最後を見据えておく、というのはとても大切なことだと思う。
結局のところ、自分はどうしていたいのか、というのは日々考えておかなきゃいけないし、何がベストかがわかっていなければ、何も行動できない。
でも、矛盾するかもしれないけど、自分がやりたいことってのは自分で考えてわかるもんでもないことを、肝に銘じておかなきゃならない。とにかく何でもやってみて、そのなかで、面白い、つまらない、を査定していくもんだと思う。
最初っからやりたいことを決めろ、って言われたってできるわけがない。それよりも、価値観をぼんやりとでも定めておきながら、とにかく何でも自分に適応させてみたら、自然とやりたいことが定まってくるような気がするのだ。
それを、一度こう決めてしまったからこうじゃなきゃいけないんだ!、っとCグループノリでやってしまうと、かなり偏った誰も得しない価値観になってしまう。まぁ、上の世代の多くがこれになってしまっていて、可哀相な気にすらなってくるけど。
褒められていない、っという未練の想いのまま先に進んでしまえば、当たり前だけど、誰もが認めてくれそうな絶対的な軸の上での価値観を自分の心に抱き、ヒエラルキーの頂点を目指すようになる。
どんなに上の階層に行ったとしても、そんな風に思っていては、決して褒められることも、称賛されることもない。あなたが東大に行っても、大手企業に入社しても、大学教員になっても、年商10億超えても、それだけじゃ、誰もあなたなんか褒めない。
しかし、上に行けば行くほど、称賛されるはず、っと思ってヒエラルキーの階段を駆け上がっていく愚か者が数多くいる。そして、ある程度上まで行ったのにも拘らず褒められないと、憂さ晴らしに下の階層の人間を責める。
そこまでになれば、流石に誰かは薄っぺらくあなたを褒めているだろう。あなたに媚び諂っている、あなたと同等に意味の無い誰かがいるはずだ。その矛盾だらけの勘違いの世界で一生暮らしていくか、本当の意味での愛が無いことにいち早く気がつき今からでも本質的に自分の価値観を模索していくか。
価値観が違う、と言うことで大義名分にした(つもりになっている)不当な非難は、大抵の場合、ただの劣等感の現れだ。
モラルハザードについて責めているように観えることの多くは、自分のレゾンデートルを主張しているに過ぎない。
必要なのは、能力など一切加味しない、真実の愛なのだ。(とかいうと気持ち悪いけど笑)
あなたがどんな職業であろうが、どんな生活をしていようが、どんなことをしていようが、どんなに無能であろうが、あなたそのものが尊いことは、紛れも無い真実なのである。だから、無理にレゾンデートルを主張せんでも、あなたがやりたいように好きにやって、好きなことを探したらイイのだ。
ただ、他人の言動のモラルハザードに対して不当に責めてまで自分のレゾンデートルを守ろうとするほど能力が無い人について、仲間にするのは別に構わないが、そんなヤツに不当にコントロールされるのは、俺は好かん。
俺が自分の最期を見据えたときに、そんなんだったら、今は楽しいことを探して回ったほーが、短い人生、きっと楽しい。
人と人が初めて出会った瞬間に愛を感じることこそが運命の愛だと多くの人が感じたがるのは、多くの人が無償の愛を求めているからだ。
ホントはそんなの全然ロマンチックじゃない、っと最近のディズニー映画もそう言っているぜ?
俺は能力では決して人を選ばない。それはどういうシチュエーションでもそうだ。
ある範囲の時間が経ってみたときに、無償になれるかどうか、ただそれだけだと思うし、それは気持ちや魂そのものを俺が感じとっていることとiffだと思っている。
結局のところ、自分はどうしていたいのか、というのは日々考えておかなきゃいけないし、何がベストかがわかっていなければ、何も行動できない。
でも、矛盾するかもしれないけど、自分がやりたいことってのは自分で考えてわかるもんでもないことを、肝に銘じておかなきゃならない。とにかく何でもやってみて、そのなかで、面白い、つまらない、を査定していくもんだと思う。
最初っからやりたいことを決めろ、って言われたってできるわけがない。それよりも、価値観をぼんやりとでも定めておきながら、とにかく何でも自分に適応させてみたら、自然とやりたいことが定まってくるような気がするのだ。
それを、一度こう決めてしまったからこうじゃなきゃいけないんだ!、っとCグループノリでやってしまうと、かなり偏った誰も得しない価値観になってしまう。まぁ、上の世代の多くがこれになってしまっていて、可哀相な気にすらなってくるけど。
褒められていない、っという未練の想いのまま先に進んでしまえば、当たり前だけど、誰もが認めてくれそうな絶対的な軸の上での価値観を自分の心に抱き、ヒエラルキーの頂点を目指すようになる。
どんなに上の階層に行ったとしても、そんな風に思っていては、決して褒められることも、称賛されることもない。あなたが東大に行っても、大手企業に入社しても、大学教員になっても、年商10億超えても、それだけじゃ、誰もあなたなんか褒めない。
しかし、上に行けば行くほど、称賛されるはず、っと思ってヒエラルキーの階段を駆け上がっていく愚か者が数多くいる。そして、ある程度上まで行ったのにも拘らず褒められないと、憂さ晴らしに下の階層の人間を責める。
そこまでになれば、流石に誰かは薄っぺらくあなたを褒めているだろう。あなたに媚び諂っている、あなたと同等に意味の無い誰かがいるはずだ。その矛盾だらけの勘違いの世界で一生暮らしていくか、本当の意味での愛が無いことにいち早く気がつき今からでも本質的に自分の価値観を模索していくか。
価値観が違う、と言うことで大義名分にした(つもりになっている)不当な非難は、大抵の場合、ただの劣等感の現れだ。
モラルハザードについて責めているように観えることの多くは、自分のレゾンデートルを主張しているに過ぎない。
必要なのは、能力など一切加味しない、真実の愛なのだ。(とかいうと気持ち悪いけど笑)
あなたがどんな職業であろうが、どんな生活をしていようが、どんなことをしていようが、どんなに無能であろうが、あなたそのものが尊いことは、紛れも無い真実なのである。だから、無理にレゾンデートルを主張せんでも、あなたがやりたいように好きにやって、好きなことを探したらイイのだ。
ただ、他人の言動のモラルハザードに対して不当に責めてまで自分のレゾンデートルを守ろうとするほど能力が無い人について、仲間にするのは別に構わないが、そんなヤツに不当にコントロールされるのは、俺は好かん。
俺が自分の最期を見据えたときに、そんなんだったら、今は楽しいことを探して回ったほーが、短い人生、きっと楽しい。
人と人が初めて出会った瞬間に愛を感じることこそが運命の愛だと多くの人が感じたがるのは、多くの人が無償の愛を求めているからだ。
ホントはそんなの全然ロマンチックじゃない、っと最近のディズニー映画もそう言っているぜ?
俺は能力では決して人を選ばない。それはどういうシチュエーションでもそうだ。
ある範囲の時間が経ってみたときに、無償になれるかどうか、ただそれだけだと思うし、それは気持ちや魂そのものを俺が感じとっていることとiffだと思っている。