(cf. 『幸せな人生を送ってね』)
そう、まさに、その通りだ。弱いことそのものは悪いことじゃないのに、そのせいでクズになってしまわざるを得ない性質が、社会構造として最も不条理なのかもしれない。
だから、俺たちは、この世界の普遍的な性質に絶望している。時代にも場所にも依存しておらず、ユニバーサルな絶望を感じる理由はここにある。認識の有無は別にして、少なくとも、この価値観は一致しているんじゃないかな?
自分の弱さを受け入れて、変わらないことを是としてしまうと、どうしても生物圏としての性質により近くなってしまう。いわゆる弱肉強食だ。自分の弱さをそのままにすることに肯定的であり続けると、どうしたって自分よりも何かの劣勢性を有している他者を搾取していかないと、生きてゆけない。
それは、ヒトという種族が、この地球上で最も強者であるせいなのである。ヒトは、他の動物から搾取されることがない。だから、弱肉強食についてのヒトの社会は”閉じている”と言える。閉じた社会のなかで生きていくために、生存本能を呼び覚ませば、社会構造のなかでの弱者に焦点を当てるしかない。その社会全体を引っ張っていくような気概を”強さ”と呼び、その強さを向上させることに一生懸命になることができれば、(自分と自分以外の他者全体について)Win-Winになることができる。
そもそも人類は、狩猟生活から田畑を育てる農耕社会へと突入することで、継続的に食料を確保することができるようになった。しかし、当時の旧世代である狩猟民や流民から収穫物や土地を守るために、そして効率よく収穫をするために、どうしても統制が必要になる。農耕社会のなかで生きていくためには、そのシステムを維持するためには、統制せざるを得ない。この統制から、階級システムが生まれた。科学が発展していない時代、人々は神に祈ることで自然災害の危機を回避できると考えていたために、生贄の文化が生まれる。階級システムにおける弱者を(本当の意味で)搾取することによって、社会は成り立っていたのだ。でも、それは、狩猟民時代の、明日も食べられるかどうかもわからず、いつ飢え死にしてもおかしくない社会システムよりも、かなりマシであった。
時代が進むと、産業革命が起こる。産業革命が齎したものは、(再現性を唯一神とした宗教である)科学の発展と階級システムの崩壊だった(封建主義→中央集権)。経済的自由競争のなかで、能力さえ高めて一生懸命に仕事をすれば富を得ることができる社会は、身分が絶対的に支配している農耕社会よりも魅力的に感じたことだろう。その一方で、弱肉強食についての”ヒトとして閉じた社会”も加速していく。無能なヤツを上手に利用して富を得る者が報われる社会では、どちらが有能であるかを客観的に示す必要に常に追われる。そして、国家間での戦争が多発し、多くの人が亡くなった。しかし、それも、農耕社会に比べれば、かなりマシであったはずだ。なぜなら、能力をつけて頑張れば良いわけで、必ずしも誰かが死ぬわけではないのだから。
そして、情報革命の真っ最中の現代では、日々、Twitterで議論と称した”吊るし合い”が行われ、InstagramやFacebookでは隠れマウンティング合戦が行われている。生贄文化はカタチを変えて今も生きている。ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を発明して以来、いかに自分のミームを効率的に残すか?という装置が一部の人に開かれたが、インターネットの発達によりそれが全員に開かれてしまったのが1990年代後半から2010年代の流れである。多くの人が自分の信者を募集し、塾や勉強会やオンラインサロンやセミナーやネットワークなどと称して、人集めに邁進している。能力や資本力など関係ない。とにかく数多く信者を集めた方が勝ち、というゲーム。それが間違った内容で怪しい内容であったとしても、どんなに卑怯な方法であったとしても、みんなの共感が得られることを第一義的に考えてしまう社会の到達である。
この社会構造のなかでの搾取は、"レッテル貼り"に集約される。「あいつは、これにグルーピングされるから、ダメなヤツだ」と主張することによって、自分の地位を高める。先の社会同様、もちろん、その犠牲になる者もいる。「あんなやつ、無職だし、中卒だし、ただの社会のお荷物だろ」という言葉を受けまくった人が傷つき、自殺してしまうことがある。ヒドいケースだと、”無敵の人”などと呼ばれ、一般市民に牙を剥いてしまうことも。。
しかし、この以前の社会よりは、マシであろう。戦争が起きる恐怖心は少ない。どんなにグルーピングされても、きちんと自我を保っていれば、他者から殺される可能性はかなり低い。食う飯に困るわけでもないし、いつでも有名になるチャンスは与えられている。もちろん、無敵の人の暴走はランダムに起きてしまうが、その被害に合う確率は極めて低い。
ここまで書いてみるとわかるように、「極普通の常識の中で、人間の弱さみたいなものを互いに理解し合いながら、みんなと調和しながら生きていきたい」というのは、非常に現代的であり、ちっとも弱くないのだ。それを最高峰に行うことができれば、その人こそが現代システムの最強者である。注意しなければならないのは、強くなったとしても、最強者になったとしても、それがイコール幸せとは限らないんじゃないか、ということだ。(上に書いたWin-Winとは別の"強さ"ね)
そして、共感を得ながら「あの人いい人だな」とか「私、いつの間にか、あの人のファンだな」とかの声をいかに多く集めることができるか、という社会システムに移りゆくなかで、自分一人について、”今の瞬間の自分の感情”と”未来の自分を想定することで後悔したくない気持ち”の両方に同時に素直になることは、オフェンスではなく、むしろディフェンスとしてしかありえないのである。
時代が変わっても場所が変わっても、ヒトが形成している閉じた社会システムで効率よく階級を登るためには、弱者を搾取しなくちゃいけない。貴女が言うように、顕でないだけで、自分が明確には認識できないところで、システムを利用することで、俺自身も確実に誰かを搾取をしているクズなところはあるだろう。
しかしながら、それをきちんと把握しようと勉学に励み、試行錯誤し、仕方なく搾取してしまった自分のクズ性を反省するためにも、今も未来も楽しめるようなものを選択し続けなくてはいけないのだ。それこそが、後世へと、また”よりマシ”な社会を、きっと作るはずだと思うから。そんなスタイルこそが、Win-Winを前提にした、社会を次のステージに引っ張っていくような気概だと思う。
弱くても良い。弱いことは悪いことではない。
けれど、今よりも本当の意味で強くなろうとする、その気概を持つことは重要である。
確かに、こんな世の中である。そりゃあ、「嫌だ!」と叫びたいことの1000個や2000個は軽くあるだろう。こんな世の中に、突然に生まれさせられて、いつ死ぬかもわからない。こんなに理不尽なこともないだろう。これもユニバーサルな絶望の大きい要因であろう。
しかし、そんな世の中で、確実に生きてきてしまっていることもまた、事実なのである。だとしたら、人間に与えられた唯一の幸せは、心から存分に”楽しむ”ことくらいなんじゃないかと思うのだ。圧倒的に理不尽な環境であっても、不条理なシステムのなかであっても、こう楽しめば、未来もきっと楽しいはずだと思えれば、今も楽しくすることができるようになる。そのために、カネをかけて楽しんでも良いし、誰かを全力で助けたり応援したりして楽しんでも良いし、賢くなって現実を多角的に解釈することによって楽しんでも良い。なるべく他者を搾取しないように、心から楽しめれば、それで良いのだ。これも、過去・現在・未来と、普遍性の高い処方箋なのではないかと思うのだ。
そして、現実からフィードバックさせて、「これこそが幸せなんだ」と自分に言い聞かせることも、確かに良い手段である。そう言い聞かせるとね、本当に心から笑えてくるんだよ。貴女は知らないかもしれないけれど、俺はこの手段を、よく使うし、ずっと使ってきている。
だからこそ、その副作用の怖さも良く知っているつもりで・・・、、それを書くのは・・・、もっと先の・・・。
まぁ、少なくとも言えることとしては、どの方法でも、”楽しむ”ために、唯一それだけを取るのは、危険だということだ。どこかで間違えやすくなってしまうからね。
でも大丈夫。間違えたと思ったら、間違えた地点まで戻れば良いだけだよ。戻る勇気さえあれば、遅れなんてすぐに取り戻せるものだし、任意の人生において、失敗はありえない。
きっと心から笑っていて欲しい。もし今そうじゃないなら、そうなる方向性に向かっていて欲しい。
そんな風に、小さく祈っている。
そう、まさに、その通りだ。弱いことそのものは悪いことじゃないのに、そのせいでクズになってしまわざるを得ない性質が、社会構造として最も不条理なのかもしれない。
だから、俺たちは、この世界の普遍的な性質に絶望している。時代にも場所にも依存しておらず、ユニバーサルな絶望を感じる理由はここにある。認識の有無は別にして、少なくとも、この価値観は一致しているんじゃないかな?
自分の弱さを受け入れて、変わらないことを是としてしまうと、どうしても生物圏としての性質により近くなってしまう。いわゆる弱肉強食だ。自分の弱さをそのままにすることに肯定的であり続けると、どうしたって自分よりも何かの劣勢性を有している他者を搾取していかないと、生きてゆけない。
それは、ヒトという種族が、この地球上で最も強者であるせいなのである。ヒトは、他の動物から搾取されることがない。だから、弱肉強食についてのヒトの社会は”閉じている”と言える。閉じた社会のなかで生きていくために、生存本能を呼び覚ませば、社会構造のなかでの弱者に焦点を当てるしかない。その社会全体を引っ張っていくような気概を”強さ”と呼び、その強さを向上させることに一生懸命になることができれば、(自分と自分以外の他者全体について)Win-Winになることができる。
そもそも人類は、狩猟生活から田畑を育てる農耕社会へと突入することで、継続的に食料を確保することができるようになった。しかし、当時の旧世代である狩猟民や流民から収穫物や土地を守るために、そして効率よく収穫をするために、どうしても統制が必要になる。農耕社会のなかで生きていくためには、そのシステムを維持するためには、統制せざるを得ない。この統制から、階級システムが生まれた。科学が発展していない時代、人々は神に祈ることで自然災害の危機を回避できると考えていたために、生贄の文化が生まれる。階級システムにおける弱者を(本当の意味で)搾取することによって、社会は成り立っていたのだ。でも、それは、狩猟民時代の、明日も食べられるかどうかもわからず、いつ飢え死にしてもおかしくない社会システムよりも、かなりマシであった。
時代が進むと、産業革命が起こる。産業革命が齎したものは、(再現性を唯一神とした宗教である)科学の発展と階級システムの崩壊だった(封建主義→中央集権)。経済的自由競争のなかで、能力さえ高めて一生懸命に仕事をすれば富を得ることができる社会は、身分が絶対的に支配している農耕社会よりも魅力的に感じたことだろう。その一方で、弱肉強食についての”ヒトとして閉じた社会”も加速していく。無能なヤツを上手に利用して富を得る者が報われる社会では、どちらが有能であるかを客観的に示す必要に常に追われる。そして、国家間での戦争が多発し、多くの人が亡くなった。しかし、それも、農耕社会に比べれば、かなりマシであったはずだ。なぜなら、能力をつけて頑張れば良いわけで、必ずしも誰かが死ぬわけではないのだから。
そして、情報革命の真っ最中の現代では、日々、Twitterで議論と称した”吊るし合い”が行われ、InstagramやFacebookでは隠れマウンティング合戦が行われている。生贄文化はカタチを変えて今も生きている。ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を発明して以来、いかに自分のミームを効率的に残すか?という装置が一部の人に開かれたが、インターネットの発達によりそれが全員に開かれてしまったのが1990年代後半から2010年代の流れである。多くの人が自分の信者を募集し、塾や勉強会やオンラインサロンやセミナーやネットワークなどと称して、人集めに邁進している。能力や資本力など関係ない。とにかく数多く信者を集めた方が勝ち、というゲーム。それが間違った内容で怪しい内容であったとしても、どんなに卑怯な方法であったとしても、みんなの共感が得られることを第一義的に考えてしまう社会の到達である。
この社会構造のなかでの搾取は、"レッテル貼り"に集約される。「あいつは、これにグルーピングされるから、ダメなヤツだ」と主張することによって、自分の地位を高める。先の社会同様、もちろん、その犠牲になる者もいる。「あんなやつ、無職だし、中卒だし、ただの社会のお荷物だろ」という言葉を受けまくった人が傷つき、自殺してしまうことがある。ヒドいケースだと、”無敵の人”などと呼ばれ、一般市民に牙を剥いてしまうことも。。
しかし、この以前の社会よりは、マシであろう。戦争が起きる恐怖心は少ない。どんなにグルーピングされても、きちんと自我を保っていれば、他者から殺される可能性はかなり低い。食う飯に困るわけでもないし、いつでも有名になるチャンスは与えられている。もちろん、無敵の人の暴走はランダムに起きてしまうが、その被害に合う確率は極めて低い。
ここまで書いてみるとわかるように、「極普通の常識の中で、人間の弱さみたいなものを互いに理解し合いながら、みんなと調和しながら生きていきたい」というのは、非常に現代的であり、ちっとも弱くないのだ。それを最高峰に行うことができれば、その人こそが現代システムの最強者である。注意しなければならないのは、強くなったとしても、最強者になったとしても、それがイコール幸せとは限らないんじゃないか、ということだ。(上に書いたWin-Winとは別の"強さ"ね)
そして、共感を得ながら「あの人いい人だな」とか「私、いつの間にか、あの人のファンだな」とかの声をいかに多く集めることができるか、という社会システムに移りゆくなかで、自分一人について、”今の瞬間の自分の感情”と”未来の自分を想定することで後悔したくない気持ち”の両方に同時に素直になることは、オフェンスではなく、むしろディフェンスとしてしかありえないのである。
時代が変わっても場所が変わっても、ヒトが形成している閉じた社会システムで効率よく階級を登るためには、弱者を搾取しなくちゃいけない。貴女が言うように、顕でないだけで、自分が明確には認識できないところで、システムを利用することで、俺自身も確実に誰かを搾取をしているクズなところはあるだろう。
しかしながら、それをきちんと把握しようと勉学に励み、試行錯誤し、仕方なく搾取してしまった自分のクズ性を反省するためにも、今も未来も楽しめるようなものを選択し続けなくてはいけないのだ。それこそが、後世へと、また”よりマシ”な社会を、きっと作るはずだと思うから。そんなスタイルこそが、Win-Winを前提にした、社会を次のステージに引っ張っていくような気概だと思う。
弱くても良い。弱いことは悪いことではない。
けれど、今よりも本当の意味で強くなろうとする、その気概を持つことは重要である。
確かに、こんな世の中である。そりゃあ、「嫌だ!」と叫びたいことの1000個や2000個は軽くあるだろう。こんな世の中に、突然に生まれさせられて、いつ死ぬかもわからない。こんなに理不尽なこともないだろう。これもユニバーサルな絶望の大きい要因であろう。
しかし、そんな世の中で、確実に生きてきてしまっていることもまた、事実なのである。だとしたら、人間に与えられた唯一の幸せは、心から存分に”楽しむ”ことくらいなんじゃないかと思うのだ。圧倒的に理不尽な環境であっても、不条理なシステムのなかであっても、こう楽しめば、未来もきっと楽しいはずだと思えれば、今も楽しくすることができるようになる。そのために、カネをかけて楽しんでも良いし、誰かを全力で助けたり応援したりして楽しんでも良いし、賢くなって現実を多角的に解釈することによって楽しんでも良い。なるべく他者を搾取しないように、心から楽しめれば、それで良いのだ。これも、過去・現在・未来と、普遍性の高い処方箋なのではないかと思うのだ。
そして、現実からフィードバックさせて、「これこそが幸せなんだ」と自分に言い聞かせることも、確かに良い手段である。そう言い聞かせるとね、本当に心から笑えてくるんだよ。貴女は知らないかもしれないけれど、俺はこの手段を、よく使うし、ずっと使ってきている。
だからこそ、その副作用の怖さも良く知っているつもりで・・・、、それを書くのは・・・、もっと先の・・・。
まぁ、少なくとも言えることとしては、どの方法でも、”楽しむ”ために、唯一それだけを取るのは、危険だということだ。どこかで間違えやすくなってしまうからね。
でも大丈夫。間違えたと思ったら、間違えた地点まで戻れば良いだけだよ。戻る勇気さえあれば、遅れなんてすぐに取り戻せるものだし、任意の人生において、失敗はありえない。
きっと心から笑っていて欲しい。もし今そうじゃないなら、そうなる方向性に向かっていて欲しい。
そんな風に、小さく祈っている。