ちょっと前に、「変化をしたいのだが、徐々に変化させるのが難しい」っという相談を受けたことがあった。俺は、何か変化をさせるときに、連続的に少しずつ変化させるというよりは、ステップ関数のようにいきなり変化させるから、その気持ちが理解できるが納得できなかった。
ただ、いきなり変化させられるからといって、その代償がないわけではなくて、変化後は、口内炎が沢山できたり、知らず知らずだるさを増していったりする。身体はダメージを受けるが、俺は徐々に変化させるという手法を知らないのだ。いきなり、ぐわっと変化させるほーが効率が良いと頭で算出されるわけだし。
変化のマ逆は習慣化である。俺等は、小さい頃からやっていること、存在するモノには、感動を殆ど示さなくなっている。
例えば、俺は、小学1年生の頃、雨の日が好きだった。何故かといえば、傘が使えるからである。小学校低学年の俺にとって、雨の日というのは傘を持っていける絶好の機会であったのだ。雨の日を、存分に楽しんでいたのだ。
それが今はどうだろう??雨の日なんてめんどくせーっと本気で思っている。傘は必要なときはなきゃ困るが、不必要になると邪魔になる最悪の代物で、非常に雨の日は気持ちがさがる。21才の今、こんな風に思っているのだ。
雨の日、傘っというモノに、慣れすぎてしまったのか…。
中学1年生の頃は、バスや電車で通学するのが、好きだった。乗り物で通学をするなんて楽しくて仕方なかった。
だけど今は、どうだろう??これに関しては、小学生の例ほどではないが、多少、めんどくささを感じてしまっている。乗り物を利用して、どこかに行くなんて、普通になってしまったからだ。
高校生の頃、数々のアーティストのCD発売日を言えたり、曲の構成を把握したりしていた。まだ、音楽というモノに、果てしない期待があったのである。
今、タワーレコードに行くのも、月2回行けば多いほうになってしまった。あの頃は、毎日、タワーレコードの試聴コーナーに行って、曲を覚えようとしていたのに…。
慣れる、習慣化してしまう、普通になってしまう、ことが、大人になることなんだとしたら、この未来に期待はできないのかもしれない。かと言って、常に変化を求めて、常に変わっていけば、魅力溢れるライフになるかもしれないけど、安定はしない。
っま、どっちも取れるような道を探していくしかないのだけど。
変化を避け、安定を求めると、劇的ないきなりの変化を恐れてしまう。それが、頭でも心でも正解であるとしても。だから、徐々に変化させるという選択肢をとるのだ。
いきなりの変化…、こいつに、それこそ「慣れない」レールなのかもしれない、少なくとも日本は。
「カワラナイデ」っという言葉に対していつまでも「変わらないよ」っと言っていたら、キズナや想いが繋がっていることは分かるけど、先に進めない…。それじゃぁ、結局、楽しめなくなってしまうのだ。
楽しむためには…、今も未来も楽しむためには、今、ここで、一回、なにもかも脱ぎ捨てて、溜め息もカナシミもたいしたことじゃないと、笑い飛ばしてやるしかない。
「変わること=楽しむこと」ではないが、今の状況じゃ、不満を言わずにはいられねーんだよ。そのありのままじゃなくて、そのカラの奥のありのままでぶつかってみたら、もっと素晴らしくなると思う。
そして、雨の日すら楽しんでいた頃を思い出してみて、無邪気な気持ちを思い出してみて、今ある「当たり前」が本当は楽しいことを確認してみるしか、この壁を超えられる方法はないのかもしれない。俺は、もうすでに、いくつかを楽しみ直していたりする。
さすがに、雨の日でラッキーっとは思えないけどさ。
ただ、いきなり変化させられるからといって、その代償がないわけではなくて、変化後は、口内炎が沢山できたり、知らず知らずだるさを増していったりする。身体はダメージを受けるが、俺は徐々に変化させるという手法を知らないのだ。いきなり、ぐわっと変化させるほーが効率が良いと頭で算出されるわけだし。
変化のマ逆は習慣化である。俺等は、小さい頃からやっていること、存在するモノには、感動を殆ど示さなくなっている。
例えば、俺は、小学1年生の頃、雨の日が好きだった。何故かといえば、傘が使えるからである。小学校低学年の俺にとって、雨の日というのは傘を持っていける絶好の機会であったのだ。雨の日を、存分に楽しんでいたのだ。
それが今はどうだろう??雨の日なんてめんどくせーっと本気で思っている。傘は必要なときはなきゃ困るが、不必要になると邪魔になる最悪の代物で、非常に雨の日は気持ちがさがる。21才の今、こんな風に思っているのだ。
雨の日、傘っというモノに、慣れすぎてしまったのか…。
中学1年生の頃は、バスや電車で通学するのが、好きだった。乗り物で通学をするなんて楽しくて仕方なかった。
だけど今は、どうだろう??これに関しては、小学生の例ほどではないが、多少、めんどくささを感じてしまっている。乗り物を利用して、どこかに行くなんて、普通になってしまったからだ。
高校生の頃、数々のアーティストのCD発売日を言えたり、曲の構成を把握したりしていた。まだ、音楽というモノに、果てしない期待があったのである。
今、タワーレコードに行くのも、月2回行けば多いほうになってしまった。あの頃は、毎日、タワーレコードの試聴コーナーに行って、曲を覚えようとしていたのに…。
慣れる、習慣化してしまう、普通になってしまう、ことが、大人になることなんだとしたら、この未来に期待はできないのかもしれない。かと言って、常に変化を求めて、常に変わっていけば、魅力溢れるライフになるかもしれないけど、安定はしない。
っま、どっちも取れるような道を探していくしかないのだけど。
変化を避け、安定を求めると、劇的ないきなりの変化を恐れてしまう。それが、頭でも心でも正解であるとしても。だから、徐々に変化させるという選択肢をとるのだ。
いきなりの変化…、こいつに、それこそ「慣れない」レールなのかもしれない、少なくとも日本は。
「カワラナイデ」っという言葉に対していつまでも「変わらないよ」っと言っていたら、キズナや想いが繋がっていることは分かるけど、先に進めない…。それじゃぁ、結局、楽しめなくなってしまうのだ。
楽しむためには…、今も未来も楽しむためには、今、ここで、一回、なにもかも脱ぎ捨てて、溜め息もカナシミもたいしたことじゃないと、笑い飛ばしてやるしかない。
「変わること=楽しむこと」ではないが、今の状況じゃ、不満を言わずにはいられねーんだよ。そのありのままじゃなくて、そのカラの奥のありのままでぶつかってみたら、もっと素晴らしくなると思う。
そして、雨の日すら楽しんでいた頃を思い出してみて、無邪気な気持ちを思い出してみて、今ある「当たり前」が本当は楽しいことを確認してみるしか、この壁を超えられる方法はないのかもしれない。俺は、もうすでに、いくつかを楽しみ直していたりする。
さすがに、雨の日でラッキーっとは思えないけどさ。