たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

能力が無いということの真実

2012-07-29 04:21:08 | Weblog
 みんな、系によって、極端に、自分が受け入れることばっかになったり、相手が自分に合わせて変わることを望んでばかりになったり、勝手。

 能力を向上させようとして、もしくはまだまだ足りないことを気付かせようとしたくらいで、落ち込んだり、ショックを受けたり、悔しいって思ったりするなら、能力をつけなきゃいけないし、もっと厳しいことを言うなら、そんなことくらいで泣くんだったら現時点で能力がなきゃいけない。
 なのに、それを飲み込もうともせずに、不平ばっかり言ってみたり、ただ自分が受け入れたりしてたって、何を価値観として置くのであっても、無意味なんじゃないかなって思う。

 っで、変なところ諦めていたりする。どーせこうだから、世間なんてこういうもんだから、もっと重症だと、人生なんてどーせ時間の浪費、そこまで生きてるかわかんないしねー、って、自分で頑張ってもみないのに、決めつける。
 繊細さを心の中に宿しながら、行動が図太かったり、もしくは行動をまったくしないから、そういう風な思考をして自分を安心させようとしているんでしょ?

 その繊細さを保ったままで、能力を上げ続けることは可能だ。
 でも、能力を上げることが必ずしも善とも限らなかったりする。

 ≪だから、そこは、上手くやるんでしょ。≫
 『そんなのいいの?』
 ≪イイに決まってるし、そんなのみんなやってることだよ。それが次にも繋がるかもしれないし。≫
 『えー、なんかやだな。』
 ≪なんで?≫
 『よーするにさ、別に、凄まじい能力者になることが目的じゃないんだよね。お勉強だったらEinstein、スポーツだったらウサインボルト、恋愛だったら田村淳、を目指してるわけじゃないからね。笑』
 ≪なるほどね。笑≫

 能力を上げたりしないで、偶然、向こうから舞い込んだほうが、運命的じゃない?
 ある種、自らの意志ではなく、無意識の中で、奪われていってしまった方が、

 ≪ラクなだけでしょ?≫
 『違うよ、それじゃなきゃいけない気がする、ってだけ。』

 チャンスはいつだって一回。
 物理的現象に阻まれたり、自己組織化された中で完結して仕方ないことだったりすると、余計に、ま、もうイイか、って思ってしまうのは、

 【だから、その辺が高橋さん、乙女なんですよー。】
 『だーかーらぁ、高橋慧、乙女説だしてるの、お前だけだからな。』
 <そうでもないですよ。意外と、くよくよしてますよね。>

 こんなにも短い期間でも、そう想うのかと思うと、よっぽど重症だよね。

 コレに限らず、すべてにおいて、最終的に強引に引っ張っていく力が無いし、つけようともしてないのに、不平不満を言って、自分の価値観を受け入れろ、って思ってる。ホント、俺って、勝手。

 「そうやって理詰めっていうか、考えてるってわかると、なんか冷めるんだけど?」
 『怖いんですよ。賢さくらい、せめて使わせてもらえないと。』

 最近、くだらないこと(自然科学など)で他人をオフェンスすればするほど、いつだって、能力が無いのは、やっぱり、俺なんだな、って思ったりする。
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Sooner or Later

2012-07-27 02:31:31 | Weblog
 誰だって自分を支えてくれている人は善人だって信じたい。
 その、支えてくれる、って意味が、義務であっても、その人の利益であっても、とにかくイイところを探して、相手を信じてみるのは大切なことだ。

 でも、自分の選択は、与えられている選択肢は、間違っていなかったんだ、っという想いを保持するためにそれを行っているなら、愚の骨頂。
 冷酷に物理現象を把握すること。とてつもなく酷いことをされても、あまりに割に合わないことを強要されたり、他人として対等な関係からどんどん遠ざかるなら、離れることを考えるべきだ。それが出来る出来ないに関わらず、とにかく道を死に物狂いで探したり、意見を主張したり、そういうことをしないから、もしくは、そういう成功例を飲み込めないから(どーせ自分には出来ない等)、落ち込んでいってしまうんだと思う。

 何かヒドイこと、悲しいこと、忘れたいことをされたときに、
 「私はこんなことをされるべきではない」
 っという風に思えるか思えないか、なんだよね。こう自分へ想うためには、自分に自信がなきゃいけないし、自信を持つためには明確な結果を出していかなきゃいけない。ごく普通の賢さの人間ならね。

 本当の意味で賢い、つまり利口ではなく聡明であれば、論理的思考力と理論構築していく力によって、自分の未来が正確に予測できる。そうすれば、結果がまったく出ていなくても、きちんとした正式の自信を持つことができ、むしろこういう自信こそが俺は大切だと思っている。
 当たり前だけど、何をするんでも、ガチで頭よくならないなら、意味が無い。それは、お勉強の中で暗記することをベースとして思考力を養うと同時に、Aグループの技量を身につけていくことに他ならないのだ。

 そして、これらが無いために、搾取されている、搾取されそうになっている人を、これらのポイントについて、補いながら助けることが俺の通常業務であると思っているし、俺が好きな人には、その絶対的な自信みたいなもんを一番に持っていて欲しいとも思っている。

 その観点から、

 遅かれ早かれ、この人とは必ずぶつかる。
 遅かれ早かれ、この相手は無理になっていく。

 俺は、こう予測できる頭脳はまだまだ持てていないようで、修行の必要があるのかも。
 どーせ同じなら、遅いよりも早く決着ついた方がいいよね。心を奪われ続けてきたから、『これで終わりでも、そうじゃなかった、って想える』ってのが本音なのかもしれないけど。

 遅かれ早かれ、が、時間に依存していないと言う意味では、無理なことがホンモノであるってこと。
 逆に利用できるようになるには、まだまだ遠い。

 だから、とりあえず、あの系へ今できることとして、もう戻らない期間を小さく祈っている。
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Styles Of Beyond

2012-07-24 02:18:46 | Weblog
 何か凄まじい最終目標があっても、自分が未だまったく持っていない、でもその目的に非常に即した能力をどうにか自分のものにして、とにかくその最終目標を達成させてやろう、っていう意志や執着心が感じられない人が多い気がする。

 それが、そうであってはいけない場所である、研究の場、つまり研究に携わっている人間にも感じるから、ホントに驚き。もっと言っちゃえば、そんな研究室や研究グループ、研究チームは、税金の無駄使いだと思っている。
 だからぶっちゃけ、仕分けされても仕方ないよね(笑)。一般ピーポーに研究の重要性を語れないなら、それは無駄だって思われても仕方ないもん。研究は2位じゃダメだけど、2位でもイイんじゃね?と思われる説明しかできない理系にも問題があるのだ。

 結局、研究にも分野や領域がある。これは俺だけが思うのかもしれないけど、単純に、分野や領域を気にして、自分自身の最終目標を達成しようと試みないのであれば、大学院(修士課程を含む)なんて来ないで、就職した方がコスパがイイと思う。
 だけど、社会に出る勇気も無いCグループで成績だけは良かったヤツが、仕方なく大学院に行くから、ノリが悪いヤツが残るし(他人のこと言えないけど(笑))、大学院ってのは暗くなるし、病的にすらなっている所も少なくない。

 研究のための研究、みたいな感じなら、そりゃそこで予算を払っている場合じゃないよね、日本の現状として。もっと研究とは遠い場所に位置している、教育側に予算をあてるべきだと俺は思う。

 『だって、こういうことが、この場所の特色だって売ってるのに、全然みんなしないですよね。まぁ、してるうちらも、1部リーグに勝ててる気はしないですけど。』
 「いやー、私たちは全然勝ってるでしょ、1部リーグに。訊いてみな?笑」

 冗談でも、ノリでも、流れでも、そう言ってみたり、言われてみたりすると、少しずつ、どんどん、やりがいが芽生える。

 この知見を通じて、俺は、研究とは別の違う系へ考え方をトランスファーさせないといけないし、そこからが本当の勝負。
 だって、俺(ら)が秀でていると思っている、分野を考慮しない、とにかく目的に即して、能力をつけようとするし、今できることをし続ける、ってスタイルは、実はやろうと思えば誰でも出来ること。海外に出ていけば、当たり前のことだと思うし。

 俺自身が、本当に特色を持って出来ることとしては、研究世界や研究内容で得られた知見を、研究以外の場所で還元することで、それこそがオリジナリティーを発揮させながら食っていく、唯一のヒントであると思っている。 
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After All

2012-07-23 02:41:40 | Weblog
 ある意味では、俺にとっての典型的な状態に戻ってきているのかも。

 自分自身は変わっていく軌跡をしっかり観てきているから何も変わっていないように感じるけど、確実に変化していく。常に変わっていく俺でも、未来の俺、ホントにこの状態で許せる?って訊いてみると、絶対に大丈夫、って思ってるから、すでに変わっていることに気がつく。

 話しかけようとして、すぐに言葉を呑み込む自分を意識しながらも、誤魔化せる演技力を、ありがとう。確かに役に立っているし、それに≪この世に不自然じゃないことなんて無い≫から、行動できちゃえばイイだけだし。
 そんで、過去から後悔がやってくるだけだから、これはきっとホンモノじゃない、って思える。

 そうこう気持ちが揺れている間に、新しい風が吹いてきて、ほら急がなきゃって、現実に引き寄せられる。まるで平衡状態には、粒子やヒトを引き寄せる力があるんじゃないかって勘違いしてしまいそうになるけど、それは違う。ただ単純に、許される固有状態の典型的な状態が現れているだけだ。
 揺らいでるから忘れがちだけど、別に、どっちも、実空間で、現実に起きていることなんだけどね。

 普通になれて良かったのかな?

 「じゃぁさぁ、結婚する前から、これは幸せになれる?って予測できるってことよね。すごくね?」
 『だってそれは時間依存性があるじゃないですか。今の俺の話は、あくまで平衡状態についての計算手法。』
 「でもさー、その状態に落ち着いたときの系は、辻褄合わせの方法で解けるって、今おっしゃったじゃないですかぁ?」
 『うーん、そうですけど、でも、そもそも、平衡状態に落ち着くことが、必ずしも、幸せだって思えます?そういうことが幸せでイイと思う?』
 「まぁ、確かにそっかぁ。少なくとも、落ち着いているか、正しいか、ってことしか、わからないのよね。」
 『逆に言うとそれはわかるんですけどね、やる気にはならないですけど。笑』

 っそ、物理現象に対抗していくことこそが、生命現象っぽい。

 【やっぱり自己組織化されるものを引いていって、残ったものが生命固有の何か、って発想自体が、意外と、乙女チックですよ、高橋さん。】

 だからこその問題点。
 だから、最終ラインで、自分できちんと動けないのが、俺のよくないとこなのかも。

 あんなにも~だったのに…、って思うこともあるけど、今は、これで正解なのだと思う。
 だーかーらー、正解が幸せかどうかは、わかんなくね?
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まっすぐな気持ちの状態

2012-07-18 02:30:03 | Weblog
 秩序があると変なことが起こる。

 詳しく言うなら、微視的な多体系について、何かの物理量の秩序性が際立っていくと、全体として、状態を規定するほどのオカシさが浮き彫りとなる。
 例えば、超伝導、超流動、強磁性、反強磁性などだ。だから、これらの状態を規定するために、必ず秩序変数(オーダーパラメータ)と呼ばれるものが存在している。この秩序変数が値を持つと、それは何らかの変な状態ということだ。
 そして、俺は、結局のところ、生命現象というのも、同様に、生命現象を記述する秩序変数は何か?、ということを探っていけば、正しく理解できると思っている。それが、コンパートメント内の自己組織化していく作用を取り除いた部分である、意志、である、という風に感じている。まぁ、考えているわけではないから、こっからは自然科学ではないわけだけど。

 秩序がある、っということは、そこに、集団としての問題点が現れることも多くなるだろうし、自分自身の気持ちがたったひとつに集約していることに気がつくことも多いだろう。
 日常生活の中では、秩序変数がなんであるかを考えるのは簡単だ。みんながみんなすぐ同じ意見になる、とか、他のコトひとつひとつすべてが考えられない、とか。必ず、ミクロな世界のその相互作用さえ定めてあればマクロな世界をきちんと記述できるんだ、というような物理量を見つめることがポイントである。

 秩序相から無秩序相へと相転移してしまったほうが、ラクだし、多くに勝てる。
 どうして、ヒト達が形成する多体系では、秩序が大切になってくるかというと、みんな、他人の土俵やルールの中で勝ってやる、っというような達成経験はもちろん、その意欲すら無いからだと思う。

 単純に勝つだけなら、こんなに簡単なことはない。手段や価値観を選ばなくてイイなら、世の中のだいたいのことは、勝てる。問題は勝ち方であって、もっともっと、相手の土俵にわざわざ降りていくような、誰が勝つかまったく分からない無秩序状態の中、そこで勝つというやり方をしたらイイんじゃないかな。
 みんな、いーわい-わ、で、その狭苦しい世界の中だけで、すごいですねー、ってバカみたいにやり合ってるだけだから、いつまでもバカのままで楽しめなくて、毎日が辛いんじゃねーの?

 ガチ勝負で勝つことよりも、それだったら最初っから勝負しないで、表面的でくだらない、絶対に勝てる微視的な勝負だけにチャレンジし勝っていくことが大切、っという誤解をほどかないと、前には進めないんだな。

 まぁ、当然、微視的に秩序があって、それが清く作用して、泣けちゃうくらいの感動が得られることだって、沢山あるんだけどね。
 そっちの素晴らしさだって、理解している人はいても、心に飲み込んで納得している人は、残念ながら少ないんだな、って感じます。

 そういう意味でも、現代って、秩序があって、変な状態なんだと思います。
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チェンジ

2012-07-16 04:55:50 | Weblog
 いつから、仕方が無いよね、って現実を受け入れ過ぎるようになっちゃうんだろう。
 そういう風に諦めることにカッコよさを見出したり、大人っぽさを覚えたりしても、一気に老けこむだけで、何も改善しないのに。

 何歳から、もうカワラナイ?
 17歳?23歳?26歳?30歳?確かにすべて俺にとって意味がある、あった数字で、論理展開上、最終的にそこに落とし込むなら、俺自身が傷つかなくて済むから。
 そんなに完成されちゃってるなら、仕方ないよねー、俺のせーじゃないよねー、ってね。

 例えば、そんなこと言ってられないくらい、変えなきゃいけない瞬間はある。たとえ相手が60歳だろうが70歳だろうが、くだらない誰かの勝手さによって弱者がダメージを受けているなら、そいつらがいくら完成されているからって、変えられないから弱者が受け入れるべき、なんていう結末に俺はしない、どうにか変えなければならない。
 本質的に変えることと表面的に変えることは別だ。そこまで年上の相手に対して教育的配慮をするほど、俺は優しくも無いし、慈善事業をする気も無いし、傲慢でも無い。
 俺の思考力と判断力を持ってすれば、もう、表面的には、どんな相手であっても、正論を通すことができる。俺が問題にしてるのは、そんなくだらないことじゃなくて、本質的に何歳までをより良いスタイルへと変えられる対象とすれば良いかということだ。

 っそ、どこでも変えられるわけじゃない。
 より良くできて、さらにそれを良しと思ってくれる人たちのもとで、出来ることをして、よりよくしていけばイイのだ。

 場所が変わって、持っている言葉が変わる。
 それに少し遅れるカタチで、気持ちまで変わってしまう。

 ほんのちょっと前まで、あんなに怖がっていたのが嘘なくらい、疎遠でも全然大丈夫で、逆に怖くなる。めんどくさくないってラク。なんで、あんなに真っ直ぐだったのかな?、馬鹿じゃねーの俺、って。
 でも、実空間からの寄与があれば、きっととても寂しくなるから、気をつけて。

 『みんなは?』の「みんな」の定義が時間発展するほどにどんどん変わっていって、そこに逆行する反応が追いつかない。
 その相対的な負けは絶対的な勝ちであることがどんなに頭でわかっていても、変わるってことは、やっぱりちょっと、寂しくて、切ないものだと思う。

 コレをあと10回くらいは繰り返していくから、、うーんと、やっぱり、解は、50歳くらいかな。笑
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大津市の事件について思うこと

2012-07-11 02:43:17 | Weblog
 今回はいつもの感じを変えて、大津市の事件について、私が思うことを書きます。

 もう少し考えがまとまってから書こうと思ったんですが、あまりにも反響を呼んでいる事件ですし、とにかく今思うことを書いたほうが良いかと思いました。
 特に事件の詳細については書きません。ある程度の知識がある前提で書きますので、全く知らない方はwikiやニュースを御覧になってから読んでいただけたらと思います。

 まず、学校、警察、教育委員会、市の代表者が、薄っぺらいことを言って自分たち自身だけをディフェンスしようとしているのが滑稽に感じますね。
 「いじめと自殺の因果関係は不明である」
 「自殺の練習などの記述はアンケートの中に確かにあったと思うが、そういう事実があったとは確認しきれない」

 私は、普段、このブログでも日常生活の中でも、言葉を心の中に飲み込みながら喋れ、っと言っていますが、まさに、そうしないことによって、いかに本質が浮き彫りにならないかがわかると思います。
 さらに言うと、死亡するまでの間に、もしももっと、勇気を持って、心に言葉を飲み込んで、発言し続け、被害にあってる子のために今できることをすべてする人間が一人でもいたなら、このような悲しい結末にはならなかったんじゃないでしょうか。

 「そこまでのことですか?まだ中学生の子供がやってることじゃないですか。」
 「事実関係をはっきりさせて、今現在、主に、どの時間、どこで、誰と誰が、いじめをしているのか、明確にしてください。」
 「ついこの間まで仲良かったんじゃないですか?大人だって、いじられキャラみたいなこともあるじゃないですか。」

 などと、被害者男子生徒が死亡する前にも、多くの大人たちが、自分たち自身をディフェンスするための教科書通りの「正論」を言い放ってきたのだと簡単に想像できます。

 ダメだな、まったく、っという心を、そのまま、あなたの日常生活に落としてみましょう。それが大切で、それこそが、あなたに今できることです。
 私自身、小学校、中学校、高等学校、大学、大学院と、さらに、学会、就職活動の場、各研究室、サークル活動、バイト先など様々な場所で、薄っぺらい言葉を毎日よく聴いてきました。あなたもそうだと思います。

 今大学院生という立場なので、研究生活にフォーカスを当てますが、この「いじめ」と同等の系を成すことは沢山あります。
 特にアカデミックハラスメントはちょっと見渡せば多く存在しています。指導教員の添削時間が長いため原著論文がいつまでも出なくて卒業できないようにしたり、研究に支障をきたすほどのTAを強要し時間外労働の給与を支払わなかったり、常識的には考えられないほどの拘束時間と重労働を強制し学習させないようにさせたり。
 こういうことに対して、本人もしくは誰かが精神的苦痛を生じていたとしても、研究室主催者、研究室スタッフ、大学院生、卒研生などが、正式な方向に、言葉を心に飲み込んで、声をあげることは、ほとんどありません。くだらないディフェンスをしますし、それを受け止め、表面的に自分が悪いのだと我慢して、後輩に押し付けていき、酒を飲んで忘れようとすることがほとんどです。

 「大学院とは、研究室とは、そもそも、そういう場であって、仕方が無いことですし、皆さん、それをクリアしていっています。どこの研究室でもそうですし、よくある話です。」
 「これほどのこともこなせないようでは、将来、研究者として、やっていけるはずがありません。最近の学生は、こんなこともできない、する気が無い、甘えが多いんですよ。」
 「そんなにイヤだったら、所詮学校です、やめればいいじゃないですか。」

 これらのような、自分のことしか考えていない、ただ自分自身のためのディフェンスを当たり前のように語り、振りかざしているような人間は、大津市の事件を批判する資格は無いと思います。
 私は研究者としても教育者としても未熟者ですが、これだけははっきり言えます。誰かの心を殺して、住みにくい社会の一部になることをリスクにおいてまで、学問を発展・普及させる必要は無い。学校と呼ばれる場所は、世界で一番安心できるところじゃないといけない。

 人のふり見て我がふり直せ。私自身も反省するところもありますし、今一度、自分の言動をチェックしなければいけないですよね。

 ちゃんと自分の心の中に飲み込みながら喋っているか、自分よりも立場の弱い者にばかり我慢させていないか、もしくは「上の人にこういう風に扱われたら、お前はこういう風に我慢すれば良いんだよ。こう納得すれば良いんだよ。」ということばかりしかアドバイスできない先輩になっていないか。

 そこまでのことですか?そこまでのことです。人が死んでからでは遅いのです。それがわからないなら、この事件からまったく何も学習出来ていません。

 この大津市の事件の実態は、恐らく、マスコミやインターネットで伝えられている情報よりも、もっと多くの闇が潜み、深刻なインタラクションや問題が数多く埋まっていると思います。
 普段の言葉で言うなら、この事件は、いわば、Aグループの優位性によって殺人事件をもみ消そうとしている事件、だと推察できます。

 人間として一番卑劣な行為をする、ヒトではないかのような振る舞いをする人間は、きちんと罰せられる社会を創らないといけないし、加害者が一番悪いのは事実です。
 ただ、それを見て見ぬフリをしている、していた、周りのすべての人間と我々は、なんら違いのない人間である可能性は、残念ながら、高い。

 だからこそ、我々が今できることは、この事件からきちんと学びとって、自分のなかの、いじめ促進になってしまっているかもしれない部分を、ちゃんと正そうとすることだと思います。
 その第一歩は、言葉を自分の心の中に飲み込みながら、勇気を持って、主張すること。

 そのこととは別に、、この事件の本当の真相が、きちんとしたカタチで明かされ、加害者が罰せられるよう願っています。
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自尊心を傷つけ過ぎないで

2012-07-09 03:56:57 | Weblog
 ある程度の信頼関係があると、相手の自尊心を傷つけることに喜びを感じるようになる。

 それは支配欲から来るものもあるし、相手の反応を観て楽しむこともあるだろうし、根源的に持っている感情であったりもする。相手の方が能力があったり、相手に何かの優位性があったりすると、なおさら自尊心を傷つけたくなる気持ちが湧いてくる。
 だって、安心したいんだもん。ってね。

 普通の人間らしい人間であると確認したい、ほら、こういうダメな(ダサい)部分があるから、自分くらいとじゃないと一緒にいてくれないよ?、所詮こんなもんだろ?、さっさと白状しろよ、そうしたら安心できるじゃん!、みたいに、なればなるほど、本当はもしかしたら、信頼関係を深めることができるのかもしれない。

 「高橋さん、絶対、肝試しとか苦手そうなタイプ。」
 『えー、俺がっすか?』
 「そう。絶対みんなから、高橋君苦手そうだから企画しようよー、みたいになってるはずだよ。」
 『なんでー??確かに、苦手ですけどー。笑』
 「でしょ?笑」

 余裕があるときは、相手に対する解析力や系を見抜く慧眼さを保っていられるから、自尊心を傷つけられても、カワイイとさえ思える。そういう風に普通にコミュニケーションがとれていければ、仕事もやりやすいし、そこからもっと、一緒に楽しむことができると俺は思う。

 でも、どんなに相手のことを信頼していても、好きでも、傷つけられ過ぎると、やり返したい感情も芽生える。そして、喧嘩になる。
 そんな時、最後、我慢しなきゃいけないのは、能力がある側、Aグループに近い側の仕事なのだ。グループ理論はかなり強い固定概念を幼い頃から植えつけているから、Aグループ側の人が下に降りていかない限りは、Cグループ側の人は、そっかぁ、やっぱ自分じゃダメだよね、じゃあ、そのノリがイイ同士で楽しんでろよ、って思ってしまうんだと思う。

 それに加えて、相手と同等になろうとして自分を大きく見せたり、ヤバい時に繋ぎとめようとしてAグループ的なノリを出し過ぎてしまうこともある。
 Aグループ側であればあるほど反応性が高いから、そういう点でも、Aグループ側が歩みよるべきだと思う。

 それが出来なくなるのは、突然一気に押し寄せる。想いの容量が溢れていく。
 本音3歩手前くらいのトークが普通だったのが、一気に本音10歩手前まで下がってしまう。

 それはそれで、、うん、グループが高ければ、他の反応性を上げればイイだけだし、今グループが低いなら、グループを向上させるキッカケでもあるわけだから、、終わりをちゃんと受け止め、前に進まなきゃダメなときもある♪

 ≪本当にそう思ってます?≫
 『うーん。微妙(笑)。って言った方が、正直だろ?』
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最初から持ってるものに頼らないで

2012-07-08 05:09:20 | Weblog
 心そのものは、ヒトであるってことだけで、みんな純粋で善だと思う。
 それでも重大な問題が起こるのは、大抵の場合、それら心がインタラクションすることによって、ダメになっていくからだ。だから、気をつけてインタラクションしなくちゃいけないのだけど。

 そうした原因をきちんと掌握しておくために、瞬時に一発で系の本質を見抜く慧眼さが必要になってくる。
 観たモノをありのままで正しい真実として引きずり出してくるには、論理的な思考力、感情変化に対する感度、直観力が必要になり、それを誰かに伝えるための、言語化能力、勇気、高度な表現手法が重要になってくる。

 瞬時に真実を見抜く力がどれほど養われているのかは、どうでもイイ系にある程度の貢献を残すことによって、判断できる。片手間でできてしまうほど簡単なことにならない限りは、ちゃんと能力を上げていかないとね。

 じゃなきゃ、より良くすることはできないし、それができないなら悪くなっていく一方。悪くなってしまえば、今よりももっと満足できなくなっていく。

 もともと持っている優位性をいかに使わずに、自己肯定感を持っていられるか、ってことだと思う。つまり、過去の栄光も含めて、自分はもともと優位であるから、っと心のどこかでは踏ん反りかえっていたとしても、そのような行動をださないように、ここから先の未来に対して、今、自分の力で貢献していこうという意志があるかどうかであると思う。
 そうすれば、自分がなんであるか、ということにこだわらずに、自分はこれをしている、っという自己肯定感を持っていられる。

 誰が言ったか、と同様に、何を言ったか、についても真実追究や個人の価値を判断するにあたって、意味をなさない。本当に大事なのは、行動(言動)から想いを推察してみたとき、その想いがきちんと個人の中だけであるがゆえに善として帰着していたときに限り、素晴らしい発言や一手になるのだ、ということを理解することだと思う。それこそが真実を見破る。
 まぁ、あることを発言する、ってことそのもの自体は、行動に含まれるから、一般ピーポーに理解されにくいんだけどね。

 露わに発現されていないだけで、俺自身、現在の所属に非常に適した優位性のある血も流れている。
 そのおかげじゃないか、っというオフェンスを自分自身にしながら、ほら全部について違うでしょ?、という行動をとっていく。
 そして、完全にそうじゃない人(というのが存在するのかって思うけどね)と関係性を深めていく過程で、理論は完成される。

 結果は、その人個人の努力だけに依存させることができるってね。

 悲しいことを起こさせないためにも、最後は、自らの慧眼さで持って、自分一人でシュートしていく姿勢を確立したい。
 友達や家族は支えてはくれるけど、最後はひとり。一緒に戦ってはいけないのだと、どこかで思っているのだと思う。

 そのほうが、コスパーが良いから?笑
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アクセプト

2012-07-06 01:54:08 | Weblog
 どんなに辛くても、確固たる想いがあるなら、きちんと立ち向かわないといけない。

 何かの情熱があるなら、ちょっとした即物的なことを犠牲にしても、ちゃんとその熱意を叶えるほうが楽しいし、アピールするほうが楽しくなれる。勇気を持って一歩踏み出せれば自分だって!、って思うかもしれないけど、ただそれだけじゃ、すぐに飽きられちゃう。
 やっぱり想いを持っていなけりゃ、それに相当するだけの実力や結果を持っていなきゃ、見抜かれてそれまで。

 ただ、想いが何もないなら、さっさと諦めたほうがコスパーがイイ。
 どこにでも受け入れられようとしないで、受け入れてくれるところで、自分が楽しめばイイし、逆に言えば、受け入れられない人を無理に受け入れないで、受け入れられる人を受け入れて、それで一緒に楽しめればイイんだし。

 どんな状況でも、行動しながら考えられるだけの技量を、誰もが持っていると思う。
 だから、忙しくても、泣きそうでも、複数のことで必死でも、そういうことだけは、常に考えながら、行動していかないといけないと思う。

 本当にヤバいのは、アクセプトされた後に起こるリジェクトなのだから。

 っま、そしたら、また、考えながら行動すればイイだけの話だけどね。
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優しさが創る不思議な偶然

2012-07-05 02:39:26 | Weblog
 幼稚園生や小学生の頃、抜け道とかを通って、抜けた先の広がった空間に対して、不思議な感覚やヤバいなって直感を持ったりすることは普通だった。
 はっきり覚えているけど、幼稚園生のとき、体育館みたいなとこの裏側に、みたこともないクラスが沢山あって、自分が知らない(把握していない)クラスがこんなに沢山あったんだー、って思ったけど、次の日以降、どうやってもその場所に行けなかったのが、いまだに不思議。あの沢山の教室やクラスや園児は、どこにいったの?、っていうか、なんだったの?ってね。

 それが、本当に違う世界だった、とか、ただ夢で観たのを現実だと勘違いしていたとか、そういうことは、今の俺らにはきっとどうでもよくって、ああいった無性に怖いとか不思議とか、そういう感情にもっともっと素直になってみても、毎日は面白いと思う。
 いつから忘れちゃうんだろうね。部活が始まったあたり?それとも塾に通いだしたあたり?現実を見過ぎてしまえば、それはなんでも受け入れざるをえなくなってくるし、かといって現実を良く見据えないと、無鉄砲になってしまうしね。

 そういうことにある程度の敬意をはらっていると、本当に不思議な偶然は起こる。
 目の前にある不思議な偶然を有難く受け入れるけど、あんまり実質的な期待はしていない。最近不調だったから。

 ただ、新しい信頼関係の中から生まれた、優しい一歩だから、その意味では何か変わるかも、っと期待している。
 こういうセカンドチャンスを逃してはいけないよね。

 余裕が無い時にこそ不思議な偶然やチャンスは訪れる。そのなかで、いかに上手くやっていけるかだ。
 余裕があるときは、できて当たり前。そうじゃなくって、自分自身に余裕が無い時間帯に、助けられる問題を助ける力量と、別の系を考えてみた時に誰かにとって繋がるものを無視しない気持ちが組み合わせられたとき、本当の意味で優れているかつ優しいのだと思う。

 優れているってことは優しいってことで、優しいってことは優れているってこと。それらは同時にしか存在できないのだから。
 俺は、この状態でも、もっと大変な状態でも、出来なきゃいけないっと自分に課していこうと思う。

 だから、コスパーよく?笑
 っという現実に帰ってくる。不思議さに溺れているだけではダメで、不思議さを受け入れながらも、現実を見据えるということが、問題解決のカギなのかもしれない。
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一言多い現実的な言葉

2012-07-04 02:13:00 | Weblog
 いつも重要なことは重なるもんだなー。
 すごく重要っぽいことがある一日に集中している。そういうことが予測できてるってのが唯一の救いだけど。

 でもまぁ、支え合えながら前に進めるような関係性が多くなってきているし、イイ兆し。
 やっぱり、ペアを組むときは、まったく違うことが得意な人とがベスト。それによって前に進めるし、そのもっと向こう側を観た時に、お互いに得られているモノも多いだろうし、より深い信頼関係の中で、次の新しい仕事や問題や、終には、俺自身の根源的な問題を実質的にも精神的にも解決してくれる一人になってくれるのかもしれないし、さらにもっと超えて欲しいと、思っていたりしてるかも。
 普通でももちろんだけど、そういう場合には特に、それ相当のお返しをしなきゃなわけで、俺の能力的に大丈夫かな?

 あくまで、すべて失敗しない前提。
 それは、本当の気持ちや、本当の意図だけでなく、表現の仕方も含め、何もかもについてベストを尽くしたうえで、2つ以上の実質的な結果を出そうとし続けることによって、得られる素晴らしいモノだと思う。

 で、ここまでが、物理現象。難しいのは、これ以降の、不思議な現象を掌握することだ。
 ホント、ただ単純に正しいことを言い続けるのって、簡単すぎる。誰でもできること。

 って、こういうことが、まさに「一言多い」のかな??
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暇つぶし

2012-07-03 00:55:32 | Weblog
 ホンモノであればあるほど臆病になる。
 しかも、ホンモノだったって確信したとたん、過去形になっていく。

 これら2つの基本的な性質を考慮していないと、on time(定刻通り)、in situ(本来の場所で)、これはホンモノだ!、と安心しながら楽しめない。どの時間も、結局苦しいだけになっていく。
 とすると、未来にはきっと成功している、って思えるほどの自信が必要で、そのためにはやっぱり、ある程度の結果が必要だけど、実は賢さでカバーできる。未来の成功している自分たちを正確に予測するだけの賢ささえあれば、それはクリアーできうるものなのだ。

 そんな賢さ、やっぱり要らない。じゃあ、臆病じゃなくすほーを解決してみます?
 でも、あんまりにも、違いすぎて。普通の度胸とか勇気とか、そういうのが無いんじゃない、別の類いのモノ、まったく異質のものな気がする。そうオフェンスしてくる誰よりも俺は勇気があるので、なんとなく納得できなかったりする。
 結局のところ、ほとんど誰も解決していない問題を、みんなで似通った言葉を付加することによって誤魔化して、分かってるだけになってるような気がしてならない。

 っま、かといって、八方塞でもなくって、解決策はきちんとある。
 ただ、今もう、あんまり、それを実行する気がないだけだ。何に関しても。

 ≪それってさ、暇つぶしする相手が変わっただけでしょ?≫
 『…、そうかも。お互いにね。』

 最大限の皮肉を言いながら、あんなときでさえも、そうじゃねーよ、実空間だけで物事を判断してんじゃねーし、って素直に負けられない性質は、俺特有(笑)。
 同じ。ずーっと、カワラナイし、カワレナイ。
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in situ問題解決したい気持ちの根源

2012-07-02 03:10:38 | Weblog
 RNAだけで構築された生命の系をRNAワールドと呼び、それが過去に存在したという進化仮説をRNAワールド仮説と呼ぶ(Walter Gilberd,Nature,319,1229-1232,2009)。RNAこそが生命の起源である、ってのが、進化論や生命起源を研究している研究者にとっての常識であり、RNAワールド仮説を大前提として話が進む論文も珍しくない。
 まぁ、さ、本当によく考えて欲しいんだけど、そんなのタイムマシンみたいなもんがなきゃわかんないじゃん、絶対。これだから生命系や化学系ってのは、座標ってのをちゃんと考えてないって思われちゃうんだよ。時間依存性が存在している限り、それは連続的に遡る以外に知る術は無いはずなのに、RNA分子にこういう性質がありましたー、ってやったところで、それはあくまで、生命らしさ、とか、ありえた生命、とかの一部を記述しているだけであって、RNAが生命の起源である、とか、大昔RNAワールドが存在していてそれが進化していって現在の我々になった、とか言えるわけではないのだ。

 どんなことだってそうだけど、現在観られる性質を羅列していって、だから、ほら、やっぱり大昔は何々があったっぽいでしょ?、って言うことはできない。あった可能性のみしか記述できない。
 それでもその存在を信じると言い切るなら、はっきり言うが、それは自然科学ではない。それは思想や哲学といったものに分類される。残念ながら、ただ単純に信じる者は救われない、ってのが自然科学の特色なんでね。

 こうやって新しい言葉を作って楽しんでる研究者は、研究者という決められた枠組みの中で生きていくためだけに研究しているに他ならないのだと思う。研究できる内容だから研究する。それがどういう意図を持っているかを正確に自分の中に飲み込もうとしているなら、RNAとタンパク質からできる自己複製系をRNPワールドって言おうよ!、とかわざわざ作らないと思う。
 まぁ、RNAワールドって最初に言った人は、そういうつもりじゃなかったんだろうけどね。

 生命起源を知る、っという最終目標を達成するためには、あるひとつの分子から色々な性質や情報を抽出してくるという方法をとっていても時間の無駄だ。
 もっともっと、分子から生命系を構築することに気を取られてないで、現在観られている生命系そのものの性質を知る必要があるし、自己組織化されている部分を引き算していって何が残るのか、ってことを調べたりしたほうが、最終目標に近い実験系であると思う。

 一つの系のなかで、本来そこに存在しているべき本質的なモノを見破ろうとするためには、時間軸を逆に辿って点をプロットしていくか、論理的に起こらないモノを排除していって残ったモノを観察するか、の二択だ。
 現実的に主には後者だ。When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.

 ただし、それは物理的な事柄しか記述しえない。よって排除していくべきは物理現象に限るが、その排除されてしまった物理現象の中に、物理学では規定できない重要な何かが潜んでいる可能性もある。
 だから物理現象とそうでないような現象を比較する必要性がある。それによって物理現象ではありえない、論理的にオカシイことが見つかった時に、初めて、学問や考え方などが進捗するのだと思うし、さらに言うと、それこそが学問の論理性を日常生活にあてはめた時に役に立つことだと思う。

 本来あるべき場所で(in situ)はなく、その外の枠に行った時に、やっとその本来の場所の問題点の解決方法に気がつき始めるから、俺には賢さが足りないなっと思うのだ。
 それを繰り返して行くことで、数々の本来あるべき場所から姿を消すことになっているけど、それに逆行することは、現在の本来あるべき場所を否定することにもなるので、なかなか難しいところだ。

 それを遥かに超えるほどの絶対的な楽しい信頼関係をずっと望んでいるけれど、勝率は悪い。言葉に騙される人は多いし、俺自身もそれに負けてしまうし、実質的にも精神的にも問題解決できないことも多い。
 ただ、難しいからこそやる価値があるわけで、それで妥協してしまうなら、普通じゃん。
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