たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

PT2012

2012-12-30 02:32:54 | Weblog
 今年もあとわずかです。1日早いですが、今日の方が適切な気がするので、2012年の自分についてまとめをします。

 今年の目標は「時間を超える」ことでしたが、どうだったか?と自分に訊いてみると、全然達成されていません。
 そもそも浪人してるし、時間を超えるもくそも無いんですが、まぁでも、少なくとも今年で、その指針を立てることはできたかなっと思う。こういう風にしていけば、人よりも早く、ってなれる感覚は掴めている。
 来年もとりあえずはこれを目標にしようと思います。どこで刻むかによって勝敗は変わるけど、ここからぐっと達成していかなきゃいけないし、逆に言うと時間はもう殆ど残されていないなってことです。いくつかの意味で、あと1年間、ってのが一つの区切りだって思っています(このタイムリミットは実質的にはおかしいけど、たぶん未来に向けての感覚的には適切だと思う)。

 今年は何と言っても、また「転換」の年でした。ラボを変えて、心機一転しました。上手く変化できて本当によかった、これを観てくれている人の中にも含まれているはずだけど、みなさんのおかげです。
 とは言っても、俺にとっては「転換」というほど転換していません。これまでのほうが遥かに大きく転換してきているから、ほんのちょっとの努力で済んでいるけど、普通だったらもっとキツイはずだよね。そういう意味では、これまでの転換に寄与してくれた人にも感謝です。それは、追い出そうとした人や批判してくれた人、俺が変わることに対して心の奥底からムカついてくれた人も含めてね。

 新しいラボでの新しい人達が結成されてから準拠集団(自分もしくはみんなが心からこの集団に所属していたいと願う集団)になるまで、1~2ヶ月くらいしか時間を使わなかったのも、すごく良かった。これも俺が「時間を超える」ことを意識していたからだったら嬉しい。研究室を準拠集団化するって、かなり難しいことだと思っていたけど、学年が上がったせいなのか、そういう能力が高い連中が揃ったからか、わからないけど、『とりあえず掴みはOK』ってなるまでが最短スピードでした。
 この人がいなくなったら、この人と会わなくなったら、どうなるの?、って3月まで思っていましたが、実質的に減らされた分以上に、素晴らしい出会いがあったことに感謝しています。
 さらに、尊敬する人が飛躍的に増えました。(昔よく使ってた言葉で言えば)部分尊敬がかなり多くなったのと、久しぶりに、絶対的な総体的尊敬をしたい人に気付くこともできました。

 今年は色々な系に対して、『意味があるのか?ないのか?あるなら、どんな意味なのか?価値がどれほどあるのか?』をずっと心の中で繰り返していました。後輩たちに真似されるほど『意味あるんですか?』って実際にも口に出していたほどなので(笑)、そのせいでラボ内には迷惑をかけたかもしれませんが、自分にとっては、意味のあること、価値のあること、はかなり具体化されたし、役に立ちました。来年は少し保留かもですね。
 そして、これは自分でも意外なことですが、物理学についての思考力がここに来て、また上がりました。今年だけでいくつか新しい分野も理解したし、何よりも沢山使いました。よーく考えれば、表題だけで言うと、生物物理学の研究室から有機物性化学の研究室に来たので、俺が物理を使うシーンが増えるのは当たり前なんですが、物理学ってのは他のどの学問分野でも得られない偉大な力を秘めているな、って思います。

 今年は国際交流も多かった年です。外国人と喋らさせてもらう機会がかなり多かったです。初めてヨーロッパにも行ったしね。
 本当に色んな人がいるなっと思います。外国人に対して、本当の意味での個性を感じ取れたのは、今年が初めてかもね(これまでは、どこか外国人でひとくくりにしていたかも)。それと意外と海外のほーがめんどくさくないかもって思ってきています。直接言っても相手が傷つかない、しかも英語だから直接的に言うしかない、って状況は俺にとっては簡単で有難いです。
 ただ、知ってる人は知ってますが、ある理由があって、僕は海外があまり本質的に好みでは無いので、向こうに住もうとかそういう風には思いませんが。

 共同研究についてですが、そもそもは自分が言いだして、やらせてもらえて、ここまで結果が出てくれるとは思いませんでした。完全に周囲の力ありきですが、その中で、自分ができることをやっていけたかな、っと思います。
 全然満足はできていませんが、ここから、もっともっと色んな角度からのリスクに挑戦していきたいし、繰り返しの実験ではなく、日々実験系を切り開いていくような力をつけたいな、って本当に想えるようになりました。

 思えば、多くが、あっという間に変わった、1年間。
 いつのまにか新しい研究室のど真ん中で、堂々と笑わせてもらえている自分に気がついた時に、『今、心から笑ってる。これをずっと望んでいた。もう集団に対して大義名分は要らない。変わって良かったな。』って思ったのと同時に、『変わってしまったな。』っと実感することも多かったです。
 それも、これからの課題。この12月、その問題に着手してきたけど、解明すればするほど、強敵だなって思って、指針が立たなくなっていく。

 ある程度の信頼関係があったのにも拘らず、今回の変化で、喋らなくなってしまったり、会わなくなってしまった何人かの人とも、心の底では、この集団みたいに、ほんのちょっと前みたいに、一緒に笑いあっていたいな、って気持ちが確かに大きく存在している。だけど、時間は残酷に経過しているし、変わりゆく。
 俺が時間を超えていれば、って思うけど、昨日も書いたように『なんかイヤだな』って気持ちから逃げないできちんと解析すると、この選択とこの結果は正解なのかもしれない、っとも思うのだ。というよりも、そう想うしか心を安定に保つ術はない。

 変わること、変えようとすること、発言すること、意見すること、など行動することは何だってリスクだ。
 それが単にゼミでオフェンスすることでも、誰かに正論をぶちかますことでも、ラボを変えることでも、あるいは予定をいきなり変えることでも、俺は簡単にやってのけているように観えるかもしれないけど、未だにすべて怖いし、リスクを抱えながら行動をしている。
 それでもそれらができるのは、そうすることがより良いことだと信じているからだし、その選択こそが誤魔化さずにホンモノを掴み取ることだと思っているから。

 ホンモノ。定義が変わってしまった、変わることができた、この言葉も、これからも追求していく。
 来年がもっともっと飛躍的により良くなるように、頑張っていきたいと思う。
 ただ、実質的にはかなり価値があるモノが得られなかった直後に、ある施設に行って、本当に『意味があること』が優しい想いであることを明確に思い知らされて、やっと気がつくようなことは、二重の意味で、来年はもう無いと思いたい。

 では、みなさまも、良いお年をお迎えください。
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「なんかイヤ」の解析を怠らないで

2012-12-29 01:16:32 | Weblog
 なんかイヤだな、って思ったら、その原因と感情の回路をきちんと解析すべきだ。

 この発言がなかったら?、とか、こういう表情や態度が無かったら?、とか除外していって考える。そういう中で、これだ!っと思う原因と背景について、それを基にお話をまわしてみて自己矛盾が無かったら、それが、なんかイヤだな、って思った原因だ。
 一晩経てば忘れちゃうよ、っていう人なんかよりも、原因と結果について論理性の中から導き出した分、よっぽど賢くなれる。そして、そういうことを友達にわかりやすく説明させてもらうことで、言語化の技術がつき、実際に解決にも結びつく。

 なのに、事なかれ主義になったり、怖いから自分が我慢すればイイや、って思っていれば、いつまでも系は悪いままだし、より悪い方向に行ってしまう。

 ≪えー、じゃぁ、その中にいる人も悪いって思ってるの?≫
 『そりゃもちろん、俺も含めてね。そうねぇ、トップと他のみんなと、ちょうど半分ずつくらい悪いと思う。10年以上続く連続性の中で、いいわいいわで、一人一人が自分勝手に、自分が我慢すればいいやー、寝れば忘れるやーって、バカみたいにやってるから、結果的にあんな怪物を生んでしまう、とも言えるんだよ。』
 ≪やっぱ厳しいっすね。笑≫

 自己矛盾なくお話を創ることはお話を創る上での基本だ。でも、小さすぎる世界でSelf-Consistentでも意味が無い。どんなに美しくお話が創れたんだとしても、この石ころのなかだけで閉じてるんです!、って話に意味は無いでしょ?(ということは当たり前のはずなのに、正統派みたいな研究に、こういうことはよくある、っと最近感じている。)
 いくら背景を考えるっていっても、その人の家庭環境や育ってきた歴史、プライベートな内容までは(殆どの場合で)踏み込めない。だとしたら、そこにある即物的なことだけで過去を辿るしか術はないのだ。

 誰が原因で、誰がその反応を進行させてしまったか、自ずと掴めてくる。
 表面的にしか検出されないデータの中から、価値のあることを見つけるのが、誤差論の真髄。

 物理学科出身者のなかでも、その大多数が嫌がる誤差解析論を、俺が大好きで得意で、それがアドバンテージになるのは、研究に限らないのだ。

 そもそも、、なんかイヤ、って気持ちに対しての解析方法は、まさに誤差論と似ているから、だから誤差論は好きなんだけどね。
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慧眼さの対象

2012-12-28 00:49:55 | Weblog
 負けたくない!という気持ちをどこで活かすかは人それぞれだ。
 今負けていたことを認めて1から誰かと協力し始めたり、自分一人で打破できる部分を探してみたり。

 そんなときに、正当的に、みんなで、って思えなくて、即物的なことで上であることをアピールする手法は、大抵の場合はうざったい。でも、適切な距離感、時間の幅や役割を考慮した上での行為であれば、好感度が上がる。
 そんなに真剣に思っていてくれたの?、って気持ちが分かるから受け入れたくなって、信じたくなって、可愛く思えるなら、それはイイ方向に向いて行ってるのかも。

 すると自然と結果は後からついてくる。
 不思議なことに、自然科学は、観測者の感情に左右されているかのような振る舞いを出すから、面白い。

 こういう力学系こそが、何かの検証実験を行う前に、成功するか失敗するかを見抜く、微妙な指標なんだと思う。
 このような論理的な思考を超えた慧眼さを、興味ある系そのものと、その即物的なインタラクションに使用していきたいと想っている。

 この場合、興味ある系は、自然科学の方ではなかったりするけどね。
 だって俺も、負けたくないから!
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ヤラセはどこまでアリ??

2012-12-27 01:03:54 | Weblog
 誰かとの信頼関係を保ちたいときに、相手に合わせる、ってのはイイことだ。
 自分が好きでも無いことを必死に勉強したり、興味無いこともgoogleで検索して調べて、慣れない道具を使いながら、必死でコミュニケーションに追いつこうとして、「(あなたにとっての)普通ってなに?」を追究する。泣けちゃうくらい切ないその努力が悪いことだとは思えない。
 大義名分を創って、少しでも合わせて、それでも?

 「創る」と言えば聞こえはいいけど、目的を見失えば、それは「ヤラセ」だ。
 だから、秩序パラメータの得られるべき函数である二次函数をプログラムの初めに投げたり、DNAとインタラクションするようにカチオン性の膜分子で創ってみたり、解けるからって微分方程式の次数を下げたりするのも、目的がはっきりしていなかったり、それらを方向性の根幹的な部分で行っているなら、全部ヤラセで、はっきり言えばズルだ。

 何かをしようとしている中で、技術的な側面や、とりあえず段階的に「創る」ならば、還元主義に毒され過ぎな気もするけど、まぁOKになる。
 でも、それ以外で、起こそうとして起きたことが、どんなに素晴らしく美しい現象が起きたんだとしても、予想とほんの少し違う部分で何かの哲学に落とし込んで共感を求めに行っても、複雑な数理を用いて書いたのだとしても、それには価値が無い。技術とヤラセを勘違いしてはいけないよね。

 信頼関係を保っていたいから相手に合わせました、でもそれ以上は何も無しっ!、が受け入れられないのは、ヤラセっぽいからだ。大義名分を創って、それでどうしたいの?って思うんでしょ??

 でもさぁ、その先の目的を、単にそこで教えてしまえば、それこそ完全にヤラセになる。
 求めているのは、この「創る」ことと対等な成分の何かであって、「創る」ことと同じレベルの何かをしてくれたなら、ネタばらしをしたらイイ、って思っていたりする。そして、それが何も無いなら、大義名分は大義名分のまま、ヤラセはヤラセのままにすれば、実質的に傷つかなくて済む。
 リスクゼロなのがムカつく?笑
 いやいや、そこまでの思考をしている時間とエネルギーで、十分すぎるリスクだろ。じゃぁ、やってみろし。

 本当の本当は、どんな系でも、いっさいの、無理矢理な行為を、したくない。
 ホンモノはきっと、自然と、好きなモノと嫌いなモノとどうでもいいモノの一致不一致が良い感じで絡みあっているって信じている。それは、目的物と同濃度の要素をその時間にすべて封入すれば、それなりの振る舞いが返ってくる物理現象であって欲しい、というのと同値だ。。
 大義名分を考えたくないからこそ、相手に考えていることの方法論を部分的にバラすのだ。バラすほどの信頼関係があって欲しいなって願いながら。

 これも還元主義に毒されているからいけないのかもね。「世界はわけてもわからない」
 数々の系で、独立に自己組織化されたモノ同士が、自然と一体系に帰着されるような運命論を心のどこかで信じているから、乙女だ、っとか言われるんだろうな。笑
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過去と現在からの連絡

2012-12-26 02:23:27 | Weblog
 長い時間のなかで、受け入れたリスクや手にしたベネフィットを忘れてしまうことがある。
 不公平とか本気で悔しいと思ったり、逆にツイてるとか楽しいって思うなかには、その前に確かに、受け入れていたり、得ていたりしているのに、それが長い時間経っているから、すぐに認知できなくて、世の中って混沌としてる?って思っちゃったり。

 俺は、ついこの前、この選択をするときに、リスクを受け入れた。
 普通にずっと同じところにいる人よりも能力が下がるかもしれない、よく知らない他人に今よりもっと信用されなくなるかもしれない、そして、あの場所を諦める、って(リスクじゃない確定事項である)事実を受け入れた。
 そういうことを忘れがちだ。負けて、逃げてきたんだ、ってちゃんと思いださないなら、変わった意味が無い。

 リスクやマイナスは確かにある。でも、それ以上のベネフィットを得ているじゃないか。
 途中からなのに明るい笑い声の中にいさせてもらえているし、正当的な思考だけをすれば良いような環境にいれて、価値のあるディスカッションの数が飛躍的に増え、きちんとした能力者のもとに楽しめているし、隣にはいつも俺が恐れるほどの本音を俺にぶつけてくれる優しい人もいる。
 そういうことも忘れがちだ。今の場所を勝ちとっていて、このスタイルを認めてくれる優しい人が周りに沢山いるからこそ楽しいってことを認知しないのなら、変えた意味が無い。

 そして、この場所を後押ししてくれた人の存在も、当然忘れてはいけない。実空間的に傍にいなくて、精神的に徐々に離れていった、かけがえのない優しさを。もともと、そのために、最後、すべてのリスクと事実を受け入れたのだから。
 心の底から即物的なことで笑っていて、ふと視界に入ったその一瞬、表情に反映させない心の働きから、次の一瞬には履歴で取り戻せていたけど、心に確かに現れた波形を解析せずにはいられない。すべての話が終わってから、一人こっそり、考えて考えて、泣きそうになって時間が経った頃、今の場所に戻っておいでと連絡が入る。

 っそ、俺がずっと望んでいたのはこの連絡、っと思いながら、懐かしい優しさから切り離そうとする。
 その過去に観た優しい表情そのものが、この現在で連絡が入るということに寄与しているのにね。

 知らない人から信用されなくなるくらいのリスクは、ちょうどイイ。思考力不足の人や優しくない人を排除できるからコスパーが良いのだ。
 でも、、総体的に、実は、どうしたらイイのか、わかってはいない。

 頭では、どうすべきかはわかってるんだけど。
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Hark! The Herald Angels Sing

2012-12-25 01:52:59 | Weblog
 クリスマスです。今年のクリスマス曲紹介はHarkにしてみました。クリスマスの讃美歌のなかで有名だと思います。この曲を聞くとクリスマス感と教会感がすげーでます。
 今日は淡々と好きなversionを紹介します。

Take 6 - Hark The Herald Angels Sing


 まず、Take6から。
 ユニゾンからの字ハモが『おおー』ってなります。もうちょっと盛り上がりがあればなーっと思うんですが、シンプルで厳かな感じが出てて良いなーっとも思う。6人で歌ってるのがはっきりと分かる感じが、アカペラをやっている人にはウケが良いみたいです。まぁTake6だからこそ価値があるのですけどね。最後のフェイクへの入り方がカッコイイ。

Hark The Herald Angels Sing - The Blenders


 The Blendersのバージョン。
 これも同じアカペラですが、4人の割には深みがある。間奏もあってストーリーとしてはこっちのが高低差があるから好きかも。でも、ホントに4人で歌ってるの?って感じ(笑)。ベースが結構動くし、エコーが効いてるから、そう感じるだけなのか、、うーん、確定できない。まだまだ俺の音感が足りないですな。ただまぁ4人で不可能な音では無いと思います。最後フェイクが無いのが残念ですが、よくまとまってると思います。

Charlotte Church - Hark! The Herald Angels Sing


 Charlotte Churchのオーケストラver.です。
 俺の一個上の割には老けてるなーっと思うCharlotteですが(笑)、声は天下一品。最後のとこ転調しない代わりに上ハモMaxみたいな感じになるのが凄いです。「Peace on earth and mercy mild」の「mercy mild」のフェイクの仕方が神すぎる。1グルーヴに入れる、ってのは、こういうことだなって思ったりします。

Hark! The Herald Angels Sing - Mariah Carey


 最後はMariah Careyのバージョンです。
 ピアノが落ち着きます。気がつくとずっと聞いてしまうのがこのバージョンの良いところ。独特のアレンジが一番多いのがこれだと思いますが、原曲のイメージを壊すわけでもなく、Mariahの良さを失うわけでもなく、いいとこをついてくるなー、って感じ。

 今年もあとわずかですね。
 良いクリスマスを!
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研究室の選び方 - 『このラボだっ!』と決めるその前に -

2012-12-24 03:04:50 | 自然科学の研究
(2017.5.25 一部更新)
 今日はクリスマスイヴですね。なので今日は特別編として、「研究室の選び方」について書いてみようと思います。笑

 
 こちらの文章は私が学生時代(博士課程)に書いたものです。
 この文章もまだまだ参考になると思いますのでそのまま残しておきますが、最新版がありますので、そちらも合わせてご覧ください。
 →新・研究室の選び方 - 学生もポスドクも海外でも『このラボだっ!』と決めるその前に -


 僕は理系で、卒研、修士、博士と研究室を変えてきたので、理系の研究室の内部の性質について、同学年の人よりも広く深くよーく知ってます。他の研究室と共同研究もさせてもらってますので、3つの研究室+2つの研究室くらいは、なんとなくはわかっています(が、僕は理学部出身なので、工学部の方は参考にならないかもしれません)。
 さらに、物理系、化学系、生物系、とそれぞれを知ってる人も、そう多くはないと思いますので、これからラボを選ぶ、っと言う方へ、僕からのクリスマスプレゼントとさせていただきます。まぁ、学生がテキトーに書くだけなので、ご了承ください。

 ちなみに今の研究室に不満があって、やめようかどうしようか迷っている方は、研究室をやめたい理由-『このラボで我慢しよう!』と決めるその前に-もあわせてどうぞ。

 では、スタート。

 理系は、学部の3年生か4年生になると、ほぼ必ず研究室に所属します。ここで研究室を決める、っというのは、人生の1年以上を左右する大きなことですから、きちんと選んだほうが良いのは当たり前です。
 まず、大前提として大事なのは自分が「選べる立場」にあることです。よーするに賢いかどうか。これは修士や博士から研究室を変える場合でも同様で、自分の能力に絶対的な自信を持っているほど賢くなければ、研究室をこっちから選んでやるんだ!、っという気概を持つことはできません。なので、自分が納得できるまで思考力を高めておくことが大事です。その中で、やることはやってきているんだから大丈夫、っという気持ちを持つことで、ちゃんとした立場から研究室を選ぼうっと思えてくると思います。

 ポイントを重要順に書いていきます。

 1.研究室主催者PI(Principal Investigator)と相性が合うか?

 この研究室かな?っと思ったら、主催者の先生(その研究室のトップ)と1対1で話してみましょう。研究室の雰囲気が良さそうだから、とか、助教が親切そうだから、とかは案外アテになりません。なぜなら、来年にはいないかもしれないからです。確実に来年もいるのは、その研究室の主催者だけです
 最大のポイントは「優しいかどうか?」。気をつけなきゃいけないですが、あなたと喋る時、先生にとってはあなたはお客さんでしかないので、大抵の先生は取り繕います。学生や他のスタッフのことを作業員としか思っていないような最低な人間でも、優しいフリや教育熱心なフリをしますので、あまり、先生の言葉そのものはアテになりません。

 そこで、俺は、あえて先生にとってイヤな質問をすることを薦めます。『この研究室出身の先輩の就職はどうか?』『他大学から来る学生のことをどう思ってるのか?』『これまでで一番困った大学院生の話を訊かせて下さい。』
 あとは、感情で話すことです。自分が(自然科学の中で)好きなこと、得意なことについて、めーいっぱい長く喋ってみて、聞いていてくれるか?など、研究室主催者が優しいかどうかを判断する指標としては適切です。予想外のことを話してみてから、相手が取り繕うまでの2秒間が見抜くチャンスです。
 こんなことして失礼にならないのか?っと思うかもしれませんが、大学の先生なんてとても忙しいからそんなことすぐ忘れちゃうし、所属前はお客さんなんだから多少無礼でも大丈夫です。っていうか、これくらいで無礼って思うなら、先生なんてやってられないはず。一緒に研究をしていったら、もっともっとお互いの汚い部分を観たりするもんですから、本当の感情を出してみて嫌われたならそっちのが話が早いじゃないですか(恋愛も?笑)。

 主催者と話している時の、その研究室の大学院生を観るのもポイントです。その大学院生の目が、安心感で喋っているか、緊張して喋っているか。さらに、他の先生の輪にいるとき(学会やその専攻内の発表会のときなどにチェックできる)に、その先生はどう振る舞っているか?です。研究室内では偉そうだけど、年上の先生には極端に腰巾着ってこともよくあることで、こういう先生は往々にしてよくありません。
 みんなから好かれている主催者であれば、自分の学生や他の先生と喋ってるところを、お客さんであるあなたに見せたいはずです。それを必要以上に拒むようなら、少し懐疑的になってみるべきです。

 これは、これからのポイントでもそうですが、まずは疑うこと
 研究室は閉鎖的な空間ですから、一般の集団よりも「異常」になる割合が圧倒的に高いことを知りましょう。だからこそ、最終ラインである、あなたの指導教員になるかもしれない人が「優しい」かどうかは重要なのです。
 指導教員が本当の意味で優しければ、いじわるな先輩やスタッフがいても、研究室が仲悪くても、なんとかなるもんです。

 2.研究室のホームページは定期的に更新されているか?

 研究はフロンティアラインを広げる行為です。そのアピールを世に対して行うのは研究室として当然です(研究している人だけが分かればいいから、論文で十分だ!、っとオフェンスされる先生へ言っときますが、ぜひ教育基本法を読んでください。「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。」と条文に書いてあります。より具体的な内容が学校教育法に書かれており、大学院教育も含みます。人類の福祉の向上に貢献することに即していないといけないのです。だから、一般の人がわかりやすく読めるように公開することは必要です。)。HPがちゃんとしてるか、って、研究室選びで実はかなり重要です。
 有能な人材を確保し続けるためには(有能な人材は確保し続けなければならない。どんなに有能な研究者でも、ずっとその場所にいるわけではなく、いつかはPIになるのだから)、HPできちんと紹介してあって、更新されてないといけないですから。

 1年ってのがイイラインだと思うけど、1年以上更新した形跡がないホームページを持つ研究室は、やめたほうが無難です。特に業績項目が2年以上前で止まっていたり、メンバーが古いものだったりするような研究室は論外。
 人材確保、人材育成、に力を入れていない証拠です。よって、あなたもそんな研究室を選べば、雑に扱われるか、こき使われるか、のどちらかです。

 ちなみに、友達から話を聞いたりして、この研究室は絶対にありえない!、っとよく知ってる研究室のHPは、すべからく更新されていません

 3.研究室メンバーやその他HPからわかること

 まず、純血率。助教やPD(ポスドク)の人の情報は殆どの場合書いてありますから、その研究室出身なのか、どこの大学出身なのか、見てみましょう。あまりに純血率が高い研究室はやめたほうが無難です。研究は、新しいモノを創る、モノづくり的要素が強いですから他分野の人を受け入れていないなら、主催者のワンマンでやってることが多いです。
 そういう研究室はのびません。前にも書きましたが、理系の超基本として、「覚えてはいけない」ですから。先生の言うことは絶対!、ってなってる研究室に未来はありません。

 一概に言えないことではありますが、スタッフ(学生じゃない人すべて)の中で、その研究室に10年以上いる人がいるのも、あまりイイことではないです。
 主催者が何年も同じ人をずっと使う理由はそれぞれですが、まずそのスタッフは間違いなく優秀ではありませんし、偉そうな顔して世間知らずなケースが殆どです。ウザい人はどこにでもいますが、そういう人が研究室の上のほーにいるのはよくないことです。
 所属そのものが変わっている場合もあるので、ぜひ「google scholar」でスタッフの名前を検索してみましょう。そのスタッフが出してるほぼすべての文献のcorresponding author(論文の最後の著者)が同じ人であったら、純血であるっと定義できます。

 次に博士課程の学生に、「日本学術振興会特別研究員(DC1orDC2)」がいるかどうか?
 これは実直な学生がいるか?っという指標になります。もしDCがいれば、必ずHPに書きます。研究室の実績ですから。もっと言えば、その研究室主催者にどれほど支援力があるか?もわかります。
 ただし、毎年一人ずつDCがいるような研究室も、一概にイイとは言えません。学振はコネやツテが大きいと考えている人もいるからです(僕は実感としてそうとは思いません)。

 学生の出身大学などを書いてある研究室はかなり良いです。
 現実味を持ってその研究室を志望しやすくなりますし、相手もそう思って載せていることが殆どです。出身大学をHPに載せるってことは、学生にいちいち了解をとってるはずですから、コミュニケーションと信頼関係がその程度はある、という指標にもなります。
 一緒に、教育方針や「こんな学生に来てほしい」などと書いてある研究室も、良い場合が多いです。超厳しいことが書いてあっても、コアタイムがあっても、何も書かれていない研究室よりは100倍イイです。本当にバカみたいに厳しかったり、教育が曖昧だったりテキトウだったり、無駄なルールがある研究室の方針は、公開なんてできないんですよ。

 4.政治についての注意。

 色々述べてきましたが、先生の力がどれほどあるのか?も大事な条件ですよね。
 ここでも「google scholar」が役に立ちます。主催者の名前を検索して引用数の高い文献のほとんどが、corresponding authorもしくはfirst authorになっていないなら、実力も無いのに、政治の世界で上手く切り抜けているだけの人です。コツコツ、手を動かすだけの仕事をして、自分の研究室独自の仕事は簡単にまとめ、良い顔をしているケースだって多いですから、あなたもそういうことをやらされる可能性が高いです。

 分野にも注意しましょう。興味ある分野を選ぶのはもちろんなのですが、学閥や学派もあります
 あまりインターネットでも言われていないことなので書いておきますが、たとえば有機合成の分野には大きいのが2つあります。その中でイイ部分もあるのかもしれませんが、こういう性質をもろに受けている研究室で、残念ながら今のところ、イイ研究室だ!、っという話は僕は聞いたことがありません。
 誰かを神のように讃えて、その人のやり方をすべて受け入れる、っというのは、本当に信念を持っている理系学生にとっては迷惑な話ですし(何事も信じてはいけない。覚えるってことだから。)、そんなところにお金と時間をかけるなら、すぐにでも就職したほうがイイです。
 こういうのは曖昧な学問分野に多いです。解がばっちり決まっていない分野(生命系や有機化学など)に多いという意味です。だから誰かをまるっきり信用したくなる気持ちになるのはわかりますが、そこでの政治に勝っていったとして、良いポストやイイ会社に入ったところで、その人の能力に何も関係ないことです。本当の実力をつけるための研究室を選ぶなら、違うと思いませんか?

 5.研究室の部屋やその外壁などからわかること

 その研究室のトップである主催者が自分の研究室への帰属意識を持っていることは、あなたがこれから指導される身としてもっとも大事なことです。
 不思議かもしれませんが、自分の研究室なのにも拘らず、自分の研究室や自分の学生をあまり大切に思っておらず、自分の名誉や安全や科研費のことばかり考えている教員は意外と多いのです。名誉やお金はあったほうがいいですが、学生にとっては、そこまで重要なものでもありません。(むしろお金が潤沢にありすぎると、「この装置を買って結果が出てから論文をまとめよう」などとなってしまい、学生の業績や功績がいつまでも世に送り出されないケースが多い。)

 研究室主催者が帰属意識をきちんと持っていて、自分の学生を大切にしているかどうかは、研究室の中や外壁から一発でわかります。パッと見、汚れまくっていたり、研究室の外壁に貼ってあるポスターが剥がれかかっているのにそのままにしてある研究室は総じてダメです。逆に、今までの経験上、クリスマスや七夕の時などにドアの前に何か飾りをしているような研究室はとってもイイ研究室であるケースが多いです。
 また、その研究室の中の学生やスタッフと話す機会があったら、ぜひ「指導教員の先生は、研究室や実験部屋の掃除に、どの程度参加していますか?」と訊いてみて下さい。この質問で間誤付いたり、イイワケを言ってきたら、その研究室のトップは、帰属意識も無く、自分のことばかり考えている教員である可能性が高いです。
 いいですか、当たり前のことを言いますが、大学の教員は国から雇われて大学の建物内の部屋を借りているのです。彼らの職場であるんだから彼ら(もしくは清掃員)が掃除をすべきであり、学生やポスドクや他の技術スタッフが、掃除をする義務は本来ありません(大学院生以降は運営側も勉強した方がいいので掃除は率先して参加すべきですけどね)。なのに、その研究室の主催者が掃除にまったく参加しないのであれば、それはただの権威主義の教員ということです。

 また、23時とかに研究室を外から覗いてみて明りがついている率が高い研究室も避けた方が無難です(土日合わせて週に3回以上でアウト)。ワーカーホリック系の学生かスタッフがいるわけで、それを禁止していないわけですから、指導や指揮がゆき届いていない証拠です。
 新人を沢山入れようとして、「手を動かせば結果が出ます」なんて謳う研究室も多いですが、それは言い換えれば「言われた通りに実験しまくればイイ想いさせてやる」「学生をたくさん入れて作業員として使おう」と言っているのに等しく、最低な研究室です。あなたは理系にどっぷり浸かって誰かエライ人に使われるために、これまで理系として生きてきたわけではないでしょ?

 6.自分が「意味がある」と思える研究内容を扱っているラボを選ぶ

 これは必ずしも重要ではありませんが、もし可能であれば、こういうことも考えてみましょう。
 意味があると思える事は何か?と真剣に考えるチャンスは、オールフリー状態である研究室を選ぶときくらいかもしれません。

 例えば僕は、「全合成」や「ある生物種のあるマニアックなタンパク質の働きを調べる」というような研究は、分野として全部、意味が無いと感じています(異議があれば、俺に意味がある、と是非思わせてみて?)。これらについて、どうしてそう思うか?は(論理的にいくらでも説明はできますが)ここで意見することは避けますが、ある程度、そういう研究会に出てみて発表を聞いているのに、まだそう思うのであれば、それは向いていないということだと思います。
 そして、こういう研究分野は、総じてその研究をしている人たちも実は「意味無いんだよなー」って思っていて、それを勝手に一般化して「大学でやる研究なんて、そもそも意味無いもんでしょー」みたいになってるケースが多いです(こういう分野に科研費をあてるな!)。それでも分野として成り立ってしまっているので存在している、というラボも多いのが事実。研究分野があるからその分野の研究室が存在しているってのは、分野を創る行為である研究という定義からすると本末転倒なのですが。

 まぁとにかく、本人が心から「意味が無い」と思ってしまっているのに、「意味が無い」研究をしているような研究室に行っても、時間の無駄です。ただ、このページを今見てくださってる大学3年生の皆さんには、たぶん、右も左もわかりません状態だと思いますので、あまりこういうことはないのかもなっとも思います。

 ちなみに、「意味が無い」というのと、「意味はあるけど、自分は今はあまりやりたくない」というのはまったくの別です。(これは、僕が多くの理論研に思っていることですが。)

 「研究室の選び方」や、その他研究室での悩みについて、私に直接相談したいと思ってくださる場合は、相談内容を明記の上、こちらにメールしてください(_attoma-ku_を@に変えて送信してください)。基本的にどんな相談もお受け致します。匿名で構いませんが、所属や名前を仰ってくださったほうが、相談にはのりやすいです。相談内容は決して口外しませんのでご安心ください。
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スカイプでの相談もはじめました!ネットでは絶対に書けない裏事情を含め、スカイプであれば、無料で真摯に迅速かつ最大限論理的に、あなたの相談にのります!!私がこれまで実際に接してきた研究分野(物理学、化学、生物学、情報など)や見聞きしている領域、内情を知っている研究室についても、できる限り詳しく回答します。ご希望してくださる方はお気軽に上のアドレスまで、あなたの本名をお書きの上、メールしてください。私から相談可能時間とスカイプIDを送ります。皆さんの相談をお待ちしております。


 イイ意味でも悪い意味でも、研究者はみんな子供です。
 いつだって、感情の方程式は、一番簡単なバージョンの式が、最適化されますので、その点も注意ですね。

 『すごい戦略家なんですね!』
 「誰がですか?」
 『いやぁ、先生が。』
 「違いますよ。僕自身がその頃に考えていたわけじゃなくて、今だったら、こうするなーってだけです。」

 って、僕もそういうわけなんで、現実の僕を知ってる皆さん、ご容赦ください。
 まぁ、ココにこうやって公開するってことは、自分はこういうやり方を、もうしない、ってことなんだけどね。笑

 安住の地はありません。
 でも、「安住の地を創ること」はできます。それはすぐにPIにならずとも、自分が主体的に動けば、今の研究室の中で、最大限のよりよい環境を創ることは可能だと思うのです。求められていればね。

 じゃ、メリークリスマス!笑

研究室の選び方 -『このラボだっ!』と決めるその前に- 解説動画 part1


研究室の選び方 -『このラボだっ!』と決めるその前に- 解説動画 part2


研究室の選び方 -『このラボだっ!』と決めるその前に- 解説動画 part3
コメント (18)
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Time Evolution of the Green "Eye" Fluorescence

2012-12-23 01:32:53 | Weblog
 たった少しのことで、不安になったり、妬いたり、羨ましがったりする。
 ケータイをいじっていれば負けじと自分も無意味にケータイを開けてみたり、知らない誰かと話していれば自分も関係ない誰かと無理矢理仲良さそうにしてみたり、自分が持ってないモノを持っていたり知らない価値観があったりすると、自分が持っているそれとの距離感を確認して、興味ないフリをすることで安心しようとして不安になったり。

 自分が安心するだけの方向へと行為を繰り返していけば、信頼関係は崩れやすくなる。
 本当のところで確実に繋がれているなら、即物的なことに依らないはずだ。ホンモノなら、自分よりも1つランクの高いイイ言葉を持っていたとしても、自分より成功への寄与が多くできていたりとか、自分よりもグループが上だとか、可能性がありそうだとか、そういうどーでもイイ事を超えて、大切にし合えるか?が大事になるはずなのだ。
 ホンモノは冷酷に審査基準を設けている。たった少しでも自分勝手に相手に求めれば、崩れるようにできているのかもしれない。

 心の中でいつも、いったん時間を止めて、せーの、で素直に本当のことを言い合えたなら、なんてラクなんだろう、って想っていたりする。
 それはどーせ弱いことだし、ズルだし、たとえそれをすることが現実にできたのだとしても、あまり生産的だとも思えない。自分を守るために、NIBAでほんのちょっとの摂動で励起させて、別の状態へと特異的に遷移させてしまえば、その変化がまたこちらの状態を遷移させていってしまう。その繰り返しで、関係は簡単に滅びる。その繰り返しによって、終にトラップポテンシャルよりも高い励起状態となってしまえば、想いの容量が溢れるのは当然のことなのに、そうなる直前まで気がつかない。

 そんな蛍光(傾向?)を持つ瞳をみればみるほど、感じれば感じるほど、いっそ強引に、遷移を示す矢印を無視して、素直な気持ちを口に出してみたら、系が劇的に変わるのかなって思ってみたりする。
 ただし、そう思う頃には、いつも、緑蛍光の計時変化がかなり変化しきっていて、身動きが取れなくなっている。

 だとしたら、今をしっかりと見つめて、その中でのできることを考えていくしかないのかもね。
 強気で今を見ていこっ。
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Self-entanglement of human being

2012-12-21 01:45:49 | Weblog
 完成したモノをよく吟味せずにみんなに喋っちゃうのは勿体無い。
 よーく吟味して、隅々まで確認してから披露した方がイイよね。俺もこれを書いてて、お蔵入りにしてるヤツがいくつもあります(そのうちの一つをこの下にあげてみました)。自分が納得できないモノを公開しちゃったら、自分の価値が下がっちゃうような気がするし、何よりも未来の自分が後悔するのがイヤ?

 いつのまにか完璧主義みたいになっていて、非常に厳しいルールを自分の創ったモノに対して課していたりして。
 実は、前に出てみて失敗して、それからまた次のモノづくりをしたほうが、色んな意味で早いのに、意味があることは?、価値があることは?、この仕事で高い名声を得るためには?、を繰り返して、何もしなくなっていっちゃったりして??

 ただ、それでも、不完全なままで満足するよりも遥かにイイと思うんだよね。
 それは、物理学専攻の人が、物理学よりも、やや厳密さが欠ける、生物学や化学を扱えば、すぐにわかることだけど、やっぱり『えぇ?それはいくらなんでもダメだろ。』ってことが多いし、特に理系なら厳密さを重要視しなきゃだしね。
 だから、自分が満足するまで思考を繰り返してモノづくりし続けること、つまり完璧主義になることって、とっても大事だ。

 でも、それだと、いったいいつになったら、自分の考えが、世に送り出されるんだよ?って思うかもしれないですが、それは簡単です。世の中には提出期限があるし、何よりも「相手」がいることが多い。その相手のことを想えば、自分が満足していなくても、提出せざるをえない。
 人はひとりでは生きていない。必ず誰か相手がいて成り立つのだから、その人に迷惑をかけないようにと、自分の満足ラインを下げる優しさが、自分や自分のチームの考えを世に提出することを促進していくのだと思う。

 優しさとは、相手に対しての単純な物理現象に反するような行為である。
 他人のことを一切考えず、感情を本気で抜いて、理路整然と自分の私利私欲と自分が満足するラインだけを考えて、思考しまくって完璧主義でいるのであれば、それは物理現象であり生きていない。
 頭では恐ろしいまでの理路整然さにおける完璧主義の状態。それに拮抗するように、心では相手に対しての優しさの状態が内在している時、このエンタングルメント(entanglement)はどうなっていくかわからない。

 ・優しさよりも完璧主義が勝ってしまって、冷酷になる。
 ・完璧主義が自分だけに向いていて、相手に対しては自分の優しさに負けて、ココでやめても大丈夫、と思う。

 これが、あの二人の決定的な違いだ。

 俺は、といえば、相手に内在している完璧主義さと優しさのエンタングルメントを、素晴らしいことだと認めているんだよ、ということを伝えるためだけに、そっと見守ろうと心に決めるけど、どうしても、ちょっと、ほっとけなくて、『かまって!』のフリをしてみたりしてね。
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これまでもこれからもカワラナイ方針

2012-12-21 00:56:02 | Weblog
 (実際に以下を書いたのは、2009-04-12 03:42:49
 お蔵入り文章を復活させます。ここで言ってる「新しい問題」について、今ならすぐに指針を立てられるようになってるしね。)

 1つのことを1つのやり方で考え抜くことよりも、1つのことを色々な方法でアプローチする手法のほうが、遥かに難しい。遥かと書いたのは、多角的に物事を見るということは、忘れがちという点も考慮しているからである。
 これは、試験問題を解くときなどの、局所的なシーンのみを言っているわけではない。むしろ、生活の中で、起こりうる問題についてのほうが、重要。試験でそれができたとしても、生活の中でできないのなら、意味がない。

 多角的を忘れないためには、1つの場所に留まり過ぎないことがポイントである。たいていの人にとってはね。
 それは同時に、自分を見失わないことにもつながる。芯が通っているかどうかということもあるけど、それは全員あるとしても、外から見える表現の問題である。本来の自分をきちんと表現するために、たいていの人にとっては、1つの場所に固執してはいけないのである。
 たいていの人にとって、ってことは、例外があるのか?っと言われたら、そりゃもちろん。ただ、それこそ、そういう俺が総体尊敬している人たちは、苦労や、それを超える努力をしているから(謎だったりもするけど(笑))、んなんよりも、いろいろな場所に訪れたほうが楽。

 これから、どんなことがあっても、それだけは忘れてはいけない気がする。本当に楽しむための最低条件は、自分自身を見失わないことだから。

 尊敬しかけていたモノに対して、やっぱ、大したことねーな、って本気で感じたとき、本気でどーにかしてやろーと思う。それが愛であるのか驕りであるのか、優しさであるのかおこがましさであるのかはわからないけど、

 「なーんだ、それなら、全然まだ、いけよ?K君?」
 『んなん、わかってるよ、だけど、俺にその意思がねーんだよ。』
 「(笑)。僕にこうやって言うってことは、意志があることの表れだって。潜在意識の表れでしょ?」
 『そうかもね…。』
 「だって、ここで関係ないやって引き下がるなんて、絶対納得できないんじゃない??」
 『それが、どんな事象でも?確かに。』
 「違うよ。やっぱり、特に、苦手分野だから、納得できないんだよ。あと、感情的なとこだからね。」

 今までの自分自身を否定しなきゃいけないのを回避するためだけではなく、それよりも、もっと強い想いで、深い所にあるんだと感じた。
 
 この件に関しては、この思考で上手くいった。成功している。だから、今回の新しい問題も、きっとこういう風にやっていけば良いんだと思う。これは、分野で転移するという意味での多角的。じゃー、いろいろ試してみるという意味での多角的は??
 それは、もちろん考えるけど、ガチだからって理由で、セオリー依存したいね。
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未来の俺らに自信を持って

2012-12-20 01:43:06 | Weblog
 小さい頃、論理で大人を追い詰めて、K君はそれを経験してないじゃん、って言われるたびに繰り返し心の中で思っていた。
 『わざわざ経験せずとも、あなたよりも俺のほーが遥かに深く思考しているがゆえ、真実がわかるのだ。』ってね(笑)。まぁ、それを相手に直接言葉で言ってあげてた時期もあったけど、今はそんな大人気ないことしません。

 このブログでも繰り返し言ってきたことだけど、経験は人を成長させてはくれない。経験を持っていることよりも、ひとつの経験からどれほどの学びを得られるか?ということに焦点をあてるべきだ。
 どんなに素晴らしい集団に所属していても、どんなに海外経験があっても、どんなに本を読んでも、そして、どんなに酷い不幸を沢山経験したとしても、そこから多くのことを得ようとしなければ何も意味が無い。子供時代、ただの経験を俺の前に並べてんじゃねー、時間の無駄だ、っと思うことは比較的多かった気がする。

 『っでー、こうなるでしょ。ここの変数、このダミー変数に書き換えられるから、こうやって計算できてー、したらこれの、数学的もしくは物理的な、意味を考えてみてね。大丈夫?わかるかな??』
 ≪…はい。大丈夫です。≫
 『あのさあ、今の、この、空気で持ってかれて、わかりました、ってのは絶対にやめてね。それされると、金払ってる意味ねーし、俺もここであなたを教える意味が無いから。わからないならわからないって言ってイイんだよ?』
 ≪えー、じゃあさ、ここってさ、そもそも、この意味なに?って感じなんですけど。≫

 俺が受け持ってきた生徒は全員、一回は言った事ある気がするけど、わからないからこそ、自信を持って、「できる!だけど、あなたの説明が悪い!」みたいな感じで主張してきて欲しいんだよね。
 成果も無しにー、結果も無しにー、経験も無しにー、って言うヤツのほとんどは、本当の意味で、自分できちんと結果を出したこと無いんじゃないかな?

 成果が無いと大言を吐けないようではいけない。むしろ、結果が出てないからこそ、安心してきちんと主張できるし、わからないことをわからないって言える。
 自分の成功への時間発展を理論的に頭の中で描くことができたなら、今はまだ実現していなかったとしても、それは成功と同じである。だとしたら、その状態まで持っていった自分に自信を持って、空気なんて読まず、大言を吐いて欲しいし、そうありたいと思っている。(ってことはやっぱり、俺の軸は理論物理であるんだな、って思ったりします。)

 そして、結果が出たら、すぐに次の結果へ向かっていかなきゃね。いつまでもいつまでも、過去の栄光にしがみついていたって、誰も本当に認めてはくれない。
 っそ、スゴイ肩書きを持っていたとしても、留学したことあったり帰国子女であっても、ストーリーを沢山覚えていても、そして、どんなにツライことがあったとしても、、過去の自分の言葉で自己肯定して安心してちゃ、前には進まない。

 未来に成果が出ることが必然である自分自身と周囲に自信を持って、はっきりとした一歩を踏み出せたらと思う。

 そういえば、1年前にやり残した仕事を思い出して、今週の初めからその作業に着々と取り掛かっている。
 過去に遡り、そこから現在に至るまでの函数を出来る限り連続に記述し、その経路から未来へとできることを探すために。いつから過去に縋るようになってしまったのか?を論理的に知ることは、下手なミステリー小説を読むよりも面白かったりする。
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悩みの根幹

2012-12-18 00:03:20 | Weblog
 どこで時間を区切って勝敗を決めるかで、勝ち負けは大きく異なってくる。
 基本的には、みんなそうだと思うけど、最後に残っていたい。後から劇的に勝っていきたいと思っているんだから、今の状況は間違っていないじゃないか、っと自分を元気づけてみたりして。

 遠回りをしちゃってるな、って感じる一方で、その遠回りを俺自身が選んでいる、って思うと、この道も誇らしく思える。
 なぜなら、時間を超えたいから。まっすぐに走っていこうとしちゃったら、時間を超えることは絶対にできない。そう思うと、今のこのルートで一切間違っていない。最初からココにいれば…なんて思えないし、この履歴で、今ここで実験したり、この場所でみんなに意見を言ったり、一緒にいさせてもらえている人で、正解だ。
 まっすぐに道を歩いてしまった人には決してわからない、独特のにおいや大切なことを、見失わないですむし、楽しいことの領域が人よりも遥かに広く持っていられる。俺が通ってきた道すべてが、俺にとってベストだと思うし、素晴らしい集団、適切な順序だと思っている。

 ここから、今のこの表層的な悩みも不安も、くだらなく感じる日が、きっと思ったよりもすぐに来てしまうと思う。いつだってそうだから。
 必ず追い抜いてしまうし、デカい壁だって必ずいつも超えてきてるから、大丈夫。

 本当に心配で、本当に不安なのは、、何人残るか?ってこと。
 自分だけが(実質的or精神的に)ランクアップして、その分、誰も残らない、ってのは、絶対にイヤ。

 能力や技術を正統派に高めていって、ズルをした人よりも、運がイイ人よりも、成果がなかなか出ないことは、(たった一人でも誰か)優しい人がいれば乗り越えられるし、所詮そんなの、たいてい3年以内には突き放せるほどに結局は成果を出せる。
 だけど、変わりゆく人は、どうしたって止められない。

 それでも、、今の関係の一つひとつが、一過性じゃないことを、虚しくとも、信じていたい。
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すべての事象をありのままに見つめること

2012-12-17 00:46:37 | Weblog
 なぜか?と考え続けることこそが学問である。
 どこまでも思考し続けるために、なぜか?、っと疑問を投げかけていかなきゃいけない。

 だから研究の場でも、この「なぜか?」を適切なシーンで発言した時に優秀な人だという風に決めつける傾向がどこの分野でもある。確かに、様々な現象や色々な性質について、適切な視点から、なぜか?っと投げかけられる人は賢いし有能である。
 ただ、どこでもかしこでも「なぜか?」っと発言してもいけない。ある程度、自分の疑問を胸に留めておかなきゃいけないし、というか、逆に、本当に思っている疑問をすぐに外に向けて投げかけたらもったいないのだ。

 質問をするときにいつも思うのは『適切なタイミングか?適切なレベルか?』ということだ。リスナーは誰で、その人達の進捗とレベルをきちんと考えながら、発言をしなきゃいけないし、理解できる言語、有益な情報交換ができるような言葉の選び方をしなきゃ伝わらない。
 そういう時に、少しだけ、ゆらがせてみる。タイミングだったら、あえて少し早くしたり遅くしたり、レベルだったら、レベルの高い用語をちょこちょこ使ってみたり超簡単に大衆迎合っぽくしてみたり。集団に対して効果的にそういうことをやるほうが、単純に自分をアピるために何かを発言するよりも、遥かに有能だと思う。

 『なんで?そもそも○○ってなに?俺とあなたで定義が違いそうなんだけど。』っと思った時に、相手の言うことを予測しない。タイミングとレベルだけを考えて、返ってきたボールをきちんとした態度で打ち返す。それこそが、質問をするときの適切な態度だと思う。
 さらに、疑問を抱いて答えまで瞬時に出せているなら、答えを先に言ってしまうのも手だ。『○○をちゃんと理解してるのかな?…うん、だから、こういう意味で、だから、こうなんだよ!』っと言うやり方よりも、『○○ってのはこうでこうじゃん(それが相手にとって当たり前でなさそうでも)。だからー、そのデータの○○の成分がこう効いて、そう観えてるんじゃないかな、って思うんだけど、そんな考察はしましたか?』のが、スマートだし早いし効果的だよね。

 すべての事象をありのままに見つめ、適切な論理性の中から解を導き、その過程を皆に話すこと。それがオフェンシブ・ヒアリング(攻撃的聞き取り)で一番大事なのだ。

 ってことは基本的に、疑問や問題点を提供して終わってはダメで、その場で自分一人で、答えや解決策まできちんと出さなければ(本当は『出そうとしなければ』くらいで正しい)、質問だけで優秀だ、っとは思われないんだよ。
 もしオフェンシブ・ヒアリングで自らの有能さをアピールしたいのなら、あなたは、この点を忘れてはいけねーんだぜ?

 ただ、なぜか?だけで、優秀だって思われる唯一のケースがある。
 それは、殆どの人が、実は確かに心の中で思っている疑問や問題点なんだけど、まだ言語化できていなかったり、確実には気づけていないことを、はっきりとしたわかりやすい言葉で、明確にリスナーと演者に発言できたとき、なぜか?、っと投げかけただけで、みんなから優秀だと思われる。
 こういう時は、色々なモノを超える。タイミングやレベルはもちろん関係ないし、学年や経験も関係ない。純粋で素朴な疑問と表現力としての素朴な発想がすべてを貫く。

 そういう一発逆転のオフェンシブ・ヒアリングを常に狙っていきたいし、こういう疑問を自分自身に投げかけながらディフェンシブ・トークをしたいけど、かといって、自分の疑問を安売りもしたくない。
 俺は、常に、自分が想ってることの30%も発言していないつもりなのだ。こんなに本音で話すけど。

 そういえば、今日はこの注意をし忘れていたけど、最高のオフェンシブ・ヒアリングをすることができたからって、優秀かどうかとは関係ない。
 いつも言ってるけど、誰かに優しくできることが優秀であるということなんだから。
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"A and UN Breathing"

2012-12-15 01:35:13 | Weblog
 相手を自分のように思えば思うほど、厳しいことを言いたくなるし、責めたくなるし、あなたは実は大したことないじゃん、って蔑みたくなる。
 それは、自分なんて大したことないっていう根本の思いを自分のことのように思っている相手に対して押し付けているからかもしれないし、自分といつまでも一緒にい続けて欲しいという瞬時の思考なのかもしれない。

 この相互作用は、嬉しいのと悲しいのの表裏一体になる。
 理屈の中ではかけがえのない信頼関係とホンモノを感じ取りながらも、実質的にすぐには超えられない物理的事実を明るみにされながら心の表面で傷つけられるから。
 だから、「わざわざ言われなくたって、自分でわかってるもん!それに決めつけないで!」って思った次の一手として、『かまって!』って相手の心の表面をまた傷つけてみる。それが、ついに心の表面を超えて、内部をひっかき始めると、その時は笑ったり茶化し合えていても、一人になると泣いている。

 っで、また『決めつけないで!』って。
 そうなったとしても、嬉し涙と悲しい涙の半分だったりするんだけどね。

 絶対的な信頼関係を安心感のなかで感じられるのは、いつだって素早さを要求されるとき。モノづくりの最中だったり、みんなで喋ってる時の一瞬の気の利かせ方だったり。
 アイコンタクトをしながら、『いつもの感じでね』って、阿吽の呼吸ができる。きちんとした信頼関係を、ある程度長い時間をかけて築けていれば、殆どの場合で味わうことになるのだ。

 これが、どんな関係でも、ある程度のラインまでいくための必要条件であるのだと思う。
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離れる決心

2012-12-13 01:14:05 | Weblog
 今まで信じていたモノやホンモノかもしれないって期待していた関係から離れるには、かなりの決心と勇気がいる。
 それでも、離れる!、って実際に決めるのだから、きっとそれなりの理由があるのだと思うけど、自分でもよくわからない、実は履歴に依存しているだけだったりして。

 人生は常に賭けだ。どこに時間をかけるか、誰を信じて、だからその部分は任せて、改善をしておいてくれるか?
 俺が本当のことを言ってしまうのは簡単。自分が想ってる気持ちや、自分の意見、自分が考えている本当のこと、最大の問題点をきちんと主張することも、普段俺がしているようなことに比べれば、たいした勇気を必要としない。ただ、それをしてしまうよりも、言わないことによって伝える方が(長い目でみたときに)早いことが多いし、言ってしまえば最後、戻れなくなってしまうことを恐れている。

 こんなことの繰り返しの中で、もう無理、ってくらいに裏切られたり、傷つけられたりする。それは物理的なことかもしれないし、単純に気持ちが合わなかったってこともあるだろう。すると、もう、距離を置こう、って思う。
 遊びを超えて、いじったりいじられたりを超えて、演技じゃなくて本当にショックを受ける時、俺がどれだけ傷ついて、その影響によって、また誰かが傷ついてしまう可能性を考慮しだす。
 そういう想像をしてしまえば、限りある胸に抱く想いの容量は溢れていく。一色に染まっていた世界を、色のついた世界に戻そうとする。

 たいていはみんな、感性豊かだから、直観によって、すぐに気がつかれてしまう。「え?どうして?それでも、、でしょ??」って目をされながら、急にアトラクティブな顔を上げ出す。不自然に空気を持っていって、揺らがせようとする。
 そうされると俺は『ダメ。あなたが決めたこと。俺が決めたことじゃない。お互いに、こんなことがしたかったのかな?って思うけど、そっちからある程度明確に発現するならいざ知らず、この期に及んで、俺が呑み込みかけているこの想いを、曖昧なラインで、こちらを揺らがせることで、確率的に吐き出させて、俺由来で発現させようとするなんて、どんだけ負けたくねーんだよ、ヒトとして最低。それに、今でも大切なあなたに対して、そんな即物的な確率論で振り向いてしまって、安心させるためだけに成功させてはいけないと思うから。』っと自分に言い聞かせて、よりいっそう、離れよう、っと思う。

 集団の利益を考えながら、二体系が一体系にホンモノとして帰着されうるかを冷静に考えてみる。
 答えがノーだったなら、もう一歩、ゆっくりじっくり、視点を変えながらも、待ってみたら良いのかもしれない。

 より能力のある者に与えられたどこまで賭けられるかのラインは、より能力の無い者が想っているよりも、遥かに低いのだと思う。
 今後、すべての信頼関係について、そうならないように賭けに勝っていきたいけど、、それ以上に、いつまでも相手を信じていたいし、今離れてしまった関係についても、何かのきっかけで、いつかどこかで、あの頃と同様、こないだまでと同様に、戻れる日が来ることを楽しみにしている。

 だって、傷つく分だけ、優しくなれる、っていう特典つきなんだし。
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