たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

心地良い痛みの副作用

2020-07-30 01:52:37 | Weblog
 痛みは気まぐれで、互いに負けず嫌いだ。
 一つの痛みをいつまでもずっと気にしていると、ずっとずっと痛くなる。どんどん痛くなるし、耐えられなくなってくる。けれど、寝てしまえば消えてしまうこともあるし、別の痛みが今の痛みを忘れさせてくれることもある。

 “毒を以て毒を制す”とはよく言ったもんで、何かの痛みには別の痛みが緩和する作用を示すことさえある。そこに論理的な整合性は存在しない。ただ「気にしなくなった」だけだ。けれど、痛みは気まぐれで、互いに負けず嫌いだから、総体的に紛れてしまう。何故あの程度であんなに気にしていたんだろう?って自分自身で不思議に思ったりする。

 慢性的な痛みもあれば、突発的な痛みもあるというように考えられているが、それは違う。痛みへの認識が常に突発的なだけだ。問題の前期で痛みを認識すれば慢性的になりがちだし、問題の後期で痛みを認識すれば突発的になる。もちろん、痛みである問題にきちんと向き合って、ちゃんと早めに治療すれば、それだけ傷は浅くて済むかもしれない。
 けれど、どうせ後から沢山痛いことが決まっているのであれば、認識なんてしないほうがマシだ、と思う人は多い。だって、その分長く痛みを味わうだけ損じゃないか、と。そこで、痛み止めである麻酔を躊躇なく注入する。

 特に、信じることに費やした疲れが齎す筋肉痛は、麻酔をかけているうちは、とても気持ちがいい。不安な気持ちを利用して、どこか思い切ってしまうことで、自分を癒すのだ。
 その麻酔は大抵の場合、大袈裟な言葉で麻酔をかけるもの。傷があることを認識することを恐れてしまう弱さがあるからこそ、ただの変異を進化だと言ってみたり、ただの偶然を運命だと名付けてみたり、ただの不安な明日を「殺されるかもしれない」と嘯いてみたりする。奮い立たせる魔法の言葉を当然視していれば、副作用は計り知れない。物事を正確に言わないツケは簡単に手元にやってくるのだ。
 そして、麻酔が切れた瞬間に、吹っ切れる。余裕がなくなって、自分勝手になったり、自暴自棄になったり、過度に落ち込んだりする。そのほうが、新しい麻酔を打つだけの大義名分が得られるからね?

 よーするに、「めんどくさい」この一言に尽きる。それを修正するためにきちんとした現状把握と、きちんとした手術が必要なのだ。
 麻酔はさ、本来、痛みを超えるために必要な一時的な過酷すぎる痛みを認識しないために行うもので、心に麻酔をかける時に何らかの手技を持っていなかったら、ただの薬物中毒なのですよ。

 もしも、信じることに疲れて、そのために生じた痛みを認識し過ぎてどうしようもなくなったら、いつでも尋ねて来いよ。俺にはない貴女の価値観に従った手技で、論理的に適切に、いつでも治してあげるから。
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