たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

9. 社会統計力学と機械学習/『研究コントローラー』

2017-04-08 23:32:10 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 8. 放任と管理/『研究コントローラー』

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登場人物まとめ

戸山渉…都王大の大学院生(M2→D1)。野崎からの依頼でRC制度に従事する(潜入先は慶明大の山岡研究室)。主人公。
綾瀬香奈…戸山渉の彼女。
村川晋也…戸山の親友。修士で卒業し、現在は技術営業職として大手企業に勤める。

野崎正洋…研究コンサルタント。RC制度の発案者。都王大出身。バークレー工科大学大学院応用数学コース中退。
吉岡剛史…帝都工業大学の大学院生(M2→D1)。RC研究生。潜入先は北東大。ガタイが良い。
斉藤結衣佳…日本茶大の大学院生(M2→D1)。RC研究生。潜入先は京阪大の澤田研究室。斉藤自動車のお嬢様。
山下美弥子…東都科学大学の大学院生(M2)→野崎の秘書。有機合成を専門とする光田学派の村松研究室に所属していた。ネット上では「みゃーこ」と名乗っている。
直樹…美弥子の彼氏。商社マン。現在行方不明。
相澤祥太…東都科学大学村松研に所属している大学院生(M2→M3?)。現在行方不明。

井川英治…慶明大学山岡研究室に所属している大学院生(D4→D5)。現在行方不明。
高野翔…慶明大学山岡研究室の特任准教授。野崎とは都王大時代からの仲。野崎に井川失踪の依頼をした人物。
豊杉雷之佑…山岡研のポスドク2年目(2016年度時点)。高野に井川失踪について相談した。
原田愛菜…山岡研のM2。野崎らに疑われ、現在失踪中。
岸信明…山岡研のM2。就職希望だが学推DC1に応募中。
権田卓…山岡研のD1。一時、山岡先生によって学推に応募できない状況だったが、野崎の根回しにより、学推DC2に応募することができた。
森下真治…山岡研のD2。優等生でゲルの研究をしている。
友川多恵…山岡研の秘書。

水島…京阪大医学部基礎系ゲノム情報学プロジェクトの教授。斉藤が潜入している研究室の主催者である澤田からの要請という大義名分で、彼の研究室を野崎と美弥子が調べた。

用語まとめ

学推…日本学術推進会。文科省の傘下で、大学院生や研究者に研究助成を行う組織。
RC制度…レアケース研究遂行制度の略。表向きは研究助成だが、若手・大学院生連続失踪事件を解決するために野崎が用意した組織。
スマートグラス…スマートフォンの機能をメガネに搭載している近未来型の通信機器。
パラレルスマホ…ハッキング防止のため通常の回線と異なる回線を使うスマートフォン。スマートグラスと連携可能だが、機能は最低限である。
被害者リスト…研究コントローラーと名乗る犯人らしき人物から送られてきた手紙に送付されたリスト(73名)。野崎が独自に調べた不可解な行方不明者リスト(104名)とほぼ一致した。
桜タワー…飯田橋駅前にあるダブルタワー。野崎と戸山と美弥子が住んでいる。

2016年9月21日(水)

 私の名前は綾瀬香奈。今はなんとかデザイン会社に勤めているけど、この普通の生活を手に入れるまでにはそれなりに色々なことがあった。2年半前から付き合っている戸山渉くんには美大卒ということにしているけど、実は大学になんて一度も行ってない。私のような人生を、普通に幸せな人生を送ってきた渉くんが理解できるとは思えなかったから、最初に出会ったときにウソをついたのだ。小さなウソを隠す為に最小限のウソをつき続けてきたつもりだが、彼は私の事を普通に両親がいて普通に学校に通い、そして就職したと思っている。それはそれなりに罪悪感のあることだけど、私の事を想って都王大の大学院に進学予定だった渉くんを紹介してくれた当時のバイト先の先輩に感謝しているから、このウソをつき続けることに決めている。
 渉くんとは12時過ぎに神保町の待ち合わせの予定だ。カオマンガイが美味しいタイ料理のお店にランチデートする予定だけど、お昼休みを利用しているだけだから、あまり時間はとれない。渉くんは、RCの仕事でこの近くで学会に潜っているらしい。RC研究遂行制度。渉くんの上司の野崎正洋先生は、研究コントローラーと名乗る大学院生・若手研究者の連続失踪事件の重要参考人の捜査を行っているらしく、これはとにかく他言しないように言われている。正直、私はよくわかっていない。渉くんは野崎先生という人から給料をもらっているらしいが、大学院には授業料を払っているようで、しかも都王大で実際に指導をしている”担任の先生”的な人は渡辺先生と言うらしい。そして、そこからまた別の慶明大の研究室に所属していたりするのだから、ややっこしいにも程がある。私は、そんな渉くんを思いながら、まだかなぁとスマホを見てみた。そして、何故だか、これまでの人生を振り返ってみることにした。どうしてこのタイミングで?と思いながらも、思考は止まらない。まぁ、いいか。
 私は物心がついた瞬間に自分が「施設」という場所にいることを認識させられた。最初、みんなも普通に施設にいるのかと思っていたけど、小学校低学年くらいのときにおかしさを感じたのだ。あ、普通は、お母さんとお父さんっていう人が一人ひとりにいるんだ、っと。私は「施設」という言葉に敏感で、渉くんに昨日「学会はどこの会場なの?」って電話で聞いた時も、「えっと、博士会館って施設」と言われてしまってドキッとした。一瞬、バレたのか?と思ったし、何よりもこの言葉が嫌いだ。小学校の頃から施設がイヤでイヤで仕方なくて、中学に入った頃から何度か脱走したりしたけど、私を本当に助けてくれる人は誰もいなかった。相手が求めているモノを提供すればその分だけ何かの見返りが手に入る。所詮この繰り返しだと思うし、誰も助けてくれない。社会に出てしまえばこういったことが私以外の身の回りでも普通になったから、まぁ、その分だけ今はとてもラクだなぁと思う。私が施設を脱走して、私だけの現実から逃げようとすればするほど、児相の職員の人と話さなくてはいけなくなり、これがとても苦痛だった。私が何か不満を漏らしても、児相の人は自分の責任にならないようにという前提で話をするだけなので、時間の無駄なのだ。そして施設に戻ると、反省文やランニングなど、あらゆる苦痛を強要された。私はいまだに児相の職員にこう言いたい。
 「一回でイイから自分が施設に入ってみたら?」
 中学卒業後、私はすぐに施設を出た。高校は1年遅れで定時制高校に入ることができた。中学ではやらなかった部活動も、まるで普通の人のようにバスケ部に入り、毎日が充実していた。バイトに部活に大変だったが、それなりに授業をサボったりもできたから、施設時代よりもずいぶんラクになった。その頃からバスケ部の先輩達の集団に混ぜてもらって、よく深夜徘徊していた。男子だけのグループに私一人女子。よく深夜に心霊スポットばかり行っていたが、私だけは誰からも怒られない。私は当時霊が見えると言うことで、みんなに仲間に入れてもらえるように自分を守っていた。なんとか4年間で高校を卒業すると、次の年から高校が無償化された。自分はなんて損なんだと思って、ひどく落胆した。最初から高校が無償化されていれば、あんなにアルバイトをしなくても良かったかもしれない。そう、どんなときも、どんな節目も、行き着く先はこの言葉。・・・どうして私だけ?

 「ごめんごめん、待った?」
 渉くんはそう言いながらスマホをいじっていて私に近づいてきた。こんなデートの良くあるシーンも私にとっては警戒を高めてしまうことに寄与している。ここ最近、渉くんと会っていなかったせいかな?
 「ううん、いま来たところ」
 私がそう言うと、二人で歩き出した。暖かさのなかにほんの少しだけ涼しい風が吹いている。気持ちいい風を肌に感じながら、私は何故だか少し落ち込んでいる表情を作っている自分に気がつく。どうしてだろう?と思いながらも、タイ料理の独特の匂いが近づいてきて、店に入った。二人で一緒に同じカオマンガイを頼んでしばらく待った。
 「最近はどうなの?」
 私がそう訊くと、渉くんは向かって左側を見上げながら喋り始めた。私に不安が蓄積される。
 「どうって、別に。桜タワーの暮らしには満足しているし、最近は学会三昧で、ちょっと疲れ気味かな・・・。野崎先生の指示だから仕方ないんだけどさ」
 「学会で、何か情報はつかめそう?」
 「いや、全然。それにしても、つまらない研究ばかりだし、あまりにも政治っぽいことが多すぎて嫌になってくるよ」
 渉くんはやっと私の目を見ながら話し始めた。
 「でも、研究って、ある程度はそういうのは仕方ないんじゃない?」
 「そうかなぁ。ただ単に自然現象としての真実を求めるだけなのに、なんで他人のこと考えなくちゃいけないのかな?って思うよ」
 この辺りが甘いのよね、温室育ちって。相手が求めるものを提供すると自分が欲しいものが手に入るのが、この世の中の原理なのだから、それはそうでしょ?そんなことも大学では教えてくれないの?と思いながら、口角を意識的に上げて無理矢理に笑って魅せた。けれども渉くんの文句はとまらなかった。
 「だいたい、学会にしても、教授陣にしても、おじさんたちに都合が良いようにしてるだけじゃん。そのせいでどれだけ俺ら大学院生が苦労しているか。俺はRCがあるからいいけど、普通学推をとっていたとしても月20万しかもらえないんだぜ?しかも、そこからさらに諸々の税金引かれまくって。科学立国が聞いて呆れるよ。理系を飢え死にさせる気かよ」
 「そうだね。そんなに頑張ってるのに、どうして報われないんだろうね?」
 と言いながら、私はまた、必死の想いで笑顔を造る。本心では、ふざけるな、と思っている。貴方は”飢え死に”の本当の恐怖を知っているの?何のアテもなく、街中をふらつくときの怖さを、どれだけわかっているの?貴方は、帰る家に誰もいないことが最初からずっと当たり前の人の心情を、ほんのちょっとでも考えたことがあるの?でも、私は大人だから、身分違いの間柄に演技はつきものだって、きちんとわかっている。演技を続けなくちゃと思っていると、渉くんが次の言葉を発した。
 「だよな。どんだけ苦労して大学に行って、大学院に行ってると思ってるんだよ。まったく」
 いやいや、そういう環境に生まれただけだろ。ワタシ、今日はどうしたんだろう?気持ちが抑えられない。我慢、我慢。
 「でさ、そういう利権ばっかり大事にしながら、肝心の科学を全然進捗していなかったりするんだぜ?いざって時に、偉そうなおっさんたちが、いっさい責任をとらないのは、ほら、あの一昨年の万能細胞論文の捏造の一件で一般の人にも理解があるようになっただろ?自分が責められなきゃなんでも良いんだなぁと思うよね、まったく」
 責任者が責任をとろうとしないというのは、どこも共通らしい。私は、どうにか共感できそうなポイントを見つけて、そこにレシーブすることに努めようと決めた。
 「どこの世界でもさ、責任者が責任とるべきところで、責任とりたがらないってのはよくある話で、基本、自分のことしか考えてないんだよね、みんな。だから、そのなかでも貧乏な人とかは大変だよ?」
 「まぁね。そうだよね」
 渉くんは、スマホをいじりはじめた。私の意見を聞いてくれない様子だ。少し語気を強めて、もう一度レシーブ。
 「だから、まだいいじゃん、渉くんは。都王大に入れるんだから。中には、お金がなくて大学に行けない人もいるわけだし」
 すると渉くんはあっけにとられたように、さらりと答えた。
 「え?そんなの、今の時代、奨学金があるんだから、イイワケにならないでしょ」
 私は驚きながら、渉くんを見つめた。渉くんにわかって欲しい気持ちを必死で抑えながら、精一杯に自分の気持ちにむけて同じ言葉を繰り返した。恵まれている人にはわからないんだ、恵まれている人にはわからないんだ、恵まれている人にはわからないんだ、恵まれている人にはわからないんだ、恵まれている人にはわからないんだ・・・、私は何度も何度も心の中で同じ言葉を繰り返した。でも、それは心の中で完結していなかったようだ。私は、その場で立ち上がり、思いっきり机を叩きながら、怒鳴っていた。
 「そんなの!恵まれている人にはわからないんだよ!!」
 どうしてこのタイミングなんだろう?現実の自分が起こした行為を冷静に客観視している自分が語りかけてきた。確かにこの2年半、こんなことはなかったので、自分自身に驚きながら、目線を下に落とした。渉くんがさらに驚いた表情をしながら咄嗟に言った。
 「え?どうしたの?突然」
 私は、落とした目線の先に、全体的に黄色い画面のスマホが目についた。上に”みゃーこ”と書かれており、渉くんの側から「みやちゃんと、今日も、、したい」と書いてあった。
 「この、みやちゃん、って誰?」
 彼の表情が曇る。私が自分の人生を振り返ったり、いきなり怒りに駆られた理由がよく分かった。それは人生の節目が近づいていることを、直観的に感じていたからだ。これで戸山渉くんとは終わり。そう決めると、私の行動は早い。私は千円札を出して、それをテーブルにおきながら渉くんに吐き捨てた。
 「まだ来てないけど、請求されたらこれで払っといて。さようなら」
 「いや、違うって。ちょっと待てよ」
 私は渉くんの姿を一度も振り返らずに店を出た。こんなに哀しい気持ちで寂しい気持ちなのに、青い空の環境に入っていく。ほらね、私って本当に恵まれていない。天気まで私の心情の敵なのね。
 どうして私だけ?やっぱりここに帰結する。どうして?どうして私だけが恵まれないの?そう思いながら、少しずつ溢れてくる涙を手でふきながら、どこかへ向かった。アテが無く歩く事には慣れている。東京は本当に冷たい人が多い。誰も私に見向きもしていない。待っていた信号が青に変わった。これでもう追いかけられることはないだろう。そう思っていると、横断歩道のむこうに仁王立ちしている背の高いスーツ姿の男性に気がつく。どうやら私のことを観ているようだ。え?何か用?そこまで歩いていくと、やっぱり話しかけられた。
 「君が綾瀬香奈さんだね」
 え?マジで誰?
 「戸山くんから聞いていないかな?私は野崎正洋です。今日は君に用がある。少しでいいから、時間ありますか?」
 そう言いながら渡された名刺を観ながら、私はつい立ち止まってしまった。

 博士会館の会場はコーヒーブレイクに包まれ、多くの寝起きの研究者に談笑の機会を与えていた。生物物理化学会は、今年で58回目。今回の年会は海外色が強く、まだ発表が残っているというのに、このコーヒーブレイクにはワインやビールまである。大御所の先生から、その大御所に媚び諂うことに忙しい若手研究者たちが勢揃いしており、割合は低いが外国人研究者も数多くこの会場に来ている。俺は正式な指導教員の都王大学の渡辺先生の話を久しぶりに聞く事ができて、ある種の懐かしさと落ち着きを感じていた。彼女の綾瀬香奈から突然席を立たれてから5時間か。少し動揺が落ち着いてきたが、罪悪感が深く根付いていることに自分でもビックリした。美弥子と香奈を比べれば、自分の好きな気持ちは香奈に向いていることはハッキリしている。なのにどうして美弥子と関係を持ってしまったのだろう?正直なところ自分でもよくわからない。そんなことを考えていると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
 「Say when (どのくらいかな?)」
 「When! Thanks, Masa(おっと、そのくらいで。ありがとうマサ)」
 野崎先生が外国人研究者のグラスに赤ワインを注ぎながら、仲良さそうに喋っている。え?何故彼が学会会場に来ているのだろう?おそらく俺が近づいてしまうとRC制度のことが公になってしまいそうで怖くなり、近づく事はできない。だが、彼は今日、俺がここに潜入していることは知っているはずだし、どういうことなのだろう?そうこうしていると、野崎がこっちに気がついたらしく、俺を呼び止めた。
 「戸山くんじゃないか。こっちに来いよ」
 野崎はそう言いながら、小さな個室の中へと俺と見知らぬ外国人を招き入れた。おそらくまた電磁遮蔽された部屋なのだろう。しかし、リスクが高いはずだ。どういう風の吹き回しだろう?というよりも何かのトラブルである可能性も捨てきれない。俺は不安を募らせながらも部屋の中へ入った。そこには小さなテーブルにチーズとワインが置いてあるだけだった。
 「John, he is Wataru Toyama. He’s the one I’ve been telling you about. (ジョン、こちらがさっき話していた戸山渉くんです) 戸山くんこちらはバークレー工科大学講師のJohn Walter先生だ」
 俺は突然の英語に頭がついていかなくなり、あたふたしていると野崎先生が助け舟をだしてくれた。
 「大丈夫、彼は日本でポスドクをしていた時期があって、簡単な日本語なら喋れるから。それにこの部屋も電磁遮蔽されている。私が頼んでおいた部屋だ。だから、自由に会話できるよ。JohnもRCについては全部知っているからね」
その言葉に反発するように、俺はどうにか英語で喋ろうと心に決めた。
 “Nice to meet you, John”
 “Nice to meet you too, Wataru”
 反発した割に中学生レベルの英語しか出てこない自分に憂鬱になりそうになる。Walter先生が日本語を使って話題をふってきた。
 「どんな、研究を、していますか?」
 「はい、僕は、Synthetic biologyのフィールドとしてlipo-housingを利用して、共生のモデルを作ろうと思っています。」
 俺がそう言うとWalter先生は野崎を見ながら、
 「ほう、さっきマサが言っていたやつか。それは素晴らしい」
 と言った。いちいちリアクションが大きい。これだから俺は外国人は苦手だ。あまりにもわざとらしい仕草に、笑いそうになってしまうのだ。俺は自分の話題よりも相手に質問することにした。
 「Walter先生は何を専門とされているのですか?」
 「ワタルくん、ジョンでいいよ。私の専門は・・・、まぁ、マサのテーマと近い研究だよ」
 え?マサ、つまり野崎の研究テーマ?そういえば、野崎の研究テーマなんて聴いたことなかった。そもそも野崎は研究コンサルタントであって研究者ではない。他人の研究にいちゃもんをつけるのが主な仕事なはずだ。こいつに研究テーマなんてあるのか?と思いながら野崎を見ると、
 「そうだね。戸山くんには私の研究テーマを伝えていなかったな。まぁ単純には変な予見を持って欲しくなかっただけなんだが・・・。私たちは自分の分野を説明するときに、社会統計力学と呼ぶことにしている」
 社会統計力学?なんだ??その怪しい名前は??と思いながら俺は野崎の言葉を待った。
 「そうなんだ。戸山くんの顔に書いてあるように、この用語はかなり怪しい。だから何か良いネーミングを探しているところでもあってね。この分野はかなり新しく、そしてあまり知られていない。簡単に言えば、熱力学や統計力学の考え方・計算手法を社会学に応用しようという取り組みだ。これまでにも、数理モデルを作りたがりの多くの連中が社会学に進出しているようだが、どれもぱっとしなかった。しかし、ここにいるJohn Walterは唯一、まともな社会統計力学の基礎原理を築いたと言って良いだろう」
 野崎がそういうと、Walter先生は笑いながら言った。
 「マサ、そんなに褒められても、私は君に何もできないよ?」
 「いや、そう謙遜しなくてもいいじゃないか」
 俺は二人の大人達の間に割って入るように、質問することにした。
 「野崎先生、どう”まとも”なのかを教えていただけますか?」
 「うん、まぁ、あくまで簡単に言うとだけど、彼は、”数”にとことん着目したんだ。つまり、社会学が扱いにくいのは、非常に数が少ないからだというわけだ。全世界の人口は、70億人くらいしかいないだろう?これは多く見積もっても10の10乗程度でとても少ない。1ナノモルにすらならない。かといってシミュレーションするには多すぎる。そこで、10の23乗〜10の24乗のあたり、つまり100〜1000垓人くらい世界に人がいたらどうなるか?ということを考えたのさ」
 そこまで野崎が話すと、Walter先生が話し始めた。
 「マイクロ(微視的)に一人ひとりが完全にランダムな状態をとるのではなく、ある程度のクラスターも加味しました。世界を二次元のハバードモデルに簡略化して、サイト内ではほとんど自由なモデルを適応しながら、サイト間でのホッピング相互作用はタイトに設定する。すると、アンサンブル形式の統計力学を、ほとんどそのまま使うことが可能となります。この考えから、個人がリバタリアニズム的に振る舞うと、集団全体として全体主義的な価値観が見出されることを実装しました。これを私は平衡系の社会統計力学と名付けています」
 そうWalter先生が話し終えると、俺は何がなんだかわからなくなっていた。そもそも、リバタリアニズムって何?全体主義って何だっけ?野崎は、おそらく同じセリフを何度も聴いているのであろう、Walter先生の説明を訊いた後、吐き捨てるように言った。
 「そもそも100垓人も人類は存在していない。だからあくまで机上の空論に過ぎないのだが、意外にもこの研究は社会学からも物理学からも評価されている。まぁ、実情として、社会学の分野は統計力学のことを知らないし、物理屋はろくに文系科目を勉強していないから、ちょうど良かっただけだと思うけどね」
 この瞬間が困るのだ。野崎が毒を吐くこの瞬間。しかも、(俺は良く知らないが)大御所を相手にしていて、なぜそんなことを野崎は云うのだろう?すると、Walter先生は別の話題を提供してきた。
 「それはそうとマサ、あの女性とはどうなったんだい?」
 野崎は少しバツが悪そうな表情になりながら、ゆっくりと応えだした。
 「とっくのとうに別れましたよ」
 「それは、プライベートの意味で?それとも共同研究者としての意味で?」
 「どちらもですよ」
 女性?もしかして、竹田講堂で野崎宛の手紙を俺に寄越した女性のことか?あの女性は確か、「野崎くん」と言っていた。そして、研究コントローラーから送られてきた手紙に書いてあった一文"The best way to find out if you can trust somebody is to trust them”を言っていたことから、連続失踪事件について何かの情報を知っているはずだ。しかし、野崎とWalter先生という重鎮二人を目の前にして、そのことを訊けるほど俺はタフではなかった。
 「それは残念だ。彼女は優秀なデータサイエンティストだから、君と組めば、機械学習を利用した社会統計力学がきちんと完成する見込みがあったのに」
 「私はクズと組むほど暇じゃないんですよ」
 野崎はそう言うと、自分用にワインをつぎ始めた。そして、野崎がまた言葉を続けた。
 「それに、あの分野は、すでによくわからない人物によって完成されつつあると私は思っています。今私が指揮しているRC研究遂行制度が追っている犯人たちは、おそらくこの分野を熟知している人物だろうと」
 え?それはどういうことだろう?俺は訊きたくて仕方なくなってしまい、思い切って野崎に訊いてみることにした。
 「野崎先生、犯人は研究者だと思っていて、さらに専門分野までわかっているということですか?」
 「まぁ、こちらの行動があまりに読まれすぎているし、社会統計力学の知識と機械学習の技術が無ければ、あれだけ仕組みながら行方不明者を巧妙に隠すことは不可能だからね。行方不明者の殆どの両親が自分の子供が何も連絡しなくても心配しないほど関心がないし、そのわりには人数が多すぎるし、分野も広すぎる」
 するとWalter先生が残念そうな顔つきで野崎に諭すように語りかけた。
 「君ほどの能力があれば、同じことが実装できるはずだ。是非負けずに頑張って欲しい」
 「もちろん、私も一部には予測能力を高めてはいますが、なかなか独学でディープラーニングを完全にマスターするのは厳しいですよ。Johnが示した平衡系での社会統計力学をベースとして、粒子数である人間を現実的な人数へと少なくした時と時間依存性については機械学習で予測する。これをあらゆる分野に応用させられたら、ほぼ自然科学は完成したとすら言えるかもしれない」
 俺は自分の心がわくわくするのを感じながら、自分がこれまでやってきた、もしくは自分がこれまで見てきた殆どすべての研究がくだらなく感じる自分を恐れた。野崎の圧倒的な自信は、その思考力もさることながら、このような革新的かつ有用性も高い研究を自分で進めてきている自負があるからだと気がつかされた。世間一般の研究者は、論文が何本とか、業績がどうとか、まったくもって研究の本質からズレたところに一喜一憂している。それを完全にバカにできるだけの本質的な研究を遂行してきたからこそ、相手に対しての自然な圧巻があるのだ。
 「さて、そろそろ戻りましょうか」
 野崎がさらりと言った。しかし、野崎が足を止めて、思い出したように俺に話しかけてきた。
 「っていうかさ、戸山くんって、最低だね」
 突然の侮辱にただただ驚いてしまった。野崎はいったい何の話をしているんだろう?
 「ダメだよ。女の子を泣かせちゃ」
 「ええ?っていうか、なんでそんなこと知ってるんですか?」
 すると、Walter先生がこちらを見つめながら、告げた。
 「これが社会統計力学を極め、機械学習で補完しようとしている者の予測能力だよ」
 Walter先生と野崎が笑っている。本当にそうなのか?俺をからかっているだけなのか?俺にはその違いが見極められなかった。しかし、強制的に扉は開けられ、それ以上の気まずい難関を目の前にすることになってしまった。なんと扉を開けた瞬間に、山岡研の高野先生と豊杉さんが目の前に現れたのだ。
 「おおー、戸山くんじゃないですかぁ。元気でしたか?」
 そう言ったのは豊杉さんだった。相変わらず”さしすせそ”のイントネーションが強くて標準語なのに関西弁に聴こえる。野崎を見ると、二人に会釈しながらWalter先生とどこかへ行ってしまった。
 「お久しぶりです」
 俺がそういうと、高野先生も話しかけてきた。
 「全然ラボに来なくなっちゃったから心配してたよ。まぁ、大変だったみたいだよね。野崎くんから少し話は訊いたからね。分子は、僕が精製まで終わらせちゃったよ」
 さすが高野先生だ。仕事が早すぎるし、それって俺の仕事・・・、でもないのか、俺は潜入が仕事だから。
 「それはそれは、高野先生、有り難う御座います。野崎先生から話を訊いているなら、まぁ、俺が説明しなくても大丈夫ですよね。ところで、M2の原田さんはどうなりました?」
 俺がそう言うと、高野先生が応えた。
 「え?どうって?最近も普通に来てるよ?この学会にも来てるはずだし」
 なんだって?!彼女は研究コントローラーと深い関係があると俺は確信しているだけに、なぜ研究室に普通に来るようになっているのか?と俺は疑問に思った。バツが悪くなったとかでしばらくは研究室に来ていないと野崎から訊いていたが。というか、この俺の予測を野崎が高野先生や豊杉さんに伝えていないのも問題じゃないのか?そう思っていると、豊杉さんがニヤニヤしながらおちょくってきた。
 「なになに?戸山くんは原田さんが好きなの?」
 めんどくさい。そんな場合じゃないぞ。
 「いや、そういうわけじゃないんですけど。っていうか、なんか始まるみたいですね。僕らも行きましょうか」
 豊杉さんはまだおちょくってきたが、学会の授賞式が始まるらしく、みんなが会場のほうへ向かっていく。俺たちもそそくさとそちらへ向かうと、大勢の人が一番広いメイン会場の入り口に集まっていた。中に入ると、もうすでに大御所の先生方が壇上で椅子に座っていた。すべて日本人で、年寄りばかり。足を大きく開いて、大多数が腕を組んでいる。俺たちは後ろのほうにまとまった席を見つけると、そこへ座った。周りを見渡したが、野崎とWalter先生の姿は見えなかった。渡辺先生は前のほうに座っているようだ。会場は少し暑苦しく、すでにお酒も入っている状態であるから、早く終わって欲しい雰囲気に包まれている。そんななか、式典が始まるらしい。
 「それでは授賞式を始めたいと思います。まずは、評価委員の先生方に自己紹介をしていただきましょう」
 そう言って、司会者役を務めている研究者がマイクを最初の先生にまわした。そして、年配の先生がマイクをいじり始めたと思った次の瞬間、壇上が突然輝きだし、目の前がものすごい光とものすごい音に包まれた。そして、いつのまにか床に倒れている自分に気がついた。壇上が爆発したのだった。

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 10. ??? / 『研究コントローラー』に続く

 添削してくれた方、いつも有り難う御座います。

 大変遅れてしまいまして、申し訳ありません。だって、そんなにアクセス数よくないんだもーん。続きが読みたい人は沢山アクセスしてね。
 アメリカに来て、小説が読めねーってなっていて、あ、だったら自分で書けばいいんじゃね?っとなった次第です笑。というわけで、次の更新は早い、、はず??
コメント (5)
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8. 放任と管理/『研究コントローラー』

2016-08-31 12:03:26 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 7. 桜タワー/『研究コントローラー』

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2016年8月31日(水)

 「では、皆さん、普段掃除しているように、掃除してみてください」
 研究コンサルタントの野崎正洋先生が水島研究室のメンバーにむけてそう言うと、少しだけ私に視線を向けた。少し広い実験室に緊張感が走る。有機合成や物性物理などの実験室と異なり、全体に白を感じさせる実験室。高級感という意味では医学部は随一かもしれない。水島研のメンバーたちはどうしたら良いものか?という表情をしながらも、そそくさと各人の担当についた。十分にキレイな部屋に感じたが、野崎先生の視察中の指示には必ず意図がある。
 「この研究室はどうかな?山下くん」
 私は野崎先生に愛想笑いだけを返しながら、視線を床に移した。野崎先生はそんなことを気に留める様子も無く、仁王立ちしている水島教授に微笑を向けながら言葉をかけた。
 「水島先生は、普段、どこを掃除されるのですか?」
 いかにも真面目そうな女子学生が一人、「何を訊いてるんだ、コイツは?」と言わんばかりの表情で振り向いた。水島教授は驚いたように野崎先生を見つめ、少々怒ったように返した。
 「私は教授ですよ?」
 野崎先生は平然としながら、さらりと返した。
 「貴方はこの研究室の責任者のポジションですよね?ここは貴方に分け与えられている部屋ですけど、貴方自身が掃除をしないわけですか?」
 水島教授は、生まれて初めて見た生き物に対面したかのような目で、野崎先生を見つめた。
 「野崎さん。貴方はもう少し大学の事を勉強した方がいいかもしれませんね。普通、大学の教授は論文指導や授業などで忙しくてそんなことはできませんし、貴方の言い方は、教授である私に対して失礼です。そんなことを言う人は、私の長い研究人生のなかで、初めてですよ」
 「なるほど。これは依頼者である澤田教授に報告しなくちゃいけないかもしれないなぁ。それに利害関係がない私のような相手に、教授である私に対して、なんて、権威主義が身体に染み付いているみたいだ」
 水島教授は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、それ以上何も言う事もなく、その場を離れ、居室に戻った。

 京阪大学医学部基礎系生体機能学教室の澤田教授の研究室は、RC研究生の一人、斉藤結衣佳が潜入している教室である。斉藤結衣佳は斉藤自動車のお嬢様で、3人のうち唯一自らRC研究生へ志願した勇敢な女の子。彼女からの情報によって、同じ医学部基礎系のゲノム情報学プロジェクトの水島研究室が怪しいということになった。なんでも、水島研はここ1年ほど、やたら失踪の多い研究室として医学部内で認識されており、彼女の友人で被害者候補の一人も、この研究室の一部の実験装置を使用していたらしい。研究コントローラーと名乗る一連の大学院生・若手失踪事件の重要参考人と思われる人物から野崎先生が受け取った手紙に添付されていた被害者リストと照合してみると、被害者候補のうち7人もこの研究室に何らかのカタチで関わっていたことが明らかになった。そして、野崎先生が自ら水島研究室を調べることとなり、澤田教授を通して、研究コンサルタントとしてこの水島研に調査にやってきたのだ。
 それにしても、野崎先生の言い方・考え方は、水島教授のような権威主義者には容認できないであろう。私が昨年度まで所属していた東都科学大の有機合成教室であった村松研でも受け入れられないだろうに、それ以上に権威色が強い医学部でも態度を変えないなんて、この人はいったいどういう育ち方をしてきたのだろう?まぁ、その村松研も野崎先生の力によって解体させられたわけだが、いま思えば権威主義に迎合する姿など、私が野崎先生と出会ってから一度も見た事が無かった。

 「うーん、どうも水島研では、掃除したという既成事実をつくるためだけに掃除をしているように感じる」
 水島研のメンバーが最終的にゴミを一カ所に集め、ゴミ袋を捨てに行くために集まったところを見計らって、野崎先生が語り始めた。リーダー格の、おそらく博士課程の学生だろう、自信に満ちあふれた様子で野崎先生を見つめている。メガネに軽く手をかけながら、野崎先生に対して今にも何かを語る素振りを見せた。野崎先生を見つめてはいるが、どこを見ているのかわからないような視線をしている。こういうタイプは、実は自分固有の価値観がない。理系の男の子に多いタイプだが、私はこういうタイプが苦手だ。いわゆるガリ勉系。推薦入試で大学に入学した私のようなタイプを心から莫迦にしながら、私のルックスだけについては価値があると思っているから、余計に厄介だ。
 「仰っている意味がわかりませんね。そもそも、野崎先生は医学部の研究室について、どれくらいあかるいのですか?」
 ガリ勉くんは野崎先生に挑むように言った。野崎先生の回答を楽しみにしているような素振りもあるが、基本的には、医学部出身以外の人間が医学系の研究室に口を挟むな、と言っているようにも聴こえる。
 「私に意見するとは、君は見込みのある研究医になりそうだね。私がコンサルタントとして適任かどうかに答える前に、将来有望な研究医様に1つ質問がある。医学系の研究室において、掃除の目的とは何かな?」
 見事だ。おそらく野崎先生は、何百人もこういうタイプを見てきているのだろう。相手の質問に答えず、その質問を褒めた上で、質問で返した。将来的に臨床医になり、泊をつけるために博士号を得ようとしているかもしれないのに、その可能性も思い切って除外している。事前調査でもしているのだろうか?とにかく、崩し方としては上出来だ。
 「そんなこと・・・、医学部に限った事じゃないとは思いますが、ホコリやゴミを集めることです」
 さらりと答えたガリ勉くんに対して、野崎先生は勝ち誇った表情をした。そして、ガリ勉くんに指をむけながら、さらりと言った。
 「ほら。君は、掃除をしたという結果として、ホコリを求めている」
 野崎先生の演説に慣れている私には、想像がつく。ここから相手に喋らせないのだろう。
 「まるで、ホコリさえ大量に取ってくれば、掃除をしたのだからそれで良いだろう、と言わんばかりだ。だから、よくよくラボの細かい随所を見てみなさい。例えば、あのPCRが置いてある棚の上のところ。ほら、この裏側、こんなにホコリが貯まっている。掃除が単なる習慣化になってしまっている証拠だ。こういうところを掃除せずに、君たちはPCRをかけているのかい?こういう細かいところを見過ごして、同じところを掃除しまくっても意味が無いのは明らかだろ?」
 ガリ勉くんは言い返すタイミングを伺っている。だが、野崎先生の研究医様に対する進言は止まる気配をみせない。
 「実験系のラボにおける掃除の目的・・・、それは、クリーンな環境を保ち、実験以外に不必要な無駄を排除すること。ホコリを集めることが目的では決してない。この2つの言葉の違いは僅かであるが、決定的に違う、確かな差だ。掃除は現実を見ることが得意でなくては、無意味な行為になりがちなんだよ。そんな基本的なことすらわかっていない君に、私がコンサルタントとして適任かどうかを示す必要はない。それに今回の水島研究室の視察は、医学部長である澤田教授が名指しで私に依頼してくださっているのだ。学生の君にはそんなことを言う権利さえない」
 野崎先生から調査をしたいと言い出したのに、よくもまぁ、いけしゃあしゃあと澤田教授の依頼だと言える。まぁ確かに、表向きは野崎先生の言う通りだから仕方ないのだが。野崎先生は、そう言い残すと、ガリ勉くんの反論を一切待たずに、突然に実験室の外へ出た。広い廊下だ。医学部の研究棟は、他の学部に比べて全体的に広い気がする。野崎先生はいつになく真剣な表情をしている。先ほどまでのおちゃらけた様子は皆無だ。
 「山下くん。私が、あの歯向かってきた彼と話しているときに、視線をフローサイトメーターのほうへ向けた人間はいたか?」
 私は思いがけない野崎先生の質問にビックリした。
 「フローサイトメーターですか?」
 「あぁ、そうか、山下くんは、有機合成が専門だったね。フローサイトメーターは、ラボの出入り口側の左奥にあった、黒い四角い箱みたいな機械だよ。大きなパソコンが一緒においてあった。どちらもSomyの製品だったかな」
 私は野崎先生が言っている機器を思い出しながら、水島研究室の全メンバー8名を思い出していった。
 「いえ、誰一人、そんな素振りはなかったと思いますが・・・、正確には後で確認してください。野崎先生の指示通り、スマートグラスの録画モードはずっとオンですし、だいたいのラボメンバーは撮影できていると思いますから」
 「了解。すると、あの彼と少し話す必要があるな」
 そう言うと、野崎先生は実験室に戻っていった。部屋に戻るなり、先ほどのガリ勉くんが野崎先生に反論してきたようだ。残念ながら、遅れて入った私には聴こえなかったが。
 「ところで、あのSomyのフローサイトメーターだけど、主に誰が使ってるのかな?」
 野崎先生がそう質問すると、ガリ勉くんが得意げに答えた。
 「あぁ、あれは、今、あんまり誰も使ってないですよ。去年は何名か使っていたんですが。なんならログをチェックしますか?」
 野崎先生は頷き、彼をフローサイトメーターのところまで足を運ばせた。他のメンバーは、皆、ゴミ捨てに行ったのだろうか。そう思って周囲を見渡すと、すでに自分の実験台で自分の仕事を始めている者もいた。
 「誰も使ってないわりに、この周辺は細部までやけにキレイだ。この、斉藤って人は誰だい?」
 「その人は、野崎先生の依頼人である澤田先生のところで研究されている人ですよ。あ、でも、正式には澤田研の人じゃなかったと思いますが」
 「この人の他に、最近、この機器を使ったであろう人は誰かいるかい?」
 野崎先生は口調ががらりと変わっている。今は完全に優しいお兄さんモードだ。ガリ勉くんにとって、このギャップは、先ほど恥をかかされたのも忘れるほどなのだろう。
 「実はこのフローサイトメーター、しょっちゅう誤作動するんで有名で、よく業者の人が、ここに来ますよ。といっても、最後に来たのは7月の終わり頃で、お盆前だったかと思いますが」
 「なるほど。その業者の人はいつから担当している?」
 「えっと、去年の1月くらいかな。この装置は2013年くらいからあるんですが。前は誤作動なんて一度も無かったんですが、この1年間くらいはやたらに多いですね」
 「わかった、ありがとう」
 そう言うと、野崎先生は水島研究室を出て行く素振りをした。おっと、と短く言いながら、野崎先生は水島研の全員に聴こえるように次のように言った。
 「皆さん、耳だけこちらに意識を傾けてください。作業を続けたままで結構ですので。まずは掃除を徹底すること。論文を書く前に、もっともっと基本的な事からきちんとしましょう。掃除は現実を見る作業。現実に存在しているホコリから決して目を逸らさないこと。ほら、このドアも、全然掃除していない。いくらラボの中を掃除しても、入り口にこんなにホコリがあったら同じこと。というわけで、掃除が完璧にできるようになったら、またアドバイスに・・・、来ることがあるかもしれないね」
 そう言いながら、研究室を後にして、階段を降りていく。私はそんな野崎先生の後ろに付いていきながら、念のため、意見を言った。
 「あのぅ、視察が終わったこと、水島先生か澤田先生に話さなくて良いんですか?」
 野崎先生はめんどくさそうに、私に言った。
 「心配ない。あとでメールしておく。それよりも結衣佳くんと一刻も早く話さなくては」
 “メール”と言われて、私はパラレルスマホではない、プライベート用のスマホを確認したくなった。彼から連絡が入っているかもしれない。私のせいで、祥太くんがいなくなり、直樹もいなくなってしまった。そんな憔悴しきった私を・・・、理系のなかの鬱屈とした環境に傷ついていた私の心を慰めてくれた彼に、今すぐにでも会いたい。そんな気持ちを抑えながら、私は野崎先生のあとをついていった。

 15時過ぎ。二条の近くの喫茶店に入った、私と野崎先生は、そろそろRC研究生の斉藤結衣佳さんが来るはずだと思いながら待っていた。私と斉藤結衣佳さんは初対面になる。北東大学に潜入している吉岡くんとは先週に同じような仙台市内の喫茶店で会ったが、無口な体育会系で、私としては接しやすい印象を抱いた。彼に新しいパラレルスマホを渡すのが本来の目的だったが、研究室の現状も少し聴けた。彼の潜入しているラボは山井研究室といって、かなりの放任主義らしい。そのせいか、普段からほとんど研究室に人がいないらしいのだ。今回の水島研究室はその逆だ。一挙手一投足を管理されている研究室メンバーが粛々と仕事に取り組んでいる様子だった。
 野崎先生のわりには珍しく、この喫茶店は完全に個室の店ではない。窓際の日当りの悪い席で、お客さんの入りはまばらだし、普通の喫茶店よりは1つ1つのボックス席が閉鎖的ではあるから話をするのに問題は無いとは思うけど・・・、野崎先生は京都周辺の土地に詳しくないのだろうか?それともそもそもそんな店はこの辺にはあまりないのか?
 「あ、野崎せんせーい、こんにちわー」
 後ろから声がした。振り向くと、斉藤結衣佳さんらしき人物が私のことを見ながら野崎に挨拶をした。清楚っぽい服装をしながらも、莫迦っぽい印象を与える童顔な顔。のわりに少しダラしない身体のラインが目立つ。目鼻立ちがくっきりしているわりには、しっかりナチュラルメイクをしている。右手の薬指だけ、ネイルアートをしている。自分でやったのだろうか?サロンに行ったのか?この雰囲気で、本当に医学部に潜入している大学院生なのか?丸の内のOLの平均点よりやや下位といった印象だ。
 「この人はどなたですか?」
 彼女は私の側に座りながら、そう言った。野崎先生が「ほら、前に連絡しただろ?山下美弥子さんだよ、私の雑用を引き受けてくれている」と言うと、「あぁ」と短い声をあげながら、「こんにちわ」と言ってきた。私も「こんにちわ」と返しながら、あー、こういう女、嫌い!と思った。
 「結衣佳くん、さっそくだが、少し聴きたい事がある」
 斉藤結衣佳は野崎先生を見つめ始めた。
 「なんですかぁ?」
 私がいるにも関わらず、野崎先生に対して、語尾をのばすような、この態度だ。私がいなければ、野崎先生に対して敬語も使わないに違いない。
 「水島研のFCM(フローサイトメーター)、最近使っているのは君だけか?」
 斉藤結衣佳は右手人差し指で唇とほっぺたの間を抑えながら、考えている素振りを見せた。
 「そうですね。私も最近使い始めたのでなんとも言えませんが、はい。私の独占状態です」
 「業者の人がよく点検に来るらしいんだが、話した事はあるか?」
 野崎先生がそう言うと、斉藤結衣佳は私のほうを少し見ながら、答えた。
 「いいえ。見た事も無いです。あの装置、そんなに大事なんですか?」
 野崎先生は真剣な表情で言葉を選びながら答えた。
 「あぁ、水島研関連の被害者候補7名全員が、あのFCMを何らかのカタチで使っていた」
 私は驚きながら野崎先生を見つめた。
 「結衣佳くん。本当に気をつけなくてはならないが、FCMを使えている現状はラッキーだ。私がそのように研究テーマを選んだつもりはないからね」
 「人工的に作成した非線形的に振る舞う油滴からマウスまで、運動形態を解析していくなかで、スケールフリーな生命らしい特徴を見出すのが私のテーマではあったのですが、遺伝子改変したある種の細胞が、同じ株のはずなのに個体差として振る舞いが異なるところがありまして。蛍光顕微鏡の観察で、リポフェクションが上手くいっていないものが入ってしまったことは明らかになったのですが、それがだいたいどのくらいの割合か知りたかったので、FCMを使ったのですが・・・」
 「その失敗は、RCとしては、大成功と言える。引き続きFCMを使えるように研究テーマを誘導していくようにしよう、まぁ、誰かに殺されかねないが」
 私は斉藤結衣佳のこの発言を訊いて、はじめて、この人、理系なんだ、っと感じ取った。
 「おそらく、その業者の人というのが怪しい。水島研内に怪しい人間がいないとすると、部外者として最も怪しいのは、業者の人になる。あのFCMだけやけに掃除が行き届いていた。その業者の人が掃除をしている可能性が高い。何かの痕跡を残さないためなのか、本能的に自分の痕跡を残したくないだけなのかわからないけどね。それに、水島研関連で、はじめて失踪があったのが2015年2月。その人が担当についてから、一ヶ月だ。だから十分に気をつけては欲しいが、FCMは使い続けてほしい。その業者の人と探れるようになるまでね」
 業者の人が、失踪になんらか関わっている?どうやって?まぁ、私たちが考えていてもあまり有意義にはならない。野崎先生の指示に従っていればいいのだ。
 「わかりました。いざとなったら逃げるから大丈夫でーす。ねーねー、それより、野崎せんせー、私、ケーキ食べたい。いいでしょ?」
 真面目に犯行内容を考えそうになっていた私を差し置いて、斉藤結衣佳は何も考えていなかった。野崎先生の了解を得ると、斉藤結衣佳は店員を呼んだ。
 「このチョコレートケーキで」
 生クリームがとなりについていて、とても美味しそうだ。「山下くんは?」と野崎先生から促されたが、お昼は天ぷらそばを食べたせいで、まだ、お腹がいっぱいになっている私は断った。
 「吉岡くんが潜入している放任主義の山井研とは対称的に、水島研はかなりの管理主義だったんじゃないですかぁ?まぁ、澤田研も管理主義ですけど、あそこまでじゃないので」
 斉藤結衣佳がそう言うと、野崎先生は身体を背もたれにあずけながら、リラックスした様子で答えた。
 「対称的ではないけど、まぁ、そうだね」
 私は驚きながら、野崎先生に質問した。
 「対称的じゃないって、どういうことですか?放任主義と管理主義。対称的じゃないですか」
 私が所属していた村松研は、今日視察した水島研以上に管理主義だっただろう。なんと言っても、助教の先生がお昼ごはんの時間をストップウォッチで計っているのだから。だから、この野崎先生の微妙な一言がどうにも気になったのだ。私がそう言ったところで、斉藤結衣佳が頼んだケーキが運ばれてきた。オーダーしてから本当にすぐに運ばれてきたなぁと思う。最近のレストランや喫茶店は本当に便利だ。私も斉藤結衣佳も野崎先生の答えを待っている。店員が完全に下がったところで、やっと野崎先生が語りだした。
 「山井研究室は、山井教授がなーんにも指導していない放任主義。ありゃ、多くの修士課程の学生が、ほんのちょこっと進捗した成果を、無理矢理に修士論文にまとめているパターンだ。まぁ、さすがに博士はそうはいかないだろうから、博士課程での留年が多いわけだ。一方の水島研究室は学生に対して、実験のたびに教授の指示が入る。もっとも水島研の連中は、自分たちが指示に従って作業しているだけだということにさえ気がついていないのだろうし、だから実験研究の基本である掃除すら自分で思考しようとしていない。彼らが当たり前になっている研究進捗のやり方こそが、そもそもの水島教授の指示だからだ」
 放任主義の山井研と管理主義の水島研。この両者は、やはり対称的だと思える。
 「放任と管理、この2つはまったく異なる原理に一見すると見える。だが、その本質は、いかに教育をさぼって、研究進捗をそれなりにでっちあげ、業績をあげるか?、という点に集約される点で、同一だ。誤魔化し方が異なっているだけ。山井教授は、あれで多くの学会実行委員のオサを務めていらっしゃる。確か去年までは学科長だったし、今年は入学試験実行委員のオサだったはずだ。論文業績が少ないぶんを外の仕事でカバーして、体面を守っているつもりなのだろう。研究室内部をおろそかにしてしまっているにも拘らず、外の仕事をやけに引き受けてくるのが放任主義の研究室のPIの特徴だ。そして、水島教授は、正式にはすでに定年を迎えた後の特任教授で、他人に対してスケジュール管理的な側面を出しながらも、昨年度、勤務時間中に国会前でデモ行為を行ったりしている。そんな自由奔放なことをするくらいなら、若い世代にポストを空ければ良いのに。あの世代は全共闘の影響もあって、やたらに反権力主義で個人の自由を主張する。つまり、放任と管理は、どちらも、俺は偉いんだ!、という勝手な気持ちをどう表現するか?というだけの差しかないんだ。発現の仕方が違うだけなんだよ。この勝手に振り回される側としては、両者はそんなに変わらない」
 なるほど。要するに、自分勝手な教員について「自分に管理的、他人に放任的」「自分に放任的、他人に管理的」と2種類いるのは確かだが、学生などの弱い立場が被害を被る瞬間は、そんなに変わらないということか。まぁ、確かに。放任主義の研究室では、「君が勝手に自由にやってたんだろ?」と言われて変な評価をされそうだし、それで何年も留年させられることの大義名分にされそうではある。管理主義の研究室でも、ほんの一回の自由度を逆手にとられて「私が指示したのに、それを無視して、君がこれをやったのだろう?」と言われて、同じようになりそうである。野崎先生は、自分の言葉を聞いている素振りを魅せながらも、黙々とケーキを食べている斉藤結衣佳のほうを向いた。
 「それ、美味しい?」
 斉藤結衣佳は驚いたように野崎を見つめながら、ゆっくりと答えた。
 「はい、甘くて、とっても美味しいですけど」
 そう言うと、野崎先生はあきれた表情を見せて、また語りだした。
 「まったく、最近のお嬢様は、これだから困る。そんなものが美味しいわけがないだろう」
 この発言は流石に斉藤結衣佳も気に入らなかったようで、ムっとした表情を魅せた。
 「私が美味しいって思っているのだから、それでいいじゃないですか?」
 それは確かにその通りだ。味覚のセンスまで、野崎先生にどうこう言われる筋合いはない。
 「じゃあ、結衣佳くん、生クリームとホイップクリームの違いは何かな?」
 「え?」
 「生クリームが動物性。ホイップクリームが植物性。本来、そういうチョコレートケーキについてくるのは生クリームなんだけど、そのクリームは明らかにホイップクリームだ。ホイップクリームそのものが悪いわけではないが、そのクリームにはショートニングが入りまくっていて、無理に甘くしている。長期保存できる用に添加物も入っている。そのなかには発がん性物質として名高いトランス脂肪酸も多く含まれているだろう」
 斉藤結衣佳は食べる手を止めて、野崎先生をじっと見ている。
 「ケーキに生クリームが付いてくるのは、本来、ケーキの甘さを口の中で抑えるため。甘さを促進させるためではない。最近、どのクリームをみても病的に白くて、私はそういうものを食べる気がしない。生クリームは、卵白のせいで少し黄色がかり、牛乳の味が全面にするのが普通。まぁ、保存が利かないから、最近じゃあ、少しお金を出す必要がある店でしか食えないが、結衣佳くんはお嬢様だろ。なぜ、そのアドバンテージを活かしていない?」
 斉藤結衣佳は野崎に反論した。まだまだ余裕がある表情だ。
 「そんな事言ってたら、野崎先生、なんにも食べられなくなっちゃいますよ!」
 「現代日本人はそもそもが食べ過ぎなのだ。単に満腹感を得るためではなく、身体に必要な栄養源を接種するのが食事の本来の目的だ。さっきの掃除の目的のロジックと同じだね」
 そう言うと一瞬私のほうを向いて、言葉を止めた。そして、すぐに言葉を続けた。
 「だから、自分の味覚として旨い!と感じるモノと身体が欲しているモノとを、リンクさせなくてはいけない。これが子供がしなくてはならない唯一のことだ。確かに経済格差が広がる現代、旨いモノを旨い!と感じられる味覚をすべての人が持つ事は難しい。だが、結衣佳くん、君は明らかなお嬢様だ。お嬢様で味覚が正しく成長していないのは致命的だと言わざるを得ない」
 「なによ!別にいいじゃない!!おやつのケーキくらい、何を食べても!」
 「あ、いや、私が言いたいのはそういうことではなくて、このように、世の中には、すでに、当たり前だと思っていることのなかに、誤魔化していることが沢山含まれているということ。当人が気がつかないうちに、誤魔化しに利用されていることが沢山ある。だって、君は、この誤魔化しを、美味しいと感じてしまっているんだよ?だから味覚もその1つだし、放任や管理が行き過ぎている研究室に所属している学生も同じことだ。彼ら彼女らは、自分たちが被害にあっていることにすら気がついていない点で、厄介なんだ。掃除をやらされて、研究内容や将来に至るまで自然と管理されているのに、研究はそういうもの、人生はそういうものだと思っている。放任だから、まともな指導を受けておらず、留年を繰り返しているのに、自分の能力が低いから仕方ないと思っている。それは、まるで、このホイップクリームが美味しいって思ってしまうことのようだなぁ、と思って」
 斉藤結衣佳は明らかに拗ねている。彼女の反応に対して、珍しく焦って冗談にしようと言葉を続けている野崎先生を見て、私は少し野崎先生が嫌いになった。私は飽き飽きして、プライベートのスマホを見た。すると、彼から連絡が入っていた。私は二人の目を盗んで、スマホを操作し始めた。
 ―そっちはどう?何か変わった事はあった?
 当初、たわいもないことを連絡できる関係に私は満足していた。先々週から付き合いはじめた私たちは、それだけでは満足できなくなっていた。祥太くんは真面目で優しいけど、死ぬ死ぬ詐欺をしてくるほどに男らしくない。直樹は男らしくてかっこ良かったけど、浮気性でチャラくて優しくなかった。でも、彼は、両方の良いところを持っている。真面目で、誠実で、優しくて、男らしくて、強い。そんな彼のところに早く帰りたいと切に思った。

 山岡研究室に行かなくなってから、もう2ヶ月か。あれから、もともとの所属である都王大の渡辺研究室に少し顔を出したり、彼女の香奈と会ったり、村川と飲みに行ったりしたが、基本的にはこの桜タワー北棟の33階にいる。野崎は「戸山くんにはこのスペースだと広すぎるかな?」などと言っていた。野崎には悪いが、この部屋を最初に見た時、桜タワーのわりには狭いなと思った。しかし、いまは、この部屋が何故か広く感じる。この2ヶ月、俺はすっかり変わってしまったかもしれない。物思いにふけりながら、野崎が作ったRC式モールス信号のテキストを開いて、ネットサーフィンをしていた。どうしても、スマホに手が伸びる。パラレルスマホではなく、プライベート用のスマホだ。別にGPSを利用したゲームをやりたいわけじゃない。位置情報がまるわかりだと野崎にキツく止められていて、なかなかのストレスではあるが。
 香奈や村川はかなり汎用性の高いSMSを使っているが、”彼女”との連絡はそうはいかない。マイナーなSMSアプリを使わざるを得なかった。野崎にバレたら一大事。アプリを開くと、なんとその”彼女”から返信が入っていた。「みゃーこ」と表示が出てきて、彼女の顔を思い浮かべる。
 ―ううん。特にはないかな。野崎先生は相変わらずだけどね。早くワタルに会いたいよ〜
 俺は自分の口角が上がるのを感じながら、どんな返信をしようか少し考えた。早く帰ってこい、と送ろう。だって、一度に二人の女と付き合うコツ、それは、放任と管理をそれぞれに使い分けることだからだ。香奈とはこの2ヶ月、1週間に一度くらいしか連絡をとっていないが、会えば仲良くしていた。美弥子は先々週に付き合い始めたばかりで、お互いの部屋を行き来しまくってるわけではないが、それまでも頻繁に連絡を取っている。そして、今のところ、すべてがうまくいっている。
 どうして、こうなってしまったのだろう?香奈を裏切るつもりはなかった。だけど、あのとき、美弥子が村松研での苦難を話してくれたとき、どうしても抱き合わなくてはいけないような空気を察してしまった。彼女はズルい。受け入れ準備オーケーですという表情の作り方が天才的だったのだ。いや、よくよく考えると、抱き寄せるまでで止めておけば良かったかもしれない。そのあとに、手を繋ぎながらキスしたのが問題だったのだ。後悔はそれなりにあるけど・・・、でも、今はそれでイイと思っている。香奈と美弥子、どちらも幸せにしたい、と真剣に思ってしまっている。この状態って、良くないよなぁ。そんなことを思いながら俺は美弥子に返信した。
 「野崎先生のおもり、お疲れ。俺も早く会いたい。早く帰ってこいよ」
 そう送ると、すぐに返信があった。
 ―さっき野崎先生に言われたんだけど、しばらくこっちにいることになりそう。どうしよう?
 “しばらく”ってどのくらいだろう?1ヶ月以上なら、放任と管理を逆にするか。俺はそう思いながら、”しばらく”の真意を美弥子に訊こうと思った。

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9. 社会統計力学と機械学習/『研究コントローラー』に続く

 事前に読んで添削してくれた方、有り難う御座いました。
 さて、やっと3月分のときの内容が回収できたなぁと。こっから、あと4回で終わらせられるか(笑)
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7. 桜タワー/『研究コントローラー』

2016-07-09 00:04:53 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 6. 研究者として/『研究コントローラー』

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2016年7月9日(土)

 となりの席から物音が聞こえた。そろそろ朝なのだろうと思って、腕時計をみると意外にも、もう午前10時。もう少し眠りたいが、14時過ぎには早田大学に行かなくてはならないし、そろそろ行動し始めよう。もう一週間以上も漫画喫茶・ネットカフェを転々と移動しているせいで、すっかり生活が乱れている。これもそれも、野崎のせいである。全国の研究室の連続失踪事件を解明するために立ち上げられたRC制度、こんなブラックな仕事は他に無いのではないだろうか?
 「走って逃げても構わない」野崎から言われたこの言葉がなければ、俺は今頃、何者かにつかまって、殺されていたのかもしれない。侵入した夜の大学、山岡教授の居室で、ドアノブが外側からがちゃがちゃと回りだしたとき、その恐怖からどうにか逃れようとして窓から外を眺めてみると、小学校の頃、大きな窓を開け、小さな身体を窓の外に投げ出して遊んでいた様子が頭をよぎった。もしかして、窓から逃げられる?思い立ったら行動するしか無い。遅かれ早かれ、誰かしらが、あの部屋に入ってこられたら、どうにもイイワケはできなかったし、直感的に危険を察知していたし、同時にスマートグラスとパラレル回線がハッキングされているかもしれないという気持ちから、野崎に指示を仰ぐのは危険に感じた。窓を開けると、非常階段がすぐ近くに見えた。4mほどじゃないか。あそこに移れれば。壁の外側はそれなりに凸凹している箇所も多く、なんとかなりそうであったし、そうするしか術は無い。運動神経にはそれなりに自信があるつもりでいるが、体操の経験は無い。どうする?でも、迷っている暇はない。万一、下に落ちたとしても、3階。ギリギリ死なない・・・気がするように思えた。足場さえ確保すれば。恐る恐る、窓の外側へ。その瞬間、ドアノブのがちゃがちゃという音がよりいっそう乱暴になった。早くしなくては!俺は思い切って、淵に手をかけながら、窓の外へ身体を投げ出した。一度、外に出てしまえば意外とラクなもんで、一歩また一歩と、何かの管の上を足場としながら、非常階段側へ向かった。なんとか非常階段にトンと着地したときは安心感を得た身体が萎縮するのを感じたが、まだ安心はできない。いつ、俺がここにいることとバレるともわからない。非常階段を下り、一番下まで降りてしまうとカギがかかっているため、踊り場から飛び降りた。飛ぶ直前まで、2階の半分だろ?大丈夫、と思っていたら、意外と滞空時間は長く、着地すると足がジンジンした。真っ暗なキャンパス内。なるべく人が行きそうにないところを通りながら、日吉駅まで走った。ほぼ全力である。窓から逃げて飛び降りまでした割には、駅まで息1つ切らさなかった。人間、死に直面すると、なんでもできるものである。漫画喫茶の文字を見つけ、そこで一晩過ごした。一睡した後、家に帰りたくなったが、家からパラレル回線を使って野崎に何度も連絡を取っていたために、家に帰るのは危ないように思えた。敵がどこまで掴んでいるかわからない。村川は出張中だし、彼女の香奈にはこの件に関わらせてはいけない。二人にはRCのせいで帰れないことだけを私用のスマホで伝えることにした。考えた末に、都心から少し離れた川崎・蒲田らへんに移動し、昼間はテキトウに街をぶらぶらし、夜は安ホテル・漫画喫茶に寝泊まりすることにした。最低限の着替えとカバンを買った。こういうときに、給与が高いというのは良いもんだ。一週間以上、そんなことをしているのに、緊急用に忍ばせている金のおかげで底をつかない。いや、この仕事をしていなければ、こんな目に合っていない訳で、そうではないか。
 ともかく、秘書の友川さんのパソコンの試薬リストから、無かったはずの水酸化ナトリウムの文字が現れた。それはスマートグラスで野崎から指示を受けたからで、おそらく、それを誰かがハッキングしていたからだろう。M2の原田愛菜。あの子は怪しい。最初から怪しかったし、あの子は発言に虚偽が混じっていそうなとき、いつも髪をいじっている。あのとき、D2の森下さんに午後イチはおかしいとツッコミをいれられた時も、髪をいじる仕草をしていた。野崎じゃなくても、何かやましいことがあるときの仕草は、見抜くのは簡単だ。だとすると、偶然の一致とは思えない。
 とにかくどうにか野崎にコンタクトをとらなくてはいけない。だが、どこでどうハッキングされているかもわからないため、スマートグラスとパラレルスマホをオンにすることはできない。野崎のメールアドレスは一般公開されておらず、最初に知り合った時の一般回線でのメールのやり取りに使用したメールアドレスは、破棄したと前に言われている。つまり、パラレル回線以外で野崎に連絡を取る術が無いにも拘らず、そのパラレル回線がハッキングされている可能性が高い以上、野崎に直接会うしか術は無い。だが、RC研究生と言えども、野崎の予定を逐一教えてもらっている訳ではない。だから、漫画喫茶で、野崎のSNSをチェックし、予定が発表されていないかどうかをずっと監視していた。川崎付近に来てから3日目。7月9日(土)に早田大で一般講演をする、という情報が拡散されていた。この14時過ぎからの一般講演を逃すわけにはいかない。特任准教授の高野先生には一般回線からメールで体調不良とずっと伝えているから、高野先生経由で野崎にも俺が慶明大に一週間以上行っていないことがわかっているはずで、にも拘らず、パラレル回線経由で俺から直接連絡が無いため、野崎自身も俺に何か異変があると気がついているはずだ。
 さて、出かけるか。

 早田大学はそれを取り囲む街全体として活気立っている。慶明大学と違って、メトロの駅を降りるとすぐに町中で、突然キャンパスが現れるといった印象である。街中に早田生が溢れ、みなどこかへ向かって楽しそうに喋りながら歩いている。こういう雰囲気は地方大学出身の俺としては、都会独特に感じる。学生達全員から、俺たち私たちはノリがいいぜ、と言わんばかりの雰囲気を常に全身から発し続けている。それにしても外は猛暑だ。特に、変装のためにカツラをしているため、顔がやたらに暑い。3月のJTSシンポジウムとなるべく同じような変装を心がけた。原田のような敵を欺く必要があるけれど、野崎本人には、俺が戸山渉だと気がついてもらわなくてはいけないからだ。まだ7月の前半。日陰に入り風が吹けば少しは涼しい。だが、ここの学生にはそんなヤツらはいないように思える。日陰にいるような連中は、おそらく皆、いまだに就職先が決まっていない就活生だろう。そんなことを思いながら、俺は、野崎の講演が行われる11号館へ急いだ。1101の教室で行われる。外部からの聴講者歓迎と書いてあり、俺は悠々と前のほうの席を陣取った。すぐに野崎に気がついてもらえるようにしなくてはならない。14時5分、野崎が教室の後ろからやってきた。俺は、その様子を見ながら、野崎のところに近づいた。そっと近づき、こちらに気がついたはずなのに、野崎は一切表情を変えない。わざとか?俺は、事前に準備した、三つ折りにした紙を無言で渡した。三つ折りにした状態で見えるように「渦巻きと頭に毛が3本」のマークを書いておいた。あの竹田講堂で謎の女性から渡された封筒に書いてあったマーク。おそらくあの記号は、野崎周辺の人間でも、なかなか知らないはずだ。
 「なんだい?この手紙は?」
 と、野崎は言葉を発した。手紙を開きながらさらに続けた。
 「あ、君は、私のファンだね。わかった、あとでじっくり読んでおくよ。返事はここに送れば良いかな?」
 と言いながら、手紙を俺のほうへ向けて、俺だけに見えるように、人差し指をゆっくり動かして、平仮名を一文字ずつ指してきた。
 “は か っ て い る 、 マ て”→”わかっている、待て”
 俺は短く小さく「はい」と応えた。野崎に見せた紙には、シャーペンで少し大きめの字で、次のように記した。
 「野崎先生、戸山渉です。一週間以上連絡しなかった理由は、パラレルスマホとスマートグラスがハッキングされていると確信したからです。講演のあと、確実に二人だけで話せる場を設けてもらっていいですか?」
 手紙の内容を読みながら、手紙に使った文字を使って瞬時に答えを返してきた。野崎に会ったら普通に話せば良いかと思ったりもしたが、いつどこに研究コントローラーの手先がいるとも限らない。念には念を入れておこうと思ったことが正解だったようだ。野崎に真意が伝えられ、席に戻る。壇上に目をやると、野崎が笑ってこちらを見ている。まったく、人の気も知らないで。その余裕はどこから来るんだ?そんな表面上の感情とは裏腹に、野崎の笑顔は俺に安心感を与え、その安心感からか、一週間以上孤独を絶え抜いた疲れが突然どっと押し寄せてきて、倒れそうになった。

 14時20分から1時間の講演はあっという間に終わった。題目は「研究生活のあり方」。野崎が作った25項目のチェックリストでテストを行うことで自分自身の研究遂行力の点数がつく。まず200人ほどの聴講者が一斉に5分間ほどでそのテストを行い、自己採点。その後に野崎が1つずつ実例を挙げながら各項目を解説していった。このチェックリストが、分野に依らず、ポジションや年数に依らず、かなり精緻に作られており、研究コンサルタントとしてオファーを受けた研究室に数週間入る際には、最初に必ずこのチェックリストを使ったテストをやるのだそうだ。とても面白そうではあったのだが、俺自身は非常に疲れていて内容が頭に入ってこなかった。終わった後、ちらほらと、野崎のもとへ人だかりができていた。名刺を交換したり質問したりと様々で、俺もその列に並ぶフリをした。いよいよ俺の番だと言うときに、名刺をさっと渡された。
 「君は私のファンだったね。私の今後の予定や情報をここでチェックできるよ」
 と走り書きされた文字を人差し指で指しながら、俺に微笑んできた。
 「わかりました、ありがとうございます」
 野崎の演技にやっと慣れてきた。名刺には急いで書いた野崎の字で「16時に東都医療研究センター研究所前で」と書かれていた。16時まで約30分。早田大の校門の前に地図があることを思い出し、そこに向かうことにした。別に私用の通常回線のスマホを使えば良い気もしたが、なんとなく抑制された。

 16時まで、あと5分。東都医療研究センター研究所の前は、人通りがない。早田大からここまでは歩いてだいたい15分ほどだった。病院と併設されている研究施設のようで、一度病院側のほうへ向かったが、人通りが出てきて、こちらではないと察した。人気を避ける気がしたからだ。わざわざ「研究所」とつけたのはそういう理由か。それにしても、こんなにも人が少ないところで大丈夫だろうか?人がいなさすぎて、襲われる危険性が高い気がした。目の前には生活支援センターがあるのみで、公園付近にはそれなりに緑も多く、東京の真ん中と思えないほどの静けさだ。何名か看護士が通ったり、何台か車が出てきたり、入ってきたりしている。そんな様子を見ていると、突然、野崎の声がした。
 「戸山、こっちだよ」
 後ろを振り向くと、通りに車が止まっており、その助手席の窓から野崎が声をかけてきている様子が分かった。呼び捨てだったため、瞬時に反応できなかった。どうやらUターンしたようだ。車種は斉藤自動車のプルウス。色はシルバーだ。
 「とりあえず後ろに、乗って乗って。この辺は人通りが無いし、自由に喋っても大丈夫だけど、とりあえず、家まで行こうか」
 家って、野崎の家か?突然の展開に戸惑っていたが、俺はそそくさと後部座席に乗り込んだ。正直、コイツがどんな家に住んでいるのか、興味がある。でも、車がプルウスじゃそんなに良い家は期待できないように思う。運転しているのは、俺と同世代くらいの女性だった。
 「あ、こちらは、山下美弥子さん。私の周辺の雑用を引き受けてくれている」
 「どうも。戸山さんですよね?」
 山下と呼ばれた女性は一瞬こちらを向いてそう言った。
 「はい、戸山渉です。どうも」
 俺は、少し緊張感が走った。それは彼女が美人だったからだけではない。彼女が短く振り向くことで、こちらに注意を払った瞬間に漂った香りが、この一週間、疑義の対象であった山岡研M2の原田愛菜が近くを通るときに漂う香りと酷似していたからだ。おそらく彼女がつけている香水が原田のものと同じなのだろう。関係があるとは思えないし、この山下という女性は野崎の秘書だ。野崎が何も調べないわけがない。それにしても、こんなに若い女を秘書として雇っている野崎に、ほんの少し気持ち悪さを感じる。いや、だったら誰が適任なんだよ?と代案を考えてみると思いつかないけれど、なんとなく気持ち悪さを感じてしまったのだから仕方ない。
 「すぐに着くよ」
 車はどこに向かうのだろうか?車は来た道を戻る方向で、早田大のキャンパスの1つがまた見えてきた。
 「野崎先生、どうして、遠回りするところを待ち合わせ場所に選んだんですか?」
 山下美弥子が訊いた。
 「あそこが戸山で、彼が戸山くんだからだよ」
 一瞬、緊張感がほぐれる。だから、呼び捨てで俺のことを大声で呼んだのか?誰かが聴いていた場合、名前と地名を混同するように。いや、いくらなんでも、冗談だろ?そんなことを思いながら、しばらくぼんやりと景色を眺めながら、この一週間の孤独との戦いを噛み締めた。長かった。本当にこれしか術がなかったのか?なんやったら、この一週間のどこかで普通に山岡研に行っても良かったのかもしれない。いや、それはないか。だって、少なくとも、教授室の内カギを閉めたまま外カギを部屋の中に置いてきてしまった訳だし、このRC制度はそもそもの目的が研究をすることじゃないし、これで正解なはずだ。
 「戸山くん、今日はメシでも食べていきなよ。きっと大したもの食べられなかっただろ?」
 突然の野崎のフランクな提案にビックリする。
 「いや、それよりも・・・」
 「仕事の話は着いてからしよう。ほら、もう、飯田橋が見えてきた」
 まだ明るい外を眺める。この時期は16時過ぎでも昼間のように太陽が煌めいている。そんな太陽に対抗するようにそびえ立つ、やたら大きな2つの建物が見えてきた。40階くらいはあるだろうか?大きく目立つ双子ビル。
 「あれは桜ダブルタワー。手前が北棟で奥が南棟。あっちが東都科学大。で、あっちが政法大学だね」
 みるみるうちに桜タワーが目の前に見えてきた。外から見る限り、手前に見える北棟はショッピングモールのような施設になっているように思えた。土曜日のこの時間。やたらにカップルが多い。奥に見える南棟はマンションのように見える。で、あれが科学大か。JTSシンポジウムはあそこで行われたんだったな。あの時はまだこの仕事の危険度をきちんと認識できていなかったように思える。村松教授を追いつめたとき、少なくない優越感があった。権威に歯向かえるこの仕事を楽しめていたのだ。研究コントローラーと名乗る犯人から手紙がきて以降も、野崎の心持ちはあの時と変わらないのだろうか?
 「そんなわけで、そろそろ南棟に到着する。戸山くんは私たちの後ろを付いて来てくれれば良い。余計なことはしないこと」
 この桜タワーが野崎の家なのか?え?マジで?!この、億ションであろう桜タワーに住んでいる?俺は驚愕した。確かに野崎の能力は測り知れないし、一般的な知名度もそれなりにあるし、俺にぱっと1000万円を渡せるくらいには高額な資金のやり取りに慣れていることは知っていた。だが、それでも、ここまでの家に住んでいることを目の当たりにすると話は別だ。恵比寿にもこんな感じの億ションばかりが建っている場所があるが、ここは東京の中心と言っても過言ではない飯田橋。こんなところの億ションに、大学にいる教授の誰も住んでいないだろう。野崎は博士号を取っていないにも拘らず研究関連でメシを食っている、いわば失敗者だ。それでも億ションに住めるのか。いやむしろ、こういう生き方をしない限りは、理系はこういう場所に住めないのかもしれない。車は南棟の駐車場に入っていった。まだきちんと駐車していないが、ドアマンが手で合図をして車が停車した。
 「到着した。さぁ、車を降りてくれ」
 「おかえりなさいませ、野崎様」
 背広を着たドアマンの男性が、車から降りた野崎に話しかけた。手には白い手袋をしている。
 「あぁ、ありがとうございます。後は任せます」
 野崎がそう言うと、山下さんが車のキーをドアマンに預け、小さく「宜しくお願いします」と言った。ドアマンの男性は俺たちが乗ってきたプルウスに乗り込み、駐車スペースへと車を移動させていった。まるで高級ホテルの対応だ。
 「このマンションにプルウスで入るのはちょっと場違いな気もするんだが、仕方ない。あまり目立つ車に乗るわけにもいかないし」
 俺は野崎をこれまでとは変わった視点から見ている気がした。なんというか、金や散財という視点も、こいつにはあるのだなぁと思いながら、彼を見上げたのだ。

 駐車場からロビーに着くと、そこは高級ホテルそのものだった。フロントは2階まで吹き抜けになっており、大きなシャンデリアがあって、フロントマンもいる。明らかに座ると気持ちの良さそうな高級ソファを見てしまうと、この一週間ずっと安ホテルと漫画喫茶を行き来し、座ってきたおそらく安いであろうソファ達に何かの申し訳なさを感じた。ここに住めば、家にいながら、都会の真ん中でのんびりとした休日を過ごしたい、という想いが叶えられるだろう。エレベーターが6台もあり、そこに警備の人が立っている。目隠しされてここに連れてこられ、ここは何の施設だと思う?と問われたら、100%ホテルだと答えるだろう。野崎がエレベーターへ向かい、山下さんが少し後ろを付いていく。俺がさらに後ろを付いて歩く。こんなところにこんな格好でいても良いものだろうか?しかし、野崎に連れられてきているのだから仕方ない。エレベーターの前に立つ警備員が野崎に話しかけてきた。
 「野崎様ですね?」
 「はい。隣へ」
 野崎はそっぽ向いて答えた。
 「かしこまりました」
 エレベーターに乗り込むと、警備員も乗ってきた。警備員はカギを取り出し、カギ穴に入れて回すと、小さなボタンのようなものを出した。すると、野崎は指をそこに置き、リズミカルにタップした。指紋認証だ。まぁ、そんなものは、今の時代、スマホにもついている機能か。
 「では、お気をつけて」
 そういうと、警備員は会釈して、エレベーターから下りた。
 「これから北棟に向かう。いったん地下3階に降りねばならないのが厄介だが、安全のためだ」
 地下3階に着くと、さっきほどまでの豪華さと一転して簡素なフロアーが現れた。廊下をまっすぐ進む。またエレベーターがあり、それに乗り込むようだ。今度は警備員はいないし、一台しかない。
 「私の部屋は35階だ。山下さんはもう部屋に帰るだろ?」
 野崎がそう言うと、山下さんは頷いた。すると、33階のボタンも押して、言葉を続けた。
 「じゃあ、戸山くんは私の部屋に」
 「ここ本当にすごいですね」
 すると、野崎は笑顔で返してきた。
 「3年前に警察病院を取り壊して、この桜ダブルタワーを作ったんだ。表向きは四井不動産が土地を買い取り、南棟の高級マンションと北棟のオフィスビルのセットというカタチになったんだが、本当の目的は私のように警察に協力している人間の安全な居住を提供すること。特にこっちの北棟に居住スペースがあることは普通知られていない。戸山くんも秘密にしておくように」
 「っていうことは、野崎先生は、ここをタダで使ってるんですか?」
 俺は思ったことをそのまま言った。
 「その通り。今通ってきた南棟には実際に多くの金持ちが住んでいる。まぁ、とは言っても意外と安くて、1LDKの部屋で月々30万円ほどだ。図書館やジムが使いたい放題だし、お手頃価格だろ?」
 どこが安いんだ?俺の心の中のツッコミを置きざりにして、野崎は山下さんのほうを見ながら言葉を続けた。
 「私はこちらに移ってきて、まだ1年。山下さんは2ヶ月だね。慣れた?」
 「いえ、似合わない着物をいつまでも着させられている気分です」
 俺は笑った。野崎も笑っている。そらそうだ。っていうか、この子は何者なんだ?

 山下さんとは33階で別れた。2人で野崎の部屋の前に到着すると、カードキーをドアのところに入れて、さらに暗証番号および指紋認証の後、ようやく入室した。中はものすごく広い。一人でこんなところに住んでいて、寂しくならないのか?というような広さだ。
 「さて、ここでも、まだ、話す気にはなれないかな?まぁ、戸山くんの持ち物のどこかに発信器がついていたとしても、一週間以上経っているから電池が持たないはずだし、ワイヤレス充電はまだまだ研究段階で商品化されていないし、仮に使われていたとしても東京はフリーWi-Fiゾーンが少ないからね。確実に大丈夫だと思うけど、完全に電子ネットワークから抜け出す部屋にでも行こうか?」
 そういうと、入り口から2番目に近い部屋に入った。扉を開けると、そこには、何も無い空間が広がっていた。家具1つ置いていない。まるで、引っ越してきたばかりで、これから家具を置きましょうといったような印象だ。
 「この部屋はドアを閉めれば電磁遮蔽が完璧になされている。何を話したとしても外部に漏れる心配は一切無い。高度な技術が発明されればされるほど、こういう落ち着いた部屋を人間は欲するようになる。考え事をするとき、私はこの部屋をよく使う」
 電磁遮蔽が完璧になされている部屋。アルミホイルでも全体に巻いているのだろうか?わからないが、そんな場合ではない。話さなくては。水酸化ナトリウムのことも、パラレル回線が原田愛菜によってバレていることも。しかし、野崎が先に話をしてきた。
 「さて、戸山くんに話してもらう前に、私が戸山くんについて掴んでいることを先にお伝えしよう。パラレル回線がヤツらにバレている。そう思っているんだろ?」
 「その通りです」
 「その根拠は?」
 「秘書の友川さんのパソコンのパスワードを知るためにスマホをしかけたとき、実は僕、試薬リストを軽く見ておいたんです」
 野崎は目を見開いた。俺は言葉を続けた。
 「偶然、試薬リストが開いていて、ほんのちょっとだけ見ました。そのときは、水酸化ナトリウムという記述が確かになかったんですが、得られたパスワードを打ち込んで深夜に潜入したときには、水酸化ナトリウムの文字があったんです、2015年の9月24日に」
 そう言いながら、私用のスマホに撮った写真を野崎に見せた。
 「そんなの、最初に戸山くんが見たときに、見間違えたのかもしれないだろ?」
 「その可能性は考えたんですが、9月24日は見間違えないと思うんです」
 「その日って、何かあるっけ?」
 「ええっと、僕にとっては、修士論文でのチャンピオンデータが出た日が2015年の9月24日なので。最初に見たときにも、そう思ったことは覚えていたし」
 野崎は俯いたままだ。俺は言葉を続ける。
 「それに、M2の原田さん。あの人あやしいですよ。午後イチ、っていうのを、僕がパラレルスマホで野崎先生に書いた直後に、同じようにそう言ってたし・・・、だって、午後イチって普通午後1時のことでしょ?でもあのとき、僕は午後2時の意味で使った。それを僕とまったく同じ意味で間違えたんですよ?それを他の人に追及されたときに、嘘をつく時の仕草をしていたし」
 「嘘をつく時の仕草?」
 「彼女、嘘をつくとき、髪を後ろに流して、片側だけ前に戻す癖があるように思うんです」
 野崎は考え込みながら、突然こちらに表情を写し、微笑みながら応えた。
 「なるほどな。戸山くん。実はね、高野先生から訊いたんだが、原田愛菜はこの一週間、君と同じく山岡研究室に来ていないんだよ」
 「え?」
 俺は悪寒がした。どういうことだ?こちらの行動に気がついて、どこかへ消えてしまったのか?それとも??
 「それも無断でね。何の連絡もないそうだ。だからその憶測は合っていると思う。他に何か無かったかい?」
 「いや、めちゃくちゃ、あったんですよ。あの潜入してた深夜、教授室に入ろうとしてきたヤツがいて」
 「なんだって?どういうことだ?」
 野崎は微笑を消し、驚いた表情をした。
 「部屋に侵入したときに内カギをかけていたから、窓から逃げてなんとかなったんですけど、マジでやばかったですよ」
 「その話は実におかしい。なるほど、戸山くんはかなり優秀なRC研究生のようだな。いや、実は、私はパラレル回線がハッキングされているんじゃないかと薄々感じていた」
 え?そうなのか?じゃあなんで手を打たなかったんだ?俺は野崎の言葉を待った。
 「だから、あえて絶対にありえない犯行の手口を推理し、調査してみることで、必ず何かしらが見えてくると思ったんだ。だって、あの手紙が来た時点で、こちらの手がバレていそうなことは検討がつくだろ?水酸化ナトリウムの予測はフェイクだよ」
 それは冗談キツいっすよ、野崎先生。こっちとら、命狙われてるんですから。ってだから、給料が高いのだった。仕方ないっちゃ仕方ない。
 「犯人達は戸山くんと私のパラレル回線での会話を、少なくとも一部見ていたはずだ。だから、あの日、私は君に様々な指示を分単位で与えた。ヤツらが何かを仕掛けていた場合、あたふたするように。しかし、ヤツらが、それでも何かを行動できるのだとしたら行動してくるはずだし、私には何も行動しないだろうという予見があった。なぜなら、そこで何か私たちに危害を加えるつもりなら、もっと前に私を含め、何らかの攻撃をしかけてきても良いはずだからだ。そして、今の戸山くんの話から、ヤツらは、わざわざ試薬リストを書き換えてまで、水酸化ナトリウムで遺体を溶かして捨てた、と我々に死路に導くように仕向けたってことは、まだ我々を泳がせたかったということ。それなのに、そのタイミングで、戸山くんだけを襲ってくるのは、不可解だ。何のメリットもない」
 言われてみればそうだ。こちらの情報が筒抜けだったとして、あのタイミングで教授室の扉をがちゃがちゃと回して、俺を連れ去ろうとしたり、殺そうとするのは、不可解だ。それが目的なら、さっさと殺しているはずだし、そうでないなら、もっともっと泳がせるはずだ。
 「私は戸山くんに何かあっただろうと思って、講演を引き受け、そのことをSNSで公表した。だから、実は、さっきのあのタイミングが危うかったのかもしれない。だが、我々はこうしてなんとか無事に帰還している。考えられるのは次の2つ。研究コントローラーたちが仲間割れを起こしているケース。たとえば、ヤツらのうちの一人が戸山くんと私のパラレル回線にハッキングすることに成功していて、その情報が仲間全体に及んでおらず、単独で行動してきた結果が、仲間内に突然伝わったことで、指揮系統に混乱を生じさせた可能性だ。もう1つは、彼らが断片的にしかパラレル回線の会話を把握できていないケース。まぁ、可能性が高いのは後者だろうな」
 俺が一週間考えていたことをあっという間に把握してしまう。
 「心配は要らない。最新の量子暗号をベースとした暗号化ソフトを組み込んだパラレルスマホが来月には届く。これが解読されることはまずないし、戸山くんにはその間、この桜タワーにいてもらう。他のRC研究生には私がなんとか伝えよう。まぁ、位置情報が読まれているとしたら、自宅にいられたら危険で仕方ない。落ち着くまでここに住むしか無いだろうな。大丈夫、ここはものすごく警備システムが厳しいし、どこかで狙われたとして、たとえ爆破されるとしても、居住スペースである南棟が狙われるはずだから」
 コイツ、さらっとすごいことを発言したぞ。しかし、ここに住めるのか。こりゃいよいよ俺の金銭感覚が狂ってくるな。
 「そんなわけで、まぁ、ここから都王大の根津キャンパスはすぐだから、自転車で通っても良いけど・・・、またこういう時のために、これを覚えておいてよ。とりあえず、山岡研は放置でイイからさ」
 野崎は笑顔だ。放置でいい?本当にそうなのか?野崎はA4で印刷した紙をホチキスで挟んだ資料を渡してきた。
 「なんですか?これ?」
 「RC式モールス信号」
 モールス信号。スパイものでよく出てくる、あれか。
 「普通のモールス信号だとバレたら一発だ。だから、私が改良しておいた。覚えやすいしバレにくい。まぁ、それはすぐに覚えなくてもイイが・・・、それでっ、井川くんのことは、何か分かったかい?」
 野崎は突然、山岡研でD5で現在行方不明になっている井川くんの現状を訊いてきた。まぁ、そのために俺は潜入してるわけで、当然っちゃ当然か。
 「うーん、井川さんにとって、同期の豊杉さんがけっこうキツかったんじゃないですかね」
 「まぁ、それは私も感じていたことだが・・・」
 「井川さんが、研究者として大事なことは何か?って訊いたときに、豊杉さんは、自分で物事を考えられること、と答えたみたいですが、豊杉さんは本当は、有機合成の分野だったら、とにかく手を動かすことだって思っているみたいで、そんな豊杉さんが成功していく様子を、井川さんは見ていられなかったんじゃないでしょうか?」
 「”そんな豊杉さん”とは、どういうこと?」
 「なんというか、上の人にとって使いやすい若手でいることが研究者として最も大事って思っているあたりです。その考え方だと自分が上の立場に立ったときに完全に困るんじゃないかなぁと。だって、一生誰かに媚び諂って生きていくことはできないじゃないですか?」
 「それはそうだけども・・・、じゃあ、戸山くんは、研究者として最も大事なことは何だと思うの?」
 野崎のこの質問は何を意味するのだろうか?調査が大事なんじゃないのか?
 「難しいですが、僕は、研究者として大事なことは、研究者として大事なこととは何か?という問いを常に自らに問い続けることそのものだと思うのですが」
 すると、野崎は、指を鳴らしながら、「ダウト!」と言ってきた。
 「それはウソだし、卑怯だよ」
 突然の誹謗中傷発言にビックリして、反射的に言葉が出た。
 「なんでですか?」
 「研究者なんだろ?間違ってもイイからまずは答えを出せよ。問い続ければイイ?答えも出さないくせに、なんだ?その舐め腐った態度は。それじゃあトートロジーじゃないか。確かに、多くの研究者が、その問いに対して、論文が書けること、と実務的に答えたり、好奇心を持つこと、と退屈な一般論を述べたりする。だが、彼らが戸山くんと違って偉いのは、周囲から叩かれる可能性を享受しているという点だ。戸山くんは、権威主義を否定しながら、答えを出さなければ叩かれることはない、という自らの怠惰な思考停止を、考えていそうな言葉に収束させている点で、より自己欺瞞的だし、卑怯だし、なにより、コインをひっくり返せば、戸山くんが嫌っている権威主義的な考えそのものだ。トートロジーも甚だしい」
 「そこまで言うこと無いじゃないか!」
 またもや反射的に言葉が出てしまったせいで、敬語を忘れてしまった。
 「ダメだよ、戸山くん。理系はどんなことがあっても怒りを露にしちゃいけないんだ。クールでなくてはならない。感情的になった時点で君の負けだよ」
 その通りではある。俺は自分を抑えながら、反論を探した。
 「じゃあ、野崎先生は、何が研究者として大事だと思っているんですか?!」
 「知らない。わからない。私は博士号を持っていないし、博士課程の学生でもないし、これから目指す気もない。研究者ではないからね。だが、戸山くんの帰結が最悪なのはわかる」
 なんて勝手な奴なんだ。一刻も早くここから出ていきたい。そう思ったが、野崎は予想外の言葉を使ってきた。
 「まぁ、確かに。少々言い過ぎた。悪かった。つい、昔を思い出してしまって。でも、何かしらの答えを出すということは、とても大事なんだ。だから、私も、何かしらの答えをこの瞬間に言わなくてはならないだろう。研究者として最も大事なこと、それは、とにもかくにも生きていること、だと私は思う。この”生きている”という意味は、ただ生命的に生きていれば良いということではなく、どのような状態であっても、まずはその場にいて、悠然と生きている、という意味だ。だから、私は、研究室がいくら劣悪な状況でも、井川くんのように研究室に来なくなってしまう人を完全には肯定できない。確かに、へーこらしているほうが上手くいく、そういう世の中かもしれない。でも、そこに真っ先に甘んじているのは井川くん本人だとは思わないか?だって、その場に存在しようとしなくなってしまうのだから。世の中は所詮まだまだ権威的なのか、だったらいいやー、と研究室に来なくなってしまい、延いては社会から自分を隔絶してしまうのは、誰でもいつでもできる手段だが、現状を何も変えようとしていない点で最悪だ。まぁ、可哀想ではあるけどね」
 今までで初めて野崎が詫びた。俺は怒りよりも、あっけにとられてしまった。
 「さて、疲れただろう?とりあえず夕飯にしよう」
 そう言うと、野崎は、部屋を出た。

 その頃、桜タワー北棟33階にいる山下美弥子は、テレビを見ながらSMSで会話をしていた。
 「あ、そういえば、こないだ教えてくれたロアレルの流さないトリートメントの新商品、使ってみたんだけど、すごく香りがイイね」
 「でしょでしょー。美弥子も使ってみた?前にね、何かのサイトのコスメランキングで香りがいい部門で上位だったよ」
 「まぁ、その香りを世の男どもに振りまく瞬間は、まだ訪れてないんだけどね。泣」
 「貴女、まだ、野崎って研究コンサルタントの先生のところにいるの?」
 「そうよ。そのほうが安全だし」
 「で、私にも、まだ、どこにいるかは教えてくれないってわけ?」
 「ごめんね、お姉ちゃん。野崎先生が絶対ダメだって。私だってつらいのよ」
 「それはそうかもしれないけどさぁ。まぁ、男運がないわよね、美弥子は」
 「そういうことじゃなくて、お姉ちゃんに会えなくて、ってこと」
 「だったら、どこにいるかくらい教えてくれればいいのに。まぁいいけどさ」
 「お姉ちゃんのほうこそ、異動なんだよね?」
 「そうよ、今度は関西方面」

******************************************************

8. 放任と管理/『研究コントローラー』につづく

 『ここのところのこの話、事実やで』
 「え?たかはしさんがもって書いてるんじゃないんですか?」
 『いや、マジでこのまんまやで。色々あるんやで、研究室は』

 さぁ、どこがフィクションでどこが事実か、考えながら読み直してみましょーね、全部(笑)
 事前に読んで添削してくれた方、有り難う御座いました。
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6. 研究者として/『研究コントローラー』

2016-06-29 00:48:59 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 5. 殺人の根拠/『研究コントローラー』

******************************************************

2016年6月27日(月)

 「その部分についてはまた次の発表で説明してもらうことにしよう。まずは有機化学として、反応がきちんとできているかどうかが重要だ。そうだとは思わないか?戸山くん?」
 山岡教授のその言葉に、俺は窓の外の久々の晴天を眺めながら、「確かに、そうですね」とつぶやいた。慶明大学山岡研究室のゼミ。発表者はM2の岸信明くん。発表内容は、医療応用できうる新規ゲルの開発。応用的な事柄が最終目標であるのなら物性評価が重要になってくると思ってコメントしたのだが、物性物理学上のベースを考慮したことが気に障ったのだろう。「化学では反応追跡ができているか?が大事」という目的と方法を裏返してしまっている論法で押し切られてしまった。物理学や数式にアレルギーがある人がいると、こういうことはよく起こる。あの世代なら余計にそうだ。それに、これ以上深入りしてはいけない。権田くんが学推を提出できるよう野崎が山岡教授にブラフをかけてから、ただでさえ山岡教授は俺に何かと厳しい。俺の発言を無力化するように努めているように思える。だとしたら、ここで折れないで発言を続ける意味は無い。
 「あ、ちょっといいですか」
 振り返ると、ポスドクの豊杉さんが手をあげていた。豊杉さんは山岡研内での空気支配率が高く、上司である高野特任准教授や山岡教授も、豊杉さんの意見には従うようなところがあった。豊杉さんは関西弁のイントネーションを保った標準語で、軽やかに言葉を続けた。
 「岸くんは、背景のところで、目標の設定を医療応用だとしていますよね。だとしたら、反応追跡は二の次でも良いんじゃないですか?むしろ、物性評価として、たとえば、皮膚にどれだけフィットしていられるかどうかとか、先にそういうことを調べた方がイイと思うんですよね。もちろん、身体に有害な副生成物ができていたら問題ですから、結局は反応追跡も行う必要がありますが、まずは、戸山くんが今言ってくれたように、物性として適しているかどうかという点を調べることが、重要じゃあないですか」
 豊杉さんの発言に山岡教授が白眉をつり上げている。豊杉さんは山岡教授が不機嫌になることを承知で今の発言をしたのだろうか?真意は定かではないが、山岡教授が口を開いた。
 「だから、その点については、次の発表で説明してもらうようにしようと、言ったはずですが、私の言葉を聞いていましたか?」
 豊杉さんが俺の方をみながら、口角をあげてきた。「ね?」っと言っているようだった。「すいません、わかりました」と豊杉さんは短く述べた。俺はその笑顔に愛想笑いを浮かべながら、スマートグラスに表示された野崎の言葉に本当の笑顔をこぼしそうになった。
 “私の指示がなくても、上手くやれるじゃないか”
 というよりも、余計なことをしないで、無難に取り繕ってりゃいいんだろ?という部分が拭えないが、それでもこれから行うべき大仕事のことを考えれば、褒められておくにこしたことは無い。
 13時5分前、ゼミが収束にさしかかり、連絡事項が伝えられた。学会の予定などについて話している。大した連絡はない。いつも通りであれば、ここで、全員でお昼に行くはずである。秘書の友川さんも含めて。
 研究コントローラーと名乗る連続殺人を臭わす手紙が野崎のもとに送られてから1ヶ月。大学院生および若手の失踪事件の僅かな増加を訴え、RC研究生という大学院生のスパイ集団を組織している野崎の意見は、どうやらそれなりに間違っていなかったようだ。野崎は犯行について強アルカリによって死体を溶かしているんじゃないかとする説を出し、その調査となるような手がかりを、RC研究生の一人である俺、都王大の大学院生であり慶明大学の有機合成研究室、山岡研に潜入している戸山渉も、常に探してきた。俺が着目したのは試薬リスト。秘書の友川さんのデスクは山岡教授の部屋にあり、友川さんのパソコンには試薬棚や試薬庫にある試薬リストのデータが入っている。このリストは、友川さん本人が試薬棚と照合してリスト化しているもので、友川さんが犯人じゃなければ、何か怪しいもの、例えば、大量の水酸化ナトリウムが保存されていれば、すぐにわかるはずだ。当然、リストに何もなくても試薬がある場所とクロスチェックするべきだが、あくまで都王大学からの部外者である俺では、試薬棚はともかく試薬庫に行くのは不自然だ。だから、まずは、友川さんのリストを見てみることが先。このお昼のタイミングで、スマホを友川さんのデスク付近にある本棚のところに取り付け、動画を取りっぱなしにする。友川さんがお昼から戻ってきたタイミングでパスワードを解錠する指の動きを撮るためだ。スマホは山岡研のどこにあってもおかしくない有機反応の本の背表紙の裏に取り付けておき、カメラだけが外に露出するようにしたものを、本棚に入れる。そして、今は、絶好の機会。友川さんが、先生達の湯のみを下げにくる。その間、わずか3分だが、スマホが入った本を取り付けるには十分な時間だ。俺は野崎に、スマートグラスで動画撮影を外部にそのまま直接出力できるやり方を提案したのだが、「バレたときのリスクが高すぎる」と言われた。確かに、どこにでもあるスマホが本の背表紙に入っていたのがわかり、それが動画撮影されていたとしても、誰のものかどんな目的なのかわかりようがないが、パラレル回線を使用したり、現在世間にはあまり普及していないシステムを使ったのだとしたら、犯人がどこまで野崎のことを掴んでいるかはわからないとしても、野崎とRC研究生との関係がバレやすくなるだろう。
 「すいません、ちょっと、先にトイレに行ってきます。どうしても我慢できなくて」
 今度からトイレで席を立つ以外の理由を考えなくちゃいけないな。まぁ、今はとりあえず良い。思い切って教室のドアを開け廊下を出ると、そこにはタイミングよく友川さんと出くわした。ふくよかな身体の割に軽やかな足取り。お茶を片付けるためのおぼんを持っている。「どうも」と挨拶を交わしながら、階段の奥にあるトイレに向かうフリをしている。僅かな時間だけカギが開いているはずだ。急げ。階段を駆け上がり3階へ。試薬リストすべてを見るには大変だが、スマホ付き有機反応本を取り付けるのには容易い時間だ。山岡教授の居室に着き、そっと扉を開けた。誰もいないことはわかっていても、どうしても”恐る恐る”の様相になってしまう。狙っていた本棚を見つけ、お腹に隠していた、スマホ付きの本を本棚に置いた。沢山の本の上に沢山の本が積み上がっており、なんでもない本に紛らわせるのは簡単に思えた。録画をスタートさせ、俺はすぐに部屋を出ようと思った。だが、ここである事実に気がつく。友川さんのデスクのパソコン画面に、ちょうど試薬リストらしき表計算ソフトウェアが開いてあるのだ。スクリーンセーバーにならないくらい短い時間、本当に僅かな時間の隙間を狙っていることに興奮と緊張を覚えた。俺は瞬時にパソコンの今の状態を脳内にスキャンし、日付順になっているリストを上の方へ、つまり過去の試薬記録を見ようと、マウスを動かした。井川さんという行方不明の院生がいなくなったのは、確か去年の11月。そう野崎から訊いている。だとしたら、10月、いや9月、この辺りに試薬記録の更新が・・・。だが、その辺りには、水酸化ナトリウムもなければ、苛性ソーダとも書かれていない。やはり強アルカリで人体を溶かしているから死体が見つからない、というのはあまりにも短絡的な発想なんじゃないか?と俺は思い始めた。そうこうしているうちに、部屋に入ってから1分半も経過しようとしている。早くここから出なくては。俺はパソコンの画面をもとの状態に戻した。山岡教授の部屋のドアを開けて廊下に出ると、自分の気持ちが自然に一息つくのを感じた。少し小走りで歩き出し、階段を下がろうとすると、おぼんの上に山岡教授と高野特任准教授の湯のみを持つ秘書の友川さんに出くわした。
 「あら」
 俺は友川さんの姿と声にびっくりした。咄嗟に俺は、言葉を探した。
 「あ、下のトイレ、偶然、空いてなくて。上のを使ったんです」
 わざわざ言わなくても良かったか?そう思いながらも、連絡事項を終えそうになっているゼミ室に戻った。
 このあとは皆でお昼ごはんだ。居室に戻り、俺はその僅かな時間で野崎に連絡した。新しいパラレルスマホにも慣れてきた。
 “スマホのとりつけは完了しました。このあと午後イチで、回収します。チェックするのは明日の深夜になります。ぱっと見た感じでは、水酸化ナトリウムなどの強アルカリが大量にストックされている様子はありませんでした“
 山岡教授の居室のカギは、実験室に置いてある。その実験室のカギは俺も普段から1つ預かっているが、山岡教授の居室のカギを取るには、記録帳にいちいちメモるのがルールだ。カギを必要としない時は、教授室に誰かしらいるということになる。だから、リストを盗み見することはできないし、誰もいない頃を見計らってメモらずにカギを持っていって何か問題があっては面倒だ。どうせ、深夜にだってこの建物には入れるのだから、水曜日は体調不良で休むことにして、誰もいないであろう火曜から水曜にかけての深夜、ここに侵入することにしよう。研究室のgogleカレンダーによれば明日の夜には誰も実験しないはずだし、ゼミは終わったばかり。研究室に遅くまでいる人はいないはずだ。お昼ごはんが終わり次第、秘書の友川さんがパソコンのスクリーンセーバーを元に戻した頃合いに、山岡教授の居室に本を取りにいく様子で伺い、そして、スマホ入りの本を回収しよう。そこに、友川さんの入力の様子が映っているはずだ。これでパスワードゲット。ここまで、何事もなく進めば良いのだが。野崎から連絡が帰ってきた。俺はスマートグラス上の文字を見る。
 “お疲れさま。まずは第一段階クリア、ってところか。日本のラボは深夜に実験してもお咎め無しな上に簡単に侵入できる。スパイする側としては楽勝だな”
 向こうからの連絡に対しては、スマートグラスをかけているだけで、内容を知ることができる。だが、発信に関しては、パラレルスマホを使わなくてはいけない。当たり前のことなのだが、慣れてくると意外とめんどくさい。そんなことを思っていると、M2の原田さんが話しかけてきた。近寄られる程に、独特な香水の匂いが増す。どうも、こいつは油断できない。なんでもかんでも、すぐに男を利用しようとしそうである。
 「ほら、早く行きましょうよー。森下さんも早くしないとー、午後イチに予約したNMRに間に合わなくなっちゃいますよ」
D2の森下さんにも話しかけながら、原田さんはみんなでお昼に行くようにしむけている。このとき、俺は何かの違和感を感じた。何だ?何がおかしいんだ?すると、森下さんが間髪をいれずに言った。
 「原田さん、NMRの予約は14時だろ。午後イチだったら、今行かなくちゃ行けない」
 原田さんは、髪を後ろに流しながら、ケロっとした表情を作って、言葉を返した。
 「あ、そっか」
 短い言葉で言い終わると、原田さんは、右側の髪だけ前に流し戻した。先ほど出した野崎のメールに俺も”午後イチ”と書いた。そもそも”午後イチ”が何時なのか知らないが、一般には13時からだろう。どうも研究室の生活が長くなると、お昼休み学部生でいっぱいの学食が空きはじめる13時頃にお昼に行くことが多く、研究行為を再開する14時頃のことを”午後イチ”と言ってしまう。そして、原田さんも俺も、偶然、同じタイミングで間違えた。偶然か?いや、偶然に決まっている。絶対にパラレルスマホは見られていないし、まして、その内容は絶対に誰にも見せていないように気をつけている。野崎に盗撮・盗聴されてから、身の回りのカメラや録音類には気をつけているし、怪しいかもしれないと思ったものに関しては随時チェックするようにしている。ありえない。ただの偶然のはずだ。俺はそう思いながら、山岡研のみんなと学食に向かうことにした。

 午後イチ、もとい14時が過ぎた。お昼ごはんは、置いてきたスマホが気になって、ほとんど喉を通らず、その様子を見たD1の同期の権田くんが、心配してくれてしまった。スパイとしては失格だなと反省していると、14時3分。まだ早いか。席に着きながら、論文をサーチしているフリをする。14時20分。私用で使っている通常のスマホからSNSでくだらないことを呟いて、そろそろ居室に向かうかと思い、山岡教授の部屋に向かった。手にはテキトウな論文を持っている。論文内の反応機構について不安があったために本を探しにきた、という大義名分のためだ。
 「失礼します」
 少し小さく発した自分の声に緊張が走る。大丈夫、自然なはずだ。すると、豊杉さんが共用パソコンを使っていた。どうやら、何かの解析をしているようだ。俺は恐る恐る扉を閉めて、状況を把握した。秘書の友川さんは座ってデスクワークをし始めている。ということは、スクリーンセーバーを解除するために、すでにパスワードを入力したはずだ。それが撮影できているはずである。俺は、とりあえず、スマホが入っていない本のほうへ向かい、右手に取ってみた。左手に持っている論文を確認する。これがいいかも?っという表情を作りながら、スマホが取り付けてある有機反応に関する本を取り出した。背表紙越しにスマホの感触を味わって、安心感を得る。もし、本だけでスマホがなくなっていたら、元も子もない。よし、完璧だ!と思いながら、俺は部屋を出て、すぐに野崎に連絡しようとした。すると、今自分が出たばかりの扉が開き、豊杉さんが出てきた。豊杉さんは俺に近づいてくるなり、小声で囁いた。
 「やっぱり、戸山くんは野崎先生のお小姓やったんやな」
 俺は、突然の野崎の名前にビックリしながら、豊杉さんを見つめた。
 「そんなにビックリしなくてええで。時間あるやろ。ちょっと散歩しよか?」
 豊杉さんは一度実験室に入り、高野准教授にアイコンタクトをする様子を見せた。高野先生は「わかった」とすべてを理解した表情をして、俺ら2人を送り出した。

 いっさい喋らず歩き続けて10分。慶明大学日吉キャンパスを出て、住宅街に入ってきてしまった。雲は少し多いが、今日は雨の降る心配は無いという予報である。確かに雲と雲の間から少しだけ青空が覗けるくらいには晴れている。豊杉さんはどこまで歩き続ける予定だろうか?俺はキャンパスを出るあたりで、直感的にパラレルスマホとスマートグラスの電源をオフにした。
 「ここまでくれば、まぁ、誰かに聴かれる心配もないやろ。あの本、なんかあんねやろ?それ以上なんも訊かんけど、ラボにある本は、一応、俺はすべて把握しているんでね」
 そう言いながら、やっと俺に話しかけてきた。表情は穏やかだ。
 「井川英治くんの件について、高野先生に相談したのは、もともと俺なんや。そしたら高野先生、研究コンサルタントをしている野崎って知り合いがいるから、彼に相談してみましょ、て言われてな。で、野崎先生の取り組みの資金援助をうちの親父から出してもらうことになってな。斉藤グループと比べると微々たるもんやけど、うちもそれなりに儲けてるからなぁ。ここまでトントン拍子やったで」
 俺は、驚きの事実にも拘らず、案外、なるほど、と心から納得できた。金持ちと情報の組み合わせは、何かが創発されるときには必ず共存しているってもんだ。
 「井川くんについては、どれくらい訊いてるんか?」
 突然の質問に俺は野崎の言葉を思い出してみた。
 「えっと、現在D5ですよね。野崎先生から訊いていることとしては、昨年の10月から行方知れずってことくらいで」
 「せやな。うちらがお願いしてから、野崎先生がRCを組織するまで、本当に仕事が早くてビックリしたで。俺のSNSにもRC制度の情報が流れてきたときに、マジか?と思た」
 なるほど。あれは、かなり大規模に拡散されてたんだな。あの広告に騙されて、今俺はこの人と喋っているわけか。前から、短い道を、小学生数名とおばさん数名が歩いてくる。自然と、俺ら二人は会話を止めた。やり過ごしたのを確認すると、豊杉さんは言葉を続けた。
 「俺は実は、博士課程からこの研究室に来てな。もともとは東都科学大やねん。修士までのラボが先生の定年で閉まってしもうて、それで慶明大の山岡研を受験したんや。なんとか合格して山岡研に入ったときに、同期ですでにいたのが井川くん。もうその頃からあんまりラボに来ておらんかったけどな」
 「もう、その頃から行方不明のような状態が続いてたってことですか?」
 「せやな。決定的だったのは、俺が学推の申請を山岡先生から認められて、井川くんが認められなかったことだったように思える。卒研と修士の頃から山岡研にいたのにも拘らず、俺の方が優先順位高かったことに、井川くんはショックだったんやろ。そんときは、当たり前やん、としか思わんかったけどな。だって井川くん、全然、来てなかったんやから」
 二人で歩きながら話すとき、その二人の会話が、歩き方に反映されるという。確かに今、俺らは、ほんの少し早足で、思考の飛躍の仕方がややあるように思えることと一致する。そして、豊杉さんが常に俺より少し前を歩いていて、それも豊杉さんが会話をリードしていることと一致している。
 「それでもまだ俺らがD1の頃、そうやなぁ、D2の夏ぐらいまでは、井川くんは研究室に来ていたと言える。なんでかって言うとな、ラボ内で彼が来てないことが噂になっとったからや」
 会話の主導権を取り返すために、少し先手を打とうとした矢先、意味が分からないことを豊杉さんは言ってきた。
 「え?どういう意味ですか?」
 「そら、正しい反応や。俺の説明不足。せやからな、研究室に来てない、っていうのには、レベルがあるっちゅうこっちゃ。あの人研究室に来ないよね、って噂になっとるうちは、そらまだ研究室に来てないことがレアな事実になっとるっちゅうことで、基本は研究室にいるっちゅうことやんか?せやけど、その人が研究室に来てるってことが噂になるっちゅうことは、来てないことは周知の事実になっとって、その上で来た、ってことが噂になったっちゅうことやんか?」
 俺はやっと納得した。なるほど、確かそうだ。俺は笑いながら頷いた。
 「情報の基本ですよね。あるイギリスのジャーナリストの言葉に、人が犬に噛まれてもニュースにはならないけど、人が犬を噛んだって事実はニュースになる、というのがあります。稀な事実が情報を作るっていうか・・・」
 豊杉さんは分かってもらえた嬉しさを笑顔で俺に伝えた。
 「D2の終わりには、井川くんは周囲から、研究室に来てることが、噂になっとった。まぁ、末期やな。当然そんな状態やったし、同期やけど一緒には博士号とられへん思ってたんやけど、それでも、ちょこちょこ井川くんとも話しててなぁ。彼、おもろいねん。考え方が」
 「と言いますと、どんな風に?」
 「ラボオートメーションに興味があったみたいやで。将来的に実験室はこうなるああなる、って言うのを教えてくれて・・・、あ、そういえば、彼に誘われて、一度、そういう学会というか研究会というか、そういう催しに一緒に行ったこともあったで。まぁ、今思うと、自分が手を動かしてないイイワケと連動していたような気もしなくはないんやけど、わからんとこやで」
 そう言いながら、俺らは曲がり角を曲がった。
 「俺が学位取ると、井川くんはますます来ーへんようになってしもた。まぁ、しゃーない。で、そのまま俺はJTSの研究員として山岡研におるようになって、あまりにも井川くんが来ないから、高野先生とよく相談しとったんや。もう、井川くんのことをよく知ってるのが、俺か高野先生しか残っておらへんしな。ほんで、おかしいな、って思ったのが、9月の終わりの、ある日のことや」
 核心を突くであろう言葉がここから出てくる。俺は本能的にそんな予感がした。豊杉さんは真剣な表情になった。
 「正確な日にちは覚えてへんけど、9月の終わりやったのは間違いない。その日、珍しく井川くんがラボにやってきたんや。実験ノートを開いとった。俺が、大丈夫なんか?今年は博論いけそうか?、と訊くと、井川くんは逆に質問してきた。研究者として最も大事なことはなんだと思う?、ってな」
 研究者として最も大事なこと。あまりに多くの研究者が色々なことを言うあまり、それを一言で表現することは難しいように思える。好奇心を持ち続けること?諦めない心を持って粘り強く頑張ること?思考力の高さ?文章作成力?実験を沢山できること?論文をよく読むこと?そのどれも俺はしっくり来ていない。野崎なら何と言うだろう?研究者として最も大事なことは何だ?
 「俺は、自分で考えられることじゃないか?、って応えたんや。本音では、有機合成の分野なんて、ほとんどその成果は実験量に比例するやろ、って思ってるんやで。せやけど、本当のことでも言って良いことと悪いことがあるやんか?せやから俺は、井川くんのスタイルに少し合わせた答えを言ったんや」
 「そう言うと、井川さんはなんて応えたんですか?」
 豊杉さんは井川くんのモノマネをするように表情を作りながら応えた。
 「なるほどね。でも、自分で物事を考えられても、実際にそれを具現化できないと仕方ないじゃないか?って言われた。そこまでわかっとるんやったら、なぜに実験せーへんのや?って思って、そう質問したんや。そしたら、最初からくだらないと分かってることに対して、実験するとか実験しないとか、それ以前じゃん、って言われてしもた」
 俺には、豊杉さんは2つの意味で勘違いをしている、と思える。まず一点目は、豊杉さんは、上の立場の人にとって使いやすい若手でいることが研究者として優秀であると考えているようだが、その考え方では自分が上の立場に立ったときに完全に困るということ。一生誰かに媚び諂って生きていくことはできない。これは研究者に限らず、だが。そして二点目。井川さんはおそらくそれをわかっていて、物事を自分の頭で考えられても、それが権威によって具現化できない現状を憂いでいたのだ。それを豊杉さんはわかっていない。
 「そう言うから、俺は言ってやったんや。確かに山岡教授は頭が良いほうじゃ無い。せやけども、割り切ってしもたらラクやと思うよ?とりあえず博士取るまでは、そうして見たらどうやねん?って。すると、井川くんはすごく明るい顔になって、なるほどーって感じの表情やったんやで。で、ほんなら、とりあえず、明日から毎日来るってことをしてみたら?って言うて、本人頷いて、かなり納得した表情やったのに、その日から完全に姿を見せなくなって・・・、そんな風になったの初めてやったし、それで野崎先生に相談することになるんやけど・・・」
 ちょっと待て!その伝え方が本当だとすると、井川さんは豊杉さんにムカついているだけのはずだ。野崎がそれだけで動くとは思えない。野崎なら、井川くんがそれからずっと来れなくなってしまうのは当たり前だと思うはずで、俺を山岡研に派遣するまでに至るとは思えない。
 「え?ごめんなさい、ちょっと待ってください。明日から毎日来てみる約束を取り付けた後、何か言ってませんでしたか?」
 「確か、”そうだね。信頼できるかどうかわかるためには、こちらから信頼してみるしかないからね”とか言うてた。状況に対して、あんまりフィットしてる言葉じゃないから印象的で、よく覚えとる。井川くんが何を信頼したいのか?わからへんやん。っていうか、えっらい、上からやなーって」
 俺は身体の芯から寒気を感じた。都王大学根津キャンパスの竹田講堂で行われた”科研費における審査の手順改革 2018”説明会の後に謎の女性から言われた言葉、そして研究コントローラーと名乗るこの件の犯人からの手紙にかかれていた言葉、”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them”じゃないか。このヘミングウェイの言葉、何かあるんだ。そして、野崎も、この言葉を豊杉さんから聞き出して、この失踪事件は単なる鬱病患者の引きこもりでは無いと結論づけているのだろう。
 「どうした?戸山くん?」
 「いえ、なんでもありません。よくわかりました」
 豊杉さんは、ため息をつきながら、「そろそろ戻る方向にしよか」と言い出した。時計は15時半をまわっている。
 「それで。戸山くんとしては、山岡研で、何か掴めたんか?」
 「いいえ、全然。野崎先生が把握されている以上のことはわかりません。僕はただ、野崎先生の手となり足となるだけですから」
 それからは、世間話をしたり、山岡研内の人間関係の話をしたり、研究の話をしたり、大した情報のやりとりはしなかった。ひとつだけ言えるのは、豊杉さんは良い人だが、対応至上主義だということ。こういう人が研究者として向いていると研究の世界では言われているが、本当の意味では、研究者に向いていないように思える。それこそ、研究者として大事なことは何か?、と自分自身に問い続けていない。そして、この、研究者として大事なことは何か?、と日々問い続けることこそ、研究者として大事なことなのかもしれない、と俺は思いながら愛想笑いを続けることにした。

2016年6月29日(水)

 いくつになっても、真夜中の学校は薄気味悪い。昨日の20時半から共通実験室やリフレッシュルームを転々とさせられている。スマートグラスで野崎から指定された部屋に転々と移動しながら隠れ続けること六時間弱、ほとんど誰とも出くわしていないし、もう十分だろう。RCの収入で新調した腕時計を見る。さて、午前2時過ぎか。野崎からの連絡も30分前を最後に入っていないし、そろそろ実行して良いだろう。俺は実験室に向かうことにした。
 あれから、秘書の友川さんがパスワードを打ち込んでいる動画を野崎に送り、解析してもらった。パスワードは、”TornaDo69”。あのおばさん、ジャネオタだったのか。トルネードロックは、低迷が続くJ-POP界で唯一成功している、ジャネーズの5人組アイドルグループ。意外な事実に俺はビックリしたが、そんなことよりも、野崎からの直前の沢山の指示の変更を受けるほうが大変だった。ここに隠れろ、次はここに隠れろ、何時に見に行け、やはり30分待て、試薬リストをスマートグラスで撮ってくれ、いや、やはり、普通のスマホで撮っておいてくれ、と要求がやたらに二転三転した。
 ゆっくりと3階の実験室および教授室に向かう。やはり、格式の高い建物が緊張感を煽る。何か知らないが、嫌な予感がする。別に大したことじゃないはずなのに、と俺は思った。よほどJTSシンポジウムのときに質問させられるほうが大変だっただろう?と自分に言い聞かせた。当然ながら、誰もいない。教授室に入るには、実験室から教授室のカギをとらなくてはいけない。実験室の扉を開け、部屋を真っ暗にしたまま、カギをとりにいく。電気をつけてはいけない。これも、野崎から言われていることだ。普段とは違う実験室の雰囲気に緊張感が走る。あった、カギだ。暗くてよく見えない場合は、スマホの明かりを頼りにしてっと。スマホの画面を見ると少し安心した。たわいもないことでさっきまで話していた内容について、彼女の香奈からSMSのポップアップが入っていた。実験室の扉をゆっくりと締め、教授室に向かう。今度は教授室の扉にカギを指し、ゆっくりとカギを回し、ゆっくりと扉を開け、教授室の中を見回してから内カギをゆっくり閉めた。友川さんのPCをつける。ぼーん、という音が鳴り響き、俺はビックリする。だが、これは仕方ない。そんなに大きな音でもないだろう。デスクトップに試薬リストというファイルがあり、それを開く。月曜にチェックしたはずだが、証拠の写メを撮っていこう。2014年4月から試薬の存在記録が購入記録と一緒に残っている。購入記録を日付順にして、2014年4月から写メを撮っていく。”水酸化ナトリウム”という文字は見つからない。やはり、強アルカリで人体を溶かしているというのは、おかしいんじゃないだろうか?そう思っていると、2014年度までの写メが終わる。意外と短い。10分足らずで作業が終わった。さて、去年だ。2015年。4月なし。5月なし・・・。そして、ここは、一昨日も見た、9月だな。ここも、ないはず・・・。何っ!?俺の目に、”洗剤用水酸化ナトリウム”の文字が見える。機械のように写メを撮っていた、右手が止まる。容量は?10Lが4本。薄めて使えば、ヒト一人を溶かせる量ではある。場所は?試薬庫か。何故だ?一昨日見たときには何もなかったはず。何故?そう思いながら、やっと手が動いてくれた。写メを撮る。これだけで十分なはずだ。
 どうしてだろう?野崎率いる我々RCチームが水酸化ナトリウムを疑ったら、都合良く水酸化ナトリウムが試薬リストに追加された。こないだは絶対にこのリストには無かったはずなのに。試薬リストの更新日時を見てみる。すると、驚くべきことに、一週間前になっている。いや、絶対にこないだは”水酸化ナトリウム”の表示はなかった、俺はそう思った。化学に疎い俺でも、流石にこれは見逃さない。ここで、ふと、”午後イチ”という言葉を思い出す。あいつ?M2の原田愛菜。スマートグラスに表示された文字を読み取っている?確かに、パラレル回線上で、”水酸化ナトリウム”という文字を使ったのは、一昨日が最初だ。それをどこかで見られているのか?そう思いながら、ひとまず、秘書の友川さんのPCをシャットダウンした。その瞬間に、教授室の扉のドアノブががちゃがちゃと回りだした。俺は、硬直してしまった。内側からカギをしておいたから、ここには簡単には入れないはずだ。内カギと外カギは違うものだからだ。だが、このままではいつドアを壊され、ここに入ってこられるかわからない。どうする?どうする?!

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7. 桜タワー/『研究コントローラー』につづく

 関西弁が難しかった6話目でした。
 もう、7話目はすでに書き出してますので、次回は早いはずです。ここまで、事前に読んでくださってる、お二人、有り難う御座いました。また、来週も宜しくお願い致します。

 というわけで、意外とあっという間に、折り返し地点。12話で完結予定です。完結したら、プロットと、ネタばらしなどしますが、それまで、これに関しては、なるべく文章だけで楽しんでもらいましょ。
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5. 殺人の根拠/『研究コントローラー』

2016-05-26 23:12:58 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 4. RCの意味/『研究コントローラー』

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2016年5月11日(水)

 まだ一ヶ月弱しか経っていないが、慶明大学の山岡研究室にも慣れてきた。渡辺研究室と違って常時人がいるし、生活も規則正しい人が多い。また指導者にも恵まれている。今のところ俺と一緒に実験をしてくれている特任准教授の高野先生は丁寧に分子設計を考えてくれているし、有機合成に関しても基礎からしっかり教えてくれている。そして、なにより、RC制度の肝である”研究しているフリ”について寛大だ。それなのに、野崎からはあれからほとんど連絡がない。「まずは通常の研究業務に励むように」というメールをパラレルスマホでもらったくらいだ。
 とりあえず、今日はまず試験管の洗い物をしなくちゃいけない。その後、昨日精製できているはずの”モノ”をNMRで確かめる。昨日は火曜日なのだが、月水金にくるという約束が早くも破れつつある。昨日はカラム精製というのをやって、たくさん試験管を使った。その洗い物が今日大量に俺の手元にある。カラム精製というのは、反応物と生成物をチャージによって分ける作業のことで、その原理を実際的に、シリカゲル中に通してやることによって時間で分ける実験のことだ。有機合成ではこれが一番ダルいんだそうだ。確かに昨日は合計で5時間くらいかかった。まぁ初めてだから仕方ないのかもしれないが。大量の洗い物をしていると、ガラス器具を洗い終わった後にMQ水を通さなくていいのだろうか?と思えてくる。生物系の実験室では、洗い物をしたすべてのガラス器具に、最後、ミリQ水と呼ばれる特殊なフィルターに通した蒸留水を通すのが基本である。水切りを3回以上するのがポイントだ。この点は有機合成の部屋でも同じだが、ミリQ水を通さなくていいのだろうか?ミリQ水の代わりにアセトンをかけることで、蒸発を早めているけれど。アセトンをさっとかけて、試験管などのガラス器具を乾燥機に入れていく。
 「あ、戸山くん、メスピペットは乾燥機にいれないほうがいいよ」
 そう俺に声をかけてくれたのは、同期のD1権田くんだ。「メモリがずれちゃうからね」と言っている。権田くんは山岡先生が評価書を書くのを渋ったせいで学推に応募できないことが決定している。学推とはこの時期に博士課程の学生と修士課程2年生の学生が日本学術推進会に申請する書類であり、通れば来年度から3年間か2年間、月20万円の収入と年150万円以下の研究費がもらえる。俺は昨年度落ちてしまったが、野崎が企てているスパイ制度であるRC制度で年間2000万円ももらえることになっているので、今年度は申請しなかった。権田くんは学推に応募すらできないのに、最近、優しい態度だし明るい。直感的に何かあると思った俺は、このチャンスを使って権田くんに学推のことを訊いてみることにした。
 「権田くんは、学推に応募しないことを納得しているの?」
 ちょっと言葉がきつすぎたか。権田くんは俯きながら、ゆっくり答えてくれた。
 「それが、先週の金曜日に山岡先生と話すことになってさ、それで、俺も学推を出していい、って言われたんだよ。突然のことにビックリして、テーマは急いで提案しなくちゃいけないし、それを急いで文章化しなくちゃいけないし、それ以前に”これまでの研究”も、俺あんまりそういうの書いたことなくてさ。いま結構忙しいんだよね」
 そう言った権田くんは言葉の割にはさわやかだ。俺は理由がわかったことに安心しながらも、ちょっとビックリした。
 「それは良かったね。でも、なんで山岡先生は今になって、OKを出したんだろう?」
 「井川さんのことがあるんじゃないかなぁ。あの人、ずっと学推出させてもらえなくて、で、今いなくなっちゃってるし、山岡先生も少し気にしてるのかも・・・」
 と言って、言葉を止めた。部外者である俺に対してそこまで情報を言っていいのか迷ったのだろう。というよりも、すでに言い過ぎた、という表情をしている。俺は「そうなんですね」と言いながら、気まずくなってパラレルスマホを見た。ちょうどスマートグラス上にメッセージありと表示されたからだ。当然、野崎からだ。スマートグラス上にメッセージが数文字流れたが一度で読み切れそうもないため止めた。

 俺はお昼、外に食べに行くことにし、そこでパラレルスマホを開いた。心のなかで野崎からのメッセージを丁寧に読み上げる。新しい指示だ。
 「5月26日13時から、日本学術推進会主宰で”科研費における審査の手順改革2018”説明会が都王大の竹田講堂で模様される。私はパネラーとして参加する予定なのだが、戸山くんも聴講者として参加したら良いと思う。当日参加オーケーのはずだ。戸山くんのお友達の村川くんも参加予定だ。この説明会中で特に戸山くんの仕事はないが、一応この間のJTSシンポジウムの時と同じように変装はしてきてくれ。そのあとに、このカフェで落ち合おう。RCに関して伝えたいことがある」
 カフェの場所が示してある。いつものことながら、勝手だ。他人の予定を一切考えていないし、他人の友達の予定を勝手に調べて熟知している。うんざりだと思いながらも、審査に関する改革を行うという学術推進会の取り組みを知っておくことは損ではない。だが、この手の説明会は教授クラスの先生達のためのものであり、俺のような大学院生がいっても構わないのだろうか?あ、でも、村川も参加するのか。それなら構わない気もする。そんなことを思いながらキャンパスのなかに戻ってきた。
 「どう?慶明大学には慣れた?」
 M2の原田さんだ。まだラボについていないのに、キャンパス内で突然話しかけられたことにビックリしてしまった。PDの豊杉さんと一緒だ。俺が振り返ると、「あ、戸山さんのほうが学年上でしたよね。すいません、つい」と言ってきた。
 「お、さっそく、原田さんの女の計算がでてますねぇ。あえて敬語を外すことによって、ってヤツでしょ?」
 豊杉さんの言葉は「さしすせそ」のアクセントが強く、標準語なのに関西弁に聴こえる。豊杉さんは笑っていたが、意外にも原田さんはすごくイヤそうな顔をしている。また、この表情が男を誑かすのに長けていそうな表情だ。いかにもな女、やっぱり油断ならない。
 「そんなことないですよ」
 原田さんはそう言いながら、左手で口元を抑えて、右手で髪を後ろに流した。それからすぐに、豊杉さんと原田さんは、早足でラボのある建物に向かって歩きだした。俺はまだキャンパス内をふらふらしたかったので、道を変える。原田さんは去り際に俺に微笑を見せ、豊杉さんは軽く手をあげた。そんな二人に俺は軽く会釈し、緑が生い茂る日吉キャンパスで、大学という場所はどこもかしこも面倒くさいなと思いながら、まだ何も知らぬ新入生たちを羨んだ。

 実験室に戻ると高野先生が座っていて俺を待っていたようだ。「ちょっといいかい?」と言って廊下に連れ出すと、誰もいないことを確認しながら
 「権田くんの学推の件、どうも野崎くんが山岡先生に何か言ったらしいんだ」
 と言ってきた。その言葉に、俺は納得しようと試みる気持ちと疑義が重なった。廊下のほうが少し涼しい。高野先生にあのゼミのあとの電話の件を言うべきか。迷うところだが、とりあえずは無難に訊いてみよう。
 「野崎先生か山岡先生が、そう言ったんですか?」
 高野先生の表情は穏やかだ。
 「いや、直接言ってきたわけじゃないんだけど、山岡先生から野崎正洋はどういう人物なのか?って訊かれたし、その後すぐに権田くんの学推応募が認められたからね。その他に目立ったことは特になかったと思うし」
 それは確かに野崎が権田くんの学推の件に関わっていると仮定するのが妥当だろう。俺は心に抱いた興味を直接ぶつけてみた。
 「で、高野先生はなんて答えたんですか?博士号をとっていない、口やかましい研究コンサルタント、とか?」
 高野先生は笑っている。
 「まぁ、あながち遠くはないかな」
 高野先生とはこの少しの期間である程度は打ち明けられる関係を築くことができている。俺はNMRを取る準備をするため実験室に戻った。

2016年5月26日(木)

 14時、都王大学の根津キャンパスにある竹田講堂で、”科研費における審査の手順改革2018”説明会が開催され、一時間が過ぎようとしている。村川が隣に座っているが、何も意味がない。技術営業職として、これからの国の予算決めを把握しておく必要があるらしいから、この会場にいるのだそうだが、完全に居眠りしている。何が「戸山もちゃんと訊けよ!」だ。お前がちゃんと訊け。それにしても、この講堂には年寄りばっかりだ。若手研究者はほとんどいないし、若いヤツはみんな企業や会社から来ている人だ。一部、マスコミもいるが、聴講者、登壇者のほとんどが50代60代の研究者。まぁ、確かに、村川が寝てしまうのも無理はない。「改革!」と銘打っているわりに、全然改革になっていないからだ。前半は東ラなどの一般企業の副社長や日本学術議会の方針などが副会長から語られるなどのメッセージだったが、今は主に科学開発・学術審査会の分科会の研究資金審査部長を務める、京阪大学医学部の女性教授、多賀栄美子先生が説明している。パネラーには、日本学術推進会の重鎮たちが座っている。見るからに年寄りだが、技官か?教授なのか?よくわからないが、おそらくは引退した教授だろう。教授職を引退して日本学術推進会の研究センター副所長などをしているのか。そして、こういう登壇者のなかに決まって物理系出身はいない。専門を物理とする人間の政治力学の興味の無さにも問題があるな、と俺は思った。スマートグラスで顔をスキャンして略歴を調べてみると、一目瞭然である。パネラーは皆、老人かつ権威主義者たち。ただ一人を除いては。
 壇上には、一人だけ場違いな存在として野崎が座っている。スーパーバイザー野崎。一般人の意見を代わりに主張するのが役割なんだそうだが、野崎本人は寝ているんじゃないかと思うくらい、俯いている。いかにも退屈そうだ。一方の紅一点、多賀教授は、いかにも、男社会で私は勝ってきたんだ!と言わんばかりの高圧的な喋り方で、今回の改革を説明している。「これからの科研費の審査は、”若手2”と”挑戦的研究”と”通常研究2と3”については小区分、”若手1”と”通常研究1”については中区分、”通常研究スーパー”については大区分によって、各分野別に行われることになります」などと言っているが、殆どが名前を変えているだけで現行と変わらない。「小区分については、これまで最大で432個の研究分野の中から選んで科研費を申請していたが、これからは304個の研究分野になりました。分野のなかでの馴れ合いを改善することが期待されます」という内容をこれだけ長い時間かけて、大改革でしょ?という表情を浮かべている。どうやら政治力学に演技は欠かせないらしい。「新しく取り決めた小区分の分野名に、生化学関連、宇宙・プラズマ関連、など”関連”という言葉を新たに入れたことこそが、その分野だけじゃなく他の関連分野も審査に受け入れます、という現れなのです」というようなことを、素晴らしいでしょ?と言わんばかりに解説している多賀教授の様子に、俺は吹き出しそうになる。お前理系だろ。そんな誤魔化し方が通用してしまうほど、科研費申請における「書き方」はくだらないことなのか。そう思っていると、「11項目ある大区分についてはそもそも名前がありません。ABCで表記することになりました」と言い出した。そんなの小区分でなんだかわかるだろ。ただ、わかりにくいだけだろ。俺は抑えきれないバカにした笑いが、ついに吹き出してしまった。すると、隣の席に座っていた村川が一瞬起きた。
 「終わった?」
 「いや、まだだよ」
 「お前、よくこんなくだらない学芸会を眠りもせずに見てられるな」
 おい村川、さっきと言ってることが全然違うぞ。俺だって興味はない。だが、野崎が俺に伝えたいことが少しだけ分かった気がして、ついくだらなさを直視したくなってしまったのだ。科研費の申請など所詮くだらない作業だとわかってはいたはずだが、この現状を見ると、さらにさらにくだらなく感じてしまう。学推DC1やDC2はこの説明会の内容とほとんど一致してくるはずなのだが、立場の弱い学生がこんなくだらない事項によって仕分けられているとは、皆あまり意識していないだろう。この会議に、どう野崎が割り込んでいくのか?見物である。それを見たい。俺はその一心で目を見開いているのだ。
 「皆様、ここまで大改革してしまって大丈夫か?と思われるかもしれませんが、前例を参考にしながら決定しました事項ですので、何卒ご容赦ください」
 多賀教授が丁寧に言った。丁寧ながら高圧的な印象である。ダメだ、笑いが抑えられない。

 「それでは一度ここで、一般の方の意見を代表して、野崎正洋先生に何か発言していただきましょうか?本改革はどう思われましたか?」
 司会が野崎に発言を促すと、野崎はすっと立ち上がり、マイクを手に取った。
 「どう?って、こんな小さな変化で、改革って言えるんですか?」
 突然の失礼な態度に多賀教授や学推の重鎮達は顔をしかめた。だが、この発言そのものは、聴講者の何十%かの熟練研究者たちに小さな頷きを与えていた。野崎は言葉を続けず、多賀教授の言葉を待った。
 「現行の審査制度を、野崎さんはきちんと把握されているんでしょうか?今回の改革で、小区分を再構築し、一部の審査システムを2段階の書面審査にしました。これにどれだけの労力と時間がかかっているか、わかっているんですか?」
 多賀教授の言葉に学推の重鎮達は深く頷く。博士号を取得しておらず、民衆とマスコミと警察と一部の研究者から支持されているだけの野崎に対して、多賀教授はハナっからバカにしているようだ。しかし、マスコミや民衆や産業界からの要請によって、野崎は自分と同じ舞台に立っている。それが許せないのだろう。
 「そんな面倒なことしてないで、全部、大区分一括で評価すればいいだろう?」
 多賀教授は驚きながらも、丁寧に応答する。
 「そんなことをしたら、若手研究者の方の研究や、小規模ではあるけれど、しかし重要な研究が、この国では遂行できにくくなってしまいます」
 野崎は作り笑顔を見せながら答える。
 「そんな考え方をしているから、若手や学生は奴隷にしかならないんだよ。それなら、申請書から業績項目をなくしてしまえばイイ。そして、申請書の内容そのもののみに準じて予算を分配すれば済む話さ」
 野崎は言葉を止めるつもりはないようだ。多賀教授の思考の先を読んでいる。
 「すると、研究者をどう評価するのか?というようなことを言い始めるヤツがいるが、”原著論文が研究成果になっている”、”原著論文の執筆こそが税金を使う大義名分になっている”、と思っているのは研究者のおごりだ。そんなもの、民衆は求めてはいない」
 そう言うと、パネラーの一人、学推の重鎮である老人がマイクを手に取った。
 「最近の若者は皆そのような考えなのかね?論文は精緻なものとしてこの世に存在している人類の知的財産だ。未来に残す価値のあるものなのです。もしも、その保障がなくなってしまったら、科学研究費の削減は必至だろう」
 この発言は、会場の多くの人間が賛同しているように見えた。野崎は無表情でマイクを握っている。
 「削減される?そんなことはどちらにしても必至だ。いま日本は緩やかに沈みゆくシステムの中にいる。多くの者が、また好景気が戻ってくると勘違いしているが、そうではない。船は沈みゆく一方。そのなかで、今の若者たちの多くは、比較的昔の価値観を感じられる場所を自分だけが得るために、ずる賢く他人を蹴落とすことに抵抗がない。どちらにしても、どうせ沈んでいってしまうにも拘らず、だ。だとしたら、DC1やDC2、学推PDや新たに発足される超越研究員などの若手特有の支援を完全にやめて、成果が上がることが期待できるところに予算をきちんとかけるようにすればいい。今はバランスが悪いんですよ。この改革でも、前例主義的に、前の年の応募件数が多いからという理由だけで、小区分における生物系の領域ばかりが目立って多い。分野の不均一性を高めるのではなく、若手支援を完全にやめれば、この国が科学立国として復興するための最低限の予算くらいは残るでしょう。それは若手には酷かもしれないが、ここにいらっしゃる多くの皆さんは、戦後の復興として高度成長を支えながら苦労されてきた方達だ。そして未曾有の好景気を達成された皆さんでもある。だから私は、この困難な状況に対して、未来があるからという理由だけで若手を金銭的に優遇する意味はないと考える」
 若者の代表としては年齢が行き過ぎている野崎ではあるが、その新進気鋭な態度は若手特有のものだ。だから、野崎から若手擁護論が飛び出すかと思っていたが、そうではなかった。予想に反して若手の完全な切り捨てに入った野崎の論に対して、高齢が多いこの環境では即座に反応できる者がいなかった。司会が質問を促した。
 「えっと、なにか、野崎先生の言葉に対して、ご意見はありませんでしょうか?」
 会場もパネラーも野崎の言っている意味がわからないというような表情だ。自分たちが評価され、ここにほとんど存在しない若手が貶されたというくらいの印象はあるから、誰もが瞬時にどう反応したら良いのかわからないのだ。だが、会場には野崎の論理の飛躍に慣れている者がいる。それゆえに、マイクが2階席の会場にわたっていく。理由は簡単だ。俺がまっすぐ手を天に突き上げたからだ。隣の村川が飛び起きた。そして、野崎は目を見開いている。
 「野崎先生の仰っていることは分かるような気もします。ですが、若手のなかには、必死に毎日邁進しようと実験している人も沢山いるんです。その人たちを無碍にするんですか?」
 会場の多くの人間が頷いている。俺には、この国に、まだ善意があることを感じさせる現れに思えた。だが、野崎の表情は穏やかだ。
 「カネの支援だけが若手支援ではない。実際に、今の若者は経済原理を超越し始めている。旧世代のように散財するだけを価値基準にしない行動が目立つ。若手にはその分、フレキシブルに研究室を移動できるようなシステムを組めば十分だ」
 研究室の政治力学のせいで、学推に応募させてもらえない予定だった権田くんを、野崎は本当に助けたのだろうか?
 「若手が研究室を簡単に移動するようにしたとしても、生活できないじゃん」
 野崎の失礼さを超える失礼な発言に、会場が少しざわつく。野崎はほんの少し笑いながら答えた。
 「カネがないのであれば、そのぶん、誰かにモノをもらえばいい。当たり前のことだろう?収入については、ここにいらっしゃる多くの研究者の方たちが若い頃だって、学推やポスドクの制度すら整っていなかった時代をどうにか生きてきたんだ。彼らにアドバイスをもらえばイイ」
 俺はこれ以上答えるのがばかばかしくなって、マイクを司会者に戻した。その後、会場はくだらない話に移行し、野崎は一言も喋らなかった。所詮、野崎には決定権はない。彼の言葉はただの戯言として扱われた。そんな戯言を重視するのは一部の話題作りをしたいだけのマスコミくらいなもんで、大した意味にはならない。村川は、「お前のわりにはよく言ったよ」と言い残し、次の用があるからと先に出て行った。しばらくして俺も会場にいる必要性を感じなくなり、野崎が事前に指定していたカフェに一足先に向かうことを決意した。

 竹田講堂の2階からゆっくりと階段を下りると、少し小柄な女性がいることに気がついた。その女性は徐々に俺に近づいてくると、俺の前に立ちはだかってきた。他の聴講者はまだ講堂内に着座している。このフロアには、俺とこの女性しかいない。講堂内は蒸し暑かったのだが、外に出たせいなのか、恐れのせいなのか、急に涼しくなる。女性の瞳が、立ち止まれ、と強く言っている。
 「あなた、野崎くんの部下でしょ?」
 え?突然、本質を突いてきた質問をされて、俺は驚いて目を見開いた。RC制度における俺と野崎の関係は、俺としてはトップシークレットだ。こんな見知らぬ女性のブラフを肯定するわけにはいかない。俺の何も見抜けてはいないはず。どうせハッタリだ。俺は自分にそう強く言い聞かせた。童顔で小綺麗にしているせいで若くみえるが、野崎のことを「くん」付けしている点、身なりの高級さから、30代後半か、おそらくは40代前半だろう。
 「別に無理に頷かなくても大丈夫。似てるわね。野崎く・・・、野崎さんに。歯向かいながらも、貴方は彼の純粋さを強く信じている」
 野崎のことを先ほどは「くん」付けしたくせに、いまは無理矢理に「さん」付けにしてきた。野崎とどういう関係なのだろう?考えている間に世界は時を刻んでしまう。こちらから少しは仕掛けなくちゃ。
 「あなたは、どなたですか?」
 女性は作り笑いをした。見るからに作り笑いと分かる笑い方で、逆に何を考えているか分からない。演技を前提とした感情の隠し方。ある意味では野崎よりもコミュニケーションにおける能力が高いかもしれない。
 「野崎さんのファンってところかしら。ねぇ、私のお願い、きいてくれる?」
 女性はシンプルな白い封筒を差し出してきた。
 「なんですか?」
 「お手紙。野崎さんに渡してほしいの。あなた、野崎さんの部下なら、簡単に渡せるでしょ?」
 俺は一瞬返答に迷いながら最低ラインであるRC制度の秘密を守るということを意識した。
 「僕が野崎とかっていう人の部下であったとしても、渡さないかもしれないですよ?」
 いや、これでは野崎と知り合いと言っているようなものか。すると、女性は少し俯いて考えながら、こう返してきた。
 「The best way to find out if you can trust somebody is to trust them」
 これ以上ない彼女のドヤ顔に一瞬惹かれそうになる。いや、待て、俺。流石に年齢が行き過ぎている。それにまだ信用できない。
 「私は貴方を信じる。貴方も私を信じてちょうだい。これは天意。本当は、この手紙を野崎さんに渡したくて仕方ないんじゃない?」
 俺はただ小さく頷いた。確かに直感的に手紙の中身が気になって仕方ない。
 「少なくとも、貴方はメッセンジャーにはなりそうだしね」
 そう言いながら去って行く素振りを見せた。そして、振り向きながら、思い出したように、
 「もし、野崎さんがこの手紙を受け取ることを渋ったら、さっきの英文を言ってみて」
 と言ってきた。渡された封筒を見つめながら、女性が去っていくのを確かめた。封筒にはシンプルにボールペンで「野崎正洋さまへ」と書いてある。裏をめくると、閉じてある部分にはペケ印の代わりに「渦巻きとその頭に毛が3本」みたいなマークがしてあった。いまの緊迫感のわりにはポップなデザイン。なんだったんだ?あの女性は?

 野崎が指定した喫茶店に到着すると、すでに他のRC研究生達もいた。JTSシンポジウム以来、だいぶ久しぶりだ。北東大学に潜入させられている帝工大の吉岡くんはほとんど人が来ないラボで退屈らしい。俺と同じでこれといった成果はまだないらしい。RC研究の財源の1つである斉藤自動車グループのトップを父に持ち、京阪大に潜入している日本茶大の斉藤さんは、逆にハードワークの研究室らしく少々疲れ気味だが、外部生ということもあって色々考慮されているため、それなりにはやっているらしい。また個室の喫茶店。前回とは違う店だが、同じような高級カフェ。2回目だから慣れたけど、それにしても高級そうな机と椅子。そして、ロイヤルミルクティに一緒についてきたクッキーが今まで食べたことがないほどに美味しい。どうして普段、こういう店の存在に気がつかないのだろう?そんなことを心に思いながら談笑が続けると、野崎が店に入ってきた。
 「皆さん、お疲れ。学推の説明会は、本当にいつも、つまらないね」
 こないだパラレルスマホで話したときとは、まったく違う社会風刺型の今日の野崎。秘密裡に権田くんをDC2に応募できるようにしているわりに、学生が応募できる学推DC1やDC2は削減すべきだ、と言うのだから、いよいよ訳が分からない。
 「戸山くんは他に私に言いたいことはあるの?」
 咄嗟に「いいえ、ありません」と答えると、野崎は嬉しそうに本題に入った。
 「さて、RC研究生の諸君、パラレルスマホとスマートグラスをテーブルに出してくれ」
 各々、言われるがままに、RC研究生としての2つの必須アイテムを机に出した。すると、いきなり野崎は、それらを回収し始めた。
 「え?なんで?」
 吉岡が驚きながら野崎を見る。
 「念には念を入れる。それだけさ」
 そう言うと、野崎はバッグから、新しいパラレルスマホとスマートグラスを取り出し、俺、吉岡、斉藤に渡した。
 「使い方は変わらない。ただし、グループSMSはもう一度作る必要がある」
 RC研究生全員に安堵のため息が漏れる。使い方が変わらないならスマホとスマートグラスそのものを変える必要もないんじゃないか?
 「動きがあった。私の事務所に手紙が届いたんだ」
 野崎が少し緊張感を持って言った。そして、今までで一番の慎重な顔を見せたのだ。
 「この手紙は、例の大学院生・若手研究者失踪騒動が殺人であることが書かれていて、犯人と名乗る者からだった。自分のことを、研究コントローラーと書いている」
 吉岡が目を見開いた。斉藤が深刻な顔に嫌悪感を重ねている。
 「でも、それって、全部ウソの可能性があるんじゃないですか?」
 斉藤が野崎に言った。甘える素振りは一切ない。ただ思ったことをそのまま言ったという印象だ。
 「どうかな。というのも、私が怪しいと踏んでいた、失踪した大学院生・若手研究者の名前がこの手紙に書いてあったからだ。私の被害者リストでは104名。そのうち、こいつが示してきたのは73名だった。私以外の人間が、このリストを作成できたとは思えない。どのくらいこちらの手の内を知られているのかわからないが、君らには、これまで以上に警戒してもらう必要がある」
 野崎は封筒から3つ折になった3枚の手紙を取り出した。そして、ゆっくりと話し始めた。
 「リスト以外のところを読み上げよう。拝啓、野崎正洋さまへ。このたび、我々が進めているプロジェクトに興味をお持ちになってくださり、誠に有り難う御座いました。ご安心ください。貴方が心に抱かれている興味は事実であり、我々は確かに実験終了後にヒトを処分しております。殺人は犯罪ではありますが、本プロジェクトは倫理的には推奨されるものであり、我々はあくまで実行し続ける所存です。もし我々を見つけ出すつもりなら、現場に残された証拠を隈無く調べ上げ、それらを貴方の持ち前の論理性と思考力で総括していけば可能かもしれませんが、現場そのものが存在しないこれらの殺人事件を、どのように解決するおつもりでしょうか?せめてもの暇つぶしに、その賢さを我々に見せつけてくださると幸いです。本プロジェクトにおいて処分したヒトのリストを送付しますので、参考にしてください。研究コントローラーより」
 丁寧な言い回し。サイコパスか?本プロジェクトとはどういう意味なのか?研究コントローラーとは犯人の名前なのか?俺は野崎の言葉を待つことにした。
 「問題の論点は、なぜこの手紙を送ってきたか?だ。ゲームのつもりなのか?本心では止めてほしいと思っているのか?それとも我々RCチームが動き始めたからこそ、この手紙を送ってきたのか。どちらにしても、君たちが潜っている研究室の失踪者たちの生存率はぐんと下がった。それぞれリストに入っている。この手紙は、ほとんど殺人の根拠と言ってイイだろう」
 それすらも情報操作している可能性はないのだろうか?もしかしたら、混乱をさせるために殺したとウソをついている可能性もあるだろう。だが、野崎がハッキングしたり外部から相談を受けたりして情報を集積していった結果であるリストと、犯人と名乗る”研究コントローラー”が提示してきたリストが共通になっていて、その手紙のなかで殺したと言っているのだから、確かに本当に殺している可能性が高いのだろう。しかし、最後の最後、どこか合点がいかない。それだけ、死体が出てこないことに対して殺人の根拠となるものを見出すのは難しい。
 「被害者リストのなかには一人だけ大学院とほとんど関わりのない者もいた。彼自身は研究関連の人間ではないが、交際相手の女性が今年の3月まで村松研にいたということが私の調べでわかっている。でも、まぁ、このリストだけだと殺人の根拠にはならず、警察も公には動けないだろう。だが、私があらゆる手段を使って割り出したリストに対して、同等のものを犯人以外の人間が作れるとも思えない。君らも慎重になってほしいと思う。怪しい人がいたら、すぐに私まで連絡すること。危ないと感じたら走って逃げてもらって構わない。それから、各潜入先のラボで、水酸化ナトリウムの購入の有無を調べてくれ。なかなかきちんと調べるのは難しいかもしれないが、普段水酸化ナトリウムを使うラボも使わないラボも、ここ1年以内での増減を調べてほしい」
 突然、最後にかなり具体的な指示がでた。俺は目を見開いた。
 「どうして水酸化ナトリウムなんですか?」
 斉藤が野崎に訊いた。みんな真剣な表情だ。吉岡は握りこぶしを作りながら訊いている。
 「いや、それこそ特に根拠はないんだが、遺体がまったくでてこないということは、強アルカリで溶かしている可能性があるかなと思ったんだ。実験室で沢山あったとしても、そんなに目立たないしね。苛性ソーダや乾燥剤として記録されている場合もある。なるべくで構わない。調べてくれ。また連絡する。とにかく、この、研究コントローラーとかいう、イカレたヤツを必ず見つけ出す」
 そう言うと、野崎はカフェを後にすることを促した。吉岡と斉藤が個室を出て行くが、俺にはまだ野崎に渡すべきものがある。

 「これ、野崎先生に渡してくれって言われまして。さっきの説明会の帰りに」
 そう言うと、野崎が振り向きながら、シンプルな封筒を手に取った。手に取って裏返した途端、みるみる表情が変わり、封筒を破りながら、個室にあるゴミ箱に捨てた。
 「ちょっと、待ってください」
 俺はあわてて野崎にそう言った。
 「先ほどの手紙と違って、差出人が誰だか分かっている。もしも読んでしまえば私の意に染まらない選択肢が増えるだけで、私にとってメリットはない」
 あの女性が言っていた言葉を思い出した。英文!あれ?でも英語なせいで、ちょっとしかでてこない。とりあえず、覚えているところまで言おう。
 「えっと、それを渡してきた女性が僕に言ってたんですよ。英語で。えーっと、The best way to find... if you can trust...」
 そう言うと、野崎はゴミ箱から手紙を取り出し始めた。俺は突然のことに驚きながら、「そんなに大事なんですか?あの言葉」と訊いた。すると、野崎は先ほどの研究コントローラーからの手紙を俺に渡してきた。手をかけたと見られる、ずらっと書いてある名前のリストの下に英語で記されていた。”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them”
 「ところで、結局、権田くんは、学推は出せたのかな?」
 唐突に野崎が言ってきた。俺は小さく「はい」と答え、訊きたいことを訊く覚悟を決めた。
 「やっぱり、野崎先生が権田くんも学推を出せるようにしたんですか?」
 野崎は笑顔になる。今日初めて野崎の素の笑顔を見ている気がする。いや、”今日初めて”じゃない。”これまでで初めて”だ。
 「ただ山岡先生に助言しただけさ。学内の回線を使って、いかがわしいサイトを見ているとわかっちゃいますよ?ってね」
 俺は迎合しようとした自分の笑顔が急速に恐怖の顔になっていくのを感じた。こいつのハッキング能力は恐ろしい。
 「心配しなくても良い。ハッタリだ。慶明大学のネットワークに入るのはなかなか難しいんだよ。まぁ、見るからに好きそうな顔をしているから、もしかしたらと思ってね。私の評判はそれなりに知っているだろうし、あの世代のあのタイプはリテラシーが無さ過ぎるから、少し専門用語を使ったら、すぐに信用したさ」
 「どうしてそんなリスクまで背負って、権田くんの学推応募を可能にするように試みたのですか?どうでもいいことだ、よくあることだ、って言ってたじゃないですか?」
 野崎は穏やかな表情で答えた。
 「確かに、権田くんの学推なんて、どうでもいいことだし、よくあることだから、研究コントローラーを捕まえる上では関係ないかもしれない。だけど、この事件は、大学院の中でよくあることの中に紛れているからこそ、発覚しにくい事件でもある。その、よくあることと殺人との、ほんのちょっとの違いが見つかるかもしれないと思ったんだ。だが、今になって、完全に無駄だったかな、とも思う。まぁ、山岡研の体制はわかったし、戸山くんに学術推進会の責任逃れのための絶望的な前例主義ぶりを目の当たりにさせられた。だから、良しとしよう」
 学推PDやDC1やDC2、新しく導入される予定の超越研究員までも一切不要だと断言した野崎だが、たった一人に対して助けの手を差し伸べるという精神はあるらしい。納得できない行動だが、俺は心の中で少しずつ納得しようと努力し始めていた。
 「なんていうか・・・、俺のワガママを、有り難う御座いました」
 そう言うと、野崎は英語で「Take care!」と言ってきた。俺は軽く会釈して個室を出た。

 個室をでて、高級カフェを後にすると、空が少しだけ曇りはじめたのを感じた。あの女性と研究コントローラーと名乗っている犯人とどのような関係があるのか?本当に強アルカリで溶解させているから遺体がでてこないのか?そして、野崎はどこまで掴んでいるのか?謎は深まるばかりだが、とりあえずは遅めの昼食兼早めの夕食でもとるか、と思い、自分のスマホでテキトウなラーメン屋の検索を始めた。

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6. 研究者として/『研究コントローラー』につづく

 この文章を書くにあたって、事前に読んでくださった方、相談にのってくださった方、誠に有り難う御座いました。今回もかなり参考になりました。っで、Acknowledgementみたいな感じで、名前だしても構わない?それともイヤ?笑
 今回は意外と書くの大変で延びちゃいましたね。審査の説明会の場面、学術推進会が説明している部分が、かなりリアルな印象かもしれませんが、あくまで、あくまで、フィクションです!笑 ホンモノと比較したりしても、何も面白いことは見えてきません!笑

 この7からはメルマガ登録限定にでもしてみようかなぁ、と計画中。うーん、どうするかは、まだ決めてません。
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4. RCの意味/『研究コントローラー』

2016-04-25 00:43:08 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 3. スマートグラスの威力/『研究コントローラー』

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2016年4月15日(金)

 ある程度経験を重ねれば、その女がその日すぐにヤレるのか否か、出会った瞬間にわかるようになる。一言も会話を交わさなくても、顔つき、仕草、ちょっとした表情から、すぐに判断がつくようになる。そして事実、今日も俺の読みは当たった。会社の先輩と行った合コン後、またしても俺は自分の部屋へと女を持ち帰ることに成功している。単純なゲーム。そして、スポーツ。行為のあとの独特な、汗と化粧品が混ざった臭いを戦利品として味わいながら、タバコに火をつけることで香ばしさを促進させ、今日あったばかりの愛美に対して、早く帰ってくれないかな?と思い始めていた。
 「ねぇ、私も吸いたい」
 セミロングの髪を後ろに流しながら愛美が話しかけてきた。禁煙を終えてからタバコの味が余計に美味しく感じる。そんな一服に水を差すような愛美の言葉に、面倒くせーな、と思いながら、アカマルの箱から一本取り出し、愛美に取るように促した。
 「そうじゃなくて、直樹くんが吸ってるやつ」
 そういうのいいから、と思ったけど、あからさまにその態度を見せるとヤバいだろうから、俺は優越感を装った表情を作りながら、自分が吸っていたタバコを愛美に渡した。愛美は俺の吸っていたタバコを手にするなり、不器用なフリをしながら、フィルターに付着した俺の唾液をいやらしく眺める様子を見せた。果てた後にそんなことをしても男はしらけるだけだということに、どうして多くの女は気がつかないのだろう?すぐに服を着たところから察するに、さっさと帰ってくれそうだったのだが、意外に面倒くさいのかもしれない。すでに、メガネまでかけているのに。まったく早く帰れよ。かなりふちの大きな、真っ赤なメガネを右手でずらしながら、俺が吸っていたタバコのフィルター部分を、まだ、いやらしくまじまじと見つめている。すると突然、愛美が、
 「彼女さんも、タバコ吸うの?」
 と言ってきた。俺は、バレた!、とビックリしながらも、すぐに、どーでもいいや、と思い直した。どーせワンナイト。あわよくばフレンド。だが、俺の心の中に残っているほんの僅かの罪悪感のせいで、愛美を見ることができなくなってしまい、少し俯きながら、
 「どうして?」
 と訊いた。愛美は、悪女が独特に魅せる笑顔を顔いっぱいに含みながら、右側だけ髪を前に戻し、
 「さっきスマホで会話してるの見えちゃったし、なんとなくね」
 と言った。いつも決まった時間にSMSで連絡をとるマメな俺の性格が裏目に出たらしい。俺は開き直って、愛美に面と向かった。
 「彼女っていうか、うーん、まぁ、そういう関係を連続的に保っている、と言ったほうが正確だぜ?」
 「わざわざ回りくどい表現使っちゃって、まったく。それで?彼女さんも、タバコ吸うの?」
 と言った。どうも視界がぼやけている。急激に眠気が襲ってきている。眠い。俺は、少し怖くなりながら頷き、答えた。
 「いや、吸わない。あいつは、真面目だからな。理系の大学院生だし。あ、もう卒業したのか。まぁ、俺が何回か勧めたことはあるけど」
 そう言うと、愛美は表情を変えずに、「そう」と言った。今度はタバコを口に思い切りくわえ、吹かしながら、
 「私と彼女さんと、どっちがよかった?」
 と訊いてきた。面倒くさい、と思っていると、愛美はタバコを灰皿に置き、ベッドに横になると、俺にも寝るように促してきた。眠気に耐えきれず、俺はベッドに沈んだ。今夜は帰るつもりはないのか?毛布にくるまりながら、
 「まぁ、いいけど」
 と言ってきた。果てた後のこの感じ、全身が気持ちいい。シャワーを浴びたいと思っていたが、まぁ明日浴びればいいか。このまま眠ってしまおう。俺は目を閉じながら、急速にどこかへと落ちていくのを感じた。名古屋の夜はすっかり更けている。夢なのか。現実なのか。とにかく気持ちがいい。感情と思考が交差するなかで、かすかに愛美の声が聞こえてきた。

 「最後まで、ただのバカで良かった・・・」

2016年4月25日(月)

 日吉駅で電車を降り、青空を眺めた。ついに今日は慶明大学大学院有機合成化学専攻にある山岡研究室に潜入する日だ。いや、「潜入」という言葉を使うのはマズいか。仕切り直そう。ついに今日は山岡研究室に伺ってRCの共同研究をスタートさせる日だ。まず教授室で、山岡忠雄教授と、高野翔特任准教授と話すらしい。そのあとに山岡研究室の全メンバーで研究室ゼミが行われると訊いている。そこに戸山くんも出席してほしい、と高野先生からメールで言われている。高野先生は野崎の知り合いらしく話は簡単に通ったみたいだが、山岡先生は昔ながらの教授という感じで、始めこの共同研究に難色を示したようだ。だが、高野先生が山岡先生に「戸山渉くんと私の共同研究についての科研費はすべてRC制度が負担する」と強調すると、山岡先生は首を縦に振ったらしい。野崎からパラレルスマホ上のSMSで、「高野さんは依頼人の一人ではあるが、高野さん自身も決して油断はしないように」と忠告されている。果たして、山岡研はどんな研究室なのだろう?
 親友の村川晋也と彼女の綾瀬香奈には、RCのことは全て話した。二人とも至って冷静で、純粋に俺を応援してくれている。相談にも随時のってくれるらしい。他言しないことも約束してくれた。そして二人から、
 「で、RCって結局、どんな意味だったの?」
 と訊かれ、はっとした。俺はそんなことも認識せずに話を進めて、シンポジウムでの任務まで遂行させられていたことに落胆した。野崎にSMSで尋ねると、意外に質素な答えが返ってきた。てっきり、野崎が指示をリアルタイムで出すことをパロディって、「Research Control」だと思っていたが、よくよく考えてみれば、RC研究遂行制度、と言っているのだから「研究」がかぶる。

 この時期はどこの大学でも人が多いんだな、と思いながら、新年度特有の香りを楽しんだ。RC助成金で新調した腕時計に目をやると9時半を少し回ったくらい、いつの間にか理工学部がある4号館に到着していた。山岡研究室は3階か。階段に足をかけた。古い建物だ。普段いる都王大のキャンパスよりも古く感じる。階段の一段一段が少し高い。壁にはインターンシップのチラシやらサークルのチラシやらが混在して貼られている。3階のフロワーに着くと、廊下の椅子に座っている小太りの40代くらいの男が目についた。少し表情が暗く見えたが、常にニコついているような顔つきだ。おそらく、高野先生だろう、と思っていると、
 「やぁ、君が戸山くんかい?」
 と話しかけてきた。このタイプは読みにくいんだよなぁ、と思いながら、俺は丁寧半分、フランク半分くらいで挨拶した。
 「高野翔先生ですよね?戸山です。宜しくお願いします」
 「はい、僕が高野です。こちらこそ宜しくね」
 高野先生は丁寧に挨拶をした。第一印象はまずまずか。この人となら一緒にやっていけるかもしれないと思わせるような風貌だ。
 「さすが野崎くんが見込んだ院生だ。約束の20分前。真面目なんだね」
 野崎の名前がでて、少しビックリした俺は
 「すいません、ちょっと早すぎましたか?」
 と訊いた。高野先生は「そんなことないよ」と言いながら、お茶部屋に案内された。靴を脱いで上がるタイプの部屋らしい。「まぁ、座ってよ」と言って、椅子を引いてくれた。机の端には機材や試薬のカタログが置いてあり、真ん中にはおまんじゅうが置いてある。その視線に気がついたのか、
 「よかったらどうぞ。でも、これ、誰のお土産だろう?”名古屋デカまんじゅう”か」
 と言ってくれた。その直後、後ろから女性の声がした。
 「あ、私です。こないだ就活で名古屋に行ったんですよ。高野先生も、どうぞ。あれ?どなたですか?」
 振り向くと、ふちの大きな赤いメガネをかけた女性がひょっこり顔を出した。カワイイというより、キレイな人。すっと立ち上がり、セミロングの髪を後ろに流しながら近づいてきた。こちらに近づいてくるたびに、微かな香水の匂いが増していく。直感的にわかる。こいつ、あきらかに男を利用するタイプだ。カワイイを振りまいて、仕事を押し付けてくる姑息なタイプ。
 「僕は都王大のD1の戸山渉と言います。高野先生と共同研究をさせていただきに来ました。これから宜しくお願いします」
 そういうと、細い指で大げさにパーにした両手を口に持っていきながら、
 「すごーい、都王大なんですね。じゃぁ頭良いんですね。私はここでM2してます、原田愛菜って言います。こちらこそ宜しくお願いします」
 そう言うと原田さんは髪を右側だけ前に戻した。そして、ドアを開いて実験室へと向かった。M2か。肌の質を見るともう少し老けていそうな気もするが、有機化学の研究室なんかにいるから肌が荒れているのだろう。
 「靴を履いてあっちの扉を開けると実験室になっていてね。さて、山岡先生との約束まで、まだあと40分もある。野崎くんからだいたい訊いているが、君も大変だね。こちらも助かるっちゃ助かるんだけど」
 「えぇ。まぁ」
 野崎が言うには、高野先生には問題にならない範囲で、すべてを伝えているらしい。しかし、本当に気兼ねなく喋って良いのだろうか?
 「高野先生は、野崎先生とお知り合いなんですか?」
 すると、ニコついていた表情が一瞬曇り、すぐに元の表情に戻ると、
 「あぁ、僕が学部の2年生のときに、1年生の彼と知り合ってね。もう15年以上も前だが。都王大の教養学部時代に彼も含めて5人くらいでファインマン物理学の自主ゼミをしていたんだ」
 と言った。俺は野崎がもともと都王大出身ということを知らなかった。少し驚きながら、高野先生をまじまじと見つめた。
 「野崎くんは当時1年生のくせに、ファインマン物理学なら高校時代にすでに一通り読んだことがある、と言い出してね。最初は、都王大1年生特有のハッタリだろうと思ったんだが、確かにファインマン物理学をすべて理解していた。1年生なのに頭は良いし、言うことは適確だし。それが悔しくてね。自分には物理は絶対に無理だと思い知らされたよ。それで僕は進振りで化学を専攻することにしたんだ」
 進振りというのは、都王大独特のシステムで、2年生の半ばに一斉に進学する学部学科を選ぶシステムだ。成績順に決まるため、都王大の1年生は特に力を入れて勉学に励むのだと言う。
 「その後は、戸山くんも知っているだろう?野崎くんは物理学科に進学し、大学院でバークレー工科大学の応用数学コースに入学した。そういえば、彼は都王大の経歴が恥ずかしいのか知らないが、都王大出身ということを公に出していないね。バークレー工科大学大学院中退、としか見たことが無い」
 なるほど、プライドの高い野崎がやりそうなことだ。そのプライドの高さがあるなら、博士号をとっておけば良いのに。
 「野崎くんはかなり親身に戸山くんに指示を出すことになっているみたいだけど、戸山くんはそれでいいのかい?」
 「ええ、まぁ。僕は野崎先生のような思考力は持ち合わせていませんので」
 そう答えると、高野先生はいぶかしげな顔をしながら、
 「戸山くんがイイのならそれで良いけど、戸山くんの都王大での指導教員の渡辺先生はそれで良いのかなぁ?」
 一瞬、腹黒い渡辺先生の顔が思い浮かぶ。あのその場凌ぎ至上主義の渡辺先生が、俺の実力を危惧するような心配をするとは思えない。
 「渡辺先生にも野崎先生がお話ししていますし、僕もこのテーマで3年間やると決まったわけじゃないので」
 「あぁ、そうだそうだ。テーマね。肝心なことを忘れていた」
 潜入する、ということが、俺と高野先生の間に共通認識としてあったということが示された。この人は、潜入に時間が割かれることを気にしているのだろう。
 「えーっと、リポソームに大腸菌が入るようにするんだっけ?まぁ、とりあえずは新規に有機合成する感じを出さないとココに来ることの意味がなくなってしまうから、膜としての柔軟性が保持できるような脂質分子を新たに作ってみようか。大腸菌がリポソームに突っ込むときに、膜が壊れない程度の弾力性を保つことが必要だね」
 なるほど。そこまで考えてくれていたとは。研究テーマはどうでもいいから、と野崎にあまりに言われていたせいで、すっかりテーマの内容と解決策を考えるのを忘れてしまっていた。
 「ところで、これって、どういうモチベーションでやるんだろう?戸山くん、なんか訊いてるかい?」
 「確か、共生からの進化を模倣する、的なことを言えばウケるだろう、と仰っていましたが」
 すると、高野先生は合点がいった顔をしていた。
 「なるほどね。原核生物から真核生物への進化の過程として、共生のモデルを作りたいわけね。有機合成系であるウチと、生物物理系である渡辺研を両方使おうとすると、確かにそういうテーマはいいかもしれないね。で、だから、RCってわけか」
 え?どういうことだ?俺が不思議そうな顔をしていると、高野先生が言葉を続けた。
 「RCは”Rare Case”だろ?”Rare Case”研究振興補助制度。自然現象としては稀な出来事にフォーカスをあてて、それが次の段階の発展的な現象として重要だったことを模倣したり判断したりするわけだろ?だから、原核生物が共生し始めた瞬間みたいなものの実験モデルを立てたいわけね。どう転んでも、野崎くんが好きそうなテーマだ」
 確かに野崎から、RCの意味は”Rare Case”だと訊いていた。少なくとも表向きには、そういう現象にフォーカスをあてているのだろう。RC研究生は他に2人いる。帝都工業大学の大学院生の吉岡剛史は、北東大に潜って、酵母をいったんバラバラに殺して、もう一度組み合わせることで復活する可能性があるかを探るというテーマをやると言っていた。さらに、RC制度のスポンサーの一人で斉藤自動車の会長を父親に持つ、日本茶女子大の大学院に通う斉藤結衣佳は、菌からマウスまで、あらゆる生物に共通の特異的なダイナミクスを見出すために京阪大に潜る予定だと、パラレルスマホ上のSMSで作成した「RCグループ」で聴いている。確かに、どれも”Rare Case”に関連している。しかし、この人、野崎の思考回路がよく分かっている。それともただ単純に賢いだけか?
 「テーマはよく分かったが、このプロジェクトの本質はそこじゃない・・・だろ?」
 俺は我に返って高野先生をまじまじ見つめた。
 「そうです。手がかりを」
 「ま、あまりここでその話をしない方がいいだろう」
 高野先生は小声でそう言った。そして立ち上がり、入ってきたドアを見た。
 「そろそろ、教授室に向かおうか。まぁ、すぐ終わると思うよ。僕に一任すると言っていたし、ラボ内ルールの最低限のチェックだけだ」

 教授室はお茶部屋と実験室の部屋から歩いて30秒ほど、同じ3階のフロアーにあったが、高野先生がノックしてドアを開けた瞬間に、かなり距離があるように感じた。それはどこの大学でも同じなのであろう。教授室と実験室との間に見えない壁がある。
 「山岡先生、戸山くんが来ました」
 高野先生はそう言うと、部屋の中に入るように促した。
 「どうもこんにちは。どうかな、慶明大学のキャンパスは?」
 山岡忠雄教授は大きな黒い椅子に座り、2つのスクリーンでパソコンを操作している。こちら側を向くと、脂ぎった顔面全体にしわをよせていた。自分自身の権威を示そうとしているらしい。いかにも今の平均的な50代といった印象だ。
 「そうですねぇ、とてもトラディショナルなキャンパスだなぁと思います」
 そう言うと山岡先生は少しだけ明るい表情になり言葉を重ねた。
 「そうか。都王大は新しい建物が多いのか?」
 「そういうわけでもないんですが。まぁ、私がいる建物がそういう建物なので」
 と曖昧に答えると、山岡先生は「なるほど」と勝手に納得してくれた。
 「ラボのルールや試薬の買い方などは、准教授の高野くんから訊いてくれ。僕から話すことは特に何もない。まぁ、出入り許可カードがあるから、それだけはきちんと申請をしないといけないな。僕が事務に言えば即日で発行してもらえると思うよ。とりあえずは、これに記入して」
 その後も山岡先生が主体的になって、高野先生と3人で話をしたが、慶明大学の化学系のカリキュラムや最近九州地方で起こった大震災のことなど、日常の話ばかりだった。それも終焉にさしかかりそうになったところ、
 「ところで、戸山くんは普段どんな雑誌の論文を読むんだ?」
 えっ?と俺は困った。普段、論文は読まない。いや、読んだところで何か意味あるか?そう思っていると、突然スマートグラスに文字が表示された。
 “Biophysics LettersやJBSE(Journal of the Biophysical Society of Europe)、あとは3大誌が出しているOpenジャーナルはそれなりにチェックしています、と言え”
 野崎だ。俺は何も考える時間もなく、野崎の言葉をそのまま山岡先生に言った。
 「なるほど、物理ではそのようなジャーナルを読むのか。やはり、戸山くんは有機化学に関しては、ずぶの素人らしい。高野くん、しっかり”化学の指導”をしてやってくれ。どこかの捏造教室と同じにならないようにな」
 その言葉をあとに、俺は、教授室を出た。高野先生は新学推領域に出す科研費に関して少しだけ山岡先生と話すらしい。
 山岡先生が言っていた捏造教室というのは、このあいだのシンポジウムの一件があった、村松研であろう。しかし、野崎の突然の指示にはビックリした。外に出る時は常にスマートグラスをかけていろ、と言われたが、そんなに連絡は来ないだろうと思いきや、またもや勝手に盗聴して勝手に指示を出してきたらしい。まぁ、その分、危険からは遠ざかっていると言えるし、実際、どんな論文を読んでいる?という山岡先生の質問には答えようがなかったからヨシとするか。

 それにしても山岡先生はバカだなと思った。会話の節々から感じてはいたが、最後のは決定的だ。こちらが生物物理系の雑誌を普段読んでいると言うや否や、「生物物理」という物理の中でもかなり特殊な分野を「物理」という一語に落とし込み、その分野の論文を読んでいるということは、お前は有機化学はできないのだろう、と決めつけている。ここから読み取れることとしては、こいつは数式を見ると「自分にはこんな難しい概念は理解できない!だから無価値だ!」とやってきた数式アレルギーのある教授なのだろう。物理にチャレンジしてみたが野崎という天才を知ったせいで化学を専攻したと白状している高野先生は、山岡先生と比較すると、理系としてかなり紳士的に見える。山岡先生は、普段から自分と少しでも差異がある者はすべて異分野と見なし、自分の領域の中に入れてトップダウン的に指示を出している様子が見て取れる。きっと常習化しているのだろう。山岡研は生物物理との共同研究が重要だというふうにホームページにも書いてあったが、こういう態度なら、そもそもそんなこと書かなければ良いのに。
 お前は有機化学ができない、と決めつけられて、この潜入にあたり少し有機化学を勉強してきた俺はムッとしたが、重要なのはそこではない。殺人や行方不明に直結するような因果関係や事実を見つけなくてはいけない。

 教授室に出ると、すぐにゼミが始まる、と言われた。ゼミ室につくと、「コ」の字形になったテーブルに着席した。少し寒い。すると、隣に座っていた男性が話しかけてきた。明らかに年上で、顎髭を生やしている。
 「戸山くんだろ?俺はここでポスドクをしている豊杉です。よろしく」
 と言って、挨拶してきた。俺は短く「どうもです」と答えると、豊杉さんは他のみんなにも話しかけるように言った。
 「彼、都王大なんだって。確かD1だよね?」
 すると、「へー」という声が聞こえた。皆、豊杉さんを見ている。彼がこのラボのリーダー格らしい。学部は地方大の出身である俺からすると、慶明大も都王大もそんなに変わらない気がするが、本人達はそうでもないのかもしれない。
 「都王大のどこのキャンパスなんですか?もしかして、柏?あ、僕は森下真治って言います」
 「えーっと、根津キャンパスなんですけど」
 「一番おおもとのキャンパスですね。じゃぁ、いつも赤門通ってるんですか?」
 「いえ、そういうわけじゃ・・・」
 また、別の人が話しかけてきた。ヤバい、ホームページで一通り確認したはずだが、全然把握できない、と思っていると、スマートグラスが、“D1 権田卓”と名前を表示してきた。また野崎か?顔を認識すると名前が上に表示されるらしい。
 “全員の顔を歯でダブルクリックして認識してから、右側のボタンを押してみろ”
 とスマートグラス上にメッセージが流れた。言われた通りにすると、
 “M2 岸信明 原田愛菜、D1 権田卓、D2 森下真治、PD 豊杉雷之佑”
 と表示された。これで全員か?と思っていると、野崎がさらにメッセージを送ってきた。
 “この5人に加えて、特任准教授の高野翔先生、教授の山岡忠雄先生、今日はいないが秘書の友川多恵さん、そして忘れてはいけないのは、行方不明になっている、現在D5相当の井川英治くんだ”
 このスマートグラスはパラレルスマホと連動している。メッセージはすべてパラレルスマホで保存されるし、パラレルスマホを起点としてスマートグラスで電話をかけることもできる。
 「戸山さん、どうしたんですか?大丈夫ですか」
 権田くんが話しかけてきた。しまった、会話が不自然に途切れてしまったか。
 「はい、少し新しい環境で目がくるくるしてしまって」
 我ながら上手い返答だと思った。
 「そうですよね、大変ですよ。これから毎日いらっしゃる感じですか?」
 遠くの席から原田さんが訊いてきた。こいつは女として油断ならないヤツだったな。
 「いえ、月水金で来ることになっています」
 「じゃあ、ノブくんや私とはあんまり会わないかもしれないですね。私たちも就活でしばらくはあんまりラボにいれないので。ねー」
 と言いながら、セミロングの髪を後ろに流した。悪女特有の笑顔で岸信明くんに同意を求めている。ほら、もう男を利用していそうな態度を示している。逆に言えば、こういうヤツは行動が読みやすいとも言えるのだが。
 「みんな、揃ってるね」
 山岡先生と高野先生がゼミ室に入ってきた。
 「今日は進捗と論文紹介が一件ずつか。進捗は、えっと誰だったかな?」
 「僕がやります」
 そう言って、D2の森下さんがスライドを準備し始めた。
 「そのあとの論文紹介は?」
 「僕です」
 D1の権田くんが手を上げた。
 どちらの発表も新規有機合成の話で、森下さんはゲルを研究しているらしい。論文紹介は液晶に関してだった。途中、野崎から、
 “色々言いたいことはあるかもしれないが、いっさい質問はするな”
 と命令された。意外だった。また、質問することで相手を追いつめるのかと、少し覚悟していたからだ。だが、確かに、いきなり、こないだのJTSシンポジウムのようなことになったら大変だ。今日は様子見と言ったところだろうか?

 「さて、連絡事項ですが、何かある人はいますか?」
 高野先生がそう言うと、特に誰も手を挙げなかった。
 「あ、みんな、たぶん知っているとは思うが、都王大学から戸山渉くんが高野先生と共同研究をしに来ている。主に月水金で研究室に来ることになっている。月曜のこのゼミにも参加してくれることになっている」
 山岡先生にそう言われ、俺は軽くお辞儀をした。
 「さて、今年の学推は、この前、僕の決定を話したと思うが、森下くんと岸くんだったな。二人はどこまで進んでいる?」
 俺はそう話す山岡先生を見ながら、どういう意味だ?、と思っていると、森下さんが、
 「はい、これまでの研究内容とインパクトなどのところは書き終わりました」
 と答えた。その後、山岡先生と高野先生とD2の森下さんとM2の岸くんの四人が会話をし始めたため、俺は小声で隣に座っているPDの豊杉さんに訊いてみた。
 「お二方は学推を出されるんですね」
 と言うと、豊杉さんは俺の顔を見るなり、こっそり囁いた。
 「あぁ。山岡先生の指示だよ」
 俺は驚きながら、
 「え?どういう意味ですか?だって、学推は学生個人の主体性で応募して、学生個人の能力で評価されるものですよね?」
 と言うと、山岡先生がギョロっとこちらを見てきた。
 「その主体性の有る無しと、院生個人の最低限の能力を僕が最初に評価するというわけだ」
 そう言うと、スマートグラスにメッセージが表示された。
 “余計なことを言うな。黙ってろ”
 野崎からだ。でも、俺は我慢ができず、言葉を続けた。
 「え?じゃあ、山岡先生に認められないと、学推に出すこともできないということですか?」
 ゼミ室にいる全員が俺の顔を一斉に見ている。確かに、言わなければ良かった、という空気になった。
 「その通りだ。僕の最低限の評価も通らない院生が、学推に採択されるわけがないからな」
 山岡先生は四人とディスカッションを続けている。他の者は部屋に帰っても良いそうだ。こんなことが許されるのか?どうせこのバカが評価書を書くのがメンドクサイだけだろう?それも先ほどの話からすると、岸くんはM2で就職活動をしている。権田くんはD1だが学推を取っているわけではない。それなのに、権田くんは学推に出すこともできないのか。俺は権田くんの顔を見た。表情を動かさない努力をしているように見えた。喜怒哀楽と4つの軸をとったときのちょうど真ん中、という表情だ。
 “戸山くん、決してそれ以上余計なことを言うな。それから、暇をみつけて電話してくるように”
 野崎からメッセージが入った。何がそんなにまずいのか?

 ゼミは終わりトイレに行くと言って、人通りの少なそうな所を探した。俺は建物が周囲を囲んでいる場所を見つけ、地味なベンチに座った。午後1時、真っ昼間なのに日がほとんど入ってこない。新入生は授業中だし、ここならほとんど誰も来ないだろう。パラレルスマホからSMSのアプリを開き、野崎のアイコンをタッチし、電話のボタンを押した。スマートグラスとの連動モードにして、パラレルスマホをポケットに入れた。
 「もしもし、戸山です」
 「戸山くん、いい加減にしてくれ。こちらの指示には従ってもらわないと困る」
 明らかに野崎の声は怒っている。こんな野崎の声をこれまでに聴いたことがなかった。
 「すいませんでした。でも、つい。学推を出すか出さないかを教員が決めるなんて、おかしくありませんか?」
 これは本音だった。少なくとも自分がこれまでに入った研究室ではありえないことだったし、周囲にもそんな話は聴いたことがない。
 「君はこのRC制度をまだ理解していないのか。私は君に慈善活動をしてもらうために研究室に潜入させているわけではない」
 「もちろん、おっしゃる通りです。でも、野崎先生は不正を正し、これまで数々の研究室をより良くしてきているじゃないですか?」
 野崎はため息をつきながら、荒げた声を少しだけ取り戻しながら、
 「それはお金を頂いているからだ。私は慈善活動やボランティアとして、コンサルタントを引き受けているわけじゃない」
 と言ってきた。俺は驚きながらも、論理的に筋が通っている野崎の言葉に「はい」と言うしかなく、言葉の続きを待った。
 「確かに学生が応募する学術推進会特別研究員のDC1やDC2を、教員の立場から、出すとか出さない、とか言うのは、本来的には正しくはない。だが、そんなこと、全国的には、よくあることだ」
 俺は野崎からの言葉とは思えない、その言葉を理解できずにいた。確かに野崎は言い方が厳しいところはあるが、理不尽に対して「よくあること」と片付けてしまうほど論理性がない人物ではない。思わず「そんな。でも!」と言うと、今までで一番の怒号で返してきた。
 「RCは”Rare Case”と言っただろう!?そんな、どこの研究室でもありがちな、よくあるケースに着目して、どうする?我々は、連続殺人事件について調査しているのかもしれないんだぞ!そこに直結しているレアな事実(ケース)と、因果関係を掴むのが君の仕事だ。何が重要なのか、優先順位として、もっと自覚を持ってくれないと困る」
 「でも、あの、D1の権田くんの顔は見ていられませんでした!」
 そういうと、野崎は唐突に、「待ってくれ、ちょっとマズい」と言った。そう言うと、
 「必要なら君の方からまた後で、かけなおしてきてくれ。とにかく、君にはあれだけの給与を出しているんだ。私の指示には従ってもらう」
 と言って、電話を一方的に切られた。俺は、野崎のことを、信用できるのかな?、と思いながら、とりあえずは山岡研に戻ろうと歩き始めた。


 俺は、早稲田にある事務所から、大学院生の戸山渉くんの電話を受けていた。まったく、俺の指示を無視して、どうでもいいことに意見を言って、今後下手に山岡教授に目を付けられて、調査ができなくなったら、どうするつもりだ?どいつもこいつも、ことの重大性をまだ認識していないのか?「そんな。でも!」だと?最近の若い男は女々しいったら、ありゃしない。
 「RCは”Rare Case”と言っただろう!?そんな、どこの研究室でもありがちな、よくあるケースに着目して、どうする?我々は、連続殺人事件について調査しているのかもしれないんだぞ!そこに直結しているレアな事実(ケース)と、因果関係を掴むのが君の仕事だ。何が重要なのか、優先順位として、もっと自覚を持ってくれないと困る」
 そう言うと、戸山くんは感情で返してくるだろうと思った。そして、その通りになった。
 「でも、あの、D1の権田くんの顔は見ていられませんでした!」
 ほらな。俺は「若いヤツの死に顔よりも見れない顔はないぞ!」という言葉を用意していたが、その言葉は、俺の手元のパラレル回線を使ったノートパソコンが制した。3月のJTSシンポジウムでパラレルスマホを渡した、あの女の子からのメールが届いたからだ。本文は短い。
 「直樹が死んじゃいました。野崎さん、助けてください」

******************************************************

5. 殺人の根拠/『研究コントローラー』
につづく

 この文章を書くにあたって、事前に読んでくださった方、相談にのってくださった方、誠に有り難う御座いました。
 いやー、しかし、行方不明っぽい名前、悪女っぽい名前、頭良さげな名前等々を考えるのが大変。もっと大変なのは、Journal名。「さすがにこれはないだろ」とテキトウにつけたJournal名は必ず実在している笑。やっぱり論文って闇深すぎ。

 次回はもう少し早めにアップできる予定。今月は俺も「学推」的なものとか色々書いてたんで笑
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3. スマートグラスの威力/『研究コントローラー』

2016-03-01 00:01:32 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 2. 野崎の目的/『研究コントローラー』

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2016年3月1日(火)

 「それでは時間になりましたので、これよりJTS有機合成分野シンポジウムのクライマックス講演を始めたいと思います。東都科学大学理工学研究科の村松健一先生。宜しくお願いします。皆様、村松先生のことはよくご存知かと思いますが、私から極簡単にご略歴を紹介させていただきます。村松先生は都王大学理学部化学科のご出身で、今や多くの門下生が全国でPIとして活躍していらっしゃる、あの光田和夫先生の研究室のご出身です。博士号を取得された後、京阪大の助手をされ、その後渡米。日本に戻られてから今日にいたるまで、この科学大で教鞭をとられております。研究内容は一貫して、糖鎖の合成に着目していらっしゃり、天然にあります複雑な多糖類を全合成する研究をしていらっしゃいます。近年では糖とタンパク質のフォールディングに着目されており、新薬の開発にも力を入れていらっしゃるそうです。それでは、村松先生、宜しくお願いします」
 「ただいまご紹介に預かりました、科学大の村松です。いやぁ、こちらの飯田橋キャンパスには普段あまり来ないもので少し緊張していますが、本日はこれだけ多くの皆様に発表させていただく機会を与えてくださいまして、有り難う御座います。宜しくお願いします」

 東都科学大学の飯田橋キャンパスは、都会にあるぶん、とても狭い。この狭いキャンパスのなかの最も広い教室でJTSシンポジウムは始まった。私立、東都科学大学には、全国にいくつかキャンパスがあって、主には、都会の真ん中にある飯田橋キャンパスと、千葉にある運河キャンパスだ。私は普段、それなりに広い運河キャンパスにいるので、余計に今日のこのキャンパスは狭く感じる。この教室は、都会の中でどうにか広い教室を作りました、という感じだ。広いこと自体は良いのだが、教室そのものがかなり古くて、机や椅子から独特の木の匂いがする。昔の大学はみんなこんな感じだったのだろうか?とちょっとした私の想像を無視するように、村松が我が物顔でスライドを説明し始める。人殺しめ。こいつの顔を見ていると吐きそうになるほどの嫌悪感が襲ってくる。午後3時。だけど、くだらない学芸会もいよいよ終焉か。JTS, Japan Technology and Science Agencyは学術推進会と並ぶ研究費を獲得するための重要な組織であり文科省の傘下だ。年度末、JTSから研究費を獲得している研究者が分野ごとに発表会を行う。有機合成分野で高く評価されている私の研究室の指導教員である村松のクソじじぃが、このシンポジウムの最後の講演を務めている。一般入場者歓迎と銘打っているが、蓋を開ければ研究者と大学院生しかいない。その数ざっと200人前後。そして全員腐っている。村松は「3年連続で、私が大トリだ」と低いダミ声で自慢そうに話していたが、裏を返せば、この発表会は毎年こいつに媚び諂うための会と化しているわけだ。その証拠として、昨年のシンポジウムも、この東都科学大で行われている。村松に気を遣ってのことだろう。何故私は、このようなくだらない学芸会に出席しているのだろう?この最低な人間の講演を私が聴かなければいけない理由はどこにあるのか。さしあたり、私が村松研究室で唯一の女子であることに起因しているのだろう。修士号を取得し、来春から就職だというのに、私はまだこのくだらない男に束縛されている。世間的には、新薬の開発に力を入れていると宣言していれば正義の味方のような研究者に見えるのかもしれないが、実態は大学院生を奴隷のように使う、ただの悪魔。なにが「口に優しい、新感覚の甘いお薬を創ろう」だ。こいつの頭は隅々までラリっているんじゃないか? 人殺しめ。

 「こちらの新規分子2についての二次元NMRチャートはこちらになっております。収率は93%となっており・・・」

 研究内容のことなど無視して、聴いているフリをしていたからか、もうすでに一つ目の話題の終わりだ。村松が祥太くんのデータを示している。祥太くんはこのデータを、まだ少しだけ元気があったM1の始めの頃に出したはずだ。チャート図をぼんやり眺めながら、私は祥太くんとの、あの、電話でのやりとりを思い出さざるを得なかった。
 ―あ、もしもし?今、僕、どこにいると思う?
 彼からの電話が蘇る。あれは肌寒さが増してきた昨年の11月、2週目くらいの日曜の夜だった。偶然、横浜の実家に帰っており、そろそろ夕飯かと思っていたところだったから、おそらく8時くらいだろう。
 「どこにいるって、どういうこと?」
 ―目の前は海。ここから飛び降りたら、誰にも見つからないかもと思って。死に場所としては最適かな・・・。
 妙に明るい口調が逆に私の全身を震え上がらせた。今日は絶対に失敗できない。祥太くんは以前にも何度か死にたいと私に電話をしてきて、そのたびにどうにかなだめてきたが、物理的に確実な死を目前に控えている上での電話はこれが初めてだった。私は電話口を少しだけ離して深呼吸し、自分に言い聞かせた。「失敗さえしなければ絶対に大丈夫だ」そして、確かに大丈夫だった。この時は。
 私も相澤祥太くんも、東都科学大学の化学専攻の大学院生で、有機合成を専門とする村松研究室に所属している。二人とも修士課程の2年生。村松研で女子は私一人。村松研は博士課程の院生が八人もいるビッグラボだ。科学大は私立大学で、偏差値で言えば、日本一の単科大学である帝工大の滑り止めくらいの位置だ。だから、就職に関しては選ばなければ基本的には困らないはずだが、この研究室では4年生の就職活動が禁止されていた。私も祥太くんも配属されてすぐの学部4年生の頃から一刻も早く、この殺伐とした研究室から抜け出して就職したかったが、仕方なしに修士まで所属していた。村松研はいわゆるブラック研究室で、コアタイムは朝8時半から終電まで。土曜日のコアタイムも同じ時間である。日曜日はさすがに休みだったが、生活はこの3年間ひどいものであった。例えば、研究室で論文を読んでいると「そんなものは家に帰ってから寝る時間を削って読め!研究室では実験だけをしろ!」と助教の小平先生に怒られ、研究室にいる間はトイレに行くにも手を上げて「トイレに行ってきます」と小平先生に言わなければならない。女の私が、男社会のなかで「トイレに行ってきます!」と宣言をしてトイレに行かねばならないことはセクハラとも言えると思うが、皆がそうしているから文句も言えなかった。村松研は学部生の間でもブラックだという噂で不人気ではあるが、研究実績と就職のコネだけはあるので、そのわりには後輩も一定数は入ってきていた。研究室に慣れてきた頃、そのブラックさに直面すると、なんとかしてこの研究室から抜けなくちゃいけないという気持ちが強くなる、というのが村松研にいる学生の全員の特徴だ。
 「どこの海にいるの?」
 ―逗子海岸の近く。大坪漁港のあたりは少し人がにぎわっているんだけど、そこからさらに奥にいったところ。
 「私、いま青葉台の実家にいるから、一時間半くらいで逗子駅までは行けると思うけど」
 ―やっぱり優しいね。さすがに来てもらうのは悪いから、明日の夜、学校で話を聴いてもらってもイイ?
 おい、ふざけるな。私がお前の気持ちを見通すことを、お前ごときが読んでいたわけか。この死ぬ死ぬ詐欺に私はいつまで付き合えばいいのだろう?かといって無視をするわけにもいかないし。というか、本当に海にいるのか?まぁ実際のところ、私自身も行く気は全然なかったけど。
 「わかった。明日の夜ごはんの時ね」
 昼食と夕食くらいしか、私たちに自由は無い。食事の時間すら、助教の小平先生がストップウォッチを構えて待っているのだ。そう言った後すぐに気がついたが、よく聴くと波の音が聞こえる。本当に海にいるんだ、と思った。私はまた全身が震えた。彼から「じゃあね」という、いつもの声を聞く間もなく、電話が切れた。どうやら電波が不安定だったようだ。
 祥太くんのことは別に嫌いではないし、カラムもまともに立てられなかった私に合成を一から教えてくれたり、学部4年生の頃は単位が残っていた科目の課題を解いてくれたりした。彼はいわゆる便利くん。同じ研究室の唯一の同期だし、お互いに自然と話す機会は増えていった。だけど、それだけじゃなくて、話してみると価値観もそれなりにフィットしていた。祥太くんは口数が少ないほうだが、彼には壊れそうな乙女心というか、繊細さがある。顔もそれなりには整っていて、もう少し男らしいところがあれば惚れたかもしれないが、女子に死ぬ死ぬ詐欺をしかけるような、か弱い男は私のタイプじゃない。大学入学以降、化学にまったくついていけなくなってしまい、成績がダメダメで、仕方なく不人気の村松研に入ることになった私と違って、祥太くんは純粋に有機合成が大好きで村松研に入ってきている。そんな祥太くんの一面は尊敬できるのだが、この死ぬ死ぬ詐欺の電話には困り果てていた。そして、いつものイケない言葉が私の胸に宿る。いっそのこと一度死んでみたら?

 「分子2を骨格としたこれら五つの分子の候補のなかで、HeLa細胞に対して新規分子2-Bを作用した場合にのみアポトーシスが誘導されました。ですので、この2-Bの分子は癌治療薬として期待されるわけです。ここで、がん抑制因子として有名なPTEREというタンパク質の発現を増やしている可能性が高いと考え、まず分子2-Bと組み合わさるのかどうかを、分子動力学計算で考察することにしました。この計算は都王大学最新研究所の西岩先生との共同研究となっております」

 教室内の半数がこっそり寝ている。それでも村松は、いつものダミ声で、ハキハキと研究内容を話している。その姿は魂を食過ぎた妖怪のようである。実際にこいつは、今までに何人の学生や若手研究者やテクニシャンを犠牲にし、魂を吸ってきたのだろう?人殺しめ。
 実際に祥太くんがいなくなってしまうと、私の心はすっかり空しくなってしまった。いっそ死んでしまえば良いのに、と思った私自身をものすごく責めた。根本的な原因は村松研の環境にあるのだろうが、最後の一押しとなる原因は私にあるのだろう。結局、私は村松と同じ穴のムジナ。私も最低だ。
 祥太くんがおかしくなり始めたキッカケは、M1の終わり頃だ。祥太くんは村松に突然、研究テーマを強制的に変えられてしまったのだ。しかも、祥太くんが出してきたそれまでのデータはこのシンポジウムでも発表されているほどに重要だったにも拘らず、村松から
 「君は手を動かしていただけで、あれは小平くんのアイディアだろう?」
 と言われてしまったらしい。アイディアを創るためには論文を読まねばいけないはずで、その時間を与えなかったのは小平先生本人なのに、それを主張しても一切聞き入れてもらえなかったという。ちょうど論文を書けるだけのデータが溜まって、英語で原著論文を書こうというところだったのに、上からの指示で小平先生が祥太くんのデータで書くことになってしまい、しかも祥太くんの名前は一切載せてもらえなかったらしい。祥太くんが実験を主体的に行っていたにも拘らず。祥太くんは業績的には論文が出ていないことになるし、そのせいで学推も取れず、真面目な彼にはそれがショックだったのだろう。この一件以降、祥太くんはゼミで村松や小平先生から集中的にいびられるようになる。おそらくオーサーシップを主張したことが村松研にとっての反逆者と見なされたのだろう。それを見ていた上級生たちも、祥太くんにオフェンスしておけば安泰、というような空気ができてしまった。それが原因で、彼はおかしくなっていった。そして、ゼミで一言も喋らない私に、唯一の同期の私に、死ぬ死ぬ詐欺をするようになる。実際に会っていてもそうだったし、電話で連絡してきても「死にたい、死にたい」とつぶやいていた。
 夜に海から電話してきた翌日、私は祥太くんと夕飯を食べた。といっても、大学の近くの蕎麦屋だ。都心から電車で1時間、茨城に近い千葉の運河キャンパスでは飲食店は少なかったが、近くに小さな学生街があって、そこにある蕎麦屋に行ったのだ。学生街らしく、大盛りが安い。このような場所で、また私に死ぬ死ぬ詐欺をするのか?と思いきや、なんと祥太くんは私に告白してきたのだ。言葉は実にシンプル。
 ―今まで隠していたけど、好きだから僕と付き合ってください。
 たった、それだけだ。言葉数が多くない祥太くんが、誠心誠意、男になったように見えた。私は本当にビックリして3秒間ほど彼の目を見つめてしまった。祥太くんからの好意は薄々感じていたが、このタイミングで、告白されるとは思わなかった。私はしばらく悩んだ。正確に言うと、悩んだフリをしてみせた。結論は気持ちの上では決まりきっている。ここで断ったら、祥太くんは死んでしまうのかもしれない。だが、ここで断ってしまえば、気まずくなって、私は彼の死ぬ死ぬ詐欺から解放されるかもしれない。祥太くんと話さなくなるのは残念だが、そろそろ潮時な気もする。どうせ卒業も近い。なるべく可愛らしさを保ちながら、でも、最後は明らかな冷徹さを持つことを意識して、
 「えっとね、私、付き合っている人がいるから、他の人とは付き合えないです。ごめんなさい」
 と私は応えた。本当だった。私の彼は、1つ年上で直樹といって、いま大手商社に務めている。文系の商社マン。私が学部3年の頃、ほんの少しだけやっていた就活で知り合った女友達が、サークルで飲み会をするから、よかったらおいで、と言われ、行ってみたら、そこに大学卒業間近の直樹がいた。その晩、直樹は私を誘ってきた。出会ってすぐだ。さすがに断ったが、その後もしつこく直樹は私をSMSで誘ってきた。あの頃、前の彼氏と別れたばかりで寂しかった私は、ほんの一度だけ夕飯に付き合うだけのつもりで、直樹の誘いに応じた。会う前は「絶対にご飯だけ!」と自分に言い聞かせたつもりだったが、次の朝、私は直樹と同じベッドで目を覚ますことになる。私の身体で興奮している直樹を感じとったとき、自分の価値が再起されたようで嬉しかったが、朝になり目を醒ましたときに後悔がどっと押し寄せてきた。そういえば、祥太くんのように「付き合ってくれ」と直樹から明確に言われた記憶も無いが、直樹との一度の過ちを無意味化するように、それから毎週土曜日にデートして直樹の部屋に行くようになった。お互いの家も電車で一本で、それなりに近かった。土曜日に部屋に行って日曜の夕方に帰る。学生のくせに忙しい私に社会人の彼はイライラしていたが、千葉での新人研修が終わり、名古屋の支社に勤務するようになると、むしろ直樹のほうが忙しくなり、月一のペースで直樹が私の部屋に来るようになった。今でも、ほとんど行為だけのデート。むしろ、直樹とデートらしいまともなデートをした記憶が無い。直樹のこと、本当に好きなのか?と言われたら、心から好き!とは言えないかもしれない。でも、直樹と私は、ステータスが合っているというか、現実的と言うか、フィットしている。祥太くんには悪いけれど、私は直樹のもの。これは私のせいではないし、現実だから仕方ない。祥太くんは
 ―そう。
 とだけ言うと、大盛りのざる蕎麦をずるずるすすり始めた。それから何を話したのかはあまり覚えていない。蕎麦屋を出ると、私たちは無言で研究室に帰った。おそらく、これが最終的なキッカケで、祥太くんは研究室に来なくなってしまったのだろう。研究室に味方がいなくなってしまったのだから、当然とも言える。でも確か、この後も研究室で一度だけ見かけた。「大丈夫?」と私が訊くと、祥太くんは「大丈夫」と言った。そのあとに、「味方になってくれそうな人ができたかも」と言っていた。まさか彼女か?と思ったが、直樹みたいなチャラチャラした男ならともかく、祥太くんに、そんなにすぐに彼女ができるわけない。私への気持ちはマジだったっぽいし。「そうなんだ、よかったね」と私が言うと、祥太くんは英語でこう返してきた。 ”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them.” 私は、つい鼻で笑ってしまった。後でgogleで調べると、この言葉はヘミングウェイの名言らしい。英語が苦手な私に、わざわざ英語の台詞を言ってしまうところが、まさにお前がモテない決定的な欠点なのだが、彼にはそれがわからないのだろうか?
 そして、それ以降、祥太くんは研究室にまったく来なくなった。そのことを小平先生も上級生も問題にしていた。他人事のように言う彼らに対して、お前らも原因なのに、と私は思っていたが、特に何も言わなかった。祥太くんは12月に入ってからもいっさい研究室に来なくなってしまい、修士論文どうするのだろう?と思っていると、研究室の上級生が「相澤くんの両親、捜索願を出しているらしいよ?」との噂を聞いた。私は罪悪感を覚えたが、自分には非は無い、と自分自身に言い聞かせ続けた。第一、蕎麦屋でコクるか?普通。このあたりの性格の悪さが、私は村松と同じ精神構造なのかもしれない。

 「というわけで、結論としましては、分子2-Bについてアポトーシス誘導が促進される性質が決定的と言えると思います。ですので、今後の予定としては、この新薬を使って動物実験を開始していく予定です。もう認可は下りています」

 学芸会が収束にさしかかった。聴講者の8割以上はすっかり飽きて生あくびをしている。経緯を思い出すのに疲れてしまったが、これが終われば私は女友達と2週間の卒業旅行にヨーロッパに出かける。その後は私もいっさい研究室に行くつもりはない。もう関係ないし。研究生活はこれで終わりだ。清々しい気持ちに自分の心を持っていき、すっかり疲れきっている自分の身体を立て直すために、自分の座っている椅子を少しずらした。すると、突然、まったく知らない、自信に満ちた声がどこからともなく聞こえてきた。
 「戸山くん、そろそろ出番だ。君には2番目に発言してもらう。村松の発表だから他に質問は出ないと思うが、1番目の質問に便乗して誰かが質問するかもしれない。念のため、挙手のタイミングを間違えないように」
 え?誰の声?戸山って誰?発言してもらうって、どういうこと?というか、どこから声が聞こえてきたのか?疑問でいっぱいになって、私は辺りを見回した。すぐに、次の言葉が聴こえてきた。同じ声だ。
 「吉岡くん、君は1番目の質問を担当してもらう。まずはどうでもいい質問に見せかけて、ヤツを安心させる。配役としては戸山くんよりも簡単だ。ヤツにとっては質問がでること自体が非日常。だが、とにかく落ち着いて堂々と質問してくれれば良い」
 声の主は、どうやら、質疑応答をさせたいらしい。でも何のために?自分で質問すればいいじゃないか?そう思っていると、村松が発表として最後の言葉を告げる。
 「以上です。皆様、ご清聴、有り難う御座いました。本研究は当研究室の有能なスタッフと学生の協力により行われております。この場を借りて感謝申し上げます。有り難う御座いました」
 村松の発表は終わったらしい。謝辞に祥太くんの名前は無かった。当然か。12月から今日まで一度も研究室に来ていないし、修士論文も書かなかったのだから。それよりも謎の声が気になる。
 「それでは、せっかくの機会ですので、どなたか質問やコメントがある方は挙手をお願いします」
 会場でただ一人、手を天に突き上げている者がいた。見るからに体育会系の男が、メガネとマスクをしている。ニット帽をかぶっていて、顔の全容が分からない。私服なところを見ると、学生だろうか?すると、その男にマイクが行き渡る前に村松が話し始めた。
 「ほう。私の発表では普段、質問など出ないんですが。まぁいいでしょう。どれどれ、どんな質問か、聴くだけ聴きましょうか?」
 会場から失笑が聴こえる。村松に対するものが半分、質問者を嘲るものが半分、というところだろう。謎の声が応じるように、
 「吉岡くん、ひるむなよ。どっちにしてもヤツの研究人生は今日で終わりだ。丁寧な表現で、分子2-BのNMRチャートはないんですか?と言え。その後は、あるにしても、ないにしても、有り難う御座いました、と丁重に言えばそれでイイ」
 と言った。ヤツとは、村松のことだろうか?研究人生は終わる?本当にそうなら是非やってもらいたいところだけれど、実際のところ、どういう意味なのだろうか?と思っていると、体育会系の男はマイクを持って喋り始めた。
 「貴重なお話有り難う御座いました。非常に簡単な質問で恐縮なのですが、2番目のお話について、分子2-Bの二次元NMRチャートを拝見したいのですが、もしデータをお持ちでしたら見せていただけないでしょうか?」
 村松は「なんだそんなことか」と言いながら補足スライドを出す。その間に、謎の声がまた指示を出した。とても早口だ。
 「よし、ボロを出した。やはり測定日は2014年の12月になっている。吉岡くん、君のカメラがスライドをよく映してくれているが、横軸のプロトンNMR、 5.4 ppm付近にあるカルテットのピークに視点を合わせてダブルクリックしてくれ。ズームが欲しい。ダブルクリックはさっき教えたように、上の歯と下の歯を二回リズミカルに合わせればイイ。そして、村松が分子2の二次元NMRチャートに戻ったら、今度も横軸のプロトンNMR、3.1 ppm付近にあるシングレットのピークに視点を合わせてダブルクリックを頼む。戸山くん、次は君だ。まずは、ELISAの蛍光検出について質問するところから始めよう。吉岡くんが送ってくれたピークを私のPCで解析しているから、少し時間を稼いでほしい。1分もあれば十分だ」
 その後、謎の声は、一字一句違わぬように質問してくれ、と指示を出した。やがて吉岡と呼ばれていた大男は質問を終え、司会者が「他に質問がある方?」と言うと、なんと私の左隣の男の子が手を上げた。またマスクとメガネだ。帽子はかぶっていなかったが、顔につけているものは、先ほどの質問者とかぶっている。村松は「今日は質問が多いな」と笑っていたが、今度は会場は笑わなかった。
 「ELISAでの検出についてです。各新規分子をHeLa細胞に導入し、抽出したCell-freeに含まれるPTEREの発現量をELISAで解析していたと思うのですが、他の新規分子についても、PTEREの発現量は上がっている、という結論で良いのでしょうか?」
 村松は顔をほんの少しだけしかめながら答えた。
 「確かにそういう解釈も可能だが、発現量は分子2-Bに比べると圧倒的に少ない。この蛍光量を見てもらえばわかるが、10分の1ほどにしか発していない」
 また謎の声が指示を出している。その指示通りに質問者は質問をした。
 「では、分子2の骨格が寄与している可能性はどれほどあるのでしょうか?」
 「それはもちろん、確実なことはわからないよ。だが、MDの結果からすると、分子2の骨格がPTEREのヘリックス構造にくっつき、その後にBの骨格の一部がPTEREのプロモーター領域における関連タンパク質に結合する、という知見を得ている」
 悪いが後少しテキトウに時間を稼いでくれ、と謎の声は言った。
 「そもそもPTEREがアポトーシスの指標になると考えた場合、ということですよね?MDに関しても、他のタンパク質の存在に関しては一切考慮していないようですし、いま仰ったような非常に単純なポジティブフィードバックが働いているという根拠はどこにあるのですか?」
 「私は合成屋だ。生物のことはわからないし、計算のこともわからない。ただ、実際に細胞数は減少しているし、そのグラフも見せたはずだが」
 ここで司会者が話に割って入ってきた。
 「村松先生のご研究は、このような新規分子を独自に開発された点で非常に有用だと言うことですね。その点を理解して発言されたほうが良いと思いますが」
 すると、戸山という私の隣の人物は緊張しながらもさらりと応えた。
 「でも、不要なものを合成したって仕方ないでしょ?」
 この発言に対して、村松が怒鳴るように返した。
 「君はどこの研究室の学生だ?分子2-Bが有用なことは明らかだ。それは、データが総体的に物語っている」
 謎の声がささやいた。
 「よし確証が取れた。本題に入ろう。名前と所属は決して言うな。無視でイイ。あとは私の喋る通りに発言してくれればイイ」
 私の隣にいる戸山という人物は、ほんの少しだけうなずいた。そしてマスクの中で「わかりました」と言ったのが、私には聴こえた。
 「そのデータというのは、主にはNMRのデータについてですか?そもそも、分子2と分子2-Bについての二次元NMRはどなたが解析されたのでしょうか?」
 するとまたもや司会者が割って入ってきた。
 「質問はサイエンティフィックな内容についてのみでお願いします」
 「いえ、これはサイエンティフィックな質問ですよ」
 司会者は、やれやれという表情を見せたが、村松は瞬時にさらりと応えた。
 「この二次元NMRはうちの助教の小平くんがとってくれたはずだが、何かそれが重大なのかね?」
 「両方ともですか?なるほど。では小平先生に聞いた方がいいのかもしれませんが、なぜ分子2の横軸3.1 ppmのシングレットのピークと、分子2-Bの横軸5.4 ppm付近のカルテットのうちの一つのピークが、まったく同じようにみえるのですか?」
 村松は急に青ざめ、一番小さな、ダミ声で、次のように答えた。
 「質問の意味が分からない」
 「言葉のままの意味です。二つのNMRチャートを並べて出してみてください」
 「何故私が君のような若造のために、そんなことをしなければならない?!」
 「研究内容を理解するのに大事なことだからです。おそらく本当の経緯はこうです。分子2については本当は小平先生ではない別の人がNMRを取った。そして、分子2-BについてはNMRを一度もとっていない。小平先生と村松先生が、分子2-BのNMRチャートを分子2のNMRチャートを参考に捏造したんだ。小平先生が合成したと言っている分子2-Bは数種類の化合物ライブラリーから、プロトコル通りにHPLCで単離・精製したと言っているから、本人的にはそれで目的分子が得られたと思ったのだろうと思います。不純物が完全には取り除かれていないにも拘らず。その後のHeLa細胞へのアッセイに関しては不純物が入った状態で導入しているから、むしろその不純物が影響してアッセイのバックグラウンドが形成されてしまったのでしょう。本当は分子2-Bには何の特異性もないのに。さらに、もっともらしいBの骨格のELISAデータだけを、これまた捏造した。当然、細胞数の減少も嘘です。つまり、今日の発表には、サイエンスがいっさい含まれていなかったことになります。みんな寝るわけですね」
 「この野郎、何を根拠にそんなことを言っているんだ!ふざけるな!司会者、この無礼な若造をつまみだせ!」
 村松は激昂している。完全にキレている。いつも機嫌は良くないが、こんなに怒っている村松を私は初めて見た。今にも暴力を振るいそうな所作になっている。だが、謎の声は予想外の反応に出ている。
 「あーはっはっはっ、あはははは」
 笑っている。高笑いに大笑い。まるで、支配しているのは俺なのだから、こんなこと当たり前じゃないか、と言わんばかりに、笑っている。私の左隣の男の子が、マスクの中で小さく言った。
 「笑ってる場合じゃないっすよ、野崎先生。早くなんとかしてください」
 「わかったよ」
 しかし、またもや予想外のことが起こる。また別の、マスクとメガネをつけた、今度は女の子が、いつのまにかマイクをとって、次のように喋りだしたのだ。
 「とにかくNMRのデータを二つ合わせて、皆さんの前で見せてみてください、村松先生?分子2-Bの測定日は2014年の12月。本当にNMRをとっていたなら、是非とも拝見したいですね。あの時は世界的にも窒素不足で、運河キャンパスのNMR-500メガヘルツは液体窒素を維持できなかったはずですから」
 「お前らなんかに、私がそんなことをする義務はない!!」
 そう言いながら、村松はマイクを床に投げつけた。発表のための机もひっくり返し、回線が切れて、スライドが映らなくなった。村松は興奮して、ついに質問者の女の子のもとにかけよろうとしている。謎の声がうんざりしながら囁いた。
 「まったく、困ったお嬢様だ。私の指示以外の行動をして。吉岡くん、戸山くん、取り押さえられるほうで構わないから、村松を取り押さえてしまってくれ。心配ない。警察を連れて、私がそっちに行く」
 その声に応じるように、戸山という人物と吉岡という人物は、最後の質問者の女の子に向かっていく村松のもとに急いだ。それを感じ取った村松は戸山という人物に殴り掛かろうとしている。怒りに任せて繰り出された村松の右手は、戸山の両手に抑え込められ、あっという間に村松がやってきた方向側に投げ飛ばされた。倒された村松は暴れなくなったらしい。しばらく沈黙が続いたが、聴講者の誰かが「すみおとしだ」と言ったのが聴こえた。その瞬間に、後方の扉が開いた。

 「どうも、3人とも、おつかれさま。あとは警察の方に任せましょう。質問者の3人は今すぐにこの部屋から出て行くように。これは命令です。あとで落ち合いましょう。場所は例のスマホに連絡します」
 長身の男が入ってきた。かっこ良い。が、少し姿勢が悪い。いかにも頭が良さそうな顔をしている。そして何よりも自信に満ち溢れている。そして、その声色は、突然聴こえてきた謎の声そのものだった。警察と思われる人物2人が、暴れていた村松を取り押さえた。取り押さえられながら、村松が立ち上がる。それと同時に、質問していた3人は会場から姿を消した。この長身の男は教室の正面に到着し、村松を見下ろすように話し始めた。
 「私のことはご存知ですか?」
 村松は怒りに任せながら、
 「野崎正洋。お前が黒幕か」
 と言った。野崎正洋と呼ばれた長身の人物は終始笑顔だ。
 「黒幕とは物騒ですね」
 会場にいる誰もが事態を理解し始めたのか、「あいつが野崎か」「研究コンサルタントの野崎だ」「村松先生、ついにやられたな」等と、かなりざわつき始めている。野崎は、その喧騒を沈めるようにマイクを持って、次のように言った。
 「皆さん、村松先生を警察の方に連行していただいた後、私のほうから今回の研究不正について解説をさせて頂きます。その前に、村松先生、私に何か言いたいことはありますか?」
 すると村松は挑むように、野崎に言い放った。
 「こんなくだらないことで、私に研究不正の烙印を突きつけるつもりか?事実だとしても、あれは大学院生が行ったことで、我々スタッフは何も知らなかった」
 「都合が悪くなると、そうやって、すぐに立場の弱い者に責任を押し付けるんですね。その次に切り捨てる駒は小平先生ですか?貴方はわかってて研究不正をしている。ウラはとれているし、言い逃れはできないですよ?それに、たとえ、わかっていなかったとしても、貴方の管理の問題だ」
 「ふざけるな。私は世界の村松だ。私の存在がどれだけの若手の雇用を守っていると思う?こんなことをして、些細なことで不正だなんだっていちゃもんをつけて、この分野が廃れてしまったらどうするつもりだ?だいたい野崎、お前は他人の研究を批評してばかりで、あーだこーだ文句を言ってるだけで、ものづくりをしていないじゃないか。科学大の連中も皆そうだ。奴らも文句ばかりで、手も動かさず、労働力にすらならない!私は、ものすごい悪いこの環境の中で、誰よりも精一杯、オリジナリティを持って、研究活動をしてきたのだ!ふざけるなっ!!」
 「私は、ただ、サイエンスに不必要な無能な人間を排除しているだけです。いくら私が有能なコンサルタントでも、捏造を肯定化するような人間が主催する研究室を立て直すことはできません。それに、貴方は権威と文章作成力で研究資金を稼いでいるという勘違いをしているみたいですが、稼いでいるのは国民であって、貴方自身は一円も自分で研究費を稼いでいない」
 言葉を切って、野崎は、大衆が自分の言葉を吟味している時間の沈黙を楽しむような素振りをした。そして、笑顔を消し、リズムを崩して、いきなり、
 「お前ごときが、思い上がるな!」
 と言って、野崎は村松を指さした。
 「野崎先生、もう良いでしょう?連れて行きますよ?」
 警察の一人が、野崎にそう言った。
 「待て。何の容疑だ?」
 「暴行容疑ですよ。任意同行をお願いします」
 警察は無機質に応えた。野崎は笑顔に戻り、次のように言い捨てた。
 「村松先生。このシンポジウムには、実はマスコミの連中が潜り込んでいる。マスコミの連中に質問者の顔と名前がバレるとマズいので、彼らには早々に立ち去ってもらった。マスコミにも私以外は存在していなかったように書け、とお願いしてある。明日の一面はおそらく、”科学大教授、研究不正暴かれ、シンポジウムで大暴れ”だろうな」
 村松が連れて行かれる。もはや意気消沈していて、すっかり小さくなってしまったように見えた。その後ろ姿に野崎が追い打ちをかける。
 「最後にコンサルタントとしてアドバイスしておこう。サイエンスは感情的になった方の負けなんですよ。まぁ、もう、サイエンスをすることの無い貴方に言っても仕方ないか」
 人殺しの村松は連行された。いい気味だ、と思いながら、一方で、これで正しいのだろうか?という気持ちを、私は少しだけ抱き始めた。村松は確かに性格が悪いし、捏造も本当なのだろうが、村松をそういう環境に追い込んだのは別の作用だ。村松一人を祭り上げるのは、正しいことなのだろうか?

 その後、野崎は自分のパソコンを広げ、さきほどのNMRのデータが捏造である根拠を次々に挙げていった。一番の決定的な根拠は、やはり、二種類の物質についての一部のピークが、違う物質なのにも拘らず、ぴったりと重なったこと。野崎は短い時間で、二つのピークを同じ大きさにし、積分値まで求めていた。その値は完全に一致していた。確かに実験研究ではこういうことはあり得ない。最後に野崎は、
 「以上のデータは、Chemical Review LettersとJournal of the European Chemical Societyに掲載されています。おそらくRetractionになるかと思いますが。皆さん、突然の余興、失礼致しました。では、私はこれで」

 急に野崎が教室を出て行く。行ってしまう。この人なら。この人ならどうにかしてくれるかもしれない。祥太くんの声が聞こえる。”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them.” 私は、野崎という研究コンサルタントを追いかけた。教室よりは日の光が入ってくる廊下には意外にもまだ野崎の他に誰もいなかった。野崎に話を訊いてもらうためには、引き止めるためにはどうすればいい?狭い廊下を短い歩幅で走りながら、直感的に答えが出てきた。そして、建物の出口付近で、野崎に追いついた。私はすぐに野崎に小声でささやいた。
 「吉岡くんと戸山くん」
 すると、野崎は驚いたように私を見つめた。
 「どこでそれを。君は聴いていたのか?」
 野崎はそう言った後も、驚いた表情を維持している。直感を働かせてここまで走ってきた私には、直感的にこの表情が嘘であることが分かる。驚いて開いたはずの口に比べて、瞳孔が一切開いていない。まさか私にわざと聴かせていた?どうやって?なんのために?
 「まぁいい。しかし、私を追ってきたのは、それだけじゃないだろう?私に何か用か?」
 逆に驚いた私は、言葉を振り絞るように、小声で応えた。
 「祥太くん・・・、相澤祥太くんのことで、知ってほしいことがあるんです」
 野崎は薄く笑みを浮かべながら、すべてを理解した様子で話し始めた。
 「ということは、君は、みゃーこさん、だね?」
 私は思わず目を見開き、口をあんぐり開けてしまった。”みゃーこ”は私のSNS上の名前だ。野崎は何故それを知っている?
 「そうです。本名は・・・」
 野崎はそっと人差し指を私の口元に近づけて、
 「待った。どこで誰が聴いているかわからない。ここではそれは言わない方が良い。相澤くんのことは、私が調べている。就職してしまう君は、とにかく彼氏と幸せになりなさい」
 私はまた胸がドキっとした。何故野崎はそこまで私の情報を得ているのだろう?わからないが、このままでは引き下がれない気がした。
 「待ってください。私、私、彼のことが、心配で心配で。だって、だって、私のせいで・・・」
 抑えきれない感情がわき上がりそうになる。その感情に合わせて、「でも・・・」から始まる論理的な言い訳が私を追いかけてくる。そして、その矛盾に耐えきれず、世界が濡れていく。野崎は私の気持ちをすべて悟っているように、ゆっくりと説き始めた。
 「いや、それでも君は何も悪くない。それほどの気持ちがあるのなら、彼は貴女を好きになって、心から良かったと思うはずだ。それだけで彼は救われる。男は女が思っているほど弱くはない。心配するな」
 私は、スカートのポケットからハンカチを出して目に当てながら、小さく頷いた。すると、野崎は意外なことを言ってきた。
 「まぁ、今日の質問者の名前も聴かれているし、仕方ない。このパラレルスマホを君にも渡しておこう。それはハッキングの心配が無いスマホだ。何か他に情報が入ったり、私に連絡したくなったら、いつでもそれで私に連絡してくれ。使い方はシンプルだから、みゃーこさんなら簡単に分かるはずだよ。じゃあ、またね」
 野崎は行ってしまった。私の研究生活の最後に無難に終わるはずだったシンポジウムは、かなり無難じゃない出来事になってしまった。私は体良く祥太くんを利用し、自分だけ修士号をとって就職する。そして3年ぐらいしたら、直樹か、直樹みたいな彼氏と結婚するのだろう。そんなことを思いながら、あの野崎とかいう研究コンサルタントの後ろ姿を見つめた。そして、演技なのか本音なのか自分でもよくわからない自分の涙を完全に拭った。


 野崎から指定されたカフェで、俺ら三人のRC研究生は、もう1時間以上待っている。俺らが教室を出てからすぐにパラレルスマホに連絡があったが、時間がかかっているらしい。三人ともコーヒーを飲み干してしまって、ウェーターが持ってきた水を飲んでいる。それにしても、初仕事。普段、ゼミや研究会で喋るほうではあるが、流石に俺は緊張した。まさか最後に、俺の合気道の得意技「隅落とし」をすることになるとは思わなかった。そして、野崎は警察やマスコミを自由に動かせるほど実力が認められているとも思っていなかった。警察が絡んでいるなら、このRCの話も大丈夫なんじゃないだろうか?
 指定されたカフェは超がつくほどの高級カフェ。なんと個室だ。こんな店が本当に存在しているとは思わなかった。席料だけで2万円となっている。野崎正洋の名前を言うと、二つ返事でこの個室に案内された。椅子(というよりソファー)や机から高級感が漂い、窓の無い薄暗い室内も手伝って、ここで寝てしまいたくなるような雰囲気だ。だが、そんな場合じゃない。斉藤結衣佳だ。あの面接の途中で出て行った彼女がどうしてここにいる?吉岡が質問し始めた。
 「斉藤さんは、結局、RCの話を受けるってことなんですか?」
 「うーん、というより、私のパパが野崎先生に投資しているの。うちのパパ、斉藤自動車の会長で」
 なんだと?あの日本トップの売り上げを誇る大企業、斉藤自動車グループか。こいつ、金持ちだと思っていたら、本当にガチの金持ちだったのか。斉藤は続けた。
 「私の友達が京阪大で大学院生をやってるんだけど、行方不明になっちゃったの。自分で調べたかったんだけど、パパが野崎先生に任せなさい、って。でも直接、野崎先生に相談したら違うんじゃないかと思って、私も大学院生だから潜入くらいできます、調査させてください、って申し出たんだけど、条件をクリアしたらいいよ、って言われてしまって」
 「それはどんな条件だったんですか?」
 吉岡が訊いた。斉藤が応える。
 「結衣佳くんは、力があるわけじゃないから演技力を見せてくれ、って。私がRCの面接で、話を受けない演技をしたにも拘らず、他の二人の候補者が話を受けたら、結衣佳くんを合格にする、って。だから世間知らずのお嬢様の演技をして、金持ちの論理を振りかざせばイイかと思って、おどおどしていたんだけど、どうやらヒットしたみたいね。条件はクリアしたはずなんだけど、それでも野崎先生は、女の子だし、斉藤会長の愛娘だから、って反対されていたんだけど、今日はどう転んでもどうでもいい練習だったみたいだから、私も参加を許されたってわけ」
 なるほど、だから今日はメイクもばっちり。雰囲気ブスじゃなく、完璧に可愛いお嬢様になっている。しかし、あの所作が全部演技だとは。女とは恐ろしいものだ。

 「みんな、遅れてごめんね。意外と説明に時間がかかってしまった。結衣佳くん以外はとても良かったよ」
 野崎が個室に入ってきた。斉藤は少し怒りながら、野崎に言った。
 「野崎先生、ひどい!だって仕方ないじゃないですか。あれくらい言わないと、村松を警察に引き渡せないと思って」
 野崎は少しあきれながら応えた。
 「村松を暴行で警察に連行させるつもりはなかったよ。他にも研究費流用に関する不正を掴んでいたし、結衣佳くんの勝手な行動は私にとって邪魔でしかない」
 「そんなぁ」
 と斉藤は甘い声を出した。野崎は何かを察したように、こう言った。
 「まぁでも、村松を分かりやすい方法で警察に引き渡せたからヨシとしよう」
 「やったー。私、合格ですか?」
 「というよりも、お父さんを出されてしまえば、私にはどうにもできないし、選択肢は無い。共同研究先は京阪大医学部か。まぁ、研究テーマに関しては、後で考えることにしよう」
 斉藤がガッツポーズをしている。そんなに、こんなに危ないことを、やりたいか?まったく。世間知らずってのは、コイツの場合、演技しなくても本当にそうなのかもしれないな。その斉藤が話題の本論を今日のJTSシンポジウムに戻して、こう言った。
 「ねえねえ、野崎せんせーい」
 まるで小学生が先生をバカにして呼ぶように斉藤は言った。
 「村松って、光田学派でしょ?光田学派はブラックで有名だし、今日みたいに叩けばなんでも出てきそうよね」
 野崎はそのコメントが気になるようで、やや強い口調で自分の論を説き始めた。
 「確かに、光田和夫先生の門下生たちは、現在あの分野でPIになっている先生が多く、ブラック研究室である可能性が高いとネット上でも噂されている。だが、そのように、光田学派がブラックだ、という風に決めつけるのは非常にナンセンスだ。光田学派のなかで、まともに大学院生の指導をしている研究室はたくさんある。ましてや、あのような捏造行為をしているのは、光田学派のなかで村松研だけだろう」
 確かにその通りだ。PIの先生たちが学推などで俺らを審査する際、論文の数や指導教員がどの派閥に属しているか?だけで審査している!などと批判する一方で、学生や若手側が、PIの先生達を彼らが持っている言葉や履歴だけで判断するのなら、その思考不足は共通じゃないか。
 「今日は、あくまで練習。至極どうでもいい。失敗しても構わないゲームだった。まぁ、助教の小平先生も、MDをやった都王大の西岩先生も、研究不正認定されるだろうけどね」
 村松は共同研究先の先生達に対しても研究費を一部私的流用していたらしい。それで口止めをし、捏造を繰り返していたようだ。サイエンスに対してのまっすぐな気持ちが、どの分野にも足りていない、ということなのだろうか。
 「もしかしたら、我々が追っている例の多発的な失踪事件に、村松研でも一部通じているのかもしれないが、まだそれは調査してみないとわからないことだ。とりあえず、今日は皆にスマートグラスの威力を知ってもらえれば良かった。そして私がしなければならなかったことも達成された。お疲れさま。家でゆっくり休んでくれたまえ。また、個別に連絡する」
 そう言うと、野崎は皆に退室を促した。スマートグラスの威力って・・・、ほとんど野崎の威力じゃないか。

 その後、俺にだけ話しかけてきた。
 「さっきはああ言ったが、少しは有機合成分野の性質がわかったところもあると思う。戸山くんが共同研究に行く慶明大学の山岡研の主催者、山岡忠雄教授は村松教授と仲が悪かったことで有名だ。今日のことは隅々まで忘れないように」
 その言葉を聞いて俺は少しだけ憂鬱になりそうになった。そんなあやふやな気持ちを抱き、ほとんど暗くなってしまった空を眺めながら、3人と駅まで向かった。

******************************************************

4. RCの意味/『研究コントローラー』につづく

 この文章を書くにあたって、事前に読んでくださった方、相談にのってくださった方、誠に有り難う御座いました。
 最後まで書ききれたらと思いますが、、やっぱりアクセス数次第ですね笑。
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2. 野崎の目的/『研究コントローラー』

2016-02-10 21:45:39 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 1. ことのはじまり/『研究コントローラー』

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2016年2月10日(水)

 「ですから、今回、この手記を彼女が発表された理由っていうのは、そもそも研究社会の閉鎖的な習慣に問題があるわけですよ」
 野崎が研究コンサルタントとしてテレビの教養バラエティ番組で喋っている。芸人出身の司会者が合いの手を入れる。
 「野崎先生!ですけども、こんな本を書いている場合じゃなく、新たに原著論文を書いて科学者として反論すべきだ、って、多くの研究者の方は仰ってますよ?」
 「まったく。研究者っていうのは、キレイゴトをそれっぽく話すのが得意ですからね。彼女が今の状況で、どうやって新しく実験しろと言うのでしょうか?実験する場を奪っておいて、自分だけでいきなり実験研究が進捗できるわけがないでしょう?おそらく論文だって、日本語英語に依らず、彼女一人じゃマトモに書けないだろうし、そんな彼女を承知で『使い勝手がいいから』と今まで雇用してきたはずなんですけどね。そんなこと、研究者はみんなわかっているはずなんですが」
 司会者が意地悪な表情になった。
 「どうして、野崎先生からみると、多くの研究者の発言がおかしく映るのでしょうか?」
 野崎は小さく鼻で笑いながら、さらりと答えた。
 「さあ。よくわからないですけど。まぁ、実験研究を実際に自分でしたことがない理論系の先生達が、研究者代表ヅラをして、自身の学生実験の記憶だけを思い出しながら、あーだこーだ言うのは勘違いのもとだからやめた方が良いと思いますし、実際に実験をしてきている実験系の先生達は、特にこの分野、権威主義で、ことなかれ主義で、物事をよく考えていない人が多いですからね」
 「いやー、だから、野崎先生のような研究コンサルタントの方が必要なわけですね?」
 「いいえ、私など、専門家でもなんでもない微妙な立場ですよ。なので、視聴者の皆さん、私の言っていることが理系代表の意見だとは決して思わないようにお願いします」
 「野崎先生の謙虚な部分がやっとでたところで、ひとまずCMです」

 この野崎と今から話さなくてはいけない。あいつがこんなにもまっすぐカメラをみて流暢に喋っている様子を見ると、不自然に感じる。俺が会ったときには、もう少しナヨナヨしているヤツだったのに。
 突然1000万円を渡されてから、3日後。野崎からメールが次のように入った。
 「戸山渉さま、彼から逃げ切れたこと、誠におめでとうございます。あれは貴方の最低限の身体能力を判断させていただく試験です。ですから、ひとまずは、ご安心してください。それから、ほとんど誰にも連絡せずにいられたこと、これでもって正式に合格です。正式に集まっていただくのは3月なのですが、私が個人的にそれぞれと一度話した方がいいと思いました。きちんと説明いたしますので、2月10日水曜日16時に品川駅のカフェ・ムーンバックスにてお会いしましょう、野崎正洋」
 かなりでかい男だったが、倒された以外はただひたすら逃げただけだ。倒されたときに咄嗟にきちんと受け身をとったので、ほとんど無傷だった。怖かったが、怖すぎて、ほとんど誰にも話さなかっただけだ。村川には喋ったが、彼女の香奈には喋っていない。はじめ村川は「それ嘘だろ。どんな確率だよ」と信じなかったが、現金を見せたら顔色を変えて「今はあまり動かないほうがいい。状況を判断する材料が自然と現れるはずだ」と冷静だった。
 前回はビルの一室を借りていたようだが、カフェとは、今回はずいぶんカジュアルな場所のチョイスである。
 「承知いたしました、戸山」
 とだけ返しておいた。それにしてもあんなでかい男に襲わせて、それが試験か?いったい、何のために?「やっぱり怪しい」と俺は思い、1000万円も返そうと思って一切使わないようにした。

 野崎との約束は16時。俺はその場所に向かった。15時30分、まだいないだろうと思っていたが、野崎は長身の黒服の姿で一番奥の席に座っていた。身体の割にスモールサイズのカフェラテを飲んでいる。似合わない。それから少しケチなんだな、と俺は思った。
 「野崎先生、戸山です」
 「早かったね。まぁ、こちらの予想通りだけど。なんにも頼まなくても、人も少ないし、目立たないし大丈夫だと思うけど、何か飲みたい?」
 そう言いながら千円札をひらひらさせてきた。
 「飲み物くらい自分で買えます」
 と冷たく言い放ち、「今日のコーヒー」のトールサイズを持ってきた。
 「最初に訊きたいんですが、なぜ、あんな大男を使って、僕の身体能力をチェックしたんですか?」
 「焦らない。焦らない。戸山くんが研究を遂行するのに最低限の身体神経が必要、ってだけさ」
 研究を遂行するのに身体能力を問われるって、どんな研究を俺にさせるつもりなのだろう?意味が分からない。沢山実験できるだけの体力はそれなりにあるつもりだが、それだからって、わざわざあんな男を雇って襲わせるか?、普通。
 「それから、僕が早めに来ると思ったのは何故ですか?」
 「あぁ、それは簡単なことだよ。ただのパターン」
 「パターン、ですか?でも待ち合わせするのはこれで2回目ですよ?」
 「私くらいになると、最初の1回目が偶然なのか、それともその人の性質なのか、簡単に見抜けるようになるのさ」
 そんなものか。確かに俺は前回も早めに行ったし、野崎ほど色々な人と出会うとそういうことに長けてくるのかもしれない。
 「というのは完全に嘘で、実は戸山くんが発信しているSNSの情報をすべて見ていたからなんだけどね」
 「え?僕が使っているSNSはすべて友達限定でしか見ることができないはずなんですけど」
 「そう思っているのは戸山くんだけだよ。見る方法はいくらでもある」
 なんだと?おい、こいつ、俺のことをハッキングしてたのか?
 「これからは気をつけてもらわないと困るから言うけど、戸山くんはカメラや録音機器に意識を向けなさすぎだ。戸山くんが使っているMucintoshだけど、カメラとマイクがついているのは知ってるよね?」
 「カメラは知っていますが、マイクはついていないでしょう?」
 「戸山くん、当然マイクもついているよ。パソコンで電話したことないのかな?」
 無い。おい、まさか、こいつ、実際に俺が喋ったプライベートな会話まで聴いていたんじゃないか?
 「というわけで、あくまで私が把握している範囲だけど、あの後、戸山くんは、村川晋也って友達と、綾瀬香奈っていう彼女さん以外には、この件は喋ってないよね?」
 俺は驚いて口を開けっぱなしにして目を見開いた。
 「よかった。その表情は正解みたいだ。よろしい、よろしい。これからは、パソコンやスマートフォンをすべて切ってから、プライベートなことをしたほうが良いよ」
 薄笑いを浮かべながら野崎は行った。何もよろしくない。おい待て、こいつどこまで俺の会話や声を聴いていたんだ?聴いているだけじゃない!見ている可能性すらある。
 「大丈夫、あまりにプライバシーを侵害しそうなことは、映像は切って音声だけにしていたし、さすがの私でも、得られる情報のすべてを見聞きすることはできない。それに大前提、私は君の趣味や私生活そのものに興味は無い」
 「他人のプライバシーをなんだと思ってるんですか!やっぱり、この話は断ります!」
 「と言っても、1000万円は今返してくれないんだろ?」
 「あんな金、すぐ返しますよ」
 「あれだけ、金がない、金がないって、SNSでも、現実でも、ぼやいていたくせに?」
 「そんなこと、今、貴方に関係ないじゃないですか!」
 「まぁ、待って。やっぱり話は最後まで聴くべきだと思うよ?これを聴いたら、おそらく戸山くんは喜んでミッションに参加してくれると思う」
 俺は帰ろうとした身体を全力でとどめた。「捨てることはいつでもできる。もしものときのためにとっておいたほうがいい」サンプルをさっさと捨てる習慣がついていた俺を見て、研究室の先輩が言ってくれた言葉を思い出した。
 「ミッション?」
 「そう。ミッション。それを説明するために今日は来てもらったからね。まず、前にも言ったように、RC制度の院生には共同研究をしてもらう。戸山くんの共同研究先と研究内容はすでに決まった。慶明大学の高野翔先生と一緒に、大腸菌をリポソームのなかに入れて培養する、という内容の実験研究をしてもらう。高野先生は慶明大の有機合成化学専攻、山岡忠雄教授が主宰する研究室で特任准教授をしておられる。山岡先生と、戸山くんの指導教員の渡辺先生には、私から話をつけるつもりだから、その点は心配しなくて大丈夫だ」
 「リポソームのなかに大腸菌を入れて培養するんですか?それはどういった分野で、どういった意味があるんでしょうか?」
 「待った。研究内容に関しては、いったんおいておこう。4月以降に話したとしても十分だ。それよりも重要なことがある」
 「研究内容よりも重要なことですか?」
 「そうだ。このRC制度においての重要なミッションとしては、研究内容については至極どうでもいい。もちろん、それなりに形になりうるものを私から戸山くんに提供はするが、そんなことよりも、戸山くんには、とにかく、この山岡研究室の内部を隈無く調べてほしいんだ。この山岡研究室というのはとても怪しい・・・、らしい」
 「スパイしろ、ってことですか?」
 「飲み込みが早いね。その通り。スパイとして、潜入してもらう」
 やはり、そういう内容か。野崎が研究内容そのものについてはどうでもいいと言っていた理由がよくわかった。研究はそっちのけでも構わないから、とにかく怪しい研究室の実態を掴んでくれ、ってことか。そのために俺は金を渡されているってわけか。だから、いざという時のために、身体能力もチェックされたわけか。理由はよくわかったが、むかつく。ここまでバカにされていて黙ってはいられない。
 「それなら、いくらでもハッキングできる野崎先生が自分でやればいいじゃないですか?」
 「ただの一個人である、しかもITに疎い戸山くんと、私大トップである慶明大学の内部に存在している一研究室である山岡研を調べるのは、全然違うんだよ。当然、私が調べられる範囲では調べてはいるのだが」
 「でも、何を調べれば良いんですか?」
 「うーん、そう言われると困るんだよなぁ。調べる内容というよりも、まずは今、日本の多くの研究室で起こっている事件を説明しようと思う」
 研究室で起こっている事件?論文不正か何かか?
 「ここ最近、行方不明になる大学院生や若手研究者が、僅かながら増加傾向にある」
 「でも、昔から一定数、大学に来なくなってしまう大学院生はいたんじゃないですか?」
 「もちろん、その通りだ。だが、もっとマクロスコピックに物事を見てみると、局所的なバランスが乱れている」
 「と言いますと?」
 「仕組まれている、ように思える。昔は、この分野にはこれくらいの割合で一定数やめてしまう人がいるであろう、という、ある種の因果関係が言えた。だが、ここ最近、特にこの一年、一部で分野別の離脱者の期待値に依存せずに、やめてしまう人の割合がほんの僅かに増えているんだ」
 「仰っている意味がわかりません。どんな分野でも、あらゆる分野で平等に研究室を辞める人が増えた、という意味ですか?」
 「まぁ、そう言い換えてもいいか。そうそう、つまり、一見すると、研究室を途中でやめてしまう人の率はそんなに変わらないように見えるんだけど、分野別でみたときに、目立たないようにバランスが少しずつ崩れていて、実際その数は僅かなんだが明らかに増えているんだ。おそらく、目立たないように、そこまで考えて、誰かが消しているんだと思う」
 消している?って、それはどういう意味だ?思った疑問をそのまま野崎に言ってみる。
 「それは、どういう意味ですか?」
 「おそらくは、実際に誰かが危害を加えているのだと予想される」
 「ということは、殺人って意味ですか?」
 「いや、遺体はでていないから、殺人とは呼べないよ」
 「じゃあ、誰かが誘拐している、ってことですか?」
 「・・・正直、わからない。とにかく不可解な行方知れずが、ここ最近多いのは事実だ。私はこの件について調査依頼を受けた。いや、正確に言うと、ある資産家から、ある大学院生の捜索を頼まれた。研究室関連の依頼を他にもいくつか受けていて、とりあえず調べやすそうなところからあたってみていたんだが、よくよく調べてみたら、この事実にたどり着いた」
 確かに大学院にいると、人はよくいなくなる。でも、いなくなってしまう人たちがどこにいくのか、実はよく知らない。指導教員の先生がきちんと別の道を確認しているケースが多いとは思うが、なかには研究室にいつまでも所属しながら徐々に来なくなってしまい、放ったらかしになってしまうケースもある。それ自体はよくあることだ。そして、この「よくあることだ」という思考停止は、実は大学院では往々にして行われている。その来なくなってしまう人たちが実は殺されているのだとしたら?誘拐されているのだとしたら?いったい何の目的で?それは確かに解決しなくてはいけない問題だ。あれ?でも親が気がつくんじゃないか?
 「で、戸山くん、やるでしょ?」
 野崎が俺の思考の途中で割って入ってきた。だが、野崎からの質問で初めて即答できる質問だった。
 「やります」
 「それでこそ私の知っている戸山くんだ。無駄に正義感の強い戸山くんなら、引き受けてくれるはずだと思ったんだ」
 無駄に、って、野崎はいつも、こういう一言が余計だと思う。こういう言葉さえ無ければ俺は野崎のことが好きになれるし、それは俺だけじゃなく、他の人だってそうなはずだ。
 「戸山くんの共同研究先である慶明大学の山岡研では、現在D4の井川英治くんが、おそらく昨年の10月頃から行方不明になっている。実際、今も在籍はしているし、もともと研究室は休みがちだったようだ。はじめ、10月からだから、博士論文の題目決めがあるはずで、それで現実逃避のために休んでいるのか?、と思っていたんだけど、私の依頼人が、それはおかしい、と言ってきてね・・・」
 「僕は、その井川さんって人の情報を集めればいいんですか?」
 「いや。というよりは、学生である戸山くんからの視点として、山岡研内のおかしな点をあげてもらえればいい」
 「でも、来年D1の僕と教授とじゃ、あんまり接点がないんじゃないでしょうか」
 「そうだね。でも、逆に言うと、山岡教授は戸山くんなんかに気をつけないから、都合がいいっちゃいいんだよ」
 本当はスパイをする目的で、大義名分として共同研究を持ちかけようとしている野崎は、ものすごく平然としている。そんなこと当然だろ?と言わんばかりに。とんでもない事実を目の前にして、俺は緊張してきた。俺はふと、自分がカフェにいることを意識した。この会話、聴かれていたらまずいだろ。と思ったが、周囲は閑散としている。これも計算済みなのだろうか?
 「戸山くんに特にお願いしたいのは、ゼミだ。ゼミは研究室の空気の8割以上を作る。そして、これはこないだの面接でわかったことだが、そのゼミにおいて、戸山くんは全然何についてもついてこられないほど、頭が悪い」
 俺はムッとした。
 「なので、スマートグラスを使ってもらう。これで私とこっそり電話をしながらゼミに参加してもらう」
 スマートグラス。あのgogleが出したヤツか。
 「使い方の練習をしなくちゃいけないな。3月になったら渡すよ。あと、今後の私との連絡用に、このスマートフォンを持っておいてくれ」
 業務用のスマホか。まぁ、便利だろう。と思って受け取ると、チャット形式のSMSのアプリしか入っていない。
 「これは?」
 「ああ、それは、通常のインターネットの回線ではなく、まったく別の回線を利用するスマホなんだ。原理はほとんど同じなんだけどね。だからアプリがSMS一個しか入ってない。普通のインターネットにも繋げない。そのかわり、ハッキングされる心配も無い。いわばパラレルインターネットだね。だからそれは、パラレルスマホってわけ。私との連絡に最適だろ?」
 「え?誰にハッキングされる、っていうんですか?」
 「戸山くん、少しは自分の頭で考えましょうよ。犯人に決まってるじゃん」
 「そこまで能力が抱負な人っていますか?」
 野崎は立ち上がった。どうやら帰るつもりらしい。座っているときの姿勢が悪いせいか、立ち上がると余計に長身に感じる。
 「というか、相手はかなり大人数なんじゃないかなぁ。あ、そうそう、当たり前だけど、この件は内密に。まぁ、村川くんと香奈さんに話すかどうかは、戸山くんに一任するけどね。今後はそのパラレルスマホに連絡するから、よろしく。じゃあ、私は次の約束があるから、これで失礼するよ。くれぐれも、カメラとマイクに気をつけてね」

 時計の針は16時30分をさしていた。そう言い残すと、野崎はカフェラテを一気に飲み干し、店を後にした。なんだか話が大事になってきたが、とりあえず、ここで少し修士論文の修正作業でもするか。そのほうが心を落ち着かせることができる。そう思い、ノートパソコンを広げた。


 18時、俺は都内の、先ほどとはまったく別のカフェにいた。
 「貴方の言った条件はクリアしたわ」
 「そうかもしれないが、やはり危険だ。どんな方法でやっているのか、まだ何もわからないんだぞ」
 そう言いながら、俺は次の言葉を探していた。
 「私は京阪大学に行く。私は彼女を信じているから」
 「だが、それだとテーマが思いつかない。何よりも君をあのような環境に身を置かせるわけにはいかないんだ」
 「女だからって、バカにしているわけ?」
 「そうではない。ただ、何かがあったときに、危険すぎると言っているんだ。ただでさえ、あの研究室はネットで良い噂は聴かない」
 「わかったわ。それなら倍だす。だから、テーマを考えて」
 まったく、バカとハサミは使い用、と言うが、あの2人のほうが、遥かに使いやすい。これだから高圧的な女は嫌いなんだ。
 「それで、あの2人、潜入してくれそうなの?」
 「ああ。私の適切な人選と、君の演技力の賜物だよ」
 俺はうんざりしながら、自分の腕時計のベルトをいじって会話を止めた。

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3. スマートグラスの威力/『研究コントローラー』につづく

ただ、この2. の話のアクセス数によっては、つづきません笑。
ちなみに、現在、4. のタイトルまで決まっていて、「4. RCの意味/『研究コントローラー』」です。お話の骨格としては、最初から全部決まっています。
コメント (2)
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1. ことのはじまり/『研究コントローラー』

2016-01-09 02:24:26 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

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2016年1月9日(土)

 「これマジか?!おい戸山、これ見てみろよ。お前にこれ良いんじゃね?ほら、年収2000万円ってやばくね?」
 村川のこの一言がことのはじまりだった。慣れないスーツを着ながら山手線で去年の10月のことを俺は一人思い出していた。

 あのとき、同じ研究科内で唯一の友達である村川晋也と二人で飲んでいると、彼は自分のスマートフォンを俺に見せつけながら、いつものノリの良さで話しをふってきた。俺ら二人は都王大学大学院修士課程2年に在籍している大学院生だ。俺は生物物理学の研究室に在籍していて、彼は素粒子の分野を研究している。俺と村川は、今はほぼ同じ状況だが、来年度からお互いの立場はまったく異なってしまう。村川は来年度から大手企業で技術営業職に就く予定だが、俺は博士課程進学予定でこれからまだ3年間も不安定な学生生活が続くことが決まっている。天下のナンバーワン国立大学、都王大学の大学院生なんだから安泰だとか世間から思われているようだが、実際はそんなことはない。同年代の殆どが働きだしているのに、大学院で博士課程まで進んでしまう者はストレートの大卒よりも5年も長く社会に出ずに学生のまま。そもそも俺は学部は地方公立大学出身だし、世間で思われているよりも遥かにリスクが高い。しかも、博士号がストレートで取れるとも限らない。さらに、博士課程修了後の就職先は全然ないし、就職先のほとんどが有期雇用のアカデミックポストだ。
 そんな博士課程という名の、ある種の絶望的なモラトリアム期間に突入していく感覚を少しだけ払拭してくれるのが、学術推進会の特別研究員だ。通称、学推。有能な博士課程の学生に博士課程3年間の間に月20万円支給してくれる素晴らしい制度が学推だ。修士課程2年の5月に研究計画書やこれまでの研究内容をまとめた書類を提出して審査され10月に結果が出るのだが、残念ながら俺は落ちてしまった。そういえばあの時は、そんな俺を慰めてくれようとして、村川が飲んでくれてたんだっけ。
 村川が見せてくれたのはただの広告だった。この手の募集のわりには派手な広告だ。SNSで出回っている「学推に落ちたヤツ必見!年収2000万!」という文章。そのウェブサイトをクリックすると
 『RC研究振興補助制度。来年度博士課程に進学予定の現在修士課程2年に在学している優秀な理系大学院生に平成28年度より最大で3年間、年額2000万円支給します。研究費も支給します。定員は若干名。希望者はCurriculum VitaeをこちらのE-mailアドレスまで提出してください。Curriculum Vitaeのフォーマットはこちら。〆切は2015.11.30.まで』
 文字にしてこれだけの内容。あとは真ん中にビーカーとか数式とかサイエンスっぽい広告があるだけだ。全体にポップな広告で、はっきり言って怪しい。これなんなんだろう?来年度から就職予定で本来関係ないはずの村川に尋ねてみた。
 「これ、どこが主宰しているんだ?」
 「え?そんなの学推かJTSか、わからんけど。RCって書いてあるけど、これじゃね?」
 「なんの略だろう?リサーチコマンダー?」
 「ちげーよ、Resistor–Capacitorだろ」
 「もっとちげーだろ笑」
 あぁ、話が逸れてしまった。こういうところが村川の良いところであり悪いところだ。ノリが良い分すぐに関係のない方向に行ってしまう。仕方ないので少し自分で考えていると、村川が空気を察して若干の真剣な表情をしながら語りだした。
 「でもさ、お前が落ちた学推って月20万だろ。ってことは年240万円にしかならない。それに比べてこれは年2000万円。超イイじゃん。通れば普通に勝ち組じゃん。出してみろよ」
 「確かに。だけど怪しいなぁ」
 「いや、お前、さっき学推あんなに否定してたんじゃん。あんなの、研究室のPI(Principal Investigator; 研究室のトップの先生のこと)が誰かで選んでるとか、出身大学がどこかで選んでるとか。でも、これは、」
 「ちげーのかよ?」
 「そりゃ知らねーけど。待てよ。ほら、フォーマットダウンロードしてやるから」
 スマホでpdfを読むのは本当に見にくい。読みにくいpdfビューワーでゆっくり拡大しながら見てみると、A4でたった2枚。業績項目を書くところも無ければ、出身大学を書く欄もない。学推では指導教員の評価書が必要だが、これにはそれもない。というか自分の指導教員が誰かすら書く項目が無い。さすがに住所や所属している大学院と研究科を書く欄はあり、修士論文の(予定している)タイトルを書く項目はあったが、あまりにも研究に関することが少なくないか?逆に学推には無かった項目で、このフォーマットにあった項目で気になったのはHobby or Special Skill。
 「これって、"趣味や特技"って意味で良いんだよな?」
 「たぶん。お前ならプログラミングって書けばいいんじゃない?」
 「俺の研究に関係あるかなぁ」
 「あるある。あと、合気道も書いとけ」
 「いや、それはあまりにも研究に関係なさすぎるんじゃ」
 と言ってはみたが、体力があって沢山実験するぜ!ってアピールするために、大学時代ずっとやっていた合気道は確かに妥当な気もしてきた。完全に酔っている。それにしても、英語で書くのは少々面倒くさいが、あまりにも応募書類が簡単すぎやしないか。だが、そんなこと、酔っていたし、学推にムカついていたし、どうでもいいやっと思っていた。俺はえいや!と書いて、それを募集の公告に書いてあったE-mailアドレスに投げた。翌日、自分の応募書類を見直してみるとほぼ完璧ではあったが、完全に酔った勢いだったので、名前だけ「戸山渉」って日本語で書いてしまったのが心残りだ。だがどうせ怪しいし、どっちにしてもあまり期待していなかった。

 12月、俺はこの出来事をすっかり忘れていて修士論文を書き上げるのに必死だった。そんな矢先、12/25のクリスマスにメールが入った。件名は「RC研究振興補助制度の結果」と書いてある。俺は一応おそるおそるメールを開いた。本文は短かった。
 「貴殿はRC研究振興補助制度の一次選考を通過いたしました。二次審査を行いますので、きたる平成28年1月9日13時、品川区大崎6-10-2の3階に来てください。二次審査は面接です。持ち物は特に不要です。厳密に審査する関係から、この件については他言しないことを厳守してください。交通費は当日支給します。以上」
 いったいどれくらいの人が一次通過しているのだろうか?応募した直後、「RC研究振興補助制度」で検索してみたが、何もでなかった。SNSでも「これは釣りだ」という流れだったし、11月に入ってすぐ、まだ〆切の期日を過ぎていないにも拘らず、募集のウェブページも消されていた。だから、俺は二次審査に行くかどうか決めかねていた。修士論文で忙しいし、この怪しい感じはなんとなくイヤな予感がする。正月休みが終わってすぐ、俺は彼女の綾瀬香奈を自分の家に呼び、相談することにした。彼女とは2年前から付き合っている。俺より1つ年上で美大出身。現在はデザイン会社に勤めている。はっきり言って何も考えていないヤツだが、それなりに可愛いし、極たまに秒速で的を射たコメントをする。念のためにとパソコンに保存しておいた応募内容を見せながら、彼女に話しかけると香奈は、
 「うーん、確かに怪しいけど、修論ってそんなに大変なの?」
と言ってきた。
 「そりゃもう。こんなに文章書くのは初めてだし。あー、ダメもとの割に、なんか知らんけど通っちゃったからなぁ」
 「でもさぁ、これって、ただ行くだけでしょ?で、どーせダメもとだったんでしょ?土曜日って、どーせ、渉、寝てるだけじゃん」
 「そうだけど、1/9は修論提出間際だから、なんとなく」
 「ふーん、まぁ私、理系じゃないからよくわかんないけど。もし2000万円ゲットできたら、なんか高いもの奢ってね」
 これだから頭の悪い女は嫌なのだ。2000万円ゲット、ってそういう感覚しか無い。しかも、「美味しいもの奢ってね」じゃなくて「高いもの奢ってね」ってなんだよ。お前、芸術系だろ。もっと自分の価値観に自信を持てよ!と心の中で彼女へのやり取りの不満を呑み込んでいると、ふいに彼女が真剣な表情でこう言ってきた。
 「あとさぁ、最初のこの募集の背景にある絵。これって、そんなに、ぱぱっと作った感じじゃないと思うよ?」
 そうなのか?さすが芸術系、香奈。ならまぁ行く価値はあるか。
 「わかった、ありがとう。微妙だけど、行くだけ行ってみるわ。gogle mapで調べてみたら、大崎駅から徒歩5分くらいで、近いし。絶対になんか無理そうだったり、怪しかったりしたら、途中で帰ってくりゃいいし」
 やはり彼女は何も考えていないように見せかけて、洞察力というか判断力というか、なんというか、そういう類いの才能がある。これからもよろしくお願いしまーす。なんて、調子良すぎるか?

 そんなことを思い出しながら、いよいよ大崎駅に着いた。メールに書いてあった住所に到着すると、そこはかなり古びたビルだった。土曜日ということもあってか大崎駅周辺は閑散としており、都内とは思えないほど周囲に人がいなかったが、間違いなく面接会場はここだ。3階まで階段で登ると、「RC制度面接会場」と書かれた部屋の前まで着いた。明るい日差しが差し込むが、全体に暗いビルの中はかなり冷えこんでいる。そういえば就職活動ではコートは脱いでからビルに入るんだっけ?ま、いいか。誰も見ていないだろう。12時45分。13時まで15分早いがノックして部屋に入ってみるか。怪しかったら帰らなくちゃいけないし。俺は思い切って扉を叩いた
 「失礼します!」
 ドアを開けるとそこには、一人の男が座っていた。年齢は30代?いや20代にも見えるほど若い。座っているがかなり長身なのがわかる。しかし気怠そうな雰囲気で、こちらをまったく見ない。終止、身につけている腕時計のベルトのあたりをいじってる。もしかして俺は部屋を間違えたか?
 「あ、早かったですね、戸山渉さん。まぁ座ってください。他の2人が来たら始めましょう」
 部屋はここで良いみたいだ。俺は左端の席についた。あれ?応募書類には写真を貼るところはなかったはずだぞ?それにあと2人しか候補者がいないのか。っていうか、よく見るとコイツ、どこかで見たことある顔だ。だから、俺のことを知っているのか・・・?
 「失礼します!」
 突然扉が開いた。ドスが効いた声。先ほどの俺の「失礼します!」もこんな感じだったんだろうか。いや、俺はもう少し遠慮がちだったはずだ。入ってきた男は、肩幅がでかくて、筋肉質な色黒。はっきり言って恐ろしい風貌。絶対にコイツを怒らせてはいけない。まぁ背が低いのがせめてもの救いだ。
 「帝都工業大学の吉岡剛志さんですね。どうぞ、座ってください。あと1人か。これなら時間前に始められそうだ」
 吉岡と呼ばれた男は真ん中の席についた。落ち着いたところで沈黙が流れる。部屋は高校とかで使う教室くらいの大きさ。太陽の光がホワイトボードに反射して眩しい。しかしそれ以外は少し暗い部屋だ。電気は着いているが、光が弱い。そのせいか、面接官の男がよりいっそう気怠そうに見える。
 「失礼します、日本茶大の斉藤結衣佳です」
 女性の声が響いた。意を決して扉を叩いたが、途中で恥ずかしくなり、語尾の音が擦れてしまった印象だ。いかにも弱々しい世間知らずのお嬢様って感じの女性がそこには立っていた。よくこんなお嬢がこの古いビルに1人で入ってきたな。ノーメイク。高級そうなコートを手に持ち、これまた高級感があるスーツを着ている。顔はかなり可愛い部類なのに、オシャレにいっさい気を使わないであろう日常が、その所作からスーツ姿でもわかってしまう。雰囲気美人という言葉があるが、その真逆。・・・雰囲気ブス。いや、そういう言葉はよくない。

 「皆さん、そろいましたね。斉藤さん、どうぞ座ってください」
 正面の面接官が喋りだした。俺は次に続く展開がまったく読めず、彼の言葉を待った。
 「さて、皆さんのなかで私をご存知の方はいらっしゃいますか?」
 「はい!」
 「はい、斉藤さん。どうぞ、仰ってください。私は誰でしょう?」
 「貴方は研究コンサルタントで有名な野崎正洋先生です」
 「その通りです。斉藤さんには10ポイントだな」
 面接ということを忘れていた。コイツのことを知らないと落とされるかもしれない。一瞬そんなことを思って、我に返った俺は「そんなわけあるか!何だコイツ、遊んでいるのか」と思った。このやり取りをしている間も、野崎は誰とも目を合わせず、腕時計のベルトばかりをいじっている。それにしても、そうか、コイツは野崎とかいう研究評論家か。研究不正とかあったときに、テレビでコイツがコメントしているのを見る。本職は研究コンサルタント。研究コンサルタントとして、様々な研究室をそれなりに立て直してきた逸材だ。彼が手がけた研究室は必ずしも論文が量産されるようになるわけじゃないが、質の高い研究に従事するようになると言われている。確か野崎のもともとの専門は応用数学で、大学院生の頃から頭がものすごく良かったが、あまりに頭が良すぎて博士号をとるのがばかばかしくなってしまった、とどこかに書いてあった。テレビのときはもっと堂々としているが、実際に会うとこんなにも弱々しいヤツなのか。そんな野崎がまた予想外のことを話し始めた。
 「さて、私が誰かわかったところで、皆さんから何か質問はありますか?」
 面接にも拘らず、最初から候補者に「質問はありますか?」と訊く面接官はまずいないだろう。すると、吉岡がゴツい右手を高らかに挙げた。
 「えーっと、途中で募集をやめたのはなぜですか?」
 「早い者勝ちにしたかったからです」
 野崎はあっさり答えた。吉岡は不満そうだ。「それはなぜ?」と訊きたかったが、それより重要なことを俺は訊いてみることにした。
 「候補者はこの3名だけですか?」
 「そうです。そして、あなた達でほぼ決定です。よほどのことがなければね」
 またも野崎はあっさり答えた。この面接の雰囲気でよほどのこととはどういう事態が想定されるのだろう?
 「他に何か質問はあります?そんなもんですかね」
 「まだあります!」
 吉岡が野崎の質問コーナーの収束に待ったをかけた。
 「そもそも、資金はどこからでているのですか?面接官は野崎先生、貴方だけなのでしょうか?」
 「資金は私の依頼人から出ています。私の依頼人は、是非この資金で、非常に価値のある、この研究目的を達成してくれ、と仰っており、私に一任されました。ですから、面接官および審査官は私だけです。どうぞご心配なく」
 「ちょっと待ってください。研究目的がすでにあるってことは、遂行すべき研究内容は決まっているんですか?」
 「そうです。研究テーマはこちらから強制的に与えます。そもそも、どこぞの審査でもよく行われているように、あなた方にこちらが求めているモノを予測してもらって、プレゼンという大義名分のもと、あなた方がその予測に対してあたかも本当に興味を持っているかのような演技をわざわざしてもらって、その予測と演技を観察することで、私ども年上の人間があなた方の上位互換になれているかどうかを確認する、なんて審査方法、まどろっこしいし、時間の無駄でしょう?だいいち、誰が、学推も取れない、論文も一本も書いてない、博士課程進学予定者と名前がついている、ただの社会不適合者たちが提案する研究内容に、無制限の研究費を渡すと思うんですか?」
 「え?研究費は無制限なんですか?」
 途中までかなりムカついて訊いていたが、最後の言葉が意外すぎて俺は思わず声をだしてしまった。
 「あれ?募集に書きませんでしたっけ?そうか。ポケットマネーの額は書いたけど、研究費は書かなかったのか。まぁ私を通さなくちゃいけませんが、事実上無制限ですよ」
 そんなプロジェクト、他に聞いたこと無い。どんなに大御所の教授でも無制限と言うことは無いはずだ。すると、しばらく黙っていた斉藤が話し始めた。
 「私、確かに自分には能力が足りないとは思いますけど、自分で主体的に研究できないなら、この話からは降ります。そもそも野崎先生は博士号を持っていないじゃないですか?」
 「勇み足は危険ですよ。最後まで話をしましょうよ」
 「でも!」
 「まぁまぁ、とりあえず待ってくださいよ。ところで、あなた方の研究の目的はなんですか?戸山さんから訊いてみようかな」
 いきなり自分に話をふられたので、びくっとしながら俺は答えた。
 「えーっと、大腸菌の分裂に関するタンパク質でMinファミリーと呼ばれる一連のタンパク質があるんですけど、それらの遺伝子の欠損株で・・・」
 「待って」
 「はい?」
 「細かいことはどうでもいい。貴方の研究テーマに私はいっさい興味ないから。意味も無いと思うし。そうじゃなくって、どうして博士まで行って研究したいの?ってことを普通に教えてください」
 研究の目的、と言った場合、研究内容の詳しい説明をするのが普通だと思うが、本格的に、なんなんだ?こいつ。待て待て、落ち着け、俺。こいつは煽っているだけだ。これはあくまで面接。怒ってはいけない。
 「わかりました。僕のモチベーションをお話しさせていただきます。僕の所属している渡辺研究室では、古典的な分子生物学の手法だけでなく、生物物理学的な視点で生命を観察してタンパク質の性質を明らかにすることが、僕にとって非常に斬新で・・・」
 「ダウト!」
 今までそっぽ向いて話していた野崎が、急にこちらを見つめ、人差し指で俺を指しながらそう言ってきた。他の2人も驚いている様子だ。さらに、口調をがらりと変えて野崎は続けた。
 「私が突然予想外のことを喋りだして、答えなくてはいけなくなってから約1.5秒間。右側をチラ見して私の足のあたりを見ながら話し始めた。君は嘘をついている可能性が高い」
 野崎の言う通り、生物物理学的な視点が俺にとって斬新だ、なんて確かに嘘だ。だが、そういう場だろ?興味あるフリをする場だろ?それとも、もしかして、取り繕う場ではないのか?野崎はまた自分の腕時計のベルトのあたりをいじりはじめた。
 「私が訊いているのは、君の本当の進学理由や進学目的だ。博士号取得者の8%は死亡または行方不明、という有名な文章もネットに出回っている。それなのに君は博士課程に行こうとしているんだろう?それを踏まえた上で、もう一度答えてもらおう」
 こうなったら一か八か。
 「そうですね。まぁなんというか。環境ですかね。うち、姉も博士課程に在籍していまして・・・」
 「なるほど。わかりました。最初からそうやって答えてくれれば良いんですよ。私は貴方の能力や貴方が興味を持っていると言っていることに対して、まったく関心は無いんですから。次は吉岡くんですね。貴方は酵母を使って研究してるんですね。まぁ当然、そんなこともどうでもいいですが」
 おい、野崎、待て。俺はまだ答え終わっていないぞ?それだけで何がわかったというのだ?俺の気持ちを無視して吉岡は答えた。
 「僕は死ぬのが怖いんです。だから生命の研究を選びました」
 「おお。まともな理由だねぇ」
 「死ぬのが怖くて仕方ない。だから身体を鍛えることと生命の神秘を探究することの2つを選んできました。でも生物系の研究って、タンパク質の性質を解明するだけで、とてもじゃないけど生命の神秘までたどり着く気はしません。そう思って最近は物理を少しずつ勉強していますが・・・」
 この筋肉質の男が、死ぬのが怖いだと?予想に反してまっすぐなモチベーションで、俺はちょっとビックリした。
 「オーケー。わかった。まぁ、斉藤さんは、別に答えなくていいや」
 「な、なんでですか?!」
 「君の研究テーマはゲルの有機合成か。新しいゲルを作ることに理学的な意味なんてないでしょうし。どーせ、両親ともに博士号持っててアカポスだから、自分も、ってだけですよね?」
 斉藤は何も言わなかった。俺は流石に苛立ちが抑えきれなくなって野崎に言い返した。
 「野崎さん、いいかげんにしてください!俺たちは選ばれているはずなのに、なんでそんなに他人の研究を『興味がない、価値がない』って言いまくるんですか?僕らは僕らなりに、誰もまだ知らないことに対して挑戦して邁進しようとしているんです!」

 「じゃぁ」と野崎が切り出し、
 「少しは能力も試されてみる?」
 「望むところです」
 「そこにさ、ホワイトボードがあるから、ちょっと計算してみてもらっていいですか?私の専門は数学ですから、数学の問題にします。といっても、簡単ですから安心してください。そうですねぇ、何が良いかなぁ。そうだ。では、dx / sin xを不定積分してください。とっても簡単でしょ?面倒だから3人協力でいいよ」
 俺は背筋が凍った。これはランダウが自動車事故で意識を取り戻してすぐに、自分の息子に出した問題だ。結末が読めてしまう。大学院入試以来、こういう緊張感があっただろうか?理論研の大学院生だったら、もしかしたらこの類いの緊張感は日常的にあるのかもしれない。でも、この簡単な問題でこのシチュエーション、まさか高校生ができる問題が自分にできないかもしれないことを認められない。他の誰か、できないのか?きっとできないだろう。吉岡は物理をやりはじめたばかり。斉藤さんの専門はおそらく化学だ。あたふたしている俺を見かねてか、冷酷に野崎は言葉をかける。
 「どうしたんですか?早く立ってホワイトボードまでいって、書いてください。日本の理系大学院生なら誰でもできるでしょう?」
 無理だ。たしかtan (x/2) = tとおけば、あらゆる三角関数で表された関数を積分できたはずだが、sinがどうなるかcosがどうなるか、dt/dxがどうなるか、忘れてしまっている。
 「はい、時間切れ。私のわりに、今日は結構待ったよ?こんなの、分母と分子にsin xかけて、部分分数分解するだけでしょ」
 俺は物理学科出身なのに、こんな積分ももうできなくなっているのか。ぐうの音もでない。だが、言い返さないといられない俺は、とにかく言葉を探してみる。
 「受験の頃はできましたよ。それに、こんなテクニカルな積分、僕の分野ではできなくても問題ないです」
 「戸山くん。君はさっき、誰も未だわかっていないことを自分なりに邁進しようとしている、と言いましたよね?誰も知らないことをやるんだから、人類がマスターしてる基本的な技能はある程度はすべからくできなくちゃ、それが達成される確率は極端に下がることはわかるよね?それもさ、私は何も大学専門課程の内容を訊いたわけじゃないよ?高校数学の内容だよ?」
 わかっているさ。でも、そういう環境じゃないんだ、大学院って場所は。
 「こんな問題もできなくて、どうするんだ、君たちは」
 ほら。やっぱり、ランダウの息子と同様に、こうやって言われる。野崎はまだ言葉を止めない。
 「特に戸山くん。表情から察するに、君はこの問題がランダウの出した問題だって知ってたよね?歴史的な事実だけを表面的にお話だけ知っていて、肝心の中身を自分が本当にできるかどうかチェックしていない。お話だけ沢山訊いて、自分で理解した気になって、自分は知っているから!と、薄っぺらい知識の多さを理由に、自分以外のすべての人間を心の底でバカにし続けている。その態度は、dx / sin xの積分ができないこと以上に、研究者を志すのなら、致命的なんじゃないか?」
 「今の時代に、そんな単純な積分、検索すればいくらでも出てきますよ!」
 俺は言葉を振り絞った。そうだ!俺たちは検索しなかっただけだ。
 「じゃぁ、検索すれば良かったんじゃないですか?スマートフォン持っているんでしょ?」
 「それをしていいか、僕たちはわかりませんでした」
 「じゃあ、私に確認すれば良かったでしょう?その反論はおかしいです。おそらく君は、実際にとにかく答えを引きずり出してきてやるという気持ちよりも、こんな問題くらいで検索してしまうのは恥ずかしいという気持ちのほうが、勝ってしまったのでしょう。違いますか?」
 確かにその通りだ。自分のちっぽけなプライドが許さなかっただけだ。検索してしまえば良かった。そうすれば少なくとも積和の公式から求められた。
 「でもまぁ、これが実際にできなかったのは、あなた達の責任ではないんですけどね。なるほど、適度に研究業界に怒りがあり、適度に無能。私が指示を出しやすそうです。わかりました、とりあえず、こちらとしては、皆さんは合格です」
 え?これだけ恥をさらされて、合格は合格なのかよ。おい。よくわからないぞ、説明しろ。っと思っていると、野崎が予想外の言動にでた。
 「先ほども言った通り、研究費は無制限に出ますし、年2000万円の支給はお約束します。私からテーマを設けて、皆さんには4月から私が指示する共同研究先で研究していただきます。皆さんは全員そのまま今の研究室に所属する予定なわけですが、私が新たに与えるテーマを博士課程のテーマとしても良いですし、今の指導教員と話し合ってテーマを複数持つことも良いでしょう。ただし、このRC制度を通じて皆さんが思考することは殆どありません。私が指示を出すことが多くなってしまうでしょうから。それでも良いのなら、ここに1000万円が入ったスーツケースが3つありますので、1人1つ受け取ってください。もう1000万円に関しましては、出来高払いになります」
 なんだと?今日合否が出て、しかもお金はキャッシュなのか!!なんてイレギュラーなやり方なんだ。ただビックリしていると、斉藤さんが立ち上がった。
 「私、帰ります。研究ができないなら意味が無いですから。お金で揺らぐような野蛮な研究者になりたくないですし」
 そう言い残すと、斉藤さんは部屋から出て行った。あっという間だった。すると野崎が立ち上がり、正面を見つめて言葉をかけてきた。
 「さて、戸山さんと吉岡さんはどうされますか?」
 俺は悩んだ。話の筋は大方通っているし、怪しくはない。野崎はムカつくが、それなりに経験もあるのだろうし、賢さを漂わせている。野崎は確かバークレー工科大学出身だったはずだ。こいつの思考力を間近で見られるのは貴重な経験だろう。それに、おそらく金持ちであろう斉藤さんが、「金で揺らぐような野蛮な」と言ったのが気になる。それは金持ちの意見だ。金が無い一般人である俺には、金は重要だ。と思っていると、吉岡が突然声をあげた。
 「僕、やります」
 「ありがとう。よろしくね。で、戸山さんはどうしますか?」
 「わかりました、僕もやります」
 「それでは決定ですね。わかりました、ではスーツケースをお持ちください。それから、これが交通費です。斉藤さんにも渡さなくちゃいけないな。いいですか、スーツケースのなかは大金ですから、まずは必ず家に直行してください。とりあえず家に持って帰って、それから銀行に預けるなり、ちょっとずつ財布に入れて使うなりしてください。では、お気をつけて、各自、お家まで帰ってくださいね。あ、それと、今日はあくまで内定ということで。正式には3月にまた集まっていただくと思います。それまでこの件はSNSではもちろんのこと、友人や、なるべくならご家族にも内密に。では」
 野崎はそう言って、自ら部屋を出た。俺と吉岡もビルから出て、大崎駅へ向かった。

 吉岡は無口だ。一緒に歩いているのに殆ど何も喋らなかった。せいぜい、都王大と帝工大の立地条件の話とか、そんなもんだった。吉岡はそのまま目黒まで歩くらしい。大崎駅まで行く途中で別れた。しかし変な話だった。変なヤツが、変な提案をして、恥をかかされて、いきなり現金を渡された。現金だ!今、俺は1000万円手にしている。やった!これは学推に落ちたことなんて、比にならないくらい嬉しいことだ。空も青く感じる。晴れやかだ。早く帰ろう。早く帰って、このことをとりあえず彼女の香奈に話してやろう。これで俺が将来性は抜群であることを認識させられるだろう。村川にも話そう。これで俺と村川は対等さを保てるかもしれない。
 しかし良いことは長くは続かなかった。後ろから何者かにいきなり肩を叩かれたと思ったら、思いっきり倒されてしまった。なんだ?俺は一瞬何が起きたのか分からなかった。
 「おい、そのスーツケース、よこせよ」

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2. 野崎の目的/『研究コントローラー』につづく
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