たまに、どっちが本気で求めてきたのか、わからなくなってしまうときがあったりする。
いくつかのくだらない選択肢を前提とした理想を追い求めることに飽きている日々の中で、どうでもいい選択肢についてサイコロを振ることに慣れてしまうと、本当は大事なことだったにも拘らず、その重要度が薄まってしまうことがある。そんなときに、神妙な対応をされると、「もしかして、誘惑に乗せられているのか?」と自分に対して疑義を持ち、「いや、自分が強く望んだことだろ」とセルフツッコミをいれてみたりする。
見限るか見限らないかのギリギリなラインを命綱無しで歩かせることに慣れている圧倒的な直観力を目の前に、logic peopleだってのは単なるフェイクで、本当はinspiration peopleなんじゃないか、と感嘆する。
ヒトは危機的状況のときほど、自分の本来の性質とは逆の性質を選びがちになる。直観が得意な俺の場合は、危機感を抱いていたり、追いつめられたりすると、論理的になることが多い。そしてきっと、逆なら、逆になる。
ねえ、別に、どう思われても、どうでもいいんでしょ?どうでもいいことなんじゃない??
少なくとも、そういう態度をとってきたよね???
と顕わに追い詰めたくなってしまう自分を、持ち前の直観力で引き留める。
だって、もし、その冷たい態度の裏側で、暖かい涙を流している可能性がほんの少しでもある限りは、責任が発生しているから。そして、その可能性は、意外にもかなり高いと直観しているから。
一生来ないかもしれない、でも、明日にも来るかもしれない、せーので素直になって、すべてを語り合うその瞬間、何度も何度も一人で謝ってきた言葉を繰り返すことになるだろう。
うしろを振り向けば、、ほら、たった一人を助けたいために、沢山の仲間たちが出来てしまった。
どっちにしても俺にとっては勝ちゲーになってしまって、、どうして、俺はこんなにも幸せなんだろう、そして、どうしてこんなにも不条理なんだろうと、世の中の普遍性を恨む。
だからこそ、、何かが変われるんだ、変えられるんだという気持ちを、「カワラナイデ」と願い続けてしまった自分勝手な自分自身に、飲み込ませようとする。
大丈夫。俺だけじゃなくて、きっと、、どんな選択をとっても、楽しくなるし、うれしい気持ちになる。
今よりも、もっともっと。
いくつかのくだらない選択肢を前提とした理想を追い求めることに飽きている日々の中で、どうでもいい選択肢についてサイコロを振ることに慣れてしまうと、本当は大事なことだったにも拘らず、その重要度が薄まってしまうことがある。そんなときに、神妙な対応をされると、「もしかして、誘惑に乗せられているのか?」と自分に対して疑義を持ち、「いや、自分が強く望んだことだろ」とセルフツッコミをいれてみたりする。
見限るか見限らないかのギリギリなラインを命綱無しで歩かせることに慣れている圧倒的な直観力を目の前に、logic peopleだってのは単なるフェイクで、本当はinspiration peopleなんじゃないか、と感嘆する。
ヒトは危機的状況のときほど、自分の本来の性質とは逆の性質を選びがちになる。直観が得意な俺の場合は、危機感を抱いていたり、追いつめられたりすると、論理的になることが多い。そしてきっと、逆なら、逆になる。
ねえ、別に、どう思われても、どうでもいいんでしょ?どうでもいいことなんじゃない??
少なくとも、そういう態度をとってきたよね???
と顕わに追い詰めたくなってしまう自分を、持ち前の直観力で引き留める。
だって、もし、その冷たい態度の裏側で、暖かい涙を流している可能性がほんの少しでもある限りは、責任が発生しているから。そして、その可能性は、意外にもかなり高いと直観しているから。
一生来ないかもしれない、でも、明日にも来るかもしれない、せーので素直になって、すべてを語り合うその瞬間、何度も何度も一人で謝ってきた言葉を繰り返すことになるだろう。
うしろを振り向けば、、ほら、たった一人を助けたいために、沢山の仲間たちが出来てしまった。
どっちにしても俺にとっては勝ちゲーになってしまって、、どうして、俺はこんなにも幸せなんだろう、そして、どうしてこんなにも不条理なんだろうと、世の中の普遍性を恨む。
だからこそ、、何かが変われるんだ、変えられるんだという気持ちを、「カワラナイデ」と願い続けてしまった自分勝手な自分自身に、飲み込ませようとする。
大丈夫。俺だけじゃなくて、きっと、、どんな選択をとっても、楽しくなるし、うれしい気持ちになる。
今よりも、もっともっと。