相手を安心感に包ませてから論理的な議論に持ち込むと、相手の本当の実力が観えてくる。
アウェーとホームで戦い方が異なるのと同様で、相手を安心のなかに落とし込むと、非常にくだらないことや拙い論理でも、堂々と言葉にしてくるヤツが多くなる。アウェーや公の場では、そんな意見、恥ずかしいかもしれないという不安がぬぐえなくて、言えないくせにね。
ホームで相手を崩せれば、最高の爽快感を味わうことができる。レゾンデートルを明確に奪っていくときだけに発生する相手の底知れない力を目の当たりにしながら、真実を追うことができるのは、初対面にしてはコスパーが良いのだ。
前にも言ったけど、俺はどの人とも勝負する気は無い。我々(研究に携わる者)の敵は自然現象そのものであり、敵は決して誰かや分野ではないのだ。相手が自らのレゾンデートルを守るために必死でこちらを攻撃し始めたら、それは俺の思考を鍛える修行にはなるけれど、この人から何かを得ることはできないな、って感じる。敵が何かがわかっていないなど、研究者として、いや、何かのものづくりを携わろうとするんなら、論外だ。
なぜ、みんな、自らの能力や技能の部分に、レゾンデートルを求めるのだろう?
どうして、誰かのために自分ができることを必死でやることで示される優しい気持ちの存在に、一番の自信を持つことができないのだろうか?
この視点がもっと多くの人にあれば、もっと重要な進捗を目の当たりにすることができるし、自らの研究者人生を存続させるための研究をするなどという、非常にくだらなく意味の無い行為を、排除していくことができる。
量産されている無駄な論文を減らし、くだらない種のレゾンデートルに縋っている人を助け、そのレゾンデートルに縋られているせいで虐げられている人を助けることができる。
俺は日々、優しい人たちに守られているし、周囲を見渡せば、ただ有能(レ点をつけて、能力が有る)なヤツは誰もいなく、優秀(優しさが秀でている)な人しか残っていない。
俺自身も、拙い自分ができることを探して実行していくなかで、少しは、実質的にも精神的にも、何かの役に立てていると思う。
そんな俺のスタイルを一瞬ですべて見抜いたように、俺が普段している優しさの発現のプロトコルを俺自身にされると、どう喜んだらイイかわからなくて。。
一言一言が、君が考えている生き方は間違っていない、と言ってくれているようで、その絶対的な能力をいつか得るであろう俺は、誰か別の人に貢献していくことで、この人にも貢献することになるのだろうか、などと考えていた。
と同時に、もう、なかなか俺に、俺よりも高い思考力の絶対量を持ってして、心からの優しさを発現できる人が、世界中でも、めちゃくちゃ少なくなってきているのだな、っと感じた。
本当は、能力なんてどうでもよくて、必ずしもその種の優しさが必要なわけではないんだけど、、ただ、他人の正解を観る機会が減るのは間違いない。
そういう意味では、ココからが、本当の意味で「研究」なのかもしれないね。
アウェーとホームで戦い方が異なるのと同様で、相手を安心のなかに落とし込むと、非常にくだらないことや拙い論理でも、堂々と言葉にしてくるヤツが多くなる。アウェーや公の場では、そんな意見、恥ずかしいかもしれないという不安がぬぐえなくて、言えないくせにね。
ホームで相手を崩せれば、最高の爽快感を味わうことができる。レゾンデートルを明確に奪っていくときだけに発生する相手の底知れない力を目の当たりにしながら、真実を追うことができるのは、初対面にしてはコスパーが良いのだ。
前にも言ったけど、俺はどの人とも勝負する気は無い。我々(研究に携わる者)の敵は自然現象そのものであり、敵は決して誰かや分野ではないのだ。相手が自らのレゾンデートルを守るために必死でこちらを攻撃し始めたら、それは俺の思考を鍛える修行にはなるけれど、この人から何かを得ることはできないな、って感じる。敵が何かがわかっていないなど、研究者として、いや、何かのものづくりを携わろうとするんなら、論外だ。
なぜ、みんな、自らの能力や技能の部分に、レゾンデートルを求めるのだろう?
どうして、誰かのために自分ができることを必死でやることで示される優しい気持ちの存在に、一番の自信を持つことができないのだろうか?
この視点がもっと多くの人にあれば、もっと重要な進捗を目の当たりにすることができるし、自らの研究者人生を存続させるための研究をするなどという、非常にくだらなく意味の無い行為を、排除していくことができる。
量産されている無駄な論文を減らし、くだらない種のレゾンデートルに縋っている人を助け、そのレゾンデートルに縋られているせいで虐げられている人を助けることができる。
俺は日々、優しい人たちに守られているし、周囲を見渡せば、ただ有能(レ点をつけて、能力が有る)なヤツは誰もいなく、優秀(優しさが秀でている)な人しか残っていない。
俺自身も、拙い自分ができることを探して実行していくなかで、少しは、実質的にも精神的にも、何かの役に立てていると思う。
そんな俺のスタイルを一瞬ですべて見抜いたように、俺が普段している優しさの発現のプロトコルを俺自身にされると、どう喜んだらイイかわからなくて。。
一言一言が、君が考えている生き方は間違っていない、と言ってくれているようで、その絶対的な能力をいつか得るであろう俺は、誰か別の人に貢献していくことで、この人にも貢献することになるのだろうか、などと考えていた。
と同時に、もう、なかなか俺に、俺よりも高い思考力の絶対量を持ってして、心からの優しさを発現できる人が、世界中でも、めちゃくちゃ少なくなってきているのだな、っと感じた。
本当は、能力なんてどうでもよくて、必ずしもその種の優しさが必要なわけではないんだけど、、ただ、他人の正解を観る機会が減るのは間違いない。
そういう意味では、ココからが、本当の意味で「研究」なのかもしれないね。