たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

夢見ロックの自発的再来

2017-08-21 02:21:32 | Weblog
 理想を実現するために、誰かに対して現実的な部分に前提を置いてしまうことは、理想の実現を遠ざける。

 大して経験やデータがない状態で直観で選んだのにも拘らず、偶発的に自分の(「より善く変えるための努力をしたくない」がゆえに)「現実的な」(と呼んでいる)部分とフィットしたときに、運命だと感じてしまう短絡性こそが、ただの問題をより大きな悩みへと進化させてしまうのだ。
 「アラジン」のジャスミンは、アラジンが一般庶民を装う本当の王子だと虚偽を告げてから、真剣にアラジンのことを考え始める。この短絡的評価こそが、3人(アラジン、ジャスミン、ジーニー)の自由からの解放をお互いに遠ざけていることがあの話の主題なのだが、あれだけ有名な作品のわりにはそこまできちんと考察している人はあまりみかけない。
 ああいうものを観てしまうからこそ、「理想を理解できる自分」として自分の理想的な部分を作品に投影させっぱなしになってしまう部分はあるのかもしれないが、、あまりに現代社会は、より善く変えることを努力したくない怠惰さを、条件の一致として還元し、目をつぶって理想の実現を夢見てしまう手法が蔓延してしまった。

 それは、圧倒的に「孤独になれる」能力が足りないから生じるのである。
 孤独になるとは、一人でいる時間を長くすることではないし、ましてや単純に引きこもることでもない。「孤独になれる」能力とは、自分の周囲に自分の考えとは違う人が沢山いても、そのなかで耐え忍ぶ能力である。心のシャッターを閉ざす能力がないのだ。
 だから、ある程度の節目のときまで、厭になってしまった集団のなかにどうにか身を置くというのは大事なことだと思う。その上で、自分の価値観を流されず、自分の価値観の一部を集団に置いてくるだけの気概が必要なのである。

 目をつぶって理想は「こうでしょ?」と自分に良い聞かせながら、でも現実的な側面については論理を重ねることで多数派への説明責任を果たすだけだとしたら、自分自身に嘘をついてしまうことにはカワラナイ。

 小さいことを求められれば求められるほどにお互いの理想との不一致が明確になり続けた夜に、それでも最後の一杯に夢を見ることで、何かの続きを託そうとした姿は、今となっては良い経験になっている。
 だって、それがなければ、今、お互いに違う大地に身を置いていないのだから。自分のことなのにどこか他人事の性質は、大きな変化で少しは変わったのかな?そこに俺が介在していなくて、寂しいけれど、良かったんじゃないかなぁと今は思う。

 『無理じゃない?』
 「2年でも3年でもかけて、どうにか変えようって気概が慧くんにあるかどうかじゃない?」
 『変わる気もないし変わりたくない、って』
 「それは、引っ込みがつかなくなっただけなんじゃない?」

 引っ込みがつかなくなった「現実的な私」をいっさい無視したら、今の問題も何か変わるのかな?
 そうとは思えない「現実的な俺」が、どうでもいいくだらないことに注力することで暇をつぶせ、と命令してくる。
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「修練不足な精神性」の隠れ蓑に使わないで!

2017-08-17 01:27:33 | Weblog
 かけ算ができなくては、積分をすることはできない。
 体力がなければ、サッカーをすることはできない。
 オクターブ感覚と基本的なコード進行を学ばなくては、編曲を自分で行うことはできない。

 これらはすべて、楽しいことをするために、あまり面白みのない地味でつまらないことを繰り返さなくてはいけない例だが、俺らはそれを「修練」と呼ぶ。
 これら具体的な技能に関して修練の存在を認めることは容易だが(もちろん、まともに積分もできないで「生命とは何か?」に取り組んでいる人など、一部にはそうでない人もいるが)、ホンモノの信頼関係を得るためには、精神そのものの修練が必要である、ということを、多くの人はなかなか認められない。

 まず気持ちにおける修練を積まねば、自分の人生の時間を費やすに値するだけの人間関係を得ることは原理的にできない。例えば、集団や系をより良くすることが義務づけられているということに気がついていない程度の思考力の人では、集団を先導し統べることはできない。
 しかしながら、高度成長から現在までの日本で、何を目の当たりにしても「そんなめんどくさいこと自分には関係ないや」と自己愛が強すぎるイイワケを繰り返してしまう人ほど入試突破や出世しやすい社会構造になってしまっており、リーダーにはなれない能力の持ち主がリーダー的なポジションについてしまう問題点をほったらかしにしてきてしまった。

 その結果、現在、「何かの哲学的な信念を自分のなかで磨き上げ、それを軸に社会とどうにか付き合っていこう」というタイプの人が減り、単なる、特定の集団内("日本"や"同世代"や"研究室"など)での多数派の価値観を最大限考慮することが重要であると考える短絡的な人が増えてしまった。
 周囲に反応して生きていけば、確かにラクかもしれない。しかし、自我無くして幸せはありえないし、信念なくして信頼関係を得ることもありえない。それがもし「ありえる」と思うのであれば、それは長期性を考慮せず短期的にとにかく多くの他人に承認されることをした目的とした、未熟な幸せであり、ニセモノの信頼関係であると言えよう。

 そう、幸せになるためには、思考力が必要で、あらゆる経験からの直観力も必要で、それ以外にもあらゆる能力が必要なのにも拘らず、能力的な側面の効果に依る幸せ到達度合いの存在を、多くの人は認められないのである。幸せと能力は互いに依存し合っていないと信じていたい衝動に常にかられるが、それは大いなる勘違いである。

 未成熟な精神性の者同士が、共依存的に友達を作り、共依存的に恋愛をし、コミュニティーを作って、新たな世代が誕生する。このループが3世代以上いってしまっているのが、今の日本の凋落の根本的な原因である。
 だが、そんな大きなことは、今はどうでもいい。俺がここで言いたいのはそんなことではない。

 ただの集団の圧力を、自分の正義感と同等、もしくはそれ以上に重要視する人がマジョリティーになってしまった全体主義化された社会構造のなかで、そこにアジャストできない人が、俺の言葉を頼ってくることがある。たいていの人は、(実務的な、ではなく)精神的な修練が足りず、ただ(実際の)能力が(その言葉を得ている集団の期待(理想)値に比べて)劣るがゆえに、いまは所属集団・社会から距離をとっている人ばかりである(cf. 無能なヤツはクズか?)。
 この類いの人は、精神性における修練不足のくせに俺の信念を達観視し、すべてを把握できていると思いたがる。そして、「能力的に一般社会にアジャストできない」原因を「信念上、一般社会にはアジャストできないんだ」という理由にすり替えて、俺の言葉をおもしろがり、体よく利用する。
 だから、時として、突然に連絡がとれなくなるのだ。自分が描いている「社会性を有した」理想と、理解だけはできてしまう俺の言葉とのギャップに悩むからである。つまり、自分の理想と自分の現状のギャップに悩んでいるわけではなく(そういう風に、彼ら彼女らは主張するが)、自らの修練不足を置き去りにしながら、絶対に正しいと思っているマジョリティーの価値観を信仰してしまうがゆえに、自分が短絡的な欲求のままに手にとってしまう俺の言葉とのギャップに苦しむのである。

 俺は同じ失敗はしたくない。社会性に信頼関係を奪われることには慣れてきたが、それでもいちいち一人で泣くのは、やっぱり切ないし苦しい。

 このままでは、きっと貴方も、、そして貴女も、社会性を手に入れてしばらく経ったのち、俺に対して「いつも忘れがちになっている大切なことを思い出させてくれる存在」などと言って俺を深く傷つけ、その言葉すら新しい忙しさのなかで殺していくだろう、と予測してしまう。

 ここがクリアになるまで、根拠無き信仰は(少なくとも)一時的にストップせざるを得ない。
 なぜなら、ホンモノとは、相手と同程度に自分のことも大切にできる存在同士が、関係性を結ぼうとするものだと、俺は思うから。
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いつまでも落ち込んでんじゃねーよ

2017-08-10 01:26:11 | Weblog
 「何のために生きているのか?」などと考えすぎてしまうと、とたんに生きづらくなってしまう。
 俺は、哲学的に問いかけてみることを否定して「現実を見ろ」だとか「大人なんだから」などと誤魔化して、社会性という名の妄想に囚われる生き方は大嫌いで、これまでこのページでも日常生活でも、「"考えちゃう"で止めずに、考え切ってみろ」と追及してきた。そもそも、哲学などの病にかかるのは思春期や青春時代によく見られる現象だと決めつけるのはナンセンスで、自分たちが信じている危うい社会システムを否定したくないがために、誰かが自分自身で考えようとしている行為を「誰もが通る病だ」「妄想だ」などと言い放つのは、(それこそ)大の大人がすることではない。

 しかし、である。あまりにも長い期間、根源的な問いに囚われ続けているだけで、理想と現実との乖離に苦しんで、いつまでも自ら主体的に行動しようとしない態度も、同じくらい、俺は好きではない、というのも本心である。
 そこに、どうしても「世間では殆ど誰も疑問に思っていない本質的な問いについて、本格的に悩んでしまっている、自分」という自惚れを感じてしまうからだ。多くの周囲が自分よりもバカである事を前提とした思考回路と言動は、俺には受け入れられないのだ。そこには、社会性を真っ先に大事にする多くの自称大人達と同じ類いの「決めつけ」が存在しているのに、そんなことにすら気がついていない思慮の低さが「自ら行動しようとしない」怠惰さを肯定化し続けてしまうのだろうと思う。
 簡単に言ってしまえば、その程度のレベル・その程度の賢さで、いつまでもいつまでも悩んでいても、あまり価値はないということである。そんなんだったら、無鉄砲でも行動してしまうほうがいくらかマシだ。

 確かに俺がめちゃくちゃ器用だという部分はある(自分で言うのもなんだけど)。
 俺は気分が沈んでいても、手だけは実験できるし計算できるし、思考を展開できるし、見ず知らずの誰かの相談メールにいつも通りに返信できるし、正常なフリして文章を書く事もツイートすることも、最近ではYouTubeで音声をとることすらできてしまう。だから、行動がフィードバックして高揚に戻しやすいというのはあるだろう。

 だが、あまりにも、現実との乖離に傷つきっぱなしでいすぎていないだろうか?、という部分が最近気にかかる。
 俺の目には、環境を利用して成り上がろうとする人間、環境の波に適度に揺られていることに一番の価値を感じている人間、そして、環境に適応できなくてふさぎ込んでいる人間は、ほとんど同一に見える。
 特に研究界隈にいる人間はこうであってはダメで、環境を自ら作ろうとする側にいなくてはいけない。なのに、「どの環境であれば自分がフィットするだろうか?」ということばかりに囚われるでない!と言いたい。

 傷ついている時間、それを癒す時間を十分にとった(1-3ヵ月くらい?)なら、、ほんの少しで良い、元の生活に身体を無理矢理に戻してみること。
 そして、それで上手く行き始めても「これでいいのだ」と思わないことが重要なのである。とかく俺以外の人間は、失敗しているときに哲学的であり、成功の兆しが見えて新しい言葉をゲットし始めたとたんに「これで良いんだ」と突然に社会性に重きを置くようになってしまう人が多いが、この性質も俺は大嫌いである。

 上手く行っていても、上手く行かなくても、そんなことに依存せずに、哲学的に考えられる視点を持ち、同時に誰かを助けるために現実世界にアジャストできる能力も持ち、その上で環境を自分の力で少しでもより良く変えようとしてみろよ。これこそが、実を伴った圧倒的な思考力を育む。

 もっともっと、俺は君らに期待してるんだぜ。
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もう君はいない

2017-08-01 22:50:21 | Weblog
 崩壊し終わった集団に対しても、思い出の中で何かの輝きを感じながら、期待してしまう自分に呆れてしまうことがある。
 「きっと、いつか、何かの機会があれば」と思うことはあるけれど、そんな日は永遠に来ないことはよくわかっている。

 信頼がある関係性であれば、ちょっとでも思ったことはなんでも本当のことを言うはず、という法則が簡単に覆る。
 だって、ある集団やある業界における誰かのレゾンデートルを奪うことは簡単だけど、何かの否定によって直接的に誰かの存在そのものを否定することは絶対に避けなければならないから。
 どんなに言葉をとりにいっただけで、くだらない表面的な関係性を周囲が無理矢理に固めているだけの様子が手に取るようにわかっても、それによってまさしく創発されてしまう「圧倒的正しさ」を突きつけられてしまえば、そこで議論は終わる。同時に、信頼関係も終わるのである。

 長い人生の中で、その時々で楽しめればそれでいいじゃないか、と思う瞬間もあるけれど、どの階層であってもホンモノは時間依存性がないということを信じていたいから、心から楽しかった日々まで否定し始めてしまう自分が現れる。そして、あの輝かしい日々が嘯いていく。
 どーせ、あらゆることは、死ぬまでの暇つぶしでしかない。それが連綿と続く時の流れの一要素を確実に構築していたとしても、時として何かの誤魔化しでしかない行為を、新しく始めていくことについて常に抵抗がある。

 でも、どーせ暇なら、どーせ死んでしまうなら、ホンモノであるはずだと現在進行形で心から信じていた日々すらも否定することで、今をよりいっそう楽しく生きたほうが良い。過去の事実をホンモノだと定義づけてしまいそうになる短絡的な自分を、未来永劫ホンモノの定義が更新され続けていくような人生が、気持ちよく追い越していく。

 集団を率いていく覚悟を持つためには、あの頃と違って、現実的に切り捨てなくてはならない部分も大きくなってくるだろう。理想を追うことで、今の現実にずっと捕えられ続けてしまうメンバーもきっとでてくるからだ。そして、これまでとは違った意味での難しさが常に介在している。

 今一度、5年前の覚悟を、自分の中に思い出さなくちゃいけないのかもしれない。いや、正確には、あのステージに立つための最後のスタジオで別れた瞬間からずっと、そう思っているべきなのだ。
 もう君はいないのだと。

 そして、また「チームだからこそ俺らは強い」と心から言える日まで、しばらくの間、思い出だけを抱いて眠ろうと思う。
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