たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

論文を書くことに最適化させるのはやめましょう

2018-01-31 18:00:33 | 自然科学の研究
 研究者は書いた論文の質と量によって評価される。
 このシステムは世間からも研究者当人からも大学院生からも当然視されることが多いが、果たして本当に正しいのだろうか?

 「研究者」というと大学の先生をイメージする人も多いと思うが、この記事では「大学教員は教育者としての側面もきちんと評価しなくてはいけない」ということを言いたいわけではない(当然、それもそうであろうが)。あくまで、(教育ではなく)研究社会全体として、より良く学問を進捗させるうえで、論文による評価システムは機能しているのかということを考えてみたいと思う。
 さらに、ここでは理系学問についてしか考えない。論文も学位論文ではなく原著論文のみを扱うので、注意してもらいたい。

 理系のアカデミックの世界では、「論文を書く」といった場合、学術雑誌に自分の研究成果を載せることを指す。学術雑誌にはImpact Factor(IF)という数値が存在していて、これはその学術雑誌に掲載された論文が過去2年以内にどれくらい頻繁に引用されたかを示す値だ。IFの高い雑誌に載せることは注目を集め、自身の評価に繋がる。実際にYahooのトップニュースに「こんな研究成果があった」と発表される論文は、IFの値が高い、Science誌やNature誌やその姉妹紙であることが非常に多い。

 私が卒研生の頃(2009年)に、ある研究室(物理の理論)の助教とポスドク(お互い同期同士)が次のように談笑していたことがある。
 「うちの分野だとさー、助教になるには、PRL(Physical Review Letters)が一本は必要だって話だよね」
 「あー、そうだね。ScienceかNatureが一本でもあれば、PI(Principal Investigator, 教授などの研究室を持っている立場の人)になれる、って話もあるよ。まぁ、なんたって、NatureやScienceは次のページが恐竜の化石発掘、とかだったりするもんね」

 これらは分野によって時代によって変わるだろうが、どの分野でもどの時代(ここ20年)でも、論文の質は、IFによって担保されていると信じている研究者・大学院生は多い。
 もちろん、大事なのは論文の質だけではなく、量も大事だという意見もあるだろう。実際に、IFがそれほど高くはない中堅雑誌もたくさん存在しており、このレベルの雑誌を定期的に自分の論文を載せることで業績を保っている研究者もたくさんいる。

 研究社会の構造を理解するうえで重要なのは、論文というものは、「書けば評価が上がる」というものではなく、「書いていなければドロップアウトは免れない」ということである
 たとえば、大学院を卒業して博士号を取得した人が、とりあえず研究室で研究員をやるポスドクという制度があるが(筆者も現在このポスドクである)、これは1年契約で1年ごとの更新、というのが殆どである。助教も最近では特任助教という有期雇用の職が増え、准教授でさえも特任准教授の有期雇用職が増えている。研究者で終身雇用の職にありつける人は極僅かになってきている(世代によって異なるが、最近はそうだと思う)。
 つまり、何か研究で上手く行かなくて1年以内にすぐに論文が出そうな結果や雰囲気(?)がなければ、すぐに次の職を探さなければならないということである。

 さぁ、あなたなら、どうするか?

 論文を書かなければ、出世ができないどころではなく、今の立場にい続けることもできない。
 だとしたら、世馴れた大人の生き方として、大きな冒険をせずに、とにかくすぐに論文になりそうな確実なことを研究するのではないだろうか?…そう、それこそが、日本に限らず、世界中で起きている、自然科学の研究の世界の現実である。

 どんなに終身雇用の立場であっても、研究室を運営するための費用は、競争的資金のシステムで研究費を獲得し続けなければならない。研究費がゼロになってしまえば、(少なくとも実験が必要な)研究ができなくなってしまう。研究費を獲得し続けるためには、論文を定期的に出版している必要がある。どの研究室のホームページでも、「出版, Publication」の項目があるのはこのためだ。大学の専攻や研究科で、毎年Publicationリストを冊子にして発表しているところもあり、各研究室がどのくらい論文を書いているか、そして、その論文がどのくらいのIFの学術雑誌に掲載されたのかを見られる。
 この「業績」というやつが、次年度以降の研究費獲得、自分の職の継続や出世に影響するのだ。研究費を多く獲得できれば、ポスドクや特任助教を雇いやすくなる。しかし、それはその期間の予算に依存しているため、必然的に有期雇用になる。チーム戦の顔と個人戦の顔を併せ持っているのが面白い。

 明日の(自分のor部下の)職のために、みんながみんな、確実に、なるべく早く、論文になりそうなことを研究しようとする。
 なかなかその価値が認められないかもしれないようなことや、不確実なことは、誰も研究したがらない。つまり、「論文を出す」という結果に最適化した振る舞いを「研究」と定義したくなるのだ。(だが本来、研究とは、前人未到で不確実な、その価値が認められにくいようなことを、発見・発明・理論化する行為であるはずだが)

 だから、論文や研究計画書で使う言葉だけはどんどんゴージャスになる。でも、内容をきちんと読んでみると、「え?そこまで言っちゃう?」という内容がやたらに増えるわけだ。
 しかし、あまりそれを誰も指摘しない。細分化されすぎた分野のなかで、次、いつ、その人に評価されるかわからないからだ。論文掲載の判断は、その分野内の誰かが行う可能性が極めて高いし、科研費についてもだいたいはそうである。さらに、論文掲載の判断では、「この論文を引用せよ」というようなリバイスを受けることも少なくはない(引用が増えれば評価が高まるので、自分の論文を引用させたがる)。

 加えて、とにかく論文を出さなければ現状維持すらできないわけだから、といって、意外なところで、基礎がおろそかになる。
 たとえば、私のいる分野では有機合成の実験設備や分子生物学の実験設備があるが、白衣を着ていない人がマジョリティである。安全性からすれば、白衣は絶対に着たほうが良いはずだが、そんなことよりも論文を書くことに最適化させようとするほうが先なのだ。
 これは今日の出来事だが、実験に使う酵素が入ったエッペンチューブを床に落としてしまった人がいて、私が指摘するまでチューブをエタノールで除菌しようとしなかった。さすがに日本では、そういうことも少なかったが(そもそも土足厳禁の研究室が多いから、衛生環境は日本のが良いのだが)、彼らは、うちの研究室だけでなく他の研究室でも実験技術を学んできている。大腸菌を使うのにクリーンベンチを使わないのも信じられないが、そういった衛生環境とコンタミネーションが起きやすいような環境であっても、実験環境の改善に取り組もうとするよりも、論文に使えそうなデータや図がでること、さらに予算獲得のための様々な行為(研究費申請文章の作成、研究会の準備・計画、談笑すらも含む)をとにかく優先させてしまう。

 さらに、自分のデータを出すことが最も重要なので、一人でずっと実験装置を占領してしまう人も出てくる。
 例えば、顕微鏡でデータを出すのがメインの研究室で、特にコミュニケーションもなく、1週間のうちで平日に3日間以上、コアタイムに6時間以上、一度に2台の顕微鏡を予約していたりすれば、それは確かに結果は出るかもしれないが、他の人はたまったもんじゃない。このようなモラルに反する、他の人がそれに対して文句を言いにくいような雰囲気の人が成果を出し、立場を得やすいムードになってしまうのも問題である。

 こういったことが、私が見てきた研究室(物理、化学、生物など各分野について10以上の研究室)について、大きいレベルでも小さいレベルでも、多発している。そして、私が募集している研究生活の相談メール(これまでに150件ほど)でも、そういった問題を垣間見ることは多い。

 そもそも、専門性とは、インプットからアウトプットまでの時間の長さが長ければ長いほど、高い可能性が高い
 つまり、着手してから3ヶ月で論文になった、というと「すごい」とコメントしたくなるが、3ヵ月程度で論文になってしまうような専門性の低い誰でもできるような研究内容、とも言えるわけである。
 確かに一部、天才はいる。そして、最低限のモラルと基本的なルールを守っている研究している人もそれなりにいるだろう。しかし、さすがにそんなに天才は多くないだろう、というレベルの数で、3ヶ月~1年で結果を出し論文を出していたりする。そういうケースは、もれなく、モラル違反をしているか、何かしらの基礎や基本的なルールを破っているか、論文にするために「なかったことにする」データがあるか、その業界内だけで通じる「どうでもいい無意味なテーマ」をやっているか、これまで研究してくれた先輩たちから引き継いだテーマをちょこっとやっただけか、、そして、ねつ造をしているか、のいずれかである。

 今後、AIの技術がさらに進み、ラボオートメーション化が進めば、論文に最適化させることができるだけの実験研究者は全員、遅かれ早かれ、職を失う
 理論研と実験研の区別がつかなくなる時代は、おそらく私が生きている間に来るだろう。データ過多の新しい時代には、結果と結果の隙間を確実な論理で埋められる研究者が生き残るだろう。だからこそ、今後、どのような分野であれ、理系は、物理学(理論)や数学(特に統計学)がきちんとできなくてはいけない。特に若い理系は。

 そのような時代が来る前に、、本来、論文は、どのくらいの頻度で書くべきものなのか、今一度、それぞれで考えていただけたらと思う。
 それこそが、新しいシステムの枠組みになるのだから。

 私が、だいぶ前から、本質的にきちんと研究をするためには原理的にアカデミックを去るしかないのかもしれない、と考えているのは以上のような理由である。
 だって、論文工学をずっとやってても、時代に即した実力は絶対につかない。ちゃんと実力をつけないと、アカンからね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「命がけで守る」の残酷さ

2018-01-29 17:53:11 | Weblog
 「たとえ自分が生きていけなくなったとしても、あなたを守りたい」
 という気持ちは、個人的な実体験によって裏付けされることが多い。重要なのは「守りたい」であって「守り続けたい」ではないというところだ。守り続けるためには自分自身が生きていなければならないからだ。

 だから、(少なくとも一時)守るためなら、ある一つの世界から消え去ってしまっても構わない、もしくは、ある一つの世界を完全に破壊してしまっても構わない、のような気持ちと、、本当にこの世から(事実上)消え去っても構わないと思いながら守ろうとする気持ちとには、本来はだいぶ乖離がある。
 自分自身をとことん追いつめて、その世界に最適化することを至上としている何も考えていない人たちから「なんのメリットがあるのかわからない」と揶揄され、実際にその世界では生きてけなくなったとしても、絶対に守りたい誰かがいるなら、それは容易に肯定される。だって、しょせん、本当に死ぬわけではないのだから。

 きっと、、ある一つの世界の(本来の)価値基準において、未来の自分よりも、あなたの未来のほうが、有意義そうであるから、その後に役に立ちそうだから、期待が持てるから、、だから、捨て身になる!、というような低俗な発想ではない。
 ただ単純に、好きだから。惚れているから。その世界を選んだあなたを自分一人でも肯定したいから。だからこそ、掲げている理想とは違いすぎる、こんな世界ひとつ、いっそ壊してしまいたくなるのだ。

 自分の感情を捨てて、とにかく理性的に最適化したほうが、はるかに泡沫の成果を高めることができる、こんな時代だからこそ、「いっそ」という発想が出てくるし、「守りたい」という発想も出てくる。

 でもね、、忘れてはいけないのは、貴女自身も、命がけで守られてきているということ。
 命がけで守ろうとするのは勝手かもしれないけど、命がけで守ったり守り続けてきた相手が、誰かのために命を捨てようとしたら、貴方はどう思うわけ?

 そう、、最大の問題は、お互いに命がけで捨て身で守ろうとしてしまう場合、なのかもしれない。
 まぁ、それでも、本当に死ぬわけではない…、、はずだよね?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現の夢

2018-01-25 16:07:42 | Weblog
 何処からともなく現れたドキュメントに、ほんの少しだけ心を躍らせながらも、基本的には、何もかもが無意味化された新しい別の世界の存在に落胆していて、取るべき行動は早送り。「そんなバカな」という気持ちを抱きながらも、次の瞬間には違う顔であることがわかって、少しだけ安心した僕を、強制的に映像そのものが内部へと吸い込んでいく。

 始まりは、僕が知っている君で、
 「すいません、、、急いでるので」
 と必死な状況で出てきたその言葉に、君自身が驚き、切羽詰まった心地良い声色を奏でる。そんなに必死に断らなくても、と一瞬思ったけど、早送りして中盤を知ってしまっている僕に、もしかして?余裕がない演技をすることで余裕を隠している?と、無駄な思考をさせる。
 この無駄な思考が、いつも裏目に出ているのにね。見たまんまをそのままに評価したらイイだけなのに、主観が入ると、リスクを分散させたがるから、それができなくなる。

 次のシーンでは、すでに一時の成功を獲得している君が、その成果のために時間を捧げてきた相手と微笑んでいる。
 そんな様子を、僕は少し遠くから見つめて、「大変だったね」と「結局何もできなくて、ごめんね」と「君にとって、これでよかったんだよね」を自然と繰り返してしまう。こんなときにどういう顔をすれば良いのか決めかねていると、この世界では、君には僕は見えていないことに気が付く。

 だったら、と近づいてみた瞬間に、またシーンが変わり、古びた教室の傍にある階段のところで恩師であろう人と楽しく喋っている君に気が付く。
 いや、そうじゃない。きっと、これは、本質的に「この瞬間」で助けなくちゃいけないシーンなのだ。まだ僕が見たことのないその笑顔で話している君の一部が失われる、この瞬間。過去にしか戻れないタイムマシーンがあるなら、きっとこの瞬間に戻るべきだろう。というよりも、今、それが叶っている?
 でも、必死に叫んでみても、聴こえない。存在を認識してくれない。もしかしたら、これはある種の地獄なのかもしれない。

 決して取り戻せない時の流れの残酷さを感じながら、僕は目を覚ます。よかった、、でもほんとに??
 そして、え、泣いている?、と気が付きながら、僕は目覚ましアプリをスワイプした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教職、研究室仮配属、他大の院で迷ってます」 -相談メールの実際の例-

2018-01-18 09:56:30 | 自然科学の研究
 このブログで募集してます、相談メールで、実際の例を紹介しようと思います。以下は相談者の方のご厚意で公開したものですので、現在のところ、特に希望されない場合は公開などは一切しない方針です。
 相談メールのルールなどについては「相談メールの目標とルール」をご覧ください。


相談文
(プライバシー保護のため、少しだけ文面を変えています)

初めて相談させていただきます。私は先日gooブログの[東大院にロンダした理系が知っておくべき東大内部生の賢さとその性質]を見て、今抱えている悩みを打ち明けようかと考えました。
現在、某私立大学の理学部に通う2年生です。
まず、私が大学に入学するまでの経緯をお話ししようと思います。私は高校の時に、将来は高校の教員になりたいという目標を持っており国立大学の教育学部を目指していたのですがうまくいかず、一年の浪人を経験し現在の私大に入学しました。大学入学時から教職課程を履修しつつ現在に至ります。
教職課程では、もう教育実習のお願いを母校にしなくてはならない時期になりました。なので、教職をあきらめるならこれが最後だと担当の教員から伝えられました。そこで、このまま教職をとりつづけるべきか悩んでいるというのが今の状況です。

というのも、大学に入学してから聞いた周りの人たちの将来のビジョンが自分と異なっていたことや、塾講師のアルバイトをしていて自分は先生には向かないと感じたため、教職を取り続けようか迷っているのです。特にアルバイトでは、教えることの楽しさよりも、教えることに対しての責任感などを感じることが多く(友人に勉強を教える感覚ではなく、自分の発言に責任が生じるものだと嫌になるほど実感しました)、次第に教員への憧れは薄れてきてしまいました。
そこで、それとは対照的に興味がわいてきたのが研究でした。専門の勉強は最近は面白いことが多く、特に実験は人一倍頑張っているという自負があります。自分の学科には3年時から研究室配属される希望制の仮配属というものがあるので教職をあきらめるならそれに参加しようと思っています。研究のでき次第では、学部生が主に発表する、ある研究会に参加したいと考えています。教職を取りつつ、仮配属にも参加することはできるそうなのですが前例がほとんどないらしく、相当忙しくなってしまうと先生からは言われました。
教職を取るメリットもあって、教員免許を取得していれば1つ目の就職先が学校でなく、そこを辞めることになっても教師として職を得ることができるという点です。
以上のような現状から、決定的な判断に踏み切れていないのが1つめの悩みです。

また、大学院への進学を考えているのですが、東大の大学院に行ってみたいと考えるようになりました。これは、研究の内容が面白そうだから、やりたい研究があるから、というような理由ではなく、単純に高いレベルで研究してみたい、優秀な学生をこの目で見てみたいからという理由です。
ここで2つ目の悩みなのですが、現在所属している私大の大学院に進学するのか、外部の大学院に進学するのかを決めかねています。特に東大や東工大などの大学院であれば自己肯定感は満たされるのではないかと思う(周りからロンダと言われても気にしません)のですが、行く理由がかなり不純であることと、なにより学部時代の研究とはまた別のことをやるため、研究成果を出すという点で明らかに不利であると考えています。まだ研究の”け”の字も知らない未熟者ですが、実際に経験された方にお話しを聞いておくのは有益かと思い、アドバイスいただければと思います。

話がまとまらず、見苦しくなってしまいましたが、自分の将来のことで2つの悩みがあるということで相談させていただきました。


回答文

相談くださり有り難う御座います。
たかはしけいです。

頂いたメールの文面には、「教職をとるか、3年次の研究室仮配属(希望制)をとるか」という悩みと「現在所属されている私大の大学院に行くか、東大や東工大などの大学院に行くか」という悩みと2つあると書いてありますが、私にはこの2つは共通に感じましたので、一緒に応えさせていただきますね。

まず、何かの選択で迷ったら、今しかできないことで、かつその後の可能性が広い選択肢を選ぶのが基本です。
なので基本に忠実になれば、研究室は4年生になればどうせ配属されるわけだから、教職を取るほうが、今しかできない選択ですし、その後の可能性も広くなります。
また、現在所属されている私大の大学院に行くよりも、世間はまだまだしょせん学歴社会ですから、東大や東工大の大学院に行ってネームバリューをとるほうが、その後の可能性は広くなると思います。

総括すると、もし体力的に可能であれば、教職を取り続けながら、東大などで内容に興味のある研究室に出入りさせてもらえそうなところにアピールして3年生のうちに研究を始めるのが、もっとも良い選択になるだろうと思います。そうすれば、教員免許という担保を手に入れることもできますし、自分の時間を上手く使いながら研究室に出入りさせてもらうことで(これはそんなに難しくないはずです)、業績面でも東大の内部生に引けを取らない可能性が高くなるでしょう。

…ですが、、果たして、これで、本当に良いのでしょうか?

上に記した回答は、あなたの質問に顕わに応えたつもりですが、これでは、あなたが本当に抱えている悩みには応えられていないように思います。
あなたの本当の悩み、、それは「世間から要求される責任の重量に耐えられない自分をなんとかしたい」ではないでしょうか?

あなたが現在気持ちを傾けている「研究」では、自分の振る舞いが責任へダイレクトに寄与します。一生懸命研究しても結果が出ないことはよくあることですが、そこには常に責任が生じてしまいます。教育では、「生徒自身の責任って部分もあるよなぁ」とか「自分は理科の教員ってだけだからなぁ」とか責任が分散しますが、研究にはそういう性質が殆どありません。

教育は、とりあえずアルバイトでやってみたわけですよね。やってみる前は向いてるかなっと思ってたけど、やってみたら向いてない部分があることにも気が付けた。これは素晴らしい経験ですね。
「だったら、研究・学問は自分は向いているんだろうか?」と考えたわけですね。では、この選択は、そもそもどれくらいの選択肢のなかから選んだのでしょうか?私はこの部分がとても気になりました。

今、大学2年から3年への春休み前ですよね。この時期はとても大事ですよ。実際、もっと大人になってから、この大学2年の春休み~大学3年くらいに戻りたいって人は多いんじゃないかと思います。この時期しかできないことだらけだからです。

友人やバイト先・サークルの仲間たちと、時間をまったく気にせずに、気が済むまで話しまくれるのも大学3年までで、就活が始まる前までです。お互いの将来を殆ど考慮せず、単純な「好き」だけで恋愛をスタートできるのは、大学2年の終わりまででしょう。ボランティア活動も、本を読みまくるのも、ただ単にボーっとするのも、その後にはとても忙しくなってしまうので、なかなかできなくなります。
これらあらゆる大事な選択肢の中から、「研究」を選びましたか?「教育」を候補に入れましたか?それでも「いま」絶対に学問をやりたい、東大の院に行きたい、と思いましたか?


確かに、どうでもいい人から「ロンダ!」とバカにされても、気にしないことは良いことです。でも、それ以上に大事なのは、自分の大事な人から「ロンダ!」とバカにされたときに、言い返したい感情をきちんと持つこと。だって、レベルの高い環境を見てみたい、ネームバリューが欲しいと思うのは、「不純」ではなく「普通」なのですから。

さて、この選択において、あなたにとっての「大事な人」と、十分に話したでしょうか?

というわけで、ある程度の時間制限を決めて(1~2ヵ月とか)、色んなところに顔を突っ込み、色んな人ととことん話をしてみたらいかがでしょうか?
飲みに誘われたらとにかく最後までついて行く、本を何冊か読んで朝活に参加してみる、好みのルックスの人がいたら率先して挨拶してごはんに誘う、、こういう(一見)ありきたりな経験のなかから、一つで良いから大事にすること。すると、レスポンスのバリエーションが飛躍的に増えると思います。そして、責任(responsibility)、つまりレスポンス・アビリティーも高まると思います。そう、責任とは、相手に(良くも悪くも)強い影響を与え続けても、反応(レスポンス)し続けられる能力(アビリティー)のことですから。

この期間を設けることで、教育をするんでも研究をするんでも、将来的に、より有意義になるんじゃないかと思います。ぜひ、引っ込み思案を何かの定まったシステムに最適化することで肯定化するんじゃなく、ほんのちょっとだけ外向的になる時期を作ってみることで、大事な大学3年生を迎えるにあたって、自分を見つめなおす時間をとってみたら良いと思います。

そのうえで、教職をとり続けるか、3年次から研究室仮配属をとるか、今から東大のどこかの研究室にアピールするか、大学院はどうするか、決めたらいいと思います。もちろん、それ以外の選択肢をとるのも、全然あり。だから、ゆっくり考えないとね。

大丈夫、実験を人一倍頑張ってると言えるだけの自負があるんだから、そのガッツがあれば、これくらいできるはず。
頑張ってくださいね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとりでツラい想いをさせてごめんね

2018-01-15 04:53:18 | Weblog
 目的が達成されそうな時にこそ、その目的に価値があるのかをきちんと見定めないといけない。
 小説や映画と違って、現実では、長い時間を使ってしまうし、取り返しがつかないことも多い。ヒトは、それだけ長い時間をかけたのだから価値があるのだと、自分を後天的に納得させてしまいがちだが、そこに本当に価値を見出せるかどうかを考究する必要性は常にある。それは、獲物が爪にかかったも同然の状態でも例外ではない。

 時代が変われば、何が価値あるモノなのか、何が他人にウケるモノなのかは変わってしまう。どんなにそれまで安泰なポジションをとり続け、それによって繁栄した歴史があるといえど、高々数十年レベルの話。
 「歴史は繰り返す」という意見はあるかもしれない。それは確かにその通りだ。しかし、歴史は螺旋状に繰り返すのであって、少しずつ着実に進展していることが多いし、そもそも、概念こそ繰り返すが、まったく同じ事柄で歴史が繰り返されることはほぼ無いと言っていいだろう。

 ゆえに、価値を問い続けなければ、常に泣きそうなくらいの不条理に耐え、孤独に打ち勝ち、さらに実力を備えることができたのだとしても、それが絶対的な安定を保証する可能性は高くはない。

 あの頃、俺に何があれば、守れたのか?ツラい想いをさせずに済んだのか。
 もっとバカじゃなければ。権威さえあれば。今もそう思うけれど、、結局のところ、系全体がとうの昔にオワコンになっている以上、どんなにそこに目標を掲げても、その目標がどんなに安定的だと信じられていたとしても、傷つけてしまうことに代わりはないんじゃないかと思えてくる。ここに、「賢くなりすぎてしまった」代償があり、それは同時に希望でもある。

 滅びゆく世界を認め、まったく別の世界にむけて、旅立つ勇気があるか?
 それだけの責任をとれるかどうかは別にしたとしても、選択権そのものは俺には無い。常に貴女にあるのだから、ゆっくり考えてみて欲しいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情報でメシを食うということ

2018-01-12 15:47:49 | Weblog
 大学時代に、一緒に組んでたアカペラグループの友人が、ある日の練習後、メンバーみんなで夕食を食べていると、
 「あ、僕、久しぶりに自分の飯代、自分で出すわー」
 っと言ったので、『どうして?』と訊くと、
 「最近、誰かから奢ってもらうことが多くて。ほら、なんかよく合コン開いてるから、その成立カップルから、お礼によく奢ってもらってるのよね」
 と応えた。

 その瞬間は正直『マジ不純だな』と思ったが(というか、たぶん言ってる笑)、今よくよく考えてみると、彼ほど情報熱力学をよく理解し、応用しながらコスパよく生きてた人は、(少なくとも)俺の周囲には他にいないんじゃないかと思う。

 当時、彼は交友関係が広く、誰がどんな恋人を欲しているかを熟知していた。だから、確かに成立率も高く、メシを奢ってもらえる率も高くなっていたのだ。
 なるほどなぁ、男女関係における相互情報量を利用して、メシ(エネルギー)を稼いでるんだなぁ。そして、相互情報量に掛け算される温度Tは、周囲の運動エネルギーで定義されるから、(沢山動いてそうな)フットワークの軽い外向性の高い人たちを利用することでエネルギーを沢山得てるんだなぁと、よくわかる。

 メシを食べる、ということに関して、みんなすぐにカネを得ようとするが、それは実はコスパの悪い方法なのだ。情報という概念を貨幣に落とし込まずに、概念のままに利用できれば、自由に使えるエネルギーを稼げる。
 ここでの「自由に使えるエネルギー」というのは、「誰からの制約もなくエネルギーを直接得れる」という意味だ。当然のことだが、エネルギーを自由なカタチで得たいからこそ、多くの普通の人は貨幣を使う。この友人も、今ではすっかり真面目に働いている。人は、ご飯を食べてエネルギーを得ればそれで良いわけではなく、住居は必要だし、服も買わなきゃいけないわけで、エネルギーを様々な形で得るためにはカネが必須なのである。

 しかし、もちろん、彼の活動がもっともっと遥かに貢献性が高ければ、住むところくらい用意してくれるような、太っ腹なカップルが存在するかもしれない。服ぐらい譲ってくれるかもしれないし、誰かはパソコンを買ってくれたり、作ってくれたりするかもしれない。そこまでいければ、もはや、彼その人の信用というものが存在しているわけで、これはビットコインとかリップルとか、さらには円とかドルとか、そういう次元と同じになってくる。そもそも、円にしたって、日本全体の利益・価値と日本国が成立し続けるという信用によって成り立っている概念だ。
 個人で通貨が発行できるようになるほどに、純粋にただみんなの役に立てるなら、何か(質量m(の価値あるバリエーション))を生産し続けなくても、それは成り立つのだ。

 じゃあ「役に立つ」ということだけが、価値ある相互情報量を生み出し、さらにはカネになるか、と言ったら、そんなことはない。

 だって、、少なくとも俺は、もう一回だけでも、あの頃のあのアカペラグループのあのメンバーでの夕食と笑顔を、同じカタチと同じ気持ちで再現されるなら、5万円は払っちゃうから。絶対に役に立たないと頭で分かっていても、ね。

 そう、重要なのは、とにかくカネを稼ぐことでも、とにかく役に立つことでもなく、自分が気になる相手に瞬間的であれ永続的であれ、そのどちらもであれ、喜んでもらうことこそが、価値ある相互情報量の源泉となる。
 だから、虚偽ではなく本音になる必要があるし、めちゃくちゃ好きな相手には、本気で笑顔になってもらうだけの努力をし続けなくちゃいけない。

 でも、それは、生きていくためじゃなくって、ただやりたいだけかもしれないけどね。それがメシを食うことに繋がっているんだから、この世の原理・原則にも、まだまだ希望があるよね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする