たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

優しさの誇り

2013-01-31 01:17:18 | Weblog
 何か一つ知るようになることは、自分の中の希望を一つ捨てることだ。
 理解したり、その分野に入って通常の作業をこなせるようになることは、成長として素晴らしいことだが、それと同時に今まで憧れに思っていたことが一つ減ることでもある。

 憧れは、手にしていないからこそ、輝いて見える。
 小学1年生の頃は雨の日が大好きで、傘を持って学校に行けるだけで楽しかった。大学3年生のはじめの頃は、白衣を着て実験するだけで楽しめた(物理学実験は白衣無しで大丈夫なので、俺は大学2年まで白衣を持ってすらいなかった)。
 それらも慣れてしまえば、煩わしささえ感じる。

 憧れは、次に行くべきレールの道しるべとなってくれることも多い。
 憧れの赴く方向へ進んでいく。場所を変える上での絶対的なルール「自分(だけ)は正統的な手法をとりながら、その中で上位者になってから、移動する。」ということを守りながら移動すれば、ガチの能力を高め、前の知識を利用しながら新しいことをすることができ、広い範囲の高い能力を得ることが可能となる。
 こんな自分の中だけのパラダイムシフトの仕方、いいだろぅ?、って思う一方で、同じような場所で、ずっと同じようなことをしている人を羨ましがっている。能力のレンジが狭く、レールから必ず得られる能力しか得ていないのにも拘らず、高評価を受けられるし、何よりも、憧れを憧れのままで心の中に留めておけるから。

 俺が最も恐れていることは、すべてのことについて、くだらなさ、つまらなさで、満ち溢れてしまいそうになることだ。
 んね、理解することは、希望が無くなっていくことでしょ??

 ここまで思考を繰り返していったとき、最後に残る「意味のあるモノ」が、「優しさ」に行きつくのは、せめてもの救いだ。
 本当はどんなスタイルだってイイ。誰かに媚びていく生き方でも、無意味なことが大好きな性分でも、ガチの能力をつけていくスタイルだって、なんだってイイ。
 能力なんて、低くても、狭くても、誰かに対する優しささえあれば、それが一番重要なことで、価値のあることで、意味のあることだ。

 この優しさの部分に対して、「憧れ」を持ててはいる。これからも、もっともっと、こういう気持ちをつけていきたい。
 でも、即物的な能力がどうでもイイとは、まだまだ思えない。それは、俺が、「大人」じゃないから?「大人」になったら、少しは変わるの??

 突き詰めて、突き詰めて、あくなき探求、考えて理解して、マスターして、また飽きて、別のことに着手してー。
 確かに、理解することは、希望がなくなることだと思う。でも、そんな希望、誰かの誰かへの優しい感情に比べれば、ものすごくどうでもイイことなのだということを、忘れちゃダメだよね。

 優しいということ。誰も評価しなくても、誰かに優しく振る舞えるということ。
 そんな部分にこそ、価値を感じるし、誇りに思うし、それができる人を、俺は心から尊敬している。
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流され過ぎないで

2013-01-30 01:55:51 | Weblog
 人は誰でもレールの上に乗って流されながら生きている。
 集団生活の中で、レールから落ちたら怖い、っということはよく言われることだ。退学したら、ドロップアウトしたら、正社員を辞めたら、お前たちは不幸になるんだぞ!戻れないんだぞ!、っとうるさく教育され、みんなそれを暗に恐れている。

 しかし、レールの先が崖であったり、このまま同じ電車に乗り続ければ、鈍行にさえ追い越される可能性が極めて高いことを理解しているのにも拘らず、レール依存になってしまっているせいで、その電車やレールから降りられなくなってしまっている怖さを、誰も教えてはくれない。
 それはどうしてかといえば、レールからあえて降りる人が少ないために降りてから成功した人が少ないことや、降りることそのものを良しとしない社会なので、明るみにでないからだ。

 毎日毎日、具体的な外部事象や自分の能力を、ちゃんと計量していかなきゃいけない。それと揺るがない感情を比較した時に、このままの路線では達成されないのであれば、レールの乗り替えを考慮すべきだ。

 ここでも誤差論が役に立つ。準備として、説明をしておこう。
 誤差には、大きくわけて、ランダム誤差と系統誤差がある。ランダム誤差は測定する限り生じてしまう統計的な誤差であり、系統誤差は何らかの邪魔な物理的要因から生じてしまう誤差だ。
 こういう時に誤差論に慣れていないと、じゃぁ実験や測定をする上では、系統誤差を排除していけばいいんでしょ??っと思いがちだが、実は逆である。系統誤差についての論理構成はしっかりしていないことが殆どなので、ランダム誤差が大きくては、系統誤差があるのかないのかも判断がつかないことが多い(特に新しいことをしているなら、なおさら)。だから、なるべく標準偏差を下げ、ランダム誤差の誤差率を下げる実験を心がけることが、すぐに今できること、だ。すると、ランダム誤差が大きい場合に比べて、排除すべき系統誤差が見えてきて、実験をコントロールしやすくなる。

 まぁ、当然っちゃ当然か。俺が思う理学系の研究の一番の基本、ありのままをありのままに見つめ、新たな理論を築こうとする。
 それをするためには、確実に知りうることはすべからく知りつくし、曖昧なことを曖昧なまま理解する技術が重要になる。つまり、面白い自然現象に対して、まずは定量的なことを突き詰め、次に定性的に事柄を述べて、最後にその定性的な解釈を数値化する作業、が研究のスタートからゴールだと思う。

 このプロトコルを生活にも当てはめるべき。じゃなきゃ、単純にレールから得られるモノだけに縋って生きる、つまらない生活の繰り返しになってしまう。
 確実に押さえておけるところは押さえておいて、しっかり理解してしまう。その上で、系統的な誤差や意味のある現象に着目し、それらが自らの感情と極端に異なるならば、レールから降りることを考えなきゃね。

 最後、自らの新たな道を設定するのが、とても難しい(自然科学でも難しい)。なにせ、電車に乗りながら、別の路線の情報を知ることは、非常に困難だからだ。
 でもさぁ、たとえ、一度駅に降りて、一本電車待つんだとしても、今のレールに依存するよりは、そのほうがいいんじゃないかな、って思うことも多い。

 だって、この先が崖だったり行き止まりだって分かってるんだから、道が明ける代わりに、数ヶ月や長くて2年、足踏みするのなんて、大したリスクじゃないんだよ。

 こういうことに気がついて、哀しい切り捨て方をした後に、これまでの輝かしい結果が、いかに自分が何も考えずに、レールに依存して流されていた事のただの副産物だったんだってわかってしまうんだとしても、俺は、自分の気持ちがちゃんと満足できる結論を導き出そうとした方が、楽しいと思う。辛いかもしれないけどね。
 そして、前に簡単に出せていた類いの結果や成果が、自分の本当の意味でのスタイルで取り組んだときに、難しいことを感じながら、みんなで解決して行けたなら、それはどんなに同じ一つの結果であったとしても、全く違う成果・業績であると思うし、俺は、そういう結果を見逃さず評価をする。

 ただ、俺は、今ちょっと疲れた。
 俺の周囲の日常に、あまりにランダム誤差の中に埋もれている系統誤差が多すぎて、より良きを判定しにくいからだ。体力が落ちているのだと思うけど、もう少しすれば、大丈夫だと思うので、ここしばらくは色々なことを少しゆっくりやろうかと思っている。

 色んな意味で、流され過ぎないために。
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俺の理系歴

2013-01-29 00:35:50 | Weblog
 ここに、俺の理系歴を示しておこうと思う。
 今日書く理由は特にない。ただ、まとめておこうと思う。ターニングポイントを中心に。


 1999年(中1)
 5月ごろ、理科第2分野の実験で、プランクトンを顕微鏡観察し、分裂しているミカヅキモを俺が見つける。先生に見せると俺の班にみんなを集め、この顕微鏡一回は覗いてねー、っと言った。これが俺の最初の実験での具体的な成功体験。実験時間が終了し、ミカヅキモはまだ分裂している様子だったので、先生に相談すると、次の時間まではとっておいてくれる約束になった。次の時限終了後の休み時間に、理科室に一人向かい、顕微鏡を覗くと、中身が飛び出て死んでいるミカヅキモを目の当たりにした。先生は「実験はこういうことがよくあるのよ」っと俺に優しく言った。当時の俺は、こんなもんか、っと特にどうとも思わなかった。
 11月ごろ、理科第1分野の授業で、俺は(当時から)目があんまり良くなかったので、国語辞典で、理科用語を調べて、ノートにまとめていた。それをおじいちゃんの先生が見つけて、辞書で何調べてるの?、っと、まるで俺がイイ事をしているかのように関心を持って訊いてきた。俺は素直に、目が悪いんでー、っと言って、なんだ、っという顔をされたが、理科という科目は、辞書で意味を調べる、ということが本質的なのかもしれない、っと教えてもらえた。

 2000年(中2)
 4月ごろ、理科第2分野で太陽系について習う。この分野の最中は、理科2の授業が待ち遠しかった。あとで、(私立中学だったので)理科の授業を削減して英語の授業をしていることを聴いて、ふざけるな、っと思った(笑)。太陽系の惑星が、こうも多様性に富んで構成されていることを知って、ワクワクした。そして、こういうことを調べる人になれたら楽しいかも、っと思った。
 10月ごろ、理科第1分野で、電池や抵抗回路について習うが、まったく意味がわからなかった。まぁ、たぶん高校ではこういう分野に進まないだろうから、これで最後だろうな、って思って、試験だけ無難にこなした。
 同じく10月ごろ、天球の実験を1日かけて行った。クラスの班と一緒に、天球にプロットを書いていくのは楽しかった。

 2002年(高1)
 5月ごろ、ずっと頑張っていた英語が何故だかつまらなくなり、中学の頃は勉強しなくても普通にできた数学に、普通に力を入れようと思う。ちなみに中学の時は、数学のテスト前、無勉強で学年1位もありました(イェイ)。相変わらず、数学の授業は、俺はいっさい先生の話は聞かないことに決めていたので、数学の時間はただひたすら問題をノートに解いていました。前で解くと点数をくれる先生だったので、1日1回くらいは前にでようと決めて解答していた。
 そんな毎日をずっと送るはずが、10月ごろ、数列のシグマの演算で躓く。まったく意味が分からなくて、解けるんだけど、わからなかった。
 同じころ、理系か文系かの選択を迫られ、とりあえず理系だろ、っと思っていた。しかし、「物理」と「生物」は同時に履修出来ないことを知りショックを受ける。理系は一般に「物理」をとること、中2のときに大好きだった宇宙の範囲は「物理」であることから、苦渋の選択として、「物理」を選ぶことに決める。生物をとっている人が羨ましかったりもした。

 2003年(高2)
 8月、物理の先生が、俺ともう一人友達だけが夏期講習に参加しているということで、昼飯をおごってもらう。理系の世界で、はじめて先生に飯をおごってもらった経験(笑)。この2人とは今だに付き合いがある。そして、この友達こそが後に俺をこの世界に連れて来てくれる。
 俺もあいつも、タダで授業が受けれるなんてお得じゃん!、っという下心から講習に参加していただけなのに、ラッキーだったな、って言って、この夏、より物理学の理解に励む(昼飯につられて)。力のモーメントと運動量の範囲で、同時に習ってるはずなのに、あいつのほうが理解が遥かに早くて、なんで???って思ったりした。

 2004年~2005年(高3)
 4月、いくつかの理由から、現役時代はとりあえず、予備校に行かない事を決める(ただの意地だったのかも)。そして、数学の超怖い先生に出会い、数学で束縛され、生まれて初めて数学の授業をちゃんと訊くようになる。ちなみに、この先生とも、今だに連絡のやり取りをしている(昨日メールがあったくらい)。
 6月、体育祭があって、なんとなく何かの大事なリズムが狂った(これは別に行事のせいではなくて、俺のせい)。一方で、こういう頑張りをあまり良しと思ってくれない怖い数学の先生の意見を訊き、ちょっとだけ納得する。そして、この先生が「理系で、国公立志望以外は、ダメなヤツだ。理系であっても、古文や歴史のことを知る必要があるし、知らないヤツは深みに欠ける。」っと言っていた言葉を受け入れ、国公立の物理学科志望になる。
 3月、受験に失敗した俺に、このものすごく怖い数学の先生は「お前が悪いんじゃない。どんなに頑張っても学校だけでは、予備校に通わなければ、志望校に受からないような公立高校のカリキュラムに問題がある。」っと最後のレポートに書いてくれた。これが今でも支えになっている。そして、現状を受け入れて浪人期間は予備校に通いなさい、俺も通わないといけない種類の人間だし、っと言ってくれた。

 2005年(浪人時代)
 8月、物理学や数学について、再度、深く考えていた時期。物理学科に入って、何をしたいのか?を早くも悩む(これは今も解決していない(笑))。天文学か、量子力学の世界か。どちらが自分は好きなんだろう、ってね。
 さらに、俺は、実験そのものを理解するよりも、美しい理論を鑑賞するのが好きなことにも気がついた。それにプラスして、物理学では、因果関係の裏側にある必然性に着目しなきゃ、本当の意味で理解はできないことも知ることができた。
 この8月、実験の分野に、誤差論っという理系でも嫌がる論理構成があることを知る。

 2006年(大学1年)
 物理学科に入るが、物理以外の科目があまりにも少なくて落胆する。やっぱり私立じゃダメだったのかな、なんて思ったりして。俺は1年から2年に上がる時に転学部しているので、このキャンパスには結局1年間しかいなかったけど、この間に、物性物理の研究をしている助手の先生と原子核物理学を研究している教授の先生と顔見知りになる。その後、この2人の先生の意見によって、何か大切なことを見失わずに研究室選びをすることができる。
 ちなみに、俺は、4月の第2週目で、先生に質問しに研究室に入ってました。院生に「学部1年でよくここまで入ってこれるね?勇気あるんだね。」とか言われる。

 2007年(大学2年) 
 4月、新しいキャンパス、新しい学科(といても同じ物理学科という名前だけど)で、心機一転。俺は、素粒子系の理論研究室に行くのかな、っと思いながら、日々を過ごす。電磁気の指定教科書が洋書で、マジか、っと思ったが、意外とこれがお勉強の意欲につながった。
 5月、ブラウン運動の実験で、実験パートナー、チーム、ともに、それまでで一番楽しい人たちに出会うことが出来た。土曜日すべて潰して、誤差論や実験系についてディスカッションし、発表に備えた、俺はとても楽しかった。このときに、誤差をとてもよくつっこんでくるおじいちゃん先生に出会い、俺はこいつと同等に誤差論ができるようになってやろうと闘志を燃やす。この時期を通して、それまで意味もわからずに使っていた、最小二乗法や正規分布など、誤差解析の論理や統計学の最低限の項目を、きちんと学ぶことができた。それ以上に、実験や共同作業は、「人」が重要であることも学んだ。
 7月、後期から始まる量子力学の先生は怖そうなので、(確実に単位をとるために)一回挨拶しておこうっと思って、量子力学のお勧めの本を訪ねに研究室に行った。すると、めいいっぱい教えてくれるし、プリントまでくれた。そして、量力も英語なのかよ、っと落胆した。
 10月ごろ、前のキャンパスの原子核物理の先生が、自らがコレスポンディングの論文を見せてきて「物理学科の先生で、化学系の雑誌に出す先生も、珍しいんだよ」っと嬉しそうに俺に渡してきた。俺は、その意味がよくわからず、すごいんですねー、っと言った。

 2008年(大学3年)
 4月、物理学科の友達が、生物化学を受けていることを知って、羨ましくなる。んで、今期は俺も取ろう!、っと思う。中学以来、7年ぶりの生物の授業、高校の頃の思いがやっと果たせた。この日から、生物化学の時間が楽しみになる。しかし、生物物理学の時間と天体物理学の時間がかぶっているのが、またしても俺の選択を狭めてくることに気がついた。素粒子や天体と生物、どちらをとるのか本気で迷い、生物物理学を履修する。
 7月ごろ、生物化学の先生に授業を潜っているのがバレる。「高橋君、いつもいるけど、違うでしょ?」っと言われたので謝ると「それは良いんだけど、試験は受ける?」っと言ってくれたので、試験を受けることに。このとき取得した単位は卒業時にプレゼントしてもらうことになる。
 10月、生物化学の時間と統計力学の時間が連続していて、学問の違いに驚く。こんなにも違う!っとその時には明確では無かったけど、感性的に違う、っと認知することができた。
 同じころ、教職の授業で、生物学実験を受講する。
 11月、最後の最後まで、自分の進路について悩む。生物系でやっていこうと決心したのは、生物系の科目のほとんどが最高の成績だったので、順当な物理学の進路を辞め、賭けにでることにした。理詰めの綺麗さよりも、多少汚くとも、感情をも包括する生物学の方が、結局は宇宙よりも広い範囲を扱うことになるんじゃないか、っと考えた(今でもこの気持ちはある)。

 2009~2010年(大学3~4年生)
 2月、とはいえ、初心を忘れずに、素粒子系の理論研を卒研くらいは志望しようかっと思うが、なるべく生物と同じくらいの空間スケールの方が後々便利か、っと思い、さらにプログラミングは生物系のヤツは苦手そうだからやっといたほうがイイかも、って思って、パソコンをメインで使う凝縮系低温物理の理論研究室に所属する。
 4月、有機化学も必要だろ、っと思って、授業に潜るが、生物化学のときのように上手くは行かず、院試も近づいたために、途中で挫折してしまう。
 10月~11月、院試も終わり、テーマが決まって、プログラムを書く。前のキャンパスの原子核の先生に研究テーマを紹介すると、こんな難しいことを卒研生がやってるの?、ぜったいこんなの理解してないでしょ?、っと言われ、プログラミングを書く技術と、理屈で物事を突き詰める力は、完全に異質なものであることを知る。
 次の年の1月、今いる場所で、プログラムの肝の部分を思いつく。書いて回してみると、論文どおり再現できた。理論研での卒研としては、論文の再現で満足だろう、っと思い、自分で納得して卒論をまとめる。

 2010年(修士1年)
 4月、1年ぶりの実験に戸惑うが、ピペットマンは面白いっと思えた(今はつまらないです(笑))。慣れないせいもあって、実験で使う温度計を割ってしまう。こういうこともあったので、何度か、ピペットマンの扱いをある程度ちゃんとできるようになろうと、一人でミリQ水を使ってピペットマンの扱いを練習したりした。
 8月、助教の先生の実験に参加させてもらっている中で、新事実を発見。これが修論にまとまることになる。
 11月、卒研も修論のテーマも、コンパートメントが一つの俺のキーワードだと理解する。

 2011年(修士2年)
 7月、ある授業の論文紹介で、最後の今後の展開の部分で、俺だったら、こんな風にしたいです、っと言うと、その授業の先生が、それ、やるべきだよ!、うちに来てやったら?、っと言ってくれた。夏休みも近いし、生物系なのに生物を使わないことに苛立ちを感じていたので、なんでもいいから、何か生物を使った実験をしたいっと思い、研究室を訪ねる。
 8月~9月、他研究室での実験。学部の生物学実験以来3年ぶり、生きている生物を顕微鏡で観察させてもらえた。
 これと同時期に、有機合成と物性科学の研究室に移動することを決める。これまでのお世話になってきた先生のほとんどに相談したと思う。

 2012年(博士1年)
 3~4月、今のテーマをもらう。これこそが、これまで生物と非生物(物理現象)との間の見極めを目指す上で、重要なテーマだと気がつく(そうするためには、もうちょっと頑張らないとね)。
 4~5月、合成実験のテーマをもらう。これも、情報とコンパートメントについての思考を構築する上で、最も重要だと気がつく。


 こうして書いてみると、多くの優しい人に支えられていることがわかります。
 ここには明示的に書けない人や書けない事件も沢山あります。書ける範囲で書くとこんなもんかな。この記事は定期的に更新しようと思います。
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Don't let the world win!4

2013-01-28 00:33:58 | Weblog
 どんな人でも褒められたいし認められたいのに、それが満たされるだけの優しさがこの世には存在していない。それは、多くの人が、自分の認められたい欲を満たされていない経験があるからということももちろんあるが、それ以上に、本当の意味で誰かに優しくすることは自分の損失しか生まないことを納得しているから。
 だから、誰かに無駄に厳しくしたり、誰にも優しくしないことを擁護するような格言が生まれる。正直者は馬鹿をみる、みんな自分のことが一番大事だから、って。

 そして、自らの認められたい欲を、物理現象に落とし込む。

 若い女は若いってだけで認めてくれるおじさんを選び、おじさんおばさんたちは上の人の指示に従うだけで得られる即物的な価値を本当の実力のように扱う。自分たちを無条件で慕ってくれる能力の無い若者を育成するために。

 これまで何十人もの大学の先生とサシでお話させてもらっているけど、特に講義を持っている先生の中で、かなり多くの先生方が、予備校の授業に慣れてしまっている大学生に不満を持っていて、それを俺に話してきたり、研究室の教育方針のページに載せていたりする。はっきり言って、そういう先生たちは、「私の授業についてこられないのは、予備校で甘やかされてきたからだ!」っと一回の因果関係をするだけの思考の体力しかないほどアホなんだな、って思う。
 なぜそのような学生が大学に来るのかといえば、予備校の指示通りに作業してさえいれば合格してしまうような入試問題に原因があるのだ。そんな現状の入試選抜を変えられる力や立場にいることを忘れて、目の前の学生にきちんと接することができていないイイ証拠を俺の前で喋って同意を求めるなんて、イイ度胸してるよな、って思う。
 まさか、受験の時期には予備校の授業や方針の指示に従うことが大切で、大学生になったらそれは通用しないのです、なんて思っているのであろうか。だとしたら、教育のことをあまりに知らなすぎる、研究者のくせに何も考えないで生きてきてしまった、もっともっとアホなヤツなんだなっと思う。きっとそれほどではない、っと願うばかりである。

 しかし、大学や研究の世界なんて、まだまだイイほーであることも、よくわかっている。なんたって欧米の文化だし(欧米が良いわけでは決してないが)、具体的に競争を意識しなきゃいけないから、悪くなりにくいしね。
 今の茶番な日本の就職活動を確認すれば、いかに日本が終わりゆく社会かがわかる。それは教育方針が問題なのかもしれないし、とにかくこのままじゃダメだよね。

 こないだの特別支援学校の先生が「人様のおぼっちゃん、お嬢ちゃんをお預かりして、命を守る中で、何かを施していることを忘れないでください。これは教育の基本です。」って仰っていたが、命を預かって、より良くしようとすることを、みんながみんな、忘れているのかもしれない。
 特別支援教育だけでなく、個人個人にフィットした、特別な支援をしていくことが、本来の教育のあり方だし、、いや教育だけではなく、すべての人間関係は特別支援にあるべきだと思う。

 本当に極少例だが、一縷の望みは確かにある。
 こちらが妬いてしまうほどの優しさに溢れる人が能力できちんと評価されていると、評価のしどころは間違っているけれど、この社会も捨てたもんじゃないな、って思ったりして、「世間なんかに負けるな!」ってね。この人の良いところを本当にきちんと評価できて、かつ優秀だって、頭でも心でもわかっているのは俺だけだって思うのは、俺も認められたいところに依っているのかもしれないし、だからこそ何かくだらないことで見下される冗談が成り立つ。

 それは、もしかしたら、自分が引け目に感じている部分なんて、他の人はそれほど意識していないのかもしれない、っとわかる瞬間だ。ねぇ、だから、そんなこと、引け目に思わないで。
 ほら、また一縷の望み。多くの人が、心の中では、きちんとした評価をしているんだ!って気がつくでしょ?

 ただ、最近少し疲れてきているのも事実。
 一年ぶりに、目がピクピクする日が続いてる。ちょうど一年だから、寒いと起きやすい体質、とか、季節的な問題だと良いんだけどね笑
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二体系における人の基本パラメータの正しい判断

2013-01-26 02:18:44 | Weblog
 人を規定するパラメータは「思考」「感情」「行動(言動)」の3つであるのに、具体的に他の人が感知できるのは「行動」のみだ。具体化された「行動」のみから「思考」「感情」やスタイルを判定され、評価されていく。
 だからこそ、慧眼さをフルに発揮して、その人を見つめようとしなきゃ、本当のところはわからない。

 昨日詳しく書いたように、行動や言動になるまでには、その人の中で時間に依存した多くの変数が寄与している。
 こんな風に考えているから私にこんなこと言ったんだろうな、って「行動←思考」や、こんな感情を抱いているからあんな行動をとったんだろうな、って「行動←感情」などしか、みんな解析しない。
 本当は、「行動←思考」の裏側には純粋な感情が隠れているかもしれないし、「行動←感情」に解釈できたとしても言い聞かせた結果である感情で行動しているのかもしれない。

 だから、一回の因果関係で満足しちゃダメなんだって。もう一歩、もうワンステップ、考えてみなきゃですよ。
 相手がとった行動から、相手の思考の能力や心の純度を計算しながら、どんな矢印の関係性によって、その行動が引き起こされたのか、解明しようとしてみないとね。
 さらに、「行動←前の行動」ってこともある。大きく前に出ちゃったからヒッコミがつかなくなっちゃったとか、習慣的にずっとそうやってきたとか、そういうことで行動が規定されることだってある。

 自分の感情に訴えかけるために、事実を受け流しながら、行動にすることだって、よくあることだ。まず謝っちゃう、とかね。稀にバレちゃえば、「Don't say sorry when you're not sorry!」って思われたりする。
 でも、そういう風に思いたい、って感情は、確かに感情の奥底から来ているんだから、解析不足??

 特に、表現方法をあんまり知らない人については、解析に注意が必要だし、逆に、解析ができない人に評価されるようなシーンでは、より直接的にアピールしたり説明したりする必要がある。

 そして、最後は感情に落とし込んでいくこと!それによって、ピュアかピュアじゃないかがわかる。
 それらが重なっていけば、お互いの能力の差に関係なく、信頼関係を深めていけるのだと思う。

 微妙な俺の変化を察知して、対応を少しだけ変えてみようとする部分を俺が感じると、解析をしてくれていることを確認できて安心できるから嬉しい。
 もっともっと賢くなって、強くなって、守れるようになるために、俺が先回りして、そういうことを実行できたらな、って思っている。
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一体系における人の基本パラメータとそれらの相互作用

2013-01-25 03:55:50 | Weblog
 人の内的な振る舞いを規定するパラメータは「思考(頭で考えること)」と「感情(心で思うこと)」であるが、これらと共に外的な振る舞いである「行動(あるいは言動)」が相互作用して、その人を定めていく。
 人の基本パラメータである「思考」「感情」「行動」とそれらの相互作用について、今一度、このブログで説明しておこうと思う。

 思考を深めていけば、行動を最小限にすることができる。考えて考えて、いかにすれば最短ルートを築けるかを見出す、それが思考だ。
 例えば、ピペットにどれくらいの系統誤差がのっているかを考えてみれば、チップに水滴がこれくらい残っていても、実験にはほとんど影響が無い、ってことを決めることができる。実験毎に、これくらいの水滴が残っているだけなら気にしないでこのままチップを捨てよう!、などと、ラクに無駄なところに時間をかけずに、実験をすることができる。なんでもそうだけど、細かいところを気にすりゃイイ、ってもんじゃない。細かく気にすべきところを気にし、おおざっぱでも構わないところはおおざっぱにする。じゃなきゃ、沢山の実験を正確にコスパーよくこなせない。
 理論と実験系をきちんと考えることによって、実験という動作・行動を効率よく行うことができる、、思考の正しい使い方だ。

 しかし、考えすぎて何もしない、ってのはダメダメだ。もうちょっと、もうちょっとだけでも考えたいから、まだ行動に移しません、ってことを繰り返していては、いつまで経っても人生は始まらない。
 確かに行動してしまうことによって系が変わって、めんどくさくなったり、得られるはずのものが得られなくなったりすることはあるかもしれない。でも、ある程度、行動にしていかなきゃ、行動から思考が変わることもあるわけだから、半々くらいがイイんだと思う。
 俺は、けっこう前に、ケータイ各社の絵文字の変換を覚えていた。この人の機種はドコモだから、この絵文字は、あの感じになるしー、って考えながらメールを書いてると、進まない進まない。最低限、大幅に変わるところだけを押さえて、メールを書けばいいのに(今はLINEのおかげでこういうことを考えなくて良くなったが)、考えることによって行動が規制されてしまう悪い例だ。
 時には、思いきって行動してから、その場で考える技術、も大事だ。

 思考(理屈)と行動(外的な振る舞い)の相互作用について述べた。
 繰り返しを恐れずにここまでの話を簡単にまとめると、思考を深めることで行動を最小限にすることができる一方で、時間のことを考えずにそれをし過ぎるといっさいの行動ができなくなる怖さも存在している。行動が思考に影響を与えることもあるので、これと時間を考慮して思考していくことによって、行動は最小限に抑えながら、より良い結果を出していくことが可能となる。

 思考と行動のみの相互作用のみであったならロボットとカワラナイ。ヒトが人であることを最大限に定めてくれるのが「感情」だ。
 感情は、まっすぐ使えば直接行動に影響を与えるが、多くの人は、思考のカラムに通してから残ったモノを行動として提出していく。でも、「感情」ありきだからこそ、「思考」するし「行動」する、っという点を、絶対に忘れてはいけないし、これさえ意識していれば、不本意になったり、本末転倒になったりすることは無い。何が望みなのか?、って自分に訊いてみないとさ。

 感情は他のパラメータに比べて、相互作用されやすい。長い時間をかけて、思考が感情に与える影響は怖い。
 例えば「好きなんだ!」っと自分に何度も言い聞かせたりして、まるで最初っからそうであったかのように感じてしまう影響は恐ろしく、自分の幅を狭めやすいし、正しい評価を与えることができなくなる。
 これよりももっと感情に対して強力に相互作用してしまうのは、行動だ。カラ元気も元気のうち、っというように、行動してしまうと、感情もそれになったりすることは、毎日の中でも多い。元気の無いフリ、悲しんでるフリ、楽しいフリ、すべてが本当に本当の感情になってしまうことも多い(演技ってのは、これを最大限抑さえながら、行動だけを局在化していく行為だけど)。

 だからこそ、他人の感情依存でのまっすぐな行動に感銘を受けることは多い。ただ、感情にも階層性があって、表面的な出力の感情で行動にしたとしても薄っぺらい。
 俺は、清らかな心の奥底からのまっすぐな感情依存での行動にしか、感銘を受けないし、感動しないし、評価もしない。だって、「お腹すいたわー、だから金欲しいー」って思って強盗するようなことも、感情依存でのまっすぐな行動に含まれちゃうからね。バカな評価基準をする人は、こういう行為やそれと近い行為でも、カッコイイって思っちゃうんだよね、よく「考え」てないから。まぁ、それだけ現代に、感情依存でのまっすぐな行動は、観られないってことだけど。

 以上のように「思考」「感情」「行動」の性質とそれらの相互作用を上手に使っていくことが、毎日を楽しくし、これからもずっと楽しいことが保証させるために、大切なことだと思う。

 これらの内容は、このブログでの基本だし、ブログ以外でも俺は日常的に使うので、このブログを読む人や俺に関っている人は、きちんと、おさえておいてね。笑
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各論で満足しないで!

2013-01-24 01:50:11 | Weblog
 どんなに高級なことをしていても、一回の因果関係だけで満足してしまうようじゃ、論理性を高めていく面白味が半減してしまう。思考を停止させない、ってことを、繰り返し心の中で唱えないで、一回の因果関係の思考を色々な箇所でしていたとすると、論理展開によって自己矛盾の無いお話を自ら構築するには至れないので、それはそれ!、みたいな各論的な感じになってしまうからだ。
 ずっとずっと、深くまで遠くまで論理展開を保っていられる、いわば「思考の体力」を身につけなければ、深い部分で楽しくはならないのだ。

 基本的には、ミクロな世界の現象からマクロな世界の現象を論理的に結びつけること。すべての学問体系は繋がっている。思考の体力は、「ひも」から「宇宙」までを統一理論によって繋ぐことだけではなく、日常スケールやそれと小さいモノを見つめることにも重要だと思う。
 例えば、あるタンパク質の性質を知ることも、ミクロ方向なら、有機化学の構造から考えなきゃいけないし、突き詰めれば電子の動き、そして量子論的な揺らぎが寄与しているところまで思考の体力が持つか?っと自分に問い続けてみたりすると楽しい。マクロな方向なら、そのタンパク質が生体のどの部分に寄与し、外部に出力していき、環境や生態系に変化を与えているか?、を考えたりしていたい。
 これは理想であるし、なかなかそんなところまで解明できず、不毛になることがほとんど。だけど、このアミノ酸配列のドメインは、こういう性質を持っている、という報告がすでにある、などというところで思考を停止しちゃうのは、もったいないし、作業、とカワラナイように見えてしまう。理科系なのだったら、もう少しだけでも、突き詰めて考えていきたいと俺は思う。たとえそれが、遠回りになるんだとしても、長い目で観た時に、近道だと知っているし、逆に言えば、それだけが俺に「できること」だから。

 その世界でしか通用しない各論で満足しないで。
 そして、それを確認するために、ブレインストーミングが行われる。じゃないなら、他人と話すことに、実質的な意味なんて無いって。

 研究室をいくつか所属すると気がつかされるが、その研究室で好きな理系用語が存在している。
 「クロスオーバー」「階層性」「エンタングルメント」「ネットワーク」「自己組織化」「対称性の破れ」。それぞれに、きちんとした意味があるし、ちゃんと考えれば有用だが、半数以上は、教員も含めて、テキトーに言ってる。言ってりゃイイ、みたいになってたりする。
 そんなんじゃ、新しいものづくりは、しにくくてしょうがないんじゃないかな。突き詰めて考えて、意味のあるところまで持っていくには、それなりの必然性と思考の体力がないと難しいけど、新しいことをする、ってそういうことなんじゃないかなと思う。

 ただ、(研究などの)内容について、なら、まだイイ。
 スタイルや教育方法や生き様にまで、こういうことをしてしまうと、手痛いしっぺ返しが来る。

 ≪なので、文章を書くときやみんなに説明するときは、必ず、起承転結を意識して話して下さいね。≫
 『(笑)』
 ≪高橋君?どうしたの??≫
 『いや、別に、なんでもないですけど、、ちょっと、面白いなーって思って。』

 俺は、自分の基準で吟味するし、思考の体力についてなら誰にも負けない自信があるから、実質的な内容以外の本質的なときでも、騙されないし、吸収すべきモノは吸収しようとするから、混乱はしない。
 もし、先生の言うことを訊いてりゃイイ、みたいなのが純粋なんだと勘違いしているんだったら、今すぐ、考え直した方がイイぜ??吟味して、なんで?、って考える方が、よっぽど純真だ。

 まぁ、何年も何年も同じ場所にいたら、当たり前がズレて行っちゃうのはわかるんだけどさ。
 そして、だからこそ、俺は、今ここにいる。あの場所でも、ディフェンスし、さらにオフェンスするために、他の場所を知ることが必要だし、当時、本気で変えようと思うなら、この結論が誰にとっても最善。

 そう、あのメールは、さよなら、の宣言では無い。これだから、一回しか因果関係を考えられないのは困る。
 強くなってくるから。敵うようになるため、そして叶えられるようになるために、ってところまでは伝わらないことにダメージを受けたけど、今となっては、俺にとっては、それでよかったのかもしれない、っと思えるようになった。

 俺自身も、俺の割には、同じ場所にい続けてしまっていたのだと、意味をきちんと考えようとする上で、時間をかけて優しくできる人を目の当たりにしてみて、気がつくことができた。

 だからって、どんなことに対しても、今できることをやめることはしないけど。
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過去への「願い」

2013-01-22 01:43:03 | Weblog
 俺が一歩前に出たときに強気になれるのには理由がある。
 俺がいる限り、前提条件からの論理性が高いことに由来することはもちろんだが、なによりも本当に信頼している関係性があるからだ。

 常にそういう風に前に出てきた。小さいことから大きいことまで、正しいと思った事を正しく述べることに足がすくみながらも、できてしまうのは、それ以前の信頼関係で安心しているからだ。
 ここで、もし、前に出て、失敗したとしても、あの人たちは分かってくれるはずだ、っというくらいの関係性が存在していなければ、「無難」と呼ばれている「勝手の大義名分」の中に埋もれている正しさを追究し、それを周囲にぶつけていくことなんて、誰だってできない。

 「勢い」があるのは、これまでの信頼関係のおかげ。
 そして、この「勢い」を保っていられるのは、あなたのおかげなんだぜ?

 他人ありきだからこそ、論理性を高めようとする。せっかくなのに、俺がベストを尽くさなかったら申し訳ないからね。
 いじり、いじられながらも、その中に信頼関係のアカシである、瞳もきちんと笑っている笑顔があるからこそ、物理学を基盤とした論理構築ができ、お互いにとってのより良きに近づけるのだ。

 しかし、これから扱うべきは、順序が逆。
 そういえば、そのために離れる、っと決心した日もあった。失敗しても大丈夫。今なら、俺のことを守ろうとしてくれる人が何人もいる。
 この安心感の中で、俺も、守らなきゃいけない人やモノを守り、今できることをしながら、何十年も続く悪習を排除させる。それを通して、すでに具現化されてしまった哀しい真実を、できるだけ早いシノプシスに書き換えてみせる!

 もう少しの勇気がないと、かなわないことばかりで。もしかしたら?って、ずっと平行線。
 一番大事な気持ちを後回しにしてきたね。ふたつに別れた自分、くっつけるため。

 一番大事な気持ちが可変でも、すべてのtについて、成立させることを目指す。
 過去と現在の自分が、くっつく日は、近い。

 その時に、今大事に思っていることがそのまま残ることを、俺は望んでいる。

Perfume「願い」
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センター試験2013

2013-01-21 00:40:25 | Weblog
 さて、今年も日本の悪しき風習である「大学入試センター試験」が全国で行われました。今年は57万人くらいの人が受験したらしく、そのうち現役が45万人程度だったみたいですね。18歳人口が130万人とすると、35%が一般入試で大学行く感じか。そう考えると、意外と少ない気もします。
 もちろん、一般入試を受験する人の中でもセンターが必要じゃない人もいるから、必ずしも、だけど、受験生って、こっちが言わなくても必要もないセンター試験受けてくれるくらいだから、まぁ、いいのかな。

 毎年毎年言っていますが、センター試験は推薦入試の次に悪い入試制度の一つです。こういうくだらない試験は今すぐやめるべきなんだけど、まぁ、せっかく税金かけて作った制度だし、中々そうはならないんだろうな。しかも、モノをきちんと考えない日本人には手っ取り早い試験でもあるんだよね。
 何が悪いかというと、得点の切り分けの仕方。マークシートだから原理的に仕方ないんだけど、例えば物理の試験は今年は、23問。これを100点満点にするわけですが、100点ほどの連続性はなく、23点満点だと思ってくれたらそれでイイと思う(理科はだいたいそれくらいの切り分けです)。そんなんで、物理学の思考力を測れるわけがない。社会科は36問くらい。国語や英語にいたっては、1問8点なんて問題もあるくらいで、本当にざっくり作っている試験です。
 (ちなみに、TOEICにも同じことが言えて、990点満点ですが、198点満点でもイイはずですよね。)

 神奈川県立高校の入試がセンターっぽかったのですが、今年から記述重視に変わることになっています。こういう風にセンターも変わってくれれば良いのですが。

 このセンター試験、二次試験との合計点で合否判定をする大学がほとんどですが、かなり多くの大学でセンター重視です。都内でいうと、東京大学(20%)、東京工業大学(0%、900点中600点以上とれば無条件に二次)の2校が、センター無視しようぜ、って宣言しているような比率で、あとはセンター比率30%以上の学校がほとんどです。
 こういう学校が増えてくれるといいですが、横浜国立大学に代表されるようにセンター比率の高い一般の国立大学も多いので、なかなか変わってはいかないよね。

 ただし、このセンター試験っていうマークシート方式の試験が、とっても適切な学部があります。それは医学部です。国公立大学の医学部だけは例外で、俺も、多くの国公立大学の医学部入試でセンター試験の比率が高めなのはイイ事だと思います。
 理由は、書いてるとめんどくさいから、知りたい人は直接訊いてね。

 今年の試験、一通り確認しましたが、全体的には、俺は易化してると思います。だから、受験生の皆様は、いくら悪い試験でも、変に不貞腐れないように!
 少なくとも、「数学的帰納法」って記号で選ばせる問題なんか、俺らの頃は出なかったし。

 来年で、現行課程最後のセンター試験になります。再来年からは、難易度別になったり、科目編成が変わったりするので、管理する人達はもっともっと大変でしょうね。
 悔いがあったとしても、受験でも、日常生活でも、研究でも、今できることをすることしか、今はできません。なので、ずっとずっと、それを意識しながら、コンストに頑張っていったらいいんだと思います。

 結果が、どんなカタチで出ても、プライドは変わらない人であり続けないとね。そのためには一つひとつを自分のモノにして、きちんと飲み込むこと。
 実力もないのに、努力もしないのに、変なプライドの持ち方をしていても、滑稽ですから。

 常に、、言葉に騙されないで。
 っと、センター試験は教えてくれるから、実は案外、イイ試験なのかもね。笑
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物理学から学べる「必然性」

2013-01-19 03:08:05 | Weblog
 物理学に過剰な期待をしてはいけない。物理は、沢山ある選択肢のなかの一つでしかないし、どの学問分野も等しく面白い。
 そう教わったけれど、3年経って、物理には、選択肢そのものの価値を決めることも含まれるから、これから「自然科学」を本気で理解したいなら、必須科目だと思うようになっている。

 アリストテレスの時代から、学問の根本は「なぜか?」っと考えることだけど、物理は他の学問よりも、その繰り返しが多く出てくる。たった一回の因果関係の繰り返しや単純なOne-to-one mappingじゃなくて、網羅的に理解するってことが必須になるし、こういう考え方はどんなことにも役に立つ。
 だから、「なんで?」っと繰り返し、どんどん唱えていっても、超えられない壁があるということだ。

 それを打破するためには、「なぜか?」を考え解を求めた後に、求めるまでの戦略に必然性があるかを考えてみるとイイと思う。
 因果関係には必ず経路がある。その経路に必然性が無ければ、物理学で思考したことにはならない。もし、必然性、当然さ、当たり前、が何も無いなら、それは「なぜか?」っと考える価値の無いことだとわかる。

 例えば、「お腹すいた。食事しなきゃ。」「食事をとるのは、それはなぜ?」っと考えて、「エネルギー代謝をするため。」って答えが出たとする。だとしたら「生命にとってエネルギー代謝をするためには食事をとることが必然であるか?」を考える。なるほど、必然だ。この因果関係は意味のあることであったようだ。

 では、「俺の手元に今ボールペンが存在している。」「ここにボールペンが存在しているのは、なんで?」って考えてみると、「うちの妹が勝手に置いといたから。」っと答えがでたとする。では必然性を考えてみよう。「ボールペンがここに存在するためには、うちの妹いることが必然か?もしくは、うちの妹が存在していれば、必ず、ここにボールペンは存在するか?」っと考えてみたら、一目瞭然。俺の手元にボールペンが存在しているのが何故かを考えることは無意味だったということだ。
 訊き方が悪かったようである。「なぜここにボールペンというモノが存在しているのか?」っと考えよう。「字を書くという時間に依存しないコミュニケーションツールを支え、それが一般に重要であるとみんなに認められたから、量産された。」と解が出たとしよう。「技術の順番を考慮した上で、時間に依存しないコミュニケーションツールの中で、消しゴムで消えない確実性を重要視すると、ボールペンの存在が必然である。」と考えられる。ここで、やっと「なんで?」の意味が出てくる。

 物理以外の選択肢、、有機合成の作法、分子生物学の一般的な操作、教育学からの教え、自分の感情をそのまま伝えると言うこと、倫理、どれをとっても、論理学ですら、選択肢の中からベストを選択する必然性の考え方を教えてはくれない。そういう意味で、物理学は少し特別なのだ。

 「我々の専門分野を物理以上に分けてくれるな!原子核や物性や天体物理ってのは、非常に狭い物理という分野の中の、さらに細分化された便宜上のものであって、それらで自らを檻に入れて束縛するのは、一人の人間としての側面を否定することに繋がる。」

 この言葉は、俺よりも40以上も年上の世代の方が仰った言葉だ。だから俺ら(50歳までの人)は、「自然科学」という言葉で描きなおさなきゃいけないと思う。
 自らの興味を「有機合成」「超高熱菌」「地域社会学」などと狭すぎる分野だけで縛っていたなら、どんどんどんどんその世界にしかいられなくなってしまうし、研究分野そのものが進捗しないんじゃないかなぁ。

 幅を広げ、みんなで楽しく進捗するために、実務的に必要なことは、「なぜか?」という疑問と「それは当然のことなのか?」という覚えることがメンドクサイと思っている気持ちなのだと思う。

 そして、選択肢をすべて対等にみなきゃね。
 だから時には、自分の色んな感情、イライラでも、嬉しい気持ちでも、泣きたい想いでも、それらをそのまま出していくって選択肢や、そんな演技をする選択肢でも、そこに必然性があるなら、イコール自分の心に飲み込めるなら、選んでも良いんじゃないかなって思ったりする。
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好意と疑惑

2013-01-18 01:57:40 | Weblog
 自分の道順を辿ってみると、誰かで犠牲にして、自分が前進していることに気がついてしまうことがある。
 特に、懐疑的で変えようとして、でも最終ラインを超えられたから諦めてきたような集団に対して、結局、俺が参加する以前とカワラナイ状況に戻ってしまっていることを意識すると、何のために?、って思って、意味を求めがちで。

 ほらぁどんなに俺がキープしていたか考えてみてよー、って驕りがある以上に、俺がいなくなったらすぐにもとに戻ってしまった、所詮その程度の能力しか俺は持ち合わせていないんだな、って思うから、心のどこかで、できることを探している。

 ただ、先回りした思考力で、俺が悪いんじゃないこともわかっている。
 劇的に変わる何かを他力本願に期待して、自分は参戦しようとしない一人ひとりが悪いのだ。ついこないだまでも繰り返し言っていたように、集団の評価はナンバー1とナンバー2に大きく依るとは言ったが、他のメンツにまったく依らないわけではない。

 あなた自身も評価対象であることを忘れてはいないか?
 俺は、俺がその集団を離れる決心を持つとき、すでに、その中の一人ひとりに絶望していることを、忘れてはいけない。一人ひとりをその集団から脱出させようと思考する度合いこそが、系を助けるから諦めるへの相転移現象における、秩序パラメータだ。

 だとしたら、少なくとも俺が助ける価値がある、っと思っているモノに対して、助けようとすることの方が本質的だ。
 それは、俺個人がそう考えて、前に進んでいくために、そう思うことにしていたい。

 こういう身の振りをされたときに、少なくともお前らは、俺に、俺なんかに、途中から入ってきた俺なんかに、ダメだっ、て、はっきりと具現化されたわけだから、もっともっと本気で物事を変えていこうとか、そういう風には思わないの??惰性で孤軍奮闘してる場合じゃねーだろ。
 俺は常に変えたくもないし変わりたくもない。単純に変わるだけの能力があるだけなのだ。それで、ヤツは場所を変えた、っていうことに対して、もっと何かを考えたり感じたりして、自らも、何かしらの、ほんのちょっとでも、自発的に具現化できないの?って思うけど、よくよく考えてみれば、そんなこともできないヤツらの集まりだからこそ、俺は離れたのだと思い直したりして、堂々巡り。

 信じたいって思う好意の感情、と、それを否定しようとする物理的な疑惑の思考が、折り合いをつけようとはせずに、俺の中に居座る。

 そんなときに、今できることって何かあるのかな?、と、誰かに具体的な助けを求めたくなったりすることが、最近のちょっとした混乱の原因なのかもね。
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断られるのが怖いから

2013-01-16 00:36:01 | Weblog
 関東では、昨日降り積もった雪がまだ残り、今日は沢山遊べましたね。
 こういう日は、歩きにくい、とか、めんどくさい、って思う自分を、全力で否定しましょう。小中学生のときは、雪かきとかするなよー、って思ったはずです。この雪も楽しめるくらいの心のゆとりを持ちたいものだなっと思う。

 あと、中学生以下の子は、こういう日は、外で遊ぶのが義務です。笑
 雪だるまを作るんでも、雪合戦をするんでも、ソリ遊びまがいをするんでも、かなりイイお勉強になります。

 俺が小学生の時、、
 ある積雪の日、一人で目的もなく雪玉を転がしていると、当時仲いいヤツが寄ってきて、「雪だるま?」っと訊いてきた。その瞬間から、この行動の目的は、雪だるまになった。
 そして、だんだん人数が増えて、他の集団の雪玉と合体もして、結局は、「かまくら」を作ることとなった。出来あがったかまくらに入った時、一人で始めたのがこんなになったのか、って思いながら、共同の作業ってのはイイもんだなっと思ったりした。自分の思い通りの終末を迎えられなくてもね。

 あの頃から、ものづくり、っという点について、俺の役回りはカワラナイのかもしれない。
 いつだって、断られるのが怖いから。

 普段ものづくりをしていない人は、是非、この機会に、友達を集めて、雪だるまでも、かまくらでも、別に雪合戦でもイイと思う。理科的なお勉強の課外活動として、雪の日に外で遊ぶことは大切なことだと俺は思う。
 一人でコツコツやるようなことばかりが得意でも、理数系で楽しむことは難しくなってしまう。だとしたら、間違っていても、目的が変わってしまったとしても、少し相手に合わせる、ってことが大事。

 もしかしたら、俺が一番すごくやりたいことを、みんなに押し付けて、我儘になりながらでもイイのかもしれない。そういう風にできないし、っていうか俺は繊細だから(笑)、予防線張って、安全策ばかり考える。
 それが逆に失敗に寄与してしまうこともあるけれど、断られるのが怖い、って部分が、実はちょこっと本質的であると思うし、そういう気持ちを大切にするからこそ、楽しめることも多いのだと思う。

 そんな風な思考も、手っ取り早く考えられる、雪、ってすげー。
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「なんで?」のその先

2013-01-15 00:00:05 | Weblog
 疑問を持たなければ追求は始まらない。
 好きだから、って、なんでもかんでも覚えていったなら、その好きなモノから嫌われてしまう。だから、とにかく疑問を持つことが大事だ。

 でも、その前提として、お話をきちんと把握しようとするってのが大事だ。というよりも、お話をきちんと把握しようとすることと疑問を持つことはイコールになっていくはずだ。
 疑問を持てば良いんでしょ?、っていう気持ちで疑問を持っていったとしても、それは一つひとつが的外れな疑問になる。正しい疑問の持ち方、っと言うとオーバーだけど、把握しようとしているからこそ、お話や言葉を自分のモノにして飲み込もうとしているからこその疑問じゃないと、個人の能力アップには繋がらない。

 そして、正しい疑問を与えることこそ、イイ教育である、ロッククライミングできる足場をつけるためには大事だ。

 『おー、あなた、よく知ってたね。中性子。』
 ≪なんか覚えてました。≫
 『じゃぁ、ここでちょっと質問。この原子の図を観てみると、プラスの陽子とニュートラルな中性子が一緒になってて、マイナスの電子がその周りを廻っているけど、なんで?だって、プラスとマイナスはくっつくんでしょ??』
 ≪え?原子核だから?≫
 『おおー、原子核って言葉も知ってるのね、優秀優秀。でも、それは人間が勝手につけた原子核って名前でしょ?なんで、このプラスはマイナスよりもニュートラルのほうと一緒にいたがるの?っで、なぜ、その周りを、プラスに引き寄せられもせずに、マイナスの電子は廻れてるの?んね、不思議でしょ。』
 ≪確かにー。≫
 『うん、中学生はわかんなくてイイんだけどね(ホントは高校生も)。気になったら、調べといてね。』
 ≪えーー、教えてくれないんですか??≫
 『だって、みんな、お家でインターネット使えるっしょ?』

 レベルは関係ない。この質問に、なんとなくでも意見が言える理系は、理系の中で何パーセントかな?笑
 与えられた原子モデルのなかで、自己矛盾があるところを疑問に思うなら、中学の範囲でも、至極当然の疑問だ。これも基本だけど、俺自身がその時期に疑問に思った事を生徒に投げてみる。これが一番手っ取り早いし満足される。
 しかし、これはいくらなんでもレベルが高すぎる、っと思う方も多いと思う。なぜなら、この疑問に、すごくきちんと、正確に答えようと思ったら、研究レベル、つまり人類が未だによくわかってないことであるからだ。少なくとも量子力学の知識が必要になるし、自然界の基本的な「4つの力」についてのお話になる。でもね、自分の生徒に、それくらいの期待をしてイイと思うんだよね。
 今じゃなくても、これをキッカケに、いつか、解決してくれればイイ。

 だから、まずは、疑問をとっておいて、自分が本当の本当に納得できるまで、繰り返し唱えてみることが大切だと思う。
 これを高速でやるのが、発表におけるオフェンスということだ。

 ただ、どんなにバカらしい疑問だってお互いに思っても、どんな気持ちでも、たとえば、疑問を抱くことが本質なんでしょ?だからとにかく疑問を持ってみました!、って気持ちであったとしても、それを発言する、っということや、発言される、っということに対して、真摯に受け止めるということが、信頼関係のきちんとした築き方だと思う。

 そのさらに先をきちんと見つめられているということが理論屋が優しさを持った時に、今できること、なんだし。
 簡単な話、明らかに間違っていたと思っても、ダメだなって思っても、とにかく『それでいいんだ!』っと一度受け止めることが、どちら側の関係性になったとしても、大切なことなんだ。
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教員として

2013-01-14 03:54:19 | Weblog
 繰り返して追求していれば、どんなことでもいつかは誰かに教えたくなってくる。
 その捌け口として、教育が存在しているだけなら、こんなに意味の無いことはない。本来、現行の学習指導要領などにも書いてあるように、すべての教育は、「生きる力」や「問題解決能力」を高めることを教育の主眼におかなければいけない。何かの信念や何かの生きざまを各教科や生徒指導等を通じて教えることが本来なのに、年齢が高いってだけで正当化される勝手が、日本では当たり前になっている。

 「出る杭は打たれる」「年上は例外なく尊敬しましょう」ってね。

 年齢や学年が上がれば上がるほど、こういう勝手は常に許される。
 だから、A0のポスターを自分が作れないからってA0ポスターの悪いところを乏しい論理性から圧迫的に教授したり、自分の論理性と評価を気にしてばかりで学生をまったく面倒みないくせに放任主義という言葉を巧く使って学生側に責任を押し付けて卒業させなかったり、競争っと称して学生に立ち廻らせてこき使ったりすることも、許されるんでしょ?笑

 自らの怠惰を大義名分と年功序列に落とし込んで正当化しているようじゃ、教育、っとは言わねーんだよ。
 それは、ただ、威張って偉ぶってるだけ。近所の偉ぶってる悪ガキとなんら変わらん。

 んで、こういう人の言うことを、そのまま鵜呑みにしてコピーして従うだけの若い人は、もっともっと未来が無い。まあ、せいぜい、こき使われて、意味の無い繰り返しの生活をしてたらイイんじゃない?あなたが望んでいることでしょ??
 もし、少しでもそう思わないなら、普段からずーっと言ってるけど、すべての言葉はきちんと自分の心の中に飲みこまきゃね。その心がキレイであることは絶対条件だけどさ。
 年上の勝手に従うことが「大人」であり「社会なわけです」っとディフェンスするなら、もう少し、思考力を持って欲しいかな。そのせーで、どれだけ、そのさらに下にいる、後輩や弱い立場の人に迷惑をかけているか、ちったー考えてみろ、って思う。

 っま、だからって、教員として、怠惰をしちゃいけないとは言っていない。実務的にもっと頑張れ、って言ってるわけじゃない。むしろ、抜くところは抜くべきだ。正当化して、生徒や若者に押し付けなけりゃ、それでイイんだ。

 緊張しているときはね、緊張している、って周りに言っちゃえばイイ。
 こういうことを教えたいって思ったなら、それをそのまま生徒に言えばイイ。
 新しいシステムや新しい技術を未習得なら、それをそのまま口にして、私は不安だっ、って仰っしゃったらイイんだよ。それが嫌なら、能力を正当的に上げるように努力し続けなさい。年長者なんだから。

 リーダーシップは、必ずしも、自分がすべてを網羅しなきゃいけないというわけじゃない。自分で吟味した上での最終決定権があるということだけだ。

 教育を「崖を上がること」に例えるなら、イイ教育ってのは、生徒がロッククライミングできるような足場を創ること、だと俺は思う。
 今、日本では、二極化されている。「この崖を上るためのエスカレーターを作ってやるからとにかく俺の指示に従え!(管理主義)」か「このツルツルな崖を自分でどうにか上っといてね。(放任主義)」のどちらか選べ!、ってね。

 多くの日本人は怠惰なので前者を選択し、その影響が技術不足に反映されているし、後者の悪い部分がでると自分の所属は存在しているのにNEETみたいな感じになる。
 大学入試一つとってみても、そう。前者は推薦入試。いわゆる「4つの観点」で先生に良い顔してた人が大学に行ける部分のシステムが正統的に行われる。後者は一般入試。だけど、自分ではどうにもならないから、親の力、お金を払って予備校に行き、結局、前者に近い感じになる。

 スーパーマンや俺みたいに運がイイ人をベースに理想の若者像を作成してはいけない。ごく一般的な人間が、正当な努力をしたときに、報われるようにシステムを組むべきなのだ。

 すべての人間が求めているのは、寂しい気持ちを埋める、褒めてくれる言葉と一緒に何かのものづくりをする仲間なんだから。どんな生徒だって、「お前最高の生徒だよ!」「なんて素晴らしい賢さを備えているんだ!」「一番すごい!」って言われたいし、それは人の子である先生側も同じ。
 ロッククライミングを自分がしたことがあれば、石の置き方さえ学べば、どこに足場を置けば良いかは簡単だ。ね、ちゃんと繋がってるでしょ?

 まぁ、俺に対して、こういう配慮をしてくれている人がいたとしたら、ちょっと怒るけどね。笑
 だって、俺は、これでも、高校生を教えることを国から認められている、教員として、の側面もあるんだぜ?どんな教授のされ方、どんな対応のされ方をしても、自らが発信源として、自らの生きる力に反映させるくらいの力は持ってるつもりだよ。

 もちろん、その気持ちは嬉しいんだけどね。
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見えないことを観ようとする力

2013-01-12 01:22:18 | Weblog
 視覚を使って捉えられないものを理解する力が、理系には特に必要だ。

 顕微鏡(共焦点、位相差など)を使えばマイクロメートルくらいなら拡大して見ることができるけど、そこで起こっているミクロな物理現象をそのまま見ることはできない。さらに、これ以上小さくなると、具体的な相互作用無しで見ることはできなくなる(例えばX線をあてる、原子間力を利用するなどしないとイメージングできない。もちろん、光子やレーザーは相互作用が無いとしてだけどね(たいてい無いっしょ)。)。
 つまり、何か見えることの研究をしていたのだとしても、見えないものを観ようとする力がどうしても必要になる。菌内でタンパク質が発現されるイメージ、求電子反応のイメージ、暗黒物質が恒星を引っ張るイメージ、H-NMRでのスピン-スピン間の相互作用のイメージ、「強い相互作用」のイメージ、どれも、誰も見たことないけど、確かに存在しているはずのソレを観ようとすることが、進捗や開拓のために大事なのだ。そして、繰り返していれば、いつかは頭の中で観えるようになる。

 この、見えないことを様々な情報から頭の中でイメージングして観る、っという能力が一番求められる分野が「数学」だと思う。
 特に、様々な次元の座標系を局所的に持つことができる多様体なんかを扱う抽象数学では、当然だが、誰も見たことはないことを考え、定義から公理を基に定理を明らかにしていく。しかし、微分幾何学をきちんと勉強している人は、確実に代数多様体を観たことがあり、リー群も観えるようになっていく。
 物理だって、見えないことを観る力が、とっても大事だ。量子力学に出てくる波動函数は、無限次元の複素ヒルベルト空間で表される。ヒルベルト空間とは完備な計量ベクトル空間であり、まぁ、あらゆる内積を定義できるベクトル空間ということだと考えれば良い(物理学科は笑)。そんな空間内で複素函数で表現され、次元は無限である。そんな空間、絵に描くことができるわけがないのだ。だからって、必要じゃ無いわけじゃない。目には見えない世界で描かれる波動函数を観ることによって、現代物理学の基礎である確率解釈という新しい知見が生まれたのだから。

 理系は実質的に必ず必要だけど、全ての人にとっても、誰かの心を読み取って先回りして優しさを提供するためには、この、見えないものを観ようとする力、は必要だ。何故なら、他人の感情や空気や価値観は、絶対に見えないし、なんやったら、表現もされないから。
 具現化されたモノ、相手が具体化してきたモノそのものに騙されず、中身、内情を知ろうとするには、見えないものを観ようと努力しなければ、わからない。

 最初から目が見えない人だって、あれだけ三次元ユーグリッド幾何空間を理解できるのだとしたら、健常者が他人の感情などの見ることができないモノを観えないわけがないのだ。
 すべての情報を集約して観たときに、感じた瞬間のその事実こそが唯一の真実であり、それから具現化されることに依り過ぎてはいけない。声色、表情、仕草、それ以外にも様々なことから「観ること」ができるはずだよね。

 そう想った時に、俺も、見えることに惑わされていることが多いんじゃないかなって感じる。
 実験操作のツキの良さについて、俺はちょっと自信がある。それは、見えているモノ以外のモノを実験中に観ようと他人よりも努力しているからだと思いたい。

 だとしたら、もっともっと、自分の、観ようとする力を、本質的なことがらについてだって、信じてみても良いんじゃないか、っと思ったりする。
 そして、「見えないからこそ観えてくる部分」の大切なところを、これまで以上に大事にしたいと思う。
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