たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

三日月

2011-04-30 01:27:36 | Weblog
 きっといつか理想の状態になるから、って頭で言い聞かせても、今、この瞬間にそうなっていないことが悲しくなることがある。
 未来が楽しそうなら、それだけで、たとえ今どんなに辛くても頑張れるはずなんだけど、実質的に上手くいかないことが続いてしまうと、どうして一人で頑張っているんだろう、って疑問になっちゃったりする。二つに分かれていて、別々に歩いてるみたいで、今、この時点で、共通に支え合えていないことが、悔しくなってくるのだ。

 どうにか、未来がすごく楽しそうで、今もとても楽しめる、って状況が作れないかなぁ、って考えるけど、なかなか難しい。少しでも出来ることを、、必死で探して実行しながらも、いつか途中で挫けちゃいそうで、理想になるまでの、それまでの電池は、どこに求めればイイの??

 だから、実空間にきちんと存在しているモノや言葉が必要になってくる。それらが電池となって、安心感を与えてくれる。
 冷めきった手を一人で温めることに慣れてしまっても、共通項があれば、なんとかなる。

 それは、オンリーワンみたいな共通項じゃなくても大丈夫。誰もが観ている、誰からも観えるようなモノでも、そこに想いを乗せてみたい。

 今こっちも、頑張っているからねって、強くなるからねって。

 (絢香の「三日月」。ちょっと幻想的な気分になれる一曲です。
 アカペラでの俺のパートはトップコーラス。かなりハイスペックを各個人に要求する、誰かさんが作った、この楽譜のおかげで、ものすごく高い音を、目立たないように歌う大切さと技量を学んだ気がします。っま、結局、1オクターブ下で歌うのがベストになっちゃった箇所なんですけど(笑)。やっぱ、いくら裏声得意でも、女性ボーカルの3度上ハモリは、キツイなぁ。っま、男で、この曲のリードボーカルを歌う方が、キツイか。
 ちなみに、コブクロが歌ってるバージョンもあって、それはそれで良い感じに仕上がっています。)
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空白の時間

2011-04-29 01:29:05 | Weblog
 局面の始まりは、いつだって、わかりやすい。なんかわからないけど、緊張するからだ。
 それに、不思議と数字が一致していく。きっと、あそこで読むことを中止してしまったときの気持ちを思い出しながら、今や比べ物にならないほど稀有になっていった別の系で、続きを開拓していきなさい、っと言われている気がする。

 復習ばかりで開拓できなかった、空白の時間。代わりに、自分以外のカードに文字を書き続けていた。
 自分のためでも、周囲のためでもなく、ただ物理的に必要だったからだ。

 学部で学んだ物理学を、生物学の研究開発で活かせたらイイのに、っと思ってきた。それが今出来ているとは到底思えないけれど、物理を能力に、生物学の研究開発で、を、多方面に、で置換したら、割と叶っていると思う。
 この関門をクリアできれば、きっと今後は俺自身もアウトプットとインプットを対等にしなければならない。

 忙しさだけで選択肢を消さないように、ゆっくり慎重に受け止めていきたいと思っている。
 当然、本当は、即物的なことなんて、どうでもイイんだけどね。
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ゆっくり馴れ馴れしくならなきゃ

2011-04-28 02:00:51 | Weblog
 最高級の熟練者だけが習得できる能力の一つに、相手に、自分と相手は対等であると錯覚させる力というのがある。
 これは、必要なこともあるけど、時として厄介だ。

 よくコミュニケーション能力を語ると、協調のなかで自分の意見を出す力、とか、相手の意見を引き出す力、とか言われるけど、そんなのは全部基本的な力で、やろうと思えば、今すぐ、誰でも出来るものだと思う。
 それをもう何個か超えた向こう側に、「あれ??なんか、いつもと違って、自分が普通に喋れてる。嬉しい。この人となら信頼関係が築けるかもしれない。」って思わせるような技量があるのだと思う。

 これをされた側は、ホンモノを誤解してしまう。即物的な対等と、本当の意味での対等を、きちんと頭で理解しておかないとっ。相手にとっては完全なる片手間で、薄っぺらい表現に過ぎないのに、ホンモノを感じとって、即物的にも、本当の意味でも、対等な立ち位置である、と思ってはいけないのだ。
 昨日も書いたけど、即物的に対等な関係なんて、ありえない。だから、例えば、即物的な対等性を排除しようとし合って、一方に能力や言葉が無いことを具現化し続ける関係というのは、むしろ、本当の意味での対等を求め合っている。っま、それをやりすぎると、泣いちゃうんだけど。っで、俺は、それで自分が泣くんだったら別にそれで構わない、と思っていたり。

 問題はどこにあるのかというと、即物的な結果のみを考察して、誰かとの信頼関係を数値化しようとしている点だ。
 いつも言ってるじゃないかっ、感情は感情で感じとるような癖をつけとかないといけないんだって。

 最初は、薄っぺらくても、そうしていくことで、徐々に信頼関係が深まっていくのだと思う。poco a poco accelerandoに。
 熟練者は熟練者で、この勘違いを、お互いの即物的な対等性において、ぶつけてきたら、相手にきちんと冷酷な対応をする必要がある。『お前より能力あるんですけど?ホントの意味での対等性も無く、信頼関係も無い、この状況で、誰に向かって、そんなこと言ってるの??』って言わんばかりの嫌味っぽさで。
 それが、能力がある者から、嫌いな、能力がない者への、せめてもの優しさだと思う。

 あとは、全然違う系の人に話してみて、参考にすることがとっても大事だ。
 熟練者同士の暗黙の了解を初心者は心得ていないから、それを知るために、ちゃんと教科書を伝授してもらったほうがイイ。

 この2つで間違えない。他人の意見と自分の感情が揃って、初めて、観たい物理系が観えてきて、真実に近づけるのだと思う。
 それが自然科学以外の、「実験」の仕方だ。
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POP STAR

2011-04-27 01:18:28 | Weblog
 対等な関係なんてありえない。
 だから、優位に立ってしまっているなら降りていかないといけないし、実質的に劣勢なら這い上がろうと努力しないといけない。その頬に微笑みを与え合えるように、歩み寄ることが大切だ。

 隠していたい暗闇も、ちゃんと表に出そうとすれば、ちゃんとそっと拾い上げようとしていれば、自然と優しい言葉がでてくるもんだ。どんなにとげのある言い方でも、表面的な意味だけで共有しなくなっていく。
 それを繰り返すことで、実質を超えた本当の意味での対等に近づいていき、本当に笑えるようになっていくのだと思う。

 喜びも淋しさも、好きなところも嫌いなところも、両方を手に入れて、前に進めたなら、不思議なことが起こりまくる。何かが成功するときは、不思議と色々な系で同時に成功しまくっていくもんだから、この機を逃しちゃダメだ。
 キラキラ光りながら、どれがホンモノか、ちゃんと見極められるようになっていけたらなぁ、と思う。

 っさ、光へと続く道を歩いていこう!

 (PVのイメージだけが先行してしまう平井堅の「POP STAR」。ちゃんと聞いてみると、もう一個良さが発見出来て、イイ曲です。
 アカペラでの僕のパートは、リード+セカンド。この曲のみ何故か、他のメンツの攻撃要素が強くなる気がするので(特にリード+トップ君)、今回は、俺はむしろ、やわらかく歌うことを心がけてみたいと思います。やっぱSもMも両刀で完全系っしょ(笑)。っていうか、この曲の最大の問題は歌詞なんだよな、複雑すぎる。もう絶対に間違える気しかしない。
 この曲にはWinter Lovers Versionなるものがあって、そっちはそっちでイイ感じにアレンジされています。俺はこっちでイメージしたいなぁ、って思うのですが、、たぶん、いや絶対、不採用だな。)
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楽しさをおいしくいただく

2011-04-26 00:37:51 | Weblog
 流石に、最近、色んな事し過ぎてる気がするな。
 もともと器用なほーじゃないし、なんでも無難にこなすタイプというよりも、1つのことに熱中型なので、こんなに色んな事してる気でいても、たぶん一般の人くらいにしか色んなことしてないんですけど、僕の中ではキツイのです。

 はぁぁ、っていうか、ほんの何年か前の自分が観たら、きっとキライ。
 好きなモノから取り入れるくらいのつもりだったのに、もしかして、結局、大嫌いだった、そっち側に立ってる?まさか、そんなわけないよね。
 ただ、感情がどっちに向いているのかは、自分でもわからなくなってきたかも。行動すればするほど、自分のほうへだけ感情が向いていくような気がするから、全部投げ出して、ちょっと休憩したかったり。

 本当の本当は、自分へ向けるためでも、誰かへ向けるためでもなくって、『そんなことは、やろうと思えば誰だってできる!』って言葉を証明してるだけだったりして。
 でもさっ、悪いけど、たとえ最終的に行動がほとんど同じになったとしても、俺らは本当に楽しんでるから、楽しもうとしちゃってるから、俺らの勝ちだって知ってるけどね(笑)。それに、影で本当に助けてくれる人もいるし。

 っま、とにかく、これでは、肉体的にも、精神的にも(主にこっち)、どんどん疲れてしまうので、ちょこちょこ削れるモノは削っていこうと思います。
 楽しさの消化不良は最悪。おいしくいただかないと。
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夜空ノムコウ

2011-04-25 02:49:34 | Weblog
 あれから、信じられないくらいの時間が流れて、ココにいる。
 どれだけの理想を切り捨てて、耳をふさぎたくなるような現実と戦いながら、ここまで来たか数えきれないけど、どんな状態のどんな時よりも、いつだって今が一番楽しいから、どの過去にも戻りたいとは思っていない。

 成長だって、少しはしてるはずだしね。話すことさえもめんどくさがっていたのに、つまらない常識などつぶせるって、本気で思っていた。
 今はちょっとはマシになっているから、普通に頑張って、重要な時だけ勇気を出せば、誰も通ったことの無い道を自分で作りながら通っていけると思っている。

 ただ、ちょっとした即物的なことで、思い出したり、懐かしんだりするようになる。
 同じ言葉、同じ状況、同じ結果が観えると、今なら出来るのに…、って、心のやわらかい場所を今でもまだ締めつけられていることに気が付く。だから、同じ言葉を、同じ能力を、同じ選択肢を使って、振り払おうとするけど、から回りし続ける。

 今なら出来るんだから、今出来ることに対して、きちんとチャレンジして結果を残そうと思う。
 あの頃の未来に立っているんだから、必ず出来るはずだ。

 昔を想い悩む暇もなく、夜空のむこうにはもう明日が待っている。

 (今や教科書にまで載っている名曲「夜空ノムコウ」。なんとなく今まで縁がある曲です。
 色んなアーティストがカバーしていて、綺麗なバージョンが多いですが、僕はやっぱり、SMAPのバージョンが一番好きかな。スガシカオさんもかなりイイんだけど、何よりもF調には負けるよね。俺が好きになる曲はFがやたら多いのです。アカペラでも、皆様に無理言って、半音下げていただいておりました、すいません(っま、それは、声出ないからってだけなんだけど(笑))。
 これを今度久々にアカペラで歌うので、さっきネット上で、色々なヨゾラを聞いてみたんですが、キムタクは、ここ4年くらい、2番のBメロ「僕の心の一番奥で」の「奥で」でフェイク入れるのね。字ハモの邪魔にならないし、真似してみよっかな~。って、それもやったら、原形が掴めなくなりそうだけど(笑)。
 そうそ、この検索の中で、めっちゃイイのを見つけました。2009年1月19日のスマスマのバージョンがヤバいっす。ピアノがスゴい良い!お時間がありましたら、是非みつけてみてくだされ。)
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議論しなくても良くなるまで

2011-04-23 01:12:17 | Weblog
 ほんの少しの変化に対してだって、人間は動揺を隠せない。
 その変化が、単純な物理的な変化ではなく、感情由来の変化であれば尚更だ。

 まだ、即物的な対等と奥底での対等の区別がきちんと出来ていなかった頃、その変化に対して、自分にとって都合の良い解釈を勝手にしてしまった失敗を、もう絶対にしないで欲しい。
 まぁ、たとえ、そうであったとしても、長いタイムスケールを取った時に、此処ではそうはならないだろうから、そもそもが間違いだったのだろうけど。

 確かに揺らいでいった感情。それが収束していく時、その秩序パラメータは、いつだって、自分以外の、自分たち以外の、自然現象に依る物理量である。
 手っ取り早いわけではなく、自然とそういう風になっていくことこそが、ホンモノ。

 どこでタイムスケールを切って考えるのか、それとも無限時間経ったときのことを考えるのか。
 それさえ気をつけていれば、どんな系でも、解釈や議論は、きっと出来る。

 それをしなくても良くなるまでは、まだまだ時間がかかるだろうと思う。
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縁さえあれば

2011-04-22 03:51:49 | Weblog
 当然、選択肢は沢山あった方がイイ。
 だから、選択肢をとっておく努力というのも、大切な努力のうちの1つだ。多くの選択肢の中から選んでいけば、正解に近い可能性は高くなるし、数多くの可能性から選んでいったなら、それがホンモノである率も上がる。

 これはずいぶん前によく言っていたことだけど、「自分にはコレしかない!」ってのはホンモノであるはずがない。実質的には、かなり多くの事柄でやっていけるけど、でも、これを選びました、ってほうが、ちゃんとしてそうでしょ??
 それは、人を選ぶとき、選ばれるときも同じで、だからこそ、より高級な言葉をより沢山持っていた方が良いし、着る服を選ぶ必要があるし、賢い必要があるし、お金を手にする必要がある。
 っで、やっぱり、自信やプライドを持っていることは、大事なんだと思う。低いレベルの自分には…、って思っちゃったら、選択肢が狭くなるから。

 理屈で考えるとそれだけだけど、俺は、この部分じゃないところで、選択肢を多くとっておくことの価値を感じている。

 それは、選択肢が沢山残っている方が、運命的な偶然が起きる可能性が上がるってことだ。
 俺は、いつも、決して、自分では選ばない。自分の思考力の限界は自分が一番よくわかっているし、カタい物理現象に対して、くだらなさを感じているからだ。

 「生物物理学では、生きている状態の物理を考えなさい。」というように、流動性や時間依存してそうな動的平衡な系の中での、カワラナイことに価値があるのだと思う。
 自分以外の、生きている物理現象を用いて解を求めた方が、自分の基準や定式化された指標を使うより、正確だし楽しい。

 自分に選択肢を沢山残しておけば、縁さえあれば、に収束していくことが出来て、それがいつもの俺のスタイル。
 ここから先も、この部分は、あまり変えるつもりはない。
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モチツばかりにさせないで

2011-04-21 02:50:58 | Weblog
 文章を書くということは自分を売り込むということだから、どんなにイイ研究をしても、正しい英語力を持ってして論文を書けなければ伝わらない。っと、かなり年配の先生がおっしゃっていた。
 それは、非常に、勿体無いことだと。

 研究のことは、まだまだ俺は定式化できないけど、何かを他人にみせる時の伝え方が、とても大事なのは、すごくよくわかる。どんなに優しい気持ちを持っていても、使わなければ意味がないし、また使うことによって気持ちに相互作用していくもんだと思うからだ。
 言葉を飲み込まずに言葉を選んでいくと、理詰めで、頭は良くなるかもしれないけど、どんどん薄っぺらくなっていく。しかも、ちゃんとその部分の努力をしてきた人の、ものすごい直観力に対しては、思考力ごときじゃ脆弱だ。

 言葉を心に飲み込む訓練をきちんとしてきている人間は、最終的に相手に対して、『決して、能力や手法ではなく、気持ちそのモノだけで相手をみてやろう』って思う。表現やそれに付随する力で、ホンモノが消えてしまったら、悲しいって考えるからだ。

 だけど、、対等さを求められずに、苦悩することになっていくんだと思う。

 別に、常に考慮したり配慮したりすることが好きなわけじゃなくて、何かを与えることが好きなわけじゃない。でも、それをする理由は、その向こう側をかっているからこそ。当然、生き甲斐なんかじゃない。
 
 精神的な部分では時間依存性が無いんだとしても、実質的な時間依存性があるのだとしたら、その懺悔として、せめて笑顔を忘れないで。
 それこそ、、

 《共感した方が早いじゃん。だって、実際にもそう思ったんでしょ?》
 『うーん、でもさぁ、俺が、そこで共感したって、どっちにも何もメリットが無いじゃん。共感するのはプラスのときだけ意味があるのであって、マイナスで共感して一緒に倒れていっても、次に繋がらないでしょ。』
 《まぁ、そうだけど、、それだから、面白そう、って演技するわけ??》
 『うん、っま、本当にちょっとそう思ったし、厳密に嘘ではないし。それに、そう言ったほうが、後々、ここから先はずっと、本当に面白くなるかもしれないじゃん?』

 演技でイイから。いつかはModulateするんだし。
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正しさなんてどうでもいい

2011-04-19 00:44:45 | Weblog
 明日(日付は今日ですが)、約1年半ぶりに、教職科目が復活する。
 学部の頃、あんなにイヤで、最低でも4回は本気でやめようと思った教員免許取得ですが、なんとなく、明日は楽しみ。高校の数学・理科の2科目はすでに持ってるので、教職でこれから得るであろう「言葉」は、たぶんあと2つ。1つは昇格、もう1つは付属品かな。

 「この不安定な世の中、教職を担保として考えようというのは、わかります。ですが、皆さん。皆さんも学校教育を長く経験されたなかでわかるでしょうが、どーしようもなくダメな先生ってのは、いたはずです。そして、実際に、その被害を受けている生徒がいて、なかなか見つけにくい、ダメな先生というのはいるんです。そんな先生の被害にあってしまう生徒を作らないためにも、教職をとるからには、担保として考えている人も、教員になりたい人と同様に、教職、そして学業に対して、本気であってください。1%でも教員になる可能性があるなら。」

 という最初の言葉を、あれからここまで5年間は達成したつもりだ。俺の場合は本当に1%以下だけどね。
 周りに流されて、誰かに合わせて取っていた教職が、こんなにも自分のモノになっていることに気が付いたのは、ごく最近のこと。
 あの薄っぺらい世界に週一回でも戻っていくのかと思うと、イラつくはずなのに、わくわくしてる自分がいたりする。

 辞めたかった要因として、『負担が大きすぎるから』ってのも確かに大きかったけど、『薄っぺらいから』ってのも結構あった。
 でも、今は、最後まで、ケジメがつくところまで、教職を取っていて良かったと思っている。一番の収益は「ニセモノは正しさで満ちている」ことをきちんと学ぶことができたことだ。

 当然、逆のことも言えて、理屈が通っていなくてもホンモノは存在する、ってことも、ちゃんと実体験できた。
 相手が支離滅裂なことを言った時に、ただ単純にその間違いを指摘するような、エセ賢いヤローにならずに済んでいるのは、教職のおかげかもしれない。
 今、俺の周囲には、賢い人しか残っていない。彼ら彼女らなら、自分が支離滅裂なことを言ってしまったら、それに気が付いてないわけがない。だから、所詮第三者である俺が、ただの理詰めで問題点を指摘しても、無意味なのだ。

 「No problem can be solved from the same level of consciousness that created it. 」
 問題に気が付くことと、その問題を解決することは、同じレベルで扱うことはできない。原因はそんなバカなことを言わせるような感情が存在していること。
 解決するためには、とりあえず理詰めを無視して、その奥の感情だけを汲もうしないといけない。この慧眼さが、これからもっともっと必要とされていくはずだ。

 っと、これほどの問題提議をしてくれなくても、きっと明日から、取り残してきた「言葉」の中から、まだまだ得られるモノがあるはずだと、思っている。
 今後、いっさい使うつもりが無い「言葉」だけどね。

 っま、私学教員適性検査くらいなら、記念受験してみてもいいけどさぁ(笑)。
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WORKからLIFEへ

2011-04-18 02:11:40 | Weblog
 気持ちから逃げないことが、即物的にならない秘訣。
 そりゃ、気持ちをまったく考慮しないで、作業的になったりWORKになったりすれば、ラクになるし、実質的には無難になるけど、そんな日々じゃつまらないんじゃない??楽しくないでしょ?

 ≪あんね、楽しいとか、楽しくないとか、そういう場合じゃないの。≫
 『(実質的な)命がかかってるわけじゃないんだから、そこまでロボットみたいにならなくても、良いんじゃねーの?、って言ってるだけだよ。』

 ロボットのようになれるということは、たった1種類の気持ちに集約されて、気持ちそのものが強くなっているってことだけど、本当にそれで楽しいのかどうかを考え直してみる必要性はある。だって、基本、多様性があるからこそ面白いんだし、気持ちの粒子は多種多様だからこそ、全体として正常でいられるのだ。

 何かの言葉や権利を掴めた瞬間に、いきなり楽しくなるなんてことは、ありえない。むしろ心は虚しくなる。実質的には潤っても、いきなり輝かしい生活は訪れないのだ。
 どんなことでも、徐々に、楽しくて優しい方向へ倒れ込んでいくしかなくって、もうここまで来たら、間違っちゃダメだよね。

 気持ちには、自分のと、他人のとがある。どちらも大切で、これをいつでも察することができるようになるために、ある程度までは、全員が数学を含めた自然科学を学習する必要がある。
 学習する上で、本当はそれだけが大切で、この応用面をまったく考えずに、思考力だけを上げても意味がない。しまいには、WORKになって即物的になり、自分のことなのに、大切な人のことなのに、どこか他人事のようになっていってしまう。

 今よりもっと楽しくなりたいなら方法はすごく簡単で、自分のでも、他人のでも、とにかく気持ちを大切にしていれば、自然と、徐々に変われる。それも、大きな変化率をもってして。
 すると、過ぎ去りし日、どうしても得たかった言葉が、いつの間にか、得られている結果になる。これが、みんなで楽しみながら、みんなでランクアップするということなのだ。

 〔ほら、ストイックなところが、全然変わってないなって。〕
 『えー、そうかなぁ。割と本能のままに生きてるつもりなんだけど。』

 って、本質を掴まれてから、いつの間にか、また時間が経っているけど、あれから、どれほど変われているかな??
 これからも、自分が持ってる一つひとつの言葉達が、WORKからLIFEへと変わっていけたらイイなっ、と思う。
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大切な人の言葉

2011-04-16 02:38:03 | Weblog
 俺は、好きな人達と嫌いなヤツらが言った言葉は、決して忘れない。
 ガチだと、音程、リズム、タイミング、表情、細かい情景まで、かなり覚えていることも多い。そして、それらの記憶を、惜しみなく、使えるときはいつでも使えることに関して、俺は長けていると思ってる。

 ここで要求されるのは演技力だ。さも、待ってました!という顔をしながらも、本人の特徴を含有した口調と表情で、ほとんど同じ言葉を使う。
 こういうことを繰り返すことで、好きな人には好意を伝え、嫌いな人に薄っぺらい言葉を言わせなくしていくことが出来るんだと思う。

 実質的に勝つためにするわけじゃない。楽しむためにやる必要があるのだ。

 言葉は、日本語は、どうしても、薄い言葉で乱れがちだ。
 だけど、どうでもイイ人以外の人である、大切な人達が言った言葉(薄っぺらくても良い)を、飲み込めなくても、きちんと覚えておくことで、差別化することができ、自分の好きな人を近くに、嫌いな人を好きに近づけながらも、本人にその行動を選ばせていくことが、できるのだ。

 楽しもうと努力することが、一番本質的な努力。最終的に、きっと楽しくなる。どんなに、毎日がルーティンワークでも。
 どんな状況でも、どんな時でも、笑顔になることができる一つの原因は、大切な人の言葉を、とにかく、よく覚えておくことだと思う。

 その大切な人は、ごく少数で、その中にもまた優劣とオンリーがあるはずだから、また物理法則は変わってくるんだろうけど、この基本は大切にし続けたいと思っている。
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嫌われたくない症候群

2011-04-15 01:45:58 | Weblog
 わがままな感情は、気持ちの方向性が自分自身にのみ向いている感情、と定義出来ると思う。
 だから、自分はこうしたい!、って気持ちが強くなりすぎれば、当然、わがままになる。そういうことについては、皆さん、ちゃんと、わがまま、って認知している。

 けど、「嫌われたくない!」という感情については、みんな、かなり寛大で、それが当たり前になっている気がする。
 「嫌われたくない」ために、上司にイイ顔ばかり見せたり、誰にでも優しく振る舞ったりするのは、感情が自分の方向にばかり向いているから、当然わがままなんだけど、何故か結構、許されてしまう。それは仕方ないよねー、って感じで。

 俺だって、基本的な感情の底辺は、好きな人からは好かれたいし、嫌いな人からは嫌われたいし、どうでもイイ人にはどう思われてもどうでもイイ、っと思っている。これだって、かなりのわがままだと思うけど、もっと凄い人が世の中には沢山いて、どんな人からも嫌われたくない、というような、わがままな人も結構見てきた。
 それが許されてしまうのが不思議だし、当たり前になっちゃうのも不思議。

 まぁ、「嫌われたくない!」という感情に依存している行動と「あなたの役に立ちたい!」という感情に依存している行動が、非常に見分けにくいことが、最大の原因かもしれないな。
 ここは、直観を使ったり、感情を感情のまま読み取る「想いの容量」が無いと、ほとんど絶対に解析できない。俺は、もともと、そっち側が得意なので、この2つを見抜くことは容易だ。

 わかる、ってことも、悲しかったり、切なかったりすることは、よくあること。
 どんなスタイルであれ、どんな状況、理由であれ、「嫌われたくない!」ってだけで近寄ってこないでっ。

 単純に、能力が無さ過ぎるだけなら、安心できるんだけどさ。
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あの頃の真実

2011-04-14 01:49:14 | Weblog
 演技が当たり前になりすぎるのが怖い。
 だから、スイッチが入った時だけじゃなく、普段から、もうちょっと、本当の感情をそのまま表に出した方が良いのかもしれない。特に、体裁がイイわけじゃない時の感情を。

 すぐ笑いに変えたり、すぐに変なところをツッコんだり、その裏側の感情を、あまりにも読まれないし、考えてくれないなら、ちょっとスタイルを変える必要があるかな、って思う。別に、俺は、本当にアホなわけじゃないし、今や、かなり、無難に振る舞う能力を持ってしまっている。

 つまんないけど、そうなることを、俺が望んだわけじゃない。

 みんながつまらないことが好きなんだとしたら、別に、それに合わせることができる。
 能力だけで勝ててしまう、やっていけてしまうことが、問題なのかな。

 だから、きっと、この感情も一過性で、きっと、すぐに、能力じゃない、実質的じゃない部分で、楽しみたくなってしまうんだと思う。俺はね。
 っま、今は、あんまり、そんな気分じゃないけど。
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ふたりのじぶん

2011-04-13 01:55:55 | Weblog

 どんなことでも、1人でやったほうが、絶対に効率がイイ。
 一時の感情に流されて、ただ即物的に楽しんだり、遊んだり、付き合わされたりしていれば、どんどん時間が無駄になっていくし、ランクアップできない。

 だから、自分の時間をしっかり持っていることが大切だ。そうじゃないと、空気に振り回されて、もともとの自分自身を見失うことになってしまうから、結局不幸になってしまう。
 仲間が大切、ってのは、こういうことを考慮できる仲を言うのであって、なんでもかんでも、空気を読んでいればイイというもんでもないと思う。
 ここが考慮できないのだとしたら、そんな仲間は要らないし、ここをわかってくれるからこそ、深い部分で繋がっていられるのだ。

 一時の感情に流されて、一生の行く先を危ぶむことになっているんだとしたら、きちんと解析していない証拠だし、その裏側にある感情も薄い。
 だとしたら、楽しい分、確かにそっちのほうが、得なのかもね。

 俺は、そんなのイヤだから、1人の時間を大切にしたいと思っている。


 どんなことでも、みんなでやったほうが、絶対に楽しい。
 一時の感情に流されず、ただ考えたり、選んだり、閉じこもっていれば、どんどん暗くなっていくし、心の繋がりを大事にできない。

 だから、とにかく人に合わせてみることが大切だ。そうじゃないと、周囲から間違えを指摘されなくなり、もともとの自分自身を見失うことになってしまうから、結局不幸になってしまう。
 仲間が大切、ってのは、こういうことを確認し合える仲を言うのであって、なんでもかんでも、空気を読んでいればイイというもんでもないと思う。
 ここが考慮できないのだとしたら、そんな仲間は要らないし、ここをわかっているからこそ、深い部分で繋がっていられると確認出来るのだ。

 たった1人でやっていこうと、抜け駆けしようとしているんだったら、きちんと感情を大切にできていない証拠だし、それが具現化して能力も劣っていく。
 だとしたら、言葉だけが得られる分、確かにそっちのほうが、得なのかもね。

 俺は、そんなのイヤだから、みんなでいる時間を大切にしたいと思っている。


 この2つの理論を統一することが、近い未来の目標かな。
 まず、二元論的に考えてちゃダメだ。みんなで楽しみながら、みんなでランクアップするようなスタイルは、必ず確立できると信じている。
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