たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

向上心と満足

2012-03-31 05:20:04 | Weblog
 ここまできても、変わることが怖くって、戻ろうとするけど、戻ることも同時に怖くって。

 変化することは、誰だってイヤだし、俺だってイヤ。どうにかして、向上しながらも、変わらず、満足できて、幸せになれる方法は無いんだろうか。
 あくなき挑戦を繰り返して前進、探求して探求しての繰り返し、新しいことするのってやっぱり楽しいしね、、だけど、そんなこと言ってるから、幸せはその辺に転がっているのに、存在に気が付かないだけなのかもしれない。

 今は、最後に放ってきた言葉を貫いて、とにかく楽しむことを忘れないで、無理矢理頑張るべき?
 っま、それ以前に、最後、じゃないことを、望んでいるけどね。笑
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『何か違う!』

2012-03-30 02:41:14 | Weblog
 自分の決定に対して、『何か違う!』っという感覚を持ったら、それは、感覚の方が正しいことが殆どだ。

 これは直観的なことが寄与していると思うけど、何かをジャッジするときでも、誰かを選ぶときでも、切り捨てるときでも、何かが違う!、って想えたなら、今一度、考え直す方が良くって、たいてい、理屈で説明できない部分を感じ取ってる場合が多い。
 だから、何か違う!、という感覚に嘘をついてはいけない。

 自分の賢さについて、かなり自信はあるけど、それ以上の俺の武器は、慧眼さだ。この慧眼さとは、理屈抜きで、状態や系や想いを正確に汲み取る力で、ちゃんと養っていかないといけないし、賢さと直観だったら、俺は直観を信じる。
 この慧眼さの礎になっているのは、友達や家族との信頼関係で、ここに安心を置いているからこそ、曖昧なことでも、はっきりとした主張や行動ができるのだ。

 グルーヴを待っているのは、やっぱり俺には合わない。
 俺はどちらかというとグルーヴを創る側の人間だし、そうでありたいし、能力をつけていきたい。

 この、直観に、今一度、賭けてみたいと想えてきている。
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Having wounds all over our body

2012-03-28 03:03:59 | Weblog
 思考力が全然戻ってこない。マジ、高橋慧を倒すなら今だな。笑

 はっきりとわかるのは、それだけ、疲れてるってこと、傷ついてるってこと、今の状態を望んではいないってこと。
 でも、それをつっ返せるだけの、精神力も、肉体的な体力も、とっくのとーに底をついている。ここまで、はっきり言って、よくやってきた。残酷な物理現象に対して、どれだけ俺が貢献して、現状を変えてきているか。

 能力なら、誰にも負けないくらい、得ようとしてるし、すでに、この手に持っている能力は多いし高い。
 これを、今は、何のくだらない相互作用も持たずに、ただ評価してくれるのを、求めている。それが、ホンモノじゃなくても、いっそイイ。ただ、即物的に、認めて欲しい。
 いつだって、仕方がないから、能力を得てきた。能力を得ることが目的じゃない。勉強して思考力をつけるなんて、どうでもイイことで、ただ単純に、自然科学のことが知りたい、みたいなのと、似てる。

 出来ること、したいこと、は、案外、確立しているのかもしれない。
 ただ、それが、ワングルーヴの中に入ってなければ何も意味は無くて、今は、環境に任せたいな、って想う。いや、こりゃ、経験したことないくらい、結構深いから、ずっとそう思ってしまうかもね。
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想いの容量が溢れていく前に

2012-03-27 02:29:00 | Weblog
 自分の価値をきちんと認めてあげることが大事、って他人にばっかり言ってたけど、自分が少し足りて無かったかも。

 どういう状態で、どういう気持ちが相互作用していったのか、俺が信頼する人達の頭脳を使わせてもらえば、真実はある程度観える。種々の集団から、一番の信頼関係がある人に、1人ずつ相談していけば、かなりの確率で、本当のことがわかる。
 こんな交友関係を持たせてもらってることが非常に幸せなことだし、本当の意味で、俺のことを考えてくれる彼ら彼女らが、よりよくなれるように、俺自身もここから努力しないといけないと思う。

 気持ち、に、いっさいの悪い部分が入っていてはいけないのだ。気持ちだけで評価する俺としては。それが、ほんの少しでも、悪戯気分であったとしても、許されない例は沢山ある。
 よーするに、万引きだって、立派な犯罪だ、ってこと。

 どのくだらない気持ちで、感情で、どんな行動をしてしまうのか、してしまったのか、ちゃんと自分自身を解析する必要がある。
 理由を自分につけるとき、2つ以上あるのが通常で、1つの想いから、ある行動をしてしてしまうことは、まずない。だから、多角的に解析をしなければならない。

 そうじゃないなら、このイエローカードは、簡単にレッドカードになりうるのだ。

 限りある胸に抱く想いの容量が溢れていく、その前に、色のついた世界に戻そうとしなければね、、あなた自身で。
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Will Time Tell ??

2012-03-26 00:28:35 | Weblog
 わー、もう、考えや感情が秒単位で変わっていく。
 すごく複雑に絡み合っていることでも、3つくらいの関数で解析できそうなのに、落ち着いてないから、喜怒哀楽の数々の方向に感情が相殺していく。

 ただひとつ言えることは、定めだって思うことって、たいていの場合、自分自身の感情の選択が影響していることが多いってこと。
 それがいかに物理的現象に観えたとしても、案外ね。

 って、余計な理論展開に意味なんて無い。
 とにかく、いま、まだ、できること、を、ちょっとずつ。
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正しい行動

2012-03-25 02:49:28 | Weblog
 能力は即物的なことで、その即物的な能力をさらに即物的な言葉で誤魔化す。だから、そういうくだらない表面上のことが寄与している目には見えない相互作用に依って、間違えないようにしないといけないし、もっと目に見にくいその奥の真実を見つめようとしなきゃいけない。

 でも、言葉にしてしまえば、意外と上手く行ったり、無難にやってこれたりもするもんだ。本当の気持ちや本当の能力が無くても、ただ単純にそういう気持ちがあるんだって発現(発言)するだけで、見かけばかりを良くするだけで、気持ちが揺れ動いてしまうその信念が、薄っぺらい。
 ちゃんと気持ちがあると、あんまり上手くは行かないもんだと思う。だったら、「どうやって幸せになれるんだろう?って真剣に最近思います。笑」。そうそ、結局、行動してから気持ちを付加していく手段をとっても、最後、また上手くいかねーしな、どーしたらイイんだろうね。

 だったら、いっそ、根源的な俺自身の信念を曲げて、とりあえずは行動しちゃう、ってのも、ありかも。だって、気持ち依存でしか行動しないスタイルをとっていっても、全然上手く行かないし、つまんないし、終にはきっとムカついてしまう。完全に封印していた即物的な欲情に身を任せたり、ただの表面的な感情の思いつきで行動したり、そっちのが、少なくともその瞬間は楽しそうじゃない??

 まぁ、どっちにしても、絶対にしてはいけないことをするような人間やその振る舞いを、ホンモノだとは思えないし、最低だから、なるべく関わりたくない。
 そこに能力の有無なんて関係なくって、そういうことをしたら、誰がどう精神的に傷つくかどうか、なんて絶対にわかるはずで、それができてしまうんだとしたら、どのような素晴らしい気持ちを持っていたんだとしても、情状酌量の余地はなく、却下すべきであると思う。

 なぜなら、俺が完璧に守らないといけない人たちにまで、そういうことをしてきやがる可能性が高いということだから。

 そ、だから、やっぱり、同じようなことを、俺がするようになるわけないね。即物的な欲望や表面上だけで、本当の気持ちがあるかのような行動が、できるわけがない。中途半端であればあるほど、傷つけることは十分に知っているし、俺はせめて、傷つけない正しい行動をとり続けたい。
 どんなに寂しく生き続けるんだとしても、博愛主義なんだとしても。
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修士号を得て

2012-03-23 01:54:00 | Weblog
 今日、修士号と高等学校教諭専修免許状を取得しました。応援してくれたみんな、ありがとう!笑
 まー、だからってなんも変わらないんですが、こういうのは自分にプラスになるもんでは無くって、周りの人にプラスになるもんだと思います。親や親戚、あと昔の先生とかね。
 ちなみに、個人的には、専修免許のが嬉しいです(笑)。

 言葉を得られてから、急に能力がつくわけじゃないし、っていうかむしろ、同じ言葉をすでに持ってるヤツの中に、クソヤローやバカは沢山いる。だから、肩書きで自分を鼓舞したり、誰かを評価したり、そういうことはしないほうが良い。自分の根源的な自信になるのは、自分が心から信頼してる人が褒めてくれた生の言葉なんだし。

 こういう、言葉を得ることの怖さを、俺は、結構早い段階で身をもって知ることが出来た。

 中1か中2のとき、あれ、どっちだっけ?、とにかく、周りの人よりも早い段階で、英検3級が偶然取れた。筆記はまったくの意味不明だけど、耳がイイからリスニングは適当にやればできるし、面接なんて確認みたいなもんだったし。
 3級という、言葉だけ、習得が早かったのだ。

 でも、能力が伴ってないから、そっから徐々に、ホントに少しずつなんだけど、本当の意味での自信を持てなくなっていく自分を感じた。英語は確かに普通の中2よりは得意だったけど、英検3級レベルを完璧にこなせるほど得意だったわけじゃないから、次の級の教本が理解できない。3級までのまとめ、って書いてあるとこがあるんだけど、そこで、普通に知らない内容ばかりだから。っで、結局そのレベルをちゃーんと理解したのは、高校生の中ごろになってからだった。普通の、順当のペースに戻った。

 だから、能力をきちんとつけないと、恐ろしいな、っていうことが、染みついているのだ。あんなに得意だと思っていたモノが、こうも簡単に得意じゃなくなって、普通以下になっていくのか、ってのは、ホントに怖い。
 そして、それを忘れない意味も含めて、未だに、この英検準2級の教本は俺の机の上のすぐ届くところにあったりして、恥ずかしながら、意外とまだ役に立つことがある。

 まぁ、だから、その言葉に見合う以上にきちんとなってから、その言葉を得に行くようにしましょう、ってことなのだ。

 すべての肩書きや言葉が、こうであることを期待している。そして、自分(達)に見合った言葉を得たら、また次の課題がやってくる。また、それも、言葉を得ることそのものに踊らされてはいけなくて、いつまでも、その繰り返しだと思う。

 修士号と専修免許状、どちらも、自分に見合う言葉であると自負しています。安心感をもって、次の言葉を取りに行きたいと思います。

 ただ、俺が忘れてはいけないのは、偏差値が45を切るような中学校の生徒であった俺も、東大の修士号を手にした俺も、特に何もカワラナイ、ってことだと思う。
 変わったのは、誰でも得ることが出来る、能力、という即物的なモノをただ得ただけで、気持ちの根源は、昔のままであると思うし、そっちのが、人間にとって重要なことだよね。


 つーか、ちょっと思いついたんだけど、俺の学歴の移り変わり方面白いし、こういうの本にできないかなー。「3年で偏差値を10ずつ上げ続ける方法!」とかあったら、立ち読みしてみる?笑
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頭で考えることと心で思うこと

2012-03-22 02:03:09 | Weblog
 うーん、やっぱり、普段、思考ばかりを使いまくってる、思考型人間が、突然、気持ちや感情に依存した行動をとり続けてもよくないんだな、って思う。
 何事も、ほどほど、なのかな。一挙に疲れがやってきちゃって、慣れてないと空回りしちゃうのかも。まぁ、感情依存の行動がまったくの無駄だとは言えないけどさ。

 自分で作ってしまった迷惑や悪い流れを元に戻す唯一の方法は、そのピンチをチャンスに変えること。ここに、多角的な思考力が必要になるから、少しだけ元に戻って、ちゃんと頭でも考えようと思う。起こしてしまったことはカワラナイんだし、いつまでも落ち込んでいてはいけないよね。
 本田圭佑なんて、右膝半月板を損傷したことはやっぱりチャンスだ、なんてって言ってるくらいなんだから。

 そうそ、頭ばかり使えばヒトはロボットになり、心ばかりを使えばヒトは動物になる。ヒトが人として自己実現するためには、そのどちらも上手に同程度用いることが必要なんだけど、すべてのヒトは、どちらかが得意なのだ。
 自分がいる側の利点、つまり、感情型人間なら感情の、思考型人間なら思考の、利点と欠点をよく把握した上で、その逆サイドの利点を取り入れていくことが大切。
 だから、間違ってしまった原因は、一気に、感情サイドに行こうとしたこと、なのかもしれないな。

 まぁ、それ以外に、原因は、意外と身近に、転がっていることなのだとも思う。自分自身もきちんと疑って、どの即物的な感情が相手に寄与してしまったのか、って、考えることが、思考型人間には必要だよね。

 これから、もっともっと根源的で、難解な問題が、内在してくるはず。これくらいの物理現象ですら自分自身の思考力では乗り越えられないだとしたら、色んなことを諦めないといけなくなるし、頑張ろう。

 っと、頭で、いろんな論理が考えられても、気持ちと思考は直接は相互作用しないから、まだもう少しは、立ち直れないかも。。
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だから言葉にする?

2012-03-19 01:56:20 | Weblog
 「じゃぁ、どんな感じなのか、前から知ってたんだ?」
 『いや、そういうわけじゃないっすけど、まぁ、だいたい、こんなんかなーってのは、あるじゃないですか。』
 「うーん、私ね、実際に観えないモノを扱うのが苦手で、ちゃんと見えないと、モチベーションが湧かないんだよねぇ。」

 生まれてから死ぬまでユーグリッド空間に生きているから、目に見えないモノの存在を信じて、そこに情熱を注ぐことは非常に難しい。
 大学専門課程のレベル以上で数学をやるときには、抽象概念を自分の頭の中で明確にイメージできる特殊能力があることも非常に大切であると思う。実際には存在しない、イメージが重要な、数学の概念のなかで、高校生レベルでわかるのといえば、複素数(というか二元数)だけど、あれは、まだまだイメージがしやすいほう。簡単なほーだけど、、でも、例えば、なぜ複素数については不等式を用いれないのか、明確にイメージ出来る人は稀少だと思う。

 そして、抽象概念だと思っていた複素数は、量子力学で扱う、波動関数を記述するための数字であることがわかった。これは、誰も上手くは説明できない。波動関数を二乗したものは密度になるけど、その波動関数を複素数で表すことによって「偶然」、理論上も実際上も、上手くいく。偶然、現象を記述することができるのだ。だから、それ以上の説明は、この世の誰もできないのだ。
 さらに言うと、ユーグリッド空間をより一般化したヒルベルト空間も、目に見えないものだけど、無限次元のヒルベルト空間は、量子力学を記述する上で、非常に重要な数学概念であった。

 だから、目に見えないからって重要じゃないわけじゃない。ちゃんと、目に見えてることに寄与している。

 え?10のマイナス10乗のオーダーの距離を扱う量子力学そのものだって、実際には観えないじゃないか、って?
 その通り、だから、そういうことをやるためには、実際には観えていないモノの存在を信じる力が必要だってこと。わけのわからない実験装置から得られる波形や数値だけを見て、そこに実際にあるんだ、ってことを実感する力が、どうしたって、必要になってくる。

 こういうことは、実は、多くの理系はすごく苦手だ。ほとんどの理系は、自分の研究内容やテーマや学科を、自分の気持ちに飲みこみながら理解していってるわけじゃないから、即物的だからこそ出来る、ってケースがほとんど。だから、目に観えないモノを扱うことが苦手だな、って感じるのは、きちんと飲み込もうとしている証拠で、むしろ正解に近いと思う、まだ、能力がないってだけで(笑)。
 ちなみに、目に見えないことでも、その存在を信じることが出来る人は、むしろ、芸術方面に多い。

 ただ、俺は、理系に対して、まぁ別にそれで構わないと思っている。その稀少性があるからこそ、俺がそのなかでやっていけるような気もするしね。

 自然科学に関してだけじゃなくて、全ての人が、目に見えないものの存在を信じようとする力が必要なシーンがあると思う。それは、神とか幽霊とか、そういうことを言ってるわけじゃなくて、そこに確実に存在している、なんらかの想いや気持ちや願いを、くみとろうとするような力が重要なシーンがあるってこと。
 誰かのはもちろん、自分のも含めて、決して目には見えない、何らかの気持ちを理解しようとすることが大事だってことね。

 目に見えないモノに対して、そこに確実に存在しているはずだ、って想いながら頑張る姿は、他の人には、どうしたって滑稽だしバカみたいにみえる。だって、例えば、みんなが遊びに行ってる間、一人で意味のわからない装置と向かい合って実験しているようなもんだから。
 そんなのは当然で、百も承知で、滑稽を超えても、前に進みたい、何かを確かめたい、何かを得たい、って想う気持ちが行動に寄与していくことが大事なんだと思う、、俺にはね。

 そ、ずーっと言ってるけど、俺だけが能力をつければイイと思っている。俺の周囲にいる、重要人物の中で、誰も、能力があることもないことも、評価の基準には入らねーんだよ。
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同時刻同座標

2012-03-18 02:58:44 | Weblog
 この期間に、あの頃の正解がわかったことに、少しだけ意味を感じる。
 それは、実質的に決して意味があることではないけど、様々な自然現象の理論構築をしたいと思っている俺にとっては、それが必要であるのかもしれない。少なくとも当時は、本気でその実験系に取り組んでいたのだし。

 2つの物体が同時刻同座標ってのは、めったに起こらないことだ。3Dにさらに時間が一致したときにのみに、同時刻同座標となる。モンキーハンティングなどの例もあるが、かなり特殊な条件が必要となる。
 だけど、たぶん、物理学や力学などの基礎理論を超えて、もっともっと人にとって根源的なことに触れると、こういう不思議な現象の率は高まるんだと思う。

 この気持ちが確立している状態で、あの頃の気持ちの正解がわかることとなった。それは偶然じゃないのかも。あの不思議な偶然がなければ、それを遥かに超えている今の想いには出会えないかもなわけだし。

 あの正解を自分の中にプラスして、本当の意味での新しいドアを開けていけたらと思う。
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カタチだけなら要らない

2012-03-16 06:49:13 | Weblog
 すべての人間関係の根源的な深さは、出会った最初の期間で、決まってしまう気がする。さすがに、出会った瞬間に決まる、とまでは言えないけど、最初の2ヶ月くらいで、その人やその集団と、どの程度まで仲良くなり得るか、どの程度まで深く長く付き合っていくか、って決まっている気がする。

 何かの言葉によって結束していたり、ただの仕事上の付き合いであったり、そんな関係だと、やっぱり長続きしないし、どこか一点で止まってしまうんだよね。もちろん、それはそれで、一時的かつ即物的には、楽しかったりもするんだけど。

 あと、なにより、ホンモノだな、って想いたい関係は、必死。
 何か、偶然、よくないような即物的な現象が現れてしまったかもっと思ったとしたら、ガチな場合だと、すぐに、必死に、心の底を見せることによって、違うんだよ!、って伝えようとするもん。少なくとも、伝えようとする、ってところが、カタチだけの関係と、根本的に違うんだと思う。

 この、長らく抱えていた曖昧な気持ちを、きちっと確立させ、具現化するとき、少なくとも、一体系で解析的に解ける。それがどのように寄与してくのかはわからないけど、とりあえずは、素直になっていたいと思う。

 だって、やっぱり、直観による判定が、いつだって間違っていないから、特殊な系であっても、適応可能であると思うし、俺は、いっさい、カタチだけ、を求めていないんだから。。
 っま、コミュニケーションとして最低限の即物的なことは、欲しかったりするけどね。笑
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せめぎ合い

2012-03-14 01:25:16 | Weblog
 焼き肉でお肉焼いてる時って、どーしても、ひっくり返しすぎちゃうんだよね。
 なんつーか、何かしてないと不安で、でも、ひっくり返し過ぎると、美味しくなくなっちゃうこともわかってるんだけど、でも、どーしても構わずにはいられない、みたいになる。

 観測者問題じゃないけど、こういうのって難しいよね。観測、つまり干渉してしまうと、系が悪い方向になってしまうんだけど、チェックもある程度しないと不安。うーん。
 っていうかさ、その、干渉したら悪い方向になっちゃうっていうのって、ホントにあってるの??…まぁ、あってるよね、経験則的に、タイミング的に。

 ある程度の賢さのなかで、干渉したい感情が強くなってしまうんだったら、まぁ、干渉してみてもイイのかな。でもまぁ、ある程度は大人な振る舞いが出来なきゃいけないわけで。。
 ってことを真剣に考えてるから、最終的なとこで、、、…お肉ひっくり返す権利くらいはあるよね?笑
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言葉の向こう側

2012-03-12 03:20:06 | Weblog
 即物的なことに騙されちゃいけない。
 たとえ何かの言葉を得ようとする時でも、何が本当に大切なのかを自分に問いながらじゃないなら、意味が無い。

 じゃないと、言葉を得ることやお金を得ること、そのものが、目的になっていってしまう。最初はそうではなかったはずなのに、ただの通過点に過剰な執着を抱いてしまうと、何もかもがつまらなくなるのは良くないことだと思う。
 だから、実質的な受験指導をしている中で、一番大切なのは、合格のその先に、何が待っているのかをきちんと考えてもらうことだと思っている。もしも、合格という言葉を得ることが目的になってしまえば、その先も、何かの言葉を得ることにしか価値が見出せず、どんどんつまらなくなってしまうだろうから。

 それに、即物的なことに騙されることの悪い部分はまだある。それは、言葉を得られた時の喜びが一過性のモノになってしまうということだ。
 いまだに高校受験の合格でさえ嬉しさを覚えている俺には信じられないことだけど(笑)、嬉しかった感覚が薄れていってしまうのは、次に繋がらないのだと思う。

 まぁ、逆に言えば、その先をきちんと考えていれば、確立していれば、たいていのことなら、言葉はちゃーんといつか得られる。

 解答欄にアピールできる瞬間が無いのだとしても、伝える瞬間がないのだとしても、とりあえず少なくとも自分の中で、言葉の向こう側では、どうしていきたいのか、どうしてその言葉が欲しいのか、きちんと確立しておくことが大事だと思っている。
 それが、誰かのためになるところがあると思うなら、なおさら。

 もちろん、ただのゲームなら、話は別だけどね。
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25!

2012-03-09 23:15:30 | Weblog
 俺の誕生日、3月9日は、いつも、やっとか、って思う。
 この日は、小さい頃から、やっと、その歳になれた、って思うんだよね。3月生まれってのは、節分の豆もみんなより少ないし、なんてーか、早く追いつきたい欲が強いんですよね。

 昨年も同じことを言ってましたが、今年はもっと特に、やっと25になれたって思っています。

 また、ここから始まる一年間も楽しくなるように、頑張りたい。どう過ごしていくか、どうしていきたいか、を具体的にきちんと考えなきゃいけないと思うけど、大切な人の言うことを考慮しながら、自分の方向性を確立していきたいと思う。

 今、何も得られていなくても、「この人なら、やってくれる!」って想われるような、能力や想いの容量を広げていく努力をしないとね。
 一歩一歩、着実に出来ることを探して実行していけば、理想や言葉やお金は、割とすぐに得られることを信じて、頑張ってみたいと思う。
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気持ち-感情間相互作用

2012-03-08 02:48:49 | Weblog
 自分の気持ち以上の行動をすることが努力だと思うから、俺は、そういう意味での「努力」は、あんましたくない。
 気持ちを行動にしようとするとき、忠実に気持ちと同じベクトル(大きさと方向性)だけ行動するってのは、珍しいほうなのかな。もちろん、すぐに結果に現れるものしか頑張りません、ってほど重症なお子ちゃまなわけじゃなくって、自然現象を理解したいから論文読んだり書いたりすることは必要で、そのためには英語が必要だから、英語を勉強する、くらいはやるんだけどさ。

 つまり、気持ちと同程度分だけ、その大まかな方向性についてのみ、頑張りたいな、ってのが、基盤にある。

 だけど、実際に具現化される行動は、その殆どが、気持ちの表面的な部分を示す「感情」に寄与している。
 だから、非常に重要なシーンでは、手っ取り早い即物的な自分の感情に騙されず、きちんと本来の気持ちを想い出して、それを感情に映してから、行動する必要があって、想いが強ければ強いほど俺は中途半端な行動や楽観的な行動はとりたくないから、逆にめんどくさくなってきちゃったりして(笑)。さらに、行動に選択肢がある、って観点も重要で、選択肢がそこまで多くは無いことを周囲にバレたくはなかったりもするから、また、気持ちとウラハラな行動になっちゃったり。

 で、その要らない関数を除去するために、自分自身に対して、今できることを一つずつ、って心の中で唱えながら、伝えたりするんだよね。そうすると、少しずつ、気持ちと同じような行動がとれていくのかも、っという感覚の一端くらいは、やっと掴めたつもり。
 気持ち相応の行動は、めちゃくちゃしたいんだし、こっち側、頑張らないとね。

 ただ、その時、その瞬間に、リアルタイムで、直接、気持ちに響いてきたようなことを、大切にしたいこともあって、イヤだなって思ったりしたことや嬉しそうな表情を感じとったことを、誤魔化さないでいたい、ってこともあるんだよね。
 イヤな気分になったのに、一晩寝れば忘れたり、簡単な冗談を言えば、さっきのことがチャラになる、なんてことや、逆に、ちょっと否定されただけで、あの嬉しそうな表情や声色は完全に消えてしまう、なんて薄っぺらいこと、少なくとも俺には絶対に無いことで、実はなんやかんや、みんなもそうなんじゃないか、って思ってる。

 こういうことは、俺が期待したいって勝手に想ってる「気持ち」にも依存しているのかもしれない。
 でも、たとえ、そうだとしても、期待していて、その期待が裏切られて、ボロボロに泣き崩れるんだとしても、そっちのほーが、期待しないように頑張って、期待はずれで自分の感情や気持ちが無難になるよりも、遥かにイイことだと俺は思うから、これまでもこれからも、そうしていくつもり。

 存在してしまっている「期待」の気持ちに対してすら、誤魔化さずに、感情を介しながらも、向き合っていくことが、楽しくなりつづけるためには大切なんだと思うし、すべての期待や想像できる理想はかなり現実に近いものだと思う。

 何に価値があるのか、何が面白いのか、何が楽しくって、どうすれば、その楽しいことがずっと続くのか、最後まで、2人で、みんなで、考えて、行動していけたらな、と、勝手に期待している。

 (一年ぶりの、相互作用シリーズ!)
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