たかはしけいのにっき

日々の「日記」を書いています。
何かを書いたからといって、実際に「そう思っている」とは限りません

冷酷さの使い方

2013-04-30 01:43:44 | Weblog
 自然科学を扱うなら、相手に嫌われても正しいことを言えるだけの勇気を持っていることが大事だと思う。

 それが相手にとって痛い現実であったとしても、自然現象は待ってはくれないから、正しさだけを伝える必要がある場があるのだ。空気や習慣や分野に騙されず、はっきりと正しいことを言ったら、空気がきちんと変わっていって、よりみんな本音で喋らなきゃいけない戦場に駆り出される。
 っま、こういうことに対して、延々と大義名分を話すことでディフェンスした気になってるような、くだらないスタイルを持っている人も中にはいるけど、たいていの日本語がきちんと通じる人には、効果的な手段だと思う。

 冷酷に正しさだけを追い求めるモードと感情を考慮したモードと、2状態持ってるとイイと思うんだよね。
 俺は、自分と相手の気分と場(時間帯)で、このモードをテキトウに変えるから、冷酷な正しさの提出の裏側を読むことができるほどの賢さが無い人とは、いっさい付き合わないです、って宣言してるようなもんだよな。

 誤魔化しを排除するくらいの、まっすぐな論理性を持ってすれば、誰だってボロが出る。そういう瞬間、どういう飛び方をするかで、今後付き合っていくか決めることができる。これも、手っ取り早い、コスパーのイイ手段。
 それと同時に、相手の気持ちを考慮しながらの、できることのなかでの論理性を高めていけば、あとは気持ちさえ共鳴すれば、正しく信頼関係を得ていくことができるんだと思う。

 気をつけなきゃいけないのは、感情内で記述される目的を、見失った論理的思考にならないようにしないとね。
 気持ちを無視した冷酷さほど、虚しいもんはない。(前によく書いていたことだけど、)冷酷だったり、論理性でいっぱいになるっていうのは、気持ちを一つに集約していく行為とイコールになってるはず。

 ブレた気持ちで、冷酷を使っちゃダメダメ。まっすぐな気持ちなら、冷酷さに価値がある。
 これが守れないなら、結局、冷酷になることで損するような結果になってしまうのだと思う。

ミラクルタイプ 株価女


ミラクルタイプ マネーゲーム男


(しっかしIT系が典型的なエリートって懐かしい。俺が中高生の頃と今はだいぶ変わったんだなーっと思います。)
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未来のミュージアム

2013-04-28 01:10:08 | Weblog
 知らないことやわからないこと、primitiveすぎるデータや考え方に対して、きちんと、わからない、っと主張することは大事なことだ。
 向上心が「知らないとバカにされる」っという恐怖心に勝つことで得られる勇気を持ってして、相手に教えを求めるのは悪いことじゃないどころか、とても素晴らしいことだ。

 だから、相手の価値観の範疇に入っていきながらも、自分の価値観を押し付け、寄り添っていくだけの気持ちの器を持っていなきゃね。
 お互いに笑い合えば、自信も持てる。足りないモノは、純粋な楽しさを求める気持ちと向上心だ。

 知識自慢大会になってるゼミやミーティング、質問と称してどうにか自分の主張をするだけのオフェンス等は、すべて、プライドが邪魔してるからだし、ちゃんと向上心があって、知りたい!、わかりあいたい!、って切に想っていれば、そんなことにはならないはずだ。

 我々は、まさに、『未来のミュージアム』を創るために、日々努力している。
 だとしたら、一人ひとりの業績や即物的な言葉に騙されないで、ちゃんとその目標に真っ直ぐ突き進もうとする心意気が大事なんじゃないかな。

 個人個人で足りないモノ、集団として足りないモノ。それらは、なにか?、っと一生懸命考えることが、ものづくりをしようとする集団に限らず、すべての人間同士の関係性で重要なことだと思う。

 一緒に見つけよう。きっと、俺の周りにいる人達は、みんな、できるはずさ。

[PV-Full Ver] Perfume 「未来のミュージアム」
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落ちない信頼関係

2013-04-26 00:43:49 | Weblog
 ダメであり続けることをイイワケにすることで成り立つ信頼関係にホンモノは無い。
 全ての信頼関係は、お互いにより良い状態になるため、それをもってして社会貢献するため。2人で暗闇に落ちていくために付き合うわけじゃないし、傷を舐め合う為に似たような人間同士で集団化するわけじゃない。

 だから、何かの関係性を保とうとしてダメであり続けることを選んではいけないし、一方が成功すること(成功していること)で壊れてしまう関係なら、それは最初から信頼関係じゃないわけだから、壊れてしまった方が、別の楽しさを他の誰かと形成していける。
 ほんのちょっとしたことで傷ついてしまうほど心が脆いんだとしたら、繊細に言葉を使い合えばイイだけだし、深く考えながら行動を提出していけばイイだけのことだ。

 なにで、そんなに悲しい表情をしていたのか、想像もつかないくらいの不安を抱えているのだと、心のどこかでわかっていたのに、結局、当人の責任に押し付けて、「今できること」を考えつかないのは、助ける側の能力不足のせい。
 助けることは、同時に、助けられることであり、助けられることは、同時に、助けることであるのだから、助かるためには、お互い、ある程度、能力をつけなきゃいけないよね。

 そんなことを、日々のちょっとしたことで想いだしてしまうのは、あんまり良くない症状だなって思う。
 だって、それが未来にきちんと繋がっているんだとしても、今の系に、確実に不利益を生じさせているわけで、それはそれでまた、ホンモノ感が薄れてしまうでしょ。

 なんとなく、本当の意味で元気になるスイッチが、見つからない気がしているけど、答えは実はすぐ傍にあって、何かのループに引っかかっているだけなんだと思う。
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答えさえ合っていれば後はどうでもイイ…!?

2013-04-25 00:51:08 | Weblog
 助けてもらえることを期待し過ぎちゃダメだ。
 相手は、自分を捨ててまでこっちを助けてくれるわけじゃない。たとえこっちが自分を捨てるほどの優しさであったとしても、逆にそういうことを相手に期待しても、どーせみんなそこまでじゃないわけだから、こっちの心が傷つくだけ。
 そういう生産性の無い、コスパーの悪いことは、好きじゃない。

 突然訪れる悲しさの原因ははっきりわかっているんだとしても、それを解決するだけの手立てが無ければ、どうすることもできない。
 今、どんなに何かの結果がでても、どんなに信頼関係を新しく結んだとしても、過去に残されている心の引っかかりは、現代に何かすれば解決するものではないのだから。
 矛盾していることを頭で理解しながらも今に求めて、期待して、そのせーで今が壊れてしまうなら、演技でも過去を完全に捨てているフリをするしかないのかもしれない。

 話を聞いてくれるってこと一つとってみても、それはとても憂んでくれていることだし、尊く、稀少価値のあることであって、それだけの優しさを肌で感じているのにも拘らず、満足できない自分に嫌気がさしてきたりして。
 数ある与えてくれる言葉のなかから、カタチにするのはきっと自分自身しかできない。そうじゃなきゃ、俺自身も本当の意味では満足できないのだし。

 求めているのは、精神的な部分の支えでも無ければ、今結果を出すことによる間接的な還元でもなく、発散でも無い。欲しいのは、実質的な解決だけであり、変わったという実感のある結果だ。
 それに向けての寄与は、俺自身であろうが、誰かであろうが、そういうことはどうでもイイんだと、今は思っているんだと思う。

 数学は、答えさえ合ってれば、後はどうでもイイと思っている。
 異常なくらい論理や思考にこだわっている割に、こういう風に自分の生徒に教えている理由は、答えに辿りつかないような論理や思考がいかに無意味かを、良く知っているからだと思う。
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みんな褒められて育ちたいから

2013-04-23 01:10:21 | Weblog
 何よりも続けることが大事で、今それができるとかできないとか、そういうことはどうでもイイ。
 続けていさえすれば、できるようになる可能性を担保することができる。辞めちゃったらそこまで。一生、できるようにはならない。
 だとしたら教育において、辞めさせないように、諦めさせないように指導することが大事で、見捨てないで、ちゃんと最低ラインをクリアさせようと施す義務が「先生」と呼ばれるすべての人に要求されていることだと思う。

 だから、良いところを、無理矢理見つけてあげる指針が大事なんだと思う。
 みんな、褒められて育ちたい。それは、30代だろーが40代だろうが同じで、もちろんその上の世代も、その下の世代も、みんな、褒められたい気持ちで溢れている。
 精神をすり減らすような教育に慣れて、それが良いんだ!、っと言っている行き遅れの教員ほど『いやー、やっぱり、先生みたいにきちんと言ってくれると、自分のモチベーションがとても高まります』とか言うと、子供みたいに嬉しそうな顔をするもんだ。

 いくら理三の子でも、どんな大御所の先生でも、まずは褒めれば、それが信頼関係の第一歩になり、きちんとしたやりとりのなかから、相手の悪い部分すら治させるようにできるのだ。
 褒められることに慣れていないことも多いから、少しでも褒めると、リアクションの仕方に慣れてない子たちも多い。そういう子には、とことん褒める。今まで褒められなかった分、褒め倒してあげなきゃ可哀相じゃん、ってね。

 無理矢理褒めるって、それはそれで技術だと思います。慣れないと難しいよね。
 例えば、

 ・応用問題をやってなくて、式を見て代入するだけの問題しかやってなくても、
 『おー、基本問題は、よくできてるじゃん。ちゃんと式を代入することができてる。最近、こういうことできない子も多いんだよ?あなたなら、ほんの少し考えれば、こっちもできるんじゃないかな。一問だけ、俺と一緒にやってみよーよ。』

 ・宿題のすべてを誰かのを見てやってきたことがわかったとしても、
 『とりあえず書いてはきたのね(笑)。友達のを見せてもらうってのは、大人もよく使う手段だし、あなたが想ってるほど悪い行為じゃねーからイイけどさ。ある能力が無いから、その部分は友達に頼る、って、Aグループの能力をとてもちゃんと使ってる、大事な手段。こういうことが一切できない子は、それはそれで困るからね。あなたはそれはきちんとできる。ただ、見してもらった子には、きちんと借りを返さなきゃダメだぜ?Cグループの子から搾取してんじゃねーだろうな?笑』

 ・何もやる気もなく、ただノートを取ってる子には、
 『ねぇねぇ、ちょっと筆箱見せてよ?おー、こんなに色ペン持ってるんだ。そうそ、みんなもそうだけど、無駄にカラフルにノート取るってのは、結構大事なのよ。やっぱノートも、キレイだね。ほら、こういう風に書いてね。』

 だってさ、二次方程式が解けなくたって、濃度の計算ができなくたって、関係代名詞が使えなくたって、別に、そこまで問題ないじゃん。(っと俺が言うことによって、お勉強できない子は救われるらしいし、お勉強ができる子には、もっと別の角度を要求していることになるから、コスパーが良いらしい。)
 よっぽど、言われたことを逐次的にできたり、友達に頼るだけの物腰の低さがあったり、ノートをキレイに作成できる能力があるほうが、繋がるでしょ?そこを認めてあげることで、辞めない、諦めないなら、その子たちが、本当の意味で、自然科学を理解したり、英語が好きになったり、論理的に考えられるようになったり、しうると想うんだよね。

 それで、それでも何も褒めるところが見つからなかったら、存在を褒めろ!
 『来てくれて、ありがとう』ってね。まぁ、これは、そうじゃなくても基本中の基本。

 無理矢理褒めながら信頼関係を得て、その関係性のなかで、本人にとってのより良き方面を選択肢として与える。
 そんなサービス精神こそが教育だし、今の教育に最も足りない部分なのだと思う。

 俺も、もっともっと、この能力をつけなきゃいけないし、それは、自分の生徒や後輩だけでなく、年上にも、すでにある信頼関係のなかでも、発現できるようにならなきゃいけないよね。
 「嘘はイヤ!」って思うなら、それは大いなる勘違いで、心のどこかで本当にそう想っていることを、言葉に出すか出さないかの違いだけなのだと思う。

伝説の教師 6-1  (参考は6:42~)
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言葉で纏う誤魔化しの鎧

2013-04-22 00:59:51 | Weblog
 言葉ほど、使いにくく、しかも虚しいモノはない。

 口先だけでキレイゴトを言うことなんて誰でもできる。そこに本当の実力や想いが伴っていないなら、後参入の強い勢力に殺られてしまうだけだ。
 そのときに残るのは、過去に自ら纏ってしまった、薄っぺらい言葉だけ。

 つまり、本当の能力や気持ち以上の言葉を得たり、使ったりすることは、未来の自分へ喪失感を与えることに他ならないのだ。

 そういう風にならないために大切なのは、自己矛盾なく語ることであり、かつ、自らの気持ちに正直な言葉を選ぶことだ。言葉は、本来を誤魔化すためにあるわけじゃなく、インタラクションすることで本来を知り、そこから信頼関係を生むために存在する。
 誤魔化しの言葉を解除させ、気持ちを抽出し、底から共感するために、言葉を使っていけたなら、言葉ほど、自然現象を掌握するための武器として相応しいモノはないのだ。

 しかし、俺の感情は、その目的に即するカタチで動いてはいない。
 もはや、生命科学の最終目標である「生命とは何か?」に答えることはおろか、理学の最終目標なんてものに、興味は無い。そんな即物的なことを目標に掲げるほど、俺はバカじゃない。

 理工学が進捗し文明が豊かになったとしても、幸せの絶対量はカワラナイ。みんなにとって便利なことと、心の総量が満たされることは、まったくの異質なことなのだ。そんなこと、とっくの昔に知っている。

 ある目標に向かって、みんなで立ち向かうからこそ面白い。モノづくりのなかに、心と心が通い合っているからこそ、価値があり、幸せを感じることができ、やっと意味あるモノになれる。
 不貞腐れた言い方をするなら、俺のすべての行為は、みんなが興味あるって言うから、仕方なく付き合ってやってるだけのことだ。

 一番心配している、大切な系の状態は、よくなっていく気配は無い。
 纏ってしまった言葉の数々、誤魔化しの鎖をほどくには、締め付けられてしまっている向きと逆向きに鎖を回すか、ナイフで切ってしまうしか方法は無い。前者は恐ろしく時間がかかってしまうし、後者は気持ちを傷つける可能性がある。たとえ直接肌に刃が当たらなかったとしても、歯垢が溜まると、そこで歯が安定してしまい、取り去ると血が流れるのと同じで、本来を抽出するドラスティックな変化に、傷はつきものなのかもしれない。

 なるべく傷を負わせないようにと、優しく扱えば扱うほど、単純に勇気が無いのと同じ行為になってしまう。プライドが高いわりに能力がない、本来の笑顔を失ってしまっている、助けるべき心を持つ相手を勝たせながら、時間と戦うのは、言葉をいくら正しく使っていっても、なかなかの苦戦を強いられてしまっていた。

 ただ、それも、俺が望んだことだし、俺が選んだことだと思う。
 観ないフリは簡単で、日々の忙しさをイイワケに『「今は」忙しいから。』っと誤魔化してきたのは俺自身。

 きちんと変化させないと、言葉よりも厄介な結果に化けてしまう。
 何か対抗手段をしないといけないけど、恐ろしいことに、焦りは無い。周りを見渡せば、いつのまにか、信頼関係に溢れていたからだ。
 頼り過ぎてはいけないけど、彼ら彼女らがいる限り、この特有なモノづくりも、きっと成功するだろうと確信している。

 優秀さをベースとしながら、絶対的な論理性を身につけ、さらに言葉の使い方に繊細な人たちが、信頼関係を結んでいるんだから、大丈夫。
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本当の気持ちを…

2013-04-17 01:51:13 | Weblog
 エントロピーという熱力学函数について、「乱雑さ」という間違った解釈をそのままに、きちんと考えようとする理系があまりにも少ないことは問題なんだけど、この現象については、いろんな意味で、勉強させられる。

 たとえば俺が、『ごめんね、っていうかさ、そもそもエントロピーって何??俺の知ってるエントロピーとは違うエントロピーで議論してるように聞こえるんだけど?』って言うと、みんな素直に「え?高橋さんはどう考えてるんですか?」って言ってくれるんだけど(笑)、俺とまったく同じことを高校生や大学初年次の子が言うことってあると思うんだよね。
 そういうときに、俺が言った言葉と同様の価値を感じて、その子にきちんと説明しようと想えるかな?

 「誰が言ったか?」ではなく、きちんと、「何を言ったか?」だけで判断できますか?って考えた時に、なかなか難しい。ちゃんと理解しよう、本当の意味で、人は対等に扱おう、平等主義、っと掲げるんだったら、簡単にできなきゃだけどさ。

 コツコツお勉強だけをこなしていると、自分にとって絶対的な誰かが満足するまで、理解すればイイや、っとなってしまうことが多い。だとすると、エントロピーについて「乱雑さ」程度の理解で満足してしまうような人が、大学の教員のなかでも多いから、それでオッケーって多くの人が思ってしまって、他のことでもそんなんだから、後輩や自分の生徒に対して、横柄な態度で、上から押し付けるような環境になっていってしまうのかもしれない。
 本当は、ある目的を達成しようと努力する過程で、仕方なく必要になってしまったから、ある知識をきちんと理解しなきゃだね、ってなる、そういう順番なのに、あの人を満足させるために、って日々実験したりお勉強したりすることほど、本末転倒なことはないんじゃないかな。

 だから、敵は自然現象なんだってば。

 俺が、それ以前に呆れかえるほど繰り返していた、ただの「真面目」。そうではなく、本当の意味で、自然現象をきちんと理解したい、論理性を高めたい、っと思った俺のきっかけは、ココには書けないけど(日常ではよく言ってることだけどね)、確実に存在している。
 「真面目」は、「面」と「目」の間にレ点をつけて、「真」っ直ぐな「目」をした「面(ツラ)」をすることだ。真っ直ぐな瞳をもった表情をする演技なんて簡単だ。そうじゃなくって、自らの論理性がそこに内在していなきゃいけないし、もっといえば、何に応用するための論理性なのか?ということを心に飲み込まなきゃいけないと思う。

 「誰が言ったか?」ではなく「何を言ったか?」、であり、もっと突き詰めれば、「何を言ったか?」ではなく「どんな気持ちを抱いているか?」なのだ。

 まだお勉強し始めの頃、自分のスタイルを貫くせーで、躓くことが多かった。何かの即物的な結果もすぐには出なかったし、浪人もしてるしね。
 自分の身をもって、肌で感じた必要なモノだけを得ようとし続けたのだから、そりゃ、上から与えられるよりもコスパーが悪い。

 そんな自分が、まさか、英語で論文を読んだり書いたりすることを、主体的に研究を進捗させることを、期待されるような人になるとは到底思えなかったし、シグマやインテグラルなどを沢山含む数式、誤差論などを後輩に教えるような立ち位置になるとは思わなかった。
 変わったのはいつだろう?って考えて行きつくのは、自分の気持ちがきちんと変わった高2の頃。お勉強したり、研究したり、賢くなることに、本当に価値を感じることができるようになったあの頃に感謝しているし、今の振る舞いの中にも内在させている。

 助けるために、守るために、系をより良くするために、論理性を高め、知識を得ていく必要がある。っと今でも言い切れるのは、俺の強さだ。

 だとしたら、今、何かの結果が出ていなかったり、不本意な表現型を現実世界で発現しているのであったとしても、ある程度の長いタイムスパン(年オーダー)を考えた時に、あまりそこにとらわれず、俺、もしくは、相手、もしくは、集団が、どのような気持ちでいるのか?のほーが、遥かに重要なんじゃないか、っと想っている。
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心地の良い疲れ

2013-04-16 00:40:16 | Weblog
 自分主体で動き続けていられたら、疲れていても、心地の良い疲れになる。
 誰かに動かされていれば、身体だけでなく、心も疲れてしまう。

 だけど、自分主体で動くためには、それなりに日々の努力が大事になってくる。
 それは、目的の系へのいくつもの選択肢を知りながらも、きちんと論理的に考えることだと思う。2ステップや3ステップくらいの因果関係(「なんで?」っと思う気持ち)を追えるだけではダメで、もっともっとすべてを掌握してしまうようなコスパーの良い考え方をしなきゃいけない。こういうことは、手法をいくつ知ってるとか、解析手段を熟知しているとかそういうことではなくって、もっともっと根源的な論理性という部分での賢さだと思う。

 n手先が観えるようにならないなら、一発で根源を突き止めるようなアプローチはできないし、そうしなきゃ論理で誰かを助けることはできない。

 心地の良い疲れを味わうためにも、もっともっと賢さを高めなきゃいけないし、みんなの役に立ったり、系をより良くしようとしたり、助け出そうとしたりするためには、もっともっと掌握力が必要なんだと思う。

 そうそ、100人くらいなら、自由に動かせるような論理性を持たなきゃね。笑
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今夢を実現させる仲間がいるから

2013-04-14 03:10:53 | Weblog
 時間を無駄にしてしまったと頭で理解できたとき、その無駄な時間を価値あるものにしようと躍起になるのでは、どんどん希望が無くなっていってしまう。

 過ぎ去ってしまった無駄な時間に対して、あれこれ悩んで、楽しい時間だったんだと自分を誤魔化したり、こういうことが必要なんだと意味付けをしたり、落ち込むフリをすることによって、行動から気持ちへフィードバックさせて、元気をなくしてみたりして、自分を無価値なモノと決めつけたり、自信を喪失させてみたところで、今まだ、有り余っている時間を無駄にするだけのことだ。
 優しい言葉にさえも、何かの策略なのか?と、いつしか心が響かなくなっているのなら、もっともっと(ABCの)グループ性を無理矢理にでも高めて、他人の意見をまるで自分のように感じることによる効果を期待するしか術は無い。

 『なんで、今の、取らないんですか??』
 「え?」
 『なんで、今、走らなかったんですか?走ったら、取れたかもしれないのに。』
 「わかるから!走らなくても、走る前に考えたら、今のは取れないな、って、わかるから!」
 『…そうじゃないでしょ。気持ちの問題ですよ。本当は、間に合ったかもしれないじゃないですか?』

 論理的に物事を考えて何も行動できないくらいなら、まずはとりあえず行動してしまい、そのなかで論理を考えた方がコスパーがイイ!、って想いながらのその発言は、もしかしたら、俺自身に向けて、言い放っていたのかもしれない。
 走ることを恐れたせいで、無駄な時間を過ごしたとしても、まだ時間が残っているなら、そこに全力で走りこむ。そして、そのモチベーションが維持できないなら、仲間に頼ったら良いじゃん。

 俺らは、チームだからこそ、強い。論理性なんて大してアテにならない。信頼関係こそが、勝負できる唯一の武器。
 今夢を実現させる仲間がいるから、心からにじみ出ている悲しさと寂しさを含む、あの笑顔を、きちんと輝きに変えることができる。それをできることこそが、幸せの足がかり。

 その着眼点を忘れなければ、どのモノづくりも、きっと成功する。
 時間依存性の無い、意志と意志だけがもつ果てしないパワーを貢献に使っていき、その喜びを分かち合えるだけの優秀さを精神的に俺と近い周囲のすべての人に備わっているから、幸せになれる必然性を持っていける。

 それは、これまでの無駄な時間を、…いや、無駄だと勘違いしている時間を、本当の意味で、価値あるモノにする、唯一の指針であると、俺は勝手に想っている。

EXILE DIAMOND
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「運命」と「意志」

2013-04-11 00:21:00 | Weblog
 DNAで初期条件が定まり、小さい頃からの環境によってのみ、その人が形成されていくんだとしたら、その人の善し悪しや本当の意味での評価を、その人固有で決めることはできない。
 もし、これだけであるなら、生命現象はイコール物理現象だと思う。

 俺らは、そうじゃない部分を無意識のうちに抽出し、その人の素晴らしい部分や駄目な部分を求めにいく。
 そうじゃない部分、つまり、意志や想いや気持ちなどだ。

 それらは(基本的には)時間に依存しない。だから、こういうモノが共鳴し合うならば、それはホンモノの関係を築いていけるということだと思う。
 こうだったから、とか、こういう環境だったから、っとか、そういうことを除外しながら、その人固有のモノを抽出していくなかで、好きになれたり、尊敬できたり、するのだったら、能力をあげるためのモチベーションになるのだと思う。

 だとすると、何かを捨てなければ、もしくは、何かを得なければ、成り立たないような関係にホンモノは存在しないし、ホンモノにはなりえない。
 集団化するのは、自分(たち)だけがよければそれで良い、っという自分勝手な目的ではなく、誰かへ貢献していこうという、圧倒的に優秀な気持ちからでないのなら、関係性も危うくなる。

 いつまでも幻想の世界を心の拠り所としていてはいけない。
 日々は過ぎていくし、新しい問題も目の前に訪れる。

 あの頃の正解を目の前に突き付けられている今、これを持っていきたい系に対して適応してイイのか迷うけど、それこそそれは俺が決めることではなく、物理現象という名の、レ点をつけて「命を運ぶ」ようなモノが、決めてくれることだと思う。

 アウェイに慣れて、気がついたことも多い。解決策も状況に応じて判断していける。
 もうすでに、俺からだって、言えることは沢山ある。
 それらのひとつひとつを訊くか聞かないかは、「運命」次第、もしくは、生命現象という名の、「意志」を持ったあなた次第、なんだぜ?
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1秒の転移

2013-04-10 01:01:12 | Weblog
 先手を打ってディフェンスしておこうと思った行為は、オフェンスになることが多い。

 プレゼンでは、相手の思考を先読み、ディフェンスしておくことが大事だけど、これをめちゃくちゃきちんとやると、聞いているほーは、まるで攻撃されているんじゃないか?ってくらいのトークになる。こういうときは、もはや、ディフェンシブトークではなくて、オフェンシブトークだと思う。
 誰もが、どこか誤魔化しながら生きてるから、めちゃくちゃ正しいと、それは残酷なんだよね。

 自分の能力以上の言葉を持ってしまっている人のなかで、自分に自信が無いと、家柄や家系の話をするのが大好きな人達がいる。これも、お前はそれほどの能力は無いよな、って言われないためのディフェンスのつもりかもしれないけど、こういう無意味さは、時として他人を傷つける(だから最近は、こういう話がいきすぎる場合は、無理矢理止めます)。
 だって、本当に自分に自信があって、自分自身のことをきちんと大切に想えているなら、いまの自分とほとんど関係ない履歴の話なんかしなくても、自分やその周囲にいてくれる人の話をしていれば、時間はあっという間に経ってしまうはずでしょ。

 ディフェンスを意識していたのに、現象としてオフェンスが発現されたとき、それは、どういう場合にせよ、特異的な事態を生んでいる。

 そうすべき時や、そうなってしまう時に、なるべく、全体をより良い方向に持っていくような、ディフェンスからオフェンスへの転移を行っていけたらいいよね。こういうことをきちんと考えながら、みんなで楽しみたい。

 この転移を取り繕うまでの演技が1秒を超えて、俺に見抜かれていることがわかってしまった瞳を隠して、必死で突っ張っている強情さを見つめながら、、みんながみんな、こういう風なことにこの転移を使ってくれるなら平和なのに、っと現状を振り返ったりしてみる。
 演技は開始までの速さが大事なのだ。1秒以内に演技を開始しなければ、どんな名演技でも、見抜かれてしまう。

 今抱えている問いをクリアするためには、1秒以内の演技開始を意識するなかで、1秒以内の取り繕いを見抜くだけの能力が必要だ。全力じゃないと、こういうことはなかなかできない。
 っま、一人じゃないから、大丈夫だと思ってるんだけどね。
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優しさの表現型の基礎

2013-04-08 02:20:34 | Weblog
 理学の分野は、「数学」「物理」「化学」「生物」「地学」に大きく分けられる。高校の分野をそのまま書いただけだ。
 「地学」という理系の中でも特異的な分野を除外すると(ごめんね(笑))、高校レベルであれ研究レベルであれ、厳密さを要求される順に並べるとしたら「数学」「物理」「化学」「生物」の順になる。頭の固すぎるくだらない権威主義者を除けば、理系の誰もが納得すると期待できることだと思う。
 だから当然のことかもしれないが、「数学」「物理」「化学」「生物」になるにしたがって、絶対的な論理性を欠如させても大丈夫(生きていけるということ)になり、早い話、文系っぽくなる。それは学会などを観れば(特に服装)明らかだ。

 しかし、たとえば「生物学」は、非常に混沌としている、予測不可能な大変難しい分野である。
 こういう分野にこそ、がっつり理系で、とても論理性が高い人が進学しなければならないのにも拘らず、生物学科や農学部では、「数学Ⅲ」を入試に課さない学科も多い。

 よーするに、「自然現象からの要求」と「分野や所属としての要求」が不一致すぎる(というか逆)のだ。

 分子生物学では、タンパク質の発現量を蛍光標識で可視化することがとても有用な武器になる。蛍光を使うことで生じる副反応に依る細胞系への影響を考えるほど厳密である人には、分子生物学は向かない。
 有機化学では、反応チャートを電子の移動で理解することが重要である。求電子付加反応について、分子軌道法によるシュレディンガー方程式を解くことで得られる分子の電子密度から判断する数量的根拠が欲しいというくらい論理性のある人には向かない。
 量子統計力学では、数ある粒子を平均場とし多体系を一体系として扱う平均場近似の考え方・イメージが重要である。あらゆる特異的な粒子についても考慮し、その変換を行うことでヒルベルト空間として完備性が維持されるか、熱力学函数のC1級函数の性質など、を初めからいちいち吟味していたら、いつまで経っても「何が起きているか?」を理解できず、結局向かない、っということになってしまう。

 こう考えてみると、俺も最初は、そういうことについて、いちいち気を払っていたんだな、って思い出す。実は、こういう初めの想いこそが、研究とか、開拓しようと想った時には重要であり、大切な価値観だ。
 ベースとなる論理をしっかり理解しているからこそでてくる、大切な疑問は、上から与えられた時に鵜呑みにするのではなく、今までの常識と照らし合わせることから始まる。

 たとえば、非平衡理論を理解・構築するのなら、平衡理論の圧倒的な理解が必要だ。田崎先生も著書のなかで、「非平衡統計力学の建設は、二十一世紀になっても未開拓のまま残された重要なテーマであり、もっとも優れた科学的知性の挑戦を待っている研究分野だ。」っと仰っている。
 これは総体的な話で、あくまで俺の印象であるが、非平衡の理論研究をしている人よりも平衡の理論研究をしている人のほうが、論理性が高く、細かいところまで繊細に思考が行き届いているように思う。これが俺の勘違いでなく、もしも事実なら、大変な問題である。平衡理論の理解およびそれらの現在の問題点をしっかりと考慮した上で、非平衡の理論構築をするしか術は無いはずであるのに、そうでない人間がどんなに美しい論理体系を作っても、それは儚いモノであるからだ。

 まぁ、これら問題の簡単な解決策は、色んな人と協力し、本音でよく話し合い、相手を好きになっていくことだ。
 理解よりも前に、相手や相手の考えを納得してしまうことによって、理解が進む。好きになることで、相手が扱う分野も愛おしく想えるようになり、多角的な視点から自然現象を捉えられるようになる。
 そうすれば、各分野が持っている階層性に本当の意味で気がつくことができるだろうし、それらを結ぶ橋をキレイに描けうる論理性を得るようになる。

 俺らの敵は、自分でも、他人でも、分野でもなく、残酷な物理現象なのだから、理論は理想を押し付けるのではなく、実験は不可能を押し付けるのではなく、きちんとした思考と判断を共有すべきだよね。

 こういうことは、理学や研究だけでなく、他のことについても言える。
 相手の考え方やスタイルや習慣を理解できないときに、自分とは別の階層だ、っと決めつけるのではなく、そのベースとなるモノ・バックグラウンドを時空間的に見つめ、先に相手を納得してしまうことで、理解を促進することができる。
 厳密さを欠くことを恐れずに非常に簡単に言ってしまえば、「相手の立場にたって、ものごとを考える」ってことだ。

 この発想は、優しさの表現型の基礎。
 逆輸入で、理学に発想しただけのことだ。
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Only Human

2013-04-07 03:46:04 | Weblog
 自分の道に他人がレールを敷くようなことをさせ続けてはいけない。
 完全に自分の思い通りに道を創ることはなかなかできないけど、なるべく自分の意志を持って、上からの自分勝手を跳ね返さなきゃ、時間ばかりが過ぎていってしまう。

 わからないながらも自らの希望を伝えていき、どーせわからないだろ!、って言われたら、私のことなんだから口出しするな、って言えたら一番イイよね。
 笑っちゃうくらいの不条理や、現実に即さず甘いこと、くだらない部分に厳しいこと、を言ってくる人があまりにも多いのだから、自分にとって、何が必要で何が不必要かは、親や教員や上司ではなく、自分自身が一番わかっているべきであり、その考えを自らの心の中に飲み込みながら、自らで決定していくと、楽しくなってくる。

 他人が敷いたレールに乗っかっていれば良かった、っと思うときは、俺も沢山ある。
 でも、たとえ、自分が最終決定権を本当の意味で持っていたがために、時間がかかってしまったとしても、上手く行かなくて負けてしまったとしても、他人依存で、負けたり、勝ったり、結果が出たり、そして、出なくて時間がかかってしまたりするよりは、自己満足という点で、何十億倍もマシであることを、俺はよく知っている。

 共焦点レーザー顕微鏡を使うたびに、蛍光色素や脂質や細胞を弱らせてしまうレーザーを、勝たなければいけない相手に例えながら、想いだす。確実に存在してしまっている、俺が見るために、結果を出すために、存在するために、仕方なく照射している期待できる光は、ディクティーにとっては、弱らせて丸くしてしまう攻撃でしかない。
 流れに逆らう舟のように、視野から逃げていくディクティーに自分を重ねて、ジッと耐えて何もできずに丸くなっているディクティーを、この圧倒的な支配から、どうすれば楽しくさせられるかを考えてみる。

 別に、誰かにレールを敷いてもらうこと自体が悪いことではない。能力なんかなくても、楽しくなれるし、より良くしていけるし、誰かに優しくできるから、徳が高い。それは、俺の周囲の優秀な人が、いくらでも証明している。
 信頼していない相手が不条理にレールを敷くような制度そのものが問題であり、俺はそういう問題を変えることができる潜在能力を持っていると信じているから、もう少し時間が経てば、きっと大丈夫。

 細胞が入っているガラスボトムディッシュをナナエタで拭きとってしまえば、主体的なヤツも、その場で耐えるヤツも、関係なく平等に殺される。しかし、そこには、確かに意味があるモノがあったのだということだけは、残る。
 逃げるためじゃなく夢を追いかけるために、闇の中で一瞬だけ現れる「支配せよ」と強制力のある光から、本当の希望の光へと向かっていくだけじゃ、ホンモノにはならない。それだけじゃなくって、物理的に自分がいなくなっても、ちゃんとより良くなっていくような環境を残せたり、引っ張りだせたりするのなら、ホンモノに近くなるのだと想う。
 だから、逃げていったディクティーが、どうにか自分に復讐してくることを期待したりして。笑

 あれから、一歩ずつ、強く前へと進んできた。
 ならば、前に進ませるために、少し遅れてしまうのも、悪くは無い。

 だって、哀しみの向こう岸に、苦しみの尽きた場所に、楽しさが待っているんだから。
 そう考えてみたら、闇も悪いとこばかりではないな、って思えてくるのだ。

K - Only Human
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一度はチャレンジ

2013-04-05 01:17:56 | Weblog
 自分は何でもできるんだ!っと心から思えれば、本当の意味で他人を尊重することができるし、くだらないものに対して、きちんと対抗できるようになる。

 自分の身の回りに存在することの中で、自分にはこれができるようになることは一生無い、っというようなことは、極端に少ないはずだ。やってもみないで、手を動かしてもみないで、諦めないで。
 必ずやればできる。なのに、自分から何もしないうちに、その理解を避けてしまうようでは、いけないよね。

 ちょこっとだけやってみて、上手く行かなくても良いんだし、負けても良いし、逃げても良い、やめても良い。
 いけないのは、一度もチャレンジしないというそのスタンスだ。

 あとは、試して諦めて、もう一度、試す、っという繰り返しができるかということもあるけど、そんなのはもっと別の話。
 とにかく、一度だけでも試す、ってのは、とても大事なことだと思う。

 そういうことをしていけば、質問と称して単なる自分固有の主張をしたり、何にも行動を起こさないのが先決、などということなく、自分の不慣れな分野や苦手なジャンルに対してでも、きちんとした意見と行動を提出することができ、任意のモノに貢献することができるのだと思う。
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孤高のプライドから集団進化の楽しさへ

2013-04-04 00:53:29 | Weblog
 プライドの高さを決定づけているモノは、その人が持っている「言葉」だ。
 だから、能力以上の「言葉(時間によって確実に得られてしまう言葉も含む)」を得てはいけない。「言葉」ではなくガチの能力で他人は評価してくるから、プライドだけは高い、というような批判が蔓延してしまう可能性がある。
 そのような蔓延を帯びている集団は、成長しないし、結果を出せないし、信頼関係を築けないし、楽しくない。負のスパイラル。

 肩書きが欲しいだけなら、今すぐ手を引く方が、コスパー良いんだぜ?
 ある期間だけ我慢、っとイイワケをする人が多いけど、そんな成長の仕方をしていて、いつ本質が始まるのだろうか。本質を始める頃には、何も能力がついていなくて、何をしたらいいのかわからず、何もできないから、言葉を持っていない人をバカにしたりいじめたりするのが関の山。そんなの、なんて徳の低いスタンスなのだろう、俺は絶対にイヤだ。

 かといって、そうなりかけている個人や集団に対して、理想論だけ押し付けていても仕方ないので、できることから、徐々に変化させていくように働きかけるべきだ。
 あえて自分の駄目な部分の言葉を露呈させながら目立ってみたり、相手が誤魔化している部分をオフェンスするかのような喋り方をしたり、とにかく「ナニクソ!」っと思ってくれたらイイんだと思う。さらに、誰だって褒められたいのだから、相手のイイ部分を引き出しながら、のバランスが大切。

 それは全体を活性化させることになると思っているけど、こういうことも考えながら、絶対的な論理性を高めなきゃいけないのは、至難の業だ。

 『だってさ、いくらなんでも俺にも限度があるし、現実的にオカシイこと言ってるんだから、何やってんのかなーって思っちゃうじゃん。』
 ≪それはしょうがないですよ。ヒトにはプライドってもんがありますし、そういう、明らかにオカシイことでも、自分にイイワケをして、思い込むことを繰り返しながら、自分を誤魔化して、プライドを構築しないと、生きていられないんですよ、きっと。≫

 『そう、そこ。そこが問題なんですよ。ヒトは、いつまで、変われるのか?、ってね。』
 「いつまででも変われるよ、きっと。その気持ちが本人にあればね。」

 履歴に依存しないことが生命らしさの一つの側面、つまり、時間に依存しないことこそホンモノ、だと俺は想っているから、俺自身と俺が信頼している人達が、習慣や風習に依らず、単に、優しさに秀で、正しく能力を追究していくことを期待している。

 そして、そういう時間を共有することこそが生命(進化)の本質であり、生きていることの状態を特質的に表わす物理量「楽しさ」なのだと思う。
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