たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

一生克服できない壁

2014-06-30 03:48:27 | Weblog
 絶対に乗り越えられないとわかっている壁に対してどう立ち向かうべきだろうか?
 本当の限界を目の前にして、ここからどういう風に意味のある時間を過ごそうか迷っているとき、決断までの時間はそう長くは無い。こういうときにこそメンタルを試される。

 最後まで諦めない、と言葉で言うのは簡単だが、それを実行するのはものすごく難儀だ。
 例えば、この前の日本-コロンビア戦、3点目を決められたときにあそこから気持ちを持ち直すだけの強さをあなたは持っているだろうか?そこからさらに4点目を決められ、それでも、「ワールドカップで得点を決めたら、それだけでヒーローだろ?」っと思ってゴールに向かえる姿勢を、俺は持ってているかな?
 最後まで諦めない、というのは、そのような滑稽さを呼ぶ。

 俺は、たぶん、大学専門課程以降の数学が要求する思考力のレベルを超えられるようには、一生なれないだろう。
 それをするためには、学部から数学科に入り直して数学を学び直さなくちゃいけないし、そうやったとしても、どこまでいけるか、高が知れている。
 それでも俺は、自分の論理性や思考力、使える技術を身につけ、それらを可能な限り向上させ、適材適所でそれらを発揮する能力を得ることを諦めない、っと言葉で言うことは簡単だが、、意識していたって、論文や本を探しているときに、テンソルや群論の記号を見るだけで(それも物理系の文章で)、めんどくさそうだし、これが本当に必要かどうか微妙だから、必要だったらこれにチャレンジしよう、戻ってこよう、と思って、そのままになってしまうことが多い。

 こういうことは理系が気がつかないうちに誰もがやってしまいがちだ。これを読んでるような人で、自分にはそんなことは絶対にない、って人は、それにすら気がついていないだけ。
 化学を専攻している人は、自分の数式理解における拙さによって自信が無いケースが、ものすごく多い。生物を専攻にしてる人は、自分の化学式や数式における理解が高校生のそれとまったくカワラナイ(どころか劣っている)ことに、自信がないことがとても多い。
 では物理は?数学か?っと思いきや(そういうこともあるのだが)、実は、物理を専攻とする人は、他の理系学問に対して非常に世間知らずであり、それがゆえに自信をもっていないことが多い。例えば、マイクロメートルがどれくらいの大きさなのか、スペクトルと色、液体窒素の温度、何を溶媒として使うか?、大気の動きなどについて直感的に、これくらいだろ!、ってわかる人は意外と少ないと思う。

 それらは、たぶん、一生克服しきれないものだと思う。しかし、諦めてはいけない。理系である限り。
 それを諦めたとしても、理系として(研究者として)生きていけるさ、と思ったとき、それは、あなたが、理系として死んだときだ。権威や政治力学では実力に敵うわけが無いし、諦めていない人材にいつかは殺されてしまう。

 しかし、こういう死んだ人間が多いのが、研究の世界であり、大学や研究機関であり、その原因は理系が相互評価しているせいであるのだ。諸悪の根源はここにある。
 相互で評価し合うから、政治力学が発生し、アカデミズムの頂点であるはずの学会でも毒にも薬にもならない意見しか言えず、そのせいで無意味な研究が盛んに繰り返され、本当にやる気のある人間は死んでいき、ヒエラルキーの上の者を讃え下の者をみなで不当にバカにし、人を不条理に蹴落として自分たちの存在意義を守り、しまいには捏造までしてしまう、人として最低な人間だけが、科学の世界に残っていってしまうのだ。この日本では。

 まぁ、必ず変わる。それは、こういうことを改善することについて諦めない人間が各分野に少数ではあるがきちんといることを、俺は知っているから断言できる。必ずあと10年で、大きく変わると。そこにぜひ助力していきたい、というか、先導したい。
 って、口で言うのは簡単なんだけどね(笑)

 自分の一言一言が、周囲を大きく変える。少しの一歩が、周りが自分を見る目を変えていくし、それが集団を変えていく。自分が動けば、必ず変わる!
 一言一言、常に本気で考えるべきだし、かといって、ちゃんと一歩一歩前へ、考えすぎて行動できないようにならないようにしないとね。

 その一歩を確実に歩み続けてさえいれば、一生超えられない壁だと思っていた壁を、いつの間にか易々とクリアしていた、なんてよくあることになっていくのだと思う。
 だからさ、諦めんなやっ!
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選ぶために最後まで待つということ

2014-06-28 00:51:52 | Weblog
 事実を突き付けることで相手を追い詰めて、正しいことを主張し続けようとすると、権威や言葉を振りかざされる。
 『そんなんじゃ存在意義を守ることなんてできないのに』って心で思いながら、まるでそれを確認するかのように冷酷に相手の一番イヤな方法で事実だけを突き付けていく。そうなっていくのはたぶん、俺自身がその関係性を肯定したいからなのかもしれないね。

 論理は、カネや暴力に対等な、悪の武器だ。
 決して正義の武器ではないし、使い方を間違えれば、カネや暴力より最悪になる。

 『そうまでして事実を突き付けなくちゃいけない?』『そうまでしてまだ見えない誰かのために系をよりよくしなくちゃいけない?』『だってだって、後悔している、ってこと、表情を見りゃ、わかっているでしょ?』『あんなにイイ関係だったじゃん?』っと変化を嫌がる心が俺に問いかける。
 しかし同時に心は履歴を想い出し『"後悔しているから許すべきだ"っというのは意味が分からない論理だ』と頭に確認をとっている。

 もう絶対に元には戻らない信頼関係を目の前に、『冷酷にすることで理性を保っているのかもしれないね』と心で結論を出しかけると、理想を振りかざす自分の頭が、『それは違う。最初から信頼関係なんて無かったのさ』と冷たい言葉を吐き捨てる。

 そして、『一番解きたい問題のカテになっているじゃないか。それだけでも良しとしろ』っと大人な意見を述べる。そう述べたのは、頭?それとも心?
 新しい信頼関係の間で、『戻って来るかどうかもわからない俺自身を、少なくとも心のどこかでは待ってくれていたのだから、何を優先すべきか、何を優先するとホンモノなのか、わからないのか?そんなこともわからないほどに我儘なのか?』っと頭も心も問いかける。

 こんなことをもう何回も繰り返していて、いったい何が待っているのだろうか?
 それを知る為に、今は、とにかく、きちんと正当に選ぶためにも、ちゃんと待っていなくてはいけないのだと思う。

 ただ待つだけ、ってのは、俺は一番苦手なのだが、これも何か意味があることなのだと思う。
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マンネリの美学を超えた美学をさらに超えた美学

2014-06-25 01:41:37 | Weblog
 誰かと何か始めたいなら、まずは共に行動する内容のループを創ることが大切だ。

 はっきり言って、毎度毎度会う約束をするのはめんどくさい。だから、会うことをマンネリ化させてしまうとコスパーがイイ。
 こういうことは研究にも言える。毎回毎回新しいテーマを考えるのは面倒だから、ある下地を持ってしまって、その周辺をちょこちょこ誰かに研究させてりゃ、コスパーはイイ。まぁ、そんな研究者が必要か不必要かは別にしてね。


(参考は4:18頃~5:30頃まで)

 マンネリ、って悪いイメージだけど、ループまでに持っていくのはそれなりに大変だ。慣れ合いとかマンネリ、って創ろうと思って創るにはかなり労力を要するし、、でも、コストの総量を考えたら、絶対にこっちのがラク。だって、いちいち最初からネタを考えたり、アイディアをねったり、会うための大義名分を考えるのって大変だからね。

 一緒にカラオケに行ってお互いにハモりあって楽しめる相手、一緒にゲームしてくれる友達、旅行に行こうぜ!ってなる仲間、お勉強の話が大好きな後輩、関係性がマンネリ化するからこそ、色々な趣味を持っていられるし楽しく無難な関係を保っていられる。特に男だと、飲みに行く、ってのが多くなりがちだけど、俺はあんまり飲みに行くの好きじゃないので(飲みに行かなくても本音を話せるから)、こういうことを意識しています。

 でもね、ホンモノの信頼関係を築く第一歩ってのは、マンネリの関係から抜け出した、まさにその瞬間なのだと俺は思う。
 だって、趣味が一緒とか、与えられた仕事の中で作業が一緒ってのは、あくまでも物理的な因果関係でしょ?だけど、そのループじゃないことでも一緒にやれたなら、それは「その人」と絶対に一緒に何かをしたい!ってことなわけで、生命的な因果関係だと思う。ここにこそ、物理と生物の違いがある!、っとまでは言わねーけど(笑)、でも、社会的な繋がりと本当のプライベートとの差くらいは確実にあると思うのだ。

 その一歩には、ものすごくリスクが伴う。だって、断られたら、そのマンネリの関係すら終焉を迎えるかもしれないからだ。
 相手のことを好きであればあるほど、好かれていればいるほど、一度マンネリになってしまったら、その関係性からなかなか抜け出すのは難しい。その一歩を踏み出したせーで、実際に消えてしまったループは数多く存在する。それはそれで一過性だからこそ価値があったもので、これも美しいと俺は思う。まぁ若気の至りとか青春の1ページってやつなんかな。

 ただ、本当のホンモノなら、それをも凌駕する。必ずその危機や、その問題は乗り越えられる。
 こういうことにこそ価値が有り、意味が有り、生きていて良かったなぁっと思うことだと思う。

 なかなかわかりにくいメッセージを伝えることが日常になっているけど、やっぱり理想は実現するもんでしょ?
 だから、頑張れ!日本代表!コロンビアに勝て!!笑
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アナと雪の女王「FROZEN」の感想 -Putting Someone Else's Needs Before Yours-

2014-06-22 02:33:37 | ディズニー
 今さらだけど、「アナと雪の女王」の感想を書いておこうと思います。これを今書くことに意味があるので。まだ劇場公開しているのかわかりませんが。。
 ディズニータグをなかなか更新してなかったしね。

 最初に観たときに、観終わって一番に思ったのは、『ディズニーも姫にだいぶ酷な冒険をさせるようになったなぁ』
 「True Love」というのが何度も作中に出てきていますが、これはディズニーの大事なテーマです。この「True Love」は時代と共に変わってきました。

 ディズニーのプリンセスがでてくる系の映画でいくと、「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs),1937」や「眠れる森の美女(Sleeping Beauty),1959」は、出会った瞬間に運命を感じて結ばれる、というのが「True Love」でした。ディズニーに対してこういうイメージを持っている人は今でも多いと思います。
 それが「美女と野獣(Beauty and the Beast),1991」や「アラジン(Aladdin),1992」くらいから少しずつ変わります。きちんと恋愛をして過程を経て「True Love」に辿りつくようになりました。「リトルマーメイド(The Little Mermaid),1989」からすると歴然でしょ?しかし、それでも、作品観ている人からすると、「どうせこの2人がくっつくんだろ?」っとわかるような作品です。

 大変革が起きたのは、「魔法にかけられて(Enchanted),2007」です。この作品を観たときは素直に「スゴイな」っと思いました。なぜなら、ディズニーのこれまでの作品をディズニーが真っ向から否定してきたからです。
 最初から結ばれている相手以上に大切な人がでてきて、現実的な「True Love」が存在することを描いた、この作品以降、出会った瞬間に運命を感じて結ばれる、という手は使えなくなりました。

 「塔の上のラプンツェル(Tangled),2011」では、「親離れ」と「夢」を中心に描きながら、恋愛はオチとして使われました。そしてこの作品は、ヒロインにまぁまぁ酷な冒険をさせるようになるんだな、っと思いました。それは、終盤のシーンでラプンツェルが塔から落ちるゴーテルを助けようとするワンカットに象徴されます。
 ディズニーが何が正しいのか?をこちらに問いかけるようになってきたのです。そういう意味で酷だな、っと思いました。(ちなみに、あまり知られていないですが、ラプンツェルとユージーンは「アナと雪の女王」に出ています。本編開始16分頃です。)


 さて、最新作の「アナと雪の女王」では、エルサ(雪の女王)が強大な力を持ってしまうところから物語がスタートします。

Do You Want To Build A Snowman ? - from Frozen (HD)


 「We used to be best buddies, and now we're not」
 このシーンだけでも泣けるだろ、って感じですが、ドアをノックする行為がこの話の重要な伏線になっています。とても仲の良い関係が、相手を想う気持ちがあるがゆえに、物理的な問題となってしまって、それが原因で決別になってしまいます。こういうことは、ホンモノの愛「True Love」を求めれば求めるほど、現実でもよくあることです。
 アナは少し空気が読めない子なので(笑)、何も考えずに、どんどんエルサと距離を詰めていこうとします。

 氷の力を持ち過ぎてしまって、女王という立場で世間体も気にしなければならず、でも誰よりもアナを愛しているエルサは、自分のせいでアナが不幸せになってしまうことを一番に恐れています。
 余裕がまったくなくなってしまっているエルサに対して、何も考慮せずに、ガンガン距離を詰めようとするアナに、最初はまったく共感できませんでした。

 しかし、エルサが創りあげた雪だるまのオラフの言葉によって、アナは「True Love」が何かを知ります。

Disney's Frozen - Olaf Explains Love to Anna


 正直、オラフが「Love is..」って言ったときは、マジで震えて毛布を握りしめました(笑)。『おお、ディズニーが、ついに、愛について、明確な答えを一言で述べてくるか』っと。
 この瞬間にストーリーのすべてがみえて、エンディングまで想像できました。そしてそれはピタリと当たりました。よーするに、心から共感できたんだと思います。

 自分の幸せを犠牲にしながら相手を想えた時、奇跡が起こる。それは、どんなに能力が無くても、どんなに自分に自信がなくても、どんなに心に余裕が無くても、自分よりも相手を、というその気持ちだけで現実に寄与していき、必ず相手に伝わるものだと思う。
 それが伝わった相手は何をするべきか?その答えがこの作品にはある。

 物語りが終わった時に、この先エルサは大丈夫だろうか?と思いましたが、きっとアナと支え合って、エルサはエルサで、アナとの愛とはまた異なる、ホンモノの信頼関係を掴むと想像することができました。

 ただの夢見な作品から、現実を理想に変えていく作品に、なっています。やっぱりディズニーはとても素晴らしい!

 そして、現実は物語とイコールになり、現実は理想通り変わるだろう。きっと明日から。
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理想的な気宇壮大

2014-06-18 05:36:57 | Weblog
 混じりっけの無い純粋な気持ちで、あらゆる場面で前に一歩踏み出し続ければ、周囲はより良く変わる。
 すると、好きな人にきちんと期待して純粋な想いを残していきながらも、現実を頭の中で理解して、そこからまた一歩踏み出し続けるようにしていこうと誓い続けることができる。自分が行動を起こしさえすれば、周囲は必ずより良く変わることを信じていられるのだ。

 まだ結果が分からないことを自ら選ぶということは、期待する、ってことだ。

 だから、たとえ物理的に困難でこの先ものすごく大変な未来が待っていたとしても、本当に自分の好きを貫こうとするし、そこに嘘はつけなくなる。手っ取り早い選択肢はいくらでも転がっているけど、そこにはホンモノの情景を描くことなんてできず、自分の理想を自分に期待してくれる人と共有したくなる。
 そこには、高価な実験器具がなくても、観ているだけでウットリする夜景を目の前にしなくても、繊細で多種多様な音を出せるエフェクターがなくても、どんな高価なアクセサリーやマイホームや、ディズニーランドが存在していなくても、最低限の日常が与えられていれば、ありきたりな生活の中に幸せを感じるようになり、即物的には高評価を受けている事柄に縋らなくても、幸せな風景を描くことができる。

 そして、明確な結果が出たときに、数少ない、でも信頼している人から称賛されて、気がつくのだ。これこそが生きている意味、これこそが気宇壮大の表れだ、ってね。
 明日から、また新しい目標に向かっていこう。そうしたらもしかしたら、本当に色鮮やかな世界へと激変するのかもしれない。それまでは、大口を叩きながら、何も知らない他人からバカにされても無視して割り切ろう。未来の自分と自分たちに期待しながら、ただ期待してはいけないんだ、実行し続けなくちゃいけないんだ、っと言い聞かせ、眠りにつき、またひとつ、夢と現実が近づくのを感じることができる。

 こういう願いの具現化を図ったときでも、ごくたまに叶わないことも確かにある。突然やってきた不利益についつい下を向いてしまって、その後で、過去に大口を叩いていたことを想い出していくから、泣きそうになる。
 でも、選んでいたいから、イコール、期待してみよう、という自分への気持ちと考えの中間が、そのまま具現化して明確な結果へと転生していく。

 あの頃に俺がよく言ってた願いと理想の約束は今だって忘れていない。
 っと伝えたい気持ちに自分の気持ちが反応して、バカな自分の心に有言実行という4文字をはっきりと染み込ませる。

 そうだよね、俺が自分の理想と現実の境界もきちんと観えていないのに、過去の俺の言葉なんて、具現化する予定の無い理想なのか現実の未来を見据えた上での理想かなんて、原理的にわかんないもんね。

 でも、そう言ったし、今もそう想っているから!

 それを俺だけが自分勝手に想っているのは間違いだってわかってるんだけど、前進するために、できることをやらせてほしい。選んだくせに、って優しいあなたならきっと言わないんだとすれば、選んだのはこっちなんだから、それくらいはいいでしょ?、っと正解は教えずに自己完結していく。
 結局、自分の人生なんて、こういうスタイルしかとれないんだ、って思いながら、そう思うことに気持ちよさすら感じている自分を不可思議に感じて、また眠りにつく。

 また明日、、そのためにも、あらゆることに前に一歩、期待していたいと思う。
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花咲く日を目指して

2014-06-12 06:04:52 | Weblog
 俺はこれまで数えきれないほど自分の場所を捨ててきた。それはこのページを書き始めてからよりいっそう加速した。
 その地にみんなで植えた種が頑張って頑張って咲き誇る時には、俺の姿はその場には無い。成果が上がる頃には俺は消え去っているし、それは数年以上かかることがほとんど。だから俺は花が咲く瞬間を見たことが無い。
 そんなことにも慣れてしまって、特に場所をひとつ捨てることに何のためらいもない。もちろん悲しいし未練があることも多いけど、多くの他人よりもいとも簡単に捨てられるんだと思う。

 自分の役割はわかっている。俺は誰よりも普通であり誰よりも臆病なのだ。
 みんながその集団しか知らないがゆえに普通であると勘違いしていることを正すことが役割。目の前にしているみんなよりも、以前から継承しているみんなが、とてもとても怖くて逆らえない。俺は、集団の中でいつもひとりで孤独で、でも誰よりも本当の友達が多い、自分でも不思議な立ち回りだと思う。

 ひとつの集団ができれば、その中で原則が生じ決断を求められる。原則は単純だからこそ原則で、決断は早いからこそ決断なのだから、その絶対的ルールを軸に、みんなにとっての「普通」が形成されていく。
 しかし、階層を高くしてみたときに、たいていの「普通」は、ただそこでしか通じない馬鹿げたルールであり、ただ「ラク」だからそれをしているだけであり、それこそが社会全体の害悪、病理学的に言えば癌であったりしてしまうのだ。ちなみに、みんな、というのは、大学のひとつのサークルかもしれないし、分野かもしれないし、音楽業界全体かもしれないし、研究潮流全体かもしれない。

 ー優しい気持ちで、誰かのために、みんなのために、と思ってしたことであれば、どんなことだってそれは正しいことだと思うよ
 ー君は目の前のみんなからは確かに必要とされていないけど、社会全体、ルールそのものから、必要とされている。それはただの一過性の関係である他人から必要とされるよりも尊いことなんじゃないかな
 ー仲間?お前はたくさんいてるやん、すでにたくさん仲間がいるから、もういらんでしょ?そこに縋る必要は君にはないんや

 この先、この言葉さえあれば、たった一人になってしまっても、ずっと生きていける、という言葉を、俺はたぶん人よりも多く持っている。
 だからこそ前進して、本当の意味できちんと能力がつけられて、認められるべき人から認めてもらえ、日々いつまでも楽しく過ごしていける。自分の成果を自分の目で見なくても、そこにいた仲間と共有できなくても、もっともっと楽しいことを続けていられる。さくらの木だって、さくらの花が咲いていない時が一番がんばっていて、一番美しいのだし。

 このまま、とにかく、自分が思うように、自分が思うペースで歩いていくことがベストなのだ。
 と最近特に思う。後悔がないように、一日一日を大切に、していきたいよね。かけがえの無い仲間たちと。

 そして、いつの日か、俺が植えたんだと自信をもって言える花を、この目でみんなと観てみたいと思っている。
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冷やし中華はじめてください

2014-06-11 06:12:38 | Weblog
 暑い。本当に暑い。ヤバい。溶けちゃう。
 なんでこんなことをこのブログに書いてるのかわからないけど、こんなことをブログに書くくらい、マジで暑い。

 っで、どこにも冷たい食べ物が無くて困っている。あ”ーーー。

 暑いときって冷たい食べ物を食べる方がいいのかなぁ。ホメオスタシスが働くから、むしろカレーとかを食った方が涼しくなるのかなぁ。確かにカレーも食べたい。
 けど、いま、冷やし中華とかのほうが、マジで食いたい!食いたいモノを食うほうがいいに決まってるのだよ、だって俺だって生物なんだから、それが正解なはずだ!

 だから、冷やし中華はじめてください。
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ホンモノへと急がば回れ

2014-06-09 21:35:30 | Weblog
 それがモノであれ人であれ、本当に本当のホンモノなら、必ずいつも一緒にいるはずだ。それなのに離れてしまっているなら、たぶん、それは、まだまだ超純粋なホンモノからは遠いのだと思う。
 幾何学的な距離が、どの程度、気持ちと気持ちの距離に依存しているかはわからないけれど、絶対にある程度は依存し合っているもの。

 ただ、時間的な依存性を考えてみたときに、離れていってしまったからといって、必ずしも興味の度合いが下がったのだとは言い切れないと思って欲しい。あるルートをたどってみれば、遠いとは言い切れないのだ。いや、むしろ、本当に本当のホンモノを、偶然ではなく、超純粋的に掴みたいのなら、遠回りは必須だ、と言い切ってしまってもいいかもしれない。
 急がば回れ、とはよく言ったもんで、これは実空間にだけ適応されるものではないのだ。

 っそ、ただ単純にサイエンスをし続けることも、ただ単純に誰かを好きになって一緒にいることも、ただ単純に音楽をすることも、はっきり言って非常に簡単だ。ロボットのように無感情で単純にそれだけをする、ってのは、(日本人で健全な者なら)誰でもできる。
 でも、愛引き換えに得たものや、夢を犠牲にした得た言葉、誰かを不当に蹴落としながら前に進んだ結果じゃ、響かない。それは全員の胸に響かないと思うけど、少なくとも、この胸には絶対に響かない。

 気持ちを考えない、とか、精神論は完全に無駄だ、という人は、大きな矛盾を抱えてしまっている。
 もっともっと、自分のその気持ちを自分が一番大切にしたらイイと思うのだ。そうしたら、他人にアホな厳しさを求めたり、他人を犠牲にできなくなる。他人の気持ちを当たり前に大切にできるはず。
 だって、自分がこんなに我慢してるのに!、って思うから、他人を不当に責めたり、不条理を強要したりしちゃうんでしょ?それじゃぁあなた自身もあなたの不条理の被害者じゃん。

 っと、ここまで本当のことを言ったら、また不条理にキレたりするのかな?笑
 まぁ、いま、それを伝えたいわけではないから、どうでもいいけど。

 そうそ、だから、今までの俺の選択や、今現在俺の手にある結果は、決して誰かの気持ちを無視したモノではないと断言できる。
 そして、今のこの道こそが、ホンモノへの一番の近道であったと、証明するために一日一日を頑張ろう。
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Tout Pour ...

2014-06-07 06:56:21 | Weblog
 自分の言うことを素直に聞かないからって切り捨てるようなスタイルをしていては誰も周囲に残らなくなってしまう。かといって、あまりにも自分と合わない人といつまでも一緒にいても、短い人生がもったいない。
 このサイクルを回して行ってしまうと、どんどんCグループ(ノリが悪い人たちの総称)になるばかりでなく、性格も悪くなってしまうし、楽しくなくなってしまう。

 しかし、トップであれば、そうはならない。トップというのは肩書きや年齢のことではなくて、その集団のなかで本当の意味で仕切れる能力がある人のことだ。
 自分がトップであれば、自分と付き合ってくれる人に対してだけ取りまとめて、集団全体をより良くしようとしてしまえば、必ず信頼関係を生むことができる(続くかどうかは別にして)。だから、まだ集団が出来ていないときに、自分が率先して取りまとめちゃって、より良くしちゃうことも、一つの方法なのだ。能力がない人がこれをやると、ウザイだけなんだけどね。でもまぁ、肩書きだけでトップの顔してる無能よりはマシかなぁ。

 ステップバイステップ。何事も、いきなり良くはならないし、いきなりトップには立てない。
 だけど、ちょっとずつでも、次の集団のなかではより良くできたかな、ってことを繰り返して行けば、必ず(自分だけを観たときに)今よりは良くなる。確かに、いきなり仕切ろうとしなければ、少しはマシかも。他人にあわせて愛想笑いするだけでも、一人でさっさか帰るよりはマシだからね。

 新しい人間関係の構築のなかで、少しずつ、俺だけを観たときに、一日前より、数週間まえより、数ヶ月前より、数年前よりも、良くなっている。
 そうやって自分を盛り上げていくことだって大切なことだと思うのだ。

 そして絶対に達成すべき課題、、ずっと抱えてしまっている一番の問題を、近い未来に必ず、大切な人のために、そして自分のためにも、達成してみたいと思う。
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圧倒的な余裕?

2014-06-06 07:06:28 | Weblog
 論理的に正しいことの逆を感情や気持ちで選んでしまうと、たいていの場合後悔する。
 何かの連絡をすることもそうだし、どうしても譲れないことを発現されたときに意見を投げることもそうだし、何か正しいことを貫くこともそうだ。その扱いはとても難しいし、感情なんてなければいいのに、っと思うことだってある。

 だけど、気持ちをちゃんと入れこんで行動を起こしてみると、マジかマジじゃないか、ホンモノか偽物かの判定が本当につきやすくなる。そこから、論理と気持ちを対等に重ね合わせて意見を一致させたとき、必ず成功へと達成される。
 だから意外と、何も考えずに感情で突っ走るのは危ないけど、論理を超えて、感情を出すべきだと思ったならきちんと感情的になったほうがいいのだと思う。だいたい本当の感情を出したくらいで、避けてきたり、極端な拒絶をするような人とじゃ、この先の未来はないしね。そのあとに、こちらがアプローチしたときに、それでも何も変わらずにいてくれる人とだけ、何かの系を形成して行けたら良いと思うのだ。

 もちろん、それはそれは大変なスタイル。どんなに期待していなくても、裏切られるのはいつまでも怖いし、当然、全員と仲良くしたいのが本音だ。
 でも世の中はそうなっていない。普通にしているつもりでもいじめられることもあるし、公の場にでている人を仲間内でこそこそ馬鹿にして笑ってるヤツもいるし、俺と喋るなって強要して自分のレゾンデートルを守ろうとするあからさまに心が貧しい可哀想な人もいる。まぁ、だからこそ、付き合って行くべき人がわかりやすいわけで、こういう視点を持っていると、いろんな意味で楽しい。

 たぶん、俺は圧倒的な余裕を持っていて、それは、家族でもあるし、今まで、そしてこれからも、絶対にずっと一緒にいてくれるであろう友達や仲間でもある。
 そのアドバンテージをすっかり忘れて、正しいことを言うことを人に強要してはいけないよね。だって、それは、圧倒的な金持ちの教員が修学旅行に超高級ホテルじゃないとダメだ、っというのと同じことだから。

 遠い大地でそんなことを思うことが、この先の未来を創っていくのだろうか?、っとまた期待している。
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『やる気がないなら辞めればいいじゃん?』の真意

2014-06-01 04:13:24 | Weblog
 相手から何かの情報を引き出したいときは、こっちがどこまで相手の周辺情報を把握しているかを見せないことが大事。そして、体裁や演技では対応できないところまで相手の環境を制圧していき、おもわずボロを出してしまいそうな、予測不能な摂動をあらゆる視点から与え続けるのがベストだと思う。
 そうすると、こっちが欲しかった情報以外のものまで手に入ることが多くなる。こちらが本来的に欲しかった質問を相手に把握させなければ、こちらが有利に系を進めていける。

 俺は、こういう技術は日本語でなら、自分がきちんと満足いくぐらいにはできる。やっぱり、外国語でも、こういうことが気軽にできるようになってみたいもんだよね。どうしても俺は語学習得に向いていない頭をしているみたいで、なかなか上達しないけど、少しずつは上達していると思う。それは、少しずつ発展していく、この街と同調するような部分があるかもしれない。

 ちなみにこういうことは俺は日本の教育から教わっていることだ。
 いかに英語が喋れないor使えない状態で自分の生徒に英語の指示を上から出すか、式をちゃんと理解したり実際の実験をきちんと体現していなくても、いかにして自分の生徒に、上から目線で勉強や研究の進め方を指示できるか。
 無能なままで偉ぶるために、多くの教員は生徒に膨大で無駄な「作業」を与える。生徒に無駄に忙しくさせることで、相手を無能にして、自分の立場を維持させているのが、日本の研究・教育の主流だ。

 俺はそのスタイルを逆手に取ることを自然に習得しただけだ。相手が有能か無能かの情報を、あらゆる角度からボロを出させるための摂動を加えてみる。教員側が隠そう隠そうとしている無駄な要素を、こちらの目的を隠しながら、逆向きにとりはらうだけ。
 俺と一緒にいて、俺を観てると、なぜか自分の無能さに気がついて悲しくなるんです、っというのはあなたが無能ならば当たり前のことだ、だってわざとやってるんだから。
 本当の意味で何かを習得したいなら、きちんと習得している人のもとで学ばなければ、習得できるようになるわけがないから、俺としては仕方のないことだったのだ。

 本質的に能力がある人が上に立つようなシステムではなく、一度上になった人が常に上になり続けるための方法として、後輩育成を支配下におくことが唯一の重点とするようになってしまい、本当に能力のある人材の出現を恐れていることが、日本の研究・教育の最大の問題なのだと俺は思う。
 でも、社会はいつだってどこだってそうなってるから、っつってイイワケして、上に上がるためには、いま上になっている人にへーこらすることこそが大事だ、って他人任せに考えているバカが、俺らの上の世代の多くの人なのだろう。

 あのさ、そんなに、「やる気が無いなら辞めればいいじゃん?」
 っとストレートにそのまま言いかえしたフリをして、また摂動を加えてみる。それがイコール相手そのものの能力の散逸の仕方としてわかるのだ。
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