たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

自分の心を曖昧にしても信仰を貫きたい人たちへ

2023-05-15 01:39:48 | Weblog
 真実から目を背け続ければ、誰も傷つけずに済むのかもしれない。

 無知を無知のままに、もっと別の大きなことが自分の使命であると他者と自分自身に対して言い聞かせ、実際に起きている現場を自分の目で見ようとせず、そこから出てくる声をすべて「文句」だと決めつけてしまえば、とりあえずは心の平穏を保ててしまう。
 人には誰であっても名声を求めている。承認を求めている人は一部だし、勝利を求める人も一部だし、富を求めている人も一部だろう。しかしながら、名声を得ることを拒絶する人はいない。そのために、何かの結果を演出することで立場を維持しようとしたり、逆に結果を出すことを避けるかのように実力を蓄えてみたり、自分は所詮ただの駒であることを強調して率先して嘘をつくことで有益な情報を搾取しようと試みたりする。

 有能であればあるほどに、広い景色を見ることができてしまう。そして、時に、しなくても良いほどの心配事を起きる前から予期してしまう。
 それらは、有能な者よりも能力がない誰かから見れば、邪魔でしかないだろう。ここで普段水を使っていることが、森の向こうに住む誰かの飢餓を早めているとは、誰だって思いたくない。広い視野は、クラスター化しているある一つの集団にとってみれば、不利益そのもの。ある一つの枠組みしか見ないことで、名声を維持したり新たに得ようとしたりしている者からすれば、高い視点に立って自分たちが誰かを傷つけていることを認識することは、タブー以外の何物でもないのだ。

 だからね、無能力なままに分不相応な立場を得てしまい、そこに固執してしまうことは、すなわちクズになってしまうのだと思う。
 久しぶりにブログを更新したので、ここで云うクズを明確に定義しておくが、クズとは「弱者を圧制・迫害することで、自分の立場を維持・向上しようとすること」である。

 けれど、それも認識さえしなければ、誰も傷つけていないことになる。認識できないのだから、認識させようとしてくる人を「批判ばかりして」「文句しか言ってないじゃないか」と糾弾してしまえば良い。
 不安を煽るビジネスをすることや、安全性が担保されていない状況なのに販売してしまったり、無意味なものに意味があるかのように豪語することで高額な投稿料を要求する出版社に税金を使ったり、そういったことは批判にも値しない「何もやらないほうが良い」ことなのだ。
 認識を曖昧にしておけば、頑張る価値が幻として発現する。だから、明確に光を照らそうとする人を除外し続ける。そうすれば、そこで頑張る信仰をそのままにすることができるから。社会人という信仰や、論文という信仰を。

 「自分の心を曖昧にしても信仰を貫きたい」
 本当の意味での名声を得るためには、そんなことをしていちゃいけないはずだよね。

 ・・・と、ここまでが、あの時に、、4年前に得た帰結だったはずだ。

 あれから世界は一変してしまった。それはどうしようもないことかもしれないし、必然的だったかもしれない。
 心配しなくて良いはずだった不安は的中し、ある一部分だけを見つめることで世界全体を巻き込むようなクズが支配する渦中に見舞われてしまった。

 けれど、断絶させていたのは、それとは何も関係がない。シンプルに、俺が人生で一番ヤバい時に、助けてくれなかったから。それでも直面しないことを選択したから。そして、それを肯定化したからだ。俺のことよりも信仰を選んだのだ。
 これに関して許すつもりはないし、信頼が戻る可能性もかなり低いだろうと思う。心と認識を曖昧にし続けて自分は正義だと思いこんでいたい者にとって、俺は「いてはいけない存在」なのだ。その俺が一切関わっていなかったのだから、どの方向に加速したのかは大方見当がつく。

 それでも、しぶとく復帰した自分が今このタイミングで求めているのは、即物的な契約のせいではない。それは大義名分に過ぎない。
 そのせいで露呈した彼の大きな問題に対して、一矢報いてくれる価値観とアイディアを心のどこかで期待しているから。よーするに、今それくらいヤバくて、困っているのだ。俺のことではないからこそ、というところは大きいけれど。利己心よりも利他心の方が頑張れるのは、むしろ俺のほうなんだよ。。

 それに、、俺が本気で怒っていることは十二分に伝わっただろうし、ね?
コメント
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