たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

丘陵からの素朴な発想

2012-09-29 02:18:45 | Weblog
 人生は情報戦であり、有益な情報をコスパー良く使用することが、勝つためには必須である。

 知っているか、知らないか。ただそれだけで、ゴールに辿りつく時間が、ものすごく変わってしまう。だから、沢山のことを知らなきゃいけないし、知ろうとしなきゃいけない。
 こういうことを言うと、真面目な人ほど反発をしそうだけど、真面目であることそのものに何の意味も無い。そんなことで個性をアピールできるほど世間はCグループだらけじゃないわけで、だとしたら、自分が持っている言葉や順当だとみんなが考えている手順以外にも、目を向けようとするべきだ。

 そして、外に目を向けた時に、順当にみんながやってる方法よりも、ラクして同じ結果が得られる方法があるなら、そちらを迷わず取った方が良いし、自分の素朴な発想も活きてくる。
 素朴な発想や分野をまたいだ考え方は、自分の足によって創造されるし、それを信じることができるかどうかが、個性あるかないかに関わるわけで、勝ち負けにも関わる。

 ここで具体例として、数学で生徒を持った時に必ず教える問題がいくつかあるんだけど、その一つを紹介しよう。
 「6人いて3ペアを作ります。何通りですか?」ちなみに、超コスパーよく解けば、5秒で解けます。

 教科書の方法だと、ペアをまず一組ずつ部屋ABCにそれぞれ入れることを考えて、2人ずつの組み合わせだから、C(6,2)×C(4,2)×C(2,2)。さらに今度は部屋ごと順列で割らなきゃだから、{C(6,2)×C(4,2)×C(2,2)}/3! で、答えは、えーっと、15通り?

 ここで、長いわ!、ってやるわけです。

 答えは、5×3×1、で15通り。部屋なんかに入れず、自分が6人の中に入れば簡単です。誰と組もっかなー、5人選択肢があるなー、組んじゃったー、残り4人、また自分が4人になって、誰と組もっかなー、3人選択肢があるなー、組まれた!、やばい、アイツと以外は選択肢がない!、で、1。よって、5×3×1、で求まる。

 この問題は、かなり多くの事を俺らに教えてくれます。

 {C(6,2)×C(4,2)×C(2,2)}/3!
 5×3×1

 どちらも答えは15なわけですが、計算量がかなり違います。分数で約分が沢山でてくるってことは、何か無駄な計算をしているわけです。こういうことは、これよりも遥かに難しい問題や研究分野でも、よく起こることです。
 無駄な計算の裏に、無駄な考え方と手段があります。わざわざ部屋ABCと用意して、その部屋自体の順列を考えるという、一連の操作が無駄です。こういう無駄も、実験でもマニュアルでも、世の中に沢山あります。

 そして、何より、教科書通りの順当なやり方が、素朴な発想や大きな視点からの方法に、決して勝てない、ってことがよくわかります。
 勘違いしてはいけないんだけど、確実な方法は、きちんとマスターしていないといけません(とか、やたら強くオフェンスしてくるヤツに限って、ダメなんだけどね(笑))。でも、ある程度のレベルを超えたら、少し広い視点を持って、問題に接してみた方が、数多くの問題をラクに確実に解くことができます。

 こういった素朴な発想は、外部の色々な世界を観ることによって、自然に発想できるようになると思います。っま、ホントはそれだけじゃダメで、外部の色々な世界の常識を、自らの系に落とし込もうとする努力が必要なんだけどさ。

 そのためには、情報を収集しとかないといけないわけで、色々な世界を知ろうとしなきゃいけない。なので、人生は情報戦。数々の分野からの有益な情報をいかに上手く使って、コスパー良く結果を出すかが重要なのだ。

 ただね、それこそ、そんな手法にばかり、固執してもいけない。
 誰かへと感情に流されたり、無駄だとわかっていながらも、真面目になりまくって遠回りしてみたり、そういう即物的にでも本質的にでも楽しい方向へ感情的にどうしても行ってしまうがゆえの、少しのコスパーの悪さこそが、心を健康にするし、毎日もホントの意味で楽しくなる。

 だからっ、何事もほどほどに、ってことでしょ?!
 っという、まさにそんな、決めつけ感や、教科書通りの方程式に当てはめてしまう感が習慣化していってしまうなら、あなた自身を苦しめてしまうし、楽しくなくなってっちゃうんだぜ?

 少し丘陵から眺めてみると、素朴な発想によって、なぜ俺がそういうことを言うのかの本当の理由や本心や本論が観えてくるのかもね。
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自己肯定感至上主義

2012-09-26 01:22:09 | Weblog
 どんな人でも褒められたい。称賛されながら成長したいし育ちたい。
 どんなに言葉で否定したって、心の奥底ではみんなそう願っているはずだ。

 褒められるためには成果がいる。中高生のお勉強界で言えば、どれかの教科で、少なくともクラスで1番じゃなきゃ、満足のいく褒められ方はしないだろうし、スポーツ界で言えば、エースじゃなきゃ満足できないだろう。
 褒められるための結果を出すのはとにかく難しい。例えば、英語(リーディング)のテストで学年で1番であったとしても、試験範囲の英文と和訳を試験前にすべて丸暗記しているような勉強法で1位をとっていて、なおかつ、それが心のどこかでオカシイと思いながらやっていたとしたら、たとえ超褒められたとしても、本人は満足しないだろう。

 つまり、自分の心で納得のいくスタイルで→成果を出して→誰かに褒められる、という三拍子がそろわない限りは、自己実現にはならないし、自立もしないわけだ。
 すべての教育は、このラインにいかに乗せるか?を考えるべきで、そうじゃなきゃ教育と言ってはいけないほどだ。1年間くらいかけて、何かの分野で、1回でもこのラインに乗せることができれば、俺の強力な味方となりうるし、それによって、俺も助けられる。

 納得できるスタイルを幅広く持つだけの器が無いと、なかなか成果は出ない。だから、色々なタイプの友達がいる方が良いし、色んな考え方を納得できるか?って毎日自分の心へ飲み込もうとしてみることが大事だと思う。

 それらが繰り返されないと、一度も心が満足できずに、大人になる。すると、擂り潰すような新人教育や、自分たちの言うこときくヤツが使えるヤツみたいなバカな採用方法が横行してしまう。
 本人と相談をして、こちら自身も相手のスタイルが納得できるように努力しないといけないし、歩み寄りのはずなのに、押さえつけて成果出せたところで、それは言われたことやっただけで、何も満足にはならないよね。っま、言われたことコツコツやっていってるだけなのに、目に見える成果が全く出ないような、まったく出さないような、ダメダメな集団もあるわけだけど。

 自己実現したことがない、心が褒められた感で満たされたことの無い人の、スタイルの相場は決まっている。
 それは、相手のオフェンスできるところをとことんオフェンスする、ってことに帰着される。それこそが、平凡な人間が自らの能力向上を介さずに自らが称賛されているかのように錯覚できる麻薬である。

 研究室ゼミや小さいセミナーなんかだと特にだけど、オフェンスするには、それなりの義務をきちんとこなしていないといけない。てめーの成果のどこに他人をオフェンスできる権利があるんだよ?、って思われないためにね。
 これを、理系ってのは、また、ただのバカ真面目が多いから、正しいこと言ってりゃイイだろー、ってツラをする。何を言ったか?で正しさを既定しようとする。それじゃあ、実質的にも精神的にも、進捗しないし、ゼミの意味が無い。心に飲み込んでいる言葉で、誰が誰に対して、どんな有益な情報をいかにして与えようとしたか?が、本来の正しさなのだ。

 そして、それすらもできない、人は、どうするか?
 社会的に叩かれている人達を、みんなと一緒に叩いておくことによって、自己肯定感を生みだそうとする。

 そんな風にならないように、ホントにホントに注意しなきゃいけない。
 下を観てはいけなくて、常に上を観なきゃね。もっともっとすごく輝いている人は沢山いるし、下を叩いて自分は大丈夫だって安心しているようなバカになっちゃいけないよね、どのレベルでも。

 ただ、俺は、なるべくなら、心が満足できるラインへと誰かを引き上げることも、同時に、諦めないでいたい。
 確かに『出来ない!』って言うことも勇気だし、もしかしたら、そろそろその時期なのかもしれないけど、まだ、もうちょっと諦めたくないのだ。

 なぜなら、それが、今まで褒めてくれた人達へ返せる唯一のモノだからだと思う。
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大抵のことはやり直せる

2012-09-23 03:34:38 | Weblog
 大抵のことはやり直せる。
 でも例外的に、世の中には取り返しがつかなくなることがいくつかある。

 これは定義として覚えること、くらいのことだと思うけど、俺が考えている、取り返しがつかなくなることは、たった2つで、「麻薬」と「(自分への、も含む)殺人」だ。
 この2つさえしなければ、大抵のことはやり直せる。いつからでも、いつでも。

 じゃぁ、そんなことと一切関わってきていない人達が、どうして、いつからでも変われる!、って思って状況を打破しようとしないかというと、今までの自分自身の一部を否定したり捨てたりすることが怖いからだと思う。

 自分が今までやってきたことを焦点から少しだけ外すことさえ怖くて、分野が違って理解できないことは、受け入れない。くだらない教科書通りの答えを言っていれば、下の人からオフェンスされることはないし、上の人にはへーこらしてればイイし。
 自分が選び続けた言葉や関係性を、そのまま信じたい。もう物理的にも精神的にもダメなのに、長い時間の中で信用していた自分を否定するのが怖かったりして。

 まるで、一生懸命育てている途中でカッコウの托卵に気がついてしまったオオヨシキリみたいで、そこから真実を受け入れられるかどうかが大事だ。
 どんなに無難が好きでも、大義名分や美辞麗句が好きでも、今までの努力が無駄だって思いたくないのだとしても、自分の子供を殺した子供を育て続けてはいけないだろ。たとえ、途中まで、その最悪の事実を自分自身の手で育て続けてしまったとしてもね。

 しかもカッコウの子は、その巣にそのまま居座るだろう。カッコウに騙されたオオヨシキリは巣も捨てなきゃいけないのだ。
 巣をせっかく創ったのに、せっかくここまで大きく育てたし、育成本能までくすぐられているのに。ホンモノだと想ってきたのに。

 人間なんて、これよりも好条件なのに、移動できない。カワレナイ。
 オオヨシキリのがよっぽど賢いぞ。最近のオオヨシキリは、ちゃんと気がついて、捨てるんだぞ。

 ダメなものはダメなのだ。それが、どんなに自分が育てたのだとしても、自分が築きあげてきたんだとしても、どんなに本能を燻られても、切り捨てるときは冷酷にきちんと切り捨てなきゃいけないし、守れるモノは守らないと。

 その辺にいる子に対して、やんちゃ過ぎて、乱暴で、他人に迷惑をかけているのにも関わらず、小さな子供だからという理由で、ペットのように、カワイイ!、っと大げさに感想を述べている女性を観ると、呆れると同時に、ちょっとだけ羨ましくもなる。子供のことを、子供をカワイイって言ってる自分がカワイイ!、の材料としか観ていないのに、表面的には俺より幸せでいれそうだから。
 俺も子供のことをそこまでよく知ってるわけじゃないけど、少なくとも、そんなに単純じゃねーよ、子供だって。

 それよりも、たとえ今その場でいなくても、実空間で観えなかったとしても、その子によって影で泣いていそうな子供のことを心配したり、もっと優しさを守ろうとするようなことを、せめて思考しなきゃいけないなー、っと難しいことを求めている。
 だってそんなの何の役にも立たないじゃん?、っというくだらないオフェンスにお答えするが、そこで、カワイイとつけ上がらせるようなことを実際に言うよりも、よっぽどイイと思うぜ?そういうことを、頭で考えておくことのほうが。

 持ってく方向をよりよくするためには、クラスチェンジは必須だし、ダメなものはダメ、より良いものは良い、という事実を、本能と一端切り分け、心に飲み込んで行動しなきゃいけない。
 優しさを優しさで補強することはできるはずだし、何度だって、大抵のことはやり直せるんだから、恐れずに行きたいな、っと思う。
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自分さえ良ければイイ、にならないで

2012-09-21 02:53:26 | Weblog
 どうしても仕方がない物理現象に対して、いかにして解決策を探るか?ということが誰にでも降りかかっている。
 日々の生活の中では、取り返しがつかなくなる前に、その問題に気がつき、意識を持って解決しなくちゃいけないということが、山ほどある。あのとき、ああすればよかった、ということの繰り返しを避けなきゃいけないし、未来に、なるべくそのようなことが起こらないように、先回りして行動していかなきゃいけないのだ。

 後悔しない準備が出来ているか?
 大きな行動をする前はもちろん、行動するかどうかすら迷っている、選択肢が自分に降ってきている時には、必ず考えなきゃいけないことだ。未来の自分が後悔しないように、行動しないことが正解なのか?、行動することが正解なのか?、だとしたら、どう行動すれば未来の自分は後悔しないのか?、ずっとずっと考え続けなきゃいけない。

 それは、実は、大きな分岐点以外でも、日常でも同様なのだ。後悔しないかどうかを考え続けることができないから、重要だとは予測できなかった、でも実際はめちゃくちゃ重要なシーンで選択を失敗して、後悔して、ああすればよかったのに、って思っている頃には、実質的に、取り返しがつかない。
 っで、他人依存になっていく。自分では何一つ行動を起こせないし、どんどん諦めていく。受け身だし、行動できたとしても、確実に得られるときだけ。

 そして、自分が確実に勝てる表面的なモノだけで、相手にオフェンスを仕掛けて、自分のが上にいるのだと虚勢を張る。
 もしくは、自分の方がしっかりしているんだ、自分の方がきちんと真面目でいる人間なんだ、ってアピールしたりして、、何ひとつ、自分で行動も実行も思考もできないのに。

 でもね、、そういうくだらない部分に逃げられる人間は、まだイイ。
 そこにくだらなさがある、ってわかってしまっている、諦めきってしまっている賢い人に比べれば、、こいつらはバカなだけだから。バカなぶん、幸せなんだよね。

 後悔を繰り返していけば、いつしか、不幸であることに気がつき、諦めが先立つのと同時に、不幸であること、後悔しないような行動がいつもできないことの罪悪感や能力の無さに、居心地の良さを感じ始める。
 上手く行かないことが普通になって、習慣化されていく。結果が出ない、努力が報われない、ツライ、そんなことが自分にとっては普通だし、それで満足出来ていってしまう自分にも気がつかない。だから、努力なんて報われないもんだ、って、他人にも押し付ける。

 きっと、「自分さえ良ければそれでイイ」、そんな想いが、どこかで邪魔をしている。

 『ここでね、自分が置かれている現状に気がついて、心では実はそんな風に思っているんだ!、ってことに気がついたんだから、難しいけど、少し周りを観てみようよ。あなたのすぐ隣には、全然上手く行っていなくて、全然行動しないし、そもそも全然来ない人がいるよね。なんでだろ?どういう心情なんだろ?って、ほんのちょっとでイイから、考えてあげて欲しい。
 それをすることが、あなた自身も、完全に救われることだし、どれだけの気持ちが働く中で、自分がいま立っていられるのかということに気がつけたら、おっけーなんだけどね。』

 俺が大口を叩くとき、未来の自分へのメッセージだったりして、ちゃんとやりつづけろよ!、ってことを周りに聞いといてもらうためであったりする。自分への戒めの効果。
 でも実は、それだけじゃなくって、逃げ場が無い人にとっても、攻撃しやすいように、と思っていたりもする。

 出来もしない大きいことや、ぶっちゃけこうでしょーってホントのことを言ったりして、自分が言ったことのくせに適度に俺も出来なければ、なーんにも取り柄も無い、能力が何も無い人でも、突っ込みやすいし、攻撃しやすいでしょ?
 例えばそうしていくことによって、ちょっとでも、今できることの中での自信を保っていければイイのだと思う。あとは、持ち前の賢さと優しさで、居心地の良くなってしまった不幸感を脱することができて、どうにかなる、、はず?

 …って、ただのMだったりして(笑)。
 でも、俺を利用してはいけない人には、俺からの痛烈なオフェンスが待っているから、それだけじゃねーし。
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2つのカワラナイ

2012-09-18 01:24:13 | Weblog
 俺は、相手が薄々感づいていることを、明確にしてしまうことが得意だと思う。

 それが多くの人にとってのことであれば殆どの場合で笑いになる。逆に言うと俺は、えー、そんなことまで言っちゃうのー??、ってことでしか、笑いが取れないんだよね。
 だけど、それが、全く笑えないことだってある。言葉にするだけが明確化することではない。行動で示してしまうこともあるし、目線だけで伝えることだって出来る。

 頭のどこかで分かってはいても、心のどこかで感じとってはいても、習慣によって、まっいっか、になってい続ける人へ、そのキャッチを明確化してしまうことは、俺はどちらにしても必要なことだと思ってるんだけど。

 <えー、そうですね、、例えば、高橋さんは言語化が上手すぎるんですよー。>
 『それ、短所か?』
 <別に短所じゃない時もあるんですけど、面白いし、あーそうだなって思うんですけど、それによる弊害もあるってことですよ。>
 『例えば、どんな言葉?』
 <Aグループとか。笑>

 それはまだまだ氷山の一角に過ぎないのにね。笑
 問題は、行動によって、示しちゃう時なんだけどな。

 『'Cause, fundamentally, Japanese people dislike the "changing".』
 【Why? I don't know why don't Japanese like "changing". Why?】
 『I can't tell you the reasons, because the reasons does not exist. it is axiom.』
 【But, no pain, no gain. Why don't Japanese take action?, although it may become more better.】
 『I don't know. Merely, "no challenge" is axiom for Japanese.』

 気がつかされたのであれば、選択肢があるうちに、行動を起こせばイイのに。
 選択肢がもうすでに無い、とか、自分にはできない、とか、そんなのこそ幻想だ。

 どうして表面的なことほど、変わりたくないの?
 もっと重要であるはずの、気持ちの部分では、時間依存性が無いモノの存在をも信じられないくせに、表面的な言葉ばかりにカワラナイことを求めないで。

 それこそが、言葉に騙されるということなのだと思う。

 逆だよ。
 言葉や所属や持ち物やグループ名なんて、変わるモノだし、変わっていくべきモノ。
 それと関わらない、気持ちや想いや心が、カワラナイように努力するのが、先決なんじゃね?
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即物的なモノに内在する想いへの敬意

2012-09-17 02:39:41 | Weblog
 やっぱり、何かの物理現象ってのは、すべて、日常生活まで落とし込んだ時に、意味があるものなのかもしれない。
 それによって、誰かの気持ちや切ない現実に気がついたりして、喜んだりムカついたり泣いたり楽しんだりできるなら、それはそれでどれにしろ、楽しいよね。

 どんなモノにも、どんな道にも、どんなルートや、どんな手順にも、創った人間がこめた想いがある。
 それが、どんなに小さいモノでも、どんなにくだらない道でも、どんなにダメなルートで、どんなに面倒なプロトコルでも、その想いに敬意を表しないで使用すれば、人は罰を受ける。

 『その意志ってのが、生命にだけありそうなのは、非常に面白いことじゃない?』
 ≪じゃぁ、やっぱり、何か物質としては残らないって考えているんですか?≫
 『いやー、それが、もしかしたら、南部ゴールドストンボソンかもしれないし、暗黒物質かもしれないし、わかんないけど、なんらかの形としてはあるんじゃない?』
 ≪おー、じゃあ、自然科学の範疇として考えられるって思ってるんですね。≫
 『そりゃ、そうでしょ。でも、意志がいわゆる生命にだけ存在してるってのは面白いよね。』
 ≪うーん。違いますよ。意志ってのはレベルが低いだけで、例えば、そこの自転車にも、その椅子みたいなのにも、構造を持ってるってだけで、いわゆる意志ってのはあると思いますよ。≫
 『えーー、そりゃないでしょ。』

 モノや、もしくは、目に見えないモノでも、そういうことに対する敬意が、あまりにも無碍にされすぎていると思う。
 即物的に、表面的に、自分にとって、もしくは自分の周囲にとって、有益であるからといって、想いを無視して、それを選んで、成功したケースを観たことがないし、そういうことを普通にしていると、あなたにはプライドが無いのかな、って思う。

 すべての人間関係は気持ちで成り立つ。友情関係も、親子関係も、恋愛関係も、夫婦関係も、師弟関係も、すべて。
 その人を選ぶ理由、選び続ける理由が、有益な能力があるから、学歴があるから、素晴らしい装置が存在しているから、そのプロトコルが欲しいから、自分の言うことをよく聞くから、カワイイから、カッコイイから、ステータスが対等であるから、等の理由であったら、それがホンモノであるはずが無いのだ。それは、副産物としては成り立つが、先立ってはいけない。本来誰でもそれを望んでいないし、誰でも本当の想いからの関係性を本当は望んでいる。

 そして、気持ちを大事にし続けたときに、はじめて、その時間経過の副産物として、「結果」が得られるのだ。
 順序を間違えちゃいけないよね。

 即物的な結果を急ぎ過ぎて、成功している人を、俺は、いまだかつて、観たことがない。
 だから、ちゃんと、相手の想いや気持ちを考えて、心で感じとって、直観を働かせて、見つめようとしなきゃいけないのにね。

 その過程を経て、結果がきちんと出ればラッキーだし、たとえ最後まで結果が出なかったとしても、楽しい想い出になれればそれでイイじゃんという価値観に、どうして、みんな、なれないのかな。。
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賢さの行き先

2012-09-16 03:21:19 | Weblog
 賢くなればなるほど、自分の能力の限界に気がついて、感情そのもので行動できなくなる。

 何か疑問に思っても、自分が賢くないからわからないだけで、みんなは普通にわかってるんじゃないか、とか思いだしてしまえば、発言したり他人に意見を求めたりすること自体が怖くなる。すると、それが重なるにつれ、下手に発言することは愚かなことであるという方程式を作って、安心しようとしたりする。
 そして、その方程式を人に押し付ける。下手に行動するな、出る杭は打たれるぞ!、ってね。

 その方程式は非常に正しく基本原理であるのだが、多くの人々はこの方程式に、「時間」という概念が入っていないことに気がついていない点で、悪いけど、俺よりもバカだと思う。
 じゃぁよ、おめーは、いつ、勝負するんだよ?いつも、インタラクションの蚊帳の外で、自分に必要なシーンだって上の無能な連中に流されっぱなしで、いつ、てめーの人生を生きるんだよ?って思う。

 セリフは決まっている。
 無難にやり過ごしたら、それ以降、ちゃんとやるから大丈夫。
 そういう状況に直面したら、きっと発言できるし、行動できるし、自分の道を自分で定められます。
 まだ賢さが無いので。結局、勝負するんだって、武器が無いとダメでしょ?だから自分には無理です。でも、勉強する時間も無いし、私にはずっと無理なんですよ、そもそも。

 そんなこと言ってたら、そりゃいつまで経っても、生活はつまらないまま、自分のことなのにどこか他人事のまま、どーせそんなに長く生きるかわからねーよ、本当に。っで、しかも、変わる気もねーんだから。
 寄生し合っていても、必ずどこかで崩壊する。もうすでに崩壊しつつあるのにも関わらず、まだ、誰かがどうにかしてくれると勘違いしている場合じゃない。

 昨日から今日へ、今日から明日へ、連続性の高い日々の中で、いつだって一日一日が大事であって、そこで毎日、自分の感情や気持ちを、自分で満足させられるように努力しなきゃいけないのだ。
 まずは一発でイイ。きちんと枠に向かってシュートを思いっきり打つことが大事だし、それで入らなかったからといって、打ってみたという自分自身を認めて、セカンドボールを拾って、もう一度シュートし直してみればイイ。

 それを、今日は重要な日じゃないからイイや、って逃げ続けていれば、そのツケは本当に重要な日にも回ってくる。
 毎日シュート練習もしてないのに、重要な日、たった一日の、一回のシュートが入るわけがねーじゃん。

 そりゃね、当たり前だけど、いきなりはカワレナイ。
 いきなりスーパーヒーローになれるわけが無いし、いきなり超絶賢くはなれない。それは大学受験の頃から言われていたことだった。
 「4月5月にできないことは、12月以降もきっとできない。時間が経てば自然にできるようになるなんて思うな。今、この瞬間に理解できるようにもっと必死になりなさい。」ってね。

 俺らは受験生と違って、時間はたっぷり残されている。どんだけ、私には無い!、って言う人でも、たっぷりあるのだ。だからゆっくり、出来ることから徐々にやってみて、また理想を高めればイイ。
 どう?そうすれば、少しは、変わる気になれるのかな。

 こんな世の中でも、情熱で報われる孤独をちゃんと信じて、一人で黙々と戦っている人達が沢山存在する。そいつらはバカだけど優秀なのだ。つまり、超絶に不器用だけど、優しくて優れている。
 そういう人達の人間関係のインタラクションを活性化し、もっともっと認めていかないといけないよね。

 結局俺は、少しCグループ贔屓な人間なのかもしれない。
 まぁ、彼ら彼女らの特性として、今我慢する、っていう部分のアホさがある。それは真面目であり不器用であり、とても応援したくなる特性だと思う。

 だって、極端な話、すべてを投げ出して自分の即物的な部分だけで寄生しようとしてるわけじゃないわけで、正直者は、報われるべきだからだ。
 その指針として、Aグループの生き方を尊敬して、さらにBグループの上下の挟まれ方も勉強させてもらって、クロスオーバー化して、変わっていって欲しい。

 ありのままの自分で、どんな可能性もあるんだって本当に心から思えるように、変わって欲しいのだ。

 早い話が、中途半端に、もしくはたった一つの分野で、賢くなったくらいで満足せず、完全に突き詰めて賢くなりまくれば、新しい道が開けるのだと思う。

 賢さの行き先、、それは、聡明さや慧眼さであって欲しいと、ココ最近、よりいっそう思う出来事が多い。
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決めつけないで 6

2012-09-15 03:05:02 | Weblog
 <でもさー、もう今は、わかってる、ってことじゃないわけだし。結局、完成されたモノを綺麗に覚えることが好きだった気がするんだよねー。>
 『ああ、その感覚、なんとなくわかります。』
 <そういうのは凄く得意なの。でも、自分が見つけたいわけでも、やりたいわけでもないのかも。>

 ≪そういう感覚じゃ、そりゃ、その人が悪いでしょ。≫
 『まだまだ、先生は思考力が足りないんですね(笑)。』
 ≪えー、そう?≫
 『だって、その新しく発見するって価値観さえ本当に心に飲み込めたなら、あとは、綺麗にまとめてくれそうじゃないですか。そういう力が大事だって、いつも先生も言ってますよね。(っと、まずは相手の価値観まで下りていって、オフェンス)』
 ≪でも、そこは、だって、一番重要でしょー。≫
 『別に後から周りがその価値観の素晴らしさを教えればイイだけだし、それに、他人に影響された価値観しか、結局はホンモノじゃない、っていつも俺言ってるじゃないですか。(っと、自分の領域に引き込む)』

 何かの言葉のなかで生きていかなきゃいけない。たとえ最初っからその言葉に相応しい気持ちじゃなかったとしても、そこにはルールがあるし、習慣がある。それを全部打ち破っていけばイイってもんでも無いのだ。
 平衡点を探す必要があるし、色々な可能性の中から解を見つけることは可能だ。しかも、割と簡単なはず。

 だから絶対に、決めつけないで。

 相手の能力も習慣も感情も、全て決めつけちゃダメで、それさえしなきゃ可能性は大きいのだ。
 ただ、変わる、ってのは自分が変わろうとしなきゃ無理は話で、変わることを促す、ってのは酵素活性でしかないことを忘れちゃいけない。

 [納得はできるんですけど。。そう訊いても、明日から、橋さんが今仰ったそのスタイルに変えることはしないっぽいんですよねー、ごめんなさい、なんとなく。]
 『それは、それでいいんだよ。別に俺はそうして欲しいから、今言った事を話したわけじゃないし、むしろ、そうして欲しくはない。』
 [えー?どういうことですか?]
 『自分のスタイルのまま、変わっていって欲しい。今のはあくまで、物理的に、っていうか、俺が持ってる教科書的に解いた、言うなら、例題を解いてみせただけで、そこから何かの道具だけを摘み取って、下にある問いに、自分のスタイルで解いて欲しいなって思ってるから、あくまで、使えそうな道具が一つでもあれば良いな、って思ってるんだよ。』

 相談を、自分の方法がベストだと思って話してはいけない。あくまで、1つの解法に過ぎない。それも、決めつけないで。

 だけど、難しい問題はいくつも残っている。一番は、やっぱり、時間tに依存する問題だ。
 例えば、何歳まで、変われるのか、変えられるのか、変わろうとすることにチャレンジができるのか?

 『だから常に最後、そこに帰結するんです。人はいくつまで、変わることが可能なのかなって。』
 「人に依るんじゃない?」
 『(笑)。またまたー、それはそうですけど、そうじゃない部分を問題提起してるんじゃないですか。』
 「うーん、変わろうと思えば変われるよ、いくつになってもね。」

 本当にそう思ってます?っという、いつものツッコミは出てこない。本当にそう思ってるんだと思ったから。

 決めつけはカワレナイことをより強くする。
 そういう意味でも、決めつけることは良くないのだ。

 特に、好きな人から決めつけられてしまうと、悲しくなる。
 可能性を否定されているような印象をうけることもそうだけど、何よりも、こっちを落としてまで不安を埋めたいのか、っと思うと、その関係性に疑問を生じやすくなるから。そこに嬉しさを少しだけ感じながらも、泣きだしてしまうことだってあるんだし。

 んね、だからさ、やっぱり、なるべく、、決めつけないで!
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残酷な物理現象の時空間的制御

2012-09-13 02:40:23 | Weblog
 不器用で損している人を助け続けることが指針。基本的に、それさえしていれば、遥か昔に約束したことを果たすための、今できることは、できている。

 不器用で一生懸命であるということは、スカラーは大きいけど方向性が定まっていないために、即物的な結果がだせずにいるってことが必然的に多くなる。結果に寄与できる力はベクトル量であることを忘れてはいけない。方向性をきちんと定めずにがむしゃらに言われたことをしてたって結果がでるわけがないのだ。
 それよりも、力の抜き方が上手かったり、ある特別な抜け道を知っていたり、コスパーよく働くことにばかり執着している人間のほうが、上の人が望む結果がでる。

 そうではいけない。
 不器用で一生懸命で、それでいて、人のことを考えてしまうために、損をしている人が、きちんとした形で評価されるように、様々なパラメータを変えて、よりよく系を変形できなくちゃいけない。
 正直者がバカをみないような環境創り。それこそが、結局は、全部を救う手立てであって、俺が自然科学を理解し尽したい理由はそこにある。
 それは、この真面目な世界を知って以来、ずっと取り組んできている課題だし、必ず解決しなくちゃいけない、本研究の最終目標だ。

 そして、その想いについてマジメに取り組むほど、ちゃんと俺自身にも、即物的な結果が返ってくる。
 有益な結果の中に想いが内在していて、だからこそ、また次に頑張ろうって想えるのだ。

 時間を逆に遡ることはもう簡単だ。そのほとんどについて、もうすでに、できるようになれている。
 問題は、正の方向へ時間に打ち勝ち、理詰めのみで解決すること。それができなければ、つまり、理論が実験に対して先立つことを実践できなければ、物理学を軸においている人間としては不十分だし、何より、時間がかかりすぎちゃう。

 すでに何問も演習したことのある、理想環境下についての簡単な基礎問題を、時間をかけてゆっくり解くことで得られることは沢山ある。その、習得したばかりの道具を観察していると、本来解かなければいけなかった、逃げ出してしまった問題を目の当たりにすることになる。

 微笑されることによって揺らいでしまいそうになっている心の中で、その認知すらできず、もっともっとバカであれば、、っと、矛盾したことを想いながらも、今できることを探ってみたりしていた。
 すると問題点が浮き彫りになり、「環境と時間」、たったそれだけの違いで、他のパラメータが殆ど一緒でも、解ける問題と解けない問題が、かなりはっきり分かれてしまう物理現象と、戦うべきなのだと着想した。

 だって、どんな状況でも、どんな環境でも、どんな時間帯でも、どんな年齢であったとしても、不器用で一生懸命で何故か損をしている「残酷な物理現象」は、絶対に許せないから。
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涙の決断の前後

2012-09-11 01:12:31 | Weblog
 最後の瞬間が大事であることは言うまでも無い。終わりよければー、ってのは、意外とあってる。

 これまで笑い合えていたことも、楽しめていたことも、分かり合えていたことも、すべて俺一人の勘違いだったんだなって悟って、見かけなくなっていく。悲しいけど、それが真実。
 そして、俺の知らない笑い声が聴こえてきて、一度もサヨナラも言わずに、追加契約も交わさずに、その日が来る。

 そんなことの繰り返しだけど、意外と生活はあっさりしているし快適だ。
 よく普段言ってることだけど、生まれ変わったら、色んな家で、ここでしか飼われていない、って思われているような野良猫になりたい、って感情は、カワラナイまま。別に八方美人なわけじゃないんだけど、飽きっぽくて。

 新しい場所なのに、すでに飽きている。どれだけ新しいことをしていても、斬新なことを言いだしても、どーせ俺はそういう振る舞いするから、って部分が、自分の中でも、みんなの中でも共通認識されてしまえば、そこから飽きだすのは早くて。

 満足できないってのは、いつまでもいつまでも、幸せにはならない。
 邁進すればするほど、追究すればするほど、研究すればするほど、あくなき探求をすればするほど、超楽しくなっていくけど、そんなこと言ってるから、そのあたりに転がっている幸せにいつまでも気がつけずにいる。

 でも、その分、とても大きなことを、期待している。
 いつまでも変わり続けながらもカワラナイ、って、そんな状態や関係性を。
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まだ使えるから

2012-09-10 01:53:31 | Weblog
 年齢が上がれば上がるほど、新しいことがどんどん入ってきて、それについていくのが大変になる。

 いまの50代や60代の世代の人達は、20代の頃はまだタイプライターだったろうし、掲示板って言えば駅の掲示板のほうがピンとくるだろうし、色々なモノがまだまだ発展していなかった。
 そいつらが、LINEやFacebookなどのちょっと複雑なSNSの類いや、様々なことができるスマホのアプリとか、3Dのゲーム機だとか、そんな中で生活しているんだから大変だよね。上の世代の賢い人が、、いや、ちゃんと言おう、上の世代の、昔賢かった、今はプライドだけが残っている人が、新しいことについていけないことが不安で、最近の若者はー、とかほざいているのは、仕方ないことかもしれない。

 俺よりも30コくらい上の連中にも、同様にAグループ、Bグループ、Cグループとグループ分けすることができる。年齢を重ねても、真面目に新しい文化にきちんと反応しているのは、Aグループの人達と、その能力を持つ人であることは、ほとんど間違えない。
 これは初めて公言することだけど、当然、グループ性は年齢とともに衰退化していく。だから、いまCグループの人は時間に勝たなきゃAグループにはいけないし、Aグループだからって油断していると社会的にはCグループになっていたりするのだ(これを考慮すると議論が複雑になるので、普段はしない)。っで、昔から今までずっとCグループだった人間は、学習だけはきちんとしてきた、っていうくだらないプライドだけ残っちゃってて、新しいことを理解すらできないから、不安になる。で、昔はこうだった、昔のがよかった、今はダメだ、って言いだすってわけ。

 確かに、「温故知新」ってのはある。古いことでもバカにしすぎちゃいけない(例えば、相対論を理解するときに「エーテルの風」という当時の人達を悩ませていた今となってはまったく必要のない概念を勉強するのは大切だと思うし、相対論的量子力学を学ぶときにクライン・ゴルドン方程式を学ぶのも価値があると思う。)。
 だけど、体系的に知識をまとめるときに初めて、温故知新なわけで、そんなことはそれこそもっともっと昔の人は、きちんと知っていたと思うけどね。

 そんな簡単なことを言葉として心にきちんと飲み込まずに、古い体制を変えないでい続けた、こんなバカばっかで、日本が衰退しないわけがないよね?特に最近だと電機メーカーに顕著だけど。

 Aグループの連中にグループに入れてもらう必要性は皆無だが、ヤツらの能力はきちんと持てるように努力しなきゃいけないことが、、どう?、少しは理解できる?、団塊の世代とそれよりちょっと下の世代の、自分のことしか考えられない、頭の堅いCグループの人にも。

 とはいえ、新しいことを恐れないってのは、とてもとても難しい。日々進歩していかなきゃいけない研究の世界でさえ(とはいえ保守派が研究に携わりやすいからダメなんだけど)、これは昔の装置でも測れます、このソフト古いですけどこれくらいなら解析できるんで!、ってな感じで、誤魔化す。まぁ、理系が普段使う、実験装置やソフトって、信じられないくらい高価だから仕方ないんだけど、まだ若いうちらの世代が、それで納得しているようではダメだ。
 無い、Aグループの力を、絞り出して、どんどん外に出ていって、色んな事を知ろうとしないと。

 俺はそう思っているから、なるべく多くの研究室に出入りさせてもらうようにしている。現在、ある程度内部を知っていて、出入りさせてもらっている研究室が4つもある。こういうことをさせてくれる各研究室が素晴らしいと思うし有難いんだけど、残念なことに、それを許してくれる研究室の多くは若い研究室主催者がほとんどだ。
 各研究室、一長一短なところがあって、当然だけど完璧なところは無いから、色々なことを知ろうとすることが大事だと思う。その中でもビックリすることがあるので、一つだけ具体例で紹介しておこう。

 生物の遺伝情報の大元はDNAという物質だが、このDNAが、ある試験管の中の水中にどれくらいの濃度で存在しているのかを測定するのに、分光光度計ってのを使う。簡単に言うと、試験管からDNAを含む水を少し取り出してきて光を当てて、その光がどれくらい通り抜けるかによって、濃度を計算しよう、って装置だ(ランベルト・ベールの法則)。光がよく通り抜けるほどDNAは少なく、逆に全然通過しないと沢山DNAがいることがわかる。
 やりたいことは、DNAの濃度を測定すること。それだけだから、俺が出入りする分子生物系の研究室には必ず、分光光度計の装置が何らかの形で置いてある。しかし、各研究室で、濃度測定をする原理も、手段も、同じであるはずなのに、まず装置の大きさが全然違う。

 一番大きい装置は、グランドピアノ大くらいデカイ。もしかしたら何か他のこともわかる装置なのかもしれないけど、見るからに古いし、立ち上げ立ち下げにもかなりの時間がかかる。
 その次にでかいのは、小さめの段ボールくらいの大きさ。少しめんどくさそうなソフトも使うし、確か勝手に計算してはくれないけど、上のに比べれば遥かにコスパーが良い。
 そして、一番小さいのは、参考書くらいの大きさ。希釈を作る必要も無く、1μLちょこっとドロップするだけで、勝手に計算して、何 ng/μLか算出してくれる。立ち上げ立ち下げも、パソコンとまったく同じ、あとかたずけも、ティッシュでふくだけ。しかも精度も良く、タンパク質まで定量してくれる。

 これには正直、落胆すら覚えた(笑)。たったひとつの、しかも大したことない測定で、ここまで、かかる時間に対するパフォーマンス、つまりコスパーが変わるとは。

 こういうことを知ろうとしなきゃいけないし、知らなきゃいけない。って俺が言うと、学会とかにあるし、知ってるよ、ってバカなヤツがドヤ顔で言ってきそうだけど、そうじゃなくって、すぐ隣の研究室で、同じ測定をコスパーよく行っていることを、知らなきゃいけないのだ。

 こんなことは、沢山ある。ホントに、細かいことを言いだしたら、キリが無い。
 若い人間ってのは、知識が無い分、フットワークが軽いんだから、こういうことで上の世代との競争に勝てなきゃいけないし、どんどん、どんどん、新しいモノを取り入れなきゃね。特に、理系は。

 そして、そういう若い世代を大事にし、上の世代にもきちんと聞き入れられたときに初めて、この国のくだらない部分が、解決するのかもしれない。

 だから、ずっとずっと、10年後、20年後ももちろん、30年後も、その先もずっと、新しいモノを上っ面の理由をつけて拒絶しない人間になっていきたいと思う。

 ね、だからさ、まだ使えるから、って言い張ってる教科書も、思い切って、買い換えてみません?笑
 どんな教科書だっていつかは書き換えられる。それこそが学問の発展だし、だとしたら、自分の中の習慣という教科書は、きちんとブラッシュアップする必要があるだろ?
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勝ち負けを冷酷に判断してしまうモノ

2012-09-08 03:07:23 | Weblog
 どんなに主張を繰り返しても、結局はカワラナイ現実を感じ取ってしまうと、変えようとすることに対してコスパーが悪すぎて、何もしないということが習慣化される。

 実は、主張する、っということそのものが現実を観ないことだったりする。
 今まで大切に築いてきた信頼関係やホンモノの気持ちを全否定するような現実を直視してしまったとき、そうじゃないんだ!、って、あっという間に崩れ去ってしまった信頼関係を慌てて立て直そうとするかのように、主張していく。
 オフェンスしまくってるようでも、本当の本当は、そうじゃないでしょ?、こう思ったんだよね?、だからこんな風に行動しちゃったんだよね?、って確認をとってるようで情けなくって、主張する勇気が年齢とともに失われていく。

 でも、そう思ってる人にいつも言いたいのは、そこまでずっと、言ってるわけじゃ無いでしょ?
 人には7回。言い続けることが大事であって、一発ガツンと言ったからって、それは何の効力も何の因子にもなれないことは、当たり前だ。

 即物的なモノや実益のある結果などを一番に望んではいないのに、俺がそのような主張の仕方を見せれば、みんな、それが欲しいのか、って勘違いしている。俺が本当に欲しいモノは、正しい方向の純粋な気持ちであって、それが露わになっていなくても、その想いさえ感じ取れれば良いのにね。

 目の前の、自分が想定していた都合のイイ現実とは、全く違う現実。ただの勘違いだったと打ち拉がれ、次にすべきことを求められる時、初めて、自分のオリジナリティーが出せるチャンスなのかもね。
 せめて実益だけを取りながら、次の選択肢の中からよりよいモノを選んで、ステップアップすればイイ。

 それが負けに観えたとしても、一見感じたとしても、その行動や主張が必勝方法であり、必ず相手の心の奥に届いている。
 どんなに強がっても、どんなに美辞麗句を並べてディフェンスしても、心は嘘をつけない。自分の、相手の心は、勝ち負けを冷酷に判断してくれるし、変えることもできないから、ある意味、残酷なのかもしれない。

 だからこそ、自分が完全に負けられるくらいのホンモノを見つけなきゃいけないのだな。
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「ノーヒントでも私が望むものをわかってくれなきゃね!」

2012-09-07 01:02:07 | Weblog
 相手が欲しいモノや望んでいるモノを正確に把握するのは難しい。
 欲しいって言ってるからって、それ以外のモノを望んでいることもあるし、似合うからって押し付けると、決めつけないで!、ってなるし、あまりに理解しようとしすぎれば、相手はすでに十分に満たされていたり、下手すると、もうすでに持っていたりもする(笑)。

 そんな中で、自分でも気がつかなかった、自分が欲しかったモノを、そっと手渡してくれる人を感じると、まだまだ世の中捨てたもんじゃないな、って想える。
 それほどの力が欲しいなって、また無いモノねだりで、、でも、願うよりも前に、気持ちが溢れていく。

 ほんのちょっとの空気の変化も見逃さない、それほどの慧眼さを持つ人が、俺は好きだし、傷つけさせないようにしなきゃいけないと思っているし、搾取されないようにしなきゃいけないと思うし、いつかは逆に守らないといけないと思っている。

 だから、まだ観えぬ人のためでも、そういうことを許してはいけないのだと、気がつかされた。
 それを教えてくれる、実は俺が望んでいたモノを与えてくれた、下の世代も優秀に思うし、俺ができることをしなきゃいけないとも思う。
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逃げたものから逃げないで

2012-09-06 01:52:20 | Weblog
 自分が思う理想の場所に向かって努力することは大事なことだし、それをし続けることによって凄いところまで辿りつけるし、素晴らしい結果を出していけるんだと思う。
 理想を追いかけて場所を変わる、ってのは聴こえはいいけど、逃げている、ってのと表裏一体だ。

 場所を変えようとするとき、人知れず努力をし続けなきゃいけないし、情熱で報われる孤独を信じ続けなきゃいけない。ズルイ!ってみんな簡単に思うのかもしれないけど、そんなみんなには計り知れないほどの努力をしなければ、結果場所を変わるなんてことはできないし、ただのコツコツも多角的な視点も、両方無ければステップアップはできない。
 でも、それが正しい方向なのか、現在の自分自身もわからない。それがとっても悩ましいことだ。

 これまで、その場所がダメで、だから場所を変える、ってことを、大きく見積もって、3回してきた。わざわざ変えなくてもイイのに、この場所が最悪だからっ!っつって、3回逃げたし、逃げ切っている。
 これらすべて、実質的なステップアップをしているけど、俺のモチベーションが、この場所がダメだから、っという理由であること。だから、より能力が高い集団に行こうとして、とか、よりやりたいことに近づくから、ってのは数に入れてない。

 1度目は、年齢による圧力、能力が低すぎること、そのわりには即物的な価値観や環境は充実し過ぎていること、等から逃げた。

 『でさぁ、無駄に厳しいし。』
 【そりゃそうだよ。だってそういうところは、もともと来る人達がチャラチャラしがちなんだから、厳しい圧力をかけようとするのは、まぁ、当然なんじゃない?】
 『まぁ、確かにそうだったかも。でも、ちょっと理不尽過ぎる時もあったけどねー。っで、賢さに対してどうでもイイって思ってるくせに、無駄に高級志向なの。』
 【あー、それ、俺、絶対合わないわ。笑、っていうか、お前も、そうだろ?】
 『失礼なっ。俺は賢さをどうでもイイとは思ってねーよ。笑』

 2度目は、幾何学的な距離、地域特有の閉じられた空気、その空気から生まれる頑張らなくてもイイ感、等から。

 『すごい、この場所だけ、のことなのに、それがすべてである、みたいな価値観っていうのかなー。もうちょっと、本当の実力を大事にすべきだと思うんだよね。まぁ、もとは賢い、って人も多かったけど。』
 ≪お前、最初っからこっち来なくて良かったなー。≫
 『なんで?』
 ≪だって、向こうに一度所属していなかったら、向こうのこと超バカにしてそうだもん。笑≫
 『確かに。笑』

 そして3度目は、膨大な無意味な時間の強いられ、大義名分と美辞麗句に一番の重きを置く価値観、ホントの意味での向上心の無さ、等から逃げた。

 『(笑)。』
 「どうしたの?」
 『いや、前だったら、今のとこ、ひとつ入れ替えるだけで、少なくとも1時間は使っただろうなって。笑』
 「あー、だろうね。」
 『え、わかるんですかっ?』
 「そりゃあ、あれだけでだいたい空気は読めるよ。ダメだって。私が前いたとこもそうだったし。」
 『なんで、そんなんばっかが蔓延ってるんですかね。そんなに無能なのがバレるのが怖いのかな、さしてどっちでもイイのに。』
 「まぁ、君はずっと、ああいうタイプと戦っていくんだろうなぁ。」
 『えーっ、もうイヤですよ、絶対。そもそも戦いたくないんですもん。』

 っそ、戦いたくない。だから、逃げるし、これまできちんと逃げ切れてるつもり。

 その場所が嫌いなわけじゃないし、むしろ好きだからこそ、離れるのだ。そういう意味では俺はわかりやすい。
 別に、その場所にいる人がキライなわけじゃないのに、、だからいつもいつも、どの場所でも、どの年齢でも、言ってきたじゃん、『言葉に騙されるな!』ってね。自分が持ってる場所の言葉と相手が持ってる場所の言葉、それらに騙されちゃいけない。
 俺らは、ただのヒトとヒト、それだけなのにね。

 ふとした時に、逃げ切ったつもりのモノからの足音が聴こえてきたりする。それは、新しい誰かのちょっとした表情だったり対応だったり、同じような部分があると、問題はまだ、お前が残したまま、そのまま残っているんだぞ、って示唆してくる。
 それは下手なホラーよりよっぽどホラーだ。暗い道から、逃げて逃げて、やっと逃げ切った不審者に、逃げ切った先の明るい道で、電柱の陰から不気味に微笑んでこられるのと等しい。

 だから、ちゃんと向き合わなきゃいけない。直接系に寄与するまでいかなくても、今できることをしなきゃいけないのだ。

 『おおー、懐かしいな、あの先生、まだいるんだー。』
 <そうなんですよ。>
 『俺らの頃は、なんか、扇子みたいなのを持ってて、ちょこちょこ叩いてきたりしてたわ。ホント暴力ヤローだよ、あいつは。』
 <えー、先生の時代もそうだったんですか?>
 『え?今もまだそんなことしてんの?』
 <一時期ピコピコハンマーにはまってて、俺も一回叩かれました。あの先生、モノ持つの好きですよね。>
 『…。なんか、ごめんね?』
 <え?なんでですか?>
 『今なら、、今の俺なら、その状況でも、正当に解決できるし、物理的にも、完全にやめさせることができる。地位があの当時と同じだけ離れているとしても。あの当時は、まだ、そこまでの思考力も発言を繰り返すだけの体力も発言力そのものもなかった。反抗はしてたし、法律とか条文覚えて理詰めで責めたこともあったけど、結局、変わってないんだね。。なんかホントに申し訳ない。』
 <別に、先生、、ていうか、先輩が謝ることじゃないですよ。>

 殆どは何も変えられない。だからこそ、良い方向に変えられた時に嬉しいし、楽しさに繋がる。歴史は繰り返すからこそ、繰り返させないようにしなきゃいけない。
 今、ちょっと、それに疲れているだけ。

 夜、外を歩くと、少し涼しさを感じることができる。また季節が変わっていく。
 環境が素晴らしいし、周囲が、協力者も、パートナーも、仲間も、先輩も後輩も、優しくて優れている、本当の意味での優秀だから、即物的な結果は努力さえすれば出てきている状況だし、実際に結果も出てきて、安心している。
 だけど、焦りも少し感じている。

 早く、なるべく早く、解決しなきゃいけないよね、種々の問題を。
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ターニングポイントを逃さないで 2

2012-09-02 04:26:46 | Weblog
 実質的に結果を出して、精神的に満足するためには、即物的に重要な時期をやたら大事にするんじゃなくて、日常のなかに潜むターニングポイントを逃さないことが大事だと思う。
 言葉が残ってるかは別として、自分のすべての生徒には言ってきたことだけど、『受験みたいなシーンが重要なわけじゃなく、ごく日常の中にある重要な選択に慎重になるべきだし、そんな毎日のが何倍も大事』。俺自身がそう習ったからだ。

 ≪それでね、そういう、みんなでやろうって行事みたいな時に、勝手に予備校行ったり、学校さぼって模試受けたりするヤツは、悪いけど、落ちてしまえ、って思う。だって、その分、真面目なヤツが、どこかで穴埋めをしてるわけだから。
 だからさ、受験生だからって、何も特別な存在じゃない。もう君らはね、受験生ってだけで、周りから色々と気を使われてるの。だから、家の手伝いも、誰かの話を聞いてあげることも、変わらずにやりなさい。普段の生活の中でいかに頑張るか、って、そういう風なごく普通に頑張っているヤツには、俺は、どんなケアもするし、受からせるために色々な応援をできたらと思っている。≫

 それは、今の俺自身にも、きちんと沁みこませないといけない言葉だ。
 何か大事なことが控えているからって、自分は特別な存在じゃないし、みんなにとっての普通の業務をみんなと同じように普通にしないといけない、、どころか、その大変な時間帯にこそ、誰かの役に立てるようじゃないなら、俺らの目標は達成できないし、そういうことこそが、本当の意味で優しく優れているってことだと思う。

 だから、得手不得手はあるにしても、集団のなかの細かいことは少しずつしなきゃいけないし、すると意外と、成功へ近づいたりもする。まぁ、俺も、細かい仕事を全然してきてない集団も沢山あるから何とも、、あんまり偉そうに言えないけど、でも、少なくても、そういうことをやらないことを、成果やお金で解決したり、地位や名誉や実力の高さで、しなくていいだろ?的な空気を出してはこなかったつもりなんだけど。。

 「いや、まぁ、高橋さんはまだ良いんだけどさ、でも、ねぇ、やれよ、って。」
 『うん、だから、やろうとするような素振りっていうか、それくらいはみせたらコスパーもイイのに、って思いますけどね。』
 「それも、実際にやる人からすると、見抜けるものよ。」
 『ごめんなさい。笑』
 「私言った事あるもん、大丈夫、期待して無いから、って。笑」

 まぁ、かといって、Aグループの人達がノリが良いとこも仕事みたいなところも持っていって、Cグループに対して、仕事して無いんだからー、って押し付けることもあるから、それと区別しなきゃね。
 そういうAグループの人ばかりじゃないけどさ。

 一見くだらないと思われがちな細かい仕事の中に、多くの重要なシーンが紛れている。今度、それをよく考究して、勇気を出して、判断することが大事だ。
 長い目で見た時に大切なことばかりに気を取られて、いつまでも未来が来ない状態は、今が楽しけりゃそれでイイじゃん、ってよりも最悪だから、いつまでも我慢してくだらない問題を解いていないで、目の前の本質的な問題に対して目を背けず、きちんと立ち向かう姿勢を持つことが必要。すると結局、即物的な成果もついてくるもんだと思う。

 実際に、それを感じる日々。
 いつも俺はラッキー、ついてる。ターニングポイントに注意しながら、今できる最善をしているだけで、現状も最善になっていくのは、周りが本当に優しい人だからだと思う。

 まさか、罪悪感と能力が一緒に残る、ほうとはね。やっぱり、≪どんな努力も無駄にはならない。≫?
 ただし今回は、より稀有な関係に気がつくことができたけど。
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