たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

I See The Light

2015-04-30 00:00:37 | Weblog
 他人とインタラクションをしていくとき、何かの利害が衝突したり、価値観があわなかったときに、取れる手段は次の5つに限られる。
 「自分が変わること」「相手を変えること」「自分が受け入れること」「相手に受け入れさせること」、そして「決別すること」のどれかだ。

 何を目的に何をするんでも、どんな関係であっても、前の4つを繰り返しながら相手の反応を待ち、最終手段である「決別」をなるべく避けながら、インタラクションしていくしかない。同じ人間でない以上、最初からすべてがフィットするはずがなく、価値観は絶対に食い違ってしまうのだから。

 思えば、この5つを頭に入れながら自分の願いに近づけるように、今まで数々と会話をしてきた。
 小学生の頃は上手く喋れないことが多かったけれど、次第に、どこが着目すべきポイントなのかがわかるようになっていった。歪んだ社会を肯定化し、明らかにみんなが思ってる真っ直ぐな気持ちを表向きに否定することで、無難さと穏便さを一番に考えている自称"オトナ"達が俺に対して、どこをオフェンスしてくるのか、今ではほぼ完璧に把握している。

 「これで後に戻れないですよ、たぶん」
 『大丈夫、もとよりそのつもりだから』
 「誓えますか?どんな状態になっても、とにかく最後までやるって」
 『いもしない神と自分自身に、いくらでも誓ってやるよ。どんな状況になったとしても、必ず最後までやりきる、ってね』

 もともと「後輩に言われても。。」という言葉で、時間の流れが遅すぎる閉空間から抜け出した。アインシュタインは正しい。確かに時間は相対的である。やっとの想いで時間を超えてみたら、今度は「今、たかはしくんは、この空間内にいるわけじゃない」と否定される。
 その言葉に俺がダブルバインドで傷ついていることに気がつかない鈍感さを、ただ余裕がないだけだ、と無理矢理に結論付けて、それでも続けられる?思い切り、つらぬける??

 「決別」はいつでもできる。だとしたら、何度でも、get up and try!
 それに、俺がどこかで諦めて「決別」したとしても、やりとおさなくちゃいけないと思っている。

 賢い人間が勇気を持った時、もしくは勇気を持った人間が賢さを手に入れた時、はじめて、より良くなる。
 それは、この場所を離れても、忘れちゃいけない。どこにいったとしても、遠く離れたとしても、俺は、関連しているor関連してきた場所に対して、より良くすることを最後まで諦めないから!

Realize - Melody. MV (HD)
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「あなたに勝ちたい!」の熱さ

2015-04-28 00:43:26 | Weblog
 よく、「意見の否定」はするが「人格の否定」はしない、という美辞麗句が多くの賛同を得るが、本来、「人格の否定」を一切せずに「意見の否定」をすることなんて原理的に不可能だ。

 人格は意見の重ね合わせによって成り立っているし、逆に言えば、人格から意見が発現される。意見のみを抽出して、それを否定してみたところで、その意見がどこからでてきたのかの因果関係を探れば、絶対に人格そのものや人格形成の環境そのものの否定に行きつくだろう。
 そして、何かの食い違いやぶつかりがあったときに、何かの誤解が解けたとしても、むしろ、言葉だけは心に突き刺さったままだ。誰かの何かを否定するときに絶対に考慮しなくてはいけないが、誤解が解けても言葉は残る、ということだ。誤解が解けたくらいじゃ、傷ついた心は取り戻せないのだ。

 だから、自分は意見の否定をしているだけだから大丈夫、などと思っていることは少しばかり危険であり、例えば誰かの何かの研究内容を全否定したいとき、いや、部分否定する程度であっても、俺は今からコイツの人格を否定するんだ、という気構えくらいは持っておいたほうが良いと俺は思う。
 こう考えることで、そうまでして否定する意義はあるだろうか?と自分へと責任が負荷される。オフェンスするときは常に、すべてがどちらかの誤解であったとしても、言葉そのものは残ってしまう、、それでも、コイツに俺の意見をぶつける価値があるだろうか?、と考えるべきである。そうすることで、単なる疑問点の指摘や知識自慢ばかりでなく、自らが作りだした問題や当人が抱えている問題を解決するための思考回路を、否定したその瞬間から働かせることが可能となるのだ。

 オフェンスするときに、この諸刃の構造をきちんと理解していないと、相手を否定することが前提の論理構築と対抗策を平気で提出してしまいがちになる。
 いつも思っていることだけど、例えば誰かに論理で勝ちたいなら、その誰かを論理で負かせてやる!などと考えては絶対にいけない。それが一番、その誰かに負けてしまうパターンだからだ。誰かを否定したい前提で論理構成をした場合、矛盾を持たない人などこの世に存在しないから、確実にできてしまい、一見、勝ちに視えてしまうところがタチが悪い。
 あなたが負かしたいその相手は、論理性がものすごく高いはずだ。あなたと違って、扱うべき対象を見誤らない。論理構造そのもの、自然科学なら自然現象そのものを、きちんと観ようとしているだけの論理性の高さには、誰かを相手にしていたら、確実に勝てないからだ。

 しかし、明確に言っておきたいことであるが、、意見を否定することは人格を否定することではないと勘違いし、誰かに対して論理で勝ちたいということが主目的になってしまっているオフェンスをしまくる、若者特有の性質(もしくはいつまでも若い性質を持つ人の気質)は、確かに、滑稽ではあるし、自分も誰かも傷つけるし、馬鹿げてはいるのだが、ある程度調節することができさえすれば、それほどの、やる気を持っているのだとしたら、成功できる可能性はものすごく高いし、少なくとも絶対に失敗はしない。

 なぜなら、誰かに対して絶対に勝ちたい!という気持ちそのものは、誰も侮っておらず、自分に驕ってもいないからだ。そういう人間は、少なくとも、絶対に大きな失敗はしないし、成功しやすいと俺は思うのだ。
 最近、俺は、そのような熱さに触れていなかった。この熱さに触れながらこの場所を離れられることに、一縷の希望すら感じる。

 世間は、もっともっと冷たく、明らかに失敗するようなスタイルをとってしまいがちだ。

 今回のポスト選びで一番ショックだったのは、応募の合否や研究室訪問に関して、連絡を一切よこさなかったり、2回目メールを送るとやっと返信をくれるような、研究室や企業が、国内外問わず、多いこと多いこと。恋愛関係や友達関係などのプライベートではないのだし、他人の人生がかかっているのだから、きちんと連絡を返す、というのは大人の礼儀としての基本であるはずなのに、一切守られていない社会に絶望しかけていた。(他人から話を訊いてると、俺だけじゃないことにも絶望する)
 というか、ここに、そういう研究室や企業を、一覧として載せて、それをその研究室をgoogleで調べたときのトップにのせられるようにすることすらできるし、それをしたとしても、俺は痛くも痒くもないのだけどね?笑

 このような自分への驕りと相手への侮りは、必ず集団全体の破滅を招く。相手は俺だぜ?あんまり怒らせないほうがいいと思うけど、ホントに。
 俺を否定するのは構わない。しかし、集団と個人の関係で、しかもそっちが公募だしてるわけで、そんな重要事項について、連絡を一切よこさないというのは、決して許されることではないと思う。驕り以外の何ものでもなく、忙しいなどのイイワケもできない。国も、そのような未来のない研究室に、予算を一切割り当てるべきではない。

 もちろん、精神的な余裕が無い状態なら話は全然わかるし、個人対個人についてなら、理由は種々あると思うが、連絡を無視するってのは、いくらでもあり得ることだと思う。

 しかし、HPでポストを募集してるくせに、メール無視したり、「古い情報を観ているようですね」とか言ってきたりするのも含めて、ただの驕り以外の何ものでもなく、そのような人間はどーせ勝手に沈んでいくだろうから(とはいえ、俺って恨みだけはマジで忘れないからね?笑)、確かに関わらなくて良かった、と、どんなことがあっても、俺の勝ちゲーではなるのだけどね。

 っそ、それに比べれば、「あなたに勝ちたいから!」という理由だけで、人格の否定も省みずオフェンスしまくり、相手を否定すること前提で論理を組むような、驕りと侮りを一切含まない本気(マジ)は、称賛にすら値すると、寛大な俺は思う。
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息つく暇も無い程に

2015-04-27 03:06:05 | Weblog
 『いやー、ここはホントに桜がきれいやねぇ』
 「桜は女性と同じです」
 『なんでなんで?』
 「きれいな時期が短いですから。息つく暇も無い程に。どちらも、完璧にきれいな時なんて、ほんの一瞬ですしね」
 『誰が上手いこと言えつったんだよ(笑)』

 だいぶ桜の木も葉桜に完全に代わり、ピンク色に染められる時期が過ぎた。

 桜の季節になる直前の晩冬の候、俺はいつも、予備校時代の入試直前で訊いた桜染めの話を想い出す。
 「桜染めするには、花びらを煮込んでもダメで、花びらになる前の枝を煮込まなくちゃいけない。実は一番ピンクに染まって輝いているのは寒い冬の時期なのだ。だから、みんなも、残り少ない受験生生活を尊く思って欲しい」という、日本人好みの内容で、その時はそこまで心に響かなかったんだけど、なぜか寒い時期の桜の木を観ると、この話が甦ってくる。

 桜染めって、なかなか深くて、枝を煮込んでからピンクだけを抽出するのも、それなりに難しい技術が必要らしい。
 その美しいピンクだけを抽出してくるには、苦労に苦労を重ねた先人がいるわけだ。

 『この満開の桜を観て、きれいな時期が短いのが女性と一緒、なんて言うんですよ(笑)』
 「それはいけませんね。葉桜もきれいだと思える広い心を持たなくては」
 『それはそれでどうなんですかぁ(笑)』

 桜の木のひとつの側面として、ピンク色の花が咲くというだけで、桜の木には様々な要素があるのだ。それを、人間が勝手に、ピンクなのが桜の本質だろ、っと言ってるだけなのである。
 桜の花は、よく見るとクラスター構造をしていて、ふわ、ふわ、っとした一つ一つのかたまりが、沢山木にくっついているように見える。めぐりめぐる季節、、それは葉桜になっても、葉っぱだけになっても、枝だけになっても、僅かに反映されており、そのコミュニティーのキワを見抜くことが面白かったりもする。
 だから、花が咲いて満開になってる桜も、実はかなりスパースで、目が補完して満開に観えていることが殆どなのだ。そして、そのなかから、さらに、どの木かと選んで美しさを見出すのは、かなり難しい。

 『葉桜もきれいだと思えなきゃダメだって。それにさ、よく考えてみたら、桜は毎年花を咲かせるけど、女性はそういうわけじゃないからね。まったく、テキトウなんだから』
 「わからないですよ?たかはしさん。人間だって、輪廻転生してるかもしれないじゃないですか」
 『こじつけるな(笑)』

 人間の社会において残念ながら"ホンモノ"の出現は稀であるから、ホンモノの度合いを示す"気持ち"はスパース性を有するだろう。であるなら、積極的にスパース性を利用すること、つまりは、自分の特異的な感情に素直になって行動することで、ホンモノを得られる率は飛躍的に高まる。
 桜の花に刹那を感じながら、どんな結果になろうとも、そのようなとびっきりのホンモノを、あなたとともに、常に見つけ出すことを誓っていたい。

 あなたの、ゆっくりな時間経過に対して息つく暇も無い程に、幸せの連鎖を約束する。絶対に改善しなくてはいけないことに対して、俺が、片手間ではなく全力で行えてるのは、こういう稀な感情に、素直になることができたからかも?

 それに、少なくとも俺にとって、助けることは助けられること。だから、何も気にしないで。
 確かにこのドミノ倒しの最初のひとおしは刹那かもしれないが、その連鎖は永久に続く。それは桜の木も一緒だと思う。

ドミノエフェクト/Goose house
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小学生のすごさ

2015-04-26 02:22:36 | Weblog
 ポケモンXYが面白すぎる!3DS買うの遅すぎたなぁと思います。(やってるのはXです)
 今さらながら、楽しくKalos regionを冒険しています。

 ちなみに、このポケモンXYを、僕は英語でプレイしてます(フランス語でやろうかとも考えたんですが、まぁ、まだまだ全然無理っす)。そのほーが、勉強になるかもしれないし、ネットに繋げたときに、コミュニティが広いかなと思ったんですが、、予想以上に英語が難しすぎる。普段、原著論文を英語で読んでるし、っていうか、書いてるし、博士論文も英語で書いたくらいだから、大丈夫だろって思ったんですが、ポケモンすらまともにできない。いかに、俺が誤魔化して、英語読めてる感、書けてる感をだしているかがわかります。だって、世界の子どもたち、ふつーにポケモン英語でできますからね、当たり前やけど。
 あのね、、まず、固有名詞が覚えられない。次にどこに行けば良いのか考えるのが大変。ポケモンも覚えられない。"He is about to send in Pidgey. Will you switch your Pokémon?" 「ま、変えないでいいや。あぁ、Pidgeyってピジョンか!Pikachuに変えておきゃよかった」みたいな。それでニックネームなんてつけられるわけがありません。英語でてきとーにニックネームつける技術が一切ないですから(笑)。

 英語でポケモンやってると、すごく思うんだけど、、俺って小学生のとき、ちゃんと行動できてて、すごかったなぁ、って。
 いやいや、だって、覚えたての日本語で、ポケモン赤緑で、どんどんバッジをゲットして、チャンピョンロード制覇してたんですから。今、英語でポケモンXYやるの、ちょっとしたタスクになってますからね。ちょっと、めんどくせーな、って気持ちから入って、やってますから。

 そう思うと、今の自分が、いかに行動していないかが、よくわかる。
 同世代からすると、俺は行動しているほーだと思うけど、それでも、小学生に比べりゃ、明らかにまだまだだ。

 あの頃は、わからないことが少しあっても、別に大丈夫だろう、先に行って困ったら考えればいいわけだし、っとどんどん前に進めたのだ。そして、楽しいところだけを自分で探して、楽しめたわけだ。
 あの頃のことを、もう少しだけでも、参考にしたら良いのかもしれないね。

 というわけで、3DS買って、英語でポケモンやるの、オススメです。日本でふつーに日本のソフト買ってきて、英語に設定するだけですから。
 ただし、一度その言語でプレイしようとしたら、その他の言語には絶対に戻せませんので、ご注意を。
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間に合ってくれ

2015-04-24 02:25:11 | Weblog
 最近、実験の仕方が乱暴になっていて、よくないなぁと思う。
 どうも、早急に結果を出そうとしてしまっていて、観測者問題を考慮していないことが多い気がする。

 正解が確実に知りたくて、そのあとにどうなっても構わないのなら、何を実験しているのか、その内容が誰かにバレたとしても、確実な方法で真実を観てしまうほうが早い。この、そのあとどうなっても構わない、という部分が、あらゆる系に対して発現されてしまっていて、さっさかカテゴライズしがち。
 こちらが見抜こうとしている態度が、実験系を根本的に変えてしまうかもしれないというのに。

 笑いながら生意気な態度をとっている演技をしながら、見るべき真実はしっかり見ている。事前に色んな条件で仕掛けておきながら、どうでもいい条件に関して乱暴に決めつけ、本論と俺の価値観として観なくちゃいけない対象に対しては、力を込めながら、覗きこんでみる。
 stimulationに対して、さあ、どんなreactionがでる?

 何よりも、時間が無い。
 だから、どんな系に対してでも、早急な対応そのものに俺が基礎体力として慣れておく必要があるのだ。

 間に合ってくれ。考えろ考えろ。何ができるか?間に合ってくれ。
 そのために、最優先項目とは関連していないところで、誰かの切ない表情を拾えないこともあるかもしれないけれど、ここから少しの間、他の皆には申し訳ないけど、我慢して欲しいと思う。

 なので、いくら俺に、攻撃に対するイジワルな評価を与えても、最後の最後にフライングして何かを求めても、カワイイと思った瞬間に答えが出てしまうから、その時点で、俺の実験は終わる。

 今はとにかく、間に合ってくれ、としか思っていない。
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ツンデレの魅力

2015-04-23 00:41:18 | Weblog
 負けたところを露呈すると、他人が称賛してくる。
 はっきり言って、そんな、ありきたりで単純な物理現象に、俺はうんざりしている。

 できなかったことを暴露し、自分の築き上げたものを無意味であるかのように語り、相手にアジャストすることこそが、謙虚な姿勢であり、それで親しみやすくなるんだから、それで人から好かれるのだから、それでいい、と結論付けるのは、俺は早いと思う。

 特に理系は、本来、こんなんじゃダメダメ。

 どんなに自分のことをバカにしてこようが、他人をバカにしてようが、人間として最低のクズで横柄で失礼で生意気で、他人の人生を何とも考えていないような人であったとしても、、その人の研究内容そのものが有益であるなら、それを見抜いて評価すべきである。
 逆に、どんなに当たり障りないように語って、礼儀正しく、自分が普段考えている理論に明確にフィットし、それっぽい雰囲気を持っていたとしても、捏造が存在しているならば、しっかりそれを見抜くだけの思考力をつけていないといけない。

 目に見えたことがそのままに理解できる世界に我々が暮らしているのだとすれば、マクロ現象をミクロ現象の重ね合わせであると仮定する考え方を多く含んでいる自然科学などという学問領域は必要ない。
 でも、多くの場合、この世界の現象は、そうはなっていない。表層から抽出できる、その僅かな違いを、本質として瞬時に掌握し、それを実験系という相手に突きつけることができるだけの論理性を持った人は、どんな分野の、どんな場所にも存在している。しかし、どの分野のどんな場所でも、そういう本当の科学者に輝かしい舞台を与えず、手っ取り早い論理が勝手に重要視されてしまい、だから薄っぺらい作業員が舞台に上がりやすくなってしまうのも、理系の世界の悪いところだ。

 ダメな表面を解釈し、攻撃性の強い性悪だと思った、そのさらに奥を見つめてみた時、意外に人間性の溢れる愛しい性質の虜になってしまうことがあるように、還元主義に毒されすぎず、本質だけをextractしてくるように努めていたいものだと思う。
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行動することの必然性

2015-04-22 00:30:13 | Weblog
 変な期待をしないで、自分が見える領域だけをじっと見つめてさえいれば、確かに明確に傷つくことは少ないかもしれない。
 その代わり、何か違う!、と明確に感じながらも、その場所から抜け出すことも、どこかを批判することもできなくなってしまうだろう。

 行動すればリスクが生じる。そのリスクをいっさい受け入れずに、安全なものだけを選び出していくならば、絶対にどこかで我慢しなくてはいけないようになってくる。
 だから、確かに、相手の何かを批判することで自分の何かの価値を確認することは、くだらないことかもしれないんだけれど、少なくとも、この広い大きな世界の一つひとつの現状を、自分の目できちんと読みこみ、自分の頭できちんと理解し、その上で、いかにして行動するべきかをしっかりと考えて、しっかり実行し続けなければ、明らかに不条理な状況を改善することはできないのだ。
 現実的にクズなところに何かの予算と時間をかけているなら、それがクズだと、嫌われても良いからはっきりと主張することは大切なことだと俺は思っている。そんなスタイルの自分を成り立たせるためであるなら、短い人生、小事にかまっている暇はない。

 俺が行動的になれるのは、俺が先天的にそうだからでは決してない。むしろ、誰よりも臆病で、誰よりも他人に嫌われることが厭だからこそ、その先の未来を予想する論理を用いることで、自分の中で行動することが必然的になれるのだ。

 たぶんね、、行動しても、行動しなくても、リスクとベネフィットの引き値そのものは、あんまり変わらないんだけど、ほんの僅か、ほんとーにちょっとだけ、ベネフィット側の値が上回るんだよね。だから、繰り返せば繰り返すほど、ベネフィットが加算される。そこに論理で気がつけるかどうかだと思う。

 まぁ俺には、失敗しても大丈夫な環境がもともと与えられている、という点はかなりデカイんだけど、、たぶんみんな勘違いしてるけど、遺伝子だけでいったら、俺には世襲的な血も流れてはいるわけで、あまり他の人と状況そのものはカワラナイと思うんだけどなぁ。

 っさ、やり方をリセットできるメリットを極限まで活かして、ここからスタート。いざ勝負!新しい生活を、多角的に行動するぜ。
 いっさい侮らないガチ勝負を、まだまだ、楽しめるよね?若いから大丈夫。肌、水弾くし(笑)。
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最終的に政治は実力を求める

2015-04-19 03:52:47 | Weblog
 かなり今さらだけど、もしも俺のもとにデスノートが舞い降りても、いっさい使わないだろうと思う。

 なぜなら、極限まで嫌いになった相手には、このような苦しい現実のなかで、なるべく長生きをして、生きることで苦しんで欲しいから。もちろん、好きな相手には、俺と同じ時を少しでも長く刻んで欲しいから、使わない。残るは、どうでもいい人だが、どうでもいい人は、生きてようが死んでようがどうとも思わないので、使うはずもない。

 確かに瞬間的に、消えてほしい、って思うことはあることもあるんだけど、1秒以内にこのような冷酷な論理が追いかけてくるから、あまり感情的になることもないのよね。

 そういえば、「え?たかはしけいって、あのままドクターとれたの?」って発言している、俺のことどー思ってんだよ?っと訊き返したくなるような、失礼極まりない連中が(1人や2人ではなく)周囲に沢山いることになんとなく気が付いているけど、そういうのも、ここでこうやって宣言することが一番面白いので、あんまりイライラもしない。
 こうやって書くだけで、どんなに俺がコールドリーディングしても、誰からもこの情報に関して読めなくなるって現象が、とても面白く、わかりやすく、単純である。しかし、その面白さもあと僅かしか味わえないかと思うと、感慨深いものである。

 どういう経緯で、そう思ってんのかは、いくつか考えられるんだけど、どの場合分けをしても、当人が無能であることが示されてしまうだけなので、結果的には場合分けをする意味無し。
 共通して言えることは、、まぁ、「たかはしけいを否定したい」って前提で、論理を構成したり、観察をしたりしないことだね。私情を含めずに観察し論理を構築するというのは自然科学の一番の基本だと思うけど。。どっちにしても、そんなバカに用はない。そういう類いのバカが俺は大嫌いなので、せいぜい長く生き続けて、苦しんでくれたまえ。さようなら。

 最終的に、政治や権威が求める人材は、実力を持っている者、少なくとも実力を向上させることを諦めていない人間である。一過性の作業を繰り返しながら、あまり外の風に当たりすぎないことこそが政治力学を考慮していると解釈しがちであるが、むしろそのような一過性の対応を繰り返してしまえば、長い目でみると(政治力学的に)破滅的である。
 そして、そのようなコミュニケーション弱者が手っ取り早く優秀だと決めつけたい人材こそが一番の無能であり、病理学的にいえば悪性腫瘍。逆に君らが無能だと決めつけている人材の中には、俺の真実を、何も知らないくせにピタリと言い当てた人も、ある程度の数いるぜ?俺はこういうヤツのほうが遥かに怖く、とても大好きで、脅威であるからこそ、自分の傍におき、付き合い続けていきたいと思っている。

 実は、俺こそが、最も政治力学を重視しているのかもしれない、と思う、今日この頃だったりする。
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やさしさに包まれたなら

2015-04-18 02:32:20 | Weblog
 論理は常に帰納と演繹によって叡智として進捗されていく。具体的な事象に落とし込めば落とし込むほど、論理そのものに価値があることが、帰納的に示され、演繹されていく。
 だから、論理をフルに使わなくては進捗されない自然科学は、すべての事象が繰り返されることを神とした、宗教だと言える。

 生命起源と生命とは何か?、で例にだしてみよう。

 よく、生命起源を突き止めること、と、生命とは何か?を知ること、の区別がなされないことがあるが、両者は圧倒的に違う。
 前者は完全なポピュリズム、自然科学で扱うことができる範疇を遥かに超える。もっとも簡単に理由を言ってしまえば、生命起源は一度しか起きていないから。だからといって、もし地球外に生命が見つかったとしても、ほとんど同様であろう。タイムマシンが発明されない限りはサイエンスになるはずがなく、ゆえに生命起源を研究することは、政治的思想の世界で生きていくことを宣言しているに等しいだろう。
 後者はポピュリズムをバックグラウンドにしたサイエンスと言える。生命は、その存在の大源が、「出現」して、「続く」ことであるので、「出現」はつまりは生命起源であるのでポピュリズムであるが、いかにして続いているか?ということは、あらゆる種でreproducibilityが高く、物理学の法則で解明しうる。

 まぁ、そんなこたー、実はどうでもよくって、本当に問題なのは、そもそも、この世は、我々が論理と呼んでいるもので「繰り返される」ことが保証されている法則によってのみ縛られているのか?、ということのほうが、俺にとって遥かに興味のあることだ。
 こういうことを言うと怪しいかもしれないけれど、俺から見ると、サイエンスのなかで「繰り返し」が前提となっていることに気がつかずに、絶対にそれが正しいと思いこんでいるほうが遥かに、思考的ではなく、宗教的にみえてしまう。

 もしかしたら、我々は、大人になるたびに、論理的に正しいことのみ、つまりは「繰り返される」ような現象のみを感じるように後天的能力をつけてしまい、気がつかずにそれに支配されているのかもしれないね。

 こう考えてみると、幼い頃に味わった不可思議な経験が、少しずつ想い出されてくる。

 そう言えば、ひらがなを覚えたての頃、俺は、テレビで歌詞が出てる歌は、唄うことができた。両親に「なんで歌えるの?」と聴かれて「書いてあるじゃん」と言ったら、「音程がわからないでしょ?」って言われた瞬間に収束してしまったのかもしれない。まぁ、もちろん、テキトーなのが合ってただけだろうが、こういう感覚。
 もっと不思議なことで言えば、これを話すことは今でも少々悪いことのような気がするが、幼稚園の頃、俺は自在に風邪を引くことができた。ある行為をちょちょっとすれば、いつでも風邪が引けたので、本気で休みたい時はそれを使っていた。そして確実に風邪を引けていた。
 それから、もう一つ。幼稚園内で、全然知らない別世界にそのときだけ行けた記憶がある。そこには、同じようにクラスがあて、トイレまで行ったが、その日以降、俺はその場所には行けなかった。今でも、自分の通っていた幼稚園を見かけるたびに、どうなんだろう?、と気になっている。これは本当に怖かったので、夢であったら良い、と今でも思う。

 今では考えられないほど、非科学的であるが、誰にでもこういうことが、少しくらいはあるんじゃないかと思う。

 小学生のときは、まだ、自分が感じる不思議さに従って、行動することもできた。静かな木漏れ陽を受けて、こっち不思議っぽくね?、ってそれだけで歩いていくことができて、不思議さを受け止めることができた。
 いつから、暗闇が怖くなくなってしまったんだろう?いつから、異世界感を感じなくなってしまったんだろう?海外に行っても、Gear VRを使ってみても、あの頃のような異世界を感じない身体になってしまったのは、いつからだろう?

 生命とは何か?、の問いは、思っている以上に、遥かに、本当はもっともっと、強大な問いであるのかもしれない。
 俺らは、繰り返しのなかで得られている画像や解析結果で誤魔化しているだけなのかもしれない。もっともっとあらゆるものを捨てないと、俺らが望む解答はでてこないのかもしれないね。

 自分が誤魔化しているかもしれないと不安になる時、俺は鏡を見つめる。見つめられるまで見つめる。
 そのアノマリーが誤魔化さないための正解であることが殆どだから。

 今、世に溢れている「競争的」な取り組みを超え、お互いにお互いのやさしさに包まれたなら、大人になっても奇蹟くらいは起こせると思う。生命の本質は、「競争」よりも「共生」なのであるから。

 目にうつる全てのことはメッセージ。
 どんな言葉でも、どんな帰結でも、しっかり受け止めていこう。

やさしさに包まれたなら/ゴスペラーズ


miwa やさしさに包まれたなら
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永遠に続く循環論法

2015-04-15 01:04:13 | Weblog
 一過性の衝動とその場の対応の連続に、私は疲れ果てている。
 圧倒的な不安に苛まれながら、日々、誰かの一過性の感情に付き合い、その場の対応をこなし続けることに慣れてしまったせいか、私自身がくだらないことに一喜一憂し、対応がその場限りになっている。

 欲しているのは圧倒的な安心感と永遠に続く幸せ。確かに、現実にそんなものは存在しないのかもしれなくて、そういうことを求めてはいけないことはわかっているんだけど、ありとあらゆる理想との不一致を目の当たりにしてしまうと、逆に身動きがとれなくて、せめて想像の世界では夢を見させて、って思ってしまう。
 期待してはいけない、と想っている時点で、期待しているわけで、それでも期待しないから、って決めつけてみると、意外とチャンスそのものは私のもとにやってくる。だけど、それも、私から期待をこめてみてしまっているかもしれないから、とりあえずは一過性に対応して、それを超えてやってきたことに対してだけ気持ちをこめてみようとするけど、いざってときに、なかなか上手くはいかなくて。

 現実との折り合いをつけようとしたときに、どうしても求めるものが循環的になってしまい、現実と介在させられなくて、最初の導入をいかにしたら良いのか分からない。
 せーのっ、で、素直になれたなら、それこそホンモノは得られて、循環的に続く幸せを掴めるのかもしれないけれど、そんな簡単に誰かの気持ちなんか、わかるわけがないもんね。

 その行為が、私個人へのものなのか、博愛的な思想によるものなのか、、それすらも判別できないし、one of themなのかもしれないし、少なくとも、そういう確率がある、ってだけで、私が期待するには値しないという結論に達する。

 永続的な幸せの存在を一切信じていないのなら、何を持ってして人道的エンドポイントを定めればいいのかもわからない。
 次から次へと訪れる不幸と痛みの中で、どの瞬間に生きる価値を見つけたらいいんだろう?

 まずは、その答えをきちんと見せてくれなくちゃね。
 じゃなきゃ、循環的に続く永遠を価値のあるものだとは、思えないかも。少なくとも、貴方とは。
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「より善き」のために

2015-04-12 01:24:14 | Weblog
 不幸の停止を幸福であると決めつけてはいけない。

 大抵の場合、不幸は怒りとともに現れ、怒りとは即ち自らの能力不足であるから、不幸の停止とは、「能力の向上」もしくは「その事象・分野を直視しないと決めこむこと」だ。前者はすぐに新たな不幸が訪れ、後者は他人を傷つけるゆえに、ゆっくりと前回と同じような不幸が訪れるだろう。

 「その事象・分野を直視しないと決めこむこと」を追究した場合、思考停止を正当化することに慣れてしまう。自分がわからないという、思考力のレベルが不十分であることを他者の説明不足であると決めつけ、その素晴らしい環境変動を待つ事だけに期待してしまうのだ。
 「幸せにしてね」と思ってしまう女性が原理的に幸せにならないのと同様に、自分で理解しようとも思っていないのに他人の説明が下手であることを大義名分に他人に責任を押し付け、しかも、理解していないことそのものに自分の賢さを主張し、自らのレゾンデートルを表現することは、滑稽以外の何ものでもない。

 今だから言えるが(ちょっと早いかな?笑)、俺は、マイナスとマイナスを掛け算するとプラスになることの理由をしつこく訊いてくる中学生は、相手にしないことに決めている。
 もちろん、当人にとって本気でそれが疑問であるなら、あらゆる図と考え方を駆使して説明するが、これをしつこく訊いてくる中学生の99パーセントは、「こういう意味分からないことをそのままにしていない賢い俺(私)!これを理解できないから、他の全部はよくわからない!だから数学やらなくていいでしょ?お前(たかはしけい)はどーせわかったフリして誤魔化してるだろ?そんなことも他人に説明できないくせにエラそうにもっと難しいことをやってんじゃねーよ!」的な主張をしているに過ぎず、ただ当人が数学を勉強しないことの大義名分作りであることが殆どだからだ。
 まぁもちろん、この場合は、相手が中学生だから、こういうくだらない当人の精神構造を懇切丁寧に教える(突きつける?)ことはするが、同じような精神構造を博士号まで取得している研究者がしていることも多々あり、そういう状態の人に何かを説明することは、非常に時間の無駄であるから、「あなたは中学生と同じ」と宣言したのち、無視するに限る。

 これらの無理解を、私たち、ある程度ふつーにきちんと勉強してきた人間が、どう突破してきたかといえば、「とりあえず前に進む」ということである。数学や理科を勉強する上で、「わからないけど、わかったことにして、とりあえず前に進もう」という姿勢は非常に大切であり、その後ゆっくりと本当に「わかってくる」のだ。

 そう、「わからない」という能力不足によって生じる(自らへの)怒りは、日常のなかに紛らわすことによって、解決されていく。
 「不幸だけど、不幸じゃないことにして、とりあえず前に進もう」という態度が、人生において非常に大事であることは、明らかであろう。

 確かに、自らの無能さを前面に押し出してレゾンデートルを主張するほどの無能な他人を、無能だと揶揄しながら、自らの正当性を主張することは、ツラい。
 しかし、無能な他人が権威を得て、人の上に立つことは世の常であり、そこから目をそらしながら、表面上では気にしていないと主張し、心の中で嫌悪感を抱いているのであれば、そのほうがもっとツラいであろう。

 そもそも、人生は、明るいわけがない。全員、ツラいのだ。
 だからこそ、任意の人生において、失敗は原理的にありえないのだ。

 あなたは確実に死ぬわけで、明るいわけないことが前提となっている人生だからこそ、どんな仕事をしようとも、どんな学びを受けようとも、100世紀(わずか1万年)も経てば、誰からも忘れ去られてしまうからこそ、人生では安心して様々な大チャレンジを実行することが可能となり、失敗のしようがないのだ。

 だとしたら、立ちあがったことにして、ほんの少しのチャレンジを躊躇なく行うことができるはずである、その先の「幸せ」ではなく、「より善き」のために、、と俺は(少なくとも自分自身に対して)思っている。
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リスクがあるからこそ

2015-04-11 01:12:04 | Weblog
 論理的勝負の場では、権威など恐るるに足らない。
 よって、ガチ勝負の場合、論理性や価値観を極めることを途中で諦めてしまった残念な研究者10人が寄って集って政治力学的圧力をかけてきた場合よりも、論理性を向上させることを何も諦めていない中学生1人のほうが、遥かに手強い。

 そう、個人の論理性とは、時系列における、その微分係数にのみ価値がある。これに異議を唱える者は、自らの論理性の向上の一切を諦め、それに気がつかずに、自らは論理的であると勘違いしている者であると思う。
 こういう研究者ほど、相手の価値観に踏み込まないことを大人の生き方であると主張し、実は、自分が知っている分野の中だけでなぁなぁと暮らし、「意外と価値が出てくるかもしれないから、ほっておこう」などと自らの論理性の無さを肯定化することで、本当に必要な研究から予算を奪っているケースが多い。価値の議論をきちんとすることで、リスクを背負わない限りは、この絶望的な研究社会を救う手立てはないと言うのに、21世紀も10年も経っているのにも拘らず、いまだに多くの研究者と大学院生が(論文や申請書に)「書ける」ことにしか興味を持っていない。あなたが興味を持っているのは、論文ではなくて、学問でもなくって、自然現象そのものでしょ?「書ける」よりも「賭ける」を意識しなくてはね。

 リスクがあるからこそ信じることに意味があるし、戦う程に強くなる。
 満員電車の始発の駅で、座って通勤しようと思った時に、順番待ちをしていたとして、列のなかで2番目に陣取っていたとしても、その列の1番前の人がいつまでも電車に乗らないグズであった場合、その後ろの人たちは全員座れない、つまり共倒れになってしまうことは明らかであろう。
 それと同様に、その研究室を選んだら、その研究分野を選んだ時点でアウト!、ということは全然あり得る。その分野のなかの全員、もしくは、その研究室のなかの全員が共倒れであることは、原理的にも、現実的にもあり得るのだ。

 それを、あらゆる曖昧な机上の空論で誤魔化したとしても、現実にその場で倒れそうな人材に対しては、何の助けにもならない。

 きちんと助けるためには、まずは助けることで生じてしまうリスクをきちんと受け入れて、その場所へと具体的な手を伸ばすことであると思う。
 そのような極限的な最悪の場では、穴落ちライオンも沢山いることだろう。あらゆる地雷が埋まっている危険区域であることも明らかであろう。それでもそのリスクを超えて、変えられないものを受け入れ、受け入れられないものを変え続けることができるかどうか?

 勝手って言われても、自らを守る冷たいバリアに凍傷しても、癒せない傷なんてないことを胸に抱きながら、俺が、どれだけ論理性を向上させ続ける覚悟があるかどうか。

 覚悟は十二分にある。あとは論理。その微分係数量が足りるかどうか。
 時間が無いから、仕方ない、早すぎる展開を、許してけれ。

宇多田ヒカル - Wait & See ~リスク~
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「あなたに~してほしい」の表現

2015-04-10 01:05:56 | Weblog
 例えば、あなたに弟がいて、その弟が英語しか喋れない引きこもりの中学生だったとして、学校に行って欲しい気持ちを伝えるときに、何と言えばいいだろうか?

 I want you to go to school.
 とか
 I would like you to go to school.

 とかでしょうか。

 これ、俺、中学生の時から疑問なんだけど、間違って"I want you"で止めちゃったら、ヤバくない?(笑)
 英語慣れて無かったらヤバいよね。っていうか、俺もなりそうだし。

 I want you... you know, I need you... well... ッポ♪

 みたいな。笑

 その点、フランス語は優秀です。

 Je veux que tu ailles à l'école.
 か
 Je voudrais que tu ailles à l'école.

 ちゃんとqueを使ってthat節みたいなんを作って、"Je veux vous"とかぶらないようにしています。
 っま、英語も、さっさと"to"を言えば良いんですけどね。焦ってると出てこないかもしれないですけどね。

 でも、これって、上手く利用すれば、非英語圏の男性が英語圏の女性を口説くときに使えるかも(笑)。
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正論は言い方に気をつけるな?

2015-04-08 02:05:42 | Weblog
 正論こそ、思いきり言葉使い悪く、棘を持って、語るべきである。
 なぜなら、それを突き付けられた本人が、言い方がどうのこうの、と言ってきたら、こちらの論理の正当性が明らかであってわかりやすいし、何よりもそこまでの覚悟じゃないなら、そもそも正論を語るべきではないのだ。

 しっかし、突きつけられた正論や純粋な情熱に対して、突きつけてきた相手の言い方が気に入らないから、自分が受け入れられないのは仕方なかった、などと断絶できる実在的な精神性は、実に生きやすく、ラクなんだろうな、と羨ましい。来世では俺も、そのような性格になりたいもの…、、でもないか(笑)。それはそれで大変だもんね。
 ずいぶん前にも言ったけど、正論を具現化した責任は、正論を具現化した張本人にあるわけではなく(というよりも、あるわけがないのだが、なぜか皆、あると思っていたりする)、その正論を享受しなければならない誤魔化している側に常に存在し続ける。だからこそ、正論を掌握している者は、絶対的に、より良くしなくてはいけないのだ。

 リスクのない選択など存在しないから、選択はなるべくしないのが、負けない方法だ。しかし、負けないかわりに、絶対に勝つこともできない。
 そういう意味では、最終的には常に、賭けごと。そして、どんなに賭けに勝ち続けていても、負け続けていても、必ず死ぬ。それが現実を、唯名論的立場にたったときの、正確な観察の仕方であると俺は想う。

 よーするに、何やったとしても、俺も、どーせ死んじゃうからねー、という圧倒的に「正しい」論理性を根底としているからこそ、安心して、自らの論理性を向上させるチャレンジをすることができ、実際に俺の論理性は向上し続けるのだと思う。

 であるので、計算ではじき出されるあらゆる可能性についても、どんな風にやっても、俺の勝ちゲーになるのだ。

 だとしたら、やはり、正論は、思いきり悪い言葉を使って、棘を持たせて、ずばっと、語るべきである。

 なぜなら、そのやり方こそが俺の隙を作って、相手に逃げ場を与えることができ、しかも、その人固有の価値観を持続させる可能性を、自らの意志として決定するための権利を奪わなくとも済むのだから。
 そして、それでまんまと逃げられたなら、俺は泣きながらも、これが一番良いのだ、と自分に言い聞かせることだろう。

 むしろ、そんな時でも俺の傍に残ってくれる稀有な人との信頼関係を、俺は最も大切にしたいと思っている。
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あなたの素晴らしい価値観

2015-04-07 00:59:31 | Weblog
 今の50代以上に横行している「昔は優秀だった」論は、いったい何を根拠にして言っているのか、俺にはまったくわからない。
 今の日本社会は、間違いなく下の世代にいけばいくほど優秀であるし、そんなことは実際に接していれば明らかであるのに、50代以上の人間ってのは、何故にして自分たちのほうが最近の若者よりも優秀だ、などという、昔を懐かしむ、ただの世迷い言を胸を張って言えるのか、呑気なもんだなぁと、俺はいつも冷笑している。

 昔は人数が多かったから、大学受験のレベルが高く、選抜が厳しかった?それは大いなる勘違いなんじゃないかと俺は想う。

 1960-70年代と2000年代の入試を比較すると、2000年代のほうが問題が難しいとよく言われますが(ちなみに一番難しいのは80年代)、確かに数学だけでも、ぱっと比較すると、今のほうが難しく感じる(参考【大学入試】旧帝大+東工大 数学入試問題過去問55年分)。
 昔は人数は確かに多いかもしれないけど、教育にお金をかけもらっている若者の人口は、今ほど多くは無かった。今ではより多くの人が教育にお金をかけてもらっているので、家柄が良くなくても、世帯収入が低い家庭出身でも、高学歴になりやすくなっている。だから、質が下がった、大学院重点化がうんたらかんたら、と主張する50代以上がいるが、それは自らが世襲主義で、自らが実力をきちんとつけてこなかったことを暴露してしまっている。今のほうが明らかに、あらゆるステージで、実質的な競争は激しいと俺は思う。

 というよりも、仮に、今の若者のほうが優秀でないのだとしても、今の若者は優秀だ、若い世代ほど優秀だ、とウソでも言うべきだと俺は思う。それが大人の責任であり、それが未来を創る願いに昇華していくと思うのだ。
 よーするに、今の若者はダメだ、って言ってるうちは、まだまだ子どもだ、ってこと。

 例えば俺が、『今の50代以上のおっさん連中は、大方、みる目がない。俺だったら、もっと短い時間で、きちんとした人材を選抜できる』と言ったとする。こういう発言に対して、「できるわけがない。おっさんたちも大変なんだから」と媚び諂っているだけの若者を高評価してしまう50代以上に、やはり、みる目の無さを感じるわけだ。
 俺が、できる、って言ってるのに、現実がわかってない等と決めつけ、それをやらせてみようとは一切せずに、できない、と言ってる、現実がわかっていると評価される無難な腰巾着くんに舞台を与えがちで、できる、と言ってるにも拘らず、そのやる気は認められず、こういう発言をしていると、ほぼ舞台には上がれないような、全体としてのダイナミクスが必然的に止まってしまうシステムを構築しているのが、今の日本なのだ。
 そして、おっさんたちは意外と反権力主義であり(自分たちが権力者なのに)、他人任せであり、若者のなかにスーパーヒーローを期待してしまい、最低でもグローバル人材が欲しい、などと意味のわからないことに終始しているのである。

 今の若者に能力が無いのではない。能力が無い若者をわざわざ周りに配置したがる、お前に、能力が無いのである。そして、お前の周りの若者も、お前よりは、有能なのだ。なぜなら、すべての若者は、心の底では、50代以上の多くが虚栄心によってのみ成り立っている現実と、人数がただ多いだけで彼らが勝ってしまうという、民主制の限界を、よく理解しているからだ。

 まぁ、だからといって、ひきこもり正常論も、どうかと思うけどね、俺は。こんな社会だから、とりあえず、ひきこもっとくのは正常ではあると思うけど、悔しくないのか、それで!、と思う。

 もっともっと、どの世代の日本人も、自分固有の価値観を尊く思うべきである。

 大衆の価値観を至上なモノと決めつけてしまう女々しい哲学を現実に突き詰めることは、責任の所在を曖昧にし、つまるところ、明確化したがる、目立つ人間にすべてを丸投げしてしまうだけである。だから、正直者ほど、真面目なヤツほど、損をする。
 「考えすぎないで、まずは行動!考えても仕方ないよ。決定的にわかることじゃないんだから」などという言葉を、真っ先に、他人に不利益を与えてしまうことの正当化に利用し、自分のことについてはシステムを巧く利用してやろう、と、よーく考えているヤツらが、好かれるわけがないし、リーダーであるはずもない。「普通は断れない」「普通はコメントしない」などという大衆の価値観に惑わされず、自分固有の意見を、嫌われようと、まっすぐ言うべきである。まっすぐ言わないことこそが、自分勝手なのだから。嫌われないように振る舞う自分勝手は、大衆の価値観では、自分勝手であると認定されないのは、とてもズルい。
 こういうゲームプレイヤーは、量子論の素晴らしさを、まったく理解していない。決定的思考では手に負えないとき、予測することを諦めてしまうのではなく、確率の言葉を使った定量的な予言を試みるという素晴らしい論理的思考を。

 さらに、カテゴライズをしないで、1人ひとり、1つひとつの事象をきちんと評価する、ということも、かなり大事な訳で、、だからこのような世代間批判を本来すべきではないのだが、若者は不当に迫害されすぎているので、ゴメンだけど、これくらいは、まったくもって構わないだろうと思う。もし、あなたが50代以上で、この文章を読んで、いきなり加害者にされ、不快に思ったのなら、若者はこの10倍くらいは常に不快に思い続けているという現実を理解するべきである。

 自らの情熱に対して、自らが鋳造した貨幣でのみ支払い続けながら、ホンモノを追究していきたいと願っている気持ちは、どの世代の誰でも、本来思っていることだと思うし、俺もその気持ちを抽出しつづけられれば、と想っている。誰に対してもね。

 だから、あなたの素晴らしい価値観を、大切にね。
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