たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

Promise -a cappella-

2011-08-31 00:49:47 | Weblog
 先がちゃんと見えていたとしても不安で仕方ない。
 絶対に大丈夫、こんなにスゴイんだから、って、行く先が眩しければ眩しいほど、その眩しさに足を止め、本当にやりたいこと、本当に言いたい言葉を、飲み込んでしまう。
 伝えられる術なんか、何にもなくて。

 もし、どこかに、上手い正解があれば、絶対安心して切り開いていけるような道があれば、って思うけど、見つからないし、あったとしても、結局そんなの面白くないだろうしね。どんなときも、どこにいても、不安があるからこそ、リスクがあるからこそ、行動してぶつかっていく意味があるし、もし何も失う可能性が無いんだとしたら、それは行動ではないと思う。

 だからこそ、とりあえず、とにかく、即物的な、何か「言葉」が欲しくなるわけで、言葉そのものに不安や責任や可能性を押しつけて、契約したくなってしまう。本当は、そこまでの状態に本当の意味でなってから初めて言葉になるはずなのに。言葉は後からついてくるはずなのに、先に求めようとしちゃダメなんじゃない?
 いつか必ずつかめるはずだし、焦らないで。

 言葉に騙されないで、諦めないで、妥協せずに辛抱強く信じていきながら、自分が出来ることを行動し続ければ、たぶんそれだけで、もう十分に、この広い世界中でたった一人の自分を生きることが出来るんだと思う。
 言葉ゲッターになるより、そっちのが楽しくね?

 本当の意味で、ずっと、その楽しさの方向へ応援していくことは、願っていくことは、確約できる。だから、このまま、連続的に変わっていきたいと思っている。

 (世間的にはあまり知られていないけど、ゴスペラーズの代表曲の1つ、「Promise -a cappella-」。
 このリードボーカルは本当にちょっと難しい。練習すればするほど、イメージに通りに歌えないことに、ビックリする。歌ってみると、実はこの曲は「歌い上げ系バラード」の歌い方を促進するようなメロディラインの流れが多いことに、すぐに気がつく。でも、この曲の雰囲気は歌い上げ系のイメージではないと思うので、「男の生きる道はこうだ!」感の歌い方をなるべく消して、ロマンティック感を出すようにしないと、様にならない。
 しなやかさを出さなきゃいけないのは、コーラスももちろんそうで、特に2サビから3サビにいくとこ(bridge?)の「うぉううぉうぉー」んとこで、「男!」感から「教会」感を出せるかが、勝負な気がする。
 なんとも課題が多い課題曲ですな。)
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お疲れ様、俺。

2011-08-30 01:00:30 | Weblog
 忙しすぎて、死ぬー。
 っていう種類の中二病な最近の僕です。

 でも、今日とか、マジ、充実し過ぎてて疲れた。。全部好きなことやってるから仕方ないけど。
 もう少し、一日を長くして欲しいよね。あと、まぁ、引き受け過ぎなくせに、捨てないからな。現に今ブログ更新してるし。

 睡眠時間を小まめにとって、寝れる時に寝よっと。そして、何故か、めちゃくちゃ眠い時って、あんまり眠れないよね。んで、やっとこさ寝ると、めっちゃ夢みる。なんか極端な。

 明日もやることをまとめると、本当にそれだけで疲れそうですが、早くは帰れるから、さっさと帰って寝る方向にしよう。

 情報収集系でやることは結構あるから、案外遅そうだけど。もっとまともに、ブログも更新できるために、早く帰るんだ!、宣言しとく。
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大好きなこと以上に大好き

2011-08-29 00:32:33 | Weblog
 今日でしばらく教職関連から離れる。
 ここ2ヵ月くらい教職教養をお勉強していた時期が続いたけど、いろいろな知識が入って良かったかも。教育法規や教育史を学ぶことができたし、時事問題や世間的な事を覚えることが出来たし、何より、漢字とか思いだした(笑)。ここで書いててもなんも意味ないからね。実際ペンで書くと、全然漢字が出て来なくってビックリしたわ。

 お勉強する中でやっぱりブレなかったんですが、あらためてすべての教育に従事する方に言いたいのは、
 『あなたが行っている、言っている、「教育」というのが、自分勝手ではない、って心から言えますか?もし、自分勝手なんかじゃない、と胸を張って言えるんだとしたら、今すぐ、その「教育」をやめた方がイイ。』

 教育基本法の前文によれば、「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである」らしい。
 はたして、本当にそうなってるかな?

 まだまだ、教育なんて、一部の人間が有意義に過ごせれば良い、というところまでしか考えていないと思う。学校として、当校として、ルールとして、なんて言うことが口癖の教員なんか、山ほどいるだろうし。
 自分のことしか考えていない教員が多くなればなるほど、どんなに即物的にキレイな言葉を並べてくれたとしても、論理構成がしっかりしている展開をしていたとしても、同様にそういう薄っぺらい人間が世に出される率が高くなるし、すると、使い勝手や効率だけを重視するようになってしまう。

 面白いよね、まったく別のタイプの悪い感じが共存する。もともとは偏屈な人間で、そこから輩出されるのは、ただ使い勝手のイイ人間や、それだけを評価するような人間ってこった。

 「誰か」以上に「何か」が好きではいけない。一番大切な人よりも「何か」のほうが大切だなんて、そんな人間を、「何か」でトップに立たせてはいけないし、ましてや教育なんて考慮できるわけが無い。
 「何か」しかホントに好きじゃない人間達に、「何か」を任せてはいけないし、そんな人達がヒトを育てようなんて、偉いっつっても、所詮、同じ人間なんだから、おこがましいとは思わない??

 例えば俺は音楽よりも自分と組んでくれているグループのが好きだし、大切な人(達)と好きな「何か」(音楽や自然科学)をカケヒキするんだったら、間違いなく大切な人を選ぶし、そういうことを前提として「何か」について頑張らないと、人間としても、「何か」を携わる者としても、優秀であるとは言えないと思うし、何よりも、そっちのスタイルのが1000倍楽しい。

 大切な人をないがしろにしてまで何かに打ち込むことが優秀だなんて、絶対に言わないで。
 教育も、、例外じゃない。
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絶対に超えられない壁

2011-08-28 00:31:32 | Weblog
 絶対に超えられない壁は、いつもは見ることはできない。
 何よりもみんなで隠そうとするし、信用し切っている相手ですら誤魔化している可能性があるからだ。

 どんな人とでも、その関係を良好に保つ上での距離が存在する。これは、ある時刻に変数tを固定したときに、お互いの能力や思想や持っている言葉や年齢などによって、機械的に決定づけられるものであって、気持ちや感情は依存していないことに注意しよう。
 その人との関係を安定に保つための平衡点を解析と行動のなかで見つけて、あとはずっとプラトーだったとしても、その状態をどちらかが満足できなかったり(まぁ、大抵は両者だと思うけど)、その状態ではダメな物理的現象が起きてしまうと、もっと歩み寄らざるを得ない。(っと大げさに書いてみましたが、ふつーによくあることよね。)

 その時に、自分の能力や信念のイイ部分を相手にもっていかれるんなら、まだマシ。本当に怖いのは、歩み寄り方として、相手がこっちにすべて合わせてくれた時で、その責任をとれないんなら、完全に遮断してしまったほうが良いかもね。

 ここら辺が、気持ちだけでは貫けない、現実と運命の厳しさな気がする。
 本当のホンモノの関係なら、歩み寄ることによって、自分にも相手にもプラスになるような向上が約束されている。もうねぇ、それがあるかないかは、努力とかじゃどうにもなりません。縁があるかないか。それだけです。
 もし、その縁みたいなんを感じ取れれば、きっと、自分も相手も、どんな状態になったとしても、助け合える関係になっていくんだと思う。

 まぁ、それでも、絶対やっちゃいけないレッドカードもんの行為はあるっちゃあるけどね。

 俺は、自分では決して選ばない。っというか、選べるほどの価値が俺に無いんだと思う。
 絶対に超えられない壁をどうするかについての権限は俺には無いし、常に相手が決めること。そのままにしてほっとくか、レッドカードをつきつけてくるか、壊してくれるのか、無理でも超えようと努力してくれるのか。期待していることは心に隠しておくから、勝手に選んでっ。

 その代わり、俺はブレない。本当の意味ではね。

 あと、俺が実質的に出来ることとしては、絶対に超えられない壁を隠してることに気づかないフリをして、知らないフリをして、ぶつかっていくだけだと思う。

 そういう意味では俺ってラクな役回りかもしれない。
 俺のせーにはならないわけだし、(能力向上も含めた)出来ることさえしてりゃー、あとは他のモノの依存性だけで、ホンモノを共有できるようになってるんだから。

 だって、自分が最大限やることはやったとしても、運命が違う、ってんなら、仕方ないって思えるっしょ?
 そこまでやって縁が無いなら仕方ない。

 って思えるぐらいは努力をしましょう。ってお話でした。笑
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めんどくさいの極み

2011-08-27 03:15:52 | Weblog
 あっという間なもんで、そろそろ8月も終わりそうですね。
 っていうか、よくよく考えてみれば、もう2011年。まだ2006年くらいな感じがしますけど、そんなんよりも全然未来に来ちゃってますね。

 ここまで来てみて、本当によく思うことだけど、割と焦らなくていいんだな、って感じがしてる。まだまだ焦る時間帯じゃない。別に、俺に限らず、みーんなそうなんだと思う。
 焦り過ぎて失敗することのが多いし、それで何かを妥協するくらいなら、ゆーくり時間変化させて理想にしたほうが良い気がする。

 最近、そんなんばっかりここで言ってるけど、賞味期限ギリギリを感じとって、焦って、即物的なことだけを大事にしても、何も結果が得られないことが多いもんね。
 だからって、提出期限ギリギリじゃ情熱不足だと思われちゃうから、ある程度の平衡点は探っていかないといけないんだけどさ。

 ただ、このページでは重要な系に特化して話しているから、いつもそっちばっかりについて、そういう風に書くけど、物理的にスムースな対応にも目を向けないわけじゃない。
 わざと、考える時間を与えなかったり、賞味期限を見せかけたり、そういうことは、自分にとって都合がイイだけでイイなら、かなり考えて、俺もやる。

 っと、見せかけてからの~、ホンモノ、だったりして。
 っで、自分でもめんどくさくなって、一時、ぜーんぶほっぽっちゃったり。

 こういうことしてると、解析のしにくさは半端無いけど、わかりやすさはピカイチなのです。
 それが本当の狙い。能力だけしかないヤツは自然と俺の周りからいなくなっていくから。
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「流れ」論

2011-08-26 02:29:17 | Weblog
 むかし、ぷらちなロンドンブーツって深夜番組で、Not100ってのがあった。
 ロンブーの2人とゲスト2人の計4人が、+1~+3までの数字を順番に言いながら食べ物に七味やタバスコなどをかけていって、100を言ってしまった人が、その食べ物を食べなきゃいけないってゲームで、かなりおもしろかった。

 いつだったか、ロンブーの亮が、このゲームに関するまとめをゲストに言ってたんだけど、それによると、色々心理戦になっていくけど「97を言ったら勝ち」って一点だけを忘れないようにすること、それから、なんかわからないけど、100になってしまうような流れや空気を自分に向けないこと、がこのゲームに勝つポイントらしい。

 負けちゃう流れから逃げる、ってのはNot100に限らず、飲み会系のゲームでは必須のポイントだ。山手線ゲームでも、愛してるよゲームでも、一番のポイントは、絶対に負けない側の人間のオーラを出すこと。負けを恐れて、それを表情に出してたら、どんなに山手線の駅名を完璧に言えたとしても、負ける可能性は高くなってしまうのだ。
 負ける流れがこっちに向いてきても、何も動じず、『いや、俺が負けるとか、ありえないっしょ?』って態度を取り続ける。そうすれば、だいたい勝てるのだ。まぁ、負けたい時ってのもあるから、使い用だけど。

 そう考えると、「流れ」って、その他の色々な場面でも結構大事。

 きちんとしたディスカッションが出来ることが保証されている、ゼミとか論文紹介の授業とか、割とこの「流れ」みたいなんが大事で、この流れにのっていない限り、発言をすることは難しくなっていく。また、全体の「流れ」みたいなのもあるから、自分が発表する順番がまわってくるまでに、実力に不安があるような時は、自分にとって都合のイイ流れを作っておくと良い。(ちなみに、「流れ」を考慮しなくてイイ分、基本的には、一番手が一番やりやすいと思っている。)
 まぁ、あえて、自分に不利な流れを作って、自分の実力を試す、ってこともするけど、ガチ勝負ばっかりしてらんないし、どうでもイイことも多いから、俺はこれくらいは前々から考えるようにしている。

 「流れ」を自分でどこまで作れるかはとても難しい問題だけど、間接的に「流れ」に依存している変数はいっぱいある。Not100では、+1~+3までの数字を言う権利と、参加者を不安にさせるような発言を言う権利があるわけで、あんな機械的なゲームでも、出来ることは沢山あるのだ。
 具体的に観えないモノに対して努力することが、「流れ」を意識する中では大切だし、たったひとつの道を通っていきゃーイイってもんじゃないことを、本当の意味で理解することが、「流れ」をコントロールする秘訣だと思っている。

 ただ、97と誰かに言われてしまった後に、出来ることは少ない。
 俺は、自分の中の、イイ「流れ」を作ったり、それを利用したりするのは、(自分で言うのもなんだけど)超得意だけど、物理現象によって、すでになってしまっている、悪い「流れ」に対して、行動力を発揮することに関しては、超下手だと思う。

 俺には、行動力なんて、ホントに無い。風向きに合わせて行動したり、イイ風向きを自分に向けることは得意だけど、強い逆境の中を、身体一つで突き進むような行動力を兼ね備えてるわけじゃないのだ。

 でも、大丈夫。「流れ」はひとつじゃないし、持っている系や場所もひとつじゃない。特に俺の場合はね。
 イイ「流れ」にしたいガチの系が悪い「流れ」になってしまっていたら、別の、どうでもイイ系からイイ「流れ」を借りてきて、あとはずっと、そのイイ「流れ」を引きずらさせる、みたいなことも出来るから。

 それでもダメなら、待ってみる。距離をとってみる。イイ「流れ」は、いつか必ずやってくるし、それまでの俺の努力だけでも、そうなる可能性があるし、間接的に「流れ」に依存しているパラメータはいくらでもある。
 出来ることがなくならないんだから、出来ることをやっていれば、必ずイイ「流れ」がやってくるのだ。そして、その時に、勝負すればイイ。

 30分の深夜番組と違って、生活は、際限なく長い時間で満たされているんだから。

 NOT ONE HUNDRED 1/2


 NOT ONE HUNDRED 2/2
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放送室に逃げないで

2011-08-25 02:18:40 | Weblog
 小学校高学年の頃、放送室にいるのが好きだった。
 なんていうか、メインとは別の場所、みたいなのを持ってるのが好きだったし、それを先生から指摘されたことを今でもよく覚えている。
 中学でも放送室に入れる権利を持っていて、変な話、ちょっとした逃げ場所だった。クラスの誰とも喋る感じじゃなくても、放送室にいってれば、全体に対してのイイワケになる気がしたし、即物的には独りぼっちにならなくて済むからラクだった。

 逃げ場所が、だんだん放送室だけじゃ満足できなくなってきて、ひとつ、またひとつ、って、増えていった。高校の頃からは、ケータイもあったし、いつでも俺は他にも場所なんていくらでもあるんだぞ、って部分を持つことが出来たし、実際に居場所なんてどこにでもある状態が殆どだ。

 今では、本当にいくつも、そういう場所を持ってしまっている。
 どんなことをしても、許してくれる、叱ってくれる、助けてくれる、最終ラインの仲間が、家族を含めて2つあるし、何も緊張せずに戸を叩くことができる研究室の数は、他の大学院生達よりも遥かに多い。

 そんな感じを羨ましがってくれる人もいるし、自分の強みであるとも思っているけど、保険をかければかけるほど、本当の意味での深さは得られないことにも気が付いている。
 結局、みんなに、どーせ他の場所もあるんでしょー?、って思われちゃうと、ホンモノの関係を築きたい時には弊害でしかないし、実際に即物的には存在してしまっているから、あんまり弁解の言葉も思いつかなくて。

 即物的に独りぼっちにならないように準備をすればするほど、本当の意味で独りぼっちになっていくのかもしれない。

 っま、大切に思っている、想いたい人であればあるほど、それくらいの解析力は持っていて欲しいなって思ったりしちゃうけど、そんなの求め過ぎ。

 自分では、重要度の高低差に対して明確な指標を持っているつもりだけど、相手には伝わりにくいし、実際に放送室に行ってしまうとその明確さに若干のブレが生じる。それが転移点を超えるほどではないけど、上手く行っていない時ほど、放送室をメインにしてしまいたい衝動に襲われたりもするのだ。

 真面目だから、実際にそんな風になったことは、一度もねーけどな。笑

 でも、いくら実質的にそうならなくても、そういうのが本当の意味での独りぼっちにしていくんだとも思う。

 だから、放送室みたいなとこに、逃げないで。
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情熱体質

2011-08-22 02:45:39 | Weblog
 自分と違うところがあると、怖くなって、無意味に攻撃しがちだ。誰かを助けるためじゃなくて、自分を守るために攻撃してるだけだから、何も生産性が無い。

 持っている言葉(資格や学歴、所属、出身、家柄など)だったり、何かの即物的な能力だったり、そういうのが周りの人間と違うと、怖くなって、同種の人達と、ついつい「キモいよねー」って。
 どの世界に行ってもそういうことはあるし、俺もその空気がラクな時があるし、ある程度は仕方ないのかなって思っていたりもする。そもそもが狭い世界なのに、その中でまた派閥を作って、バカにし合ったりして。音楽って狭い世界なのにあのグループはダメだとか、理系って狭い世界なのに生物はバカだとか。

 ちなみに、俺は物理学科から生命系に入ったので、多分あってると思うんだけど、物理よりも生物のが絶対に頭使わない。だから、ある程度、ホントに、生物のがバカだと思ってる(言葉悪いけどわかりやすくさせて)。
 物理からきた俺に対して、やっぱり「もうこっちの世界に入ったんだからさー、合わせろよ。長い間ここにいるほーが偉いんだぜ?ったく、そんなことも知らないでぇ。」みたいな空気出されたりもするから、どっちもどっちなんだけど、ただ枠組み作って、俺らのが長いから、ってどっちのが偉いとかやってるよりは、本当のこと言ってる俺のがマシじゃねぇ?笑

 生物なんて各論的だから、大したことねーっす、物理理解できてたなら大丈夫っす、って生物系の人は、信用できるし、賢いと思うし、そう言われたら、『いえいえ、そんなこたー無いと思います』って本当の姿勢を出せるのに、もっと合わせろよ、みたいな態度取られると、すでにこっちは合わせに行ってやってんだよ、バカヤロー、って思っちゃうよね。

 って、俺にとってはどうでもイイことで例を出しちゃいましたが、もっとホントに言いたい系はあるんですけどね。笑

 こういう風に、持っている言葉を、最終的な切り札にしたり、唯一の武器にしているようなヤツになってはいけない。

 持っている言葉は、ザコを一掃するために使うのだ。俺は、そういう空気を出されても、っけ、俺はどーせ物理だから、みたいなことで攻撃しようとは思わないし、物理出身のヤツで固まって悪口を言うなんてことは、あんまりしない(イライラしてると、ちょっとするけど(笑))。
 どんな新しい世界でも必ず、情熱があって、その上で頑張ってる人達がいるわけで、そういう人達と、どう対等に語っていくか、どう勝負していくか、最終的には、どう本当の仲間にしていくか、が大事であって、派閥を作ることが目的じゃないから。

 何も情熱が無くて、ただその場の感じだとか、得意だから等の理由で、その場所にいる人の中で、それなのに、自分と違うヤツらをバカにするようなザコに対して有効的なのが、自分が持っている言葉で一掃することだ。

 情熱がある集団に行けば、そこがたとえレベルが低くても、どんな世界でも、大抵は、個人をリスペクトし合うっていう共通項が表れてくる。
 なんでもかんでも、上司に合わせてればイイってもんじゃないと思うし、そういうことでかわれても、非常に即物的。情熱を持った人をきちんと評価できるのは情熱がある人だけなのだ。

 俺自身はその先を課題にしていかないといけないと思っている。
 いかにして、自分には情熱があまり無いと勘違いしているような人に、その存在の尊さを伝えられるか、情熱を持てていると実感できるような即物的なモノを提供出来るか、一緒に発見していけるか、そっから、もう一歩、本当の意味で情熱を持たせてあげられるか、が問題であって、情熱がある人に認められることも、認めてあげることも、ちょっと飽きちゃってるかも。

 情熱を持たせることに情熱を持ってみたい。

 何も情熱も無いような人、って言い方をしたけど、本当の意味で何にも情熱を持っていない人なんて、探す方が難しいと思っている。
 (だから、本当は、ザコを一掃するためでも、自分が持っている言葉を使うのは未熟、かな。)

 ≪無理じゃね?それ。≫
 『うーん、難しいよね。だって、感情ってだけで誰でもキレイで、思考なんてモノは修行すれば誰でも手にできるとしたら、評価はどうしたって、その人の行動に依存しがちになっちゃう。』

 感情がキレイなのは人間なら当たり前。
 個体差がある気持ちの大きさと方向性だけで、ちゃんと、自己評価、他人を評価、自分を含めた二体系&多体系として評価、できるためには、気持ちを気持ちで感じとるしかないのかもしれません。

 気持ちの大きさと方向性で評価する。二言は無い。
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すれ違わないまで

2011-08-19 01:12:34 | Weblog
 本当の意味で低レベルなヤツがつっかかってきたとき、そのレベルの土俵まで下がってやって戦うか、そんな土俵では勝負せずあくまで大人な対応をしようか迷う時がある。

 低レベルでめんどくさいヤツには、つっかかられても、かかわらないようにするのが本当は一番。適当にスルーすれば、無難に「はい」って言っておけば、その場はそれが一番イイのかもしれない。
 でも、それが出来ないくらいにスイッチを入れられると、俺は本当にダメだね、完全に、その低レベル土俵で戦って勝ってやろうって思っちゃう。

 広い世の中には、他人を怒らせる天才みたいなヤツらがいて、スイッチを入れてくる。いつも入れないようにしてるのに、そういうのが入っちゃうと、ものすごく理論的になって論理が早くなる。
 その直後、なんとなく自己嫌悪になるんだけど、まぁ、結果的には良かったか、って思うようになることの方が、遥かに多い。原因となった物理現象なんてどうでもよくって、結局、どこかで、そうなる運命なんだ、って思えるくらいになっていく。

 あの時、高橋さんが言ってくれてよかったです、とか、自分の分まで言ってもらえたみたいでありがとうございます、とか言われると、感情的になって自分の論理性の限界まで出してみて、まぁ、よかったかな、って思うこともある。

 こんなに純粋な気持ちが間違ってるわけ無いよね?、それを出したら集団のために誰かのためになってるんだよね?、って問いかけるみたいに、『でも、ごめんなさい』って言うのは、俺一人勝手にそっち側へ行った、せめてもの償い。

 ただ、広い世の中には、本当に素晴らしいスゴイ人もいて、俺がそういう風にならないように、自分のせいで、そういう状態にさせないように、一生懸命演技するような人もいる。
 即物的には観ただけじゃ、感情がどちらに向いているのか見抜きにくい。もしかしたら、ただの自分勝手で、自分が関わっていたくないし、自分のせーじゃないなら何でもオッケーって思ってるのかもしれない。でもそうじゃなくって、気持ちが外側に向いて(俺や他のみんなのことをホントに想って)、安定や現状維持を大切にし、俺がそっち側へ行かないように仕向けてくれるんだとしたら、それは、やり方やスタイルは俺とは逆行してしまうけど、気持ちが素晴らしいから、申し訳ないし、情けないし、ありがとう、って思う。

 もっともっと、俺が色々な力があって、強ければ、そんな切ないすれ違いにはならないはずだから、だからやっぱり、お勉強を続ける意味がある。
 その部分だけをとってもね。
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このページについて

2011-08-18 00:11:55 | Weblog
 なんとなく、裏ブログに特別書く内容が見当たらなくなってきたな。
 まぁ、長い目でやっていこぉ。このページもまったく更新しないときもあったしな。もうすぐ、このページ、7年目だからね。ホント長いよね。こんなにブログが流行る前からやってるからね。

 俺が知ってる中で、自分より長く同じページでブログとか文章とか書いてる人って、2人しか知らない。1人は東大の先生で、学生の頃から書いてあるブログが1つ。もうひとつはブックマークに入ってるイトウケンジさん。この2人には色んな意味で敵わないな。笑

 タイトルも、「Kei Takahashi Room」(2005)から「高橋慧の頭の中」(2006~2010)になって、また「Kei Takahashi Room」(2010~)に戻してるんだよね。また来年、新装開店するのかな?

 そうそぅ、そういえば、昨日まで、アクセス解析無料体験キャンペーン期間中だったんだけど、この機能キモいね。

 キモい機能その1
 「どの検索ワードでこのページに飛んできたかが分かる。」
 あのね、これ見てると、正直、こっちが怖いです(笑)。
 案外、理工系の参考書の紹介の記事のとこで、みんな入ってくるんだね。あれ、もっと更新しようかな。あの時よりももっと参考書の種類知ってるし。

 キモい機能その2
 「時間ごとの閲覧数と訪問者数が分かる。」
 こんなの要らなくね?更新してるところでグラフがぐわって上がってるだけで、何も面白味が無いんだけど、考えだすと結構面白いかも、キモいけど。時間が無くて出来なかったんだけど、また来年あたりの無料キャンペーンでやろっかな。笑

 キモい機能その3
 「どのウェブブラウザで観られていたかが統計的に分かる。」
 だから?笑
 マジ、で、何したいのか、まったくの謎。ちなみに、ここでよく観られているのは、Googlebotが1番多かったです。って、それ何(笑)?あと、Mac使ってる人が観る率が高いのかSafariも多いです。俺も、Mac派~。

 こんなのお金払って解析してる人の気がしれないわ。。

 まぁ、このページは、本当に、僕の気分でたらたら書くだけのページなので、何もあなた方に有用な情報は期待できません。ごめんなさい。

 でも、ちなみに、このブログはスコア値が2、でして、これ、個人的に結構嬉しかったです。ほとんどのブログは1だからね。
 皆様、本当にいつもありがとうございます。これからも、どうぞ、僕が死ぬまでお付き合いくださいね。笑
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決めつけないで 5

2011-08-17 01:09:33 | Weblog
 これは理系の大学の教員に対してよく思うことだけど、、教育や人間関係について語るなら、もっと論理力を本気で駆使してから口を開かないといけないと思う。

 『あれだけ難しいことやってるんだから、なんでそんな簡単なことがわからないの?って思うことよくあるよ。』
 《あー、わかります。それ、私も、よく思ってます。頭イイんでしょぉ?って。》
 『そういうことわかるために勉強してんのに、お勉強の世界だけでお勉強が出来ても意味ねーだろ、ってね。笑』
 《そういう気持ちとかに関しては、興味が無いっていうか、ちゃんと考えてくれる気が無いんだなって思っちゃいますね。》
 『そこが、俺が多くの理系に対して嫌いなとこ。無駄に賢いだけ、ってマジで意味が無くね?』

 当然だけど、先生と呼ばれる人間は、論理力がしっかりあるはずだ。

 なのに、教育だとか、他人の気持ちだとか、そういうことになると、何も論理性が無いことを平然と言いだす。すぐ格言みたいなのをひねり出してきて思考停止。格言に対して自分なりの解釈をしようとはしないし、その格言がどの範囲で使える格言なのか計算もしない、自然科学のよく知られた公式に対してはするくせに。よーするに、興味がないのだ。だって、自然科学をあんなによく理解できるのに、たったツーステップの論理展開も出来なかったり、重要なパラメータを混同してたりするからね。
 熱力学の世界で喩えるなら、内部エネルギーと熱の違いがよくわかってないみたいなことすら、人の気持ちに関しては、平気でやる。あぁ、本当に頭イイだけなんだな→頭イイのに頭の使い方がマジ無駄→無駄な方面ばかり思考力が高くて、だから本当に頭悪いんだな、って思うことは、賢い世界へ行けば行くほど、多くなっていく。

 理系の悪い癖だけど、興味が無いことについて頑張らないんです。だから、自分を狭い世界に閉じ込める。
 どーせ、化学は出来ないし、専門は生物学じゃないし、物理は難しいし、実験は出来ないし、ってね。理科の範囲の中でそれをやってる分にはまだ良くて、どーせ、人間関係は苦手だし、他人の気持ちとか、そういうことに対して頑張るの得意じゃないし、努力の割に結果が出ないと思うし、っていって、すぐ決めつけて、そっち側は何もやらない、努力の仕方を変えてみて、それで努力しようとはしないんです。

 あくまで、自分が気に入ってる努力のやり方でしか、努力しない。これが理系の人達の一番の欠点だと俺は思っている。
 苦手なもんは苦手なままでイイ。だけど、何もやらなくてイイ、ってもんじゃねーんだよ。苦手なことを、他人の何倍も何倍も得意になろうと努力しなくても良いけど、苦手な種類の努力も、自分が気に入ってる努力と等しく重要であることを受け入れて、苦手な努力でもチャレンジし続けてみろや、って思うことは本当に多い。

 決めつけないで。

 決めつけを相手に対して言葉にして表すことは、そこまで悪いことじゃない。たいていはイラっとするだけだし、その即物的な感情の原因を追究してみると、別の気持ちに気がつくことだってあって、プラスに作用したり、必要であることだったという結論に達することすらあるからだ。

 本当にダメなのは、自分自身や大切な人の評価に決めつけを依存させることであり、しかも、その決めつけを、自分の評価の場合は複数の誰かに対し、大切な人の評価の場合はその本人と複数の誰かに対し、何も言及せずに、次の行動を勝手にとることだ。

 言葉は何も重要じゃなくて、その行動が重要だってことだなっ。決めつけに関しても、これの例外ではない。

 『でも、言葉を発することそのもの、またその内容を言葉にするということそのものは、行動に含まれるんですよ。』
 「えー、難しすぎるよー。複雑すぎるし、そんなところまでなかなか見抜きにくくない?」
 『難しいです、難しいですけど、こんなところにいる人だったら、全員、どんな系であっても、これくらいの内容は簡単に理解、解析できるはずです。』

 って、やっぱり、決めつけないで?
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終わるなー!!

2011-08-15 03:12:36 | Weblog
 計画立ててる時の方が楽しい気がする。正確に言うと、計画立ててから実行するまでの間の期間かな。

 楽しみにしてる時が楽しくて、実際にその時になると、すぐに過ぎてしまうから、終わらせないようにしちゃって、また今度、始めにくくって。
 始めるのも終わらせるのも得意じゃない。どちらかと言うと始めるほうのが慣れてるから、始めてはみるけど、次に繋げるようにするためには、早く終わらせないといけないの?こんなに楽しみにしていたのに。

 時間(hour)のオーダーの短いタイムスケールでも、年月のオーダーの長いタイムスケールでも、終わらせることに関しては、いつも他人任せ。こんなに場所を移り変わることが多いけど、一回も自分から終わらせようとしたことなんて無い。
 だから、こっちの『終わりたくないけど、終わらないとダメなんだよね?』って気持ちを察しながら終わらせてくれると、ありがとう、って思ったりもする。打ち切ることが、俺はもっとも苦手だから。

 音楽だったら、勝手に終わるから、ラクなんだけどな。途中で、終わるなー、って思っても、勝手にアウトロに向かっていっちゃうから。

 『この曲のフルあるじゃん?』
 ≪んーでも、この楽譜くらいで、ちょっとしかないから、もっと聞きたいってなって、イイって思うんじゃないかなぁ。≫

 一過性であるからこそ素晴らしい、の存在は認める。だけど、それは音楽とかそういうモノだけにして欲しいもんだ。

 一過性であるからこその素晴らしさだって確かに本物だ。でも、そういうのは、もう要らないっ。
 きっと次、またあるから…、って頭で考えられるから大丈夫、ってなるのって、無理してるだけか、その程度か、どっちかだって、わかってるし。

 たとえ短いタイムスケールでも、一過性であることに不安を感じて、終わるなー!!、って思う気持ちこそ、ホンモノに近いんだと思う。
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自己陶酔のメリット

2011-08-14 04:10:54 | Weblog
 自信を持っていることをどんどんアピールすることが次の強さを得ることに繋がる気がする。

 嘘じゃないレベルで、こんなんも出来るし、俺ってスゴイ、って言っていけば、逃れることができなくなるし、本当に仕事が回ってくる。そこで、期待通りにこなすために頑張れれば、本当になっていく。

 好きな人には特に自分の強さをアピールした方がイイ。口だけじゃん、って幻滅されないように、頑張るから。そして、その手法そのものすらもバラす。逃げられないようにしまくる。
 嫌いな人にもなるべくアピールをする。負けたくないから、頑張れるかも。
 どうでもイイ人にもアピールしてみたり。数は多ければ多いほど、引っ込みはつかなくなる。

 沢山のことについて、出来ることや将来の自分のスゴさを宣言していけば、もちろん、出来なかったことも出てくるし、そこまで行かないこともあるだろう。
 でも、それでいいじゃん。ちょっとくらいバカにされたって、大丈夫。

 例えばTOEICとかで800点欲しかったら、次の試験で900点取るぜ、っとか言ってみちゃう。そうすることで、確実に800点は取れる気がするし、それでバカにされたら、次で本当にもっと上に行ける気がするからだ。先の先まで読んで、ちょっと多めに言っておけばイイ。

 むしろ、謙遜するってのは、みんなから賢いって思われたいんじゃない?
 俺は、能力がある人、大切に思っているor思ってくれている人、には評価されたいけど、それ以外の人にはガチでどう思われても良いので、少し高めに自分自身を設定しておく。その姿勢ややり方を、能力ある人や大切な人は必ず理解してくれるので、結局、バカにはされないし、暖かく見守ってくれる。

 優秀な人達や大切な人達のおかげで、今の自分がいる。本当に感謝しているし、これからも、こんな方法に付き合ってくれる、その器の大きさに頼らさせてもらいたいと思う。

 で、そうじゃないバカなヤツにバカって思われても、どうってことないじゃん。

 だから、自己陶酔でやっていこう、って思いつく俺って、天才じゃね?
 ってね。笑
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大義名分が無くても

2011-08-12 02:39:05 | Weblog
 時間でもお金でも、投資するときは、未来に期待している。

 『えー、ホントにそこまでですかー?笑』
 ≪絶対そうだって。想像以上の何かが未来にあるかもって期待できるときに、人は初めて、投資しよう、って思うんだよ。だから、日本は自然科学から手を引くことができない。どんなにお金が無くてもね。≫
 『なるほどねぇ。っま、確かにそうっちゃそうかもですね。』

 手堅いことは世の中に溢れている。たとえ研究の分野でも、ホントの本気で、誰もやったことないことしてみよぉ、って思うヤツは少ないらしいのだ。っま、そりゃそうか。
 誰もやったことのないことをするときに一番必要なのは手堅い能力なのに、それを得るために今まで手堅いことやりすぎちゃったせいで、習慣として冒険できなかったりするから、難しいよね。

 なのに、冒険をしたいかも、って思うのは、本当に情熱があるってことだと思う。言い換えれば、諦めていない、ってこと。

 年齢を重ねれば重ねるほど、まだ諦めてないの?、って思われるのが怖くって、どうしても即物的な理由を探しがちだ。みんな手堅いことばっかりやっていて、何も情熱が無く一生を終えてく道のりを隣で見てる中で、情熱至上主義もここまでくると変態扱いだし(笑)。
 気持ちがホンモノであればあるほど、理由を探して行動する。大義名分はあるぞ、って表向きじゃないと、何も行動できなくて。

 もし、理由も無いのに気持ちだけで押しつぶそうとしていたら、それは逆に薄いってことだと思う。
 普通、理由もつけずに、本当の気持ちをぶつけるなんて出来ない。どんなにそれが望まれていたとしてもね。

 っで、俺は、それこそが、人間らしいと思うし、頭と心を対等に使うってのが大事かなって思います。
 まぁ、俺が対等かどうかは、あやしいけどね。もう少しだけ、大義名分が無くても、本当の気持ちだけで行動できてしまうだけの勇気が欲しいなぁって思ったりします。
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セオリーを介在させないで

2011-08-11 02:16:43 | Weblog
 セオリーに頼りっきりになるのは良くない。

 いつも同じプロトコルで何も考えずにそれをこなしていればイイって状況を作るまでは、それなりに努力が必要だけど、みんな(俺も)、そういう努力によって成功することが汚いことだと思っているし、公式でも方程式でも手法でも、とっても脆くって、特に重要なシーンでは、何も役に立たない。

 ガチだからこそのセオリー依存なのに、必勝パターンでは勝てないのが、勝ちたい相手。
 だって、即物的なモノを、ほとんど求めていないんだから、当然っちゃ当然だよね。

 先生、セオリーのイイ部分だけ取ろうとしちゃダメなんですか?

 ダメ。だって、君は、セオリーから一部を抽出する手法のセオリーも知っちゃってるから。

 がーん。
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