たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

Sideshow

2012-05-30 02:00:20 | Weblog
 さっきまで手中にいたのに、今や完全に遠く離れてしまっている状態を感じ取ると、一瞬どうしたらいいかわからなくなる。

 前へ出れば出るほど、目立った行動をとればとるほど、周囲からのあたりは強くなる。
 そんな手法を逆手に使うこともまったく俺と同一で、数々の大物と思われている人達が繰り出すオフェンスを笑いながら避けて、しかも上手にオフェンスしながら、大物と勘違いされている(している?)人のちっぽけな哲学やくだらない主張を露呈させることで、本当に楽しんでいる姿を近くで観ながら、到底遠くにいる人物なのだと痛感させられたりしていた。

 それから、また再び出会ったとき、感じたことは、前に会った時とまったく同じことだった。こちらから強烈に放ったオフェンスをもってしても、優しい目によって捉えられてしまい、俺から本当の意味で戦意を喪失させてしまうなんて。

 だけど、こういうことも繰り返していけば、結局いつかは「満足しない」に落ち着いてしまうのか、って思うけど、それは一般化させすぎ。俺は能動性があるもん。

 いやいや、やっぱり、そこにヒトカケラの能動性すら認められないなら、原理的に崩れ去ってしまう点で、俺のやり方は完備性が高いのかもしれない。
 それはそんなにも高い理想ではないと思っているけれど、能動性が無いことにまで、「いつまでも満足しない」ってところに終着点があるなら、満足しないままでイイや、っと今は思える。

 だって、あのままじゃぁ、「やりがい」が無いんだよ!
 ってね。
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曖昧にし続けた罰

2012-05-28 03:36:42 | Weblog
 ある年齢以上になってしまうと忘れてしまうことだけど、今は何かの問題が解けなくても、自分自身が賢くなっていけば、いつかは、どんな難しい問題も解けるようになる。

 経験したり、その世界に入ったり、解法を丸暗記してしまえば、解ける、ってみんな勘違いしているけど、小学校くらいの時は、もっともっと単純に、賢ければ解ける、って思っていたはずだ。中学や高校の定期試験を受けるたびに、「あれ?全部覚えればイイんじゃね?」ってなって忘れちゃうのかな。

 確かに経験や「知ってる」ってことは大切だ。座って勉強するだけじゃわからないことがあるし、きちんとその世界に入って習得しなきゃいけないことは多い。教科書に書いてないことなんていくらでもあるしね。
 だけど、実はそれ以上に大切なのは、賢さ、だ。賢ささえ高めていけば、たいていのことは、乗り越えられるようになる。賢さだけで勝負するにはあまりにも危険だけど、危険なのは最初だけで、結局は、先に走ってた、ただその場所にいるだけの連中を、賢さで乗り越えることができる。

 このガチの頭の良さを大切にしないなら、磨いていく気がないなら、変わる気が無いなら、一生そうやって同一の場所に所属し続けるしかない。最初になるべく良い場所に所属してさえしまえば、あとは、いるだけで、その場所で普通に生きているだけで、安泰だ。それが幸せかどうかは別としてね。
 じゃあ、今いる場所が良い場所じゃないならどうすればいいか?それはそれで、ガチの能力を得るための何かを始めるキッカケであるし、ステップアップするためのキッカケであるし、完全ドロップアウトするキッカケでもある。それはどちらであれ、ただ平平凡凡と過ごしてきた人にとってみれば、大きな進捗であり、讃えるべき行為であると思う。

 『全然わかりません。ただの言葉に甘えて、そこにいるだけいたほうが、まだその人にとって、余裕があると思いませんか?』
 「そんなことないで。だって、それこそ、賢くも無いのに、エリートコースでい続けてしまった人間が、そこで、やめる、っという選択肢を出すまで、どれほどの思考錯誤をしたと思う?その結果やめるんだったら大きな一歩やし、それを認めてやれるほうが、優しさがあって、助けているとは思わんか?」

 まぁ、当たり前だけど、自分の賢さに驕りを持ってはいけないんだけどね。
 自分は賢いからって、実験しなくても頑張らなくても結果は出る、って本気で思ってるバカも、沢山いる。そういうのは、結局、「賢さ」から「暗記だけ」にトランスファーしてる。こう言われたら、とりあえずこう言っとけばイイんだよ、みたいな言葉を沢山持つようになってしまっては、つまらないし、くだらない。

 目の前の扱うべき問題に対して、多角的な視点から、本質的に問題解決をしようと努力し続けた者にのみ、賢さを高め、それを保持することができる条件が揃う。
 答え丸暗記なんて、カンニングやパブロフ効果と一緒だからね。

 そ。だから、ズルしなくても、やってやれないことは無いっと想い込むのが大事。すると、具体化することが出来て、実次元で問題を扱うことができるし、能力も得られる。

 曖昧であればあるほど、素直になれない。素直に解けないことがアピールできないし、素直に自分にはその能力が無いって言えないし、素直に謝れないし、素直に関係修復に取り組めない。
 いつだって曖昧だから、、問題に対しても、その人に対しても。

 残るのは、察知してしまう直観の力。この場合は、直感か。
 この直感は長いと何年も続く。インタラクション前から、インタラクションが正確に察知できるのが、最後のライン。

 こんな不思議な能力すら、今は、さっさとなくなってしまえ、って頭で考えながら、毎日即物的な能力、賢さをつけていこうと思う。ホント、そんなの簡単。
 だけど今はそれが出来ることだから。
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俺がよく使う言葉の定義

2012-05-25 00:16:20 | Weblog
 今日は、俺がよく使う言葉を定義しようと思います。
 この記事は更新用にしよっかな。

 【即物的】
 一見、ちゃんと目的や本質を掴んでいるかのようにみえるんだけど、全然、共感できないような時のこと。「表面的」よりは深いけど、満足しない。実益や応用性はあっても、それ以外の何も生み出さないような時に俺は使います。

 【コスパー】
 コストパフォーマンスのこと。リスクとベネフィットはカケヒキ計算できると考えた時、実益があるかどうかを知る値。

 【Aグループ】
 中高のクラス内などで、一番イケてる集団のこと。先生から怒られる率が高いグループだが、みんなを引っ張っていってくれる行動派が多い。Aグループのなかでも、上、中、下と、さらに階層が分かれる。ちなみに、A上グループは全体の5パーセント以下、理系はどんなに頑張ってもA下グループまでしかなれない。

 【Bグループ】
 中高のクラス内などで、中間に位置する集団のこと。彼らの頑張りによって、集団のまとまり方が変わる。ノリ切れないし、かといって、オタクにもなれないという、ある意味、中途半端とも言えるグループ。Bグループのなかでも、上、中、下と、さらに階層が分かれる。B上グループ~A下グループが、一番コスパー良い。

 【Cグループ】
 中高のクラス内などで、オタク層に位置する集団のこと。基本的にどのグループよりも真面目である。一番、物腰が低い種類の人達の集まりだが、実は、どのグループよりもプライドは高い。CグループにはAグループの人から尊敬されている人もいる。Cグループのなかでも、上、中、下と、さらに階層が分かれる。C下グループは、全体の3パーセント以下。

 【思考】
 頭で考えること。あくまでも、正しさや正解だけを追究する、ヒトの側面。

 【教科書】
 思考によって得られた、種々の理論。更新していくべきものであり、これを、より定式化すると、「価値観」になる。

 【感情】
 心で思うこと。気持ちの表現に一番近い部分、つまり気持ちの表面的な部分。

 【気持ち】
 心の深部。向きが、自分か、他者か、で、その性質は大きく異なる。他者であるとき、心で「想う」ことになる。自分だけである時、「勝手」になる。

 【自然科学】
 自然界で起こるすべてのことを、ヒトが定式化した教科書や価値観の集合。

 【慧眼さ】
 何かを洞察する能力に加えて、対象とする人の行動すべてについて、その根幹となる気持ちを推し量る能力のこと。ある人の一つの行動の理由を見つけられても、それは感情を察知してるに過ぎない。そうではなくって、もっと深部を開くような能力を意味する。

 【残酷な物理現象】
 何かの問題があるため、慧眼さをもって人の気持ちを推し量った時に、必ず帰着する、物理学的に仕方のないこと。
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一瞬で"Quod Erat Demonstrandum!"

2012-05-24 01:53:42 | Weblog
 即物的に振る舞って、実質的な結果ばかりが出てくるのって、やっぱりつまらない。
 こんなにも結果ばかりは出ているのに、満足感がほとんど無いのも、珍しい時間帯だな。

 だからって、ホンモノを目指して、本質的になったり、気持ち依存になったりするだけの気力も体力も無い。ただ単純に元気ではあるから、無難な振る舞いやコスパーいい行動、要領の良さだけは、ガンガン発動できて、で、だからなんだ?、って自分に訊いてみたり。
 能力があって、実質的に上手く行ったり、表面的にすごく楽しくて、超忙しい中でも余裕があるのに、それでも、その能力を行使しないってことは、、って、また自分自身を解析してみたりして。

 これが、怖かったのだ。何よりも、この状態の自分になってしまうことが、なれてしまうことが、怖かった。
 だって、自分一人の力だけでは、決して戻れないから。ほんの数カ月でも、ほんの数週間でも、もう、自分だけで能動的には、戻れない。

 過去の自分が、何か小さなことで喜んでいたり、今の自分を観て恐れていたりしても、そこからどう次すべきこと、今出来ることを見出していけるのかのヒントなんて無いし、それどころか、そんなことを考えるよりも、コスパーと要領の良さを気にしていた方が、気持ちがラクだから。

 一瞬観えてしまった証明を、焦ってしまって、無かったことにしながら、自分の勝手な気持ちだって、焦ってしまってしまえば、無かったことにできるのかな?、って一瞬で考えてみたりした。
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賢いだけはもっと代償がついてまわる

2012-05-22 01:09:22 | Weblog
 「気持ち」のより表現に近い部分、気持ちの表面上に「感情」があって、その感情と対称的なのが「思考」だ。
 もー最近、こんなの当たり前すぎて、初対面の人や出会ったばかりの人であっても、説明するのがめんどくさくなってしまっている。

 誰かと議論をするとき、「思考」と「感情」が別モノであるってのは、基本中の基本だ。すべてのコミュニケーションはこれに帰着されるし、もっと言えば、感情の奥にある「気持ち」が、どんな働きをしているのかだけに、俺は興味がある。つまり、それ以外の研究興味ってのは、思い切って言ってしまえば、無い。
 だからって脳内ネットワークとかに興味は無くて、そこは一般化して生命現象のそういう部分をきっと取り出してこれると思っているんだよね。

 人は賢くなればなるほど、「感情」がダメなものだと思いがちだ。感情ってのは、悪さしかしない、ってそういう風に勘違いしているのは、いつだって、頭の良い人達。
 いやいや、違うな、、賢い人達ではなくて、賢い環境にいる平凡な人は、感情が悪いモノって勘違いしすぎ、って言った方が正確かもしれない。

 そういう考え方があるから、怖いから、意図を伝えずに、物理的には正しい行動をしちゃったりさせちゃったりするんだよね。
 自分は賢いと勘違いしているから意図を伝えるまでも無く、これに合わせていれば、相手もわかってくれるだろう、ってことなんだけど、そこを、感情を見せることをめんどくさがってはいけないと思う。

 感情を見せることによって、意図が伝わり、その上で、お互いに作業をしていけばより良いと思うんだよね。
 感情を見せることは自ずと感情の種類を増やすことにも繋がって、より気持ちを完備なものにしていくのだと思う。

 もちろん、重大な状況から、それが出来ないような事情を抱えている人を、2人知っている。
 あいつらは例外としても、俺ら一般ピーポーは、とにかく感情に素直に、思った事を言いながら、礼儀として、感情を少しずつ見せることが必要だと思う。
 そうしていけば、賢明を超えて聡明な振る舞いができるし、賢さを超えた慧眼さを持つことができるのだと思う。

 そうそ、これも言い飽きてることだけど、賢明ってことと聡明ってことは、全く違うことだし、賢いってことと慧いってことも、全く違うことなのだ。
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慧眼さの代償

2012-05-21 02:57:30 | Weblog
 一時は仲間だったのに、その人と確実にぶつかりあわなきゃいけない時、選択肢は2つしかない。

 勝負に参加しない、か、容赦しない、かだ。
 もちろん、相手が対等な相手で、そんなこと考えるまでもなく、思いっきり本気を出せるならイイんだけど、片手間でやっても勝てるほど弱い相手に対して、でも味方?っという感情が入る時、俺の選択が大事になる。

 自分の中では答えははっきりでていて、容赦しないで本気で奪いにいく、って思っている。
 ただそれは感情に従った解答では無くて、苦渋の決断をしているので、だからよりいっそう、冷酷に徹することが可能なんだと思う。

 その奪いあう対象はとてつもないクズだけど、どれだけ即物的に徹し、どんな手を使っても、その中の誰よりも結果をだせるのかを、ただ試したいと思う。

 ≪ただ単純に……なんじゃないの?いつもの振る舞いを観ていて、そうでしょ??それでも「敵」と思うんだったら、そういう風に対応すればイイさ。≫

 まったく、洞察力や慧眼さがありすぎるってのも、困りもんだな。
 知らなければ、傷つかないのに。

 僕らは、、二人は、こんなことしたかったのかな?
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終わりゆく世界

2012-05-18 02:03:15 | Weblog
 気持ち以上の行動をすることは良くないことなのかも。
 無理に無難になる必要もないし、無理に事務的になる必要もなく、ただの気持ちの変動によって行動する方が、期待した分だけ失う、ってことは少ないのかもしれない。
 もちろん、そんなことでは仕事してらんないけどね。

 お互いに何かの言葉を得たら、いきなり信頼関係が上がるってこともないし、言葉があるからって、束縛する権利も干渉する権利も無い。それは本当の意味での信頼関係あってこそで、それが理解できないならば、笑いながら、距離をとるしかないのだと思う。たとえ、言葉を取得した後でも。

 それで何かの拍子に失っても、意外と大丈夫。何もなくても生きていけちゃう。
 失う前は失ったらどうなるんだろうって想い悩むけど、そんなこと、失ってしまった後からすれば、終わった世界だから、どうでもいいことだよね。
 世界は終ってしまったのに、昨日と同じように日常は続くし、当たり前のようにどうでもイイ人は話をふってくる。それに対して、無難な対応をできて、普段との違いなんか微塵も見せないようにして。

 カラ元気も元気のうち、って割り切っていけたら良いのだと思う。
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観測における直観の重要性

2012-05-16 01:39:21 | Weblog
 自然科学の実験において、ある観測データから、すぐに何かの意味や意義が出てくることは殆どない。
 そのデータをじっと見つめて思考し続けたり、誤差解析をきちんとしてみたり、下手したら大がかりな解析ソフトを使用することで、やっと何かの学問的な意義が出てくることのほうが遥かに多いと思う。

 だけど、これが日常生活の中での観測データであると、異なってくる。
 日常生活において、何かを観測したい時、その対象はヒトであることが多く、さらに特異的なシーンであることが多い。その場合、あれこれ悩んで、長い時間かけて考えた解釈よりも、その時、その瞬間に感じとった、本質や本音のほうが、正解であることが多かったりする。

 だから、解析をするために人と話す時に、その時の空気や感じとり方を、ちゃんと覚えておくことが必要なんだと思う。
 そして、賢い人ほどキレイな言葉を選ぶから、その場合は、語尾に注意しながら、全体の空気を感じ取ることが洞察力を高めることとなる。本音はだいたいは語尾にでるからね。

 こういう直観みたいなことは自然科学には必要ないって思いがちだけど、持ち込もうと思えば持ち込める。
 かなり持ちこめていれば、特異的なシーンであれば、実験をする前から、なんとなく、いけそうか、ダメそうか、くらいは、正確にわかったりするのだ。

 実際、これまでの研究で出してきたチャンピオンデータの殆どは、実験を開始する直前から、なんとなく行けそうだな、ってわかっていたもので、データを観た瞬間に、やったーって思えたものだったりする。
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未来に投資してほしいかな

2012-05-15 00:51:52 | Weblog
 どんな悩みも問題点もムカつくことも、突き詰めていけば、物理現象に繋がる。
 いくら誰かのこの部分がいけないんだ!って思ったとしても、それは幻想であって、その人が悪いなんてことは、突き詰めていけば、無い。

 確かに、何をその人の意志とし、何を物理現象とするかはかなり難しいところだけど、きちんと解析してみると、必ず、切なく辛く残酷な物理現象が存在していた、ってところまで思考できると思う。

 このような理由から、評価の基準を、気持ちのみで判断する、って思っていたけど、そうじゃないほうがイイのかもしれない、っと最近感じている。

 俺には絶対的な能力が無いから仕方ない、ってことを飲み込みながら承知していたけど、その物理現象に対して、ちゃんと対応しないなら、少し、振り切らないといけないと思う。
 能力をつけようとする気持ちすら無いんじゃ、仕方ないもんね。

 それに、俺だって、いつ居なくなるかわからないし、いつ死んでしまうかもしれない。
 その視点に立って考え、さらに、大きな枠で集団を捉えてみると、各人が、能力をつけていくことを諦めちゃいけないんだと思う。

 だって、気持ち、ってだけで誰でも純粋で、人を取り巻くどんな問題点も残酷な物理現象に帰着されるんだとしたら、選びようが無いでしょ?
 だから、行動が重要になってくる、って何年か前に結論づけたけど、今回はそうじゃなくって、だから、どれだけ自分の言葉を心に飲み込んだ行動がし続けられるか、ってことが大事になってくるんだと思う。

 すると、能力なんか、あっという間につくもんだと思うし。

 「だって、K君って、そういう能力全然無いじゃん?」
 『え?何が?』
 「楽しむ、ってよく言うけど、人を集めてみんなで楽しむ、みたいな能力は、無いでしょ?」

 今は、少しは、出来る。
 そうそ、今すぐの有能さを俺に押し付けて、未来に投資できないんだったら、どうぞヨソをあたってくださいな。笑
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久々のTDLで

2012-05-14 02:13:14 | Weblog
 久々にディズニーランドに行くことができた。
 こないだシーに行ったばっかだけど、やっぱランドのがノスタルジーでイイなーって思う。

 なんつーか、日頃の悩みとか問題とかが、あんなにもどーでもよくなれる場所もスゴイよね。
 色んな楽しみ方が出来るからかな。芸の細かさを確認したり、音楽を楽しんだり、まぁ、効率よくアトラクションをまわるの考えたり、英語の聞き取りがかなりあがってるなーってを感じ取ることができたのとか、それはそれで楽しかったけど、やっぱり、雰囲気が一番イイ。

 人間が創りだせる楽しませる環境を整える限界を観てる気がする。それは、キャストだけが創るもんじゃなくて、ゲストもそれに貢献していると思う。
 ジャングルクルーズで3週間も悪ノリにのっていられるのも、怖くないホーンテッドマンションやカリブの海賊で怖がれるのも、待ち時間に少し子供の相手ができるのも、、そんでもって、夢の国プライスになってるものを何故か買えてしまうのも(笑)、全部、ゲストも含めて、みんなで楽しもうとしているところにあるのかも。

 どんな環境に行ったって、参加したって、その中で、楽しもうとする気持ちと、楽しんでいる人、もしくは楽しもうとしている子に、合わせよう、楽しませる空気を創ろう、って想えなければ、自分が楽しくなることは無い。
 TDLん中だって、結構、哀しいことを観たりもした。それでも、結果としてイイ部分しか記憶に残らないのは、総量として、楽しさが勝っているからだと思う。

 そんなことを忘れずに、Zip a Dee Doo Dah、Zip a Dee A♪
 なんて素晴らしいWonderful Day♪
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もっとこーいう風にっ!

2012-05-12 01:34:54 | Weblog
 何かを供給する時に考えなきゃいけないのは、その供給をいつまで続けるべきなのか、ってことだと思う。
 永久に供給し続けることはできないわけだし、もし、そこに未来の可能性がなく、ただの現状維持でやるべきだ、って気が付いた瞬間に、気持ちが一気に冷めていく。いや、気持ちを一気に醒ますべきで、他のモチベーションを考えたり、他のことをするキッカケにしなきゃいけないと思う。

 あくまで対等な関係であるのに、どんな精神状態であれ、供給側に対して、冷酷な評価を下し、お前のココがダメだ、もっとこうして助けろよ、みたいな感じを出してはいけない。
 もちろん、それを、すべて受け入れて、自らの頭に依って、能力を上げ続けなければならない、と考えられるなら、かなりのイケメンだけど、そもそもに即物的な価値も無く、ホンモノに依ってのみ頑張り続けていた場合、それは表面的にも本質的にも引き離しにかからないと、自分自身の心にもかなり長い時間、悪影響を及ぼすことになる。

 そして、それは、どんどん、ホンモノからニセモノへと、時間変化していく反応であると思う。
 ただし、その反応の阻害剤として、相手側に選択肢のみを残しておくのが、この場合のルール。

 心から、バカだな、って思う。
 完璧な環境が整っている、すごく能力が高い振る舞い、なんて、都合のいい話、この世にあるわけがない。特に、あなたごときに来るはずもないのに、少しだけ我慢すれば、完璧な環境づくりに近づけるために勝手に努力してくれる供給側の人(達)に対して、上から目線で、こうすべき、こうであったらね、ダメだなー、って支持を出すのは、バカだと思う。

 ただ、そんなバカなことを、俺自身がしてしまったときに、その気持ちがほんの少し理解でき、自分がおかしいことに気が付く。
 でも、俺の場合、指摘されてから、一瞬で済むところに、大きな差があると思っている。
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自分の能力に頼らざるをえない研究テーマ

2012-05-09 16:54:21 | Weblog
 能力のくだらなさを、最近、ホントに感じる。

 あの頃から、とにかく多角的な能力が欲しいと思ってきた。
 コミュニケーション能力も、リーダーシップを発揮する能力も、物理学的な視点で物事を語る能力も、研究遂行能力も、発言力も、英語も、楽しむ面でのスポーツも、複数のことを同時にやる能力も、あの頃よりも、かなり得られたと思うし、昔だったら、この状態ほどあれば、顔をあげて、胸を張って、会える、立っていられる、ってほど、即物的な能力だけは自分自身に残っている。
 だけど、なんにも変っていない。能力を得て、即物的な言葉が変わっていくだけじゃ、何もカワレナイということに、もっともっと早く気が付くべきだったのかもしれない。

 どうでもいいことほど、上手く行く。
 片手間に役に立つことができる誰かには感謝されるし、表面的な笑いをとることも、逆に表面的な笑いを感じて自分が、まるで本当に心から笑っているかのように振る舞うことも、本音を言ってるフリをしてキャラを創ることも簡単だし、研究だって進捗する。
 大事なこと、上手く行って欲しいこと、絶対に失いたくないこと、のほうが、遥かに、失う。この視点に立つと、能力なんて、何の役にも立たない。しいて言えば、能力があればあるほど、忙しくなっていって、大事なことで上手くいってないことを考えなくてイイから、ツラくないくらい。

 今一度、何が大事なのか、どれが聡明な行動であり、どのような視点であれば慧眼であるかを、考えないといけないと思う。
 そこに、考える、つまり物理学的な思考力という能力が必要になっちゃうわけで、結局、能力に頼ってるから、いけないのかな。

 「意志…。。だから、極論を言えば、私が今日、学校行きたくないっていうのも、分子のなんらかの運動によって定められているわけでしょ?、って言えば、なんでも許されそうじゃない?」
 『いやいや、電気信号みたいな感じだけじゃないはずですって。だって、同じような信号を受けても、自分で選べるわけですから。』
 「だから、それだって、何か別の他の環境が支配して分子運動に影響してるわけで、仕方ないことじゃん。だから、言えるんだよ、それを規定する分子の量が何らかの原因で足りなかったので、仕方ありません、って。」
 『うーん、確かに。。でも、まぁ、そうじゃない、、物理現象を省いていったところに、生命現象の本質が隠れているとしたら、それ(意志)を見つけたい、ってのが、この研究のモチベーションなんじゃないですか?』

 そして、それを研究することも、仕方ないからやっているという視点に立つべきだ。
 頑張りたいのではない。努力もしたくないし、勉強もしたくないし、、当然、何かの能力をつけたいわけじゃない。

 知りたいからだ。
 なぜ、あんなにも、不幸なことになっていってしまうのか、ってことを。その理由を発見したい。そして、それに対抗する手段を、発明したい。
 そのためには、仕方なく、物理、化学、生物、地学、数学の、それぞれの力を借りなきゃならない。

 世界中の誰も知らないなら、自分で開拓しようとするしかないもんね。仕方がない、めんどくさいけど、能力をつけなきゃいけないみたい。それがいくら、無駄で、くだらなくて、つまらないことでも。
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続ける?やめる?また始める?

2012-05-09 02:06:37 | Weblog
 イイ状態でも、悪い状態でも、その原因が自分にあるのかそうじゃないのか、ってのは、思ったよりも、判断しづらい。
 これは俺のおかげ、あれは向こうが原因で悪くなった、って思っていても、長い月日が経つと、やっぱり環境のおかげだなって思ったり、これは本当は俺のせーで悪くなったんじゃん、って想いかえしたりする。そして、こういうことの逆ももちろん存在している。

 それがリアルタイムで観えないせーで、落ち込んだりもするし、表面的に喜んでしまったりもする。

 例えば、手をかけすぎてしまったりすることが典型だと思う。
 その人のために、その子のために、教育的な措置として、とにかく尽くしていたけど、結果、それがその人をよりよくすることにはならなかった、という場合。どこかからか、自分が無難に振る舞うためだけのツールになってた、なんてことはよくあると思う。

 崖を登らせることを教育活動に例えるなら、崖のてっぺんから「ほら、さっさと登ってこいや。」ってやることは教育じゃない。空が飛べる、何でもできちゃう、スーパーマンみたいな生徒を想像してはいけなく、ごく一般的な子がこの壁を登ろうとすることを考えなきゃならないんだから、教育には、ある程度、ロッククライミングができるような、手を掴む場所と足場がないといけないと思う。
 だけど、それが度を過ぎて、階段や、ついにはエスカレーターやエレベーターまで創って登らせてしまっては、それもまた教育ではないのだ。

 一生懸命動いても、また考えても、それがその人のためになるかどうかなんて、わからない。
 だから他人のためになるようなことは必要ありません、っと言ってるのではなくって、気をつけないといけないよね、ってこと。

 っで、何らかの失敗、もしくは成功は、能力のある側が、より早く察知できることなのだ。続けるのも、やめるのも、また始めるのも、能力がある側に、そのチャンスの決定権がある(選ぶのは、能力の無い側だけど)。

 だから、そこから目をそむけてはいけない。必ず、失敗も、成功も、真実を真摯に受け止めなきゃいけないことだと思う。
 教育ではね。

 教育では無い、対等な関係である場合、当然それは変わってくるけど、何をもって対等かが難しいから、今日はここまでで思考を止めておこうと思う。
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ありのままのワタシを認めてほしい理由

2012-05-06 04:35:00 | Weblog
 俺は、コミュニケーション能力、って言葉がキライ。
 っていうと、「まぁ、そりゃ、ないもんね!」って思われたり、「えー、なんで、お前が?」って思われたり、色々ですが、とにかくこういう勝手で曖昧な言葉は嫌いなんです。

 これにプラスして、主体性、って言葉も、最近嫌い。「高橋君は主体性があって、いいよねー。偉いと思うし。」みたいなこと言われることも多いですが、『いや、俺、自由に、勝手にやってるだけだし。』って思ったりする。
 それに、俺のことをよく知っていれば知っているほど、逆に思うと思う。俺は、かなり流されるタイプだし、エネルギー溢れる感じで主体性を持って外部の環境に飛び込んでいくようなタイプではない。

 自分で言うのもなんだけど、俺みたいな主体性って、本当に能力ある人にしか認められない。無能な上司からは嫌われる類いの主体性。感情のベクトルを一番に大事にする主体性で、その上で、とるべき行動を行っているだけなのだけど、俺は、こういう主体性こそが、本当の主体性だと思う。
 だいたい、「最近の若者は、主体性がない」とか言ってるヤツに限って、主体性じゃなくって、服従する中での扱いやすさを期待している。他人の能力やモチベーションを信用できてないヤツ。自分が命令しなくても、自分の思い通りに動いてくれる部下が、主体性がある、っと勘違いしている、言葉に騙されている馬鹿な40代以上は、本当に多い。

 学校教育のなかで、一番問題だなって感じることの一つに、こうであれ!、っという価値観を押し付け過ぎる部分があると思っている。多くの科目で成績優秀で、部活動をしっかりやってて、友達がたくさんいて元気、そんなのを目指しましょう、みたいなことを教員は言いすぎてはいけないと思う。「これさえやってれば良いの。意味など考えてはいけない、どーせ君らは、バカなんだから。とにかくこれを目指して、覚えて。」
 のくせに、いざ進路を決める時、いざ就職活動を始める時になると、手のひらを返したように、「さぁ、あなたがしたいこと、やりたいことは何?ほらほらー、主体性がないんですか?意欲がない若者ですね。そうやって、コミュニケーション能力がないから面接通らないんですよ。」。いやいや、あんたらがそれらを奪ってきたんだよ。

 ABCのグループ分けの軸と真面目さの軸が逆行してしまうトリックはここにある。本来、ノリが良くて、しかも真面目、って状態は普通に存在するはずなのに、かなり固定観念を植えつけられているから、モチベーションなんてとっくに失われている状態なのだ。
 だから、ノリがイイ子は、そのノリだけで乗り越えようとして、たいした具体的な能力も無いから失敗しやすいし、真面目な子は、今まで言われた通りきちんとやってきて真面目でいたのに、いきなり主体性とか言われて焦りだして、自分には無理だな、って思うわけね。

 良いじゃん、成績にバラつきがあったって、部活サボりがちだって、友達が少なくたって。そのまま、ありのままの自分に自信を持ちましょう、自分らしい振る舞いをしましょう、ってことを、家庭や教育で埋めなきゃいけないはずなのに、それが叶わないとなると、今度、それを恋愛や友達関係に求めたりする。即物的な関係でも、表面的にありのままの私のことを認めてくれるなら、それでおっけー、みたいな。
 教育みたいな即物的なことで身につけなきゃいけないのは、理想に近づくために頑張りましょう、って本質的なことじゃなくて、即物的なガチの能力だ。だから、ありのままを認めなきゃ何も始まらない。すると、次第に、コミュニケーション能力も主体性も身につく。っで逆に、交友関係(恋愛も含む)では、ホンモノを目指したいわけだから、理想に近づくために一緒に頑張ろうと、そういうモチベーションを互いに高め合わなきゃいけない。

 そもそもね、「主体性を持って、行動しろよ!」って言葉自体、自己矛盾してんだよ。
 従う、って選択していたら、それは主体性なわけで。

 なんとかしなきゃいけないよねーって思うけど、だからって、世捨て人みたいになってはいけない。社会のせいにして、何もしなくてイイわけじゃないのだ。
 やっぱり、コミュニケーション能力をつけようとしたり、主体性を持って行動したりする、つまり、頑張ることは、イイこと。ただ、それらが、今、まったくと言ってイイほど無いからといって、自分に対して、卑下する必要はまったくないのだ、ってことを言いたい。

 ちなみに俺は、コミュニケーション能力も主体性も、どっちもあるから関係ねーけど。笑
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Don't let the world win!3

2012-05-04 02:20:48 | Weblog
 一過性のモノに興味は無い、って言い続けてきたけど、よくよく考えてみれば、永遠なんて、実質的に存在しないことは明らかだ。

 ≪でも、3年生になったらさー、離れ離れになっちゃうからー、それまでにー。≫
 『そんなん、そりゃそうでしょ。どんな人間とだって、いつかは必ず別れが来るんだから。』
 ≪もー。まったく、さいてー。≫

 って、中2のときに言ってた自分の中二病なセリフを思い出したりして。
 何をもってホンモノとするか、何をもって一過性じゃないと想えるのか、イマイチ、きちんと自分のなかで定義できていないのかもしんない。

 2年間でも、4年間でも、7年目になったって、その関係が、一過性じゃないって、言えるの?
 信用が崩壊する危険性はいつでもはらんでいるし、その信用を元に戻すためには、かなり長い時間がかかるのだ。信用でも信頼でも、構築するのはかなりの時間がかかるけど、壊すのは一瞬だからね。

 だったら、いっそ、物理的に価値のある関係や、win-winになっていけるような関係を、感情に従わず、手っ取り早く、手にしてしまった方が、効率的だし、良い感じがするけど、心のなかの何かがそれを阻むんだよね。

 「The world is no longer a romantic place. Some of its people still are however, and therein lies the promise. Don't let the world win!(確かにこの世はロマンスとは程遠い。でも、ロマンティックな人種は少しだけ残っている。一縷の望みがあるってこと。世間なんかに負けるな!)」

 結局、自分の感情から逃げても、自分の感情に戻ってくるだけだって、よくわかっているのかもね。
 ただ、一過性かもしれないと疑わしい楽しさも、少しずつ受け入れて行った方が、少なくとも今の俺の精神には、良い方向へ作用する。

 憂いでくれる人達に、もっと振り返っても、きっとバチは当たらないよ?
コメント
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