たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

無償

2014-05-31 01:10:04 | Weblog
 最後を見据えておく、というのはとても大切なことだと思う。
 結局のところ、自分はどうしていたいのか、というのは日々考えておかなきゃいけないし、何がベストかがわかっていなければ、何も行動できない。

 でも、矛盾するかもしれないけど、自分がやりたいことってのは自分で考えてわかるもんでもないことを、肝に銘じておかなきゃならない。とにかく何でもやってみて、そのなかで、面白い、つまらない、を査定していくもんだと思う。
 最初っからやりたいことを決めろ、って言われたってできるわけがない。それよりも、価値観をぼんやりとでも定めておきながら、とにかく何でも自分に適応させてみたら、自然とやりたいことが定まってくるような気がするのだ。

 それを、一度こう決めてしまったからこうじゃなきゃいけないんだ!、っとCグループノリでやってしまうと、かなり偏った誰も得しない価値観になってしまう。まぁ、上の世代の多くがこれになってしまっていて、可哀相な気にすらなってくるけど。

 褒められていない、っという未練の想いのまま先に進んでしまえば、当たり前だけど、誰もが認めてくれそうな絶対的な軸の上での価値観を自分の心に抱き、ヒエラルキーの頂点を目指すようになる。
 どんなに上の階層に行ったとしても、そんな風に思っていては、決して褒められることも、称賛されることもない。あなたが東大に行っても、大手企業に入社しても、大学教員になっても、年商10億超えても、それだけじゃ、誰もあなたなんか褒めない。

 しかし、上に行けば行くほど、称賛されるはず、っと思ってヒエラルキーの階段を駆け上がっていく愚か者が数多くいる。そして、ある程度上まで行ったのにも拘らず褒められないと、憂さ晴らしに下の階層の人間を責める。
 そこまでになれば、流石に誰かは薄っぺらくあなたを褒めているだろう。あなたに媚び諂っている、あなたと同等に意味の無い誰かがいるはずだ。その矛盾だらけの勘違いの世界で一生暮らしていくか、本当の意味での愛が無いことにいち早く気がつき今からでも本質的に自分の価値観を模索していくか。

 価値観が違う、と言うことで大義名分にした(つもりになっている)不当な非難は、大抵の場合、ただの劣等感の現れだ。
 モラルハザードについて責めているように観えることの多くは、自分のレゾンデートルを主張しているに過ぎない。

 必要なのは、能力など一切加味しない、真実の愛なのだ。(とかいうと気持ち悪いけど笑)
 あなたがどんな職業であろうが、どんな生活をしていようが、どんなことをしていようが、どんなに無能であろうが、あなたそのものが尊いことは、紛れも無い真実なのである。だから、無理にレゾンデートルを主張せんでも、あなたがやりたいように好きにやって、好きなことを探したらイイのだ。

 ただ、他人の言動のモラルハザードに対して不当に責めてまで自分のレゾンデートルを守ろうとするほど能力が無い人について、仲間にするのは別に構わないが、そんなヤツに不当にコントロールされるのは、俺は好かん。
 俺が自分の最期を見据えたときに、そんなんだったら、今は楽しいことを探して回ったほーが、短い人生、きっと楽しい。

 人と人が初めて出会った瞬間に愛を感じることこそが運命の愛だと多くの人が感じたがるのは、多くの人が無償の愛を求めているからだ。
 ホントはそんなの全然ロマンチックじゃない、っと最近のディズニー映画もそう言っているぜ?

 俺は能力では決して人を選ばない。それはどういうシチュエーションでもそうだ。
 ある範囲の時間が経ってみたときに、無償になれるかどうか、ただそれだけだと思うし、それは気持ちや魂そのものを俺が感じとっていることとiffだと思っている。
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純粋なすれ違い

2014-05-28 01:52:01 | Weblog
 『俺は、いま、あなたの心と話をしているんです。あなたの拙い論理でも、意味の無い体裁でもなく、あなたの心だけが、いま唯一、話す価値がある相手です』
 と言い放ったあとの横顔を観て、俺は、本当にこれでいいのだろうか?、と躊躇した。そして、なぜそのように思うのか、自分自身よくわからなかった。

 本来的な心の純粋さを持ってすれば、決して不条理にはならないし、楽しい世界を創造できるのだと俺は思う。子供の頃から、みんなが心のどこかで抱き続けている感情に、悪もんなんているはずがない。
 しかし、人と人が相互作用して社会を形成すると、その平均場が各個人へとフィードバックして、自分勝手な気持ちを誘発させる。そして、そういう悪い気持ちに支配されてしまえば、誰かを簡単に傷つけるようになるし、見捨てるようになる。
 長い人生の中で、こういう経験はなるべくしたくない。だって、他人を蹴落として、自分が成功しようとすること自体、たぶんいつかは後悔してしまうことがわかるからだ。

 ただ、こういう思考錯誤をしないこと自体が悪いわけではない。むしろ、上から言われたことをやり続ければ単純な成功はしやすい、という試行錯誤的な結果に誘なわれるのは、ある意味でとても純粋なことなのだと思う。
 当たり障りなく、波風立てず、無難に穏便に物事を推し進め、上からの指示とそれで得られる最大幸福を目指し続けることに対しての純粋さを、実は否定はできないのだ、それによって傷ついている他人が存在していることを本人が認知できないのなら余計にね。

 そう、俺は、純粋さで純粋さを傷つけてしまっていたのだ。それが直前直後で感じた躊躇いの原因。

 俺のほーが本来的な純粋さであり、順風満帆を一番の善とすることについての純粋さなどただの自分勝手であって純粋さなどではない、とは俺は言えない。だって、純粋であることには変わりないのだから。

 言葉はそれだけで刃物。誰も傷つけない言葉などこの世には存在しない。
 それはわかっていても、この場合、誰のどのような価値観を一番に考え、前に進むべきか、とても難儀なことだったのかもしれないね。

 でも、俺の答えは今は決まってしまっている。
 同じ純粋さであったとしても、無理矢理にあなたたちと同じ方向を向いておくためだけに、そちら側の価値観に乗り換えることは、申し訳ないけど、俺にはできない。あなたたちがあなたたちの価値感を変えて、俺にアジャストするほどの価値が俺にあると思ってくれるなら、どうぞいつでも受け入れる。そう思えないなら、別にこのままで俺は一向に構わない。
 いつかは俺も変わるのかもしれないけど、若い俺、今の俺には、これが精一杯。何の因果もない人の身に起こった不条理を無視することで、自分たちの利益を選べるほど、俺は強くは無くて、ごめんなさい。

 「勝手に行けば?」
 予想されるいつもの冷たい言葉が、予想外に俺の心を温める。それはいつもいっつも不貞腐れてる大切な誰かとまったく同じ生命現象だと第三者は決めつけるのかもしれないが、、世界中で俺だけはその違いがはっきりとわかっている。
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どこかで逢えるといいね

2014-05-26 03:03:40 | Weblog
 劣等感を払拭するために、どんなに上昇していっても、虚しいだけだ。
 それは出世することや何かの言葉をただ得ることに限らず、本当の能力を掴むことも同じで、そういうことをしていっても、決して過去のイヤな記憶を乗り越えることはできない。

 過去のイヤな記憶を乗り越えられる唯一の解は、多くの信頼できる仲間を創って、新しい仲間と共に、その過去の未練そのものに立ち向かうことだけだ。これしかない。
 だから、どんなに新しいムーブメントを起こしても、どんなに実験量を増やしてデータを稼いでも、数式を丁寧に追いかけながら物理を理解していっても、誰かを貶めるようなことを含みながらやっていては、まったく意味が無い。あなたが何を成し遂げても、他人を傷つけながらだったり、迷惑をかけながらでは、たとえノーベル賞を受賞しても誰からも称賛されず褒められず、むしろ他人はあなたの前から去ってしまうことだろう。

 どんな能力があろうとなかろうと、ありのままの自分で十分に尊いのに、純粋に向上していこうと考えるならいざ知らず、どうしてムリヤリに自分を大きく見せようとしたり、理解していないものを理解しているように主張したり、言葉や分野で誤魔化そうとしたり、それを他人を傷つけてまで行ってしまうんだろう。

 誰かを傷つけるくらいなら、いっそ、、もういいじゃん、無能で。
 無能だろうがなんだろうが、あなたは今のあなたで、十分に尊敬されるべき特性をたくさん兼ね備えているのだから。恐れるものなどないさ。

 それをもっともっと想い出して欲しい。
 そして俺は、いま傍にいてくれる仲間と共に、いつの日かまた一緒に笑い合える日が来ることを願っている。

 この世には絶望がたくさんあるけれど、たった一人からでも助けられることや希望は膨大で、ものすごい力を示してくれるもんだと痛感する日々を過ごしながら。

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不器用なコミュニケーション

2014-05-25 04:08:26 | Weblog
 「古典の反対は?」『え??量子でしょ』「いやいや現代だろ」
 「ぼうず、の反対は?」『フェルミ』「ふさふさ、とかだろが」

 専門的になればなるほど、一般から離れていく。そして、大衆迎合になればなるほど、精緻でなくなってしまう。
 この2つのちょうどいいところをとることはとても難しい。傾向として、Aグループ(ノリが一番良い集団)ほど一般大衆に受け入れられる言語を選びたがり、Cグループ(ノリが一番悪い集団)ほど専門性を好む。Cグループの人が何かにつけて「ニワカだろ?」とバカにしたり、Aグループの人が「意味わかんない」って落とし込んだりしやすいのはこのためだ。
 どんなに、研究者としてー、理論研はー、海洋ではー、とか言っても、こういう絶対的な原理からは誰も逃れられない。

 2つの価値観のいいところを取っている人もたくさんいる。まぁ、俺もその一人なわけだけど(笑)
 よーするにね、言葉に誤魔化されなきゃイイのさ。マイナーな言葉を使って喜んでるのはお子ちゃまだし、みんなが飛びつくものに飛びついてイイ気になってるのもお子ちゃま。
 じゃぁどうしたらいいのかってーと、自分がきちんと考えてみたことに対して好きになれたものを素直に好きだということができれば、それが一番キモくない。とっても純真な気持ちの表れなのだと思う。

 即物的な事象の一つひとつにこう思えたとしても、それが本当に大切な人に対してそう想えるかどうかはまた別だ。
 いじることでコミュニケーションをとろうとしたり、助けられる合間に相手にとって助かるかもしれない言葉を織り交ぜたり、人と人になってしまうととっても不器用で、ホンモノの気持ちであればあるほど、自分の気持ちを素直に表現するのは難しいのかもしれない。

 でもでも、どんなに演じても、なんやかんや気持ちは伝わってしまうもんだし、相手の気持ちもわかってくるものだと思うのだ。
 それは、積乱雲から雨が降り始めるときの、小雨なのに荒々しい様子と似ているのかもしれない。

 だから、明確には何も伝えてはいないけど、大丈夫だよね?
 と心の中で唱えている。
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真実はいつもひとつ

2014-05-23 23:52:53 | Weblog
 心の中にある真実が共通であれば、実際に共有できていなくても、何かのダイナミクスを生む可能性が高い。
 あとはいかにしてその真実を共有するか。まずは2人で共有して、みんなで共有して、いままで誰も創れなかった意味のあることを、俺らでやり続けていこう。

 直面しなければいけない重大な事柄はいつだって一緒にやってくる。こういうときに俺にも体力があればなぁっと思うけど、無いモノを羨んでいても仕方ないし、できることを一つひとつ全力で取り組んでいけばイイのだと思う。

 真実を知りたいなら、何かを捨てる勇気を持っていないといけないということを肝に銘じておかねばならない。捨てるべきものは、何かの習慣かもしれないし、他人にどう思われるかを気にしている気持ちかもしれないし、わからいけど、とにかくこの意識は大事だ。
 そして、真実を知る態度として阿諛してはいけない。相手が、ものすごく頭が切れる優秀な権威の持ち主だったとしても、、たとえ、よりいっそうの信頼関係を得たい唯一の相手であっても、演技してヤラセでわざわざアジャストするようでは、ただの自分勝手だし、何よりも真実を知ることはできない。

 真実はいつだってたったひとつしかないのだから、どんなに遠回りしても、原理的に達成できるはずではある。しかし、この厳しさに、今の俺の気持ちと能力で、太刀打ちできるか。
 早く試してみたくて仕方ない気持ちを、今はぐっとこらえている。
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I'm not your パシリ.

2014-05-23 01:21:19 | Weblog
 信用しようと思った矢先にいつも裏切られる。
 私がこういう経験をすればするほど、慎重になることができるし賢くもなれる。そう思うと、悲しい気持ちをきちんとどこかへ消すことができる。

 やり取りには、必ずと言ってイイほど、相手と自分のリスクとベネフィットが見え隠れする。だから、会話のなかからきちんと裏を読んでいくことこそが大事だし、自分のベネフィット、つまりこちらの本当の目的を包み隠さなくちゃいけない。そうでないと自分が損をしてしまうし、何かを奪われてしまうからだ。
 この視点に立つと、何かを選ぶなら何の不足もないものを選ぶ方が良い。今の時代、ものすごい欠点が隠されていることもあるし、リスクが高いモノも多い。だとしたら、世間体的に何も問題がないだけマシというもの。こういうことを選んでいるほうが賢く、さらには正しいと私は思う。

 そして、この審査基準で選んだものについては、最終的に失くしても、何も悲しくない。実のところ、これが最大の利点かもしれない。
 所詮、通常と逸脱している価値観を共有し合っても、どーせ自分が傷つくだけ。そこにどんなに共有できる正しさやとびっきりの純粋さが垣間見えても、現実はそんなに甘いものではないのだ。

 今から想っていることを言い切ってしまえば何かが変わるかもしれない。でも、せいせいしている、って今のこの気持ちからまた違う状態になって傷つくのはイヤだし、ルールゼロのあなたに、どーせ伝わるとは限らないしね。

 このようにして私は、たくさんのことを諦めて生きてきたのだ。

 Love Don't Cry
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次世代を創る大革命の一歩

2014-05-21 02:06:43 | Weblog
 自分の生と死を意味のあるものとして残したい気持ちは、誰にでもあると思う。
 もちろんレベルと範囲は人それぞれだけど、自分がこの世にいたアカシみたいなもんは、どこかには残していたいと、誰もが思うんじゃないだろうか。

 今の時代、インターネットで誰でも文字を残すことができる。ブログでもいいし、ツイッターでもいいし、フェイスブックでもいい。とにかく自分の想いを文字として永久に残しておく、ということは、誰でも簡単に、今すぐできる。
 こういうこと言うとよく思うんだけど、叩かれる可能性が一切ないよーな無難な何かを発しても、それは何も言っていないのと同じだ。世に残しておきたくて、何かの反響を得たいなら、誰かしら他人に嫌われる覚悟が無ければいけない。そして、その分だけ、、いやその分以上に、誰かしらからは好かれる、ということも、きちんと理解していなくてはいけないかもね。じゃなきゃ行動できないし。

 別に、世界に向けて発信しなくても、普通とは違うと感じる自分の一部に目をやった時に、それがありふれた優しさの中から生まれたのだとすれば、立派な個性であり、必ず後世に残る。むしろ、こういうことにこそ価値がある。

 本当の意味で何かを変えたり(ものづくり)、何かのムーブメントを起こすということ(研究)は、決まりきっているルールや慣習の中でありきたりに成功することでも、自分たちが昔から持っていた価値観を現実に体現することでもない。何か間違っていたとしても、なるべく全力でちょっとでも自分や自分たちを世に出してみて、そこで受けた逆風を自分の中に宿しながら、また次の一歩を進めようとした時に、誰か思いもよらない相手に、新たな価値観が宿ることこそが、本当の意味で「より良く変える」ということだと俺は思う。

 それは、小さな個人から小さな個人への、小さな小さな革命であるが「明らかな一歩」であり、それだけが次世代を形成していく。

 このような経験は、少なくとも今、これを読んでいる人は、もうすでに経験していることだと思う。
 あなたは、もう、誰かにとっては、かけがえのない存在であり、必要不可欠な存在でありつづけるのだ。そして俺と会って話したことがある人には、全員に適応される因果律。好きな人も、嫌いな人も、どうでもいい人も。

 相手に新たな価値観を宿すことは、どんなに小さいことであっても、とてもとても意味のあることだ。
 だからこれから、もっともっと自信を持って、自分らしさを発揮したらイイのだと俺は思う。
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Salut, Joan !!

2014-05-19 02:11:21 | Weblog
 冷たいバリアを張って1人の時間を長くして、身動きが取れないときほど、小さいことに意味を見出してそこで行き止まりを決めつけたくなる。確かに『気持ちにとって一番良くないことは孤独』なのかもね。
 ゲーム理論によると、弱者ほど結果を早急に求めたがるものだ。だからといって、じっとこらえていても、無理してるのがきっとバレバレ。

 小さな小さな変化を決して見過ごさずに、退屈な時間をやり過ごすことばかりが巧くなっている。分厚いドアや堅い壁を壊すことは、あなたでさえ、容易なことではない。
 まるで、楽しく笑い合っていた日々が嘘のように思えてきて、、でも、物理的に仕方のないことだということが理解できないあなたを、どうしようもなく幼く思ってしまう。何度も何度も姿を変えて現れることに疲れない体力はいったいどこから来るの?それも、そろそろ終焉のときなのかな??

 言葉にしても、能力にしても、時間にしても、ある一定量をこちらが持ってしまえば、誰かしらを傷つけることが前提になってしまう。だって、言葉は刃物で、能力は武器であり、時間は残酷だから。
 そこに、どんなに優しさの絶対量を持っていたとしても、必ず誰かを傷つける。誰も傷つけないなんてことはありえないし、上に上がっていけば、大人になれば、こういうことが普通に理解できるはず。それを、いつまでも子供のままでいるから、、そんな当然のことに対して、不条理だとか、無能だとか、思ってしまうんじゃないのかな。

 でも、、変えるさ!と意気込んでいたことを決して忘れていない。ずっと壁にかかってる絵のようにそのままで、子供のまま自己実現ができるなら、そのほうがいいのかもしれないね。
 現実は厳しく、決して待ってはくれない。問題や不幸は次から次へと訪れる。

 最終的に遠くからになってしまったとしても、、せめて、Hang in There、と応援しているから。
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常識を振りかざすな!

2014-05-17 02:22:36 | Weblog
 常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う。
 これが理解できなければ常識がある大人とは言えない。そして、この常識を振りかざして思考停止することこそが大人である、ということが多くの人の常識であるという認識がある程度には、俺にもきちんと常識があると思う。それがイイか悪いかは別にして、ね。

 ある非常に限られた分野のなかの、さらに小さな集団の、そのまた小さなセクションのなかで、「これは常識だ!」と振りかざしながら懸命に権力闘争に励んで、今にも消えそうな自分の小さな小さなレゾンデートルを守る姿は非常に愛らしい。能力が無い人、、いや、自分にとってのガチの能力を身につけることを諦めた人って、ホントに大変だなぁっと(あくまで他人事に)憂う。

 ヒエラルキーを守るために、ただひたすらバカみたいに作業をこなすよりも、自分が興味を持っていること、興味を持てるかもしれないことにきちんと目を向けて、自分の幅を広げたほうが楽しいよ?

 小さな集団の中のルールのなかには、たいてい社会的には通じない慣習が含まれている。それには、非人道的なモノもあるし、時間とカネがかかりすぎるものもある。
 こういうことが社会の明るみになると、小さな集団の中の一番弱いモノへとその責任が押し付けられる構造になる。

 そう、上の人の言うことをバカ正直に忠実に訊いてその通りに生きてゆこうが、上の人の意見をいちいち吟味して自分勝手に主体的に生きてゆこうが、老害年上の人から文句を言われる絶対量は、さほどカワラナイのだ。

 だとしたら余計に、自分がやりたいことをやって、後悔が無いように生きていこう。と考えられるのだが、この言葉は聊か不正確。
 自分がやりたいこと、なんて、(やってみなけりゃ)すぐには誰にもわからない。そもそも小さい頃にそんなことは考えてない。手当たりしだい色んな事をやってみて、これ面白いからずっとやりたい!、ってなるのが普通でしょ?だから、もっともっともっと、アクティブに色んな事をやりつくしてみて、飽きたらポイする、って感覚でいいんじゃないかと思うのだ(もちろん、他人の迷惑にならない範囲で)。

 価値観や常識には、色々な色の軸がある。
 だから、世の中のこと、すべてを受け入れようとしなくても良いし、すべてに受け入れられようとしなくても良くて、さらに、自分が受け入れよう、受け入れられようと考えていた集団に幻滅したとしても、とにかく、自分が楽しいなと直観的に感じるところへと向かっていけば良いのだと俺は思っている。

 そのほうがシンプルでしょ?
 まぁ、シンプルが良い、ってのは、この社会の常識だと思うのだよ、、そう思わんかね?君は。(笑)
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だからこそベルヴィ

2014-05-15 01:56:58 | Weblog
 退屈させない、ってのは男の役割だと、こんなにも男気が無い俺でもそう思う。
 あらゆる手段を使って相手や集団を飽きさせないようにして、退屈な状態にさせないようにきちんと振り回す、ってのは、仕掛けてる方も仕掛けられてる方も楽しいはずだ。

 きちんと振り回すってのは、ものすごく難しい。振り回し過ぎれば迷惑になるし、でもある程度、主張や提案を繰り返さなければ("責める"無難ではなく、ただの"受ける")無難になってしまう。
 中道説を取る気はさらさらなくて、相手がどこまで許容していられるか、ってのが振り回す上ではとても大事なのだ。とても堅い信頼関係があるのであれば、傷つけない限り、極端な話、殺さない限りは、いくらでも振り回せる。しかしながら、そんなケースは現実に存在しないのだ。

 世間では、個人の幼稚なポリシーを貫いたり、くだらない派閥を守るために、若者を信頼関係なく振り回すことを正当化している。一部では本当に殺しているし、最近の話題でいくと、その象徴が、理研のケースのように思えるし、某牛丼チェーン店の人手不足にも繋がっていると思う。
 このケースを否定しながら、平気で日々アカハラをしている大学教員が大多数存在する。アカハラと研究不正だったら、アカハラのほーが悪いに決まっているのに、自分のことを棚に上げて、そんな簡単なことすらわからないヤツが掌握する自称科学立国になってしまったのは、いったいいつからなのだろう?古くはそうでなかったはずだ。

 自分のみみっちいプライドと小さな小さなレゾンデートルを守るために、自らの出身とは異なる自らの学生に対してまったく異なる厳しすぎる判定基準を仕組んでヒエラルキーの存在をあからさまに示したり、自分勝手で無責任な決定を強行しそれをわざわざ謙遜してみせてきたり、誰かを見せしめに不当にオフェンスして学生をやめさせたり。。
 まぁ、しょうがないよね、今の日本の研究室のシステムではPIは何をやっても正当化されちゃうし、でもこれらの行為をやってしまうってことは、自らが無能だって宣言しているようなものなんだし、実際無能なのでしょう。
 そして、こういう自分勝手な上の人間を有難がって、ただひたすら毎日のように媚び諂ってるだけの助教以下、俺らも同罪。もっともっと、ちゃんと反省しなくてはいけない。

 死は誰にでも平等に訪れる。だから、それはたいした罰ではない。

 ヒトにとって一番キツい罰は、自分がしたことを心の底から本当に後悔する時である。この罰は、あなたの想像以上に残酷で、しかも乗り越えられないものだ。
 失敗は原理的にありえない。必ず成功に変わる。でも後悔は、もう絶対に取り戻せないことに適応され、現実にありうる。他人を蹴落とす行為や、不誠実なことや、道理に反するようなことをした場合、何十年も先の未来、病床につくときに、100%後悔することになる。そして、その後悔は、もうどんなにしても取り戻すことはできないのだ。

 これを読んでいるあなたへ、、
 今ならまだ、後悔を失敗に変え、失敗を成功に変えることができる。今からならやり直せるし、今からなら取り戻せるし、今からなら呼び戻すことができる。そう、今からなら、くだらないプライドを脱ぎ捨て、ヒトとして、たった一度の人生として、何を大事にすべきか?、何が大切なことなのか?をきちんと想い出し、それをちゃんとアプライできるはずなのだ。
 だって、たかが数ヶ月、たかが数年のことでしょ?でもね、何十年も経ってしまったら、それはもう、原理的に不可能なんだよ。

 退屈な人生は、なかなか自分の思い通りにならないからこそベルヴィ、斯くも美しさを引き立てる。
 だとしたら、無理して、誰かを傷つけてまで振り回さなくても、勝手にそうなっているのだから大丈夫。

 そんなことを胸に、なるべく他人の迷惑のかからないように、かつ、たった一度の人生に後悔しないように、自分主体で周囲を振り回して、退屈させないようにしていたいと俺は思っている。
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我慢の真実

2014-05-12 01:21:02 | Weblog
 俺が正しさのために母船に弓を引かないと思ったら大間違いだ。
 そもそもそんな心がけだから、せっかく掛けた縄から手を離すことになってしまうのさ。

 いかに、優秀な猛獣に噛み殺されずに、アメとムチを与えられるかが教育の真骨頂。その心得すら無い者が誰かや何かをコントロールしようとするなんて烏滸がましいにも程が有る。そんなん、そもそもの資格がない。

 口元、目線、指先、ちょっとした仕草を総体的に見抜いて、相手の心理を掌握することに慣れると、自然とウィークポイントが観えてくる。解がいくつかあるなんて嘘っぱちだ。コストパフォーマンスを考えたら、必ず唯一解が現れる。それが観えるまで何かを行動するのはタブー。
 ウィークポイントを相手が一番嫌がる方法で攻め立ててしまえば必ず勝てる。だから、あんまりこういうことはしない。なぜなら、これでは、あなたが求めているような、くだらないコントロールの仕方はいくらでもできるけど、何も面白くないから。

 こういうズルを封印して、真面目にやろうとすればするほど、相手からすべてを捨てられる。すべてを捨てた者に対して、俺はかける言葉が思いつかない。
 結局のところ、クソ真面目になればなるほど正しい勝利は収められず、優しくなればなるほど馬鹿にされるのかもしれないね。でもズルして勝ったら、本当に負けちゃう。まったく、、難しいところだ。

 こんな現状に目を逸らしていると、俺がいかに我慢できなくて、みんなは常にちゃんと我慢していることに気がつく。確かにそうかもしれないね。
 現実を観る、そして、そこに理想を体現させていく、ということは甘いことではないのだ。

 『でもさ、俺はそういうときに、我慢することはできないから。みんなはそういう我慢がきちんとできるじゃん?』
 「それは違います。みんなはそういう抵抗をすることすらできない脆弱な存在で、我慢しないことすらできないだけですよ」

 我慢しないことすらできない。。理想とはかけ離れた現実にわざわざアジャストするために?
 それは一刻も早く助け出さねばならない。

 理想を語れば「現実を見ろ」と罵られ、現実を語れば「本当のことは言うな」と謗られる。そして、理想と現実、どちらからも目を逸らしたとき、「我慢がたりない」と言われたが、みんなのように、自分の意志が無く物理現象として振る舞わなければ死んでしまう状況というのは、そういうことなのかもしれない。
 俺は生きているから、意志を捨てることができない。いや、俺は意志があるからこそ俺らしく生きることができる、と言いかえるべき。そういった大切なことをすっかり忘れていた。だって、俺が意志が無かった頃が無いわけじゃないからね。

 すべての物理現象が観えたまんま理解出来るのであれば、そもそも物理学は必要ない。
 物理現象のような振る舞いに観える、この世で一番美しい生命現象のなかに確かに宿る、輝き続ける意志を、いかにして抽出し自覚させ精緻なモノにするか。

 ズルでは決して、その方針を立てることは出来ない。
 こういうときに、クソ真面目で良かった、と安堵することができる。
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それは言わないで!

2014-05-08 02:27:00 | Weblog
 気にしていることは話題にされるだけでもイヤなものだ。
 この公式が正当であるからこそ、何かがあればみんな口を閉じるし、それによって、みんなで平静を装いやすくなる。

 そして、どんどん薄暗闇に身を潜めるようになっていく。相手が気にしていることを話題には出さない、から、危うい話題は決して口に出さない、にtransferするまでそう時間はかからない。だから、大人になると信頼関係は簡単には得られないのだ。

 気にしていることをさらけ出す勇気はそう簡単には得られない。気にしていることが年々多くなっていって、自分が話題にされたらイヤだなって思うことが、ある一定の数(Nc)を超えると相転移して、ぼっちになる。
 自分の周囲に壁を造って自分を守ろうとする。この壁は非常に冷たいバリアであり、バリアを張った本人でさえ簡単には外れなくなってしまう。けれど、バリアなしでは、恐ろしくて前に出ることさえままならない。

 BCS理論ではクーパー対を壊すためのポテンシャルとしてペアポテンシャルを定義し、それが値を持つかどうかでBCS状態かどうかを判定する。壊すために必要なポテンシャルがゼロならBCS状態じゃない、って具合に相転移現象が扱いやすくなるのだ。ちなみに、こういうペアポテンシャルのような物理量を秩序パラメーターという。
 気にしていることの恐怖によって、身動きが取れなくなってしまっている状態をぶち破るペアポテンシャルを導入するためには、それなりのエネルギーが必要だ。

 BCS理論では、ミクロからの物理を秩序パラメーターで抑えて、それをマクロに応用するカタチをとっている。だとしたら、相手にとってのより良きのため、あらゆる人に対して快活にさせる(マクロ)ためには、相手が気にしていること(ミクロ)を上手に話題にする必要があるのだ。
 これはとても難しい。なぜなら、全宇宙のエネルギーは保存されていて、ペアポテンシャルを与えるのにもエネルギーが必要なのだから。

 つまり、相手が気にしているってわかっていることを、あえて相手のためにぶっちゃけてやるためには、かなりのエネルギーが必要で、しかもNcを超えて気にしていることだらけで冷たいバリアを張ってる相手に対しては、もっともっともっとエネルギーが必要なのだ。

 それに気にしていることが多くて冷たいバリアを張ってる人ほど、他人に対しては、平然とこっちが気にしていることを堂々とぶっちゃけてくるしね。俺にも同じ物理が働いていることを忘れて、ね。
 本当は、

 "Fear of death is worse than death itself. So, don't fear death so much, but rather the inadequate life."

 なのに。
 っていうかさ、気にしてることを茶化されたくらいで死なねーけどな。

 まぁ、俺の場合は時間帯によって機嫌が良い時と悪い時の増減が激しくて、Nc(t)だからめんどくさいんだろうけどね。
 でも大丈夫、Nc(r,t)にできるようになったから!笑
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価値観をデコードすべき時

2014-05-06 05:21:09 | Weblog
 自分が理解できないことを理解しようともせずに、価値が無いと決めつけることは簡単だ。
 同様に、自分が行動できないことを行動しようともせずに、その行動をしないことこそが正しいと決めつけることも簡単。

 人は自分ができないことは信用することができない。計算を追ってみなけりゃ、その式の意味する本当のところは決して分からないし、実際に実験してみなけりゃ、その現象を本当に理解することは決してできないのにね。
 だけど、きちんと他人に影響を受けて、自分がやってみよう、って思ったところから、きちんと習得するメソッドは立つ。話を訊いたり、本を読んでるだけでは、やっぱり習得できない。かいてみなけりゃ、繰り返し考えてみなけりゃ、声を出してみなけりゃ、行動してみなけりゃ、何も始まらないのさ。

 ちなみに、こういうことを、誰も満足にはできない。俺を含め、俺の知ってる誰1人として、俺が想い描いている理想を、達成できている人間はいない。
 ただ、俺は、自分の理想が高すぎるという認知がある程には、きちんと相手の価値観も受け入れ自分が行動している、というだけ。笑

 そして、こういう理想とかポリシーとかを、いつまでも追っていきたい気持ちがある。
 しかし、ポリシーは他人にリスクを背負わせてまで追いかけるものでも無いとも思っている。

 例えば俺も、こうじゃないと絶対に認めん!っという感情は、若くてもある。そして誰かとモノづくりをするときに、そういうことは常に発信するし、どんどん口に出す。
 だけど、いざ何かの瞬間が訪れるとき、そのポリシーを一度忘れることにすることはよくあることだ。じゃないと共同の作業なんていつまでたってもできない。そりゃ表面上はできていても、相手に押しつけまくるようなことになってしまってるはずだ。

 他人の人生を犠牲にして、自分のポリシーを貫くようなポリシーは、そもそもポリシーじゃねーんだよ。
 それはポリシーじゃなくて、あなたが、ただ、それしかできない、ってだけでしょ??

 リスクを自分よりも弱い他人に背負わせたような、そんなモノづくりでは、誰からも本質的に称賛されないのだよん。

 俺だって、この学歴以上を目指さないなら面倒をみない、とか、こういうシンパシーがある楽曲や歌しか演奏しない、とか、こうやってまとめた研究じゃないと恥ずかしい、とか、そういう感情は確かに持っている。
 だけど、モノづくりをするってことは、そういうことではない。

 唄いたくない歌を唄い、演奏したくない曲を奏でて、推薦入試で大学に行こうとする子のサポートをし、無意味に想える計算や作業を繰り返した先に、達成すべき結果と新しい価値観が待っている。
 自分の価値観が精緻になっていくのって、とっても楽しいと思わない?価値観をある一定基準以上のきめ細かさにしなければ、理解できない事柄を理解しよう、行動したことがないことをやってみようとするような指針はいつまでも立たないのだ。
 よく言ってるように『上手い下手、出来る出来ないじゃなくて、価値観を変えなきゃ!』、ちゃんと定量的かつ定性的な解釈をするための計算ができるようにはならないし、必要な実験が思いついてそれが実際にできるようにはならないし、ロックなのにバラードみたいな歌い方にしかならずグルーヴを大切にすることができない。

 それを、単に、自分はこういうポリシーだから、とバカの一つ覚えのように言葉で誤魔化すことで、誰か弱い人に押し付けて、どんどん弱い立場の人にリスクを背負わせることが当たり前になっているなら、非常に恐ろしい。
 だから、大学の准教授以上は、何をしても良いよーな無法地帯の立場になってしまっているのだ。実際にそうなってしまっている場所は解体するしかないのかもしれない。

 また同じ話の落とし込み方で申し訳ないけど、それは自らのレゾンデートルを能力に落とし込んでいるからいけないのだ。俺の能力に誰も期待してないのと同じで、お前の拙い能力なんかに誰も期待してねーよ。自転車に乗れる程度の能力を専門性だと誇張し、その言葉でレゾンデートルを構築したら、そりゃ滑稽に決まってる。
 レゾンデートルは、どれだけみんなにとってより良くしようとして、優しくしようとしているか?、という点だけに持つべきなのだと、俺は思う。

 それが今まで色々な他人達の色々な価値観を自分の中に俺なりの言語でエンコードしてきた結果。
 いつでも、あなた用にきちんとデコードできるように、すべての言葉を記憶してある。
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本当に大切なこと

2014-05-05 03:32:36 | Weblog
 はっきり言って、大学院(修士)に入ってから、くだらない能力ばかりが身に着いた。まぁ若いから良いけど、こんな環境を選んでしまった自分について、30代に向けてしっかり反省しないといけない。俺の持っている本来の能力と実際に使える意味と価値のある能力は、学部時代までに培ったもの。これは俺の20代最大の失敗かもしれない。

 まぁ、キレイゴトじゃなく俺の言葉で言うなら、少なくとも「能力」という点において、向上しえない環境しか与えていない教員たちに、授業料を全額返してもらいたい。こういうこと言った時に、権威的な軸を主張したり、偉そうに、「大学院教育ってのは本来...」と教育基本法すらちょっとでも読んだことないヤツが言ってくる、くだらないあのような連中にならないためにも、俺自身が反省しなきゃいけないよな。

 院に来てから、薄っぺらく誤魔化す技術を強要されてきたし、ときどき、本当にすべてがバカバカしくなる瞬間がある。申し訳ないけど、学部時代よりも総体的に、薄っぺらい連中が周りに増えたし、言葉で惑わして事実や論理を置き去りにする価値のない理系も増えたし、周囲にも上にも魅力をまったく感じないことが多い。輝かしい言葉だけに導かれてくるような連中だもんね、そりゃ薄っぺらいのは当たり前。今の俺も含めて。
 逆にちゃんと実力主義で、きちんと理解しようとしたことが努力として認められて、実際に周囲にその努力で自己実現していて尊敬できるような環境は、確かにある。
 それは最近、物理に回帰しているからとてもよく感じるし、本当の能力や賢さを向上させることについてこの4年間疎かになっていた気がするから、差をつけられていないか、俺はそれがとても不安になる。

 原点回帰。色んな意味で、そういうことを意識する一年になりそう(そういえば今年の目標的なことを今年はまだ何も書いてなかった)。いまがっつりの物理学を知りたい気持ちが間違いなく強くなっているし、昔は海外に行きたいなって気持ちは強かったから、そういう気持ちも復活してる。っで、文系的な価値観もちゃんと大事にする、って点も復活してる。

 俺が本来、何がしたく、どんな方法で誰とやっていきたく、そしてそれをやり遂げるためのメソッドをどう考えればイイか?
 それらのヒントはおそらく、残してきた場所にある。残してきた場所は、修士かもしれないし、学部かもしれないし、予備校時代かもしれないし、高校かもしれないし、、本当にもしかしたら中学かもしれない。

 こういうことを書くと今の場所が最低最悪で、過去の場所が最高、って勘違いされるかもしれないけど、そんなことは決してない。俺は普通の人よりも遥かに多く場所を離れてきたけど、離れる時にはいつも、それなりの理由があるもので、それを超えて、今の場所を選んでいるわけだし、周囲にもみんなにも、心からマジで感謝している。それは、反面教師的な意味をかなり含めて。

 あと当然、院に入ってから出会った人で、例外的に、まっすぐ尊敬している人も確かに存在している。今の指導教員もそうだし、何人かの院生(後輩先輩含めて)や教員、その他の場所で出会った人、素晴らしい人達もたくさんいる。感情面で本気にならざるを得なくなってしまう人も見つけることができたし。
 ただ、学部時代よりも総体的に人としてクズな無能が増えたな、ってのは間違いないってだけ(笑)。(笑)って書いたけど、ほとんどマジです。笑

 最下層の環境下にいるから、「優しい」という軸をいつも忘れそうになるけど、俺にとっては、何をするんでもこれがスベテ。「優秀」を訓読して「優しさが秀でる」人になりたいし、そうで有り続けることこそが、この世で唯一価値があること。この現実からは誰も逃れられないし、この軸さえ忘れなければ必ず自己実現できる、それもみんなで。

 能力をつけたり、賢くなればなるほど、「優しさ」を見抜きにくくなる。自分の能力の高さだけで近づいてくる人もいるし(容姿や若さだけで近づいてくる男なんて!みたいな笑)、どうしても自分の利益を先に考えるようになってくる(カネ目当ての女なんて!みたいな笑)しね。
 重度の重複障害を持つ人ほど、相手の能力うんぬん、言葉のかけ方、接し方等ではなく、その人が本当に優しいかどうかだけを冷酷にすぐ見抜いて好き嫌いを決定できる、って言われているけど(俺の経験的にも確かにその通りです)、そういう人を取り巻く環境的にも原理的にも、彼らが優しさを見抜く能力が秀でるのは理解できる。

 一度、完全にまっさらな気持ちになってみて、能力を介在させない「魂」だけになってみて、何が本当に大切なことなのかをゆっくりちゃんと想い出さないと、ここから前に進めないな。
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信用できる物理と夢見な物理

2014-05-04 04:31:31 | 自然科学の研究
 自然科学の世界に限らず、何事も単に信じてはいけない。
 じゃぁ、お前が信じているモノで疑わしいものはないのかよ?っと言われるとそんなことは無い、疑わしいモノだらけだ。じっくり考えてみると、疑わしいことを既知として信じていることも多い。

 物理学は理系の学問の中でも、かなり信用してイイ部類だと思う。
 しかし、理論研の人達が専門書を手に取りながら「この人は信用できるの?」っと会話しているのをよく見かけるんだけど、がっつりの物理学でも「人」を基準にして信用度合を考えているケースが意外と多い(理論研なんだからテメーで読んで理屈で考えろよっと思ってしまうが、暇そうにみえる彼らも忙しいのである)。ってことは実は、あんまりみんなちゃんと考えていないんじゃないの?って不安になってきたので、今日はどこまでが確実に信用できるのかを少しだけ考えてみようかと思う(がっつりやるといつまでも公開できないので、精緻じゃなくても勘弁してね)。

 自分で実際に(実験して)観たことがあって、それに対して確かだと俺が思えている、ってのが審査基準ね。

 確実にこれは正しいだろ、って思える学問体系の一つはニュートン力学です。これは自分で実験もしてるし、明瞭に正しいと思える。モンキーハンティングの実験で加速度の式は確実にあたってることはよくわかったし、振り子の周期(高校生が"リンゴ"で覚えてる周期の式ね)とか何回もやってるから絶対大丈夫。

 

 上の動画に挙げときますが、MITのOpenCourseWareで有名なWalter Lewin先生の最終講義でやってる振り子の実験が、面白くて実感できます(後半の光の散乱実験も面白い)。英語が得意な人は観てみてね(5:25くらいから見るとイイかも)。13:38からはLewin先生が過激なパフォーマンスをします、おもろいですよ。
 剛体についても、学部の一年生の時の実験したし、その慣性モーメントの加算性や回転半径との関係性などイヤというほど理解させられたわけで、信用できる(っていうか、なつい)。非線形現象についても、力学については納得してるつもりです。振動論でヒステリシスも実際に体感させられたし、そういうことがあるって、うむ信用出来る。

 電磁気学も信用出来る。このLewin先生のOpenCourseWareの電磁気学の授業でも、(何回目かは全然覚えていないけど)その中で出てくる実験によって色んなものが体現できたし、電磁気学は学部の実験も充実してるしね。
 ただ、実験では真空中の電磁気学ではないので、物質中の電磁気学は信用してるってほーが強いのかもね。測定量だとEやHは測定できるけどDやBは測定できないわけだし。まぁ、その基盤となってるのが真空中の電磁気学なわけだからイイのか。エレベーターでスマホ使えないと、いま導体中に入ってるからGaussian Surfaceを中で描いてみりゃそりゃそうだよねーっとかよく思います。うむ信用できる。
 ちなみに、シルバーシートでケータイ使っちゃいけないってのは、電磁気学をちゃんと理解してるとマジでアホみたいだよね。ペースメーカーをつけてる人をダシにしてる鉄道会社もサイテーだと思うし、ケータイ使ってる人に文句言ってるペースメーカーつけてる(特に)老人も、自分がペースメーカーつけてるんだからもっとちゃんと電磁気を勉強しろよ、って思うことが多いです。日本以外だと車内でふつーに電話かけてる光景も多いですよ。そーやって新しいモノを排除するような傾向だから、日本はいつまでも発展しねーんだっつーの。まさにこういうただ言われたことを信用しているってのは、本当に怖いです。

 さて、熱力学になると、ちょっとあやしくなります。拡散方程式とアインシュタインの関係式によって、ボルツマン定数が求められるので、Langevinのブラウン運動の実験をして確認してますから、とりあえず気体分子運動論と原子論は受け入れられます。
 でも、自由エネルギーとかエンタルピーとかのあの辺って、どうやって納得すればいいんだろうね?導入としてはわかるし、各熱力学函数とそれらの変数がルジャンドル変換で結びつけられることは、論理的な手順としては久保先生の本とかを読めばわかるけど(俺がどの程度ちゃんとわかってるかは別として)、本当に実際そうなってんの?って言われると、俺は自信ないっす。誰か教えて。

 量子論についてはプランク定数を光電効果の実験から求めたことがあるのでOK。かと思うけど、シュレディンガー方程式とか微妙かも。当然一粒子で観たことないし、あれ、ホントか?光電効果だけ信じられれば、シュレディンガー方程式が完璧おっけーなわけじゃ全然ないだろと思うんだけど。うーん、正直わからん。(実験やってる人間としては失格だな笑。までも俺はふだん基礎物理の実験をしてるわけじゃないんで許してけれ)
 まぁ、超伝導はマイスナー効果の実験や電気伝導測定で確認してるから、BCS理論などのマクロな量子論としてはある程度OKではあるんだけど、まぁでも第二量子化して場の演算子使ってるし、基礎的な量子論を信用するかしないかって点では、別枠であつかったほーがいいんかな。
 まぁでも、バンド理論とか、半導体や金属や半金属については実験してるわけだし、エネルギーバンドの存在って意味では、シュレディンガー方程式から導かれるわけだから、イイのかな。とすると、ボルツマン公式において状態数が定義できるから、、うーんでもやっぱり、エントロピーをああ書けるってのは体感できない。言葉や論理で遊ぶのはいくらでもできるけど、実を伴ってない感じがしちゃうんだよね、この辺はもう少し考えておくことにしよう。
 ってなわけで、これと上のブラウン運動のケースと電磁気を合わせると、これで有機化学はほぼオッケーだね。安心してNMRがとれるね(笑)。スピンについては磁性体の実験ををちゃんとしてないと言えないけどね(磁性体の実験は当時の俺がめちゃくちゃ嫌いでとらなかったんだよなぁ)。

 となると、一番あやしいのって、相対論だな。まぁ、なかなか実験がしにくいのか、ネットでも信用できないって人が結構いるよね。
 マイケルソン・モーリーの実験って簡単にできないのかな?できそうなもんだけど、でも確かに俺もした覚えは無い。一般相対論については、俺に至ってはその論理展開もよく知らないので、なんにもわかりません。ただ確か、水星の近日点移動が太陽の重力場によって光が曲げられていることの観測証明だったと記憶していますが、実際に俺が測ったわけじゃないので、やっぱりなんとも言えませんね。

 まぁ、でも反粒子の存在について、めちゃくちゃ信用してる友達が実験してますので、話も何回か訊いてるし、特殊相対論とディラック方程式は信用してよさそう。
 え?信用してイイ最初の定義からズレているって??実験してるとこ何回も観てるし、、うーん。ダメか?!

 そもそも、そういう誰も人を信用しないようなCグループ(ノリが悪い集団の総称)が研究してっから、理系は冥いんだよ。っと逆ギレしてみる笑。ここまで学問が成熟しちゃうと、全部が全部、独りで実験できるわけじゃないからね。

 破れた対称性の数だけ南部ゴールドストンボソンが出現するように、破れた人間関係の数だけ個の能力が上がる。でも場の量子論と違って、より強固な自己組織化をしている生命体である人間関係では、そもそも自発的には対称性を破りたくない力が働いてしまうわけで、それこそがなんの保証も無いのに信用してるかのような幻想が働く正体なのである。
 っで、彼とはそんな夢見な幻想を抱くような相手じゃないから大丈夫。だから特殊相対論は信用出来るさ(笑)。

 …いま残ってる関係性は、そんな薄っぺらいもんじゃないよね?っと問いかけて、終わっておこう。
コメント (6)
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