たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

巨頭であるがゆえの孤独4種

2014-04-30 01:50:39 | Weblog
 「精緻の神」

 常にオフェンスされるような環境にい続けると、どんどんディフェンス技術が上がる。それは研究者としては必要なことだし、謹厳実直な大人になるためには大切なことだと思う。
 あらゆる物事に対して、あらゆる角度からのオフェンスを見据え、どんどん自らの論理性のみで精緻にしていく。これこそが大切なことで、独り立ちした論理性を持った個人にならねば、まともに大人と対等にディスカッションすることなんてできない。

 だからと言って私は、孤独になれ、と言ってるわけではない。むしろ逆であり、色んな人とたくさん喋っていくことによって自らの論理が高まっていくのだと思う。
 もちろん、相手も同じ価値観を持っている人に限ってしまうという点は否めないが。

 ここまで自分の論理を高めることに一生懸命になるあまり、もしかしたらあらゆるタイプの人と話すことが難儀になってしまっているのかもしれない。
 いやいやそんなことはないさ、と心に言い聞かせながらも、時間ばかりかかってしまい何も意見がでないことが多くなってきた最近を危うく感じている。

 しかし、この世界で生き残り続けるためには、精緻さの向上を欠如させてはいけないのだ。

 「心の難聴」

 常にオフェンスされるような環境にい続けると、それに関わっている時間はくだらないから、無視することが日常になっていく。日常生活でも公の場でも、くだらないことは聴かないぞという空気感を早々に出し、独特の"間"さえ与えてしまえば、相手はそれ以上何か文句を言ってくることは少なくなってくる。こういう余裕こそが、研究者として必要なことであるし、年齢相応の権威を得るためには大切なことだと思う。
 あらゆる物事に対して、あらゆる角度からの理解を世間や学生は求めてくる。こういうことすべてに実際は対応できないし、そんな時間は無い。だからこそ、自分の耳に入ってくるべき情報をコントロールすることが必須なのだ。

 だからと言って私は、他人の意見を聞くな、と言ってるわけではない。むしろ意見をきちんと聞いたうえで、くだらないことに関しては、私にはわからない、と主張しておけば良いということだけである。
 むろん、私にある程度の論理性が担保されているということが前提になるわけだが。

 ここまで自らの時間を大切にするあまり、もしかしたら誰かと話すことの絶対的な時間が足りていないのかもしれない。
 いやいやそんなことはないさ、と心に言い聞かせながらも、誰も話しかけてすらこなくなっている現状に危うさを感じている。

 しかし、この世界で生き残り続けるためには、スタンドアローンのスタイルを崩してはいけないのだ。

 「鉄壁の美辞麗句」

 常にオフェンスされるような環境にい続けると、あらゆる苦言に対しての柔軟な対応が身体に沁み込んでいく。どんな場面でも冷静な大人の対応が上手になることは、ある種の愚直さを要求するこの社会では必須であるし、少なくとも研究潮流のなかにいると自然とそうなっていくのだ。
 あらゆる物事に対して、あらゆる角度からの理解を世間や学生は求めてくる。こういうことにすべて柔軟に対応できてこそ研究者であるし、そこに不勉強が有った場合にも何らかの適確さを帯びた指針を与えることができなくてはいけない。

 だからと言って私は、それっぽいことを単に言えば良い、とは思っていない。むしろ吟味をし尽したうえで、心を介さずに頭脳だけを用いて語れば良いのだと思う。
 それは社会人として、ある一定の距離を保つことが必須である、ということになってしまうが。

 これまで感情を表に出さないあまり、あの頃のようにきちんとした信頼関係を結びにくくなってしまっている今に危うさを感じる。

 しかし、この世界で生き残り続けるためには、距離を保ちながら相手と付き合っていくことこそが大事なのだ。

 「騎士」

 常にオフェンスされるような環境にい続けると、多くの人が薄暗闇に潜んで無理をしていることに気がつく。厳しいツッコミを絶対に受けたくないからイイワケばかりしてる連中、冷たい空気でバリアを張って有能風味を演じているヤツら、薄っぺらい言葉ばかり使いたがる愚直さしか能のない集団、うんざりだ。
 あらゆる物事に対して、あらゆる角度から攻めてくるように観える多くの要求は、本質的には共通であり、イコール大多数の人間の本音は共通であるのだ。だから、私は率先してそれをぶっちゃける。このようなノリこそが、今の研究社会のシステムには求められているし、薄っぺらい社会で楽しく生きるためには必須なのだ。

 だからと言って私は、礼儀知らずであればイイとは思っていない。あくまで権威への反抗であり、マナーやモラルは守るべきだ。なぜなら、マナーやモラルを守っていたにも拘らず礼儀がないと騒ぎ立ててくるようなクズが抽出できるからだ。物事をややっこしくしながら、忠義立ての要求を包み隠し、自らの実力を誇示しようとするバカに、短い人生を費やすのは勿体無い。
 それは、薄暗い社会を明るくするためには、少しの犠牲は仕方ない、ということを否定できない論理なのだが。

 これまでぶっちゃけることを恐れないフリをしまくったせいで、私が強い人間であるという勘違いが風潮している。本当の意味での私の仲間はいったいどこにいるんやろ。

 しかし、私がこのまま研究者として生き残り続けるためにも、みんなが実は思ってしまっていることを率先して口に出すことは大切だ。他に武器もあまりないしな。
 そんなこと以上に、この世界を楽しくするためには、本音で語るしかないのだと私は思う。
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C'est La Vie !!

2014-04-26 04:08:14 | Weblog
 今日の話はノストラダムスの大予言、私がまだ中学に入ったばかりの頃に遡る。
 私が通っていた私立中学は、理科の授業時間をわざわざ削り少人数制にして英語の授業をするほど熱心に国際化を謳っていた。

 中学生だった私は英語が一番得意。後に私は数学が一番得意であることに気がつくが、数学はまだ何も面白いと思えず、むしろ異国の文化に想いを馳せながら学べる英語が一番好きで得意だと自己評価していたのだ。
 中学生にとって、先生が面白くなければ科目は好きにはならない。社会の流れに逆らう術をまだ知らなかった純粋な私も例外ではなく、この時の英語の先生に少なからず好感を持っていたのは間違いなかった。

 単語テストで間違えたところを書き取り。どの学校でもどの先生でもあるだろう。この先生も、簡単な単語テストの後、間違えたところは5回ずつ書き取りをさせていた。英語が得意な私はただの一度も間違えたことがなかったので、その回数が日に日に増し30回を超えていることを知りながらも、他人事であった。

 中学校の生活にも慣れてきた6月の中旬、返ってきた単語小テストの結果をみてびっくりした。バツが5つもある。私が?単語を確認するとスペルは間違えなく正解している。なぜ?
 良く見ると、「b」の書き方がなっていない、「b」の棒は真っ直ぐ垂直に書くべき、という指摘で、「b」がつく単語すべてがバツになっていたのだ。それに気がついたときに発した言葉は自分でも信じられない言葉だった。前はそんなんじゃバツになっていないのに『くだらない』と一言、隣の友達に言ったがまるで聞いていない。
 今まで書き取りになったことがなかった私は、書き取り回数を聴いて驚愕する。単語ひとつにつき50回?!『数そんなに書いても覚えないだろ』とまた私らしくない反発の感情が表に出てくる。

 私は、ある程度信頼していたその先生に、「b」の文字だけを50回書いて提出した。すると、今まで観たこともない形相になり「ふざけるな。単語も全部に決まってるだろ。50×5で250回、もう一度きちんと書け」と仰った。
 しかも全部書くまで居残れとのことだったので、いいかげんに馬鹿らしくなった私は、何人かの友達と『意味わかんねーよな』っと言いながら、答案を見せあいっこして、勝手に帰路に着いた。

 その日、学校から公衆電話で連絡を入れろと母が言っていたので、なんとなく母から先生の言うことに従って学校に居残れと言われるのを直感的に察して、途中の駅から電話した。
 すると、母の直観は当時の私のそれを遥かに凌駕しており、瞬時に「何があった?」と尋ね私が事実を答えると「なぜそんなに反発するようになってしまったの?他のみんなはちゃんと書き取りをしているんでしょ??早く学校に戻って、書き取りをきちんとしてきなさい」と無情に言い放った。
 学校へと戻っていく私は、偶然すれ違った当時仲良かった女の子に「忘れ物?だめだなー」っと言われ『(ある意味)まぁね』と平静を装った。

 下校していく中高生の大きな流れに逆行して、私一人だけ学校へと戻っていく。この流れからの逆行こそが、今日の俺が無難やマジョリティから大きく外れることに何の躊躇いも無いことへの第一歩だと気がつくのは、それから10年も先になる。

 学校に戻ると、その英語の先生は待ちかまえていて「書き取りをしろ」と言ってきた。
 その威圧的な態度に焦りながら答案を探しているとなかなか見つからない。「答案をどこへやったんだ?」とあまりにも威圧的に言うので『さっき友達とふざけ合ってたから、そのまま盗まれたのかも』と言うと、「そうかぁ。明日、大事件だな。答案は誰が盗んだんだ?って」と勝ち誇って言う姿に、コイツの本性はこれか、こうも人は不細工な表情に変えられるのか、と悲しくなった。

 私は250回書き取り、『意外と大したことないじゃん』と思っていた。
 終わった終わった、っと思っていたところに、私の目に飛び込んできたのは、なんと両親の姿だった。どうも、この英語の教師と私の担任と学年主任と両親とで話し合ったらしい。

 両親と一緒に下校するなんて恥ずかしく思いながらも、帰り道、事の成り行きを知りたくて訊くと、私の母は私からの電話の後すぐにこの英語教師に抗議の電話をしたらしい。「私の教育方針に合わないようでしたら公立に行ってもらって結構です」という言葉に逆上し学校までやって来てしまう私の両親は恐ろしい、と思いながら、どうなっていくかもわからない明日に柄にもなく楽しく感じた。
 二度目の帰路、母は短く「最低な教師ね」と罵った。父は借りてきた猫のように穏やかな表情をしていた。

 次の日、私は何の報告も受けぬまま、英語のクラスが変わったことだけを聴かされた。
 その後、この英語の先生が俺のところにやってきて、「ご両親がどうしても私は不適だと仰っているから、今日からB組に移って下さい」と完全な敗北者の表情をしながら俺に告げてきた。

 わずか1日で世界は一変し、俺が英語という科目への信用をすぐに取り戻したことは言うまでも無いが、それが本質ではないこともその時に悟っていた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 たとえどんなに不条理な場を造られても、筋を通して論を詰めてから正しい意見を主張し、自分の選択をより良い方向へ持っていく。そして、正しい行いをしている者は、関係性が気まずくなっても、いつまでも胸を堂々と張って昼の太陽の下を歩ける。
 今現在、こういう当たり前の方程式を信用して使えるのも、恐ろしいほど正しいことしか言わない俺の両親の育て方のおかげなのかもしれない。

 大学院教育では、我々が気がついていないだけで、こういうことは日常茶飯事だ。
 なぜそのわかりにくい専門用語をわざわざ使わなきゃいけないの?、なぜ妥当性も正規分布かも確認して無いのに計算しただけの確率誤差を載せなくちゃいけないの?、なぜまったく価値が無いように思える実験内容を遂行し続けなくちゃいけないの?
 こういった疑問に、「大人の世界はこうだから」「研究潮流は長年そうだから」「偉い人がそう言ったから」以上の答えを正しく述べることができる大学の教員が、どれほどいるだろうか?

 「偉い人がそう言ったから」などと平気で言ったり思ったりする教員や学生は、「b」の書き方がオカシイ、て理由で書き取りをさせる不条理なことを言って、自分が偉いんだ!っと主張したい、このクズと何もカワラナイ。
 そういう人は、教員だろうが、ポスドクだろうが、学生だろうが、今すぐ、学術の場、教育の場、から出ていけ!それが冥い日本の科学を明るくする唯一解。

 あれから15年、この教師は、おそらくまだ同じ学校で教鞭をとっているのだろう。自分の生徒を通して、今年より数年前の情報は明瞭に入ってくる。
 あれから15年、、あの小さなコミュニティのさらに小さなセクションの中で、いまだに、誰が学年主任で、誰が総括で、などと権力闘争に励む(しかも)非人道的なバカに、俺はなりたくない。それは東大だろうが国の研究機関だろうが、同じこと。

 所詮、毒にも薬にもならない意見を言って、自分だけ安全な場所から重箱の隅をつつくことで、自分の実力を誇示したがるヤツは、どんな場所にいても二流なのさ。
 しかし"C'est la vie." 俺はそれじゃぁ嫌だというだけだ。

 あれからちょうど15年、、あなたが発端となった力を僅かに使って、俺はこの地から羽ばたく。
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ポスター発表で成功するコツ -知り合いの研究者を増やそう-

2014-04-25 00:06:43 | 自然科学の研究
 学会発表をするときに、学生がとりあえずよくやるのが「ポスター発表」。今日はポスター発表で知り合いを増やす方法を語ってみようと思う。
 ちなみに、ポスター賞や若手奨励賞をとる方法は知りませんが、一部参考になるかもしれません。

 学会で知り合いを増やす、ってのはその後のキャリアパスを考えるときにまぁまぁ必要な行為なわけだけど、なかなかいきなり話しかけたりするのは難しい。だけど、学会のポスター会場では発表していると自然と会話になるし、割とコスパーはイイのです。
 でも、何も対策をせずに発表すれば、発表時間に誰もまともに訊いてくれず終わり、ということもよくあります。確かにそれでも業績としては変わりませんが(これはこれで研究評価のやり方が大問題なのだけど)、せっかく発表させてもらってるんですから有意義な時間にした方がいいでしょう。

 これは経験的な感覚ですが、1時間で10人以上は捌かないと、その後の人脈として意味のある発表にはなりません
 手っ取り早く、たくさん(自分にとって価値のある)人が来て、人脈作りをするためにはどうしたらイイか?今日は考えてみましょう。ちなみに今回は国内学会に限ります。


 1.タイトルは短く

 要旨を見て重要な研究のポスターを訊こうとしてる人からすると、クソ長いタイトルは即座に対象外になってしまいます。あなたにとって価値ある研究者は、数百、時に数千のなかから、限られた時間のなかで、何を観るか?を考えています。なので、タイトルは出来る限り短くしましょう。

 タイトルのつけ方は「目的+キーワード」です。ディテールを書きゃいいってもんじゃないです、これは守って下さい。このブログでもそうですが、長いタイトルの記事は決してバズりません。
 「そんなこと言われても指導教員や上の人達からタイトルも修正が来てしまう」と思われるかもしれませんが、長いタイトルで修正されてきたら、またその修正を受けて、出来る限り短いタイトルで送り返しましょう。

 2.サイズはA0で仕上げる

 これは当然過ぎて言うまでもないことですが、たくさんの人に観て欲しかったら、ポスターは必ずA0で作りましょう。持っていくのがめんどくさいなら布で作れ。紙でも布でも、最近はあんまり質が変わらないですから。

 あなたはA4で口頭発表のスライドを貼り合わせただけのポスターに目を留めますか?
 PIの先生でもそれは同じことです。

 3.色は青を基調としない

 パワポで作るにしてもイラレで作るにしても、日本人は青を基調としすぎです。ポスター会場はいつも真っ青です。
 青を基調にしたポスターは目立ちません

 どうしても青がイイのであっても、デフォルトの色を使用するのではなく、色空間で座標指定した色を使いましょう。
 色のセンスに自信が無いなら、パワポなどに入ってる座標指定のやり方と同じ色の座標が組み込まれている色彩学の本を一冊持っておくといいかもしれません。[CMYK]というインクに合わせた座標指定の仕方がありますので、それが書いてある色彩の本は持っていて損はありません。

 4.ポスターにメールアドレスを書き、ポスターを小さくA4に印刷した用紙を15枚以上持っていく

 これをやってないヤツはバカです。だって、これをしなかったら、この先あなたとどう連絡を取ったらいいのでしょう?
 名刺だけではダメです。あなたの名前と顔なんて、あなたがよっぽどキモいか可愛くなければ、すぐに忘れちゃいますから。

 必ずメアドを載せたポスターを作成しそれのミニ版(A4)を持っていきましょう。展示しているだけのときは画鋲にまとめて刺しておき、発表が始まったら持っておきましょう。
 自分の研究に特に興味を持ってくれた人に対してだけ、ポスターのミニ版をどうぞと差し出して、「あなたは特別です!」感を出しましょう。

 これでほぼ間違いなく名刺交換、アドレスゲットです。名刺には日付と印象を(他人にみられない範囲で)すぐに書きこみましょう(ちなみに記憶力が恐ろしいほど卓越していて、他人が言った事を一字一句覚えている俺でも、日付だけは書き込む)。学会が終わって、相手が通常の研究業務に戻ったなっと思った頃(学会終了後2~3日以内)に、メールを出しましょう。
 別に何か特別なことをメールする必要はありません。「私の研究に興味を持っていただきありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」的なことを書けば良い。

 海外の学会や国際学会では、QRコードでポスターをいつでもダウンロードできるようにしている人も多くいます。日本でも奉仕の心を大切にしましょう。

 5.短く話す

 よく、一人をトラップしてだらだらだらだら15分以上も研究内容を話す人がいますが、はっきり言って迷惑です。
 ポスターは意外と文字をたくさん書いて問題ないですが、それをダラダラ喋らんで欲しいのです。

 説明時間は3~5分くらいがベスト。相手が訊きたそうにしていたら10分程度話しても良いけど、ある程度数打ちゃ当たる。
 一人の人にものすごく懇切丁寧に教えてあげる人がいますが、これもそれ以外の人をよりつかせなくなってしまいます。
 「私、忙しいんすよ。人気者で(テヘ)。あなたにかまってあげたいし、説明たくさんしたいんだけど、たくさん人が来ちゃってるから、ごめんね。またあとで詳しく話しますよ。なんやったら、ここにメールして」感がイイと思う。

 そのためには、途中から来た人が訊いても楽しめるようなストーリー作りが必要です。スキームを大きく真ん中に持ってきて、大事なことはスキームに戻って何回も言うとか、とっても大事ですよ。

 6.冗談を言う

 冗談を言うことも人をたくさん配置させるためには必要です。
 暗いのが通常の学会において、笑顔は一縷の光です。すべっても構いません、必ず意味がある行為になります。

 途中から来た人を上手く取り入れることができれば、必ず脚光を浴びることが出来ます。そのためには冗談を少しでも良いので取り入れましょう。

 7.服装と笑顔

 まず服装ですが、ポスターの色を意識して服を選びましょう。そんなに深刻に考えることはありませんが、例えば緑を基調としてるポスターの前で赤い服を着たりしたら完全にクリスマスですね(笑)。季節外れのクリスマスを平然とできてしまうセンスの持ち主の研究には興味を抱きません。
 それくらいの心持ちはしときましょう。

 笑顔はとっても大事です。ノリが良くて元気が良いことは重要です。
 たいして面白くも無い研究内容に人がたくさん集まってるなー、って思うときは、たいてい発表者がカワイイ子のときです。Cグループのキモい男や気持ち悪いオヤジが半方針円状に集まっているクラスターには近づきたくもありませんが(同族嫌悪です笑)、、それほど観た目は大事なのですよ。
 なので、笑顔。とにかく、ニコニコ笑ってましょう。

 ただ、人がまったく来てない時に、誰か訊きに来ないかなーってみんなを見つめても、誰も来ませんよ?誰も来てないときは、ポスターの前でぼけーっとケータイでも見ときましょう。
 そして、自分のポスターを30秒以上見つめてくれたら、「軽く説明しましょか?」って声をかけたらいいと思います。


 とりあえず7項目挙げてみました。
 これからまた夏に向けて学会の要旨を書いたりするシーズン。このページを読んでくれた皆さんの研究活動がさらに発展することを祈ってます。

 はぁ、っていうか、こういうのも立派な研究活動なわけだから、誰か評価して(マジで)。
 研究室の選び方 - 『このラボだっ!』と決めるその前に -(昨日一部更新しました!)なんて、「研究室 選び方」「研究室選び」なんかでググった人のほとんどが見てるわけだから、今度なんか申請するとき、マジで業績に書いてやろうかな(笑)
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Proposable Condition

2014-04-22 00:29:46 | Weblog
 何か新しい提案をするときにはその内容が精緻なモノでなければ、結局のところ、許に戻ってしまう。
 精緻というのは、どの側面から多角的に考えても非の打ちどころが無いほど理にかなっているということだ。そうでなければどこかで必ず破綻する。

 そこまでの論理展開を個人で出来ないのであれば、みんなと相談するカタチを取る方がラクだ。なんでもかんでも自分ですべて決めなくても良い。ただ、少なくとも発信者個人のなかではself-consistentなプロポーザルをしてもらい、みんなが対等に意見を述べられる環境でないなら、話す意味が無い。時間がかかって、ただめんどくさいだけ。

 当たり前だけど、その事象に対する自分のなかの矛盾を全部キレイに取り除いてから、新しく共有すべきルール作りをするべきよねん。それでも何かのプライドが邪魔して、きちんとした対等性を保った相談ができないのなら致し方ない、、その人間では何も変えることはできない。
 ここに言葉や権威をいくら得ても関係無い、無能なままで良しと決めた弱者は常に侮辱に耐えて生きていかねばならないのだから。

 新しい取り決めやシステムを創ろうとしたときに重要になるのは、何ステップ思考ができるか。
 前にも書いたように、すぐに答えをみてそれを暗記することに慣れてしまえば、1ステップ。これは自分では一切オリジナルを考えることができないことを意味する。だから高校生にはこうなって欲しくないのだ。
 沢山のステップを踏んで思考をするためにはそれなりに訓練がいる。1日や2日でできるもんではないし、高校数学がきちんとできる必要があるし、日常にある様々な色んな事を常に同時に連続的に考えているようでなければ、なかなか皆が納得するような創発ができるようにはならない。

 そうそ、だから、俺らみたいな常人(こんなページには常人しか来ない笑)は、プライドをかなぐり捨てて、完璧な新しい決めごとに一歩でも近づくように自分の中で努力することで出来る限りの精緻化をしておき、対等にちゃーんと相談し合って、プロポーザルするってことがとっても大事だと思うのだ。

 っまだからって、一目惚れを否定はしないけど。
 「考え過ぎたアプローチは冷める」ってのは恋愛に限らずかなりの事象でそうで、迷惑をかけない範囲でなるべく直観で動いていたいよね。

 相手のこと、みんなのことを、(体裁上ではなく)本質的により良くしようと、きちんと想っている。
 という気持ちさえしっかりしていれば、どんな方法であれ、それがどんなに拙くても、俺は常にプロポーザブルだと思う。

 いつだって純粋な気持ちは絶対に裏切らない。
 自らの純粋な気持ちを裏切って、大人ぶって、みんなから孤立することを選ぶのは、もうよそうぜ?

 世の中には孤立しか選択の余地のない人だっているのだからさ。
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Pour Toi et Moi

2014-04-21 01:16:24 | Weblog
 何かを変えようとするムーブメントがあっても、長続きはしない。
 なぜなら、ある程度成功し、系が変わりきってしまった時点で、変化を起こしていた中心人物が体制派に転じるからだ。革命家は必ず日和る。

 だから、誰か他人の心に新しい気持ちの灯を宿せた時点で、革命家はその場所を離れるのがベスト。そうしないと、その系はどんどん孤立系になっていくしダイナミクスは生まれない。
 まったく新しい風が吹き、変革していくことに恐怖を感じながらも、皆が期待しているモノが出来あがっていくなかで、ルールが決まりきってくる。ルールを決めてしまった時点で、革命は終焉を迎え、それは成功しないことを意味する。

 そうなってしまったら、誰にとっても、もうこれ以上、より良くすることが難しくなる。今こそ革命家は飛び立つべきであり、旧体制派が立ち上がるときなのだ。

 未来が簡単に予測できることほどつまらないことはない。だから、大きく変わることを決して恐れないで。
 離れてしまっても、それこそがきっと、俺らのためだと、俺は思う。

 まぁもちろん、そんなのは純粋なホンモノではないけどね。ホンモノはどんなところまで行っても、心はいつも一緒。

 LINEのゲームって本当にくだらないと俺は思う。内容もありきたりだし、作業ゲーだし、それこそ体制派が圧勝する世界だしね。LINE POPも、ポコパンも、ウィンドランナーも、さっき、自分のスマホから全部消してスッキリした。だから、ツムツムでも始めるか笑。
 (冗談はさておき)だけど、LINEのゲームを一度もやってみてもいないくせに、それを愚行の極みだと決めつける思考回路は、もっとくだらないと俺は思っている。

 そう、ホンモノが有るのは、常にその先、、この先なのだ。
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理想の研究スタイル

2014-04-19 01:41:13 | 自然科学の研究
 俺は、たぶん同世代からすると、数多くの分野の研究者を見てきたと思う。物理、化学、生物、地学、数学と、理論と実験、理学と工学、ほぼすべての自然科学の分野について多くの研究者と議論させてもらってきたし、議論させてもらった研究者の幅の広さとその数で言ったら日本で上位だと思う。

 しかし正直言うと、残念な人ばかり。殆どの人は権威主義で、尊敬できるかもと思える人は極端に少ないし、そのなかでもよく知るとダメな部分ばかり見えてくる。
 じゃぁ、どういうスタイルだったらいいんだよ?っと訊かれることが多いので、ここにわずか6分以内で、俺が理想とする研究のスタイルがパフォーマンスされている動画があるので紹介しよう。


#01 塩と砂糖を同じ量混ぜると味は無くなるんですか? 【淳の休日「Bar KUEBICO」】

 いやぁ、田村淳ってホント性格悪いけど、能力尊敬できるんだよね。笑
 論理がしっかりしていて、次やるべき実験がすぐに思いつき、重箱の隅に行きすぎず、知識自慢するわけでもないから、研究を進捗させていく能力が高い。
 やる気の無い権威主義な日本の大学教職員を100人解雇して、そのぶん彼一人を研究者として雇ったほーが日本の科学は発展するんじゃないか、マジで。っま、日本の国立大学の教授の年収は1600万円。年間16億円なら田村淳が研究者になってくれるか?

 この動画のもっとも素晴らしい点は、本来の目的である「塩と砂糖を同じ量混ぜると味は無くなるんですか?」という研究計画からズレて、研究進捗過程のなかで彼ら独自の価値観である「水に溶かした時に一番美味しくなる塩と砂糖の割合は?」が創発され、それが見事に達成された点にある。相方の泥沼さんが「もうよくね?」っと言っているのは、本来の目的からずれているからだ。それは確かにそうだけれども、研究は、進捗途中で興味が変わって重要な価値観に気がついたなら、そっち側にシフトしていったほうがイイのだ。
 こういうことはイイ研究にはよくあることだと思うし、最初の研究計画に固執しすぎていたら決して得られなかった結果だ。たかが芸人が、こんな高等テクを自然とできてしまっているところに怖さを感じる。

 しかも、いきなり論理に走ったりする不器用さ、いきなり濃度を沢山ふるようなクソ真面目感を出さず、実験しては論を考え、を彼らは繰り返している
 実際には何もできないから仕方なく理論固めばかりしている研究者や、逆に論理は苦手だからとにかくデータ量を多く出せば良いと考えている研究者よりも、俺はこういう実を伴った論理を重視するスタイルが好きなのだ。

 ちなみに彼らの実験報告によると塩0.5g砂糖10gを100mlに溶かすと美味いということだ。ヒトの舌におけるレセプターは、質量ではなくモルで規定されるはずだから、ちょっと計算してみると、

 塩化ナトリウム0.5 g = 8.6 mmol, 100 mlに溶かすと86 mM
 ショ糖10 g = 29 mmol, 100 mlに溶かすと290 mM

 がベストの美味しさだということだ。塩が86 mMというのは生理食塩水(150 mM NaCl)よりもちょい少ないくらいで(100 mlに0.5-1 gで150 mMになるわけで、1 gの場合は心地イイと淳は言ってる)、ヒトの舌と親和性があるのも確かに頷ける。砂糖も300 mMくらいだから、これはサイダーに含まれる砂糖の濃度に近い値で、飲み慣れているからってところもあるのかなぁ。
 アホに実験してるわりに、意外と彼らは重要な帰結に到達できているのだ。モル比で考えると、塩:ショ糖=3:10くらいだと美味しいのだね。

 独特のワードを創って使ったり、楽しんでる感じもあるし、価値観を研いだ上での自分たちの興味にこだわって諦めない
 こういうことこそ、本来の研究なのではないだろうか。

 俺たち、本当に自然科学の研究に関わる者は、その点をきちんと抑えなければいけないのだと俺は想う。
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蜘蛛の糸

2014-04-17 22:46:38 | Weblog
 これが私からあなたに投げる最後のチャンス。
 情状酌量の余地がない亡者には決して投げない繊細な蜘蛛の糸。これを私が定義する正しいカタチで掴めば、あなたは地上に戻ってくることができる。

 犍陀多と同様、地獄内部でのくだらない権力闘争に一生懸命になれば、この糸はあっという間に切れてしまう。何が大切なのかをよく心に刻みながら、自分の利益と周囲の未来を冷静に考えて欲しい。
 元来ヒトはヒトを殺すようにプログラムされている。これは、自分が生き延びるために仕方のないことだ。しかし同時に、ヒトはヒトを助けるようにもプログラムされている。これは残念ながら、特別なphaseでしか発現されなくて、こういうフィードバック機構についても、自分が生き延びるため、なのかもしれない。

 浮世の栄華など、よどみに浮かぶ泡沫に過ぎない。
 その上で、本質的に重要なものは何か、と最後のチャンスに賭けて欲しい。なぜかreproducibleなことに絶対的な信頼を置いている自然科学を基盤とする社会の中で、カワラナイホンモノをあなたなりに見つけ出して欲しい。

 そうなれば、私が与えた蜘蛛の糸を辿ることができる。

 実のところ、私はあまり期待してはいない。あなたはきっと、背を限界まで伸ばして、こんな糸は邪魔だと言わんばかりに、この糸を自ら切ってしまうだろう。
 けれども万にひとつ、あなたがあなた自身の純粋な気持ちに素直になって、助けるべき人を助け、自分の利益と周囲の未来を冷静に考えられたなら、この糸を掴んで上っていくことになり、そこに俺が存在していなくとも、後世に語り継がれる伝説となるだろう。

 だから、、糸を垂らした、という事実こそが大事なのだ。
 おそらく遥か彼方の大地において、俺が彼に託した細い細い糸の行方を私が知ることになるのだろう。
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好きに生きる

2014-04-16 01:45:57 | Weblog
 短いわりにはあまりにもチャンスが少ない人生の中で、チャンスを見て観ぬふりをしててはいけない。
 チャンスは二度と来ないし、その瞬間に立ちあがれるかどうかだ。

 50年くらい経ったときから今をみたときに、20代の頃のあの選択は間違っていなかった、チャレンジして良かったよね、って思えるように頑張りたい。だから、この瞬間しかこれができない、ということを他人に迷惑がかからない範囲で率先してやるべきだし、そこに対して優先順位を冷静に判断していきたい。

 なかなか、後悔しないように生きる、ってのは、難しいもんだね。

 確かに、どのような劣悪な環境であっても、そのなかの物理法則に従って、自らの能力だけで目標を達成させようとするのはコスパーが悪い。しかしだからといって、その環境の内部を変えようとしたり、別の場所に移るということが、容易であるわけがないし、それにはそれで能力が必要なんだ。
 だから、もし信頼できるなら、手を伸ばして、出来る限りの助けを求めなくちゃ。まっさらな状態から自分一人で自己実現するのは無謀に近いし、能力以上に存在している余分なプライドを捨てて、協力を求める必要性が有る。それをすることだって、もう立派に主体性があるわけで、能力があるということなのだ。

 これが、(少なくともみんなに公開できる)たかはしけいの本当の意見。

 だから俺は、自分の3倍も年齢が上の人にだって全力でオフェンスするし、高校生相手でも本気で自分の思考力を披露するし、後輩にも実験装置の使い方を素直に訊くし、飛行機に乗れば機内食は絶対に食べず席を勝手に離れてリラックスゾーンに率先して位置取るし、どんな場面でもそのときの自分が好きな格好をしてイスに座る(後半どうでもいい笑)。

 権威や"あり気"への反抗をしながらも、必要以上に他人を傷つけたり、他人に迷惑をかけたりせず、自分の行動や課せられている責任を自覚しながらも、自分が好きなように生きていく。
 いま、とりあえず、それしか術がないように思えるのです。
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シッタ力ダイナミクス

2014-04-15 01:13:31 | Weblog
 自分の頭で考えず「答えをすぐ見る」ことに慣れてしまうとシッタカ(知ったかぶり)が増える。そして、よく知りもしないのに…いや、自らがその思考まで達していないのにも拘らず、それについてまるで自身が考究し尽したかのように振る舞うことは、とてもみっともない。
 しかし、すぐに答えを見てそれなりの解答をシッタカして話せる方が、少なくともこの日本では評価される。みっともない経営者、みっともない研究者しか存在していないのも、また事実なのだ。

 ここでいう「答えをすぐ見る」というのは、大きいことから小さいことまで様々だ。
 例えば最初は、高校数学の問題で後ろの解答解説ページをすぐに見て、それを丸写ししていたことから始まるのかもしれない。それがだんだん上司や指導教員に答えを求めるようになったり、ちょっと自分で考えればわかることでも関連論文をすぐに検索して調べて答えを見つけてしまったり、欧米やもっと上の権威に答えを求めてしまったりして、「答えをすぐ見る」ということが大きくなる。
 小さいことから大きくなるわけだから、ここに自分の成長を感じてしまう憐れな人が沢山いるわけだ。

 「答えをすぐ見る」ということは、その物理的事象から何も得られないと言うことだ。
 学問の道を歩んでいきたいのなら、「答えをすぐ見る」ことや読んだ本の絶対量をとにかく増やすということが素晴らしいという価値観から、一端離れなければならないと思う。
 っで、今これを読んでる読者の中に、若造が偉そうに学問をシッタカしてんじゃねーよ、ってヤツがいると思うが、ハナっから経験や知識でしか他人を評価できない人を俺はハナっから軽蔑してるので、別に結構です(笑)。あなたよりも少ない経験と、そんな切り返ししかできないあなたよりも遥かに高い論理性と思考力を用いて俺は主張しているわけでして、そういうことを言った時点で『上記をちゃんと読んだ?』ってな感じで、的外れもいいとこなんだよなぁ。

 とにかく、本質的には、しっかりと自分が心から納得できるまで考究し尽くす、ってことが大事だと思うんだけどなぁ。思考を停止させない!、ってのが、一番楽しいし、少なくとも学業上の能力においては、大変徳が高い価値観であると俺は思う。

 こういう観点に立ってみると、推薦入試タイプと東大生って、(あくまで統計的に)ものすごく類似している。
 1万年後くらいに、今の日本人の脳波を今とはまったく異なる方法で測定するような研究者がいるとしたら、平均的な描像としてこの2つのタイプの脳波は何らかの共通項を持つことを算出するんじゃないかなぁ、なんて。

 よーするに、言われたこと綿密にやってました(ドヤっ!)、タイプ。
 っで、こういう人種が唯一表にだせる結果ってのは、沢山やってたよ、こんなに正確に厳密にやってたよ、ってことだけなので、本を何百冊もたくさん読んだとか、データ数がめちゃくちゃあるとか、そういったシッタカをすることになってしまう。
 っで、(少なくとも)日本はこんな性質の人ばかりで、しかもそのループが3世代くらいいっちゃってるから、こういう薄っぺらさのみが評価対象になるんだよね。まぁ、どうでもいいんだけどさ。

 だって…、、どのような劣悪な環境でも自らの能力だけで目標を達成させようなんて、短い人生じゃコスパーが悪すぎるし、そんなCグループの悪習がそもそもダメなのだ。もっとノリよく、手っ取り早く、みんなで助け合いながら、スムースに、しかも本質的には楽しく、生きて行こうぜ。
 今の圧倒的にダメな環境では無理だと感じたなら、その環境を変えるか、そこから出ていけばいいだけのこと。

 そんなの勇気にも値しない、俺にとっては外部刺激に対するただの「反応」だ。
 …うー、これはちょっとシッタカやも?笑
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あなたらしさで

2014-04-14 02:50:30 | Weblog
 もはやどのようにあなたと接したらイイのか、私にはわからなくなってしまった。手を差し伸べたい気持ちと公平性の観点から決してそれをしてはいけないと制禦する思考が交錯する。

 あなたと出会えた瞬間、私とは異なる独自のあなたらしさを追究して欲しいと切に願った。それは一時期には達成されていたように想えるし、あの頃私は寂しくも今よりは満足していた。
 しかし、自分らしさを追究せよ、とは至極当然なようでなかなか難解なことであるようだ。私には自分らしくという観点で生きて来れなかったからわからない部分も大きいが、右も左もわからない状態から集団のなかでそれらを学び取り、さらにそのなかで活躍するのは確かに難しそうなことだ。そういったところをお互いに補完し合えたらイイのかもしれないが、私たちは2人とも、そのような価値観には巡りあわなかったのだから致し方ない。

 大きな転換期を迎え、私が提示した道を徐々に選んでくれるあなたを危うくも嬉しく想った。もしかしたら、ここで律していれば、今は変わったのかもしれない。
 あまりにも近すぎる道をお互いに進めていくことは、自分の意に反している、などとまさか言えるはずもない。結局のところ、私たちがそのように仕向けていることに気がつくまでに、かなり時間がかかってしまった。

 精緻な言語を追究することが日常であるあまり、私がまったく知らないことについて教示することは主義に反するゆえ、沈黙しながら見守ることを選んだが、それは信頼関係の崩壊を疑懼させてしまうだけだったのだ。そして、私が選ぶ道を選ぶということが、その憂惧から逃れる唯一の手段になってしまっていたのだ。その責任は、私にある。

 人生において、簡素すぎる選択をすれば、必ず罰を受ける。この世は、生まれた瞬間に環境下が決定されてしまう不平等さを緩和するように、選択によって人生が著しく変わるように構築されている。
 長すぎる罰を解決する手段を、すぐ隣を走行しているために思いつけない私は、ただ教訓としてのフレーズが得られるばかり。知をいかに探求しても、一番大切なあなたに何も施せないなら、意味が無い。そんなことすら言えない信頼関係は、私の不徳の致すところだ。

 しかしどうか誤解しないで欲しい。
 私は、決してあなたを不幸にするためではなく、常にあなたにとってより良くなるように、心がけてきたのだということを。知らないと言うことは、とても恐ろしい。
 掲示板の定義が変わり、フォルダや押しボタンが実空間上に存在しなくなった現代社会、世間から置いていかれるのは時間の問題。

 すべてを見抜かれているように、「そんなことも知らないの?」と訴える瞳が怖くて愛想笑いする。

 確かに、そういう意味では、あなたのほうが何かの変化を生み出せる。
 それは自分らしさで解決されうるのだから元通り。

 そう、この道に限らず、一人前の大人になるためには、どのような劣悪な環境でも自らの能力で目標を達成できることが必須なのだから。
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2014-04-13 04:30:48 | Weblog
 自分の実力以上の言葉を得てしまうことは、イコール誰かを傷つけることなのかもしれない。

 言葉を得る瞬間はほぼ誰にも迷惑をかけないし、自分を律するためにも、この言葉に相応しい能力を得ようと頑張る。でもしばらくすると、この言葉に無能なくせに執着してしまい、この言葉を持ち続けるために、さらにズルをしたり、誰かを蹴落とすことができてしまうようになる。

 それは、結局のところ、言葉を得られなかったこと以上に不幸なことだと思う。

 例えば、他大から東大の大学院に入る場合、学部入試よりも遥かに競争率の低い状況で入学することになる。だとしたら、外部からやってきた東大院生が学部入試を突破できないのであれば、自分の実力以上の言葉を手にすることになるのだ。
 そこに、院試で専門分野のなかでは認められたんだからイイんだ、とか、大学院は研究だから関係ない、とか、ずっと下手に出て意見を言わなけりゃイイんだ、とか、そういう風に自分にとって都合のいいようにイイワケをして自分を納得させようとすれば、必ず矛盾が生じる。そして、誰かを傷つけることにもなりかねない。

 自分の内面に矛盾を抱えないで生きていくためには、能力を上げることが唯一解。

 そりゃ、東大の学部入試を受ければいつでもどこかしらには受かれ、とはさすがに言わないけれど(俺も無理だし(笑))、少なくとも3ヶ月間本気で大学受験勉強だけすればどこかの類には受かる、というくらいの自信とその下地の能力くらいは、すべての東大関係者に持っていて欲しいものだよね。
 理系でもセンター試験5教科7科目、社会科もきちんとできて、二次試験で理科も2科目、国語もちゃんと加味して、合格するだけの自信すらないくせに東大の肩書きを持つならば、何かを上から権威で押し付けるようになるし、矛盾している内面に苦しむことになるし、誰かを不条理に殺すことに繋がってしまう。教員なら、なおさらね。

 救いは明確に存在している。何かの能力をつけたり、自分の気持ちにまっすぐになることに、「遅い」などということは絶対にありえない。
 今からでも、簿記を勉強し始めても良いし、新しいスポーツを始めても良いし、誰かを助けることを始めてもイイし、漢文の句法を覚えるんでもイイ。今からやるのが、今できるなかでは、一番早いのだ!

 言葉を不当に得ている自覚があるならば、そこに対して正当派な方法で能力を上げる必要があるし、気持ちを早急に粛清していかなきゃね。じゃなきゃ苦しくない?
 とにかく矛盾がなくなるように、一日一日のなかで、ほんの少し何かだけでも進捗したなら、着実に矛盾はなくなっていき、日々が煌めいていくのだと信じている。
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若いはJustice

2014-04-12 01:12:38 | Weblog
 自分の実力で無矛盾に成功するためには、沢山失敗することが必須だと思う。

 一回も失敗しないで要領よくやって成功するなんて絶対に不可能だ。権威に従い無難に立ち振る舞い右往左往していては、自分できちんと能力を向上させる時間が確保できない。
 忠義の心に一生懸命になって演技が上手くなって、いつか勝負をかけるべきときに一歩踏み出そうなんてプランニングでは、勝負に慣れていないので勝ち方がわからないし、プライドだけが先行して不正や他人を蹴落としたくなりやすいし、何よりもどの瞬間も勝負であると思えずいつまでも勝負できない。

 失敗するためには、負けるためには、全力をかけて勝負する必要がある。勝負してもいないのに負けられないのだよ。
 負けることは今しかできない。負けても許されるのは20代、たぶんリアルなところ34歳までだから、それまではきちんと勝負をかけていこうと思う。それで上手く行かなくても、どうせ20代。

 10代は、麻薬と殺人と自殺以外、何をしても許される。
 20代は、社会に出たばかりだから仕方ないなぁって、少なくとも勝負をかけて負けることは許される。

 「若いはJustice」

 自らの人生に矛盾を抱えている苦しそうな30代40代は周りを見渡せば沢山いる。自分にイイワケばかりして、それが社会だから、それが大人だから、それがルールだから、と若いうちに勝負をかけなかったがゆえに、自らの経験年数でしか自らの存在意義を守れない儚く哀れな存在に、俺らはなりたくない。

 失敗しても若さをイイワケにできる俺らが勝負しないなら、それはもはや生きていない。
 何かの大切な感情を犠牲にしたり、年功序列や忠誠心でついただけの自分の拙い権威にしか頼れないなんて、死んでいるのと同値。そんな30代以降を迎えたくないし、自らの能力と心で矛盾なく日々生きていたいから、勝負をすることを諦めない。
 今輝いている30代以降の人をよく観察してみると、こういう心得がすごくしっかり宿っているように感じる。

 キラキラした30代以降にするためにも、失敗を恐れずにきちんと勝負することを、いつも忘れないでいたいよね。
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大学行った連中なんて

2014-04-09 03:05:00 | Weblog
 ―大学行った連中なんてさ、、あいつら、ただ遊んでるだけだよ

 いつだったか彼らは確かにそう言っていた。まだ中高生だった俺らは、ずっと先に降りかかるであろう道しるべに、無頓着でいた。
 そして、その瞬間が近づくにつれ、俺は彼らとはまったく異なる道に進むことになってしまうことを確信していった。

 彼らは常に優しかった。俺らがくだらないことで長い間喧嘩していてもその仲を取り持ってくれたり、慣れない高校生活に疲れていた俺に話のネタに本を貸してくれたこともあったっけ。
 何よりも彼らは正当な居場所が少ない中高生であった俺らに、居場所を与えてくれていたのだ。時にくだらない話をして、くだらないゲームをして、そのなかから現存のABCグループ理論も構築されていった。Aグループ(ノリがイイ連中)である彼ら彼女らが、なぜまだ高校生である俺らに付き合ってくれていたのか、当時は何もわからなかった。

 そんな彼らも一人、また一人と正規雇用されていき、それっきり会うことがなくなる人がでてきた。
 「まぁ1週間で辞めて、来週にはまたここにいるかもしれないけどね。どうなるかなんてわかんない。でも、一番上の上司も30代らしいし、上手く行ったらめっけもんだなって思ってる」
 と言って、いつものように別れて、それっきり。

 俺が大学受験に失敗した時も、曲がりなりにも切り抜けられた、影の功労者は彼らだ。
 そして2度目の大学受験。俺が大学に受かったと報告した2週間後、最後の1人も忽然と姿を消し、俺は居場所の一つを失った。
 残ったグリーンの支柱を前に、最後にもう一度何かを語りあえたら、と心からそう思った。

 勉学は必要か?

 最後のその言い合いは、お互いのレゾンデートルをかけた想像を絶するほどの死闘になったことは、言うまでも無い。
 そもそも、実を伴った論理で俺に勝てるヤツはそうそういない。たかが浪人生とはいえ俺で、まして相手は年上とはいえ無気力なフリーター。俺が負けるはずが無かった。
 論理が高い者には許容するか否かの選択肢が常に与えられている。この絶対的な物理法則の前で、カネや権威や年功序列の音色を奏でることは虚しい。だから、俺が許すか許さないか、それだけであり、俺は人によってその境界線を変えたりはしないので、結果的に常に相手が選ぶことになる。

 気まずさを新しい単位であらわすとしたら100Pzを超えていた。
 それでも、合格した事実を伝えたとき、おめでとう、と声をかけてくれた。その後、彼らの誰1人とも、言葉を交わしていない。

 彼らがいつか確かに言った言葉
 ―大学行った連中なんてさ、、あいつら、ただ遊んでるだけだよ
 最近、この言葉が、ふと耳をよぎる。

 『それは同じじゃないっすか?』
 ―そうかもしれないけどさ。でもそれで偉そうな顔してるとムカつくじゃん?
 『ただ遊んでる、っていうか、もっと酷いかもしれないですよ。あなた方の言葉を否定するためにも、なるべく上へと、最高峰の学校に入ってみましたが、上を見れば見るほど、学問に対しての羨望は絶望へと変わっていきます』
 ―じゃぁ、俺のが頭良くない?(笑)実行しなくても、それに気がついていたんだから
 『スタンドアローンを強要する無能なCグループ(ノリが悪い連中)が創る縦社会に負けた、かつてのAグループの若者ごときが偉そうなこと言わないでくださいよ』
 ―昔っから高橋君が言ってること、意味わかんなーい笑
 『よーするに、大学は、みんなで楽しくただ遊ぶところだ、ってことです。ずっと遊んでるんだから、本当に好きだったら、20連勤だって100連勤だって、可能なはず。ただそれだけなのに、大学にいる連中は威厳を保とうとして、大学生の肩書きを得てるにも拘らず必修の授業すらサボってフリーターをしていたり、薄っぺらい社会体験を就活で話したりそれを無能な人事が求めたり、既存の分野を大義名分にした無意味な積み木行為を研究だと言ったり、論理的に無駄な作業を数多くしているだけで実験と呼んだり、自分にとって都合のいい机上の空論を示しただけで理論化などと嘯く。誰と遊ぼうとしても楽しくないのが現状なんですよ』
 ―私にはよくわかんないけど、、そんなの、どこの世界でも、同じだよ

 大学だけは、学問だけは、研究だけは、、そうじゃいけないんです!!っときっと言葉に出てこないだろう。

 大学院に入ってから、街で偶然、一度だけ見かけたことがある。目があった気がしたけど、手に持っていた専門書が邪魔して、声をかけられなかった。
 でも、、彼らが5年間も居場所を与え続けてくれたことを、俺は決して忘れない。
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All things come to those who wait

2014-04-07 03:28:55 | Weblog
 ひとつのことにきちんと集中すれば、必ず素晴らしい絵が観えてくる。
 せっかく非凡な力があっても、余計なことにとらわれて絶対的な基準を見失っては効率も悪いし、正しい結果も観えてはこない。

 だから、なるべく早いうちに自分が打ち込みたいことを正しく決めて、それだけを行い続けていたなら、退屈な作業も乗り越えられるのだと俺は思う。
 人はそもそも絶対的な価値観を求める生き物。そこに、どこかのルールではこうだし、この世界ではこうだし、あの本ではこうやって言っている、などと相対化していってしまうことは、必ずしも幸せなことではない。だとしたら、決めたことから一歩も外に出ず、しかし周囲の景色を見ながら自分の位置を確認し、求められていることをきちんとこなす。

 そういうことを、少なくとも若いうちには大切にしたほうがいいんじゃないだろうか。その後、もっと時間が経ったときに、自らの景色で観えていたことからやりたいことをやったら一番成功しやすいのだと思う。
 あのまま研究だけに打ち込んでくれていれば、もっとすごい結果が一緒に観れたのかもしれないのに、どんどん違うところに価値観を広げていく様を、どうしても容認することはできない。

 そんなことを彼に言えば、おそらく下手な演技で笑いながら『そんなんじゃ思いきりCグループじゃないですかぁ笑。まさか、そんな考え方が徳高き行為なわけないですよねぇ?』と軽くはぐらかされてしまうのだろう。

 核心はそこではない。
 バレているのか、いないのか、その2点だけなのだ。

 だが、それももうどうでもいいことかもしれない。新たな風が吹き、そのおかげで成り立っている現状に目を閉じて考えてみれば、何をすべきなのか、いや何を待つべきなのか、答えは明確だ。

 果報は寝て待て、とはよく言ったものだと思う。
 動くべきは俺ではなく主体性の発現に敬意を表すべきであり、だからこそ聞き分けの悪い彼ともここまでは共有してこれたのだ。
 だから、それこそが教育なのだと考えている。
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東京ディズニーランドで一番カッコイイキャストは誰か?

2014-04-06 06:15:39 | ディズニー


 俺はディズニーが大好きだ。
 マジでディズニーが好きなので、ディズニー好きの私ってかわいいでしょ?という男への下心でディズニーが好きだと言ってる、スプラッシュマウンテンのストーリーすらまともに言えない女を観ると、怒りに震える。

 まあでも確かに、男でディズニーが好き、というのは手放しにカッコイイと言えるもんでもない。どうしたら、ディズニー好きのカッコイイ男になれるのか。
 簡単な話だぜ。東京ディズニーランドのキャストで、一番カッコイイ人を参考にしたらイイのだ。

 そこで今日は、東京ディズニーランドで一番カッコイイキャストはいったい誰なのか?を考察してみよう。

 まず順当なところから。アドベンチャーランドにある「ジャングルクルーズ」のお兄さんお姉さんは普通にカッコイイだろ。熱帯のジャングルを(設定上)3週間もゲストをひきつれて舵を握るその姿はカッコイイ。
 しかも冗談が上手い。船が出てすぐに「早くも2週間が経ちましたー」と言いながら正面を観て舵を廻し、「大丈夫です、わが社ジャングルクルーズの生存率は10%を誇っていますから」とゲストに勇気を与え笑顔を忘れない。
 でもな、ちょっと誤魔化し感があるし、冷めてる感じがカッコイイと言い切れない部分がある。

 だとしたら、やっぱり縁の下の力持ち系を探ってみるか?

 あまり知られていないんだけど、ゲート入って正面、ワールドバザールの左側2つ目の建物(お土産屋さん)の2階には「ディズニーギャラリー」というショップ&展示&アトラクションがあって、まぁサンフランシスコにあるウォルトディズニーファミリー博物館(The Walt Disney Family Museum)のミニ版みたいな感じです。
 パラパラ漫画とかあって面白いんですが、なんせわかりにくい場所、ここ入ってイイの?という場所にあるため、人がめちゃくちゃ少ないんです。だから「ディズニーギャラリー」にいるキャストは、ものすごく辛抱強いだろうなぁっと笑。だって、すぐ下の1階ではめちゃくちゃ人がいて、あの沢山あるレジで順番待ちをしているんですよ。なのに、自分たちのところには全然人が来ない。これはかなりの忍耐が無いと無理です。
 俺がここのキャストだったら、どーせ我慢できませんよ。階段のところに立って、客引きしてしまいます。でもそんなことしたら人が沢山来ちゃってギャラリーの感じじゃなくなっちゃいますし、うーん、俺には無い部分やね。

 あと縁の下の力持ち系で言うと、、あっ。

 東京ディズニーランド、東京ディズニーシーって、一番大切なコンセプトにしているのは「安全性」です。転んだり、何かにぶつけてケガをすることは子供にとって一大事ですし、せっかくディズニーに来てるのに、イヤな想い出にしては絶対にいけません。
 そこで東京ディズニーリゾートでは、極力、そういうことになってしまいそうな危険因子を取り除いています。だから床も結構ふかふかしてるでしょ?

 で、一番厄介なのはササクレです。ササクレができないように東京ディズニーリゾートのすべての場所でトゲが無いように閉園後開演前に必ず毎回チェックしているはずです。姿すら絶対に見せない、しかし絶対にいるであろう、トゲチェッカーのキャストは、マジでカッコイイ。
 東京ディズニーリゾートのすべての場所とはマジすべての場所です。ビックサンダーマウンテンの順番待ちのとこの岩とか、トムソーヤ島の丸太やインディアンのテントとか、ロジャーラビットが出ていった跡が縁どられてるドアのとことか。もう全部です。これをすべてチェックして、子供をササクレから影で守っているなんて、めちゃくちゃカッコイイ。

 でもね、やっぱり地味だよね。ある程度表舞台で、しかも男から見ても女から見てもとしてカッコイイのって、どの類いのキャストだろう?

 全体的に総括するとですね、僕は、クリッターカントリーにある「ビーバーブラザーズのカヌー探検」で、カヌーの一番後ろで一番一生懸命漕いでくれているキャストだと思います。つーか、カヌーのキャストは、ホントにカッコイイ!
 ゲストが漕いでるのなんて、ぶっちゃけ大した意味ないんですよ。「水面に対してまっすぐ垂直に入れてこいでくださいねー。はい、いっちにっ、いっちにっ」その後ろで黙々とカヌーを前に進めるパワーキーマン。俺だけで十分こげるんだけどなぁ、と思いながらも、そんなことは(当たり前だけど)一言も言わない。
 ディズニー×体育会系!これはヤバい。マジでカッコイイ。カヌーで女性のキャストは俺は観たことないけど、たぶんいたら見惚れると思う笑

 え?ディズニー好きな体育会系くらいじゃダメ?いやいや、カヌーのキャストはインテリでもあります。
 ウェスタンランドにある、あの川は、他に2つのアトラクションが同時進行しています。蒸気船マークトウェイン号、トムソーヤ島に行くいかだ、そしてカヌーです。当然ですがこの3つの乗り物は絶対にぶつかってはいけませんから、タイミングが超重要です。それを考えてカヌーを動かすだけでも厄介なはずです。

 ということは、つまり、カヌーのキャストは、3体問題を確実に解きながら、ゲストに笑顔でディズニーサービスをして、自らの筋肉で黙々とカヌーを漕いでいるのです。もう、めちゃくちゃカッコイイだろ。

 だから、俺も明日からカヌーを、、、無理っす。(笑)

 まぁ俺は、ディズニーのIT系、公式のリアルタイム待ち時間を逐一更新しているキャストを目指すかな。このキャストも表舞台じゃないだけでかなりカッコイイ。
 ホーンテッドマンションをわざわざ「13分待ち」にしたりするあたり、なかなかのセンスの持ち主だしね。

 ちなみに、東京ディズニーシーだったら、ダントツでクラッシュが一番カッコイイ(クラッシュへの秀逸な質問 -東京ディズニーシー タートル・トークについて-)。どんなオフェンス(質問)に対しても、誰も傷つけずに絶対にディフェンス(回答)できるクラッシュは、研究者の卵として尊敬に値します。
 俺が書いた上の記事クラッシュの傾向と対策の記事は、「タートルトーク」でGoogleで検索してもらうと、なんと2件目に出てきます。Wikipediaの次、公式ページを超えてます笑。これはたぶんオリエンタルランドのスタッフにすでに目をつけられていますので、もしかしたらこの傾向と対策では役に立たないかもしれません。なので近日中に、タートルトークについての対策の続編を書きます。

 おいディフェンスの神、クラッシュ!お前これを観てるか?俺はさらなる対抗策を思いついた!誰も傷つけず、みんなの役に立ち、楽しくなるような質問をして、お前に勝つ方法を!
 覚悟しとけよ笑

 まぁ、誰がカッコイイかなんて、俺ごときが言うのはおこがましい。ディズニーリゾートのすべてのキャストを心から尊敬しています。
 オリエンタルランドのみなさん、今日も頑張ってみんなに夢を届けてくださいね!

 っていうか、、ディズニー行きてぇなぁ。笑

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 クラッシュへの秀逸な質問 -東京ディズニーシー タートル・トークについて-

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