たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

知らないベルトコンベアを恐れないで

2013-02-27 01:36:35 | Weblog
 自分ができないことや苦手なことを、相手がいとも簡単に、しかも短い時間で、適確に行っているのを目の当たりにすると、自分自身がちっぽけな気持ちになることがある。
 しかし、それはイドラであることが多い。

 自分よりも遥かに能力があるわけではなく、作業として慣れているってケースだって多いのだ。
 やり始めてしまえば、やることは毎回同じ。まるで、ベルトコンベアに乗っかっていくように、やることとして決まりきっていることは、沢山行えば行うほど、要領よくできてしまう。
 決まりきった実験手法、よくあるコード進行、得意な解析手法、いつも使っているデートコース、美味しくて手軽な料理など。いくつものことが、ベルトコンベアに乗っかるように、確立されている。

 このようなベルトコンベアに乗るようなことをするときは、感情を入れ込まないように注意する。だって、無心になるのが一番上手く行くから。
 物理的に正しいことだけを選んでいき、機械のように作業を遂行し、インタラクションがあるときには、はっきりと、オフェンス・ディフェンスする。ベルトコンベアに乗ってりゃイイんだから、そりゃそうだよね。

 大切なのは、そのベルトコンベアに乗るべきか否かを判別するときとベルトコンベアから降りた時に得られたことから言えることを解釈するとき。
 その瞬間の、その判断力、その思考力、その感情、その直観こそが、ホンモノであり、ベルトコンベアに乗っている時なんて、(少なくとも評価の仕方として)どうでもイイはずだ。なのに、そんなところに、嫉妬したり、感情的になったり、羨んだり、哀しくなったりしていても、意味が無い。

 もちろん、ベルトコンベアの中での作業獲得が困難なものも確かにある。
 でもね、ベルトコンベアなのだ、っと意識することで、それをマスターするまでの時間が圧倒的に早くなるもんなのだ。

 よーするに、実際にやろうとしてみてから恐れてね!、ってこと。
 まったく知らないベルトコンベアをすごいと思うのは当然でしょ?

 やろうともしないくせに、理解しようとしないくせに、何かの感情を入れ込むなんて、ダメダメだよ??
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こぼれても

2013-02-26 01:29:02 | Weblog
 助けるためには本当の能力が必要だ。権威や言葉をいくら手にしたって、誰も助からない。
 助けられるか助けられないかの実質的な効果は、その人間の能力においてのみ決まる。

 その場合、経験に依るところがどれほど大きいかというところに着目しがちになってしまい、きちんとした、助けるためには本当は何が一番必要かの思考が達せられないことが多い。
 確かに、スポーツの経験がゼロでオリンピック選手に大会でのアドバイスをすることは困難だし、研究室に所属していないのにラボの運営に関することを意見することも難しい。
 だけど、実は、そんなものは、論理性さえちゃんと高めれば、簡単に超えられるものだと思う。

 経験したこともないことに対してでも、その相手の気持ちをよく思考し、感じとり、さらに置かれている状況下を明確に想像するだけの思考の体力があれば、経験したこともないことで誰かに適確にアドバイスしたり解決したりすることは可能だ。

 じゃぁ、一番必要なものは思考力や論理性か、っといったら、そうではない。
 誰かを助けるために一番必要なモノは、助けたい!、よりよくしたい!、守りたい!、っという純粋な気持ちそのものであり、その想いさえあれば、思考力や論理性は、あとからでも、いくつになっても、十分についてくるものだと思う。

 当たり前のことだけど、その気持ちを再確認しながら、今まだできることが残っているのであれば、そこに全力をかけていく姿勢を、種々の系に対してとっていきたい。

 貴重な試薬がこぼれてしまっても、試験管の中に残った試薬の中から、今まだ出すことができうる実験結果をだそうとする姿勢と同様に、助ける、よりよくする、守る、ってことに対しても、同じように立ち向かわねばならないと、自分に言い聞かせている。
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この宇宙の希望のかけら 2

2013-02-25 03:47:29 | Weblog
 競争相手を勘違いしている人間に成功は訪れない。だから、正確に、どこに向かい、どれを倒そうと思っているのかを把握するための思考を、常にしていた方が良い。
 今のところ、論理を突き詰めると、諸悪の根源は物理現象にある。どうしても生じてしまう残酷な物理現象に対して、どのように対処し、誰も傷つかないようにしていくかを、考えないといけない。

 なのに、そういうことに気がついている人は、極端に少ない。怠惰だけど犬のように上の命令に従う無能力な人達を守るために、物理現象と戦えるだけの能力がある人達から搾取して、無駄な言葉と時間を与えるような世の中から脱せない限り、未来は無い。
 根本的な問題解決をしないで、上に従うための礼儀やバカのフリをどんなに上手くなったとしても、そりゃ自分だけは良いかもしれないし、表面上は平等かもしれないけど、最大の目的はいつまでも達成されない。みんながみんな自分勝手で、その状態に占有されていくなかで、それが常識のように扱われる世界のなかで、そうじゃないような振る舞いをする能力者が、まだまだ自分の周りにも残っていると思うと、そっち側に溺れた方がラクになることがわかっていても、自分のスタイルを貫こうっと思いかえしてしまう。

 だってさ、どんなに政治力で上手く行っても、どんなに媚び諂って腰巾着になっても、本当の能力をどこかではつけて、自信をつけるしか、優しくなる術はねーんだぜ?こういうことは、日々、たった今からでも、し続けることで価値がある。上になってから、言葉を手に入れてから、自分はそうするから大丈夫、なんて、そんな風なヤツは、結局は最低の人間だし、物理現象と戦う資質に欠けると思う。
 そして、優しいということが、優れているということで、優秀だってこと。

 いま、すでに物理現象による不利益は生じてしまっている。
 そこに対して戦うためには、どうにかみんなで思考しなきゃいけないんだけど、その気力が無い人を定常的にするためだけに、きちんとした可能性のある人を搾取していては、これからの新しい世代にも迷惑をかけることになる。
 それが正当化されていることが多いけど、果たしてそれは、本当の意味で平等なのかな?優しいということかな?

 もちろん、能力の無い人も楽しむ権利はあるが、能力の無い人が変な方向にプライドだけを持っているケースが多すぎ。それによって、本当に能力を得る資質を持つ人が評価されない。
 そんな物理現象だけでも排除できれば、と思いながら、自発的に能力をつけなきゃいけないんだと悟る気力を得るキッカケになってもらえれば、っと思いながら、いくつかの場所で、スタイルを貫きながら、働きかけることに疲れてきてしまっていた。

 こんなことにすら行き詰ってしまうのかっと落胆しながらも、それだけ、自分の周囲だけでも、何かを変えるってことが、いかに難しいかを、また思い知る。
 でも、唯一残っている希望のカケラが、まだ存在している限りは、頑張れるみたい。ダメになりそうになると、いつもタイミングよく訪れる不思議な偶然を感じると、いつかの励ましの言葉を想い出す。

 「素晴らしい運命的な偶然は、頑張って何かをより良き方向に変えようとしている、人間の中でも重要な人間にしか、訪れない!、ってね。」
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前向きに頑張っている姿

2013-02-24 03:02:22 | Weblog
 俺は、論理を突き詰めていくことには、絶対的な自信を持っている。論理追求で、誰にも負けたくないし、実際に最近は、負けている気もしない。
 知識とそれを持つ優秀な人を、すべてカードのように扱い、目的遂行に必要な論を詰めていく。

 オフェンシブヒヤリングで重要なのは、冷徹になること。自分の感情を排除し論理と事実だけを使って意見を述べていき、相手の選択肢を奪うことによって、相手の感情を放出させる。そうすれば、相手がどのように考えているかを知ることが容易だし、適確なアドバイスを提出していけば、実際に仲良くなることも多い。
 だが、時として、論理は人を追い詰め、傷つける。相手を論理で追い詰めて爆発させてしまうような手法をとるのは、明らかに悪い人間にしか行わないようにしないとね。

 論理の向こう側に待っているモノは、孤軍奮闘を善とする哲学じゃないし、悪人を浮きぼらせることじゃないし、即物的な言葉だけをゲットできるってことでもないんだと願いながら、何かのスイッチを切り替えた時は圧倒的なロジカルモンスターでありたいと思っている。
 自己矛盾の無い適切な論理は、いつだって僕らの味方であって、決して敵では無い。前を向く姿勢を得るために必要なことだし、他人の流れや感情の理解をも系に包括しようと思った時に、論理は必要不可欠。

 だとしたら、「前向きに頑張っている姿」を、ちゃんと日々実行していく中で、みんなで楽しめながら、それでも論を追究し、助け合っていたいと思う。
 大きな時間の中では、確かに常にできてきたことだけど、ここ最近、ちょっとできていなかったかも。そんな俺を、、見習い続けてもらえるのかな?

 敵は、誰かじゃ無いし、自分でも無い。敵は、残酷な物理現象だ。
 そいつを倒せるのは、強者同士の信頼関係をベースとし、知識や経験を超えた、論理の出し合いによるパワーだと思う。そして、それこそが楽しい。

 唯一の光の存在を感じる。
 この世にまだ残っている素晴らしい可能性が一切尽きない限り、理想を捨ててはいけないのだと思う。
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わからないことを素直に訊ける力

2013-02-21 23:33:07 | Weblog
 「本当の」能力と「見せかけの」言葉が同時に存在して、はじめて、絶対的な自信が持てる。
 どちらかが無ければ、上から押さえつけてしまったり、知らないのに知ってるフリ、わからないのにわかったフリ、ばかりが上手くなるし、優しい気持ちが失われやすくなってしまう。だが、確かに、どちらかといえば、言葉が無くて能力があるほうが、まだマシな気もする。

 普通に元気なときなら、、別に、、我慢できるんだし。笑(えない?笑)

 いつだって、言葉は後からついてくる。そういう風にして言葉を得ない限り、誰かを傷つけてしまうとしたら、俺は、少し損をするんだとしても、ガチの能力を追い求めていったほーが、最終的に目的も達成されやすい気がする。
 謙虚な気持ちにもなりやすいし、正しく楽しめ、得られた論理性を何かの役に立てることが簡単になっていく。

 いつの時代からか知らねーが、一般の日本社会では、上の言うとおりにしか行動できない控えめなバカなヤツのことを「謙虚」というようになってしまった。謙虚という言葉は、そうではない。自分の立場におごることなく、どんな相手であっても、「謙」れる「虚」しさを形容して、謙虚な姿勢というのが定義されている。
 だから本当に謙虚でありたいなら、下の立場の人が、自分が知らない内容や、理解できない論理性を持っていた場合には、丁寧な態度で教えを訊く姿勢が大事になる。そのような奥ゆかしき日本の文化を履き違えてはいけないよね。

 俺は、何が何でも言葉を取りに行くわけではなく、ガチで能力を得ることが大切だというスタイルでずっときたので、誰かが、自分の立場や空気によって、わかっているフリをしたり、知らなくてもイイ大義名分を造ったり、上から押さえつけたりすることを、すぐに見抜ける慧眼さを持っている。
 その後、どういう対応をとるかは人それぞれだけど、こういうことされると、素直に、わからないって言えば良いじゃん、論理を教えてくれって言えば良いじゃん、っと思う。そっちのが、俺は、聡明だなー、って思うぜ?

 知らないことを知らないと言う力。理解できないことを、理解できていないから、言葉を変えて教えてくれ、っと言う力。
 どんなにネットで調べたって、本で理解しようとしたって、誰かに訊いちゃったほうがコスパーは遥かに良いのだから、それらの力は、いつまでも、ちゃんと持っていたい。

 ちなみに俺は、自分の立場を守るためにシッタカすることはあんまりしない(していないと思う)けど、実は、わからないのにわかるフリをすること自体は、することが多い。
 この演技の取得は、誰かを助けるためには必須だからね。

 っそ、学問体系のなかで、勉強したいから、研究したいから、それらをするわけじゃない。単純に『知りたい』から仕方なくやってるだけだし、初心である、論理性を高めなければコスパーよく助けることはできないから、お勉強と研究が一番手っ取り早い、って気持ちを忘れちゃダメだよね。

 達成されたあとには、「本当の」能力と「見せかけの」言葉も、同時に存在しているのだから、こんなに効率のイイ事は無いのだ。
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『せーのっ』で素直になろーぜ?

2013-02-21 01:49:40 | Weblog
 いつの間にか履歴を忘れて、いっきに元通りの本音を言い合える仲に帰れる関係は、とてもイイ関係だと思う。
 その本音が、本当に想った事というわけではなく、自分との関係性を維持させるためにするような行為であったとしても、いつの間にか楽しく笑い合えている時間を感じとると、信頼関係を結びつける力は、物理的な要因のみじゃ、やっぱり簡単には壊れないことを感じられるから、安心するのだ。

 だけど、それによって、さらに傷つけられる可能性が増すとなれば、話は別だ。
 ここで普通に戻ってしまったら、もっともっと傷つく可能性が高まる。だとしたら、物理的なことしか喋らないようにしたほうが(聡明ではないが)賢明だと思うころ、インタラクションをいっさい無くそうと目論む。
 絶対的な能力や自信があるなら、少し傷つけられるくらい容易いことなのかもしれない。俺にはそれほどの能力は無いし、そもそも俺の能力の源は傷つけられていないで大事にされていることにあるのだから。

 それに、能力を大いに発揮できるのは、その能力を、どうぞ使ってください、と明らかにわかるほど、安心感があるときなのだし。

 今日、渋谷から電車に乗る時に、白杖を持った外国人がホームの端に向かって歩きながら迷っていた。俺は英語で誘導して正しい階段の方向へと向かわせた。こういう人の役に立つことは、大きな安心感のなかで、自分の能力を遺憾なく発揮できるから、俺にとっては容易い。
 なぜ安心感があるのかと言えば、ある程度英語が喋れて、目の見えない方に対する基本的な知識がある人間は、日本人だと極端に少ないからだ。俺がやるしかない、っと明らかな状態のときなら、助けられて当たり前。

 本当に難しいのは、自分がしゃしゃり出てイイのか微妙な時。
 それも、わざわざ能力をつけて、役に立とうとしたのにも拘らず、その相手に傷つけられるかもしれない時。

 もっともっと、演技無しで、立場を考えること無しで、インタラクションできたらイイのにね。
 『せーの』でお互いにまるっきり素直になれたなら、どんなにいいか、っと、ここ何年かずっと思って生活している。
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効験灼かな能力の多様性

2013-02-20 01:29:23 | Weblog
 数学嫌いの高校生が数学を勉強する必要がないと思っている理由として挙げる典型的な例の一つに、「自分は冷酷な人間になりたくないから」というのがある。
 (数学嫌いの)高校生の割には論理性がしっかりしているが、もしも、これを大の大人が言ってたら呆れてしまう。

 こう言われた時に、俺の答えは決まっている。
 『残念。もう一歩だね。数学が冷酷になる術であることは、確かに、あなたの言うとおり。だけど、冷酷になる術を知ることと、実際に冷酷になることとは別のことだよ。何かの能力があるからって、必ずしも、その能力を使うわけじゃないでしょ。数学が得意になるからって、必ずしも、冷酷になるわけじゃなくて、冷酷になる選択肢を得られるってだけなんじゃない?それは今後、色々なシーンで必要なことだと思うし。んね、だから、ほら、この問題も、さっさと、やれよ!笑』

 数値計算ができるからって、どんな系でもプログラムを組もうとするわけじゃない。
 英語が喋れるからって、英語圏の人なら誰でも話すわけじゃない。
 カケヒキできるほど人間関係のプロトコルを経験しているとしても、いつも自分の利益になるようにそれを使うわけじゃない。
 A上グループ(一番ノリがイイ集団を引っ張るグループ)の能力があるからって、すべての集団でリーダーシップをとるわけじゃない。

 能力は、いわばポテンシャルエネルギーだ。質量mの物体が重力gに逆らって高さhを持っているってだけで、mgh分の仕事をするとは限らない。
 ただ、能力は、相手に対して、脅威を与えてしまう。いつ、なんどき、その能力を使われて、仕事をされてしまっても、おかしくないわけだから。

 この脅威を消すためには、数多くの分野の能力を手に入れてしまえば良い。そうすれば、普通に楽しく、集団と付き合っていける。
 だって、論理性も抜群で、瞬時に物事を把握する能力があり、複雑な人間関係を生き抜くコミュ力もあって、かつ個々人を嬉しい気持ちにさせる能力にも長けているとしたら、それだけだって、どの能力を使ってくるか、わからないでしょ?すると、正しい気持ちである限りは、相手は、信頼するようにするしかないからね。

 そんな種々の能力のなかでも、行き詰ったり、哀しくなったり、少しやり過ぎだよって伝えたいときには、論理性だけで発現するのが一番ラクだし、効果的だ。だから、高校生は数学をお勉強していたらイイと思うんだよね。
 普段とは違って、論理性だけで生きるスタイルになってみると、普段、いかに自分が自分の能力を選択して相手に発現しているかが、よくわかったりするし、それが自信にもなるから、結果、泥沼から抜け出せたりすることが多いし。

 何かを変えようっと想った時に、能力が多様なおかげで、選択肢が沢山あるのは、イイことだ。
 しかし、色んな種類の能力を得るということは、それだけ視野を狭めることでもある。道を狭め、自分の行く道を固定することに繋がってしまう。

 じゃあ、能力なんて、つけないほうが良いじゃん、っと思うかもしれないけど、どんな人であっても、そんなことは絶対にない。
 だって、能力に多様性があるということは、自分で道を創るためには、必須なことなのだから。
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飲みに来ないか

2013-02-18 01:46:16 | Weblog
 一緒に何かをしようとする時は、殆どの場合で、能力なんてどうでもイイ。
 もちろん表面上では、こういう力がもっともっと必要だ、とか、この部分の理解が足りなすぎる、とか意見を出していても、心の奥底では、そんなこと以上に、お互いがお互いを優しくしようとする気持ちこそが一番大事だと想っている。

 しかし、優しくするためには能力が必要だ。だから、俺は能力を高めなきゃいけない。
 ただ、それが最終的に達せられなかったとしても、お互いに、想いやりの気持ちで溢れているなら、能力の向上度合いに依ることなく、一緒にやっていける。
 どんなに言葉で汚しあっていたとしても、言葉の節々がトゲだらけだとしても、行動(言動)によって優しくできることが優しさであるし、その優しい気持ちを無駄にさせないように受け入れることも、また、優しさだ。

 いつもムカつくことを言ってくるくせに裏で優しい行動をとってくれていたり、こちらの能力不足のせいで実質的な改善に達することができなかったのにも拘らず「ありがとう」と言いながら無理矢理にこちらの提供を採用していてくれたり。そういう行為の一つひとつを感じ取っているからこそ、険悪になったときに、たとえ不条理であっても、こちらが悪くなかったとしても、『ごめんなさい』と、癪だけど、先に引き下がれる。
 それを一切無視して、ただ、ボスが言ってることだから、とか、立場が上の人に逆らわないようにすべきだから、従っている方がラクだから、とかやっていれば、信頼関係は一切生まれない。

 大切なのはくだらないこのプライドなんかじゃない。っと思えるためには、能力を考慮しない信頼関係とその土台になる想いやりや優しさがあってこそであって、どんなに輝かしい成果や業績なんかよりも、そういう関係性にこそ、価値がある。
 これは、俺が気持ちや感情を一番大切にするから、ってことだけではなく、未来を見つめたときに、実質的にも価値があるんだということを、本当の意味で冷徹な人にも理解してもらいたい。

 遠回りしたとしても、結果にかなり落ち込んだとしても、安心感の高い信頼関係の中で、生活していたいと願っている。

Sukima Switch - 飲みに来ないか(PV)
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リーダーの中のリーダーの役割

2013-02-15 01:49:09 | Weblog
 みんなで、ものづくりをするとき、各個人の能力はまちまちであることが多い。
 もちろん、一つの集団(大学内やサークル内)の中から、さらにグループを組む時に、個人の能力を考慮しながらメンバー集めをするようなグループがあったりするから、ある程度以上となることは多い。でも、どんなに厳密なことをしていたとしても、ものづくりは、気持ちが入ってなければ、価値が無いのだ。とすると、能力は、どうしたって、まちまちになってしまう。

 例えば、バンドを組めば、ギター、ベース、ドラム、ボーカル、っとそれぞれ楽器とマイクで、ひとつのことを表現する。
 これら4つの組み合わせは、実にすばらしい。なぜなら、どれも大した努力をしなくても、すぐにマスターできうるものだからだ。(っというと、自分の楽器や声に情熱を持っている人が反論してきそうだけど、ピアノやバイオリン族に比べたら、あっという間に、マスターできうるモノでしょ??)
 しかし、実際は、これらの楽器で演奏したとしても、能力はまちまちになる。そして、それぞれの楽器に思い入れも出てくるから、価値観の相違で喧嘩にもなりやすい。

 その楽器の中でのテクニックや音感などの能力の違いだけでなく、楽器間、もしくは、パート間そのものに優劣があるから、音楽で、一切ぶつからずに、ものづくりをするなんて不可能だ。
 もし、それができているんだとしたら、メンバーの誰かが我慢している可能性が非常に高い。

 同じことは研究にも言える。
 複合分野を研究すれば当然だが、色々な分野をバックグラウンドに、ひとつの自然現象解明に向けて、ものづくりをする。物理、化学、生物、地学、工学、数理情報、農学、医学など、それぞれの分野を武器に、共同で作業しなきゃいけない。
 当然だが、これらの武器を、味方に攻撃することに使ってはいけない。個人個人の能力が異なることもさることながら、これらの分野間に優劣が存在する。敵は自然現象なのに、何かと、ぶつかりがち。まったくもって、音楽バンドの系とカワラナイ。

 音楽でも研究でも、どちらにも言えることだが、大切なことは、ものづくりの目的達成のために、できることをする、っということだ。
 自分と異なる考え方、無価値に思えるような行為、パフォーマンスをしていても、みな、目的達成のために行っていることは間違いない。ありふれた言葉だけど、みんな違って、みんなイイ。そのなかで、みんなで協力して、ひとつのことを達成しようとしているんだ、っと自分に何度も言い聞かせなきゃね。

 そして、組み合わせているからこそ、ミックスさせているからこそ、他のグループでは出来ないことがあるんだ!、っという強みを忘れてはいけないと思う。
 チームだからこそ強い。

 ファーストオーサー、パートリーダー、リードボーカル、トップダンサー、バンドマスター、Principal Investigator、プロジェクトリーダーなどの指揮を取りながら重要な決定や役割をしていく人間は、それほどでもない(しかしとても大事な)仲間に対して、これらの仕事の一部を一人ひとりに任せることで全員をリーダーとして自立させながらも、みんなで細部まで繊細に決定していくような環境作りをしなきゃいけない。

 露わに見えなくても、こういうことをしている人間が、リーダーの中のリーダーだと思うし、こういうスタイルを、どんなものづくりでも、どんどん、とれるようになっていきたい。
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大きな決心のその先で

2013-02-14 01:27:39 | Weblog
 通常、有難く想ったり、申し訳なく想ったときには、はっきりと、『ありがとう』『ごめんね』っと言える方がイイとされる。
 確かに、言葉にしなければ伝わらないし、雰囲気で感じ取ってもらえるほど、多くの人は繊細じゃないからだ。

 でも、それは同時に、その人との関係性を、その距離で止める、っという宣告でもある。
 あることに対して、世話になったり、よくしてもらったり、逆に、議論を重ねすぎて喧嘩みたいになったり、わかりあえなかったときに、言葉だけで、『ありがとう』『ごめんね』と言えば、その時の空気はそれで清浄化されるかもしれないけれど、その人と、とことんぶつかりあって、わかりあって、二体問題を一体系に帰着させることを諦めるということに他ならない。

 レンツの法則のように、変化を妨げる方向に力をかけてばかりいるようなことが普通の環境だから、その人やその分野が誤魔化しているところに行きつくと、そこで議論を止めに入る。そういうときは、俺だって怖いし、イヤだし、だから、すぐに言っちゃうんだよね、『OKOK、大丈夫です、ありがとう。大丈夫?ごめんね??』ってね。
 突き詰められることは、必ずしも信頼関係に一致するわけじゃないけど、少なくとも、わかりあうためのチャンスであるとも思う。

 だから、『ありがとう』とか『ごめんね』って、多用しすぎちゃダメなんだよね。
 『あなたとは、このラインまで。これ以降は、きっと、私達はわかりあえないです!』って宣言であることも多いから。

 その先を議論したいのに、とことん話してわかりあえたらイイのに、多くの場合、そうはならない。
 なぜなら、この日本では、計算に計算を重ねて、相手を削ってでも自分の何かの利益にすることが良いことであるかのように定式化されてしまっているし、真剣に話すことと言えば、何かのレールに乗せるための大義名分探しであることが殆どであるような、ダメな社会だからだ。

 俺がオフェンスをすると、返ってくる言葉の枕詞は、必ずと言ってイイほど、「有機化学では―、」「生物学ではー、」「今のうちら(中学生)の間ではー、」っと、常に「○○ではー、」っと返ってくる。
 言葉に騙されるなよ。ホント、くだらない。俺がいつ、「物理ではー、」「研究の世界ではー、」「バンドではー、」っとディフェンスをして議論を止めた?そんなことを訊いているわけではなく、問題点の現実に即した改善策探求のためにディスカッションをしながら、相手の想いを確認したいだけのことだ。曖昧な世界に話を持っていって、それを、その中のみんなは普通にやるから良いだろ?ってやって、曖昧なのに現実になってしまう日本の性質に、俺はうんざりしている。
 自らを何かの分野に身を置こうとすることで、ディフェンスするなっ。っと思う一方で、それに対して、特効薬的な改善策が浮かばない俺は、今できることを少しずつするしかなく、まだまだ修行が足りないのだと思う。

 うんざりしながら、つまらなくなりながらも、でも、みんながいないと、もっと楽しくなくなっちゃうから、寂しくなってきてしまい、それで『ありがとう。よくわかったよ、しつこく訊いて、ごめんね。』って、止める。

 ある新しい系に対する新しい理論は、それまでの系に対する古い理論が何故それで成り立てていたのかを示さない限り、確立されないし、儚い理論になってしまう。
 数珠つなぎのように脈々と繋がる理屈の中で、各論になってしまっている理論に価値がないのと同様に、何かのつながりにつながらない心が損をしているのだとしたら、正解は一つしかない。

 そう、新しい大きな扉を開く決心は固まりつつある。

 この気持ちが固まりきったその時に、どれだけの人と、本当の意味での信頼関係を築いているか?
 大きな決心のその先で、、いま、俺が心に強く想っている、俺の周囲の数人には、それを願っている。
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グループ理論の秘密

2013-02-13 01:40:15 | Weblog
 すべてのヒトは、大きく3つのグループに分類される。
 ノリがイイほーから順に、Aグループ(ギャル系)、Bグループ(なごみ系)、Cグループ(オタク系)。これを俺は、人間関係におけるABCグループ理論、っと呼んでいる。

 俺の周りにいる人は、いつも、俺にこの理論について聞かされていて、うんざりしていることと思うが(笑)、これは、俺が勝手に創ったことではなく、ありふれた人間関係内の自然現象について、俺らがわかりやすく定式化し、理論としてまとめただけのことだ。…

 現在を犠牲にすることで未来に投資しし続けてしまうCグループ。
 未来を犠牲にすることで現在だけを楽しんでしまうAグループ。

 縦の関係を大事にして、横の関係を蔑ろにしがちなCグループ。
 横の関係が大事で、縦には礼儀正しくしているだけのAグループ。

 そして、そんな2つのグループの間に挟まれて、いつも身の振りを迷ってしまう、Bグループ。

 アジアのAは、欧米のBだ。

 AとB、BとCの間には、対等さを考えた時に、それぞれ2才差分の差がある。だから、2個上の先輩とはなんだかんだ仲良くできることが多いが、1個上の先輩とはぶつかることが多い。

 人生において、一番コスパーがイイのは、A下~B上グループの位置にいる人たち。推薦で大学に行って、正社員になり、27~29歳くらいに結婚する。

 …これらは、かなり物理現象に近い。そこには、何者かの意志や情熱的な信念は存在せず、ただ粒子のように振る舞っているだけ。
 こんな理論や論理展開をしてから、もう10年も経つのか。。

 俺がこの理論を破棄せず、保っているのには、過去に明確な理由がある。
 この理屈をきちんと理解しながらも、これら物理現象を超えようと、どのグループに対しても走り回ってくれた、Aグループのある人に魅せられたからだ。素晴らしい能力を持って優しさを提供する圧倒的な力は、享受しているからこそ発揮されているように感じられた。

 キッカケはこれってだけで、これ以降にも、もちろん今にも、個人の素晴らしい能力を、各集団に振り撒ける力を持っている人が俺の周りにはかなり多い。
 そして、それらは、物理現象を超えようとした、紛れもない、明らかな生命現象であると言える。俺はこれを期待している、俺の理論にまったく合わない「生命現象」が素晴らしいことを。

 少し理に合わないことでも、少し穏便じゃなくても、誰かのために、何かの集団のために、個人の能力を発揮する姿勢を、俺は尊敬するし、今後もっともっとつけていかなきゃいけない類いの能力だと思う。
 俺は、何のために、理論を創ってきたのか、理論を創っていくのか、能力をつけてきたのか、そしてこれからも能力をつけようとするのかを忘れちゃいけない。

 あの時の、同じAグループの人にイライラされながらも、Cグループに差し伸べる優しい掌の感触を、この手に、今も忘れてはいない。
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傷をともなう優しさ

2013-02-10 03:12:34 | Weblog
 何かの問題について、最後の最後まで論理を追求して根本の問題を突き止めようとした時に、いつだって残るのは、感情の相違ではなく物理的な相違による問題だ。
 それは、時間(提出期限や年齢)だったり空間(場所や地域)だったり定義名だったり色々だけど、とにかく、突き詰めてしまうと、「仕方ない」に行きつくことは多い。

 すると、賢くてかつ優しければ、論理性の手段として先回りして、お互いに手を打とうとする。
 超えられない壁を正当化しようとしてみたり、期待させないようにしてみたり、そもそもはずして考えたり、どれも先回りする優しさを持ってして、自分も相手も現状の安定性を維持させようと無駄に躍起になる。

 物理現象は残酷だ。特にレールは、その中でも超えられない壁であることが多いし、これが無ければ、っと何度思ったことか。
 実は最高峰はレールに依存しているケースが極めて高く、自らの道を自ら創作していく能力が欠如している連中が多い。だから、下の世代はせめて少しでも変わってくれ、っと願いをこめながら、最高峰の言葉を持ちながら、このスタイルが最高峰では当たり前なんだというような嘘を、俺はよく自分の生徒につく。
 それは、レールに沿って行かない限り、追いつけないシステムが許せなくて、そのシステムを、時間を、超えられない自分が、情けなくて仕方ないから。でも、追いつけない≠助けられないand守れない、であることに気がつくと、どうでもイイ事であるような気もしている。

 即物的なことで、傷つけられたり、傷つけたり。それは、レール上に存在する自分たちを意識することで、自分が優位に立つためだけではなく、レールを意識することでの絶対的な優しさとしての発現であることだとどこかで感じとっているから、とっても切ない。
 そして、本当の意味で度が過ぎてしまえば、取り戻せない、予想外の悪い結果を引き起こしてしまうことだってある。

 傷が深すぎれば、行動は止まってしまうし、本当の感情も揺るがす。いつからか、知らない声で笑い合っているのが普通になり、曖昧な世界へと消えていってしまう。
 そのせいで、さよならさえ伝えられなくて、そのまま出ていってしまったから、取り戻すチャンスはやってこず、新しいのに古く感じる、いま目の前にある信頼関係が最も大事になる。

 ホンモノは、むしろ、こっちだ!、っと心の底で気がついたころには、また傷つけられていて。
 だとしたら、いま、最も大切だと思っている関係性について、もう少しだけでも自分の気持ちを素直に発現し続けることこそが、次の場所を探さなくてイイことにつながる。つまり、野良猫みたいじゃなく、飼い猫の良い部分を発現させる指針なのかもしれないね。

 能力がついてから此処にこれていることに有難さを感じながら、、ただ、普通に笑いあえる関係にだけ戻れたら楽しいのにな、っと思っている。

GARNET CROW Nora
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理論は実験に先立つ?

2013-02-09 01:58:27 | Weblog
 人はどうしても自分にとって都合のイイ推論を立てがちだ。
 それが推論を離れて、理論になり、やがて確信に変わっていった先で真実を知った瞬間に、まるで考えることにまったくの意味が無いんじゃないかと思えてくる。

 自分にとって都合のイイ理屈は、自分のひとつの感情だけに依存するわけじゃないから、また解析が複雑だ。
 僅かな情報の中から、求める感情が自分だけでなく向こうも持っていてくれていることを期待するような理詰め(「きっと…だよね!」)をする一方で、求めている自分の感情を諦める理由作りにすること(「どーせ…なんでしょ?」)もある。相反する2つの理論が1人の人間の中で同時に共存できるのは、それだけ自らを自己矛盾なく解けていないからだと思う。

 すべての事象のありのままをありのままに見つめること。観たくないことから目を背けずに、その現象が出てきたら逐一考え、理詰めしていくことが、客観性を保ったままに、新たな理論を創る指針だと思う。

 ただ、我々(理系)が忘れがちなのは、たとえ今の真実とは異なっていたとしても、理論を創ったり、思い込んだりすることによる、自分以外への影響があるということだ。
 思い込みは絶対的な武器だ。そう思うことによって、本当にそうなることがあるからだ。だから、「知ってた?女って、なりきり男に弱いの。」ってね(男もだけど)。

 そんな行動方式も持ち合わせながら、無理矢理、前に進んできたことを、最近忘れがちになっていたみたい。
 何を目指し、何を主眼におこうとしているか、それらが明確に定まり、すでにある自分の幅の広さを感じたら、あっという間に、目のピクピクは治まった!

 「理論は実験に先立つ。」解き方がわかってしまったから、わざわざ計算するまでもない。
 解けることが原理的に分かった瞬間に、行動してなくても元気になってしまう俺は、やっぱり、どちらかというと、実験よりも理論に重きをおいているのかもしれないね。

 って、これも、俺にとって、都合がイイ理論?笑
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Rouge ou Noir ??

2013-02-08 00:21:26 | Weblog
 見えないことを観ようとするためには、試行錯誤と想像力が必要だ。
 どちらも何万回もすることはできないので、目的に即しながら理詰めをして、あたりをつけることがどうしても大事になってくる。
 そこには運も絡んできて、常に選択をし続けなきゃならない人生では、運が良ければ良いほど、成功しやすく、自らを満足へと持っていきやすい。

 運をこちらに引き寄せるためには、絶対的な論理性と智慧がカギになる。論理や推理で追求できるところは追求しきってしまい、その上で、当たり前の選択を想いだしながら、プリミティブなデータを提出していく。
 これだけで必ずしも運を引き寄せられるわけではない。だが、確実に可能性は上がる。

 ここでいう論理性の根本は物理学によってまとめられている。

 そういう意味で、論理性の塊である物理学を持ってして生命現象を研究することは、ミクロ(タンパク質、遺伝配列など)とマクロ(生物種、生態など)の違いはあるものの、21世紀になっても、単純な分類学の域を出ていないことが極めて多い生命科学の分野にとっては、とても意義深いと思う。
 生命現象特有の現象は、生命現象と物理現象の差によって表されるはずである。生命の状態は、宇宙よりも広い(仮想的な)空間的スケールを持っていうるのにも拘らず、ミクロな現象として起こるということが、大変興味深い自然現象なのだ。

 これも、賭けだ。
 生命現象特有の部分に関する理論は、物理学に包括されるモノなのか、それとも、感情や想いをも包括せねば、つまり論理だけでは解明できない部分も含んでしまうのか。前者なら我々が得られる利益は時間に対して不毛なものとなるし(負け)、後者ならば本当の意味で世界を解明しうる成果を上げることになる(勝ち)。
 こういうミステリアスな部分が盛り沢山の生命分野を選ぶ人は、感性が豊かだと思う。

 ただ、論理性が不十分では、いくら研究しても、どんなに頑張っても、分類学にしかならない。その程度で終わってしまうんだとしたら、他のことをした方が、俺は楽しいと思う。

 運を引き寄せるために一番重要なことは、執念を持つこと。
 他人の迷惑にならない程度に執念深く、論理を追求し、実験を繰り返していけば、いつかは解が定まり、俺の賭けが勝つことに寄与させることが可能となってくる。

 そんな、いつか来る成功の日々に、傍に残ってくれている人がどれほどいるか。
 これも、Chances Simples !! Rouge ou Noir ??

 この一番大切な賭けに勝てるように、日々のターニングポイントで、何が大切なのかをきちんとみつめて、選択をミスらないようにしなきゃね。
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優しい-嬉しい間相互作用

2013-02-06 01:24:20 | Weblog
 思いもよらないストレートな優しさに出会うと、どう反応してイイのかわからなくなる。
 虚偽偽りが多いなか、純粋な気持ちからの、助け合いとか素直な伝え合いとかを久しく感じると、光が強すぎて、一瞬で目をそむけてしまう。
 そして、それがまるで敵であるかのように感じたりもする。習慣ってのは恐ろしいもんだ。

 優しさとは、自らのベネフィットを下げたり、自らのリスクを高めることによって、相手のベネフィットを高めたり、相手のリスクを下げたりする行為だ。自分だけ安全地帯から、蚊帳の外から、どんなに的確なことをアドバイスして宣言できたとしても、それは、優しい、にはならない(これは「優しい」ではなくて、人間として当たり前の行為だ。まぁ、多くの場所で、これすらもしない放任主義が容認されているからホント怖いんだけど。)。
 本当の優しさはただでさえリスクが高まるのに、相手に嫌われてしまうリスクまで抱えてるとなると、誰も優しさというリスクを背負う人間はいなくなるよね。

 でも、そんななか、ストレートに放たれる優しさがこの世の中には確かに存在しているし、俺の周囲には、こういう想いを持っている人が、かなり多いほうだと思う。
 そういう1人ひとりに、誇りを持っているし、このまま継続していかないといけないと思うから、優しさの享受の仕方についても思考しなきゃいけなくて、もっともっと嬉しい気持ちを出していくことも大切なことだよね。

 意識するだけで違うし、こういうことも考慮に入れながら、相手に対して、今できることをしていく。
 そして、想いが整ったときに、ストレートな優しさを放出する。それを返された時は、意識的に、嬉しいアピールをする、不器用でも。するとまた、優しさがどこからともなく返ってくることも多い。期待しすぎてはいけないけどね。

 この優しい-嬉しい間相互作用は、最初は不器用であったとしても、次第に増幅していき、相手との信頼関係を強め、どんどん楽しくなる。
 しかも、この相互作用は、何も結果が出なくても、成果が上がらなくても、具体的なエネルギー無しで活力になる唯一の相互作用なんだと思う。
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