たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

研究室をやめたい理由-『このラボで我慢しよう!』と決めるその前に-

2014-03-30 03:16:54 | 自然科学の研究
(2016.8.10 更新)
 「後悔しないように生きろ!」
 あらゆる場面でこの言葉を聞くが、先人達が後輩にむけてメッセージを送っている訳だから、それは実際にはかなりの後悔をしながら死んでいく人間が圧倒的多数を占めていることの証だと思う。今はできない、もっと力をつけてから、まだ自分には難しい、確かに理想はこれをやりたいし、それに向けて努力したいが、自分にはそんな時間はない、という「やらない」理由を常に沢山並べて、後悔してそのまま死んでいく人間がこの世の中の多くを占めていることを物語っている。[1]

 いつかきっと。
 いやいや、今までだって忙しかったんだから、そんなんじゃ、これからも絶対に無理だ。未来に「いきなり」を期待してんじゃねーよ、いつ人生は始まるんだってーの。

 時間が無かったり、状況として難しいならば、何かを「やめる」しかない。
 みんなが大学に行くから大学に行き、理系はみんな修士までは行くから大学院に行き、親族や環境下が博士に行く空気だから博士に行き、一方でみんな修士で就職するからなるべく有名な企業に就職していく、というように、周囲に「反応」だけして生きていくことからきちんと脱さなきゃ、成功なんてできやしない。すべての人を等しく縛っている世間体やリスクを超えて、自分がやりたいことを後悔なくやって楽しんで生きていくためには、率先して、まずは何かを「やめる」ことを考えないといけない。[1]

 そんな背景を受けまして、今日は、理系の研究室において、その研究室を辞める理由リスト、研究室を辞めるにあたって大事なこと、を述べてみようと思う。
 まぁ、研究室の選び方 -『このラボだっ!』と決めるその前に-では始まりを述べましたが、今日は逆、離れる理由、今いる研究室を辞めるに値する理由を述べてみようと思います。そうすると、またアクセス数が上がる。笑

 このページを参考にして実際に研究室をやめることになっても責任は一切負いませんが、研究室の選び方 -『このラボだっ!』と決めるその前に-は御覧になってみてください。[2]

 
 今の研究室をやめたい人、必見!
 では、スタート。


 1.よそに行くアテが2つ以上存在している。

 お前が今、このページを観ている理由は、すでに今の研究室に何らかの不満があるからだろ?

 何かがやりたい!と思ったり、だからそれをやってる研究室に行く!、ってのは個人の勝手なのだが、本気になれば、いま所属している研究室の中で何でもできるはずだ。指導教員にアピールするんでも、何かの申請書を書いて実験器具をそろえようとしてみるんでも、テーマを自分で持って来てみるとかでも。それでもそれを本気でやってみることをしないってことは、新しい場所に向けてのことだって本当にやりたいわけじゃない可能性が高い。

 だとしたら、あなたがやりたいこと、ってのは、(どーせ大したことじゃないんだから)とりあえず置いておいて、とにかくその研究室をきちんと確実に抜け出し、よそのどこかへ行く、ってことを考えたほうがイイ。やりたいことを見つけるために、色々なラボに行ってみることは悪いことじゃないし、特に学生なら、こういうことを沢山しようとするべきだと思う。

 日本で博士号をとる多くの人は、卒研からD論提出まで、同じ研究室に所属している。だから研究分野のネットワークや現状がどうなっているのかよくわからないのに、6年間も同じ研究室にいて、その研究室もしくは同じ研究分野や専門分野しか知らないくせに、「研究はこんなもんなのだ!」とか偉そうなことを言ってるヤツがほとんど。
 そんなんで、まだ確立されていない新しい分野を創るようなこと=:研究、ができるわけないじゃん。

 だから、研究室を変えたり、研究室じゃなくてもよその場所に行こうとするのはいいことだと思いますが、、ただ、青春時代の大切な1年以上を棒に振ることは避けなくてはいけないですから、その場所が嫌だなぁって思って離れたいかもと思ったら、まずは「行くアテ」をとにかく2つ以上探すことが最も重要です。1つではダメです。これは俺の経験的なところが大きいですが、とにかく2つ以上は他に行くアテがないと、何事も「離れる」理由までに値しないんです。
 別にあなたの「やりたいこと」にこだわる必要はありません(どーせお前の「やりたいこと」なんて長続きしねーんだから)。僕なんて、今いる場所はもともと「俺がその分野はめちゃくちゃ苦手だから」で選んでいます。

 そうだとすると、不安になるかもしれません。そこでずっとやっていけるのだろうか?ってね。
 でも、「そこでずっとやっていけるのだろうか?」という不安そのものが「他人任せ」なのです。本当の実力をつけられなくても、誰かに何か助けてもらおうという現れなのです。だって、俺はここではやっていけないなって思ったら、また変わればいいだけなんですから。
 そして、他人任せである限り、今の場所にいようが、どこか別の場所にいようが、状況はまったく変わりません

 具体的によそに2つ以上アテがあると、意識だけでは変わらなかった部分が、心にフィードバックしてきて、自分で主体的に何かを成し遂げようという気持ちが湧いてくるもんですよ。

 2.指導教員が自分の研究のストーリーや進路を決めつけてくる

 上下関係で上の者がきちんと意識しなきゃいけないのは、下の者が成功したら下の者の手柄、下の者が失敗したら上の者の責任、ということだ。
 言いかえれば、研究が上手く行かないのは教員の責任、上手く行ったら学生の手柄。これがポケットマネーから学費を支払っている学生の立場としての当然の市場の論理だと思う(受験指導している自分の生徒に俺はこう思ってきたし、俺の現在の指導教員も俺のこういった考えを納得していると思う。というか俺は偉そうレベルがマックスなので笑、俺自身が「上の者」であって、研究や教員に対して、こう思っているけどね)。上司と部下、司会者とひな壇、にもこういったことが言える。主旨から外れますが、こういった教育における当然の考え方が理解できない権威主義者の大学の教員は、税金と学費の無駄だから、国民のためにもさっさと大学を去って下さい。学生はカネを払っているわけで、学生はあなたのコスパーの良い作業員ではありませんので、心からお願いします(笑)。

 っで、そんな前提からすると、その研究のストーリーや、まして学生の行く先の未来を、上から抑えつけるように、こうでなければ絶対に認めん!なんて言うヤツのもとで、あなたの人生にとって有意義な研究生活が送れるわけがないと思うんですよ。
 そんな環境下で、お前、成功できると思ってんの?間違いなく無理だって。

 よく「こんなレベルでは話がまとまらない。許せない」とか「修士で卒業するなんて大学院重点化はうんたらかんたら」って言う教員がいますが、それは「これだと僕ちんがバカにされるかも。こんなストーリーで発表したこと無いから、これだと世間体的に大丈夫かよくわかんないし、不安だから、それだとイヤなんだよーぉ」という言い換えです。
 まぁ、同じ分野しか研究していなくて、ストーリーが決まりきっていて頭が凝り固まって、「他のストーリーで話をまとめる論理性が僕にはありませぇーん」ということの言い換えだったりもします。

 それでは本質的に研究をしていませんから、そんな研究室は研究室ではなく、ただの「作業室」です。そのストーリー通りに研究を行ったフリをして、高級な積み木をして、捏造まがいのことをする可能性が高いです。
 研究をする前からストーリーが決まっていて、研究計画書の通りに、データが出たり論理が明らかにならなくちゃいけないって決めつけているなら、それは研究ではありませんよね?むしろ予測とは異なる結果が出たときに、どうしたらまとまるかを考えることが研究者の腕の見せどころです。

 なのに、しかもテメーが実際に実験をしているわけでもないのに、ただ上からストーリーを圧しつけてきたり、学生をコントロールしようとする、自称研究者の「作業者」が運営する「作業室」は、そもそも「研究室」ではありませんから、さっさと出ていくのが得策です。
 研究室だと騙されて学費を取られていたのですから、さっさとその偽研究室から脱出しましょう。

 誰もお前の心までは奪えないものさ。出ていくことを妨害されまくっても、出ていくことはできるはずですよ。

 3.自分が本質的だと思うテーマがこのままでは原理的にできない

 冒頭でも言いましたが、人生は短く一回きりなのにも拘らず、後悔なく生きることはとても難しいです。
 自分が今、本質的なことはできていないな、っと思ったら、まずはその場所・環境を離れていく決心をしたほうがイイです。

 この理由だけなら別に今すぐ今の研究室を離れようと努力しなくてもいいですが、日々の研究生活から自由時間を多くとって、一日一日を、外部に意識を働きかけるのは大事です。
 全然違う分野の研究会や学会に出かけたり、いろんな理由をつけて、全然違う分野の研究室へ訪問をさせてもらってもいいかもしれません。多くの大学の先生は外部からのムーブメントをどこかで待っていますし、、あなたとまったく同じ理由でね。

 研究そのものに疑問を持ったなら、習い事の体験入学に行ってみても良いし、昔の友達と会って現状と夢を語ってみるのも良いし、朝活や街コンに行くんでも良いかもしれません。
 違う!と思ったならば、そこに対して、今何ができているのかを、きちんと把握しながら、一日一日を大切に行動していくべき。だって、お前の人生なんか、短いんだから。

 4.放任主義or管理主義な研究室

 こういう具体的なことをみんな求めているんでしょうが、これは当たり前すぎて書かなくても良いレベルだと思うんだけどなぁ。。
 放任主義と言えば聞こえはいいですが、よーするに放任とは「研究・教育を一切放棄している指導教員が運営している研究室」ということです。管理主義は「命令に従順な作業員養成所」です。カネまで払って、洗脳されにいく。洗脳されて、カネを払う。それじゃ「Sエムク○ブ」と変わりません笑。

 究極の放任主義や管理主義になれば、その両者はまったくの同値です。
 放任にみせておいて、論文や学会発表のときは、めちゃくちゃ管理してきたりする。大学院は、そんな変な場所なんですよ。

 お前、研究したいんだろ?研究で成功したいんだろ?
 研究は(少なくとも初めは)1人じゃできないからさ、バカでだらしない男が「Sエムク○ブ」に巨額のカネをつぎ込んでるような人生で成功できるわけねーだろ?

 早く味方を見つけて、早く同士を見つけて、研究の環境をきちんと確立しなきゃね。

 5.今の研究室のせいで精神状態がヤバい

 っま、これが一番の理由になってしまうでしょうね。
 具体的に言えば、「そんなん言うなら辞めます」と言えない環境はヤバいっす。そんなことを強要してくるなら、俺は絶対にイヤだから辞めてやる!、っとカネを払っている側が言えないなんて、ヤバすぎです。[3]

 ただ、この極みまでなってしまっていたら、辞めたらもっとヤバい精神状態になる可能性も高いです。
 そういう場合は、助けをいたるところに求めてください。なんやったら、このページのコメント欄で助けを求めてもイイです。俺もできる限りのベストはつくせます。

 たとえば、相談所や誰か教員に相談したときに、「もっとこういう風に我慢してみたらいいんじゃない?」「こういうことだったんじゃないの?」なんて言ってきたら無視しましょう。そんなヤツらは敵です。
 少なくとも我々悟り世代は、こういったことに敏感ですので、みんな優しく助けてくれることが多いと思います。ネット上でも、SNSでも、思い悩んでないで発信しちゃいましょう。発信する前よりは、状況が改善されるはずです。


 私に直接相談したいと思ってくださる場合は、相談内容を明記の上、こちらにメールしてください(_attoma-ku_を@に変えて送信してください)。基本的にどんな方のどんな相談もお受け致します。匿名で構いませんが、所属や名前を仰ってくださったほうが、相談にはのりやすいです。相談内容は決して口外しませんのでご安心ください。
soudan.atamanonaka.2.718_attoma-ku_gmail.com


相談メールについて詳しく知りたい場合はこちらをご覧ください。相談を受ける上で俺が守るべきルールを書きました。

スカイプでの相談もはじめました!ネットでは絶対に書けない裏事情を含め、スカイプであれば、無料で真摯に迅速かつ最大限論理的に、あなたの相談にのります!!私がこれまで実際に接してきた研究分野(物理学、化学、生物学、情報など)や見聞きしている領域、内情を知っている研究室についても、できる限り詳しく回答します。ご希望してくださる方はお気軽に上のアドレスまで、あなたの本名をお書きの上、メールしてください。私から相談可能時間とスカイプIDを送ります。皆さんの相談をお待ちしております。


 成功したいんならわかるだろ?
 訊くは一時の恥。でも、そのまま自分の胸に留めておいたら、一生恥のままで、そのまま死ぬんだぜ?


 かなり長くなっちゃいましたね。まぁ、こんなリストを全部信用しちゃったら、誰もが研究室を辞めなきゃいけないかもしれません。

 でもそれは当然のことです。だって俺は、今の「指導教員というシステム」そのものがダメだと思っているんですから。
 俺みたいに、それを指導教員に話しても何も変わらずに指導してくれるくらいの信頼関係があるなら別ですけど、ね。

 基本的に、我慢に未来はありません。
 研究をしているすべての皆さんが、それぞれの人生にとって、楽しく有意義に研究ができることを、心から願っています。

参考
[1]夢をかなえるゾウ
[2]研究室の選び方 -『このラボだっ!』と決めるその前に-
[3]デマこいてんじゃねえ!「そんなん言うなら辞めます」と言えない社会

「研究室をやめたい理由」解説 動画part1


「研究室をやめたい理由」解説 動画part2
コメント (13)
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いしときず

2014-03-28 02:27:05 | Weblog
 自分が他人に火をつけた新しい価値観から逆に何かを学ぶことがあると、純粋に嬉しいし楽しいし、しかし同時に憂う。
 その今の価値観で上手く行かなかったなら、すぐにでも捨ててしまい、もとに戻ったらいいのだが、なかなかそんなに器用にできないのが人の常なのだと思う。

 『誰がこんなことしたのか、絶対につきとめたい』
 「あのね、、たぶん、それは次第に分かってくると思うし、あなたは今は療養するのが一番なんだから、あまりそういうことを考えなくていいんじゃないかな?」
 『だって早く知りたいんだってば』
 「私は長い間この仕事をしてきて、色んな患者とその加害者を観て思うんだけど、相手の傷の責任を背負わなくちゃならない、傷つけてしまった側の罪はとても重いの。それを自覚している加害者のほうが圧倒的で、、ほとんどのケースでは、傷つけられるよりも傷つけてしまうほうが傷は深いのよ。少なくとも私はそう思う」

 15年以上前、このように俺に説いた聡明な看護師は、ある過去だけを見つめていた。予測は見事にあたり、この言葉の通り現実の世界に具現化していった頃には、俺の前から姿を消してしまった。

 すべての人の気持ちの前提が優しさであることを前提にして考えた場合、この論理は明らかに成り立つ。そして俺は今、実際に具現化された傷だけでなく、もっと一般的に、この性質は成り立つことを確信している。

 たとえば、そういう想いで具体的に貫いていったときに、それで上手く行かなかったら、俺が灯を与えた価値観と同じように、俺もこの価値観を捨ててしまっても構わないのだろうか?
 俺にはまだその答えを出せないけれど、、意志があるからこそ新たな価値観を灯す決心が生まれる。それで傷が生じるかもしれないけれど、それは確かな一歩。いしときず、折り合っていく。

 まっすぐな意志を傷へのケアに使いながら、情熱で報われる孤独よりも、誰かを信じていくことで達成される未来を、俺はいつまでも信じていたい。
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本質とは何か?

2014-03-27 00:31:47 | Weblog
 何かが終わりを告げてしまえば、それまでのことは何も意味が無かったように感じられる。
 今、周囲は大きなコンバージョンの時を迎えているのに、俺自身はそんなことはどうでもよく、ただただ、本質的なこととは何か?を求め続けているのだと思う。

 『意味があるんですか?、って使いすぎてるかなぁ』
 ―そもそもなぜそんなにも意味に拘るんだ?
 『たぶんそれは、無知なせいで無意味なことをさせられていることを、俺がとても怖がっているから』
 ―ならば、私に刻み込むべし。意味の無いことなんて一つも無い、ってね
 『無知を単なる経験者に利用されているだけだとしても、ですか?』
 ―ああ。その中で彼らなりに学ぶことは沢山ある。まずはそこに寄り添っていく必要があるんじゃないのか?それに、そんなにもみんながバカだと、本気でそう思うか?みんな分かっていて、それでも騙され続けているのさ
 『それは、寂しいから?確実な信頼関係が一つもないから?』
 ―惰眠を貪っているだけに観える、種々の権力闘争や縄張り争いも、淋しい彼らが本質的にそうでなくなるためには、必要な課題なんだ。それを理解できない限りは、一歩も先に進めないぞ
 『しかし、このまま宥恕すれば、あなたに迷惑をかけることになります』
 ―かまわないさ。私に新たな松明が宿る、その変化こそ、意味があることではないのか?任意の人生において、失敗は原理的にありえないのだから

 始まりを予感していくと、一番幸せな瞬間だって認知してくる。成功の瞬間やそれに追随している日々よりも、胸中に湧き上がる明日への渇求こそが、輝かしい時であることは明らかだ。

 運命から戴いた稀有な経験を積み重ねながら、何が大切なのかを本質的に捉えていきたいと思っている。
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Is Honesty the Best Policy ??

2014-03-26 00:35:48 | Weblog
 『MARCHでは五大商社に行けない。』
 という事実を(笑)、ここ何年か受験生にはっきりと突き付けている。五大商社も知らないくらい教養の無い多くの高校生のために、俺は言葉を続ける。
 『つまり、お前らがドラマで観るような、高層ビルで社内恋愛したいのならば、早慶以上に行かないと可能性はゼロに近い。』

 前から言ってるように、単純な数字上での事実を言ったからといって、その事実を言った者を非難するのはオカシイ。事実を言ったものに責任があるわけがなく、いつだって当事者に責任は残ったままだ。
 まぁ、地震のときに、原発事故における放射能の影響を語っている学者が何故か非難されているシーンを観たことがあるが、そういうのはまったくもってオカシイ。この件についても、ムカつくなら、社会に言え!そんな社会が嫌だ、ってブログにでも書きゃいい話なのだ。

 だから、俺は、意味が無いことは意味が無いと言うし、ダメなもんはダメだとはっきり言うし、スゴイことはスゴイ、イイもんはイイ、と告げる。それがイヤで俺を避けるなら、俺にとってもそっちのがコスパーが良いわけだし。

 ただ、はたして、あらゆるケースにおいて、正直は最良の策であるか、それは俺にはわからない。

 少なくとも、何かとても大切な気持ちの一部分をいまだに隠しているにも拘らず、具体的な事象だけについて、こっちの手の内や、信頼関係にとっての不利益な事実や、本当の想いを隠しこむ表層上の気持ちを告げるのは、得策とは言えないのではないか。

 全部言っちゃえばイイ、ということを俺は信頼の基本としている。
 それを貫こうとしすぎてしまえば、「やり方や手法を私に打ち明けなくてイイから!!」という気持ちになるだろうし、それとは別に、当然、行動でしか伝わらないことも沢山あるだろう。

 理想的なところまで突っ切ってしまえば、もちろん、正直は最良の策である、と思うけど、それに達するまでの時間変化を経ている現実を決して忘れてはいけないのだ。

 『これまで、MARCHでは五大商社に行けない、と言ってきたけど、当たり前だけど、絶対に行けないわけではないし、実際にMARCHで行ってる人も沢山いる。ただ、その確率が低いだけで、自分のやる気次第で、商社じゃなくても、どんなところにだって、いつからでも、到達できると俺は信じている。もちろん、何かの場所に限らず、能力についても、感情やスタイルについてもね。よーわ、全部、あなた次第なのさ。』
 っと最後の最後に告げるようにしている。
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「落ちてしまえ!」

2014-03-25 01:59:22 | Weblog
 高3の頃、一般入試を受ける受験生のわりには、がっつり9月の文化祭に参加してしまった。
 学校行事をきちんと無視して受験勉強している人もいて、それこそが正しい行為なのに、自分はなんてダメなんだろう、って思ったりしていた。

 で、受験に関しても、生徒指導に関しても、めちゃくちゃ厳しい当時の先生が俺の現状を知ったら、きっと怒られるだろうなぁ、っと想像していると、文化祭後すぐの授業で、
 「学校行事があるのに、その間に自分勝手に予備校で勉強してるヤツなんか、俺は、落ちてしまえ!っと思う。その自分勝手な行為が他の人にどれだけ迷惑をかけているか、わかってるのか。色んな忙しいこともある、家庭で手伝いもしなくちゃいけない、バイトもしなくちゃいけない、そういうことをしっかりこなしながら、一般入試でコツコツ頑張ってるヤツには結果がなかなかでなくても、俺は心から精一杯に応援するし、俺には応援する義務があると思うが、受験生だからって理由だけで偉そうにしてるヤツなんか、落ちてしまえ!」

 当時の俺は正直、意味わかんねぇ、それは違うんじゃね?、っと思ったが、これだけ年齢を重ね、教育実習や予備校で教員側を体験していると、この恐ろしい教員が言っていた言葉はとても的を射ていると今では感じる。

 この先の行き場が無いから、自分のレゾンデートルを守る必要があるから、正直者はバカをみる、ことを正当化しているクズは、大学内にも沢山いる。
 あからさまに自分よりもポテンシャルややる気があったかもしれない人を蹴落として、それを見て観ぬフリをして、自分たちとして存在するために、自分が上に認められ続けるために、蹴落とす行為や迷惑をかける行為や真面目に取り組んでいる人に絶望を抱かせる行為を正当化しているケースは、確かに跡を絶たない。

 そして、俺も修士以下の学生によく思ってしまうことではあるけど(この点反省しなきゃいけない)、まっすぐと真面目に取り組むことで思い悩んでしまって心機一転、博士に行こうとしていた学生でも就職活動を始めだせば、就活を始めたからもう大丈夫なんじゃね?、俺ら博士以上の人が感じる悩みは絶対にないわけで、普通に結婚して普通の幸せを手にできるんだから、夢を奪ったんじゃなくて現実を見せてあげたんだ、って冷たい風を吹かせる大学院の風潮。

 まぁ、どんなに偉そうな顔してても、そんな博士課程の学生(俺も含めて)、そんなポスドク、そんな大学の教員、クズだよね、ヒトとして。そんなイジメをしていたなら、なおさら、そんなツラで、そんな心がけで、よく外を歩けるなって思うレベル。
 小さい頃に言われなかった?お天道様が見ているんだぞ、ってね。どんなに誤魔化して大義名分をつけて、責任逃れをしても、自分自身はわかってるはずだ。もっと胸を張って、堂々と生きていこうぜ。

 俺は下の世代に甘いから、高校生は未熟だから仕方ないって思うけど、20代以降がそんなことするなんて、やっぱり「落ちてしまえ!」っと俺も思う。

 でもでも、そこまで冷酷になれない自分もどこかにいて、どうしたらシステムとして改善するのかを本気で考えていたりする。
 ひとつには、ここでこうやって主張することは意味があることだ。なんたってこのページの影響力は今やデカい。社会的影響力があるほどアクセス数を稼げる記事は増えてきているわけで、ここでこうやって主張すれば、誰かが感化されてくれる部分はあるわけで、本当の意味での「より良き」は、他人の心に新たな松明の灯を宿すことから始まるのだから。
 ただ、もっともっと、具体的に、きちんとアプライしていきたい。そのために、俺は何をすべきか?考えて実行していかなきゃいけない。

 そしてそれをすることこそが、あれだけ真っ直ぐな気持ちで中等教育を担当されている恩師への恩返しであり、俺にとっては、それは譲れない部分なのかもしれないね。
 だって、あんなに真っ直ぐな気持ちで生徒を大学に送り込んでいるのに、その送り込んだ先である大学がこんなに腐ってるんじゃ、仕方ないもん。

 こういう気持ちを大切にすることが、「不当に上にあがってしまった」我々の責任であると俺は思う。
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笑わない笑顔で

2014-03-24 03:00:35 | Weblog
 少しずつ大きくなっていた存在の尊さをいま初めて感じる。
 本来の自分に戻るように、ここへ戻ってくることはありえるのかな?

 期待していたよりもずっとずっと幼くて、ずっとずっと無意味に賢かったことが、裏目に出始めていたのかもね。
 常識のなかで成り立っている暗黙のルールが心のどこかでいつまでも理解できていなくて、それを理解できないばかりか、理解できないことを認めることもできないあなたの幼さこそが、信頼関係として成り立っていたのだ。

 眠っていた当たり前の気持ちに火をつけられて、何が本質的なのかを物語ってくれる言動を、自然と造れる笑わない笑顔で嘲謔する。それを見抜かれながら、もう一歩直向きな姿勢で受け止められると、その間にあっという間に日は沈み、目の前に残された作業を無意味にも課せられていることに気がつく。
 あとから気がついた不条理な真実を泰斗として圧迫しても、無邪気に笑い返されて闇に葬り去られる。そのある種の直向きさによって、いくつもの会話が成立していたのだ。

 でも、その直向きさは有限であった。使ったら、使った分、補充してあげなければならなかったのだ。
 それは第一印象という神話に魅せられすぎていたのかもしれない。

 遠目笠の内とはよく言ったもんで、精神空間上において初速がかけられることで発生した引力は、行き場を失って、斥力へと転移していってしまった。
 そこに、具体的な大義名分をどんなにそれっぽく並べても、虚しいだけ。本当の理由はそれじゃないでしょ?、、そんなこと、流石に分かる。

 もう一度、その力を見出すには、きっとかなりの労力を使うのだろう。
 それは外的な要因にしかありえない、と勝手に決めつけながら、それ以前の表層上の自分へと転生しなおしていく自分を感じている。
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疎「他集団」結合のワナ

2014-03-22 01:22:35 | Weblog
 すべての人は、ノリが良い順に、Aグループ、Bグループ、Cグループに分けられる。

 中高生のときのクラスを想い出してほしいんだけど、男女別にして、だいたい3つのグループ(つまり男女合わせると6つのグループ)に分かれていたと思うんだよね。っで、みんな、グループがある、とか、人間関係がある、ってことまでは話すんだけど、そこに優劣が存在してることまではあんまり喋らない。
 なので、俺と当時の悪友が、ユングの分析心理学を参考に、構築しなおしたのがABCグループ理論です。詳しくは過去記事を読んでね、どこかに詳しく書いてあります。

 このブログを読んでるなら、それくらいの基礎知識は、ちゃんと持っててね?笑

 ABCグループ理論は、かなり色んな性質を捉えていて、長い時間をかけてTeXでまとめているところですが(たぶんD論と一緒にできる、そうすれば、ABCD、みたいな笑)、今日はCグループの特異的な性質についてお話しましょう。

 Cグループは、一番ノリが悪い集団です。
 クラスのみんなが盛り上がってる最中、図書館に行っちゃうような人たちです(まぁ俺なんだけど)。たとえば、理系でドクターに行く、もしくはドクターにいる、ってことは、CグループかB下しかありえません。どんなにA下グループに観えたとしても、最近しゃしゃってAグループっぽい身なりになっただけで、素は絶対にCグループでしょう。

 っで、このCグループなんですが、実は他のグループとは圧倒的に違う部分はあります。
 それは、Cグループの形成は疎「他集団」結合であるということです。

 いいですか、よく覚えておいて下さい、これはかなり重要な性質です(笑)。AグループやBグループが集団化しているのは、自らが自ら同士、自発的に集団化したいという気持ちの現れから、集団化しています。
 水を避けるように結合するのが疏水結合ですが、これと同じ要領で、Cグループは余ってるから集団化しているケースが殆どです。

 まぁだからといって、もちろん、Cグループだと本当の友達はできない、とは言ってません。ただ、3人以上の仲良しを創りにくいんじゃないかな、とは思います。
 僕も友達は多い方ですが、そのほとんどは僕とそいつが仲イイ、ってのがほとんど。3人以上で仲がイイ、って本当に少ないです。

 でも、Cグループってのは年功序列間の上下関係だけは得意ですから(親や先生の前ではお利口さん)、上に立ったり、リーダーになったりすることが、大人になってから多い。自分で起業したりして、本当の本当のトップは、Aグループであることも多いんですが。
 ここに日本の社会の難しさがあるんですよね。

 今までクラスの中でもトップになっていない人が、いきなり、あるグループのトップになれるわけがないんです。
 クラスの中でトップっていうと学級委員とか生徒会とかそういうのを想像するかもしれませんが、そうじゃなくて、ホントに生徒だけの関係での上下関係ね。それなら俺だって何回か学級委員やってたことあるし、むしろ学級委員やらされてしまうような人はCグループです。

 Aグループの人ってのは、場のコントロールの仕方をよく知っています。誰に言われるわけでもなく、自分で自然とのし上がって、Aグループになっていますから。
 あらゆる集団でAグループに君臨し続けた人ならば、20歳を過ぎれば、どこまでいじったらいじめになるか、どこまでやったら警察沙汰になっちゃうか、ここまでは自分の利益、ここからはみんなの利益、こういう風にしたらみんなも自分も楽しい、って考える能力があります。
 まぁ、Aグループの人がそれをその通りに実行してるかどうかは別なんだけどね。たいていのCグループがいつまでもコミュ力をつけないのは、たいていのAグループが自分の利益ばかり考えて、Cグループを迫害してきたからなのだし。

 Cグループには、どこまで、どこから、こうやったら、ってことを、みんなに対して考える能力には乏しいです。だって、みんなが遊ぼうぜって言ってくれてるときに、1人予備校や塾に行って、自分だけの利益を最優先してるような人ですから。
 優しい気持ちがあっても、能力が無ければ、その優しさは発現されません。

 俺が最近思うのは、複合的・多角的に観て、自分の能力以上だな、って思うような事柄や仕事を、きちんと断る、ってとっても大事なことだと思います。それこそが優秀さです。
 だって、自分の本当の能力を考えた上での身の程をわきまえずに、何かの偶然や、ズルっこで、何かの役職や仕事や言葉や権利を得てしまう分、正当に努力して、その能力に値している人が1人、不当に評価されてしまうってことですから、社会にとっては、それだけで害悪なんです。いくら自分のレゾンデートルを守りたいんでもね。この自分のレゾンデートルは絶対に守りたい、って発想自体、Cグループなんですが。

 やっぱり、あらゆる能力に対して平等に自らを評価していくってとても大事なんだな、っと教えてくれる、この理論、、スゴイでしょ?笑
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1エイトの価値

2014-03-21 04:17:58 | Weblog
 みんなで一つのことを創っていって、ついに達成されるその瞬間、これは何のために行ってきてたのかな?って、ちょっとだけ悩むこともある。
 前日までは、終わったら死んでもイイかも、って気持ちで取り組みながら、全力をかけていく。でもその後に何が残っているかといったら、何かが残るわけではないから。。

 もちろん、それは具体的な結果が出ていないところに依るところが大きいのかもしれない。また来月、また来年、ってもうそんなことをいくつも繰り返してきていて、目の前のことに一生懸命になり過ぎて、ありきたりのパターンになりつつあることがわかっていながらも、どうにもできなくて。

 チームプレイを繰り返していれば、どうしたってそこに十分な時間がかけられない人もでてくる。
 もっと一緒に頑張ろうよ、って気持ちになるけど、その人個人で目指している目標にだって大事な価値があるんだから、その時間のなかで精一杯、そういう人に対しても、自分が今できることをやっていくことがベスト。

 こういう熱がきちんと伝わっていけば、個人主義な人達も次第にチームプレイに溶け込んでいけるのだと思う。
 それがわかっているから絶対に諦めない。たとえそれで自分が少し損してしまうんだとしても。

 あの頃、2人が、、みんなで、創ったものづくりのあと、黙々と、個人の努力をみんなでの努力に昇華し、そこから個人個人への目標に向かっていくんだ、と大きく主張していたあなたの瞳を大義名分に、普段直視できない分、じっくり直視してしまった自分の思考が教えてくれた。
 でもね、もう少しだけでも、その目標をこっちに向けてくれたら、まだ何かで繋がっていれたかもしれないのにね。ま、今、きちんと結果を出している姿を観ると、あなたのstyleはあなたのなかでの正解であったのだ、ということはわかるんだけど。

 1エイト、1カウント、指先まで意識しながら伝えていくように、きっと精緻な論理体系も、個人の意識とチームプレイが無ければ進捗していかないのでしょう。
 それを啓蒙していく意図としても、ものづくりには価値があって、たとえ終わってしまっても何かがきちんと残っているって、やっぱり信じている。
 何よりも楽しいし、一緒にやってくれる人に、心から感謝している。

 だからこそ、ものづくりは、みんなの気持ちがきちんと入っていなければ、何の価値もない、、んでしょ?
 逆にいえば、みんなの気持ちさえきちんと入っていれば、どんなに実質的にダメでも、そこには素晴らしい価値が宿るのだと思う。

 そこから、個人個人への夢に適応させていくからこそ、きっと価値があること。
 だから、一人ひとりに対してまで、一生懸命、頑張ろう。
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学位の価値

2014-03-20 02:50:08 | 自然科学の研究
 戦後の日本のすべての博士論文、修士論文、卒業論文を精密にチェックしたら、真っ当な学位はどれくらい残るのかな?
 たぶん、分野によるバラつきはでると思うけど、半分も残らないんじゃないかな。理系に関しては。

 マテメソは別として、イントロダクションをまるまるコピペしちゃうって、それは引用をつけるとかつけないとかじゃなくて、研究として成り立っていない、ということなんじゃないかなと俺は思うんだけど。

 っま、日本の研究者・大学教員は、学位に値するかどうかの判定や、他の研究者や学生を正しく評価することができないことは、明らかなのだけど。
 だって、博士号の取得に原著論文の出版が必須って研究科が多いけど、それって、欧米に評価を任せます、ってことでしょ?笑

 日本の研究社会が、バカがバカを量産するシステム、無法地帯、と思われても仕方ないよね。
 学位の価値はその程度でしかないのかもしれない。
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21世紀の純粋理性批判

2014-03-19 02:41:41 | Weblog
 信じるものは救われ・・・どっちだと思う?

 この有名なフレーズ。あなたは、どちらで、日々を生きている?
 自らの心の認識すら危うく、その気持ちを言語化できない憐れな読者のために、俺がアガペーの広い心で代わりに言葉にしてあげよう。笑

 信じるものは救われないが、自分には信じるしか術がない。…だろ??

 日本の社会では、各個人固有の感性が失われ、誰にとっても価値が無い器としての悟性だけが仰々しく居座っているケースが多い。
 その性質が、学問の本質を実質的に支えているはずの、自然科学の研究社会において、むしろエンハンスされているのだから、理系の大学生・大学院生のモチベーションは下がる一方だ。

 学問の根幹は「宗教」から派生した「哲学」だ。
 我々、特に自然科学を志す者達は、深遠な真理を掌握するために、すべて信じてしまえば良いという発想を棄却し、実的に疑いながら真理を探究する方法を、ここ約400年間、模索中である。
 そして理学においては、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷の発明の賜物として、感性できちんと捉えられる世界を精緻化していき、ついには深遠な真理、原理的に感性で捉えられない領域であるはずの「時空とは何か?」「生命とは何か?」といった超越論的Ideeの解明の一歩手前までやってきているはずなのだ。

 しかし、俺の感性を使って自然科学の研究社会を観てみたら、ゴール一歩手前にも拘らず、多くの仲間たちが未だ「信じること」に縋っているように感じる。
 そもそも、「価値」に関するディスカッションを真剣に行っている研究会を、俺は観たことがない(例外は1,2回あるが)。確かに、それがどう理解されるか?、どのような技術で達成されるか?、についても等しく重要な話題なのだが、そもそも価値があるのか?、ということをきちんとディスカッションすべきだと俺は思う。
 研究内容のそもそもの「価値」については、歴代先輩方や分野や教授やプロジェクトリーダーや欧米を「信じて」しまっていて、研究とは名ばかりの作業をこなすことが重要であることが暗黙のルールになってしまっている。

 「無意味な積み木」をしている研究テーマや分野に守られているがゆえに存在していられる研究テーマを、悟性を使ってどんなにストーリーだててその価値を主張しても、必ずボロが出る。だって、誰の感性も、その価値を本当の意味で納得できないのだから。

 純粋理性批判において、人の理性は原理的に感性では把握できない事柄における悟性を本質的に欲する。
 現代社会、俺らは感性そのものが失われ続けてしまったために、そんな高級なことではなく、本来感性によって把握できる事柄すら見逃し、そのままの状態でハコだけをキレイに造ろうとしているのかもしれない。

 だとすれば、逆に、自分以外の誰かをきちんと信じることができれば、それは感性を取り戻すきっかけになるし、そうするためにはやはり「価値」についてきちんとディスカッションすることが大事だと思う。
 それこそが、アドバンテージ俺ら!

 信じるものは救われない社会だからこそ、信じられる人を大切にしていこうじゃないか。

 このホンモノは、必ず超越論的Ideeの事柄について解明することを達成し、まだ人類が誰も味わった事の無い、本当のモノづくりをした後の独特の達成感を得られる、と信じている。

 (いつもスイス風が多いですが、今日はドイツ風にしてみました。)
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公開実験を中心とした「顕微鏡観察学会」立ち上げの構想

2014-03-17 03:59:08 | 自然科学の研究
 夢は書いてしまったほうが叶いやすい。そして、夢を持っているなら、みんなに言いふらすことが大事だと思う。
 だから、今日は、俺の夢を話してみようと思う。具体的で頑張れば実現可能である夢を。なるべくなら3~7年くらいで達成したい。

 俺の具体的な夢は一言で言える。公開実験を中心とした「顕微鏡観察学会」を立ち上げたい
 これを達成することで、俺の手元にコスパーよく、透明性の高い本質的な実験結果が勝手に入ってくるシステムが出来上がる。

 俺は学会に行って「公開実験」というシステムが無いのが一番残念だった。
 顕微鏡観察くらいなら、研究者・大学院生・学部生に向けて、100~200人くらいが同時に、みんなでその場で重要な実験を見学することができるんじゃないかなっとずっと思っている。


 まず、自然科学における研究社会の今の現状の問題点を以下に述べ、その上で、公開実験を中心とした学会を立ち上げることで、解決される点を挙げる。

 問題点[1] 捏造し放題な研究成果

 最近のSTAP細胞についての報道で、捏造し放題な実験研究の現状と問題点は述べるまでもないと思う。今の実験研究は、実験者・研究者の性善説が前提となっており、そのチェックをすることは、これだけ多くの分野が存在している研究社会のなかで、原理的に誰もできないし、無法地帯と化している。STAP細胞の例は氷山の一角であり、もっと巧くばれないように薄暗闇に隠れて捏造しているクズ研究者は、特にシニアの先生方を中心に、実はとても多いと俺は思う。
 捏造とか改竄って、ほんのちょこっとだけエンハンスすることから大胆なケースまで様々で、それをいちいちチェックするなんて、今の研究のアウトプットの仕方では無理だ。

 しかし、みんなの前で実験する場を作れば、簡単に改善される。解析も全部みんなの前で行えるようにすれば、そもそも捏造自体が減ると思う。論文で大々的に発表しているのに、公開実験を断るようなら、それは捏造を疑われても仕方ない、というような空気感を創りたい。

 問題点[2] 本人達にとって都合のいいストーリー

 いま、同一研究室で出版した原著論文・学位論文、学会発表の多くのイントロダクションがほぼ同じであるような、無意味な作業が研究業界では横行している。こんな現状で、学生が主体的に研究に取り組めるわけが、そもそもない。大学院生を学生ではなくコスパーの良い作業員だと思っている大学の教員はとても多い。どこの研究室に入ったかが唯一大事で、そこでワーカーホリックになることが成功への近道、と推進しているような我が科学立国なのだ。
 多くの日本の大学の教員は、同じストーリーや同じ内容でしか英語で論文を書くことができないために、こういうことが起きているんじゃないか、と疑うレベル(笑)。

 実験の観点からすれば、自然現象にストーリーなどそもそも要らない。その現象や物理法則をいくつかの論理で簡単に示せないなら不必要な研究なのだ。
 ストーリーを造ることが大事で、そういう書き方を学ぶ場が大学院教育であると主張する、やる気の無い教員・研究者は、いますぐ大学・研究機関から去れ。カネを払ってるのは我々であって、大義名分のつけ方や誤魔化し方を学ぶために大学に来たわけじゃないし、それらを社会に提供させるために、てめーらに税金という名のカネを払ってるわけではないのだから。

 我々は、何らかの重要な自然現象を解明するために、新しいモノづくりをするために、研究を遂行している。それが最も大事であり、こういう当たり前さを忘れちゃダメよねん。
 本人たちにとって都合のいいストーリーを造り、自分にとって都合の悪いデータは無条件で捨て去り、無意味にデータ数だけを沢山稼ぎ、そういうことを推奨することで生き残るために、わざと無法地帯化させている今の研究の現状を少しでも変えたい

 そのためには、シンプルに、みんなで、自然現象を観ようじゃないか、っと俺は思うのだ。

 そうすれば、少なくとも今よりは、透明性が上がり、「あれ?意外と視野を探さないと見つからないのね。」とか「10回に3回くらいしか成功しないのね」とか、そういうことが共有でき、理論研の人達に対して正しい自然現象が提供され、自然現象の理解に大きく寄与すると思う。

 問題点[3] 共著者のコントリビュートのばらつきについて

 いま、論文でも学会発表でも、ファーストオーサーとラストオーサー以外大した業績にはならない。これに意義を唱えるキレイゴトを並べんじゃねーぞ、マジで(笑)。
 しかし、公開実験での著者は、公開実験に参加しないわけが無いので、必然的に業績や功績として評価されるようになる。しかもみんなで観る訳だから、どれくらいコントリビュートしているかは、その分野の人であれば、一目瞭然だ。

 現状、研究のアウトプットは主に、原著論文と学会でのポスター発表や口頭発表。これは発表の仕方が決まっていて、イントロ書いて、結果書いてー、ってよーするにストーリーが重要になる。これだけなので、実験技術がとても優れていて、その人しかできない技術みたいなものが一切評価されていない現状なのだ。
 みんなの前で実験するためには、めちゃくちゃ器用じゃなきゃいけない。その緊張感に耐えられるような実験者は評価されるべきだと思うし、そういうチームも評価されるべきだ。

 公開実験をすることで、共著者のコントリビュートが明らかになり、公平性が増すと思う。


 さて、次に、どういう感じで、学会の公開実験を実行していくかを述べよう。

 1.企業ブースとの併合

 今、ほとんどの学会の企業ブースは意味が無い。わざわざ顕微鏡や装置が揃っているのに、どうでもいいサンプルで、「あー観えますね」って言って、パンフレットもらって、ボールペンとかもらって、終わり。何も価値が無い。

 でも、「あのネーチャーに載った有名な実験が、今度学会で公開実験するんだって。装置は、オリンパスのを使うらしいよ」「あ、こっちの公開実験は、ニコンとキーエンスのを同時に使うみたい」ってなったら、企業側のCMにも一役買えるし、何よりも「どの顕微鏡がいいか?」というディスカッションになる。

 2.公開実験レフェリーの設置

 公開実験には、成功・不成功を判定するレフェリーを何人かつける。これによって業績化し、いずれは、実験研究者最大の業績を「公開実験の成功」としていきたい。
 審査の仕方をどうするか、これは大事なんだが、まだ思案中。とりあえずは、原著論文と同じデータをみんなが観ている公開実験の会場で出せたかどうか、で判定したらイイと思う。

 3.インカムと録画

 第一実験者は、インカムで、みんなに説明しながら実験をする。
 聴講者およびレフェリーは、実験中の質問時間に、第一実験者とラストオーサーに質疑応答ができるようにする。そうすれば、リアルタイムで、その実験の臨場感をみんなで感じることができる。
 録画して、その動画を公開して、必要で重要な実験は、いつでも誰でも観れるようにする。


 っというのが、俺の夢でした。大したことないな、くだらない、無謀すぎる、、って笑ってみて?

 この夢を叶えられるかどうかは、みんなの自然科学が好きという純粋な気持ちにかかっている。

 ほんのちょっとだけでも誤魔化して行きながら、自分が研究の世界で生き残るための大義名分をつけながら、今のシステムの中で、なぁなぁに、ただ単に研究者として生き残りたいという人が多ければ、絶対に達成されない

 明らかに透明性を上げるシステムを創ろうとしたときに、それが実現できないならば、それは、自然科学が好きじゃない、何かで成功したいだけの人間が、たくさん研究者として無意味に生き残っている証拠であり、そんなんなら、研究社会など凋落してしまえば良いと俺は思っている。
 いや、俺が生きている間に、日本の自然科学における研究は、必ず凋落する。そのときに、唯一立ち上がれるのは、透明性をあげてあった、必要な研究のシステムと研究内容に予算がかけられていた、という事実のみだ。

 さしあたり、規模を最小限にすれば、100~300万円くらいあれば、できてしまうと思う。
 科学立国、日本の未来のため。だから、誰か、ギブミーマネー。(笑)
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ここからはじめよう

2014-03-16 05:01:43 | Weblog
 ひとつ、、大事なもので、行き詰ったときこそチャンス。
 それまでの方法では超えられない事実に気がついたなら、その数だけ、乗り越えるだけの新たな能力を見つけ出す希望があるのだから。

 どんなことでもグルーヴを感じることが大事で、そのなかでの価値観を自分に取り入れないなら、能力アップはできないし、自分が所属する系がより良くもならない。

 コミュニケーション能力を向上させたいなら、過去にノリがめちゃくちゃイイ人達にバカにされたことを超えるほどの、人と人とが集団化していくと楽しい、という価値観を得なければ、本当の意味では無理だ。そりゃ無難にやり過ごす意味でのコミュ力ならいくらでもつくけどさ。
 バラードの心揺れる感覚を得なければ、バラードをロック調で歌うことしかできず、それはグルーヴを無視した音楽になってしまう(逆も然り)。
 すべての自然現象はたったひとつの理論で扱えるはず、という絶対的な真理の存在を(とりあえずは)信じてみなきゃ、いたずらに式を覚えたり計算したりすることしかできず、自然現象に対して枚挙的な「それぞれ論」しか展開できないだろう。

 そう、価値観そのものを変えなきゃ、新しい能力なんて、つくはずがない。

 試験前夜に大勢の友達とファミレスで勉強してるヤツらを心ではバカにして、自分一人コツコツ作業的に直前の暗記を詰め込んで、それでイイ点数をとってこっそりニヤついてるような価値観のままでは、Aグループの心得が得られないばかりか、本当の意味での成功なんて、幸せなんて、掴めるわけがない。

 しかし、価値観さえより良い方向へ変われば、誰だって助けられるし、ぼっちにならない。

 目をつむって、グルーヴの風を感じて、その価値観を直接肌で感じることが大事なのだ。
 俺らは行き詰っても、涙を流しても、その数だけやり直すことができる。失くしてもまた探せばいいし、どんなことでも一人じゃない。

 もう一度、同じ空のなかで、同じ空を見上げながら、僕らなりに歩き出そう。
 そうすれば、本当の意味で、みんなで優秀になっていけるのだと思う。ここからはじめよう。

(PV) 涙の数だけ full of harmony


涙の数だけ ARMONIA


涙の数だけ - Union Jack (ラストライブ Melody Flag 4)
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科学における不正行為 -STAP細胞の報道について--

2014-03-15 05:00:29 | 自然科学の研究
 『あのー、はっきり言いますけど、そういうデータの見せ方ですと、、あくまで極端な話ですよ、データの捏造や改竄だと勘違いされても仕方ないと思います。』

 研究の世界に入って5年。捏造とか改竄などの科学における不正行為の言葉を、サイエンスの会合の場で俺が発言したのは、たったの1回だけだ。まぁ、こういうことを言えば、無難な他の聴講者がざわつくわけだけど(笑)、そういう空気がそもそもいけないのかもしれないね。
 もっともっと疑って、偽造をすることを前提に色んな事を考えなくちゃいけないんだろうか?

 昨日の理研のSTAP細胞の疑惑に関する中間報告の記者会見、他の作業をしながらではあるけど、ほぼ全部観ました。
 記者って、すごくちゃんとオフェンスするんやね、ってのが正直な感想で、だいたい俺が言いたいようなことはきちんと質問が出てたし、誰か一人の責任に落とし込んで済ますような流れではなかったと思うから、かなり希望を持てました。

 この件に関しては、自然科学における研究、まぁ少なくとも実験研究における重大な事件であって、これを機に、様々な科学の習慣を考え直さなくちゃいけない。

 俺が権威によるくだらない空気や慣習を突き破ってめちゃくちゃ本当の事を言うよりも、ぜんぜん、世間一般の大衆に任せるのが最もコスパーの良い透明性のある科学へと変わっていける方法なのかも。

 研究に関わる人は、決して、STAP細胞の疑惑を、他人事のように扱わないでね。
 同じ理系でも、他人の事は、どーせわかんねーし、そんな暇じゃねーし、って一般聴衆と同じ反応をしていても平然としていられる、その態度こそが、こういう問題を引き起こすのだから。
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心裡留保しないで

2014-03-14 02:14:47 | Weblog
 混じりっけの無い純粋な気持ちで、一歩踏み出してみたら、現実世界に冷たくあしらわれる。
 すると、期待しないほうが傷つかないことに気がつき、理想を描く自分に所詮は空想だと冷笑しながらも、理想を胸の奥に宿し続けて、理想と現実は違うんだ、いつかきっと、って自分に言い聞かせるように日々を過ごすようになる。

 期待をしない、ってことは、自分では選ばない、ってことだ。

 だから、腰を上げなくても手に取れる範囲から選ぼうとするし、あわよくば選ばれようとしてしまう。手っ取り早い選択肢の中から選んだくせに、そこに即物的にはホンモノっぽい情景を描くことで、共有すべき空間であっても、理想を自分の中だけに落とし込んでいく。
 スゴイ解析ができる実験器具、観ているだけでウットリする夜景、あらゆる種類の音色がでるエフェクター、どんな高価なアクセサリーやマイホームや、ディズニーランドだって、それらだけを求めて、共有したとしても、幸せには絶対になれないのに、日々にホンモノが存在しないかのように感じれば感じるほど、そういう即物的には高評価を受けている事柄に縋って、自分の中だけのおとぎ話へと落とし込むことに慣れてしまう。

 そして、明確な結果が出て、みんなから称賛されて、その声が途絶える瞬間に気がつくのだ。こんなはずじゃなかった、これじゃぁ本末転倒だ、ってね。
 明日から、もう少し待ってみよう。そうしたらもしかしたら、突然ホンモノが目の前に現れて、色の無い世界から色鮮やかな世界へと激変するのかもしれない。それまでは、現実ってそんなもんなんだよ、って割り切ろう。っと期待しながらも、期待してはいけないんだっと言い聞かせ、眠りにつき、またひとつ、夢と現実が遠退いくのを感じるけど、どうにもできない。

 こういう願いが、ごくたまに叶うことも確かにある。突然やってきた変化についつい振り向いてしまって、その後で、過去に振り払った理由を想い出していくから、また選ばせようと試みることが最適解。別に選んで欲しいわけじゃないから、イコール、期待しないぞ、という自分への気持ちと考えの中間が、そのまま具現化していく。

 あの頃にあなたがよく言ってた願いと理想の約束は今はいったいどうなったの?
 っと聞いてみたい気持ちに相反して、無駄に賢い自分の頭が心裡留保という4文字をはやとちりに掃き出す。

 そうだよね、自分の理想と現実の境界も観えていないのに、相手の言葉なんて、具現化する予定の無い理想なのか現実の未来を見据えた上での理想かなんて、わかんないもんね。

 でも、そう言ってたじゃん!!

 それをそっちだけに求めるのは間違いだってわかってるんだけど、こっちのレゾンデートルを最低限守らせて。選ばせたくせに、って優しいあなたならきっと言わないんだとすれば、選んだのはそっちなんだから、それくらいはいいでしょ?、っと正解は教えずに自己完結していく。
 結局、自分の人生なんて、そんなもんなんだ、って思いながら、そう思うことに気持ちよさすら感じている自分を不可思議に感じて、また眠りにつく。

 また明日待って、、いやいや、期待しないぞ!
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理解は実存するのか?

2014-03-13 04:12:07 | Weblog
 繰り返しを恐れずに主張するが、「優秀」とは「優しさが秀でている」と訓読するのだ。則ち、「優秀」とは、レ点をつけて「能が有る」と訓読する「有能」とは、一線を画する。
 そして、有能であることには何ら価値が無く、いかほど優秀であるか、どのように優秀であるかということで、その人の歩む人生の価値が決定されていき、この定義上において高評価な軌轍を注意深く観察し自らに取り入れ続けることこそが、徳高き人生を歩む秘訣であると俺は思う。

 最上級の優秀さを具体的な事象にアプライしていこうとしたときに、人類にとって最も重要な事象こそが「生命とは何か?」という問いに答えることであると俺は思う。この問題の解を(何ページ、何行などではなく)短い言葉で述べることができるようになることこそが、理学の最終目標を達成する上で、最もコスパーがイイ。

 というか「生命とは何か?」、この問いの本質的な重要性を、多くの人はわかっていないんじゃないかと思う。
 何事も最期を見据えないといけない。この問題が、もはや問題ではなくなる最期とは、どのような状態だろうか?

 『だって、地に足のついた論理体系をきちんとわかっていないのに、新しいことの必要性が本当の意味でわかるわけないじゃないですか?』
 「なんやねん、その地に足のついた論理、って?」
 『各理論どうしが成り立つ、ってことです。』
 「そんなんしなくても、成り立ってるでしょー、そこらじゅうで。そもそも、頭の世界だけで理解されたものがいかに素晴らしいモノであっても、めっちゃピュアなベーシックな理論が実存したとしても、必ず言語を通してみんなに伝えられる。それが(賢い人にとってみたら)存在しているんだという立場と、そんなん理解されない限り意味がありませんという立場が、必ず共存するようになる。だから、そっち側の立場があるんはわかるんやけど、結局のところ、(多くの)人の中で理解されて初めて、それが実在するんやって。」
 『うーん。それはどうっすかねぇ。』
 「いや、ちゃうねん。そうやって、思ってんねん。っていうんは、、如何に素晴らしいベーシックを語る理論でも、そんなん脳が創る幻想です、ってなったら何も言えへんやん?我々の理解っていうのは、自分たちでは理解してると思ってるけど、所詮、脳が理解してると思ってるだけの、すごく幻想に近いことなんだよ。そう思った時に、君の言ってることはすごくわかりやすいんだけど、それすらも脳活動が創った非現実である可能性があるわけだ。だから、はっきり言わせてもらえば、お前の言ってることなんてどうでも良いじゃん、って思っちゃうわけだよ。」

 俺は、そこまで考えられるんなら、わざわざそんなことを、数式で記述される物理法則が理解できないことのイイワケにしなくてもいいんじゃねーか?と思ったが、俺の優秀さがその発言を呑みこんだ(笑)。
 いやまぁ、真面目に本当のことを言うと、実存を示す行為こそが本質であり、理論は価値が無いとまで言い切る、若さ漲る勇ましいフィールドワーカーの姿に、俺は息を呑んだのだ。

 研究とは理解と実存を連続的にしようと努力する行為であると俺は思っている(理解の精緻化を理論屋が担い、具現化を実験屋が主に担当する)。
 とすると、最終的な状態を考えたときに、「生命とは何か?」という問いほど、この本質を射ている問いは他になく、しかも、その表現方法すら、我々に知見を与えてくれるのだ。

 理論と実験を繰り返していかなきゃ自然科学の研究が本質的には進捗しないのと同じで、何かを理解したとするならば、その理解の機構を実験的に理解することが必要で(ここに理解における絶対的な客観性が生まれる)、それをその理解した何かへとフィードバックしなくては、理想的な本当の理解とは言い難い。
 なんやったら、これをk回繰り返し、n-1回目とn回目が同じ結論になるまで理解を繰り返す、つまり、理解を理解とその具現化が創る場でself-consistentに解く、というのが一番本質的であるのかもしれない。(これ後で読み返したら、絶対分かんないヤツだ笑)

 いや、だからといって、俺は、脳科学がとっても大事です、なんて主張をする気はさらさら無い。
 ただ、「生命とは何か?」というガチの明確な答えを得る最終的な局面では、必ずこの問題「理解は実存するのか?」にぶち当たる。そしてそれを超えられさえすれば、一言で「生命とは何か?」に答えることが可能になり、もうそれで、理学を研究する意味はなくなるのかもしれないね。

 まぁ、そうなるまで、どんなに少なく見積もっても、あと10年はかかるだろうから、なるべく頑張って優秀さを磨きながら、飽きるまではこの世界にいようと思う。
 唐突に訪れたバカンスは終わりを迎えようとしている。得たものは大きいが、そろそろ俺も前線に戻らないとね。

 何事も、数式も化学式も実験操作も、自然科学以外のことでも、何もかも、最低でも少しはかじってみなきゃ文句すら言えない、と、俺の優秀さは語っているのだから。笑
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