「精緻の神」
常にオフェンスされるような環境にい続けると、どんどんディフェンス技術が上がる。それは研究者としては必要なことだし、謹厳実直な大人になるためには大切なことだと思う。
あらゆる物事に対して、あらゆる角度からのオフェンスを見据え、どんどん自らの論理性のみで精緻にしていく。これこそが大切なことで、独り立ちした論理性を持った個人にならねば、まともに大人と対等にディスカッションすることなんてできない。
だからと言って私は、孤独になれ、と言ってるわけではない。むしろ逆であり、色んな人とたくさん喋っていくことによって自らの論理が高まっていくのだと思う。
もちろん、相手も同じ価値観を持っている人に限ってしまうという点は否めないが。
ここまで自分の論理を高めることに一生懸命になるあまり、もしかしたらあらゆるタイプの人と話すことが難儀になってしまっているのかもしれない。
いやいやそんなことはないさ、と心に言い聞かせながらも、時間ばかりかかってしまい何も意見がでないことが多くなってきた最近を危うく感じている。
しかし、この世界で生き残り続けるためには、精緻さの向上を欠如させてはいけないのだ。
「心の難聴」
常にオフェンスされるような環境にい続けると、それに関わっている時間はくだらないから、無視することが日常になっていく。日常生活でも公の場でも、くだらないことは聴かないぞという空気感を早々に出し、独特の"間"さえ与えてしまえば、相手はそれ以上何か文句を言ってくることは少なくなってくる。こういう余裕こそが、研究者として必要なことであるし、年齢相応の権威を得るためには大切なことだと思う。
あらゆる物事に対して、あらゆる角度からの理解を世間や学生は求めてくる。こういうことすべてに実際は対応できないし、そんな時間は無い。だからこそ、自分の耳に入ってくるべき情報をコントロールすることが必須なのだ。
だからと言って私は、他人の意見を聞くな、と言ってるわけではない。むしろ意見をきちんと聞いたうえで、くだらないことに関しては、私にはわからない、と主張しておけば良いということだけである。
むろん、私にある程度の論理性が担保されているということが前提になるわけだが。
ここまで自らの時間を大切にするあまり、もしかしたら誰かと話すことの絶対的な時間が足りていないのかもしれない。
いやいやそんなことはないさ、と心に言い聞かせながらも、誰も話しかけてすらこなくなっている現状に危うさを感じている。
しかし、この世界で生き残り続けるためには、スタンドアローンのスタイルを崩してはいけないのだ。
「鉄壁の美辞麗句」
常にオフェンスされるような環境にい続けると、あらゆる苦言に対しての柔軟な対応が身体に沁み込んでいく。どんな場面でも冷静な大人の対応が上手になることは、ある種の愚直さを要求するこの社会では必須であるし、少なくとも研究潮流のなかにいると自然とそうなっていくのだ。
あらゆる物事に対して、あらゆる角度からの理解を世間や学生は求めてくる。こういうことにすべて柔軟に対応できてこそ研究者であるし、そこに不勉強が有った場合にも何らかの適確さを帯びた指針を与えることができなくてはいけない。
だからと言って私は、それっぽいことを単に言えば良い、とは思っていない。むしろ吟味をし尽したうえで、心を介さずに頭脳だけを用いて語れば良いのだと思う。
それは社会人として、ある一定の距離を保つことが必須である、ということになってしまうが。
これまで感情を表に出さないあまり、あの頃のようにきちんとした信頼関係を結びにくくなってしまっている今に危うさを感じる。
しかし、この世界で生き残り続けるためには、距離を保ちながら相手と付き合っていくことこそが大事なのだ。
「騎士」
常にオフェンスされるような環境にい続けると、多くの人が薄暗闇に潜んで無理をしていることに気がつく。厳しいツッコミを絶対に受けたくないからイイワケばかりしてる連中、冷たい空気でバリアを張って有能風味を演じているヤツら、薄っぺらい言葉ばかり使いたがる愚直さしか能のない集団、うんざりだ。
あらゆる物事に対して、あらゆる角度から攻めてくるように観える多くの要求は、本質的には共通であり、イコール大多数の人間の本音は共通であるのだ。だから、私は率先してそれをぶっちゃける。このようなノリこそが、今の研究社会のシステムには求められているし、薄っぺらい社会で楽しく生きるためには必須なのだ。
だからと言って私は、礼儀知らずであればイイとは思っていない。あくまで権威への反抗であり、マナーやモラルは守るべきだ。なぜなら、マナーやモラルを守っていたにも拘らず礼儀がないと騒ぎ立ててくるようなクズが抽出できるからだ。物事をややっこしくしながら、忠義立ての要求を包み隠し、自らの実力を誇示しようとするバカに、短い人生を費やすのは勿体無い。
それは、薄暗い社会を明るくするためには、少しの犠牲は仕方ない、ということを否定できない論理なのだが。
これまでぶっちゃけることを恐れないフリをしまくったせいで、私が強い人間であるという勘違いが風潮している。本当の意味での私の仲間はいったいどこにいるんやろ。
しかし、私がこのまま研究者として生き残り続けるためにも、みんなが実は思ってしまっていることを率先して口に出すことは大切だ。他に武器もあまりないしな。
そんなこと以上に、この世界を楽しくするためには、本音で語るしかないのだと私は思う。
常にオフェンスされるような環境にい続けると、どんどんディフェンス技術が上がる。それは研究者としては必要なことだし、謹厳実直な大人になるためには大切なことだと思う。
あらゆる物事に対して、あらゆる角度からのオフェンスを見据え、どんどん自らの論理性のみで精緻にしていく。これこそが大切なことで、独り立ちした論理性を持った個人にならねば、まともに大人と対等にディスカッションすることなんてできない。
だからと言って私は、孤独になれ、と言ってるわけではない。むしろ逆であり、色んな人とたくさん喋っていくことによって自らの論理が高まっていくのだと思う。
もちろん、相手も同じ価値観を持っている人に限ってしまうという点は否めないが。
ここまで自分の論理を高めることに一生懸命になるあまり、もしかしたらあらゆるタイプの人と話すことが難儀になってしまっているのかもしれない。
いやいやそんなことはないさ、と心に言い聞かせながらも、時間ばかりかかってしまい何も意見がでないことが多くなってきた最近を危うく感じている。
しかし、この世界で生き残り続けるためには、精緻さの向上を欠如させてはいけないのだ。
「心の難聴」
常にオフェンスされるような環境にい続けると、それに関わっている時間はくだらないから、無視することが日常になっていく。日常生活でも公の場でも、くだらないことは聴かないぞという空気感を早々に出し、独特の"間"さえ与えてしまえば、相手はそれ以上何か文句を言ってくることは少なくなってくる。こういう余裕こそが、研究者として必要なことであるし、年齢相応の権威を得るためには大切なことだと思う。
あらゆる物事に対して、あらゆる角度からの理解を世間や学生は求めてくる。こういうことすべてに実際は対応できないし、そんな時間は無い。だからこそ、自分の耳に入ってくるべき情報をコントロールすることが必須なのだ。
だからと言って私は、他人の意見を聞くな、と言ってるわけではない。むしろ意見をきちんと聞いたうえで、くだらないことに関しては、私にはわからない、と主張しておけば良いということだけである。
むろん、私にある程度の論理性が担保されているということが前提になるわけだが。
ここまで自らの時間を大切にするあまり、もしかしたら誰かと話すことの絶対的な時間が足りていないのかもしれない。
いやいやそんなことはないさ、と心に言い聞かせながらも、誰も話しかけてすらこなくなっている現状に危うさを感じている。
しかし、この世界で生き残り続けるためには、スタンドアローンのスタイルを崩してはいけないのだ。
「鉄壁の美辞麗句」
常にオフェンスされるような環境にい続けると、あらゆる苦言に対しての柔軟な対応が身体に沁み込んでいく。どんな場面でも冷静な大人の対応が上手になることは、ある種の愚直さを要求するこの社会では必須であるし、少なくとも研究潮流のなかにいると自然とそうなっていくのだ。
あらゆる物事に対して、あらゆる角度からの理解を世間や学生は求めてくる。こういうことにすべて柔軟に対応できてこそ研究者であるし、そこに不勉強が有った場合にも何らかの適確さを帯びた指針を与えることができなくてはいけない。
だからと言って私は、それっぽいことを単に言えば良い、とは思っていない。むしろ吟味をし尽したうえで、心を介さずに頭脳だけを用いて語れば良いのだと思う。
それは社会人として、ある一定の距離を保つことが必須である、ということになってしまうが。
これまで感情を表に出さないあまり、あの頃のようにきちんとした信頼関係を結びにくくなってしまっている今に危うさを感じる。
しかし、この世界で生き残り続けるためには、距離を保ちながら相手と付き合っていくことこそが大事なのだ。
「騎士」
常にオフェンスされるような環境にい続けると、多くの人が薄暗闇に潜んで無理をしていることに気がつく。厳しいツッコミを絶対に受けたくないからイイワケばかりしてる連中、冷たい空気でバリアを張って有能風味を演じているヤツら、薄っぺらい言葉ばかり使いたがる愚直さしか能のない集団、うんざりだ。
あらゆる物事に対して、あらゆる角度から攻めてくるように観える多くの要求は、本質的には共通であり、イコール大多数の人間の本音は共通であるのだ。だから、私は率先してそれをぶっちゃける。このようなノリこそが、今の研究社会のシステムには求められているし、薄っぺらい社会で楽しく生きるためには必須なのだ。
だからと言って私は、礼儀知らずであればイイとは思っていない。あくまで権威への反抗であり、マナーやモラルは守るべきだ。なぜなら、マナーやモラルを守っていたにも拘らず礼儀がないと騒ぎ立ててくるようなクズが抽出できるからだ。物事をややっこしくしながら、忠義立ての要求を包み隠し、自らの実力を誇示しようとするバカに、短い人生を費やすのは勿体無い。
それは、薄暗い社会を明るくするためには、少しの犠牲は仕方ない、ということを否定できない論理なのだが。
これまでぶっちゃけることを恐れないフリをしまくったせいで、私が強い人間であるという勘違いが風潮している。本当の意味での私の仲間はいったいどこにいるんやろ。
しかし、私がこのまま研究者として生き残り続けるためにも、みんなが実は思ってしまっていることを率先して口に出すことは大切だ。他に武器もあまりないしな。
そんなこと以上に、この世界を楽しくするためには、本音で語るしかないのだと私は思う。