このブログで募集してます、相談メールで、実際の例を紹介しようと思います。以下は相談者の方のご厚意で公開したものですので、現在のところ、特に希望されない場合は公開などは一切しない方針です。
相談メールのルールなどについては
「相談メールの目標とルール」をご覧ください。
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相談文】
(プライバシー保護のため、少しだけ文面を変えています)
こんにちは。
ここ数ヶ月、研究について悩んでいまして、相談に乗っていただきたく、メールしました。
正直になるべく全部書きます。今のところこの話は誰にも話していません。また、僕の精神状態については全く問題ありません。
[背景]
回答の際に参考になるかもしれませんので、少し私の経歴を書いておきます。私は某大学の農学部を出て、同じ研究室で修士をとりました。修士では今とほぼ同じテーマで研究をしていて、博士からは共同研究先の他大の研究室に移ることにしました。少し目新しいテーマだったからか、学振DC1に採用されました。
博士に進学して、1年目は失敗しました。僕のテーマは野外で行うもので、ある生命現象の季節変化にフォーカスをあてたものです。元々計画がずさんだったうえに天候不順でろくにデータがとれませんでした。1年目の冬からは教授が提案してくれた室内での実験を始めました。セッティングさえすれば学部生でも出来る実験です。それでも実験の設定に苦労して、このあいだ、ようやく結果がでました(大方予測どおりですが、特に嬉しくもありませんでした)。問題は、この実験とは別に計画していた野外実験に今年もまた失敗してしまったことです。室内実験との両立がうまくとれず、さらに機械のトラブルなどもあっての失敗です。結局教員に言われた実験でしか結果がでていないというのが現状です。
[やめたい理由]
・テーマに価値を感じない
正直、今やっているテーマが面白く思わなくなりました。価値が感じられないんです。修士のころは、研究テーマにそれなりに価値を見出して、さらに身につけるべきスキル(プログラミングなど)を習得ながら目の前にある問題を必死で解決しようとしてきました。そのため一日のうちかなりの時間を研究室で過ごしていました。しかし、博士になって、一通りのことができるようになり少々ゆとりをもって研究をするようになってから、だんだん周りが見えるようになってきて、自分の研究テーマがどういう性質のものなのかが、恥ずかしい話、D1の後半あたりになってようやく理解できるようになりました。
僕の研究テーマは、生命系の中でも応用よりのテーマです。うまくいけば農業などの役にはたつかもしれませんが、科学としては本質的とは決していえない。科学というなら、現象のメカニズムを解明するべきだ、そう思うようになりました。僕が今やっているのは、すでにある現象を利用するだけのことですから、サイエンスとしての価値があるのかというとかなり怪しいと思います。こんな簡単なことに気づくまでに何年もかかってしまったことが、とても悔しいです。自分で何も考えずにやってきた証拠です。
今のところ、上に書いた実験で結果は出ているので、それで論文を書いて、これから計画を立て直して頑張れば、それで博士は取れるかもしれません。その過程で、何かしら得るものはあるでしょう。でも、上のようなことを思ってしまった状態で、最後まで頑張れるか、自信はあまりないです。
僕は修士まで、研究で結果を出せば何者かになれるかもしれない、そう考えてきました。それまで、本当に不器用で、特に取り柄もなかった自分に、研究という、意義のある・頑張れる・打ち込める対象ができた。それがとても嬉しかったんです。でも、今はなんだかその頃とは変わってしまいました。できれば研究室にいきたくない、と思うところまで来てしまいました。この状態は少しつらいですが、あの修士のころの状態のまま突っ走っていた場合を考えると今のほうが幸せなのかな、とも思います。
[やめたい理由の奥にあるもの]
・単なる失敗からの逃避
「サイエンスとは〜なんて高尚な言葉を隠れ蓑にして実は研究から逃げたいだけなんじゃないの?」と、自分に対して思ってしまいます。研究なんてうまくいかないことだらけなのですから、そんなことでやめたいと思うような弱さは克服しなければいけないと思います。「仮に、研究が万事うまくいっていた場合、研究室をやめたいなんて言ってないんじゃない?」と言われてしまうと完全には否定できないのも事実です。それまでのもやもやを抱えながら博士を取るかもしれません。「うまくいかない」と「やめたい」が同時に起こっているため、両者に因果関係があるのかないのか、わからないんです。
・指導教員からの逃げ
指導教員は普通にいい人だと思います。何かを強要されたことは一度もないですし、こちらから行けば必ず自分の手を止めて話を聞いてくれて、アドバイスをくれます。ただ、指導教員からは、少し噛み合わないというか、なんだか見透かされているような感覚を感じてしまいます。ちょっと、話しかけづらいです(そのためなんとか自分だけで無理やり解決しようとしてきました。それも良くなかったのかもしれません)。
僕は単に失敗から、研究から逃げているだけなのでしょうか。たかはしさんがこのメールを読んでどう思われたか、聞かせていただけませんか。
[辞めたあとどうすんの問題]
今の研究室をやめて、テーマを替えて別の研究室に移ることも考えましたが、今のところ特にしたいことはないです。上のような調子(「テーマに価値を感じない」の最終段階)ですから、研究そのものが僕はあまり好きではないのかもしれません。今後どうするかは、やめることを決めてからゆっくり考えようかなあと思っています。甘いでしょうか?
近々、企業の説明会のようなものが大学で開かれるらしいので、それには参加するつもりです。現在、起こしている行動といえばこれくらいしかありません。
【
回答文】
ご相談有り難う御座います。
たかはしけいです。
メールを読ませていただいて一番に感じたのは、
貴方は「研究者としての強い理想」をお持ちなのだなということです。
貴方のメールには、自身の研究テーマについて「科学として本質的とは決していえない」と書いてあり、そのすぐ次に「サイエンスとしての価値があるのかというとかなり怪しい」と書いていますね。よほど、今の研究があなたの理想とはかけ離れているんだと、思っていらっしゃることがわかります。
さて、貴方が考える、
本質的な、価値ある研究とは、どのようなものでしょうか?
あくまで、私の考えですが、「価値ある研究は、原理的に行えない」と思っています。これでは意味が分かりませんね。説明します。
まず、確実に「価値あるテーマ」と認識して行っている研究行為には、意味がありません。価値があるかどうかわからないことについて、
価値があるかどうか確かめようとする行為を「研究」と呼ぶのですから。もし最初から「これは価値あるテーマだ」とわかっているなら、それは研究とは呼べないでしょう。なので、研究を行うためには、論理性や情報収集以上に、「これでやってやるぜ!」と思い込める勇気が必要です。
そして、勇気と論理性と情報収集と日々の実験や考究の結果、幸運にも、自分のテーマが価値あるテーマだとわかった、としましょう。だとすると、その研究は、その時点で死に絶えます。だって、価値があるってわかってしまったのですから。その価値が明らかになった時点で、すべてのアカデミックっぽい行為は、研究から「ただの作業」に移行します。あとは、他の人達に「これは価値あるよー」って伝えるだけになりますからね(それは即ち作業です)。
この繰り返しを行うことは「本質的な研究活動」だと思いますが、、「価値ある研究」というもの自体は原理的には存在しえないのではないでしょうか。
お気づきの通り、
研究は「賭け」です。残念ながら、誰もが永遠に勝つことはありません。なぜなら、「飽くなき探究」を繰り返し続ける必要があるからです。勝つことがないことが決まっている賭けに、どれくらい本気になれるか?というのが大事だと思います。
勝つことはありませんが、「負けない」ようにすることはできます。「負けない」ためには、まず、どんなことがあっても、研究をやめないことです。
なので、
今のテーマが、大した価値がないとわかったのは、立派な結果だと私は思います。それは、誰からも称讃を浴びないのだとしても、「やれるだけのことはやったのだ」と自分自身に対して胸を張っていい結果なのです。たしかに、一つひとつの行為は誰でもできるかもしれませんが、その
価値観に気がつけるかどうかということについては、必ずしも誰にでもできるわけではないのではないでしょうか。
それから、先生に手助けをしてもらったことを恥じる必要はまったくありませんよ。
自然科学分野の研究者にとっての敵は、先生でもなければ、競合分野でもなければ、同期の院生や、先輩でも後輩でもなく、当然ネットで厳しい理想を掲げる誰か(私もその一人かもしれませんが笑)でもなく、自然現象そのものなのですから。圧倒的な自然現象に比べれば、自分に敵意を向けている人だって味方です。ましてや、
指導教員は貴方の圧倒的な味方です。そこをお忘れなく。
というわけで、モチベーションをその部分に持てないでしょうか?つまり、私にはどうしても、今度は貴方ができる限り頑張って、味方である先生にトクをさせてあげて欲しいなぁ、と思ってしまうのです。
現代社会、「普通にいい人」というのは、ものすごく少ないです。アカデミックなら尚更にレアです。
「普通にいい人と関係性がある」ってことは貴方の貴重な財産ですから、その関係性を持ってくれている指導教員の先生に対して、ガッカリするような気持ちにさせたり、悲しい想いをさせてはいけませんよ。今のところ、先生は、自分自身で研究の価値を考えようとしている有能な院生に対して、期待しているはずですから。そして、私は貴方に、「有能」であることよりも、まずは、「優」しさが「秀」でている状態である「優秀」であることを、期待します。どんなにプログラミングができても、どんなにあらゆる実験ができても、どんなに計算ができて、どんなに記憶力が豊かでも、優しくなかったら意味がないですから。
だから、まずは、「普通にいい人」である指導教員の先生がおそらく欲しているであろうことを、行ってあげること。即ち、今のテーマを(大した価値がないのだとしても)しっかりと原著論文にまとめて、カタチにすること。そして、できれば、新しいテーマを持ってきて、「今度は、俺がお前に、トクさせてやるんだ」と思えるくらいにまで、実力を高めたら良いんじゃないかと思います。
最低でも
原著論文に書いてまとめてからでも、次の行き先を考えるのは遅くないのではないかと思います。もちろん、先生のために研究室に残れ!、なんてことを言うつもりはありません。学生はお金を払っているわけで、その対価として先生は普通のことをしているだけなのですから。
でも、次何をするにしても、
「情」がある人が必ずいつかは成功するでしょう。その「情」を何に対して向けるかが重要だと、私は思うのです。その点をぜひ考えてみてください。
少しでも参考になれば幸いです。
また、いつでも連絡してください。では。
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【コメント】
「自分がやってきたことに価値がないと悟り始め、自分自身に対しての自信を見失っているとき、どのように自分を納得させますか?」
今回、私が相談者の方のメールから読み取ったのは、この部分です。そして、やめたくないんだ、という気持ちも伝わってきました。この質問にどのようにメールを送るか?というのがポイントだと思いました。
昨今、インターネットが発達してしまったせいで、あらゆる分野やあらゆる業種などで、「どこまでが本当で、どこまでが強がりなのか」が見えづらくなっています。若い世代にとっては特にそうなんじゃないかと思います。
研究界隈で言えば、たとえばネット上では「自分自身でテーマを決めなくちゃいけない」「そうでなければ、研究者として、博士号としての価値はない」と言われることが多いですが、私の実際の所感では、多くの人が「与えられたテーマのなかで、自分で少しだけ内容をずらす」ということを「テーマを自分で設定する」と言っているように感じています(実験・理論、分野に関わらず)。本当にゼロからテーマを設定し、自分がやりたいことを追及するのであれば、いくつかの研究室を縦横無尽に動かなければ到底不可能ですが、そのようなある意味「政治力学に反するような行為」を正当化するコメントは、インターネット上にそう多くはありません。
にも拘らず、ネットで目立つタイプの研究者の方や大学院生の方は、「俺はこうやって、単身で、研究を進めてきた!業績も出してきた!」と表面的には嘘ではない強がりを語ります。私もその一人かもしれません。そして、そのせいで、自信を喪失してしまう真面目な(若い)人もいるわけです。
確かに理想を言えば、研究者として、その卵である博士課程の学生として、「自分できちんとテーマ設定を行い、それを進捗させるだけの孤独」に耐えなくちゃいけないのかもしれません。でも、そのような厳しい正論ばかりが、アカデミックの社会をより良くするわけではないことにも、そろそろ注意をむけなければならないと、私は思っております。
その一つの答えとして、私が今回挙げたのは、簡単に言えば「仲良くすることが重要なんじゃないか」ということ。「仲良くしたい」なんて甘いこと言ってたら、確かに、博士号には値しないのかもしれません。でも、それでも、他者から甘っちょろいと言われても、私はそのほうが、重要で精緻な真実を自然界から抽出できる可能性が高いんじゃないかと思っています。そして、私たちは、承認なんかよりも、自然現象を掌握したいという気持ちのほうが強いはずだからこそ、アカデミアに所属してきたはずです。
「敵は、自然現象のはずだ」
私が修士課程の学生のときに、声を荒げてそのように指導教員に言った時、私はきっと、彼らともっと単純に、ただ仲良くしたかったのだと思います。そんなことを想っていた甘っちょろすぎた自分が、この相談によって、少しだけ救われた気がします。
相談してきてくれて、本当にありがとう。相談者さまに、あの頃の私に代わって、心からお礼を申し上げます。