たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「もっと勉強しておけば良かった」って言うな

2017-02-28 01:41:54 | Weblog
 大学院生や社会人が、「もっと勉強しておけば良かった」と言うのは、はっきり言ってしまえば甘えだと思うし、もっと言えば害悪である。
 これについては、あまり世間で問題にされていない分、余計に俺が強く問題を語らねばならないのかもしれない。

 注意しなければならないのは、「もっと勉強しておけば良かった」と思うのは勝手だが、それを言ったり、見せびらかしてはいけないということだ。(まぁ、際限無く与えられた時間のなかで、"思っているのに言わない"というのは、俺にはほとんど不可能に思えるが)

 学部時代や高校時代以前、目の前の自分の欲望に対して従順でいたわけで、そのぶん得るチャンスを失った思考力について、これ以降に簡単に取り戻せるわけがないじゃないか。そういう人間が、何も成長しない状態で、必要を満たすための作業をしていることを「勉強」だと名付けるから、これが厄介なのである。
 で、後輩や部下や自分の学生に、「君たちは十分に勉強できる状態なんだから、もっと(必要な)勉強をしなさい。学校の勉強は役に立つ内容は全然ないが」などと言うのである。そして「とてもタメになる(or役に立つ)、この本読んでみたら?」とドヤ顔で言うのである。

 学習というのは、「与えられた問題に対して、いかにして素早く処理するか?」という能力を高める行為ではない。その問題の真意を明らかにし、繰り返し思い出すことによって、自分で考える力である思考力を高めていくことが学習の目的であるのだ。あくまで、この結果として、最初は難しかった問題が素早く処理できるようになるだけである。
 つまり、簡単に言ってしまえば、ガチで賢くなろうともしないで対処方法だけを沢山インプットしていては、お勉強をしている意味が無いだろうということだ(そのような勉強法を極めた人間は東大にも沢山いるが、このタイプはAIによってそのレゾンデートルを奪われる運命にある)。そして、学生時代(理系の大学院を除く)にきちんと学ばなかった人の圧倒的大多数が、短絡的に枚挙的に、目の前の問題に対しての処理の仕方をインプットしているだけなのである。これでは学習の一番大事な部分が失われている。
 にも拘らず、これを下の世代や部下に押し付ける。「これは勉強になるぞ」と仕事に直結しそうな新書、もしくは精神論が書かれた図書を渡す。1年も経てば、渡した本人がその内容をきちんと覚えていないような本を、である。ただの時間の無駄。害悪である。

 このタイプの人口があまりにも多いが故に、本質的に学習に取り組もうと思ったら、このマジョリティを押し切るだけの覚悟がいる。あまりにも貧しい現状ではあるが。
 とてもじゃないが自分の興味だけを推し進めれば良いというレベルではない。それに、自分の興味について思考を進捗する行為というのは、(少なくとも人類にとっての)研究ではないし、ましてや学習ではないのだ。せっかく先人が歩いてくれた道があり、それ通りにやればある程度の賢さと新たな知見が得られるというのに、どうしてわざわざ自分固有の道を作りたがる?俺には理解ができない。まずは他人の真似をきちんとすること。その型をきちんと学びながら、それ通りに出来るようになった後に、それでも溢れ出てしまうものが個性であり、ただのあてづっぽうの自分勝手を研究や学習と呼んではいけない。
 単純に自分の興味を追究し続ける行為は自由研究である。基礎学力の無い人(理系なのに、高校数学・理科をきちんと理解してない、誤差解析ができない等の人)が自由研究をやるのは勝手なのだが、国の予算を使ってはいけない。まずはきちんと学習するのが先だろう。そんな自由研究を研究と称しているのがマジョリティというのが、なんとも悲しい状況なのではあるが。

 皆、学歴差別や女性としての価値を年齢で判断することに対してはそこまで躊躇が無いわりに、思考力の手遅れに関しては、敏感なようである。なんとも自分勝手な価値観だなぁと思うが、、怒りを感じるなら(すべての怒りは突き詰めれば自分の能力不足に向いているわけだから)、すべてを捨てる覚悟で、きちんと学習したら良い。
 「結婚して子供がいるから」「研究成果を出すためにはそんなことをしている暇が」「忙しくて」そう思うなら、金輪際、「もっと勉強したかった」などと言わないことである。過去にとらわれないで、今大事なことをしたらイイ。

 だって、別に、思考力なんてくだらない能力を高めなくても、自分の分を弁えたとしても、あなたの幸せは十分に達成されるのだから。
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優しさは恥ずかしくない

2017-02-25 03:09:21 | Weblog
 正直者が損する社会では、まともな人は孤立せざるを得ない。
 騙し合いが通常になったときに、そんなことを嫌う精神の持ち主は、その場を離れるしか術がないからだ。

 他人を陥れることが広く平均的な振る舞いで、他人に手を差し伸べることがレアケースで目立ってしまうのであれば、それは完全に無秩序な社会よりも、優しさを発現させにくいことになる。果たしてそんな社会を継続させていく価値があるのか?技術が進捗して生活が便利になっても、精神的な退化を無視するわけにはいかない。
 ちなみに、無能な連中が自分たちの無能力を正当化するためだけに、このロジックを悪用して、その価値もわからないままにイノベーションを規制し、履歴や誰かに寄生することでしか利潤を得られないようにしようとすることは、最悪だ。それでは、技術も進捗しなければ、精神的な豊かさも進捗しない。どちらも退化させてしまうことで、ただ昔からつけられている何かの名前が残ることを目指すのでは無意味であろう。これが進むから排外主義が流行るのである。

 一昔前には、「儲かった」と言えば下劣だと叫ぶ声があったにも拘らず、今は平然と「儲かった」とドヤ顔で言う人が多くなった。
 とにかくズルして儲けたり、そのためならどんな卑劣な手段も厭わないです、と言うことに何の抵抗も感じない若者が、新進気鋭だと言われる腐った時代に、「弱者を蔑むことで自分が成り上がったり、それを保身に用いたりすることは当然」という考えに反抗するだけのまともさを保持するためには、様々なものを犠牲にする必要がある。
 それは、マジョリティでいられる安心感かもしれないし、何かの言葉を確実に得られる期待かもしれない。圧倒的多数であるクズから誹られ、手を叩かれながら笑われることは、確かに辛いかもしれない。というか、予想以上に、辛いだろうと思う。

 だが、、そこでちょっとでも、何かのズルをしようとしたり、誰かを傷つけることで自分が成り上がろうと画策してしまったら、もっともっと辛い。

 疲弊し切った社会では、自分から沸き上がる優しさは恥ずかしいことに感じてしまいがちだ。傷つけるほうがあらゆる面でラクに感じるだろう。
 でも、本当に恥ずかしいのは、他人よりもラクして儲けようとする態度や、とにかく上の人の言うことをきくことで何かを成り立たせようとするやる気の無さや、他人を蹴落としてまで自分が成り上がろうとする醜い心である。

 まともな人が生きにくい社会のなかでも、一縷の望みはある。
 絶滅危惧種であっても、世界中でたった一人しかいなかったとしても、きちんと見渡せば、まともさを見出せる人が確実にいるということである。その事実こそが、やる気を創発し、心を豊かにし、能力的にも精神的にも確実に進捗させていこうと思える。

 だから、その「まともさ」に、ぜひ自信を持って欲しいと、俺は小さく願っている。
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素直なことは美徳なこと

2017-02-23 01:31:13 | Weblog
 もし笑ったとしたら、「あの程度のことで笑えるの?」と思われるかもしれない。
 もし泣いたとしたら、「こんなことで泣いちゃうの?」と思われるかもしれない。

 内向的な性格の起源は、環境に応答する敏感さだ。何かを繊細に感じ取る力があるからこそ、最悪のケースである自分が傷ついてしまう予測を、どうしても先に立ててしまう。この点で、外向的な性格よりも能力が高くなる可能性が高いのである。
 でも、だからこそ、リスクを軽減させるために、嫌悪感を示してみたり、ちょっとしたことで怒ってみたり、嘘をついてしまったり、、そして、その人がクズであれば、誰かを異常者扱いしながら、自分はまともで正当性があるのだと主張し始める。
 そう、世の中には、これをパフォーマンスとして利用して集金している人すらいるわけで、、自己防衛の範疇で(まぁこれがファジーなんだけどさ)、嘘をつくくらい、意地を張るくらい、たわいもないことだ。愛しいことである。

 世間的に嘘にはならない範囲で嘘をついたり、単なる意地の張り合いだけで、世界が成り立っているところも、あるにはある。しかもそれが圧倒的大多数の「弱者を糧にするのは仕方ない」と信じている人たちが構築していたりするわけで、確かに最悪の世かもしれない。
 でも、善意の総量というのは、悪意の総量よりも多いということも忘れないで欲しい。"悪の凡庸さ"と"善意の強さ"というのは、単純な「勝てば官軍、負ければ賊軍」の基本ロジックを超える。ここをきちんと理解できれば、そんなに強がらなくても、そんなにみんなからの決めつけに脅えなくても、素直なまま、イノベーションとしても、心の豊かさとしても、進捗してゆける。

 そんなに素直であることが大事なの?と訊かれれば、「そうだ」と俺は答える。素直なことは美徳なことです。
 ただでさえ、これから一気に変わっていく環境下、、数少ないまともな人たちにとって、同類と心をきちんと通わせておくことが重要である。

 だから、貴女の「普通」が、世間的な意味での「普通」と同一であるかどうか?、と思い悩むのではなく、自分はこうなのだ、と自信を持って欲しいと思う。
 だって、その「普通」を適応させることで誰かを傷つけて、それで自分の地位を向上させたり保身になるように仕向けるような最低なことをしているわけじゃないんだからさ。顔を上げて、堂々と前を向き、一歩でイイから歩き出してみろよ。

 っま、素直じゃないところを好きになったりするから、本当のところ、ややこしいこともあるけどね笑
 「こんな程度で?」と思われるかもしれないから、あえて怒ってみたり、嘘ついてみたり、強がってみたり、意地を張ったりすることは、、熟練者から観れば、単なる素直だからなぁ。
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クズダイナミクス

2017-02-20 02:41:23 | Weblog
 どんなに後ろ指を指されても、後世罵られたとしても、自分の正義に従いながら誰かのために行動をとれるか、正しい行動をとっていけるか、というのは、生半可な態度では決定できない。
 このような態度こそが本当は求められているのだが、なかなかそんな覚悟を魅せてくれる人はいない。

 周囲の東大生やその教員たちをみていても、東大ブランドやアカデミック世界における地位を完全に捨ててまで何かをより良くしようとする気概は感じないし、そんな雰囲気の1/10でも感じれば、それを発する彼ら彼女らに率先して石を投げながら「自分はまともな人間なんだ」と主張するようなエリート崩れしかいない。これは、東大に限ったことではなく、もしくはエリートと呼ばれている人材に限ったことではなく、かなり広範囲の多くの人たちが、自分の能力や優しさを信じて、何かをどうこうしようというのではなく、どちらかといえば、ちっぽけな集団の名前に縋って、できるだけズルく我先にとショートカットしようと画策する汚さが垣間みれる。
 よーするに、「正直者はバカをみる、ってことすら知らねーのかよ、ばーか」とドヤ顔で言ってるクズが圧倒的大多数である。

 確かに、そのような自分勝手さに対して上手に規律を与えていくことで、便利な世の中に発展してきた側面はある。
 しかしながら、心の豊かさ、善意の総量としては、退化しつつあるのではないだろうか。この誤魔化しが結果的に現在随所に観られる崩壊へと繋がっているのかもしれない。

 何かを語り合おうと言えば、たいてい「忙しい」と言われる。これは即ち、「自分の利益だけを最大化させたいから、それ以外のことは喋るな」と言っているに等しく、これを当然だと主張する声すら大きい。まだこんなものは全然良いほうで、こちらがリスクを背負いながら得ている知見を、安全な場所からかすめ取り、娯楽にしてしようとしている人すらいる。
 俺は、君らが日々忙殺し続けている何かの「大切さ」を思い出させてあげるために、自分のリスクを背負っているわけではない。ふざけるな。君らを大衆とは違うと見込んでいた分だけ、ムカつき度合いが上がる。まぁ、わかってますよ。期待したもん負けなんでしょ?

 「圧倒的な具現化が、自分勝手の範囲を少し広げるだけなんです」
 『つまり、自分一人だけの自分勝手じゃなくなるだけで、本質はカワラナイということ?』
 「そうです。だから、クズダイナミクスですよ笑」

 世界を退化させているのは、君のその頑張りかもしれない、、ということだけは忘れないでほしい。
 というわけで、さようなら。
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言動を選べ

2017-02-18 02:36:47 | Weblog
 「言葉を選べ」と誰かに言われたら、もっと丁寧な言葉で喋った方がいいのかしら、と思うのが普通であろう。たいていの場合においてそれで正解だし、受け手がそう思って行動したとしても問題は生じない。
 しかし本来、「言葉を選べ」というのは、そんなくだらない意味ではなく、イコール「思いついた順に言葉を使うな」という意味だ。

 会話をしているときに、スピード重視になろうとすると、選択肢が出てくる前に思いついた先から言葉を発するようになる。本当にスピードだけが重要になっているシーンでは仕方ないこともあるのだが、たいていの場合では、この方法は最悪である。自分の本来の賢さの10%も出せないだろう。
 もちろんある程度は鮮度を保ちながら言葉を使う必要はあるのだが、ただただ目の前の問題を対応しまくっているような受け答えになってしまっては、ただの空回りになる。そうじゃなくって、相手の言葉に対する受け答えとして、自分の頭の中にいくつかの解答案が思いついたところで、その中から一番面白くなりそうな、もしくは一番有益になりそうなコメントを投げるようにする。この行為こそが、「言葉を選ぶ」ということなのだ。

 言葉を選ばずに、「とりあえず」ということを繰り返し思考することでどうにか成り立たせてしまうと、その「とりあえず」成り立たせていることを隠そうとして、またもっと選択肢の少ない状態での「とりあえず」になる。
 この「とりあえず」文化の最たるモノがTwitterだ。このSNSでは、「とりあえず」相手を否定することを目的にしてしまっている様子をよく見かける。「とりあえず」相手への短絡的な決めつけから入り、自分のほうが年齢や学歴や社会的立場が上だと「とりあえず」さも自分のほーが正統派であるかのような雰囲気を醸し出してツイートし、そのツイートを「とりあえず」してしまったために、またその発言にかぶせて「とりあえず」多くの人が誠意あるように感じるであろうツイートをする。
 Twitterでは、2,3回深呼吸をしてからツイートをした方が良い、というのは、この辺りの理由だ。このブログで昔から口を酸っぱくして言っているが、相手に論理で勝ちたかったら、相手に勝とうと絶対に思わないこと。そのぶんだけ、ただの揚げ足取りになる可能性が高くなってしまい、真実だけを語ろうとする態度から遠ざかってしまう。

 そして、これは会話においてだけではなく、行動を決定する時も同じだし、大事な選択をする時もまったく同じことが言える。

 何か世間からの要求にとにかく応えようと努力していると、どんどんどんどん対応になっていく。さらに、選択肢が少ない状態で、パサパサ選ばなくてはいけなくなってくる。
 これのせいで辛くなってしまっている人が、今かなり増えているなぁと思っている。

 実社会におけるかなり多くの領域で、ゆっくりさが足りない。ゆっくりじっくり言動を外界に提出していくことで、もう少しまともな社会が実現するのに、、仕事にしても、お金にしても、お勉強にしても、恋愛にしても、研究にしても、とにかく早く先に進みたがる。
 社会的経済力を身につけようともせず、「とりあえず」上司の言うことをきいてクビにならないようにする。目先のカネが欲しいから、「とりあえず」日銭を稼ぐことに注力してしまう。まだきちんと高校物理を理解してないにも拘らず、「とりあえず」答えが出ることを重視して微積を使う。自分の気持ちを自分で確認する前に、「とりあえず」恋愛として成り立ちうる異性を見つけるや否や"好きだ"と言ってみる。本当に価値のある研究内容とは何か?と考えること無く、「とりあえず」最短で高いIFの雑誌に論文を投稿したがる。
 ね?どれも構造は同じなのだ。

 「言動を選べ」
 これが帰結でありタイトルであるが、とりあえず最後だけ読めば良いやーってんじゃなくて、ここまできちんと読んでくれた読者の方であれば、この言葉の意味が、単に、足並みを揃えて無難な行動をとりましょう、ということではないとわかるだろうと思う。
 君らはさ、賢いんだから、ゆっくりやったら、上手く行くんだよ。それを忘れないで。
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清算

2017-02-16 02:09:42 | Weblog
 これで終わり、と見切りをつけて前を向くことができたつもりでいても、いざすっかり大義名分が無くなってしまうと、悲しくなってしまうことがある。
 あの頃には確かに目の前にあったホンモノが、カタチになったときには崩れていることを自覚させられる。その儚さに涙したくなるのだ。

 新しい行為に新しい言葉を投げかけながら笑いあえていた"あの頃"、結果的に何かを達成できなかったとしてもそこに存在している可能性だけを信じながら邁進させることができた"あの頃"、関係そのものがレゾンデートルで発した言葉が自然と想い出を刻んでくれた"あの頃"、無形のものだからこそ成り立っていた関係性を客観的に狼狽することができた"あの頃"、そして、、俺に一瞬でも本来の目的を忘れさせてくれたフィクションを見出してくれた場を自由に批判できていた"あの頃"に、最後の愛しさをこめて『これで大丈夫だと思います』と終焉の合図を出す。

 伝わらない感情は、悲痛の中で無関係な個人に昇華されていく。意味があったのだ、という行為に仕立て上げるためだけに、誰かにとってのより良きになってゆく。
 誰かにとってのより良きになればなるほど、「本当にありがとうございます」「本当に助けられました」と言われれば言われるほど、俺にとってたった一人、それらの言葉に相応しい声色の持ち主が遠ざかっていくのだ。そう、これで、終わっていない仕事をほっぽり出して始めた仕事を正式に終えたわけで、ここから"本来"にシフトしていかなくちゃいけないのに、またまったく別の新しいシーズンがやってくる。
 まだ、力が足りないのか。と痛感しながらも、落ち込んでいられるこの時間をじっくり味わいたい。この変換点こそ、向上の楔になるのだから。

 だから、「いつから崩壊していたと思うか?」と問われれば、俺は『最初から』と答える。なぜなら、必要な力と情報を手に入れたら、すぐにやめてしまおうと思って始めたことだから。主体性のある俺を軸として再構成された系は、その主体性を原因として崩壊する。当然のことなのだ。
 「何かの後悔があるか?」と問われれば、俺は『ある』と答える。それは、お互いに利用しながらも"変えられると思っていた習慣"を変えられなかったことにある。初めから直観的にクズだとわかっていたから選択に後悔はないが、判定"オンライン"は意外にも不動なのかもしれないという点では予想外である。

 この先のシーズンでも、きっと大して多くを学べないことは明らかで、何かのテクニックは向上しても、どこかに行けば、今よりも賢くなるという期待はいっさい無い。
 そして、外野から「そのテクニックこそが大事なのだ。もまれたほうがいい」などと毒にも薬にもならない発言を"わかっている"体を崩したくない誰かから聴くことになるであろう。蚊帳の外から知識自慢をしていれば満足できる連中はまったく気楽でイイよな、っとあの頃なら思ったであろうが、、最近はそういう人たちを可哀想に思えるほどには"大人"になってきたのかもしれないね。

 そういう意味では、価値があるのかな?
 でも、それは、"任意の人生において原理的に失敗は存在しない"という第一原理に基づく帰結でしかないようにも思える。まぁ、十分か。

 さぁ、これで清算は終わり。
 だが近々、もう一カ所、清算せねばならない予感を抱えている。この予想は外れて欲しいが、、そうもいかないだろう。
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利害の一致を超えて

2017-02-13 01:51:43 | Weblog
 "自分一人で生きていける人間なんていない"と誰かが言った場合、かなりの確率で"みんなに合わせろよ"と言い換えることができてしまう。
 繰り返しこのような言葉の変換を自然と行っていると、いつしかその言葉が持つ本来の意味を取り違えてしまうことはよくあることだ。

 たとえば、俺らアカデミックの世界にいる人に向けて、"実験と理論は対等にどちらも大事だ"と言えば、理論研の人には実験を重要視しているように思われるし、実験研の人には理論を重要視しているように思われる。
 学部時代の学生実験以来、まともに実験をしていない理論研の人からすれば、実験は羨ましい一面がある。ビーカーや白衣などが必要以上に輝かしく思える瞬間がある。理論をベースとして研究している人は、物理学科や情報学科の出身者が多く、そもそも情報学科は実験が無いし(彼らは"実験"と呼んでいたりするけれど)、物理学科の実験は白衣すら要らないケースが多い。物理学科出身である俺が白衣を着たのは、確かに学部3年生が最初で、それも物理学実験ではなく教職(理科)で必要だった化学実験を受けるためだ。人によっては、理系なのに一度も白衣を着ていない人もいるだろう。実験研の人が思うよりも、幾分か理論研の人は実験に対する羨ましさ・憧れがあるのだ。
 一方、実験研の人も、理論に対する憧れがある。実験のラボにいると、自分が手を動かすことしか能が無いと思い込みがちになり、まともに学部の内容を理解していなかったりもするため、不安感が高い。理系なのに、数式や化学式を高校3年生以来まともに扱っていない。自分は手を動かすだけで、実は1ヵ月も毎日やっていれば誰でもできるようなことしかしてないのになぁと思うけれども、理論研の人は思考力とプログラミングの力があって、いいなぁ、と思うのである。

 このように、劣等感こそが、ある種の言葉を常時同じように変換しやすくしてしまう。劣等感を払拭するためには、「やってみる」しかない。実際に自分がやってみて、大したことないじゃないか、と思わなくてはいけないのだ。だが、残念ながら多くの人はそうはならない。理論研の先生と顔見知りになった程度、実験データと比較している程度で、これらの劣等感が払拭されると勘違いしている。自分でやらなきゃ意味が無い。
 劣等感を抱えたままでいると、あらゆる人との付き合い方が"交換条件"になる。自分なんかに頼み事をするのは、目論見があるためで、その本当の目的が実は大したことないとバレてはいけない!と、大義名分を重要視し、自分(たち)のレゾンデートルを守ろうとするのである。だから、その"交換条件"の場に自分が居合わせられるように、"みんなに合わせろよ"という意味で"自分一人で生きていける人間なんていない"と言ってしまうのである。

 確かに、劣等感を抱えたままの、多くの自信の無い人たちが社会を形成しているから、たいていの他者とのやりとりは"交換条件"であろう。何かを与えるから、何かが貰える。必要以上に自分によくしてくれる人には、要注意である。それくらいに疑ってかかった方が良い。自分の何を狙っているのか、気持ち悪いじゃん?だって、ホンモノを期待した分、傷つくのは自分だから。
 でも、"交換条件"を当然視し過ぎるせいで、ホンモノを取り逃すのは勿体無い。イイワケ無しで、貴女のためを想っての提案で、それをも超えて、あえて嫌われ役をかってでてくれているのかもしれないのに。

 そう、最初は、イイワケがいる。何かのポイントカードを偶然に持っているから一緒に行くのかもしれないし、何かの用事で職場と近い場所に来るから一緒に行くのかもしれないし、、とにかく、お互いにとって有益であるとみせかけることが必要で重要なのである。
 「なんであの人と一緒に行くの?」
 「だって〜」
 と気持ちが無いことを説明する義務があるからだ。最終的に心が傷ついて、一人で泣くのだとしても、周囲に傷ついたと知られてみんなの前で泣くよりもマシだからだ。
 この状態を習慣化させて、利害一致の状態からホンモノの状態までを連続的に変化させたがる。気持ちは最初から決まっていたとしてもね。小さいことから大きなことまで、"もう!好きだって言っちゃえよ!!"はそこら中にあるのである。

 せーので素直になることは難しい。だが、それ以上に難しいのは、自分に問題があるということを認めることだ。
 そのためには、客観的になれる視点を複数持つことが必要不可欠なのだが、価値観のメインの軸を"交換条件"の連続によって成り上がることだと勘違いしている人にとっては、ここに気がつくことが原理的にできないのである。

 ではどうすれば良いか?
 それは、大衆を信用してみること。劣等感というのは能力不足から来るものではない。周囲の優しさを信用できないところから発生するのだ。世界中で善意の絶対量が勝っていることを信じてみることが重要なのだと想う。世界中の人たちの前で泣いてみても、大したことはない、そこまで惨めじゃない。きっと気持ちの総量半分以上は同情してくれて、貴女を慰めてくれるだろう。

 実はこの部分がないと、利害の一致を超えてホンモノは手にすることはできないだろうと最近想うのだ。
 見せかけだけの利害の一致にホンモノは見出せない。それは断言できる。だから、まずは、周囲のみんなを、信じてみることです。何事も、傷つかないと、始まりません。
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見ることと存在することの関係性

2017-02-09 02:04:51 | Weblog
 "Seeing is believing"
 という言葉があるが、巧妙に仕組まれたトリックさえなければ、たいていのことについては見えるということを利用して信じることができると考えている。俺らは、自分が見えていること、もしくは知っていることや事実をもとに、考えることができたり、何かの価値を感じることができたり、最終的には、何かの概念を信仰できるのである。

 逆に言えば、見たことも無いことについては、信じるどころか、考えることすらできない。もっと思い切って言ってしまえば、見えていないことというのは、存在しないことと同じなのだ。だって、想像もつかないことについては、考えつかないのは当たり前だからだ。
 たとえば、電磁気学という学問体系について(到達していないという意味で)見えていない人にとっては、スマートフォンをはじめとした電化製品は魔法でしかない。だから、いまだにこの国では、携帯電話の電波がペースメーカーに影響すると信じられている(ケースがある)のだ。携帯電話の悪いところを探すべく、大義名分として用意しただけなのに、それがいまだに信じられている。人は、見たい情報を見るし、見えていることについては信用する。であるから、携帯電話の電波を怖がる、ペースメーカーを使っているお年寄りにとっては、電波がペースメーカーに悪影響を及ぼすのが事実であるのだ。

 であるならば、見えれば見えるほどイイはずだ!と思うのが通常であると思うが、そうでもない。それは、事前に俺のことを知っていて、このページを見つけて、俺には秘密裡に読み続けている人なら、わかるだろう。
 人は、情報を知れば知るほど、考えなくてはいけなくなってしまう。もう少し正確に言えば、それらの情報を考慮せずにはいられなくなってしまうのだ。入試にしても、何かの審査にしても、本来、その人が生きてきた足跡や環境をすべて考慮しなくては平等ではないはずだが、そうはしない。目の前の点数ですべてが測れる、ということを(テストや審査の良い部分だけを見ることによって)信じてしまって、ゲームにするのだ。その人のことを知らないからこそ、自然と気兼ねなく話すことが出来るし、冷酷に審査することもできる。見ていないからこそ存在しないことを信じられるのである。
 だが、このページで俺のことを知っている(と勘違いしている)ぶんだけ、俺のことがある意味怖くなってしまうはずである。しかも、本来の俺からは乖離した俺を認識していることになるわけで、自分だけは大丈夫だと思いながらも、知らず知らずに俺が繰り出している洗脳に支配されてしまう。実は、たいていの思考力の低い人にとっては、読まない方が"対俺"対策としては正しいのである。(なぜ、俺は読者を減らそうとしているんだろう?笑)

 幸せになりたいなら、多くを見すぎないことである。人類は75億人もいる。そのなかから、自分に一番フィットした異性を見つけようとしたら、一生が3回あっても足りない。見ないで存在しないことにしてしまい、「私には貴方しかいない!」とか言ってるほーがバカだが幸せである。そして、多くの人はこのようなバカな生き方を選び、多くの場合でそれは正解なのである。

 そんなことは皆、直観的にわかっているはずなのに、でも、見ようとしてしまう。真実を確認せずにはいられない。これが人間の根源的な性質である。
 大切な誰かがどのような死に方をしたのかの詳細について、知ってしまう方が不幸になるに決まっている。でも、情報があるとわかれば、知らずにはいられない。そして、いざ知ってしまえば、遣る瀬無い気持ちになりながら、「知らなければ良かった」と呟き、自分の無力さを痛感することだろう。

 このように、どこにぶつけたら良いのかわからないような遣る瀬無い想いこそが、実は、本当の意味での感受性を豊かにしてくれる。遣る瀬無さが存在していなければ、人生を検討するチャンスがないし、行間を読もうとしたり、見てもいない相手の状況をどうにか想像しようとトライしてみようとする発想そのものが生まれないのだ。
 それでも、もちろん、考えつかなければ想像できない。しかし、想像もつかないことは考えつかない、というわけではない点では、進捗していると言えよう。

 一度でも、これまで見えなかったものが見えるようになる経験をすれば、(自分にとっての)世界に存在が出現することの楽しさから逃れられないであろう。
 そして、そんな夢みたいなことを、いつまでも言っていたいと俺は思う。
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クズにならないために

2017-02-03 01:32:24 | Weblog
 何が他人を蹴落とす行為になるかについて常に考え続けようという気概がなければ、知らず知らずのうちに、自分だけが利益を不正に独占していることを「正統に勝利して得た結果だ」などと勘違いしてしまうだろう。

 無難に振る舞えば相手を敵に回さないはずだと考えるのは、いささか思考力が拙い。だって、横入りしたり、実力以上の結果をどうにかストーリーづけるのが当たり前になっている世の中、正直者ほど損をする。ゆえに、多くの場合、多くの人は、損をしなくてはいけないのだ。
 他人を蹴落とすような行為について常習化しているようなクズが世の中の大多数であり、その平均値よりもマシであるからといって、クズな行為が正当化されるわけではない。また、「馬鹿だってわかっている程度には自分は賢いはずだ」というのが最もバカであるのと同様に、「クズだってわかっている程度には自分はマシなはずだ」というのは最もクズである。
 その惰性と、価値観の構築不足と、無意味な社会性と無難さこそが、人々からホンモノを奪っていくし、正しさと優しさを追究しづらくなるのである。

 成り立たせることを優先しない、というのは現代社会において、すごく大事なのかもしれないね。成り立つ、というのは常に、最後に来るべきなのだ。むしろ他人から、「どうしてあんなに実力あるのにまだ成り立っていないのだろう?」と思われるくらいでちょうど良い。
 ラボを主宰する実力が欠如した人(たち)がラボを主宰している様子を呆れ返るほど見てきているし、一度成り立たせてしまった以上、後に引けないのだろうなぁという様子を見ている。(結婚やコネによって)実力以上の収入を得てしまうことはしっぺ返しがあまりに怖いし、"論文を書く"ということについて収束させようとする研究はだいたい腐ってる。
 先に芯を食べてしまっている分、(無駄なプライドが邪魔して)後には戻れないから、余分に不幸なのだ。

 そして、"成り立つ"を優先しないためには、かなり絶対的な自信をつけなくてはいけない。ここには、多くの事柄を俯瞰できるだけの体力と、あらゆる価値観をいったんは受け入れるだけの器の大きさと、相手のクズ度合いに配慮できるだけの未来への予測力が必要だ。中途半端な自信をつけるために、とりあえず(まずは)成り立たせ(てみ)る、というのとはワケが違う。もっともっと根源的な自信がなくてはいけない。

 すぐに敵認定をしないこと。ちょっと思いついた(だけの)ことに(対して)固執しないこと。他人に相談することを恐れないこと。自分の間違いを発見したら間違える前の場所まで戻れること。一つのやり方に決めず最低限の制限時間を設けること。繰り返しの時間と新しいことにチャレンジする時間を対等に持つこと。同じカタチの失敗だけは避けるようにすること。

 これだけ守ってれば根源的な自信は磨かれると思うんだけど、どうだろう?
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