たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

まず、そのものを観ろ

2021-12-13 00:53:04 | Weblog
 人間の想像力の限界は思っているよりも手前にあって、実際にその立場になってみなければ分からないことばかりだ。
 何かの数字に最適化するために、他者の立場に立とうとすることはおろか、話すらまともに訊き出さずに、独断で突っ走ってしまえば、組織はすぐに崩壊に向かう。日本の至るところで起きている問題は、「まず、そのものを見る」ということを怠り、とにかく外部からの要請にそのまま従い、「細かいことを見ないからこそ正論になる」「数字に最適化するから数字を達成できる」ということを盲信して各々が頑張ってしまっている結果なのではないだろうか。

 本質を見ずに、種々の倫理観を捨て去り、自らの勝利だけ得るためにと自身の行動を最適化していくのは、非常に簡単なことだ。
 昨今これすらもできない人たちが、倫理観を捨てず最適化しようとしない態度に対して「どーせできないからだろう」と責め立てる下品さが許されるようになって久しいが、そのようなことを他者に(それもTwitterなどで匿名で)繰り返している分だけ、自分自身の心が汚れ、人生が機械化してしまうことにそろそろ気がついたほうが良い。

 冷酷という状態は、最適化するべき価値観を中心に行動を無矛盾化することであるが、それではほとんど「生きていない」。生きているとは、あらゆる反応系を袋状に閉じた薄膜内で起こしながら非平衡定常状態を維持することだ。一つの反応に落とし込んでしまってはいけないし、完全に閉じた系に仕立ててもいけない。

 とはいえ、俺自身も、「コレと決めたらそれに向かって努力し続ければ良いのだ」という修行さえすれば成功するという呪いから、いかにして卒業して来たのか、それはよくわからない。
 何かを努力し続けた結果、何かが得られなかったからだろうか。そんな記憶はない。少なくとも、最適化したいものについては最適化し、いつか思い描いていた未来において、すべて俺の思い通りになっていると言っても過言ではない。
 例えば実験のなかで、そういった現象はあったであろうか。単離したタンパク質よりも細胞質のほうが保つ、ということに気がついてからだろうか。しかし、それが我々の社会や組織にも同様に言えるんじゃないかというアナロジーを得ているのは、他のキッカケであろう。

 理論や既存の論理体系をきちんと理解しながらも、実験に予見は禁物だ。
 これは学部時代に再三に渡って誡められてきた言葉だが、この言葉を胸に抱きながら研究を進捗させている者が、世の中にどれほど残っているのか、不安になることがある。すでに定められた結果を得るために、四苦八苦しながら日々を過ごしている姿をたくさん観てきたから、そう思うのかもしれない。
 それらの信用度の低い結果と業績を決して自分の研究の参考にしてはいけない。グラグラの結果の上にさらにグラグラの結果を積み上げ、そんなやり方の研究を大勢の人がすでに行ってしまっており、それを自慢気にこちらに語ってくる姿に対して見下すことに一切の躊躇いを見せず、突き進んできたからだろうか。

 そう、実は、そこで俺が切り捨てている行為というのは、「まず、そのものを見る」という行為の欠如なのかもしれない。
 思考力不足の彼ら彼女らの頭脳を自らにインストールし、置かれた状況と権威的な社会構造をベースに、その立場を精緻に想定しようとしたことがあっただろうか。手を叩いて笑うことに終始してはいないか。その中に埋もれてしまっている数名の「まともな人」を、きちんと此の目で見ようとしてきただろうか。

 知っていたはずの脆弱さと履歴を直視することの怖さは、「じゃあ、もし、俺があの頃、最適化しなかったら、どうなってしまったのだろう」と想定できてしまうことから生じている。俺自身が辿ってきた道だからこそ、だ。
 後天的に生じている能力の所以は、結局は「ただ最適化したこと」に依存している。だとしたら数字に最適化することにだって、、愚直に利益を出すことに最適化することだって、頓珍漢な評価にただ最適化することだって、論文の数を稼ぐために実験をし続け、出るべき結果でない結果を「やっていないこと」にして捨て去り、とにかくとにかく出るべき結果を追い続けることだって、もしかしたr、、、いや、それは正当化されないだろう。

 若い子や子供が承認が欲しくて無理をするのと、大の大人が社会のなかで評価のために「生きていくためには!」と稚拙に叫ぶこととは、違う。
 それなら、青春期にそのチャンスがなかった人たちにとって、最適化するチャンスが今目の前にあるのだから、許してあげたら?という優しい自分が、厳しい自分に語りかける。

 自分の中に湧き上がってくる父性を提供してあげたい一方で、純粋にまっすぐ「まず見ろ!」「見るための準備を怠るな!」と厳しく意見する自分が交差する。

 理想を追い続けるべきか、それとも仲良しを目指し続けるか。
 ・・・どっちに最適化するつもりもない。自分自身を満足させる優先度が高いのだとすれば、そのどちらも満足できないだろう。

 ならば、やはり、いつも通りに、「まず、そのものを"観"る」ということを徹底するべきだろう。
 それこそが、ここまでの日々を多分に満足し、これからに対しての期待を奪わせない秘訣なのではないかと、直観している。
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