たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

今でしょ

2013-03-30 00:44:44 | Weblog
 いくら狭い環境の中で目立っていても、外の世界に出る機会だと、全体へ貢献できないんじゃイヤだから、もっともっと有能さを高めていかないといけない。それと同時に、貢献するという絶対的な気持ちを持ってして、優秀じゃなきゃいけないのだ。
 「有能」はレ点をつけて「能力が有る」。「優秀」はそのまま「優しさが秀でている」。漢字って、ホントよくできているなっと思う。

 前に出るだけ、ってのは、簡単だ。とにかく主張する、てことほど簡単なことは無い。

 本当に実のある主張ってのは、まず、訊くことから始まる。しっかりと相手の話を訊いたり、内容を(表層的な理解ではなく)きちんと理解しようとした上で、抜けているところ、ダメなところを指摘し、改善できるようにすることが、ディフェンス、オフェンスに拘らず、とても大事なことなのだと思う。ここまでが有能さの話。
 っで、さらに、それだけではなく、自分の心に飲み込みながら喋ることで、その人、その集団にとって、本当に大切なモノを失わせていないか、むしろ与えることができているか、を意識しながら、自分の意見を主張しなきゃいけない。

 これらを「その時」と「後から考えたら」が、二分されるような主張を繰り返していきたいと思う。
 「その時」の気持ちを守ることもとても大切だし、「後から考えたら」あれは助かったというような主張もとても大切。人によって、どちらかに主眼をおいてしまいがちだけど、この二つはどっちも対等に大事だと思う。

 これくらいのことを、日本だけではなく、英語で、海外の人達のなかでも、きちんとできるようになることが、当面の目標かな。
 まぁもちろんベースとしては、日本人のなかで、もっともっと、きちっとできなきゃいけないんだけどね。

 そんなことを思い立ったら、今すぐに行動できるのが、俺の能力としての一番の強み。「今でしょ。」ってね。笑
 この想いを、今回でどれくらいまで達成できたか、問題点を意識できたか、まだまだ反省をしなきゃだけど、とりあえずは、自分に合格点ギリギリの点数をあげられると思う。
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理想と期待

2013-03-28 18:58:43 | Weblog
 憧れを手にしたとき、その内部において、それが幻想であったと思ったら、そこからチャレンジしていくか、また新しい憧れを抱くか、二つに一つだ。
 あくまでも評価基準は気持ちに依ることだけにしないといけないと思う。今までずっと憧れに思ってきた習慣があるから、とか、他人からとてもよく評価されている言葉だから、とか、そういうことは、あてにならない。

 人の集団化現象のすべては、「貢献」に繋がらないといけない。自分たちだけはとても楽しいけれど、その他の人たちには多大なる迷惑をかけるような、友達関係、カップル、グループ、バンド、研究室、共同研究、学校、会社などには、本質的な価値がない。より悪くするために、悪い方向へ落ち込んでいくために、一緒にいるわけではない。そんなの、どんなに素晴らしく輝かしい評価が上から下ったとしても、徳が低すぎるのだ。
 そんな集団を形成していくなら、俺は一人のほーが良い。もし、憧れている関係性や言葉を手にしたとき、他への「貢献」に結びつくなら、その環境でチャレンジするようにし、否なら、また新しい理想を描けば良いのだ。
 俺の本質的な評価基準はココにある。

 集団内でのより良きに加え、集団外でのより良きを考えられるようであるなら、今持っている言葉や能力にいっさい関係せず、優秀な人である。しかし、能力があると思われている人が多い環境へ行けば行くほど、自分勝手が正当化されるような社会形成がされているのも、事実である。
 ならば、俺が俺に要求することとしては、気持ちかつ能力向上としなければならない。そして、どんな形であれ、時間を一緒に共有してくれるすべての人に期待することは、内部と他への「貢献」したいという気持ちのみである。

 要求レベルは、とても高いかもしれない。理想が高すぎるかもしれない。
 でも、たった一度の人生、これくらいの理想を掲げたほうが楽しいと思うし、俺が選ぶ人は、この基準を今現在満たしている、優秀な人であると思う。俺が選ぶレベルも上がっているのだから大丈夫、実空間に惑わされずにきちんと見抜ける。問題は、それが維持されていくという保証を、本質的にお互いに築くこと。

 どんな言葉を得たとしても、貢献が継続しない、もしくは復活する見込みが無いなら、新たな理想を抱くほーが聡明であり、俺はある種、冷徹にこれを実行できてしまうが、俺が望んでいるのは、カワラナイデずっと続くことである、ということも知っている人は、信頼している人のなかでも、まだまだ少なかったりする。
 まぁ、こういうほうが、人間っぽいでしょ?
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絶対的な人

2013-03-26 12:49:48 | Weblog
 なんでもかんでも相対化してしまうと、絶対的なものを求める性質があるヒトとしては、怖くなる。
 アジアのAグループは欧米のBグループだ、なんて俺はよく言ってるけど(笑)、こういう相対化をしていくことは、必ずしも良いこととは限らない。

 こっちの研究室ではこういうルールだったのに、あの研究室ではそれとは真逆のルール、なんてこともよくあること。確かに勉強にはなるし、相対化についてメリットの側面ばかり取り上げられるけど、実は、ヒトは絶対的な存在を求める生き物なので、なかなかそれを超えてまでお勉強して良かったー、っと思えるまでには時間がかかるのだ。

 だからこそ、自分にとっての絶対的だとする人を選ぶときには、慎重にならないとね。
 この人を絶対的な存在とおくことを絶対視しすぎてしまい、ダメなヤツだとわかっても、最低な人間だと悟ったとしても、絶対的だから、絶対的だから、っと自分を納得させようとする姿ほど滑稽なものは無い。
 そんなときこそ相対化を使うべきなのだ。

 俺は、この人の言うことは絶対!、っていうような人を持たないと思われがちだけど、確かにいつも存在している。
 それが、所属や大義名分や立場に寄らないだけで。

 移り変わるとき、それが相対化に寄るものも確かにあるけれど、半分以上は、物理的に距離をおくことから始める。
 そう心に決めてから、すぐに態度を変化させてくると、「さすが俺の絶対的な人!」って思って戻りそうになるけど、普通は想いとどめる。一度ダメになった歯車はそう簡単にもとに戻らないことはわかっているから。

 っま、それでも何故か戻る方向にいく人、戻らせようとしている人もいるわけで、もしも戻ったなら、時間依存性無しとしてホンモノである、っとする解法もあるんだけどね。
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信じるということ

2013-03-25 02:36:38 | Weblog
 客観的にみたら自分が悪いわけじゃないのに、自分が悪いと想えたなら、それは良い信頼関係が築きつつある証拠だと思う。
 良いモノづくりをするためには、本当の信頼関係が必要だといつも言っているけど、それは、こういう部分で確認することができる。

 古典力学でも量子力学でも、一般に、二体系は一体系に帰着される。三体系は解けないけど、平衡状態の多体系は平均場近似によって一体系として解くことができる。
 人と人との関係もこれと同じような扱いをすることができる。信頼関係が深まれば深まるほど、相手と自分は一人になっていき、相手の失敗や成功を自分のことのように感じることになる。人同士については三体系も一体系として扱うことができる気がするし、一体系としての感覚を味わうほどにモノづくりが楽しくなるし、後に残る、素晴らしいモノづくりになることが多い。

 これほどの信頼関係を創りながらのモノづくりをすれば、自信になる。それが拙い結果であったとしても、一人ひとり、個人の能力を本当の意味で上げうるほどの自信を持つことができる。

 自信をつけるためには結果が必要だ。この「結果」は、自分の心に言葉を飲み込みながら行い、みんなで達成した「結果」じゃないなら、自信にはならない。自分だけが孤軍奮闘して、情熱で報われる孤独を演じて、即物的な結果を得ても、自信には繋がらない。
 でも、たった一回でも、きちんとした信頼関係を持って、モノづくりをして、それが形になっているなら、もう「結果」は要らないのだ。あとは、どんなことをするにしても、結果が出ていなくても、自信を持つことができる。

 「信」頼関係は一体系であり、自分のことのように感じるということ。そのなかで結果が出たなら、他の系に行ったときでも、自分だって思ってきたわけだから、自「信」になるってわけ。

 結果が出てから、やっと自信を持てるなんて、普通もイイとこ。バカみたい。
 結果が出る前から自信を持てるのは、絶対的な論理性を持ってして、未来に成功している自分たちを想像でき、過去と現在の信頼関係が暖かいからだ。

 信頼関係には、お互いの優しさが必要だ。自分を傷つけないためのディフェンスを考え尽しても、結果、虚偽偽りになってしまうなら、本当の論理のなかでの、相手に対する素直な気持ちを発現していったほーが、楽しいよね。

 たったそれだけのことなのに、上から言われたことを繰り返すだけの日々で、いつまでもスタートせずに搾取されるなんて、もったいない。
 みんな、半年くらい続ければ得られるモノを、私にはいきなりそれは出来ない、って投げ出しがちだけど、ほんのちょっとの変化で、自分に自信を持って、楽しく、みんなで、モノづくりができて、社会貢献ができるなら、そっちのが良いって思わない??

 お前じゃなく相手が悪い、って客観的な意見を聞きながら、俺は俺が悪かったんだって本当に想っている、っていうのは、切ないけれど、意外とイイもんだよ。
 それがたとえ幻想だとしてもね。
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宿っている普遍性

2013-03-23 00:57:44 | Weblog
 自分に自信がなければ、正当な判断を下し、自らがやっていきたい目標へ突き進むことはできない。
 自分を信じられないんだから、とにかく何をするにしても無難になってしまうだろうし、突き詰めれば、何も行動できなくなる。大きな力によって仕方なく行動しなきゃいけないことだけ行動するなんて状態になっているなら、脱却しようと努めなきゃね。

 自信とプライドは違う。
 自信があるということは、未来の自分を想像した時に、この自分のスタイルで貫けば、絶対に達成していけるという価値観を持っていること。
 それに対して、プライドがあるということは、現在の自分に対して、こうでなければならない!、っと批判的に自分を決めつけることだと思う。

 どちらもあるべきだけど、プライドがありすぎて、自信がなさすぎるようじゃダメだよね。って、自分に言ってる気がしてきましたが。笑
 きっと俺は、スタイルは確立されているんだけど、そこに、これで絶対達成していけるんだ!っという確信が得られていないんだと思う(っというところまで、俺を見抜いてくれている人は、信頼できる人)。

 ありのままをありのままに見つめること。カケヒキやわかっているフリやわからなかったフリそのものに、何ら価値は無い。
 自然現象や誰かなどの「相手」に、自分は物理学専攻だから!、Cグループだから!、などと論理を押し付けることもなく、かといって、誰かに任せっきりにして、自分は何もしないで、テキトウに拾うだけでもなく、その現象、その人に宿っている普遍性を、思考力や直観などを持ってして、どこまで見抜いていけるか?

 そして、それが実った時、残っていてくれる人、それこそがホンモノだと思っている。
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優秀な環境

2013-03-22 01:48:25 | Weblog
 俺は、誰かを選ぶとき、その評価基準となるのは、心や気持ちが圧倒的な割合を占める。
 これは、系に依らない。どのような立場でも、どのような例であっても、俺は、能力以外のところを冷淡に評価する。ちゃんと優しいか、ちゃんと信念があるか、常識的な振る舞いをできるか?、というのは、とっても大事な視点だと思っている。

 ここでいう常識的な振る舞いというのは、弱いけど大切な人を守ることを大前提としながら、自分よりも立場が上の人に対してでも、何かの役に立てるように動こうとしているか?、ということだ。大人なんだから、年上の言うことは、へーこら聞いてなきゃいけない、っというようなことを大前提にしてはいけない。むしろ逆である。
 大人というのは、先輩は後輩の役に立たなきゃいけないと想えていて、後輩は何らかの形で先輩の役に立てたら良いなと想っている、状態を言う。こういうヤツ以外の自称大人や自称社会人は、まだまだ子供だと思う。

 俺が選ぶ人、選び続けている人は、みんなこういうベースがきちんとあって、だから俺は自信を持って、みんなを紹介することができるし、よその人にこの素晴らしい人たちを知って欲しい。
 その中でも、特に俺のことをよく分かってくれている人が、俺の困っていることに対して、きちんとした指針を持ちながら、今できることを考えてくれている。俺は、ここまでしてくれる人に、いつかは役に立てるように頑張らなきゃならない義務があると思うし、それまでは安心して前に出て、任意の人に対して、思いっきり伝えていけばイイ。

 いつか、たった一人で責任を背負いながら、より良くしていくために、今は失敗しても大丈夫な環境下のなかで、思いっきり、自分の気持ちと思考を、伝えていきたいと思う。

 そういうことができる環境が幸せだし、優秀な環境下であると思っているし、この環境維持に貢献している人はめちゃくちゃ優秀だと想っている。
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この一年で得られたモノ

2013-03-21 01:15:56 | Weblog
 また季節が変わっていく。強制的に系が変化していく。
 この一年を振り返ってみると、所属している系がだいぶより良い方向に変わっていけたと思う。全員、一人ひとりがきちんと願っていたからだと思うし、今できることを行動できる環境だった。

 俺個人も、だいぶ能力が上がったはずだ。
 自然科学だと、意外にも、物理学の思考力が増えた。もちろん化学や生物学や数学など、知識としての幅を広げた一年でもあったけど、横じゃなくて縦に能力を上げた部分としては物理学。物理の分野の責任具合が増えたせいだと思う。
 あとは、グループ性に纏わる能力。企画力や行動力、楽しむための種々の手法について、幅広くなることができた。
 さらに、本当の意味で自分の意見を通す力が前よりももっとついた。理解から発言までのスピードが上がったし、適格さも向上したと思うし、それを皆に納得させることも前よりも簡単になっている。

 この一年の何よりの財産は、信頼できる年長者が俺の周りに増えたこと。
 縋りすぎてはいけないけど、とっても頼りがいがあるし、物理的に困ったらすぐに相談に乗ってくれる人が増えてくれているのは、とてもいいことだ。
 彼ら彼女らの意見をきちんと聞くことは、時間を超える上で、確実に必要になってくることだと思う。今までは、たった数人の(しかも)domesticな意見から「普通」を定義づけ、それを信用するしか術が無かったけれど、これによって、「普通」が何かが、自分で選びだせる率が高まった。

 ただ、系をより良い方向に変えるために必要なことのなかで「能力」が占める割合はとても少ないことは、よくわかっている。
 系をより良くするために必要なことは、ほんの少しの「能力」、少しの「強引さ」、何人かの「信頼している人」、そして、純粋で絶対的な沢山の「優しさ」だ。

 俺は、ほんの少ししか必要じゃないはずの「能力」が、極端に欠如していたのだと思う。
 それが圧倒的な不安として存在していた。でも、その不安を徐々に消していける方向に動けた一年だったし、実際に、いくつかの不安は消え去っている。

 もちろん、今もまだ、足りない能力、足りない要素は、沢山存在する。優しい気持ちは、やっぱり、すごくある人は、ホントにすごくある。負けないように、気持ちを磨いていかないとね。
 ここから、また始まっていく、あからさまに変化するであろう俺の周囲にとって、新生される集団にとって、その時の全力を持ってして、全員が楽しめるような環境作りをしていきたい。

 それをすることが、この能力を本当にapplyしていきたい人にとっても、確実性を生む。なんてコスパーが良い。笑
 だからって、その他の系で手を抜くわけじゃないけどね。

 だって、人と人とが集まるすべての行為の意義は、気持ちを守りながら、社会貢献できるモノづくりをすることだと思っているから。
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パサパサ感の真意

2013-03-19 01:03:49 | Weblog
 たいていのことは決まりきっているプロトコル通りにやれば上手く行く。
 だから、プロトコルの厳選さえ済んでしまえば、後は時間もかけず、何も考えず、パサパサこなすのが一番手っ取り早い。

 でも、こなしている感がありすぎる、プロトコル通りのコミュニケーションの取り方をされると、一気に不安になる。それは、個々人が、自分はスペシャルだと信じているからだと思う。
 別に、スペシャルな人にも、パサパサした対応をすることだってあるのにね。

 プロトコルを間違えて選んでしまった時や本当の気持ちを出し過ぎてしまった時、恥ずかしくなって、引っ込みがつかなくなって、ついパサパサ感を強めて、こっちが悪いんじゃないよ?、ってアピールをしたりして。

 悪くないもん!って気持ちで大義名分をパサパサ語り出してしまっている、幼くも憎たらしい瞳を見抜いている俺に気がつくと、急に素直になって、謙虚なプロトコルや、こんなにダメなんだよ?ってアピールするためのプロトコルを使われると、俺は、もう一歩こっちが幼くなるプロトコルでも使っておくか、っと逃げてばかりで。。わざと負けるのは、昔から得意だから。

 抱え込める度量があるのに、最後まで選択肢を削ったら、どういう飛び方をするのかを冷静に評価している俺は、実は、究極的なドSなのかもしれない(笑)。
 っそ、最後はこっちが掌握しておきたいという気持ちを持っている限り、一歩距離を置いた人間関係になる。

 引っ込みがつかなくなっちゃったなら、パサパサ論理で言い訳せずに、すぐにスパッと謝れば、それでイイのにね。
 謝ることは負けじゃなくて、過去の駄目な部分の自分との決別なのだから。

 それくらいのことが自然にできる信頼関係を結ぶ過程として、プロトコルに依存しないスペシャルな瞬間以外にも、プロトコル通りのパサパサ感で違和感を感じて、自分の気持ちを確認することだって、楽しいことだと思うし、必要なんじゃないかな。
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答えは初心のなかに

2013-03-18 01:01:16 | Weblog
 結果が後からやってくるというのは、正しく真面目に頑張っている証拠だ。だから成果が上がらなくても、案ずることはない。
 でも、この立場になったからこの能力をつけなければならない、っといつもいつも不安がっているのであれば、それは言葉を先行しすぎた結果だから、そのスタイルそのものを案ずるべきだ。その想いは簡単に、この立場だからこれを知っているフリをしなければならない、という醜さに変わり、他人に迷惑をかける。

 俺は、こういうことを本当によく言うようになっているけど、この教えを受けた時代がもちろんある。
 大学受験のときに、恩師のなかでも特に恩があると想っている方から、言われた言葉がある。

 「そんなに推薦をとりたいのか。それなら、俺を倒してから行け。」

 っとマジで言われた生徒たちも珍しいんじゃないかな(笑)。
 勘違いして欲しくは無いが、俺は、推薦が悪い、と思っているわけではない。推薦を含めた入試全体に問題があり、最近では、一般入試も推薦と同等に、杜撰な評価基準であると思っている。
 何が悪いかと言えば、本業である「学問」という分野にも拘らず、高みを目指してチャレンジすることを一切しなかった人が、それ以下の結果であった、正しく真面目な人に比べて、優遇されてしまいうるという現状である。それは一般入試でも十分に起こり得ることであり、推薦入試からの出身者であっても(俺の定義の)優秀な人は一定数存在していることから言えることだ。

 こういうことを、文字通り、身体を張って教えてくれた先生に、今でも感謝している。
 おかげで、どんなときでも最終的には希望を持っていられるし、結果が出ていなくても、前を向いていることができる。

 純粋な気持ちがいかに大事か。純粋さを捨てて、ガチの能力を向上させようとせずに、「大人になる」という言葉に騙されて、不条理に対してまで穏便にしてきたから、虚ろな目をしているの?不条理をそのまま受け入れてしまうスタイルは、もしかしたら、不条理そのもの以上に罪なのかもしれないよね。
 他人に押されたスイッチは、消えてしまっても文句は言えないんだぜ??

 無垢な気持ちを想い出して、自分でスイッチを入れて、そのまま最後まで走ってみれたなら、今できることが見えてくる。それをし続けたなら、必ず報われる。
 自らが思い描ける程度の理想は、不可能という言葉を纏っていない。想像できる理想はすべて現実のものとなる可能性に満ちている。

 だから、本当の意味で、自分に自信を持ってみて!大事なのは、今じゃなくて、これからなんだし。
 最後まで諦めないで、今できることがあるなら、それをし続けたならイイのだと思う。

 答えは初心のなかに含まれていた。
 この指針こそが、年齢や学年や時間を超えて能力を向上させ、目上の誰かを助けるため、守るため、系をよりよくするために、必要な能力。最近、ようやく、そのことに気がつくことができた。
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HERO

2013-03-15 02:05:40 | Weblog
 残酷に過ぎる時間の中で、大切なことは「言葉を得ること」じゃないことを、もう一度、想い出す必要がある。
 本当の信頼関係、本当の実力や能力を身につけてから、傍に落ちている言葉を、笑いながら取れるくらいの、心の余裕を持ちたいものである。

 とても素晴らしい実験結果が出たとしても、それ自体、そのものには、なんにも価値が無い。
 価値があって、大事にしなきゃいけないのは、この即物的な結果を観つめる一人ひとりの存在であり、この環境、このグループの信頼関係のより良き状態こそが、本当の結果だ。
 この大切さを忘れないで、本質的にお互いの気持ちを大事にする行いの中から、データを引きづり出してきたからこそ、素晴らしい結果が得られる。

 合格や卒業という言葉そのものに、なんら意味は発生しない。
 それに至る過程や、それが得られた時に、どんな貢献にapplyするか?、何を目指していくか?、どこに希望を持っていくか?、こそが大事であって、そこから、どんな気持ちで、前向きになろうとするのかを考えないのだったら、どんなに輝かしい学位を取得しても、生活(人生)にはまったく影響しないのだ。
 この想いを忘れないから、他人にとっては少しの言葉であったとしても、他人よりも何十倍もの、経験を身につけることができるようになる。

 The most glorious moments in your life are not the so-called days of success, but rather those days when out of dejection and despair you feel rise in you a challenge to life, and the promise of future accomplishment.

 「言葉を得ること」のような即物的な成功の日々が大事なんじゃなくて、誰かとお互いの気持ちを大事にしあうことで、希望や成功を確信することができて、後から結果がついてくる。

 それなのに、誰かに対する優しい気持ちがまったく失われているせーで、もともとのストーリー自体に問題があるモノづくりが、この世には溢れている。
 駄目な研究内容、駄目な筋書きを、どうにか物語として成立させるため、盛り上げるために、簡単に心や気持ちが捨てられていく。違う!、俺らが見ていたいのは、見せていきたいのは、もっともっと、人の気持ちを大事にしながら、みんなでより良く系を変えて、成長していく、希望に満ちた光だ。
 気持ちさえ大事にしていれば、自然とストーリーが定まっていくことも、もしかして知らないの?

 こういうことが多い世界だから、言葉に具現化される即物的なことが、中々発生しなくて、発生させることが困難で、苛立つ日々もあるだろう。
 しかし、個々観れば、人生をフルコースで味わうための幾つものスパイスが、みんな一人ひとりに用意されていて、時に苦かったり、渋かったり、するだけなのだ。

 困ったら、行き詰ってしまったら、それに気がつかないフリをしながら、そっと手を差し伸べる。
 じゃぁ、せめて、それくらいの心の余裕は、みんなで持っていきたいよね。

 今もまだ、たったひとつ、達成されていない、絶対に変えたい系の、より良きに向かって、走り出そう!

Mr.Children「HERO」
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論理の使い方

2013-03-11 02:32:47 | Weblog
 ≪じゃぁね、センセ。Aグループ、Bグループ、Cグループの考え方は、一生忘れないよ。≫
 『ありがと。まぁ、ABC理論の理屈は良いことに使ってね。あなたみたいなAグループの人間にとって、いいように扱うために作った理論じゃないから。』
 ≪わかってるよ、人生を習ったんだし(笑)≫
 『たまでイイから、数学のことも思いだしてね。笑』

 理論と実験。対等であるからこそ、自然科学は自然現象を解明しうる。

 新しい理論は、いくつも構築されている。しかし、そのなかで本当に必要で、自然現象の解明に役に立つ理論というのは、既存の理論に対してのリンクがきちんとしているものだけだ。
 既存のものとはまるで違う、その特異的な系にしか役に立たない、まったく新しい理論だけをこの世に放出しても、意味が無い。事実、俺が作った、このABC理論も、ユングの分析心理学や準拠集団理論を参考にしている。笑

 理学の実験は、理論の完成に貢献するような実験か、人の根源的な興味関心に訴えかけるような実験でないなら意味が無い。
 多くの実験は後者を意図している場合がほとんどであり、前者は小さな仕事がほとんどのはずだ。そうでなければ、机上の空論集めになってしまう。だから、理論は根源的な実験の手助けでしかない、というくらいの謙虚さをすべての理論家は持つべきであると思う。

 完成されていく理論と新たな実験事実。これらだけは常に対等であり、前者と後者が織物のようにかけあって、理学は発展していく。
 こういうことを何故しているのかといえば、それは、良いことに使いたいからだ。ここに一番訴えかける研究分野は、生命とは何か?っという課題を解決しようとする分野だと俺は思う。

 論理を構築するのは、良いことに使うため。
 これを忘れて、研究してはいけない。これを忘れて、論理を突き詰めてはいけない。

 だから、安全性の配慮に欠けた研究や、お互いの思いやりを無視した研究や、お金と時間がかかりすぎて誰かが不幸になってしまうような研究は、本質に欠ける。そんなことをしていて、良い結果が、得られるわけがない。
 であるにも拘らず、日本の最高峰であるはずの大学でも、こういう現象はよく観られるし、自分の所属以外でもよく耳にする話だ。

 俺の、中学生の生徒のほーが、よっぽど、聡明だ。論理の使い方を、きっちりわかっている。

 良いモノづくりには、人の「願い」が存分に含まれている。
 それは、理科や音楽など、即物的なモノに限らない、根源的な法則なのだと思う。

 俺らは、そんな基本的なこと、忘れないように頑張ろうぜ?
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曖昧なぼくの輪郭

2013-03-10 04:44:05 | Weblog
 非生命現象から生命現象までは、相転移現象ではなくて、クロスオーバーだ。
 っと、俺はいろいろな場でよく言っているけど、実はそう想ってはいない。

 非生命と生命の話をする前に、俺は必ず秩序パラメータについて言及する。秩序パラメータとは、物性の世界でよく使う値で、その値だけで、ある状態を記述出来てしまうほどのパワーを持った、ミクロな物理的意味からマクロの現象を説明するための物理量である。よーするに、ミクロとマクロを繋げるための画期的な道具ってわけ。
 タンパク質転移反応、遺伝子発現反応、シグナル伝達機構など、生命の中にある様々な反応系そのものは、ミクロであり、単なる物理現象だ。これが、マクロに何かの秩序として現れるからこそ、不思議さが起こるわけだが、ここには何かの秩序パラメータが存在していると思う。

 だから、非生命現象から生命現象までは、クロスオーバーではなく、むしろ相転移現象に近いはずだと思う。
 しかし、それは、現状、マクロに観ている限り、もしくは、1変数だけで観ている限り、クロスオーバーであるので、説明の都合上、連続的に分布していると言っているだけだ。
 よって、本当の本当に詳しい部分を解釈すると、あくまで生命現象は非生命現象からの相転移現象であって、いきなりそこからランクが移り変わるものだと思う。

 生命現象にも階層性がある。大腸菌とヒトが、同列の階層に属しているとは到底思えない。
 ヒトが人として有意義になれる状態は、どういうミクロな性質がマクロに効いているときだろう?、人の有意義な状態について何を秩序パラメータとすれば良いだろう?っとよく考える。

 俺にとって、それは「願い」を気持ちのなかに持ち続けていることだと思っている。
 それが「祈り」になり、未来を切り開いていける。「祈り」は常に生命力をもたらす。

 「願い」が具現化すると、未来へと「祈り」に変わる。だから、空気を介せず、年齢を考慮せず、自分に自信を持って、意見を言うこともできる。それは一つのあり方でしかない。
 かなり繊細に考えながら、たとえば年下にここまで言われたら、絶対に系を変えようと努力するだろうっということまで期待しながら、本当の意味でより良い系になるように動ける思考力の源は、「願い」だ。これによって、物理現象を超えて、単なる生命現象も超えて、ヒトが人として存在する価値のあるものになっていく。

 もしも君が自然現象を知りたいのなら、知りたくなくなるまで研究し続ければいい。もしも君が研究者という肩書きを手に入れたいのなら、悪いことは言わない、いまのうちにやめてしまうことだ。
 っと、この曲の担い手の言葉を借りながら、常に自分に言い聞かせている。だって、生命現象に主眼を置くくせに、肩書きという物理現象に右往左往してしまうのなら、本末転倒もいいところだからだ。だったら、俺は、すぐにでも、教員になる。

 何もない部屋中に広げた夢も、ここまで具現化してきた。実空間ではまだまだ曖昧な俺の輪郭も、心の中ではかなり確定してきている。
 頼りない祈りでもできるだけのことはしたくて、、「願い」を胸に、それに自信を持って、論理性を高めていく。

 目指すは、残酷な物理現象を倒し、みんなで楽しくモノづくりし、楽しさが未来にも保証されるようにすることだ。

 それが、自然現象を追求する者の「祈り」なのだと俺は思う。

EXILE Your eyes only 曖昧なぼくの輪郭
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26

2013-03-09 15:14:53 | Weblog
 26歳になりました。
 っていうか、コメントが去年から無いってのは、悲しいもんだね。笑

 このページは18歳からやってますが、いつのまにか20代の期間のがぜんぜん長くなってるんですね。

 この1年、どれくらい成長できたかわからないけど、確実に即物的な能力はついているし、志もより大きなものに変わっていっている。でも、根本的な気持ちだけはあんまり変わっていなくって、本当の意味で価値がある結果を出していくために、何が大切なのかをもう一度想い出さないといけないね。
 そういうことを考えさせられる時間が長かった1年かも。

 置いてきた真実を、頑張って少しでもより良い方向に持っていくための指針を、また、明日から立て続けないと!

 あれから、俺の周りの人は、目覚ましく移り変わった。この信頼関係を持ってして、未来へと、今できることを探していける。それは、過去に対しても、同様だ。
 いつだって、圧倒的な真実に目を背けてしまいたくなる。背けている時間の方が、長かった。だけど、年長者が後輩が友達が、それを徐々に見せようとしてきてくれる。一人一人、俺が持っていない言葉を持っていたり、俺が知らないツラさを受け入れていたり、俺とは違うプライドの持ち方をしていたり、それぞれだけど、共通しているのはみんなすごく優しくて、系を変えるためにいなくてはならないメンツであると思う。

 ここから始まる1年間も、きっと能力はつけていける。それは心配ない。
 本当に大事なのは、気持ちに純粋になりながら、フェアプレイのなかで、みんなで楽しく成果をあげていくことだと思っている。

 だから、少しだけ待っていて、すぐに戻るから。
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The best defense is a good offense.

2013-03-08 01:52:23 | Weblog
 自分から話をするときは、ディフェンス。
 話を聞くときは、オフェンス。

 ディフェンシブトーク(守備的おしゃべり)とオフェンシブヒアリング(攻撃的聞き取り)。どちらも大事なのだが、基本はオフェンスにあることを、みんな忘れがちだ。
 抽出されてきた事実に基づいて意見を構築するとき、それは自らに批判的になりながら、ストーリーを考える。自らへのオフェンスがいかにできるか?が、良いディフェンスをするためには重要だからだ。

 それを、単純に覚えていたり、言われた通りに発表したりしたら、そりゃボロがでる。論理性が高い人間にオフェンスされたら、ディフェンスし切れなくなるってわかっているなら、はじめから自分へオフェンスしておけばイイだけのことだ。時間はかかるけど、そっちのが負けないんだぜ?

 予想外のオフェンスに対応できるディフェンスには、竹のような、しなやかさが大事。一度相手の意見を認めてしまいながらも、自らが思考したところに引っ張っていくようにすると、跳ね返りの力がかかって、オフェンスしてくれた人に対して、何十倍もの攻撃になりうる。
 ね、結局、オフェンスだよね。

 最大の防御は攻撃にある。これは、論理的なコミュニケーションでも変わらないみたい。つまり、ディフェンシブトークも、突き詰めれば、オフェンシブトークに行きつく。
 自分のストーリー以外認めない、なんていうスタンスじゃダメだけど、ある程度は、自然の状況の中からの正しい事象を、周囲の空気を読まずに想いきってぶつけてしまうくらいのトークを、いつも俺は望んでいる。

 結局のところ、そういうプレゼンテーションからしか、本当に意味のある価値観を貰ったことがない。

 っで、最後に巡り巡って思いだせばイイ、敵は物理現象であることを。
 これくらいのやんちゃさなら、みんな、許してくれる。というか、許してくれる人を、俺は選んでいるんだと思う。

 感謝や謝罪が多くなって、切なくなることもたまにはあるけど、安定を求めているばかりじゃ、前には進めないから。
 オフェンシブヒアリングやオフェンシブトークの行き先は、必ず、どうしようもないくらい残酷な物理現象を改善するための指針であることを理解して、みんなで協力していけたらと思っている。
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届かないボールを

2013-03-06 01:34:22 | Weblog
 その状況のなかでの善し悪しに対して、いちいち一喜一憂してしまっていては、いつまでたっても、より良く変わっていけない。
 最悪の状況の中でのちょっとした良い事で明日への希望を見出したり、最高の状況下で少しの悪い事が起きたくらいなのに極端に落ち込みまくってしまったり、そういうことは、なるべく頭で制御しながら、対応していかないとね。

 ありのままをありのままに見つめること。それが、系から有意義なことを抽出して、より良く、よりみんなで楽しく、していくための指針だと思う。
 前提知識や経験は関係ない。すべての事象をありのままに見つめながら、論理性を持ってして、善し悪しを定めていかないといけないのに、慣習や文化によって、圧倒的な悪さが正当化されてしまっているケースがあまりにも多い。

 そして、経験していないことに対して論理性を持ってして問題解決策を述べるだけの能力が、やっぱり俺はまだまだ足りない。一番変えたい系について、俺の能力があがるまで待ってちゃ、絶対に間に合わないって、頭でわかっているから、今すべきことが見えてこないのだ。

 だとしたら、そのダメな系から、できる限りモノゴトを抽出して、未来へと、何かの足しにするしか……、いや、これは俺の本心ではない。だって、諦められないんだもん。
 絶対にとれないってわかっているボールに対して、最後まで追えるか?転びながら、ジャンプしながら、投げながらでも、ボールを取りに行けるか??

 絶対にダメだって思ってからが本当の勝負どころ。マジで無理だ、って本心から思ってから、どれだけ努力できるかが重要だ、と生徒にも言ってきたじゃないか、っと俺自身に問いかけてみる。

 挫折して復活、を繰り返しながらでも良いじゃん。
 後悔しないために、今より良くできるところについて、今できる行動をし続けたいから、頑張ることに価値がある。

 たとえ、そんな行動が、誰にも伝わらなくてもね。
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