たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

Your eyes only

2015-03-31 00:10:05 | Weblog
 まだ何も得ていない頃に、語りつくしていた理想は、まだひとつも失くしちゃいない。
 あれからかなり時間が経ったけど、俺は純真さを失わず、あらゆる面で誤魔化さずに済んでいると想っている。

 もちろん、すべてが予定どおりじゃなかったし、裏切られたことも、誰も信用できなくなったことも、投げ出したくなったことも、諦めたくなったこともたくさんあった。
 それでもあの頃よりも、ほんの少しくらいは、あの頃実際に想い描いていた自分に近づいたと思う。理論研から来た俺が、いつの間にかある程度自由に実験できるようになっていたし、英語で論文書いたり読んだり評価したりできるようになったし、圧倒的な自信を持ってあらゆる話をすることができるようになるほど思考力をつけることができた。

 あの頃は、曖昧な"達成の向こう側"を誰かの瞳に映して、一過性の笑顔を探し続けていた。
 そんな現状より、俺にとって、今は、よっぽどマシだ。今は、すべきことが何か明確にわかり、今できることができているのだから。

 それでもできるだけのことをするだけで精一杯で、遅すぎるイイワケに終始しているかもしれない。そのせいでものすごく傷つけているかもしれない。
 現実を見せないで誤魔化すのが、優しさではないと思う。だけど、現実を見せすぎることで立ちあがれないほど傷つけてしまうのなら、それも優しさではないと思うのだ。

 矛盾だらけの我儘で傷つけず、本質的により良くするのは大変に難しい。カワラナイ想いを抱き続けながら、時だけが過ぎていってしまったこの時を、補うように今できることを。

 あらゆる可能性を考慮して、絶対により良く変える。俺がいるのだから大丈夫。
 全力は尽くします、などというイイワケはしない。俺があなたを確実により良く変えてみせます。

Your eyes only EXILE


 (単に、一番好きな曲は何?、と言われたら、俺は40曲はすらすら出てきてしまいますが、そのなかで絶対一つに絞れ、と言われたら、おそらく俺はこの曲を選びます。
 一応、今日で学生生活が終わるんですが、今いるこの場所に来るための大事な日に書いたこのブログも、この曲で歌記事を書いていました。このブログは「日記」であることを公言してますので、この曲にかなりぴったりくる出来事や気持ちに、今なっている自分が、けっこう不思議です。最後のほーだけ、完全には共感しませんが、いつまでも曖昧な未来の形をみんなで楽しく追いかけられたら、と想っています。)
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When's it my turn?

2015-03-28 02:12:40 | Weblog
 通常、純真さを試せば試すほど、その対象は純真さを失うという観測者問題から逃れることはできない。

 経験がない点に期待して純真さを求めている時点で、経験させればさせるほど純真さは失われていくことは必然であるにも拘らず、そんなことも理解せずに実験を行っているなら、いささか予測不足な行動になってしまうことは言うまでもないだろう。
 そもそも、経験がないことが即ち純真ではないし、純真であるからといって経験がないとも限らない。なのに、相手の純真さを試すようなことをしていれば、演技が上手い人間が周りに残るだろうし、純真だった何かも壊れやすくなるし、第一の結晶を壊したくないがために何も行動できない腑抜けへと転移してしまうだろう。

 相手の感情を知りたければ、試すなどというコスパーの悪いことをしなくとも、主に次の2つの視点で簡単に分かる。論理からのアノマリーと論理を突き詰めた先の価値観。この2つを冷静に見極めれば、自然と相手の感情、そして純真かどうかも分かるだろう。

 だから、純真さを試すようなことしないで。

 俺は、論理からのアノマリーがほとんどなく、突き詰めた先の価値観が純真なモノしか残らないほど、自己矛盾性がものすごく低いため、純真さを試されたくらいで、俺が純真さそのものを失うことは決してない。そういう意味では、別に、純真さを試されようが、どうということはない。
 そのぶん、相手の不純さを露呈させてしまう残酷さがある。どんな刺激にも反応しない圧倒的な純真さは、時として残酷であり、実験者本人が観てみたいはずの純真さを提供してあげればあげるほど、実験者は俺自身を否定せずにはいられないだろう。なぜなら、純真さの存在そのものを否定するための、実空間上で純真さに直結しているように感じるくだらないコレクションを、すべて無意味化されてしまうのだから。

 例えば、俺に対して、「あいつは政治力学をいっさい加味しないほど、いっさい無難じゃないから、あいつは上手くいかない」などと、ドヤ顔で陰口を語ることは、自らが完全な無能であることを証明してしまっている。それが自分が無能である証になっている発言だと気がつかないほどの愚か者こそが、俺を否定せずには生きていけないのである。
 俺ごときを、、いや、誰であっても、誰かを否定しなくては生きていけないような人生では、一生、大きな矛盾を抱えながら苦しむようになってしまう。俺は、事実と純真さの塊で形成されており、反論できない。避けるしかない。弱者は侮辱に耐えて生きていかなければならない。

 "純真さを試すようなことしないで、って、貴方は私の不純さを掌握しようとしているくせに"
 その通り。不純さを掌握し、確実に存在している、貴女の純真さを抽出することが、本当の目的。俺は再構成の専門家なんでね。

 不純からきちんと解き放たれた純真さだけでぶつかり合えたなら、何かが変わって、本当のホンモノになるかもしれないのに、俺に対して純真さを試すようなことをしていても、自らの不純さに気がついて悲しくなるだけだ。

 常に、理想は、限りなく現実に近い。それに気がつけないのは、純真さへと向かう一歩を踏み出すための、ほんの少しの勇気がないだけなのだと俺は想う。

 そのほんの少しの勇気さえあれば、貴女の好きな状態に簡単になり、本当の意味での、自由と智慧を得られるだろう。

リトル・マーメイド Part Of Your World
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3年前と今

2015-03-26 02:37:02 | Weblog
 与えられた舞台の上で踊るからこそ難しいことは、世の中に多々ある。
 その点、俺は本当に幸運だ。舞台作りからいつも始められるし、何のプレッシャーもないし、やめたくなったらいつでも即座にやめられることしかやってきていないし、それでも、なんやかんや上手くいくことが多いから。

 特に理系は、その理系科目を勉強したり研究したりするのは好きなのだけど、ときに疲れてしまったら、とにかくそれから離れることが先決だ。そして、もう一度好きになるまで待つ。そうやらないと、どんどん自然科学が嫌いになってしまう。
 どんなに面白いゲームでも、どんなに大好きな誰かでも、ずっとやってれば、ずっと一緒にいれば、本気で厭になることもあるし、本気でムカつくこともあるだろう。そうしたときは、とにかく距離を置く。

 そういう基本的なことができないから、「研究になるから、これを研究する」などというような、M1レベルのことをPIレベルの人間が言うようになるし、ただのディフェンスとしてのサイエンスしかできなくなってしまうのだ。
 はっきり言って、こういうプロの肩書きを持った素人さんは、このアカデミズムの世界から出ていくべきだと思う。研究になるから研究する、というのは小学校の自由研究レベルであって、国の予算を使うべきではないことは明らかだ。

 そして、そんな潮流で許されてしまうからこそ、いつまでも論文を出さないように強いることが正当化されるし、学生を不当に留年させることも正当化される。

 俺は、この、大学院教育における、劣悪さと無法地帯を変えるために、博士号を取得したのだ。
 変える、というのは将来的なことの意ではない。かなり遅くともこの1年で変えなくては意味が無い。

 これまで、確かに色々なことがあった。あれから、確かに色々なことがあった。
 ときに、すべてを忘れて笑ったことも、花火を観ながら夢を語ったりあえたことも、本気で意見をぶつけあい、お互いのレゾンデートルを脅かすことも、上手くいかなかったこと、上手くいきすぎてしまったこと、色々あったことすべてを捨てざるをえなかったこと、意外な人に裏切られ、意外な人に助けられ、謗られるたり、噂されたり、それを笑い飛ばしたり、その上で、新たな信頼関係が築かれたこともあった。
 ただ、それらは、すべて、1つの目的に則していたはずだ。与えられていない舞台だからこそ、この大義名分が意味を為してくる。

 今、あらゆる可能性を考慮しながら、後悔のないようにしなくちゃいけないね。
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10年前と今

2015-03-22 02:35:13 | Weblog
 何も保証が与えられないまま、追い出されそうなところが、ちょうど10年前と今と、まったく同じ状況なのかもしれない。
 あの時と違うことといったら、レールから降りたとしても、何も怖くないということを知っていること。そして、この10年で身につけた圧倒的で絶対に消えることのない能力が俺を守ってくれるということだ。思考力、論理性、表現力、対人力、それらが、それぞれ3倍以上に増えたといっても過言ではないだろう。

 この道がどこで終わるかは分からない。でも、何処から来たか、それだけは分かっている。

 あの頃、俺は、紛れもなく、穴落ちライオンだった。あらゆる他人が俺に手を差し伸べてくれ、助けてくれようとしていたにも拘らず、その手に牙を向けて傷つけ続けていた。
 結果、明らかな犠牲のもと、明確に助けだされた、その優しすぎる右手は、これだけの時間が経っていても、決して忘れていない。どうして俺がABCグループ理論を創り出来る限り広めてきたか、どうして俺が時間依存性のないモノこそがホンモノだと想っているか、そのルーツが、左手の感覚に残って、まだココにある。

 確かに俺はあの頃より成り上がったかもしれない。しかし、それは誰のおかげか、どの仲間のおかげか、それをきちんと想い出す必要がある。自習室で当時の俺では敵うはずのない問題を相手にしていた頃の自分を想い出さなくちゃね。知識が1つ増える度に、穴の底が深くなっていったあの頃を。

 そうすると、俺はこのくらいのデッドエンドで諦めるわけにはいかない。どんなにボロボロになろうとも、そのせいで死にそうになろうとも、結果幸せにはならないのだとしても、そのせいで周囲から人が減ったとしても、最終的に何の意味も無いのだとしても、いま目の前にいる助けが必要な人に対して、助けを露わに求められていなくても、少なくとも手を差し伸べ続けるだけはしなくちゃいけないという義務が、俺にはある。

 「差し伸べられるはずだよね。差し伸べ方が普通よりも遥かに分かるはずだよね。だって、たかはしけいは、Cグループ出身で、もともと助け出された側なのだから」

 それが、当時の俺に優しかった人への、唯一の、感謝の印となるはずだ。
 同じ窓から、同じ空を見上げた、あの流れ星に、そう願う。

 人生一度きり。
 流れも習慣も関係無い。自分の気持ちだけに正直になるべきだ。

三代目 J Soul Brothers from EXILE TRIBE / 「R.Y.U.S.E.I.」Music Video
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俺の好きな人びと

2015-03-21 02:36:22 | Weblog
 前に「俺の嫌いな人びと」はやったので、今回は逆に「好きな人びと」をやろうと思います。

 今回は厳重注意は要らないかと思いますが、俺が、その気質を持っているというだけで無条件で好きになってしまう、という事柄を挙げていこうと思います。ちなみに、相手が俺のことどう思ってるか?、とかは知りません俺が勝手に好きなだけです。

 では、俺の好きな人達、スタート。


 1.Macユーザー

 これは「嫌いな人」編のラストに言いましたが、Mackintosh使ってる人は、それだけで大好きです。よく、MacユーザーはMacユーザーに優しい、と言われますが、俺も例外ではありません。
 ちなみに、これを宣言したからか知りませんが、うちの研究室の後輩で、うちの研究室に入ってからMacにした人が2人もいます。そんなことしても、ゼミでのオフェンスはやさしくなりませんけど、良いの?笑

 なんつーか、Macユーザーって、Windowsのほうが絶対に親和性高いはずなのに、そこあえて"ぽさ"を重要視してるところが、共感できます。薄っぺらいっちゃ薄っぺらいけど、パソコンのOSくらい薄っぺらいほうがいいっしょ。そして、Mac使うとMacから離れられない。実はこのブログはいつもWindowsで書いてますが、たまーにMacで書くと書きやすくて仕方ないです。

 2.口下手なコミュ障の理系

 けっこう皆さん勘違いしてますが、俺、口下手な理系は大好きです。なぜかといえば、絶対に不正行為をしてないのが、すぐに分かるからです。
 理系のプレゼンなんて、口下手なくらいがちょうどいいです。口八丁が上手いヤツは信用なりません。

 俺は、どんなに拙い発表や論文でも、自ら、その内容から自分が「学ぶべき」内容を抽出することができる程度の、研究世界にいる人間としての最低限の賢さは、当たり前に持っていますので、少なくとも、俺に対しては、発表練習なんてする必要は一切ありません。
 自分が大事だな、大好きだな、って思う内容を、一生懸命そのまま伝えてくれれば、目的がはっきりしてなくても、目標が達成してなくても、意味があると俺は思います。

 ずっと言ってることですが、俺は能力そのもので他人を評価しません。気持ちで評価しますので。
 この視点に立つと、むしろ、口下手なヤツのが、ちゃんと研究していて、俺が「楽しいと感じる」内容を紹介してくれることが多い気がします。まぁ、自分が発表ベタなことの正当化なんですが(笑)。

 3.陸上部の男

 部活シリーズでいうと、陸部の男は、ほぼ全員、俺からの好感度が高いです。俺自身は体育会系じゃないし、当たり前ですが、俺はマッチョ好きなもーほーじゃありませんので、あんまり親和性がない感じですが、いま、ぱっと思いつく陸部の男を挙げてみても、好きなヤツしかいない。

 地味でストイックな練習を強いられる陸部は、晴れ舞台では一番カッコイイ。彼らの生態はよくわかりませんが、そういう分野が俺は好きなのかもしれません。
 ちなみに、Nは少ないですが、俺はがっつり鍛えてる体育会系の女性から好かれる率がなんとなく高い気がしてますが(笑)、俺からもそんなに嫌いじゃありません。話が合うことが多いです。同じ理由だと思います。

 4.3月生まれのB型

 このプロフィールの親和性の高さは半端無いです。どちらかだけでも、かなり俺と親和性が高いのですが、この2つが揃ってる人は全員好きです。まぁ、少なくともそれくらいはプロフィール知ってる、ってもうその時点で、ある程度は好きな人ですけどね。

 根は明るいんだけど、小さい頃はみんなについていけなくて苦労していました、それを乗り越えて今があります!、みたいな感じ、とってもイイです。
 まぁ、俺が3月生まれのB型ってだけですけどね(笑)。

 ちなみに、B型の人は、俺が好きになるか嫌いになるか、めちゃくちゃ激しいです。あと、かに座、さそり座、うお座の水グループは、やっぱり、なんやかんや親和性が高い印象です。

 5.俺をいじれる女

 俺って、やっぱり、あらゆる方面に対して、めちゃくちゃ能力が高いので(笑)、プライドがより高い、男でも、俺をいじれる人は稀です。俺に対して、ちょっとでも真っ向から上から目線を向けられる人自体が稀な中(俺に対して、ただ謙る人、逆に、ただキレて感情的になる人は論外)、それを女が俺に対していじるなんて、めちゃくちゃ勇気があります。
 その勇気、素晴らしい。どんなに不当であっても、どんなに理不尽であっても、こんなにも少ないチャンスで、そんなにも俺にゴールを決めたかったかぁ、って気持ちになって、可愛くて、愛おしく感じてしまいます。好きじゃないわけがありません。


 なんか「嫌いな人びと」に比べて、ただの冗談記事になってしまった気がする。
 やっぱり、人間嫌いなのでしょうか、俺は(笑)。
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やるせない想いは

2015-03-19 00:38:33 | Weblog
 期待している相手に対しての妄想は行えば行うほど良いと俺は思う。
 短い時間の少ない情報や小さな出来事から、相手をより良く想定して、相手への気持ちが高まり、自己完結しながらも、相手との現実の距離を見つめる時、必ず思考力が高まっていくから。

 多くの女が情熱と気持ちだけで行動することを男に求めていることを理解しているAグループ(ノリの良い集団の総称)の男は、とかく直接的なアプローチをしがちだ。女にとっての"情熱こそが現実である"という妄想の隙間を、手っ取り早く肉体関係になろうとするグループ性の高さは、一時的に埋めてくれる。
 だが不幸なことに、男にとって行為そのものは、非常に理性的であることが殆どである。ここで、次第に、相手への妄想が打ち砕かれる。しかし、懲りずにそれこそがホンモノだと感じ、いつまでも最後の女になれない、同じ失敗を繰り返してしまう娼婦的な女は、純粋さを極めているCグループ(ノリの悪い集団の総称)の男に興味を抱く。そして、同じような純真さを、打ち砕くことの趣向を覚えるのである。
 さらにしかし、その純真なCグループ性をもった男も、いずれは無難な対応ができるようになってしまう。妄想を打ち砕くつもりが、実際に妄想を打ち砕かれているのは娼婦的な女のほう、なんて、よくある話である。

 何に対してでも、期待をこめて、たくさん想像して、崇高なものに高めてしまった、自分の心のなかだけの虚像が粉々に打ち砕かれる瞬間、泣きたくなって、ひとりきり選んでしまいたくなる。
 心は叫んでいるのに、虚勢と、圧倒的な事実と、普段の羞恥心から乖離した決定的非現実を、正当化しようとすることが邪魔して、辛いことほど言葉にはできないだろう。

 妄想を深めたほうが良い、もう一つの根拠は、その妄想は、必ず、絶対に、打ち砕かれるからである。
 そのときに、暗闇をずっと彷徨いながら、どこかに潜む強さを探し続けられるか、それこそが人生にとって最も重要だからである。
 人によっては、1週間で立ちあがれるかもしれないし、10年以上かかる場合もあるかもしれない。

 でも、必ず、やるせない想いは、報われる。
 その想いを夜空に解き放ちながら、そのなかで強さを探し、同じ対象・同じ相手でなかったとしても、第二の結晶作用を待てば良いのだと思う。

 だから、好き、で疲れたら、休んでいい。
 また好きになれるまで、気楽に待ったら良いのだと俺は想っている。

Superfly - あぁ
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嘘つきは成功の始まり?

2015-03-16 02:30:40 | Weblog
 あまりここで公言してこなかったですが、東大にきて5年が過ぎました。
 来年度からどーなるかはまだまだわかりませんが、おそらく、少なくとも所属は、東大から離れるであろうと思います(そうならなかったらごめんなさい笑)。

 まぁ、大学院からなので、そこまでちゃんと全体を見回したわけじゃないですが(TAで一応、文理1~3類すべてみましたが)、東大の人ってどんな人が多いんですか?と訊かれることは多いので答えておきますと、
 『うーんとねぇ、教員も学生も、俺も含めて全員、"手っ取り早い""考えていそうな""アンチテーゼ"好き、が多い』

 まぁ、それは東大の選抜の仕方と教育と研究のやり方と学風の結果なんだろうけど、この部分はとても嫌いです。それ以外の部分は好きなとこも多いんですが、この部分は俺が東大に対して最大に嫌いなところです。
 俺自身もかなりのアンチテーゼ厨なところがあるので、同族嫌悪で、この5年間、自分の頭を使ってきちんと考えて帰結を出す、という取り組みがものすごく発達した気がします。そういう意味では良い学校でした。

 この、"手っ取り早い""考えていそうな""アンチテーゼ"、を有難がるあまり、「議論がきちんとできない」「議論してると称してただの政治力学の話になってる」「責任の所在が不明瞭」「やめたヤツ、いないヤツをディスっときゃ良い」というふうになってるケースが多いです。

 まぁ、これは、東大に限らず、アカデミック業界全体に言えることですが。。

 あれだけ日本の科学界を揺るがす騒動になったにも拘らず、多くの研究者が、虚偽のデータを見抜けない、自分達の審査基準がオカシイかもしれないということをほんの少しも考えてみない、自分たちの都合のいいデータに対して完全に称賛し、いっさいの疑いを持てない状態で、ただただ、文系批判とマスコミ批判しかできない、"手っ取り早い""考えていそうな""アンチテーゼ"を有難がるコメントしかできない腑抜けなのである。本当の意味で、自分の頭できちんと考えていないから、そういうことになる。
 DC1が悪いとか、競争的資金が悪いとか、政策における改善点だけを述べることで責任の所在を文科省に丸投げし、だから実験ノートを提出させるようにするとか、データをクラウド化するとか、まったくもって無意味なところに労働の重きを置いて、本当の意味での改善点がいっさい観られないのが、残念すぎる。

 実はこれはアカデミックに限らないことで、今の日本は、ウソをつくことが成功への始まり、になってしまうような価値観を持っている人が(どの世代でも)多くなってしまった。(っと、論理の飛躍をしすぎてしまうことも東大っぽいかもしれない?笑)
 政策やルール作りやシステムの改善や能力作り以前の問題で、一人ひとりの価値観を変えなくちゃ、明るい未来は創造できねーぜ?

 そして、こういう意見を聴いた時に、

 「じゃぁ、何も喋らないようにしよう」
 「無難なことだけ、詳細なことだけを語るようにしよう」
 「文面をもっと巧く工夫しなくちゃいけない」
 「権威を得るまで、自分の理想を語ることはやめよう」
 「自分の理想を精緻化するのをやめて、目の前のことだけに取り組んで、ルールを上手く使い、その先のことは、知らないフリ知らないフリ」
 「とにかく言葉だけはきちんととっておいて、成果が現れてから、ホンモノにアプローチする」
 「でも、傷つくことは怖いから、自分の大好きを極めたりはしない」

 とやってしまう、とても"手っ取り早く"、一見すると"考えていそうな"、本末転倒な"アンチテーゼ"が、心地良いんでしょ?人生は一回しかないのに、他人のアンチテーゼや帰結や価値観に振り回されたり、世間の常識と無難さに心を委ねたりしているなんて、もったいなくねぇーの?
 この本末転倒さを、きちんと捨てて、価値観を純粋なカタチにリファインしたら、ぜひ俺に連絡してきて下さい。

 それまで俺は、俺の能力を即物的にでも求めてくれる人に対して、全力でこの能力を提供していこうと思います。
 答え合わせするのは、10年後?1年後?1ヶ月後?1週間後?それとも、明日までに、今までの本末転倒な価値観をすべて捨てられる自信とプライドくらいは、ある?

 永遠に来ないかもしれないその日を想像しながら、失敗は原理的にありえない、という言葉を拠り所に、あなたにとっての一番の幸せを祈っている。
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2次会に行かないほうが良い理由

2015-03-15 02:54:03 | Weblog
 さて、年度末です。(ちなみに今後どこに行くかは、ここで発表しませんので、気になる人はLINEしてきてね笑)
 3月は、個人的に年末よりも飲み会シーズンで疲れていますが、俺は基本的に、2次会には行きません。

 ということで、今日は、俺が2次会に行かない理由を、一般的な視点で、箇条書きで書いておきます。不特定多数の誰かにふわっと出会って、これ観られてもいいようにしか書きませんが(笑)、俺にとってプラスしかないので、とにかく書いときます。

 では、スタート。

 (ていうか、漢字が使えるってラクー笑)


 [1]重要人物が来ないから

 はっきり言って、2次会って、惰性です。それがわかっている重要人物は、2次会に来ません。飲み会自体好きじゃない俺は、飲み会はとにかく人脈ゲットの場だと思っていますので、重要人物が来ない2次会に参加する意味が無いんです。
 あなたが人脈を作りたいと密かに思っている人が2次会に来ると思いますか?そして、めちゃくちゃ可愛い子は、2次会には決して来ません。それは1次会のチャンスでご厚意になろうと頑張ろうとしてないような人とは、むこうだって興味が湧かないからです。

 [2]節約

 飲み屋って金かかりすぎ。ホント、俺と普段飲みに行くと、全然お金使わない、コスパーの良い店にしか行かないから、感覚麻痺する人いますけど、ふつーに何も考えずに飲み食いすると、一人5000円いったりするからね。上手くて安い店、なんて、そうそうあるもんじゃ、ありません。ですから、2次会行くと5000円以上確定。こんなの、週一でも、繰り返してたら大変です。
 この感覚が無い人で、2次会以降に普段行ってる人は、よほどの寂しがりか、飲み会に誘われ無さすぎです。いくつかの飲み会に参加してれば普通の感覚。反省して下さい(笑)。

 [3]ラーメン屋に行きたい

 薄っぺらい会話をしまくった後に、ひとりで食べるラーメンは格別です。つけめん・油そばでもイイです。
 そんなことしてるから太るわけですが、これは譲れない理由です。ラーメン屋がまだ開いてる1次会で帰ると、ラーメン頻度を保てるわけです。

 [4]カラオケじゃない

 一昔前(90年代)なら、カラオケは2次会の定番だったのですが、最近の若者はまったく唄いません。カラオケなら2次会に行く価値は俺にはあるんですが、残念ながらカラオケじゃない2次会が多いのです。なぜ2次会がカラオケだと俺には行く価値が発生するかというと、俺はCグループ(ノリが悪い集団の総称)のくせに歌が上手いからです(笑)。これは俺にとっては重要で、、カラオケ軸で上位だとグループ性(ノリの良さ)が上がるので、あまりにもナメられてる集団で、2次会がカラオケだと俺は参加します。
 っというときもあるにはあるんですが、、たいていの場合、2次会とはいえ大人数ですから、一曲しか歌えないのに2000円とかとられるので(そのくらいのオーダーで歌でお金とったこともあるのに)、コスパーが悪すぎて、2次会がカラオケであっても、行かないことが多いです。

 [5]カフェりたい

 2次会には行きませんが、その後に数人でカフェるのは好きです(ラーメンでもあり)。というよりも、これをするために飲み会が存在していると思うんですが。。
 だって、喋りたい人とはお酒無しできちんと話したいし(かといってお酒そのものは好きなんですが)、デザート代わりに甘いモノ飲みたい(なんか太りそうなことばっかり)。飲み会あとの、ロイヤルミルクティーとかキャラメルマキアートは、マジ最高です。

 [6]2次会では!と期待してる自分がキモい

 幸せは、どこかからやってくるものではないし、まして、誰か幸せにして!って思ってる怠惰さじゃ、幸せになれるわけがない。同じように、楽しいってのは、誰かにただ合わせていても、楽しくなるわけがありません。なのに、2次会なら、もしかしたら、って期待してる自分が少しでもいるなら、行動で具体的にそんな自分を否定する他ありません。
 俺はやっぱり根深くCグループなので、いわゆるノリが苦手です。ノリの要素が強い2次会の環境で、俺が幸せになれるとはとても思えませんし、それなら、誰か(ノリ悪いヤツであっても)誘って、ダーツとかビリヤードとか行ったほうが有意義です。


 実はけっこう[1]の要素が強くて、重要人物が行かないなら俺も行かない!、ていうか、俺も、もはや重要人物、みたいなカッコつけが影響してるかも。
 そんなわけで、2次会に行かない俺、っという自惚れでした。




 本当の理由。
 [7]俺が無難を取り繕える限界の時間が3時間だから
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なやめるライオンくん

2015-03-14 00:45:12 | Weblog
 あるところに、あなにおちた、ライオンがいました。
 いたずらでつくられた、あなにおちてしまった、ライオンくん。そんなライオンくんをたすけようとしてくれる、ウィルくん。ウィルくんは、いろいろなほうほうで、ライオンくんをたすけだそうとしてくれます。

 ウィルくんはまず、あなにてをのばして、ライオンくんをちじょうにもちあげようとしました。しかし、ライオンくんは、ウィルくんのよわそうなてをみて、じぶんをもちあげられないだろう、とおもいました。たすけることをあきらめさせようと、ライオンくんは、ウィルくんのうでをひっかいてみました。ウィルくんは、ひっかかれたうでをみながら、すこしだけいたそうにして、そのあとすぐに、わらいました。
 これではどうにもなりません。ライオンくんは、ウィルくんの、むだな、たすけを、やめさせないといけない、とおもいました。

 つぎにウィルくんは、おちていたロープをつかって、あなにたらし、ライオンくんをひきずりあげようとしました。ですが、ライオンくんは、ロープでは、もちあげられないことがわかっていたので、そのロープを、あえて、らんぼうに、ひきちぎってしまいました。
 これではどうにもなりません。ライオンくんは、ウィルくんにあきらめてもらわなくてはいけません。

 なぜなら、ライオンくんは、あなにおちるとわかっていて、このあなにおちたところがあるからです。ライオンくんは、「たすけてほしいわけではない」「これは、たすけが、ひつようなことじゃない!」と、じぶんのこころに、つよく、いいきかせました。

 ついには、ウィルくんは、たくさんのともだちを、よんできてしまいました。あなのちかくに、たくさんのともだちがやってきて、ライオンくんはみおろされています。
 ウィルくんのともだちが、あなのちかくで、じぶんについて、はなしているので、ライオンくんは、なんだか、イライラしてきてしまいました。ウィルくんがたすけようとしてくれることは、いみがないとおもいながらも、ありがたいところはあったのですが、ウィルくんのともだちは、ライオンくんのことを、しんけんにかんがえてくれているとは、とてもおもえません。
 だから、ウィルくんが、また、てをのばしてきたとき、ウィルくんをあなにひきこもうとしてしまいました。でも、ウィルくんをこのあなにひきこんでも、なにも、かわりません。だれかが、ライオンくんに、なにかをしてくれるわけではありません。

 これではどうにもなりません。

 ウィルくんが、あなにおちているわけではないんだ、とおもえばおもうほど、ライオンくんはウィルくんを、とおざけたくなってしまいます。じぶんは、あなのなか。ウィルくんは、じゆうです。ウィルくんのことをほんとうにかんがえるなら、このあなに、2どと、ちかづけないことが、たいせつだ、とライオンくんはおもいました。
 ウィルくんは、ウィルくんのともだちのリアルちゃんたちと、どこか、とおくにいってしまえば、いいのです。それが、ライオンくんにとっても、なっとくのできる、こたえのように、ライオンくんにはおもえました。

 しかし、ウィルくんは、つぎのように、いいました。
 「きみを、たすけるほうほうが、ついにわかった。まず、そらに、たいらな、じめんをつくる。そして、ちじょうと、そらを、ひっくりかえせばいいんだ。そうすれば、だれもきずつけずに、きみを、たすけることができる」

 それは、ライオンくんにとって、がまんのならない、ことばでした。いったい、どれほどのじかんが、かかるというのでしょう?こちらの、じょうきょうと、きもちが、なにもわかっていないウィルくんに、もう、かけることばが、みつかりません。
 それでも、、だれかが、ライオンくんに、なにかをしてくれるわけではありません。

 さぁ、あなたなら、「助ける」と都合の良い言葉をつけて、無意味な行動を繰り返すウィルくんを、どうやって振り払う?それとも、受け入れ続ける?
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あなにおちたライオンくん

2015-03-13 01:42:25 | Weblog
 むかしむかし、あなにおちてしまった、ライオンがいました。
 ただのあなにおちたわけじゃありません。だれか、にんげんが、いたずらでつくった、おとしあなに、ライオンくんは、ついおちてしまったのです。

 あなにおちてしまったライオンにきがついた、ウィルくんは、どうにか、かわいそうなライオンくんをたすけようと、おもいました。

 ウィルくんはまず、あなにてをのばして、ライオンくんをちじょうにもちあげようとしました。ですが、あなにおちてしまって、どうしようもなくなっているライオンくんは、それがたすけだとわからずに、ウィルくんのうでをひっかいてしまいます。
 これではどうにもなりません。しかし、ウィルくんは、このライオンくんをどうしてもたすけてあげたいとおもいました。

 そこで、おちていたロープをつかって、あなにたらし、ライオンくんをひきずりあげようとしました。しかし、ライオンくんのきばとつめは、とてもつよく、ちからいっぱい、らんぼうにロープをひきちぎってしまいました。
 これではどうにもなりません。しかし、ウィルくんは、このライオンくんをたすけるためにどうしたらよいか、あきらめたくありません。

 ひとりでかんがえていても、どうしたらライオンくんをたすけてあげられるかわからないので、ウィルくんはたくさんのともだちをよんできました。あなのちかくにたくさんのともだちがやってきて、ライオンくんをみおろしています。
 ウィルくんのともだちみんなで、おはなしをしているうちに、ライオンくんは、とてもおこってしまいました。たくさんのひとがいるせいか、こうふんしてしまっているようです。おちついていいんだよ?と、ウィルくんが、もういちど、あなにてをのばそうとすると、ライオンくんはウィルくんをあなにひきずりこもうとしました。

 これではどうにもなりません。

 なんとか、ほかのともだちのおかげで、ウィルくんは、あなにおちずにすみましたが、そのようすをみていた、ウィルくんのともだちのリアルちゃんが、つぎのように、いいました。
 「このままでは、ウィルくんも、このあなのなかにひきずりこまれてしまうわ。このライオンにはかわいそうだけど、とりあえずは、そっとしておきましょう。もしかしたら、そのうちあなから、ひとりででてくるかもしれないのだから」

 ウィルくんは、ひとりででてこれるわけがないだろう、とおもいました。そして、ウィルくんは、そんなリアルちゃんのことばに、つめたいところとあたたかいところを、ほとんど、どうじにかんじました。

 そして、リアルちゃんはこうもいいました。
 「このライオンくんをたすけたとして、どうするの?あなたはたべられてしまうかもしれないわ」

 ウィルくんは、じぶんのきもちがわからなくなりました。ライオンくんはあなにおちて、こわいおもいをしているから、じぶんをきずつけてくるのであって、たすけたあとなら、ぼくをたべたりはしないはずだ、とリアルちゃんにいいたいのに、いえません。
 たすけなくちゃいけないというきもちと、じぶんがあなにおちてはいけないというきもちで、ついにはないてしまいました。

 どうすればいいかわからないですが、ひとつのこたえをみつけなくてはいけません。それは…。。

 さぁ、あなたなら、穴に落ちたライオンくんを、いかにして助けるか?それとも見捨てるか?
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俺の価値

2015-03-11 00:57:46 | Weblog
 みんな勘違いしているが、、俺がABCグループ理論というスクールカーストの一般化を提唱している本当の理由は、こういう価値基準を否定するような事象をめちゃくちゃ望んでいるためなのである。

 社会にはあらゆる普遍的な価値基準がある。学歴、職歴、年収、業績、年齢、ルックス、、それに加えるべきものが、ノリの良さを指標にした、ABCグループというだけである。一般社会ではこのような普遍的価値基準を強要してくる。
 いかに、○○があるか?、ないか?そういう息苦しさを感じながら、自分が本当に好きな人、好きなモノ、好きな事象を選びにくくなってしまっている。

 俺は、これまで、諦めてこなかった。自分の好きだけを貫いていく気概でいるし、それが社会的にどんなに蔑められるようなものであったとしても、俺が好きなのだから、絶対に評価されるべきである、絶対により良くなる要素を持っている、絶対に達成されるはずであり、俺個人が超個人的な価値基準と俺の"好き"だけで特定していく、という立場をこれまでずっととってきている。

 だからこそ、こういう俺固有の価値基準で"好き"を選んで、実際にアプライして、無反応であるということが、もっとも傷つく。

 しかもさらに、自分のプライドや体裁を守るためのウソを、さらに誤魔化すための無反応という決定を下している臭いを感じると最悪だ。その虚栄心を重要視していきたいのなら、それなりの努力をして結果を出せばイイだけじゃないか。それを捨ててまで頑張っているところを俺が評価しているにも拘らず、一般の価値基準を持ちだして虚妄し、それゆえ外界との接触を必要以上に遮断することを意義づけるならば、すべてを捨ててアジャストすればいいのである。

 そして、そんな矛盾を抱えているくせに、より一般的な評価を得られている俺を上から勝手に評価する。
 「たかはしくんは、言い方がきつすぎる」「どうしてそういうことをわざわざ言うの?」「正しいことがいつも正しいの?」

 あんまりバカにしないでくださいよ?
 俺はもっと価値のある人間だ!!、と、つい、心の中で強く唱えてしまう。そして、そんな自分に嫌悪感でいっぱいになる。でも、俺の固有の考え方とやり方と価値基準を、実際にきちんと求めてくれる誰かに対して、もっともっと提供したくなる、そんな自分の気持ちは心地良い。

 それは、、確かに、、悲しい帰結かもしれない。所詮、俺も、一般的なマジョリティーの評価としての自分をレゾンデートルにおいてしまうのだから。

 しかし、、そうしないと、辛すぎて、俺が生きていけないのだ。

 そして、辛すぎるこの状態を課すあなたを、果たして、このまま好きでいて良いのか、と疑問でいっぱいになる。

 とにかく生き続けるために、と、求めてくれる誰かを突き放すのなら最悪かもしれないが、俺の場合は、実際に具体的に求められてはいない。"本当は","心のどこかでは","表現できないだけ"等は、すべてはプロバビリティの話であり、すべては解釈と期待の域を出ないストーリーであり、それだけのために俺だけが頑張るのはいくらなんでも滑稽すぎるわけで、滑稽なだけならまだ良いけど、生きられないほど辛いわけだから、だって実際には求められてはいないんだもん、ということを大義名分に、完全に決別していくことを、俺は正当化できる。

 だとすれば、すべてのトスと、いつも最終的には出現する"引き離さない"感についてを、お互いに、心裡留保として帰結させるのであっても、誤魔化しは一切なく、真っ直ぐさは確実に残るのである。

 そして、俺にとって有難いことに、俺個人の勝手な評価を見直しさえすれば、確実に存在してくれている求めてくれる人に対してきちんと向き合って、今できることをすることができる。しかも、おそらくは、一般社会の普遍的価値観による評価も高いとなるならば、どうしても、そのスイッチを押す以外に、俺には術がない。

 その見直した俺固有の評価基準が、一般的な普遍的評価基準からすると、やはり圧倒的なオリジナリティがあり、より良い方向に向き、それが誰よりも大好きなあなたにとっても、より良くあって欲しい、と願うことが、最後の最後、今できること、かもしれないよね。
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虚栄心の行き先

2015-03-10 00:03:59 | Weblog
 自らの虚栄心によって造られてしまった偽りの解釈を正すためには、圧倒的な事実を目撃する他ない。

 Cグループで、ただ真面目であることが存在意義になってしまってきた人が、自らの虚栄心に気がつかずに、その内面では精緻な論理を築いた気になってるケースは多々存在する。それっぽいことをそれっぽく繋ぎ合わせただけ、などの稚拙な論理ではなく、見掛け上はきちんとした論理構成になっているからこそ厄介で、それがただ自分を守るための誤った解釈であることに気がつけないのだ。
 外から見れば明らかに間違っているにも拘らず、真面目で論理的ということに自分の存在意義をヤラセるがゆえ、城を作って論理で守られているから大丈夫って、本当の本当は、思考停止に陥ってるケースは、例えば研究室のHPで運営方針などの記載を読んでると、本当によく見かける。

 自分の主観的な意見を、「論理的な自分が考えているんだから」って勝手に客観的であると評価し、「いや、でも自分など、能力も頭脳も、そこまでは無いのだし」と謙虚になっている虚栄で自らを誤魔化して、自分には能力がないってことはわかってるくらいには賢さがある、ということに安心感を覚え、さらに「でも、ヤンキーの人とかよりは、明らかに考えているのだから有意義なはず」などと納得して、虚栄を増幅してウソで取り囲んで、誤魔化しを前提にしてしまっていることに気がつかない場合、もう流石に俺も、手の打ちようが無い。
 しかも、こちらの論理を、どーせ私のすべての環境をわかってはいないでしょ?、と否定するだけならいざ知らず、自分の考え方が虚栄だと気付きながらも、この場合に限っては主観性こそが正しい、などと主観的視点を客観的視点化するような論理をも許してしまうなら、俺は嫌悪感でいっぱいになる。

 めちゃくちゃ手を伸ばしたくても、どんなにあと一歩で手を伸ばせるだけの距離で、あらゆる手法が思いついたとしても、そしてそれが最も大好きな相手であったとしても、その人がいないということを前提に生きていくしかなくなってくる。

 自分の中で、そろそろきちんとした落としどころとして決定づけないといけない。というよりも、明らかに、もう手遅れである。そして、それは、俺が決めたわけではなく、相手が決めたこと。

 その圧倒的な事実が、俺の虚栄心を打ち砕いてくれる。"求められていない"ということそのものが、圧倒的事実として覆いかぶさるならば、あらゆる精緻な論理と助けるためのメソッドとその理由を記述してある証明を、無意味化しなくちゃね。
 確かに、俺は圧倒的な事実を、直接突き付けがちであるとは思う。でもそれは、虚栄によって成り立たせるべくしてきてしまった、そしてそれに気が付いていない愚かさゆえであり、俺のせいでは微塵もない。どんなに「わかってるよー」と言っても、俺は『いいや、わかっていない。わかってるよ、と言って、虚栄がわかってることを認識している程度の思考力で安心して、思考停止するな』と通告せざるをえないだろう。

 んで、そのやり取りをすることも無意味だ。

 よくよく考えてみればわかっていたこと。助けることを具体的に欲せられなければ、助けることは原理的にできない。

 ただ、その虚栄の最終的な完成として、カタチにこだわった時、そうも言ってられない状況が存在してしまう。虚栄の結晶であるカタチそのものが息吹をあげる時、少なくとも世界中で一人にとっては、この虚栄は正当化せざるをえない状況になってしまうのだ。
 いや、むしろ、だとしたら、やはり具体的に助けを求められない限り、何も行動すべきではないような気がしてきてしまう。

 今はとにかく、その虚栄に向かっていった先が、あなたにとっての一番の幸せであって欲しい、と願うのみだ。そう、俺の解釈だって主観的であって、その態度が虚栄でないかもしれないし、そうであったとしても、確かに必要なことかもしれないし、いつか圧倒的な事実を突き付けられて気がつくかもしれない。

 まぁ、でもその頃、俺は、ずっと遠くにいるだろうけどね。
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28

2015-03-09 00:14:46 | Weblog
 さて、28歳になりました。今書いてる時間でいうと、まだ27ですけどねぇ(笑)

 色んな事があった27歳ですが、だいたいは研究関連のこと。もちろんプライベートでもあったっちゃありましたが、比率は研究が圧倒的に大きいですかね。
 まぁ、来年度以降も研究やめないでしょうけど、どうなることやら。上手くいってきたことと、上手くいかなかったこと、それを全部含めて、今や良い想い出気分です(←はやい、論文1つ書かなきゃでしょ笑)。これからまったく新しい研究テーマでスタートできるかもと、今から楽しみです。

 ここで一応宣言しとこうと思うけど、来年度以降は、ぜったいに音楽活動再開します!どんなカタチであれ、ぜったいに。
 音楽を出力する側から離れて3年。結構、音楽やりたいうっぷんが貯まっていて、こないだ久しぶりに音ゲーちょっとやっただけで、泣きそうになりました笑。やっぱり具体的なものづくりを、チームは変われど、研究しかやってないと良くないことがよくわかりましたので、絶対に音楽活動します。
 まぁ、最低youtubeでカバーをアップする、くらいはやりたいっす。ちなみにその場合はここで紹介したりは絶対にしませんけどね。最低の最低は、ここで好きな曲のyoutube動画をアップする(って今までと変わんねーじゃん)。

 というわけで、一緒に音楽やってくれる人募集しまーす。昔の仲間の皆さんも、是非また、お願いしまーす(最近ココみてくれてんのか知らねーけど)。
 ちなみに、僕、音楽スキルは、研究スキルと同じくらい、多種多様にできます、が中途半端です。メタルからゴスペルまで、どんな分野・ジャンルでもやりたいけど、ふわっと感のグルーブがいいかな。最近の人だとGoose houseみたいな感じでできたら楽しいかも。ピアノ、ギター(主にアコギ、エレキはほんのちょっと)、ドラムが、曲になる程度に一通りできて(笑)、一応絶対音感ありますし、どんな曲でもハモれます。っていうか、アカペラも好きです。

 っま、とにかく、何をしていても、今のモノづくりのスタイルから根本がズレないように、ゆっくり着実に、でも力強く歩いていきたいと思っております。
 現実を見すぎても、理想を描きすぎても、歩めなくなってしまうんだとしたら、きちんとそれらを一つひとつ繋いで行けるように努力したらいいのだと思う。

 んなわけで、28歳のおにぃさん(←ここ重要)が書くブログを、これからもよろしくね。
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言わなければカッコイイのに

2015-03-08 00:53:42 | Weblog
 「もともと、根暗なんだよー。でも、何ヶ月間かずっと色んな人と接して、沢山観察して術を学んだの。で、今は、こんなに無難な自分を造れるってわけ。Kくんも試してみたら?」
 『でも、そんなに演じてたら、疲れちゃうじゃん?』
 「それが、気疲れで疲れないんだよねー」

 おかげさまで、今は、無難なコミュニケーション能力をつけることができた。まぁ、俺はまだまだ気疲れで疲れるけどね。
 可愛がられそうな弟キャラを演じたり、ノリが良い兄貴キャラを演じたり、いかにも元気の良い感じの若者を演じて、いつのまにか時間が経って、その場を楽しくすることに貢献することができるようになってしまった。いつか、あなたが言っていた言葉が確かに今は理解できる。
 やっぱり、演じれば演じるほど、自分が乖離していくし、他人事になっていくし、それはそれでほんの瞬間的なら良いのかもしれないけど、これをずっと繰り返していたら大変だろうなって思ってしまう。

 どんなに演技力を高めても、無難な自分を演じても、本当に喋りたい人と本当に喋りたいことを話すことはできない。だから、演技なんて無意味なんだよー、って演技中に突然泣きたくなってしまう。
 それに残念ながら俺には、その圧倒的な事実を見過ごすだけのスルースキルを持っていなくて。。

 冗長的な会話の中に懐かしさを感じながら、絶対に自分が変えられることを確信する瞬間、打つべき手を確実に打っていける自分に自信を持つしか、俺には生きる術、、いや、より良く変えて助ける術はないのだ。

 どーせ、俺は、事実で抉るような言葉の刃を使ってしまって、、何も言わなければカッコイイのに、言ってしまうだけの器の小ささしかないさ。
 だからこそ、キザなセリフが好きで、だからこそ、中二病文章を書き続けることができる。

 だとしたら、重度の中二病患者である俺が、次に取るべき行動。それは決まりきっている。

 自分のことなのに、どこか他人事にならないように、俺は制御機構を設けることだってできるんだぜ?っと心の中で昔の俺らに言い放ってみる。
 その経験が、未来に活きるように、一番手を伸ばしたい誰かに対して活きるように、今は小さく一人で願っている。
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メタルグレイモンを好きになったら

2015-03-07 03:49:59 | Weblog
 何をやるにしても、自分の気持ちを築きながらでないなら、何も意味が無い。
 初期状態として気持ちが何もないことは一向に構わないが、自分の気持ちをきちんと入れ込む覚悟があるかどうか?ということである。

 俺は、この視点が無い人(たち)とは、基本的に共同作業を絶対にしない。生徒を受け持つんでも、共同研究でも、バンドを組むんでも、どんな言葉をその人と共有するのであっても、気持ちが入らないように冷徹にしてしまうなら、何も面白くないので、それが世間的にみてどんなに素晴らしい言葉を持っている集団であったとしても、こっそりお断りしてしまう。

 だから例えば、非常にどうでも良い例で言えば、どんなに即物的な技術や考えが優れていて精緻であったとしても、「生命とは何か?」と最終目標を掲げているにも拘らず、「生命とは何か?」と心と仲間に唱え続けていない研究発表を聴いていても意味が無いし、珍しくそれを誰かが語り始めた時に、その実験結果からではまだそんなことは言えないだろう、と醒めきった目で見ることこそが至上だと勘違いしている、やる気のない態度を伴った、せせら笑いを、俺は心の中で思う存分、せせら笑っている。

 気持ちを入れ込み続ければ、たいてい、自分の気持ちがまだ精緻ではないことを恥じて、虚栄のためにウソをついてしまうだろう。でも、気持ちの精緻さなど、具体的な能力など、どうでも良いのだ。拙くても、ダメダメでも、まったく無益な想いでも、マクローリン展開すらまともにできない数学力でも、虚栄のためにウソをつく行為が慢性的に行われてしまっても、とにかく対象に対してのより良くしたいという気持ちが存在していて、現実にアプライしているという行動そのものが大事なのだ。
 残念なことに、虚栄のためのウソは思わぬ形で信頼関係を粉々にする。そんなときに、相手のウソを心の器で掬(救)ってあげられたらいいよね。俺は、このような想いの容量を、もっともっと今よりも広くしていきたいと思っている。

 でも、虚栄のためにつくウソが、俺以外の誰かを傷つけたり排除したりし始めてしまったら、俺は、どんなにそれまで信頼関係があったとしても、どんなにそれが俺にとって有益な関係性であっても、その場を去るように心がけている。どんなものづくりも、どんな金儲けも、他人を蹴落として謗って蔑んでまで、やるべきではないし、それならひきこもっていたほうが数億倍マシだ。

 どうしても、その世界だけしか観ていないと、自分が選んだ他人が別の他人を傷つけてしまうことを正当化しがちだ。明らかに誰かを裏切っている行為を観ても、演技によってそれを隠せるだけのスキルを持っているメタルグレイモンであったとしても、「彼女はそんな人じゃないはずだ!」と期待と解析をマージさせてしまい、その履歴から正当化してしまうことは、特に恋愛の初期にはよくみられる現象である。そして、履歴的に信頼関係のある人に譲歩してもらいながら、自分にとって都合のよい解釈とお座成りの言葉を選んでしまうなら、腐りきっているアカデミックな研究社会と何らカワラナイ危うさを有しており、当人にとっても最終的により悪くなってしまうだろう。

 私は好きである、という現在完了的な習慣の気持ちを正当化するために、誰かを傷つけ始めてしまうなら、誰かを傷つける集団のなかの自分を肯定化してしまうなら、それは終焉の始まりではないのだろうか?
 そんなことをしてるから、燦然と輝けず、かぷかぷ笑えず、目が死にそうになっちまうんだぜ??

 そもそも、何かが好きだ、何かが大事だ、と思うのなら、思いたいのなら、比較対象が多く必要なはずで、それらをまんべんなくすべて経験しろ、とは言わないが、他のモノをまったく何も見ずに、これが至上だ、と決めつけてしまうのは、ホンモノではない。
 しかし世の中は、1つの分野しか知らないくせに研究とはこんなもんだ、と決めつけたり、他の科学をやってみたことないのに物理が至上だと思っていたり、1つの会社しか知らないのに社会はー、1つの時代しか生きていないのに若者はー、自分たちの頃のほうが遥かにバカだったにも拘らず1つの世代だけに着目し大学院重点化はー、と不平不満を言う人が大多数なのだ。
 もっと比較しよう。相手の立場に立ちながら、想像しながら、色々な人と話そう。最近はディズニーだって比較対象をいくつも出すような描写が多いのだから。

 「私以外、いっさい誰も観ないで、私を愛して」という言葉を大いなる矛盾だと受け取れないうちは、アグモンを脱せないだろうと俺は思う。だからって、やたらめったら、あらゆるモノを観まくっていたら、専門に注力できないから、そういうことを肯定しているわけではないのだけどね。

 俺が選んでいるモノは、すべて、多くの比較の中で、自分固有の気持ちを持ってして、選びだしていると断言できる。だからこそ、自分に自信があるし、選んでいる人には自信を持って欲しいし、不当なモノや権威に対しても、まっすぐ俺の意見を堂々と言えるのだと自負している。

 最近は、その上で、少し初心を想い出してみたら良いと思っているのだ。

 今から考えてみると何もないカラッポな気持ちに思える程度の、想いの容量の中にかつてから存在していた小さい小さい気持ちは、いったいどんなものであったのか?、それが根源的に大事なものであると思うから。
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