもそも、思考力の無さを知識の絶対量でカバーする(≒知識自慢をする)のは、あまりにも無謀だ。
 なぜなら、知識は、たとえゼロであっても、訊いてしまえばその瞬間に補われてしまうが(訊くは一時の恥)、思考力がそれを理解するほどに達していなければ、いくら長い時間ストーリーを訊いても、いっさい理解できない。微積が理解できていないのに、シュレディンガー方程式の意味をいくら他人から訊いても、原理的に絶対に理解できない。

 この拙さを誤魔化すために、(このGoogleの時代なのにも拘らず)知識量で誤魔化す行為を繰り返すことは、即ち、本当の意味での現実から目を逸らすということである。

 思考力だけではなく、自然科学は実証学問であるから、技術力も絶対的に必要になる。
 その技術を他人に完全に任せたり、ノーマライズされる方向に取り組めば取り組むほど、我々から自然科学の本質は離れていってしまうだろう。繰り返しの作業では乗り越えられない技術的問題(つまりそれは自然科学の本質的な問題に直結している)を乗り越えられる人材は、繰り返しの作業を行ってきた人間だけなのだから。

 誤魔化している人間に誤魔化すな、と言うと、優しくない、と言われることもあるけれど、、どんなことでも、真実を見せることは、非人道的ではないと俺は想う。その先を見据えて解決策を掌握している限りはね。
 当然、何事にも例外はある。真実を見過ぎてしまうことで歩みが止まってしまうなら、確かに真実をみるべきではないから。

 何が足りないのかは明らかで、一人ひとりが、自分に対して圧倒的な根拠のない自信が無いのである。自分に自信がないから、知識自慢をするし、自分に自信がないから、高い技術を持っていても不安になってしまう。 
 根拠のない自信をどうつけるのかは、根拠がないので知らないが、ともかく、もっともっと様々な一人ひとりが、根拠のない自信を持ったら、任意の集団は飛躍的により良くなると思うのだ。

 確かに根拠のない自信は滑稽です。
 しかし、自分の自信のなさを隠すために、他人に「重い」などと言うことで、わざと冷たい仮面をかぶって優位性を魅せるよりは、滑稽ではないと俺は思います。

 だから、少しずつで良いから、根拠のない自信をつけてみたら良いと思う。
 だって、あなたには、間違いなく、価値があるのだから!超価値のある、有能で優秀で、イケメンの俺が言ってるんだから、間違いないっす(笑)。

平成ノブシコブシ 吉村崇の大喜利
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「論文を読んでますか?」

2015-05-11 01:48:41 | 自然科学の研究
 ココだけの話、俺は論文を読むの嫌いです。
 博士号取得者がこんなこと言うと問題かもしれないけど、だって論文読んで、すげー面白かったわ―、って経験、殆どないんだもん。

 もちろん、色々話知ってて論文読んで、やっぱおもろいやー、ってのは全然あるし、2chとかに載ってて、原著読んで、おー、ってなるのはあるんだけど、、それでも一番多いのは、実際に原著論文読むと、『だから?』とか『いやいや、こりゃただ言葉で言ってるだけだろ』とか『捏造に近い』とか、そういうのばっかり。

 今の時代、インターネットに含まれているコンテンツの95%はゴミです。情報は有用でなくては意味がありません。
 原著論文も今やインターネットのものですから、まぁ確かに、感覚的には9割以上はゴミ、読んでも意味が無い文書ですね。

 知識を集積していくという作業は、何か文章を読んでいても、それだけでは決して得られない。
 自らの思考力のレベル、理解するスピード、応用を想定しながら、自分(の価値観)にとって何が必要で何が要らないかを考究しながら、新しい能力をつけていくという気持ちが無いのなら、文章をいくら読んでも仕方ない。

 そもそも、論文を読む、って簡単に言うけど、みんな、どれくらい、ちゃんと読んでるわけ??
 アブストしか読まずに論文を読んだ気になってたりして。

 背景をきちんと理解し(リファのアブストくらいは殆ど全部読む)、論文の目的をしっかりと把握した上で、当然すべてのresultsについて理解・考察し、(数・化学)式の意味を理解し、その導出を原理原則から手計算で追い、実験であれば、試薬と装置さえあれば明日から開始できる、というほど読みこんでいる人は、むしろ稀だろう。
 っで、それくらいしないと本来意味が無いと思うのだが、、これくらい読みこむと、9割以上の論文で、『ウソじゃん』『なんで、この条件無いの?この条件の結果によって、根底から覆るんだけど?』『高級な積み木してるだけじゃん』『当然の帰結で意味無いじゃん』みたいな感想を持つわけです。なので俺は論文を読むのは嫌いです。

 っま、とはいえ、2chのまとめを読むくらいの、つまり、ゴミをあさる気持ちで論文を読む、ってんなら、それでいいと思う。
 ただ、それをやっていることで、「勉強している!」と思わないほうが良い。論文読むのは、2chのまとめ読んでるのと変わりません。

 もし本当に勉強したいのなら、数学・物理系以外の人は、まずは高校の数学と物理の問題集でも買ってきて、きちんと解き直してみたほうが、遥かに勉強になります。知識量で思考力の低さを補おうとしても、ゴミでは論理性に敵わないです。

 だからといって、数学・物理を専門としている人が、それだけでお勉強しているとは思いませんが、統計的に、そうである確率は高いです。彼らは彼らで、統計的に、俺が嫌いな部分は沢山あるけどね。
 「どっかしら、なにかしら、文句があるんだね?」『はい!そりゃもう、ここに書けないほどに』

 バカみたいに言葉で誤魔化して、研究っぽさを演出してないで、、多くの研究会やゼミでは、高校の数学と理科の範囲をきちんとおさらいする、ってほうが、よっぽど意欲があると、俺は思います。
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覚悟

2015-05-10 03:41:40 | Weblog
 どんなに小さなことでも、覚悟がなくちゃ、系を自分の力で動かすだけのパワーを持つことはできない。
 その中にいる集団とは明らかに違う振る舞いをして、系を引っ張る気概があるのなら、覚悟は絶対に必要であり、むしろそれさえあれば良いかもしれない。

 例えば、どうでもいいことで言えば、俺はあらゆる研究会のセミナーやゼミで、自分自身を誤魔化さないように、真実だけを掴みとろうとする覚悟を持って臨んでいる。そのためだったら、他人に失笑されようが、バカにされようが、滑稽だと思われようが、何でもいい。確かに小さな覚悟ではあるけれど、短い時間のなかで、俺自身の能力アップと、集団全体の理解と、良いサジェスチョンとなるような意見と、それらが出現しやすい空気を形成することに、俺は努力は惜しまない。
 論理的なおしゃべりの場では、空気支配率が高くなればなるほど、自分の能力に対して驕りがでてくる。そして、自分の頭で考えてもいないくせに、発表者に知識と理解の責任を押し付けてしまいがちだ。常に忘れてはいけない!敵は誰かではなく自然現象そのものであり、みんなで真相に向かいさえすれば良いと言うことを。常に忘れてはいけない!ただオフェンスしているだけの俺では、何かを諭す権利はおろか、発言権すらないのだということを。

 平和の皮をかぶった安定しているだけの世間が支持する独裁制と、犠牲なき正義を無難のなかで勇ましく掲げてしまえば、いずれは上手くいかなくなってしまうだろう。
 権威は欲しいが論理を振り翳したい、という、「覚悟の無さ」からくる自家撞着は、崩壊と決別への反応を促進させる。

 だからこそ、俺は心の自分に問い続けなくちゃ。「革命は成功すると思うかい?」
 そして、答え続けなくちゃ。『他人の心に、受け継がれる松明の炎を、新たに燃やし続ける』

 どんな分野にも使える圧倒的な論理性と、専門家のコールドリーディングをもディフェンスできるポーカーフェイスを持ってして、誰も侮らず、自分に驕らず、という気持ちになったときにだけ、系をより良くするだけの覚悟を俺が得ることができる。
 それに、俺はもう、一人じゃない。この問題にトライしてくれる仲間が、こんなにもいる。

 目的達成のために、あらゆる方法についての能力をつける覚悟、それを持続し、アプライし続け、絶対に結果を残す!という覚悟さえあれば、怖いものなんてない。
 全力を尽くす!などという先手打ちの安全牌を俺は決しておかない。ただ確実に成功させると誓う。

 むしろ、この問題が解決されたあとに、俺らは、次はどこを目指そうか?
 っま、きっと、そのときには、また新しい問題に自然とチャレンジしているさ。

SEKAI NO OWARI「RPG」
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生殺与奪の贈与

2015-05-07 02:50:12 | Weblog
 多数性を至上のものと決めつけ、カワラナイを維持しようとしていたら、ダイナミクスは起きなくなってしまう。
 この事実を研究している研究者でさえ、集団の価値観を根底に物事を考え、自らの周囲の状況を無難にしようと努めてしまう。せめて、そんな研究テーマやめればいいのに(笑)。

 「みんなが厭な気持ちになる」ということを前提に、種々の行動を規制していくならば、自分が集団に対して常に殺され続けることを肯定せざるをえない。
 確かに社会に対して何かのアピールをすることそのものは集団として行った方が手っ取り早いし確実だ。だから、その集団を維持するための力が必要以上に入ってしまうことは仕方ないとも言えるのだが、この点を唯一無二の重要なこととして語る者ほど、実力が無く、他人任せであり、集団の利益を1人でとっていってしまうような態度をとることが殆どである。そして、実力のない者がトップに立った時、より大きな集団に対して非常に脆弱であり、結局のところ、集団そのものの崩壊に繋がるであろう。

 変化と大衆の価値観を必要以上に恐れず、自分の理想的な気持ちに最も素直になった時に、はじめて、イノベーションは起こる。イノベーションを起こさなくても良いと考えるのであれば、少なくとも、今すぐに、研究の世界からは立ち去るべきだ(しかし、何処へ行っても、イノベーションを起こさなくて良い人間などいない、と俺は想う)。
 研究は、決して、繰り返しの作業ではなく、「書ける」ことを強調し業績を主張する行為ではなく、人類にとって新しいことを行い続けるという覚悟を持ってして臨む、思考or試行錯誤的な取り組みを言うのだから。ちなみに、研究の中身はそうあるべきだが、日常生活はもっと現実的にならざるをえない、などというイイワケは論理的矛盾を孕んでいる。

 俺が何かの退廃的な環境に異議を唱えた時、その異議そのものが「変化」として捉えられ、その「変化」を起こしている俺自身に対して、「無難に、穏便に」「長いものには巻かれよ」などと声をかけ、退廃的なことを肯定化してまで「変化」を嫌うことの気持ちが圧倒的であるならば、俺自身の感情に対して正直になるしかない。
 かつて俺は、こうなったとき、常に出ていかなければならなかった。なぜか最近は違う。それだけで、俺は、「変化」を起こし続けることができる。

 今回の仕事は、あなたの言う通り、俺はもはや当事者ではない。俺はただ、能力として、生殺与奪の権利を掌握しているだけだ。思い返してみれば、この仕事を達成するために、俺個人として数々の能力をつけてしまった。

 ならば、活かすも殺すも、当事者次第にすれば良いだけのことだ。

 シャンスサンプル。
 俺にとって、活かしてくれればこのホンモノを手にできる可能性が存続し、殺されても能力が残る。どちらにしても、俺の勝ちゲー。
 あなたにとって、活かすなら(少なくとも)あなたの望むくだらない言葉が手に入る可能性が高まり、殺しても現状維持。どちらにしても、あなたの勝ちゲー。

 能力を向上し続ける覚悟を持っている限り、少なくとも負けない。権威があるからといって驕っていれば簡単に負けてしまう。
 シンプル。
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Shadows of you

2015-05-04 07:50:13 | Weblog
 完全にプラトニックな浮気こそ意外と一番タチが悪いのと同様に、ものづくりをする上で、能力的な差はあれど気持ちは一つである場合と、気持ちはマクロからの要請でかなり支配的であるが能力はかなり一致している場合だったら、遥かに前者のほうが楽しめるし、少なくとも俺とは、やっていける。

 だから、そこから抜け出してよ、誰よりも時間がかかってしまうことは最初からわかっているけれど、、と俺が思う権利を有することの必要条件として、少なくとも気持ちが一致していることが要請される。
 待って待って待ち続けて、それをも俺の都合だと自分勝手だとストレスだと言われても、それでも、短いヒントの中から何かの可能性を感じてしまうと、どんな側面においても、やっぱり自分と自分の気持ちにウソをつきたくないから、どんな他人も俺に近づけはしない。

 そのような純真さを、現実的にどこまで貫けば良いかを査定しながら、本当の本当に俺が望んでいる最低ラインは、誰にも伝えない。そのラインを絶対に超えさせるように動きながら、自分の行為の肯定化と達成感を眠りの中で味わう。
 悪性腫瘍を取り除くには術者が多角的な視点と技術でその部位を正確に把握しなければならない。クランケはやがて自らを破壊し尽す痛みを超えるための痛みを享受する覚悟がいる。しかしながら、本当の意味で覚悟が必要なのはクランケの身体を切り刻む術者であり、許されない失敗に付き纏われるプレッシャーは、クランケの想像を遥かに超えた絶対量を有しているのである。

 それほどの行為をする上で必要なのは、所詮、浮世の栄華など泡沫に過ぎない、と悟り切ることであり、夢の中の理想を大事にすることだと俺は思う。
 最も助けたいと本気で想っているにも拘らず、どんな変化をもたらしても泡沫だと悟っている、絶対矛盾的自己同一性を成り立たせる核はホンモノなのだと信じていたい。

 その価値はあるよね?
 っと、不安を胸に、夢の中のあなたに訊いてみる俺がいる。

Mika Nakashima 中島美嘉 - Shadows of you (Piano Version) by Ting Ting
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