たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

褒賞の代償

2022-08-19 01:51:59 | Weblog
 基礎基本を疎かにせず、きちんと一つひとつ目の前のことをこなしていけば、必ず結果が出る。
 そういう当たり前のことを声高らかに宣言するよりも、どう上手くやるか?どこでズルをするか?を語り、勝利できるぞ、と嘯けば共感されるような毒が社会に蔓延して久しい。

 しかし、昨今の社会情勢を見ていると、毒に侵され権威者の靴をペロって実力を高めることを放棄した人たちが、砂を噛みはじめている。
 これは、みんなが思うよりも遥かに大きな変化だと思う。だって、次の世代が、権威者に縋ってズルして勝ったとしても、あーなるんだな、っということをじっと見つめているから。この変化は、やっぱりこれでいいんだよね、実直に取り組んでいくべきだよね、という安心感を齎すとともに、ある種の悲しさを孕んでいる。
 どれだけ否定したとしても、所詮、自分自身もどこかしらで毒に侵されていることを直面させられるからである。

 学校教育の集大成であるはずの大学院で、何を多く学んだか。それは、本質的な研究進捗のやり方でもなければ、自然科学でもない。「すごく魅せる」というテクニックを中心にして、権威者へどのように擦り寄り、どのように攻撃から身を守るか。残念ながら、そんなことを多く学ばせるようなシステムであった。さらに残念なことに、あれから、その能力は確実に俺の役に立ってきてしまっている。
 努力している感を圧倒的に出せば良いんだろ?それが社会人ってもんだしビジネスにも繋がるんだろ?社会ってそういうもんだろ?と、この毒にどっぷり浸かっている人たちが社会には沢山いる。しかし、東京大学という場所は、毒にどっぷりと浸かっている人を凌ぐほどに毒の質そのものが強く、どっぷりとは浸かっていないはずの俺のほうがよほどに薄っぺらさを演出できてしまうことが多々ある。それも小指を少し動かす程度の労力で。”チャラい社会人たち”が生きている日系企業よりも、毒の質も量も、東大のほうが上なのだ。ペラい標語を述べることに対しても能力の良し悪しがあるわけでして。。

 それを嘲笑うかのように、真実が目の前に立ちはだかる。
 必然性の名のもとに天より与えられた褒賞は、自分があの場所を捨て去った頃には予想もできなかったほどに強大であるのに、至る所に毒が廻りすぎて、思うように身動きが取れない。絡まったコードを一つひとつ解くように、根本から解毒しようとすれば、もっと強大な毒に気がついていく。

 『もしこれで結果が出たとしたら、これは2人の結果だと思うから、2つ別々に成果として発表したいと思っていますよ』
 「そうなるまで、たかはしくんがここにいるかな」

 そして、去っていった自分が、別の場所で理想にまた一歩近づいて、時空間を飛び越えて、再び声を感じとる。

 「理想の場所を探すんじゃなくて、たかはしくんの理想の場所を、自分で作ってね」

 構築されつつあるその場所は、毒があったことによって再構成されてきたのだと、悟る。
 澄んだ水には魚は住めないから、当然だよね。

 だからこそなのかな。権威に従順なことを一番に考えてきた人たちが砂を噛み、変わり始めた状況が、なぜかどこか悲しいのは。
コメント
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