研究者は書いた論文の質と量によって評価される。
このシステムは世間からも研究者当人からも大学院生からも当然視されることが多いが、果たして本当に正しいのだろうか?
「研究者」というと大学の先生をイメージする人も多いと思うが、この記事では「大学教員は教育者としての側面もきちんと評価しなくてはいけない」ということを言いたいわけではない(当然、それもそうであろうが)。あくまで、(教育ではなく)研究社会全体として、より良く学問を進捗させるうえで、論文による評価システムは機能しているのかということを考えてみたいと思う。
さらに、ここでは理系学問についてしか考えない。論文も学位論文ではなく原著論文のみを扱うので、注意してもらいたい。
理系のアカデミックの世界では、「論文を書く」といった場合、学術雑誌に自分の研究成果を載せることを指す。学術雑誌にはImpact Factor(IF)という数値が存在していて、これはその学術雑誌に掲載された論文が過去2年以内にどれくらい頻繁に引用されたかを示す値だ。IFの高い雑誌に載せることは注目を集め、自身の評価に繋がる。実際にYahooのトップニュースに「こんな研究成果があった」と発表される論文は、IFの値が高い、Science誌やNature誌やその姉妹紙であることが非常に多い。
私が卒研生の頃(2009年)に、ある研究室(物理の理論)の助教とポスドク(お互い同期同士)が次のように談笑していたことがある。
「うちの分野だとさー、助教になるには、PRL(Physical Review Letters)が一本は必要だって話だよね」
「あー、そうだね。ScienceかNatureが一本でもあれば、PI(Principal Investigator, 教授などの研究室を持っている立場の人)になれる、って話もあるよ。まぁ、なんたって、NatureやScienceは次のページが恐竜の化石発掘、とかだったりするもんね」
これらは分野によって時代によって変わるだろうが、どの分野でもどの時代(ここ20年)でも、論文の質は、IFによって担保されていると信じている研究者・大学院生は多い。
もちろん、大事なのは論文の質だけではなく、量も大事だという意見もあるだろう。実際に、IFがそれほど高くはない中堅雑誌もたくさん存在しており、このレベルの雑誌を定期的に自分の論文を載せることで業績を保っている研究者もたくさんいる。
研究社会の構造を理解するうえで重要なのは、論文というものは、「書けば評価が上がる」というものではなく、「書いていなければドロップアウトは免れない」ということである。
たとえば、大学院を卒業して博士号を取得した人が、とりあえず研究室で研究員をやるポスドクという制度があるが(筆者も現在このポスドクである)、これは1年契約で1年ごとの更新、というのが殆どである。助教も最近では特任助教という有期雇用の職が増え、准教授でさえも特任准教授の有期雇用職が増えている。研究者で終身雇用の職にありつける人は極僅かになってきている(世代によって異なるが、最近はそうだと思う)。
つまり、何か研究で上手く行かなくて1年以内にすぐに論文が出そうな結果や雰囲気(?)がなければ、すぐに次の職を探さなければならないということである。
さぁ、あなたなら、どうするか?
論文を書かなければ、出世ができないどころではなく、今の立場にい続けることもできない。
だとしたら、世馴れた大人の生き方として、大きな冒険をせずに、とにかくすぐに論文になりそうな確実なことを研究するのではないだろうか?…そう、それこそが、日本に限らず、世界中で起きている、自然科学の研究の世界の現実である。
どんなに終身雇用の立場であっても、研究室を運営するための費用は、競争的資金のシステムで研究費を獲得し続けなければならない。研究費がゼロになってしまえば、(少なくとも実験が必要な)研究ができなくなってしまう。研究費を獲得し続けるためには、論文を定期的に出版している必要がある。どの研究室のホームページでも、「出版, Publication」の項目があるのはこのためだ。大学の専攻や研究科で、毎年Publicationリストを冊子にして発表しているところもあり、各研究室がどのくらい論文を書いているか、そして、その論文がどのくらいのIFの学術雑誌に掲載されたのかを見られる。
この「業績」というやつが、次年度以降の研究費獲得、自分の職の継続や出世に影響するのだ。研究費を多く獲得できれば、ポスドクや特任助教を雇いやすくなる。しかし、それはその期間の予算に依存しているため、必然的に有期雇用になる。チーム戦の顔と個人戦の顔を併せ持っているのが面白い。
明日の(自分のor部下の)職のために、みんながみんな、確実に、なるべく早く、論文になりそうなことを研究しようとする。
なかなかその価値が認められないかもしれないようなことや、不確実なことは、誰も研究したがらない。つまり、「論文を出す」という結果に最適化した振る舞いを「研究」と定義したくなるのだ。(だが本来、研究とは、前人未到で不確実な、その価値が認められにくいようなことを、発見・発明・理論化する行為であるはずだが)
だから、論文や研究計画書で使う言葉だけはどんどんゴージャスになる。でも、内容をきちんと読んでみると、「え?そこまで言っちゃう?」という内容がやたらに増えるわけだ。
しかし、あまりそれを誰も指摘しない。細分化されすぎた分野のなかで、次、いつ、その人に評価されるかわからないからだ。論文掲載の判断は、その分野内の誰かが行う可能性が極めて高いし、科研費についてもだいたいはそうである。さらに、論文掲載の判断では、「この論文を引用せよ」というようなリバイスを受けることも少なくはない(引用が増えれば評価が高まるので、自分の論文を引用させたがる)。
加えて、とにかく論文を出さなければ現状維持すらできないわけだから、といって、意外なところで、基礎がおろそかになる。
たとえば、私のいる分野では有機合成の実験設備や分子生物学の実験設備があるが、白衣を着ていない人がマジョリティである。安全性からすれば、白衣は絶対に着たほうが良いはずだが、そんなことよりも論文を書くことに最適化させようとするほうが先なのだ。
これは今日の出来事だが、実験に使う酵素が入ったエッペンチューブを床に落としてしまった人がいて、私が指摘するまでチューブをエタノールで除菌しようとしなかった。さすがに日本では、そういうことも少なかったが(そもそも土足厳禁の研究室が多いから、衛生環境は日本のが良いのだが)、彼らは、うちの研究室だけでなく他の研究室でも実験技術を学んできている。大腸菌を使うのにクリーンベンチを使わないのも信じられないが、そういった衛生環境とコンタミネーションが起きやすいような環境であっても、実験環境の改善に取り組もうとするよりも、論文に使えそうなデータや図がでること、さらに予算獲得のための様々な行為(研究費申請文章の作成、研究会の準備・計画、談笑すらも含む)をとにかく優先させてしまう。
さらに、自分のデータを出すことが最も重要なので、一人でずっと実験装置を占領してしまう人も出てくる。
例えば、顕微鏡でデータを出すのがメインの研究室で、特にコミュニケーションもなく、1週間のうちで平日に3日間以上、コアタイムに6時間以上、一度に2台の顕微鏡を予約していたりすれば、それは確かに結果は出るかもしれないが、他の人はたまったもんじゃない。このようなモラルに反する、他の人がそれに対して文句を言いにくいような雰囲気の人が成果を出し、立場を得やすいムードになってしまうのも問題である。
こういったことが、私が見てきた研究室(物理、化学、生物など各分野について10以上の研究室)について、大きいレベルでも小さいレベルでも、多発している。そして、私が募集している研究生活の相談メール(これまでに150件ほど)でも、そういった問題を垣間見ることは多い。
そもそも、専門性とは、インプットからアウトプットまでの時間の長さが長ければ長いほど、高い可能性が高い。
つまり、着手してから3ヶ月で論文になった、というと「すごい」とコメントしたくなるが、3ヵ月程度で論文になってしまうような専門性の低い誰でもできるような研究内容、とも言えるわけである。
確かに一部、天才はいる。そして、最低限のモラルと基本的なルールを守っている研究している人もそれなりにいるだろう。しかし、さすがにそんなに天才は多くないだろう、というレベルの数で、3ヶ月~1年で結果を出し論文を出していたりする。そういうケースは、もれなく、モラル違反をしているか、何かしらの基礎や基本的なルールを破っているか、論文にするために「なかったことにする」データがあるか、その業界内だけで通じる「どうでもいい無意味なテーマ」をやっているか、これまで研究してくれた先輩たちから引き継いだテーマをちょこっとやっただけか、、そして、ねつ造をしているか、のいずれかである。
今後、AIの技術がさらに進み、ラボオートメーション化が進めば、論文に最適化させることができるだけの実験研究者は全員、遅かれ早かれ、職を失う。
理論研と実験研の区別がつかなくなる時代は、おそらく私が生きている間に来るだろう。データ過多の新しい時代には、結果と結果の隙間を確実な論理で埋められる研究者が生き残るだろう。だからこそ、今後、どのような分野であれ、理系は、物理学(理論)や数学(特に統計学)がきちんとできなくてはいけない。特に若い理系は。
そのような時代が来る前に、、本来、論文は、どのくらいの頻度で書くべきものなのか、今一度、それぞれで考えていただけたらと思う。
それこそが、新しいシステムの枠組みになるのだから。
私が、だいぶ前から、本質的にきちんと研究をするためには原理的にアカデミックを去るしかないのかもしれない、と考えているのは以上のような理由である。
だって、論文工学をずっとやってても、時代に即した実力は絶対につかない。ちゃんと実力をつけないと、アカンからね。
このシステムは世間からも研究者当人からも大学院生からも当然視されることが多いが、果たして本当に正しいのだろうか?
「研究者」というと大学の先生をイメージする人も多いと思うが、この記事では「大学教員は教育者としての側面もきちんと評価しなくてはいけない」ということを言いたいわけではない(当然、それもそうであろうが)。あくまで、(教育ではなく)研究社会全体として、より良く学問を進捗させるうえで、論文による評価システムは機能しているのかということを考えてみたいと思う。
さらに、ここでは理系学問についてしか考えない。論文も学位論文ではなく原著論文のみを扱うので、注意してもらいたい。
理系のアカデミックの世界では、「論文を書く」といった場合、学術雑誌に自分の研究成果を載せることを指す。学術雑誌にはImpact Factor(IF)という数値が存在していて、これはその学術雑誌に掲載された論文が過去2年以内にどれくらい頻繁に引用されたかを示す値だ。IFの高い雑誌に載せることは注目を集め、自身の評価に繋がる。実際にYahooのトップニュースに「こんな研究成果があった」と発表される論文は、IFの値が高い、Science誌やNature誌やその姉妹紙であることが非常に多い。
私が卒研生の頃(2009年)に、ある研究室(物理の理論)の助教とポスドク(お互い同期同士)が次のように談笑していたことがある。
「うちの分野だとさー、助教になるには、PRL(Physical Review Letters)が一本は必要だって話だよね」
「あー、そうだね。ScienceかNatureが一本でもあれば、PI(Principal Investigator, 教授などの研究室を持っている立場の人)になれる、って話もあるよ。まぁ、なんたって、NatureやScienceは次のページが恐竜の化石発掘、とかだったりするもんね」
これらは分野によって時代によって変わるだろうが、どの分野でもどの時代(ここ20年)でも、論文の質は、IFによって担保されていると信じている研究者・大学院生は多い。
もちろん、大事なのは論文の質だけではなく、量も大事だという意見もあるだろう。実際に、IFがそれほど高くはない中堅雑誌もたくさん存在しており、このレベルの雑誌を定期的に自分の論文を載せることで業績を保っている研究者もたくさんいる。
研究社会の構造を理解するうえで重要なのは、論文というものは、「書けば評価が上がる」というものではなく、「書いていなければドロップアウトは免れない」ということである。
たとえば、大学院を卒業して博士号を取得した人が、とりあえず研究室で研究員をやるポスドクという制度があるが(筆者も現在このポスドクである)、これは1年契約で1年ごとの更新、というのが殆どである。助教も最近では特任助教という有期雇用の職が増え、准教授でさえも特任准教授の有期雇用職が増えている。研究者で終身雇用の職にありつける人は極僅かになってきている(世代によって異なるが、最近はそうだと思う)。
つまり、何か研究で上手く行かなくて1年以内にすぐに論文が出そうな結果や雰囲気(?)がなければ、すぐに次の職を探さなければならないということである。
さぁ、あなたなら、どうするか?
論文を書かなければ、出世ができないどころではなく、今の立場にい続けることもできない。
だとしたら、世馴れた大人の生き方として、大きな冒険をせずに、とにかくすぐに論文になりそうな確実なことを研究するのではないだろうか?…そう、それこそが、日本に限らず、世界中で起きている、自然科学の研究の世界の現実である。
どんなに終身雇用の立場であっても、研究室を運営するための費用は、競争的資金のシステムで研究費を獲得し続けなければならない。研究費がゼロになってしまえば、(少なくとも実験が必要な)研究ができなくなってしまう。研究費を獲得し続けるためには、論文を定期的に出版している必要がある。どの研究室のホームページでも、「出版, Publication」の項目があるのはこのためだ。大学の専攻や研究科で、毎年Publicationリストを冊子にして発表しているところもあり、各研究室がどのくらい論文を書いているか、そして、その論文がどのくらいのIFの学術雑誌に掲載されたのかを見られる。
この「業績」というやつが、次年度以降の研究費獲得、自分の職の継続や出世に影響するのだ。研究費を多く獲得できれば、ポスドクや特任助教を雇いやすくなる。しかし、それはその期間の予算に依存しているため、必然的に有期雇用になる。チーム戦の顔と個人戦の顔を併せ持っているのが面白い。
明日の(自分のor部下の)職のために、みんながみんな、確実に、なるべく早く、論文になりそうなことを研究しようとする。
なかなかその価値が認められないかもしれないようなことや、不確実なことは、誰も研究したがらない。つまり、「論文を出す」という結果に最適化した振る舞いを「研究」と定義したくなるのだ。(だが本来、研究とは、前人未到で不確実な、その価値が認められにくいようなことを、発見・発明・理論化する行為であるはずだが)
だから、論文や研究計画書で使う言葉だけはどんどんゴージャスになる。でも、内容をきちんと読んでみると、「え?そこまで言っちゃう?」という内容がやたらに増えるわけだ。
しかし、あまりそれを誰も指摘しない。細分化されすぎた分野のなかで、次、いつ、その人に評価されるかわからないからだ。論文掲載の判断は、その分野内の誰かが行う可能性が極めて高いし、科研費についてもだいたいはそうである。さらに、論文掲載の判断では、「この論文を引用せよ」というようなリバイスを受けることも少なくはない(引用が増えれば評価が高まるので、自分の論文を引用させたがる)。
加えて、とにかく論文を出さなければ現状維持すらできないわけだから、といって、意外なところで、基礎がおろそかになる。
たとえば、私のいる分野では有機合成の実験設備や分子生物学の実験設備があるが、白衣を着ていない人がマジョリティである。安全性からすれば、白衣は絶対に着たほうが良いはずだが、そんなことよりも論文を書くことに最適化させようとするほうが先なのだ。
これは今日の出来事だが、実験に使う酵素が入ったエッペンチューブを床に落としてしまった人がいて、私が指摘するまでチューブをエタノールで除菌しようとしなかった。さすがに日本では、そういうことも少なかったが(そもそも土足厳禁の研究室が多いから、衛生環境は日本のが良いのだが)、彼らは、うちの研究室だけでなく他の研究室でも実験技術を学んできている。大腸菌を使うのにクリーンベンチを使わないのも信じられないが、そういった衛生環境とコンタミネーションが起きやすいような環境であっても、実験環境の改善に取り組もうとするよりも、論文に使えそうなデータや図がでること、さらに予算獲得のための様々な行為(研究費申請文章の作成、研究会の準備・計画、談笑すらも含む)をとにかく優先させてしまう。
さらに、自分のデータを出すことが最も重要なので、一人でずっと実験装置を占領してしまう人も出てくる。
例えば、顕微鏡でデータを出すのがメインの研究室で、特にコミュニケーションもなく、1週間のうちで平日に3日間以上、コアタイムに6時間以上、一度に2台の顕微鏡を予約していたりすれば、それは確かに結果は出るかもしれないが、他の人はたまったもんじゃない。このようなモラルに反する、他の人がそれに対して文句を言いにくいような雰囲気の人が成果を出し、立場を得やすいムードになってしまうのも問題である。
こういったことが、私が見てきた研究室(物理、化学、生物など各分野について10以上の研究室)について、大きいレベルでも小さいレベルでも、多発している。そして、私が募集している研究生活の相談メール(これまでに150件ほど)でも、そういった問題を垣間見ることは多い。
そもそも、専門性とは、インプットからアウトプットまでの時間の長さが長ければ長いほど、高い可能性が高い。
つまり、着手してから3ヶ月で論文になった、というと「すごい」とコメントしたくなるが、3ヵ月程度で論文になってしまうような専門性の低い誰でもできるような研究内容、とも言えるわけである。
確かに一部、天才はいる。そして、最低限のモラルと基本的なルールを守っている研究している人もそれなりにいるだろう。しかし、さすがにそんなに天才は多くないだろう、というレベルの数で、3ヶ月~1年で結果を出し論文を出していたりする。そういうケースは、もれなく、モラル違反をしているか、何かしらの基礎や基本的なルールを破っているか、論文にするために「なかったことにする」データがあるか、その業界内だけで通じる「どうでもいい無意味なテーマ」をやっているか、これまで研究してくれた先輩たちから引き継いだテーマをちょこっとやっただけか、、そして、ねつ造をしているか、のいずれかである。
今後、AIの技術がさらに進み、ラボオートメーション化が進めば、論文に最適化させることができるだけの実験研究者は全員、遅かれ早かれ、職を失う。
理論研と実験研の区別がつかなくなる時代は、おそらく私が生きている間に来るだろう。データ過多の新しい時代には、結果と結果の隙間を確実な論理で埋められる研究者が生き残るだろう。だからこそ、今後、どのような分野であれ、理系は、物理学(理論)や数学(特に統計学)がきちんとできなくてはいけない。特に若い理系は。
そのような時代が来る前に、、本来、論文は、どのくらいの頻度で書くべきものなのか、今一度、それぞれで考えていただけたらと思う。
それこそが、新しいシステムの枠組みになるのだから。
私が、だいぶ前から、本質的にきちんと研究をするためには原理的にアカデミックを去るしかないのかもしれない、と考えているのは以上のような理由である。
だって、論文工学をずっとやってても、時代に即した実力は絶対につかない。ちゃんと実力をつけないと、アカンからね。