たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「わかりやすく説明するべきだ」の行きつく先

2016-01-31 03:25:43 | Weblog
 何かの説明を聞いて自分が理解できなかったときに、「もっとわかりやすく説明するべきだ!」と、わざわざ自分に説明してくれた相手に対して責任を押し付けるような露骨なバカが肯定化されているのが、今の世の中の現状である。

 特に理系に関して言えば、「わかりやすく説明する」ということを自分にだけ課している理系はイイが、(相手がどんな立場であれ)他人にこれを要求してしまう理系は最低最悪だ。
 なぜなら、理系というのは、個々人の能力によって事実をありのままにとことん見尽くせる、ということにこそ価値がある。相手の言っていることが、たとえものすごくわかりにくいまどろっこしい内容を含んでいたとしても、自分でそれを客観的に把握でき、正当性があるかどうかを判断できるのが、理系の存在意義。それを怠っている習慣がある理系が、理系と名乗るのは詐欺にすら近い。ある事象に対して、レベルが高すぎるがために、それが能力的にできないのなら、何も恥じることはない、自分にはその能力がありません、とはっきり言うべきなのだ。
 これができない無駄にプライドが高い人ほど、自分の研究内容や専攻内容を説明するときに、「分野」で逃げる。「違う分野だから、あなたにはわからないのだ」と。わかりにくくても構わないが、原理的にわかるかどうか、というのは、ものすごく大切だ。

 だから、誰かの話を聞いて、意味わかんねー、と思ったときに、コメントする方法は大きく二つにわかれる。
 「私がもっと勉強します」か、「原理的にわかるように説明してもらえますか?」か、どちらかだ。「原理的にわからない」というのと「わかりにくい」というのは全然違う。本当に「わかりにくい」だけなら、それはあなたが自分の能力で解釈するべきなのである。少なくとも、理系で博士号を持っているなら、なおさら。
 ここで、前提知識について、疑問に思うだろう。原理的にわかる、その前提となる個々人の知識は何なのか?と。これは何度も言ってるが、少なくとも、理系の話に関していうなら、前提知識は、高校の理科と高校の数学である。高卒だよね?みんな。これは最低ライン。もちろん、高校の内容だけだと、ベクトルを面積分することすらできないわけだが、それだけで話そのものがフォローできなくなってしまうのなら、それは「原理的にわかるか?わからないか?」という点で問題、ということが多いのだと思う。

 まぁ高校の内容だけだと、確かに、、それだけだと大学以降の数学に関してはかなり難しいし、コアな研究分野もたくさんあるから、前提知識っのは、うーん、なんとも手っ取り早い誤魔化しのための表現なのよね。ただ、高校の内容ってのは(文科省が決めてるわりには)良い基準で、本当に最低ラインで、それだけでいいとは思わないけど、まずはそれがなけりゃ、何も言えないとは思います。

 自分がわからないことに関して、人は無価値だと思ってしまう性質がある。本当は理解するだけの能力がないから判断できないのに、自分がわからないことに関しては、「細かいこと」「どうでもいいこと」「好きな人間が勝手にやっていればいい」と決め付け、だから上から「わかりやすく説明しろよ」とドヤ顔で宣言できてしまい、ある程度まともな理系でも「分野が違うから」と流してしまうことは多い。そして、その程度の人間が、他人を偉そうに「評価」している。
 理系の社会では、これらが蔓延していて、だから、それぞれの分野の閉鎖的な社会を促進させてしまう。だから誰も現状をちゃんと観ようとしない。あれだけ研究業界を騒がせた話題についての当事者が出版する本に関して、研究の現場にいる人間が、読んでみようともせずに、みんなが決めた「わかりやすい」結論として、そのたった1人の人間を無能だと決めつけておけば安全だ、と思っている。それで「理系」なのだろうか?もしネタにしたことがあるなら、その程度には興味はあるわけだろうぅ?事実をありのままに観てみよう、得られる情報はすべて見ておこう、そのうえで真偽を判断しよう、という精神があまりにも足りなさすぎるのではないだろうか?(正直、高い!、というのはあるのだけども笑)

 「わかりやすく説明するべきだ」という他人任せな態度の行きつく先こそが、あの事件なのではないだろうか?

 さらに困ったことに、評価に不満を述べる多くの人達が、そのような(不純さを含む)彼らから正しく評価されることを切に願っているという矛盾を抱えている。評価が不純である現状に不満を漏らしながら、その彼らに評価されていないと、不安になってしまう矛盾さを抱えている。
 この矛盾は実に奇妙で、実に面白く、直視しなければいけない事実だと思う。

 矛盾していることが悪いことでもない。ただ、常に、自分自身が矛盾しているという事実から、目をそらしてはいけない、というだけである。
 矛盾していない人などいないのだから。そこにわかりやすさなど存在していない。

 事実から目をそむけず、かといって希望を捨てずに、それらの不条理を味わいつくそう!
 それは辛いことのように見えて、結局はいつも、それこそが楽しいことに繋がっているのだと俺は思っている。
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出しかけた答え

2016-01-25 02:07:28 | Weblog
 相手のよくない行動を事前に予測して、先手を打つように、その予測と同じような行動をしてしまうことで自分を守ろうとする弱さは、系の崩壊を加速させる。
 「別れたい」って言われそうだから「別れよう」と言ったり、いじめられそうだから先にいじめてみたり、バカにされる前にバカにしてみたり、そういう行動は何かの物事を創らないのだ。

 論理を使うにしても直観を使うにしても感情を使うにしても、何かの気持ちを素早く正確に見抜き、次に起こるであろうことが予測できてしまうときに、それが自分の理想とはかけ離れた現実としてはじき出されたならば、しなければならないことは、その見たくもない事実をそのまま受け止めることだと思う。
 つまり、勝手に解釈したうえで次の行動で先手を打って傷つくのではなくて、その事実のみを口にすることで次の相手の行動を待つことが大事だと思うのだ。

 こういう訓練をしていく過程で、たいていの場合、「考えすぎないようにするべきだ」とか、その事実を公言すると「正論が必ずしも正しいわけじゃない。もっと他人の気持ちも考えろよ」とか、自分の大前提の論理を語れば「純粋すぎる」とかの、一見考えていそうで一見優しそうな定型文を呆れ返るほど言われるわけである。
 構造を理解するうえで、世界を単純な善と悪に分けてしまい、それを大前提で物事を考えていく人間が大多数派であるのだから、適度に考えないことや正論を言わないことや不純な結果主義で臨めば、確かに世の中を渡っていくうえで無難にやり過ごせてしまう。
 現実的な状況と他人の気持ちを考えまくって、決まり切った正論すら疑いながら、もっと精緻な論理体系を築いたうえで、それらを実行し、あくまで他人のことを常に考えまくった純粋さを貫くことは、かなり多くの場合で、無駄な行為であり、社会的な評価が得られないばかりか、一番大切な人からも疎まれる。

 不純なほうが成功するというのは世の常だ。複数の人にアプローチをかけたほうが成就しやすいし、いじめは見て観ぬフリをしたほうがラクだし、自分の興味を試験範囲で無理矢理止めて行き当たりばったりの暗記を繰り返すほうが受験では強いだろう。
 あらゆる面で気持ちを純粋さから不純さに移行させて、短絡的な結果主義に身を任せ、純粋さが一番集中した部分を体現させることの失敗をまっさきに「別にいいさ」と繰り返していると、みるみる状況が改善していき、評価上は明るくなっていくことを感じる。
 すると、この世に楽しみなんて何もないんじゃないかという気持ちになる。生きている意味がないな、と。

 最初から成り立つ価値観の共有、、何かの物理的な一致こそがホンモノであると定義しなおすことで、ラクに言葉が得られ、その先の即物的な業績が生きる糧に、、いや、そのようなくだらない業績がないとこの世を生きていくことはできないのだとしたら、生きていかないほうがいい。ダルく、無関心で、何もしないで、ただただ生物学的に生きていくのが至上なのだ。

 そう書き切ってみたときに、「いや、それだけではないだろう…」と、極僅かながらの反論の気持ちが出てくる。
 圧倒的な自然現象の中で、これほどまでに、純粋さというのは小さい。その純粋さの小さな小さな存在を認めることくらいしか、今はできないのかもしれないね。

【女性が歌う】ヒロイン/back number (Full Cover by Kobasolo & 杏沙子)
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博士号に値する能力

2016-01-22 00:42:48 | 自然科学の研究
 さて学位審査の時期で、学位について色々考えることが多いので、今日はそういうことを書いてみようかなぁと思います。
 なんつっても、学位の審査って、ちゃんとしてんの?、って思うことはものすごく多いです。特に例の事件以降、そういう議論は腐るほどありますよね。まぁ確かに、少なくとも分野や研究科や専攻によりすぎるのよね、基準が。俺の周囲で「博士号って審査員の感情で決まるのか!」と言った人もいますし(ホントかウソかは別として、そういう意見があるのは事実)。

 というわけで、今日は、主に「理系の博士号」ってのは、こういうことができる人のことだ!、ということの理想を、博士号取り立ての若造が生意気に述べようと思います。理想を述べますので、かなーり厳しい内容になります。「お前、博士号持ってるんだろ?それら、ちゃんと全部できるの?」うーん、どうでしょう??できていたい。少なくとも、頭の中の自分としてはできている、と言いたい(笑)。

 いきなり博士号の話をしても何なんで、学士から述べます。で、修士、博士、と述べていきます。当然、修士号取得者は学士を、博士号取得者は修士と学士の学位を持っていると思いますので、理系の博士号取得者については以下に述べる能力のすべてができることが理想だと俺は思っています。
 ちなみに高卒の能力ってのもありますが、例えば「特別活動」の目標を俺なりに要約すると、「教員が見ていれば生徒たちだけでちゃんとできる!」とかなので、まぁ、これは大丈夫よね?逆にこれしかできていない研究室が、、ないと言えるでしょうか?笑


 <理系の学士号に値する能力>

 1.どんな学問分野でも学習することができる

 学士って、一言で言ってしまえば、「お勉強のスペシャリスト」みたいな感じだと思うんですよね。なので、自分の専門以外の分野についてでも、何についてでも勉強し始められるってのは必要な能力だと思います。
 大学ってのはそもそもこういう人間を輩出する機関なはずで、オールマイティかそれになれるだけのポテンシャルを秘めている人が大卒かなぁと思います。最初っから厳しい?(笑)

 だからといって、他人を頼っちゃいけないというわけじゃありません。この分野については専門家の正しい教育が必要だ!だから、誰かに指導をお願いしよう!という判断ができることが、まさに学士の能力として求められることだと思います。
 このことに関してだけは、理系も文系も同じ。

 2.高校理科と高校数学がある程度完璧で、しかもそれらを使いこなせる

 理系の学士ってことは、理学か工学か医学か農学か薬学でしょ?まぁ、高校の理数系の科目くらいは完璧であってほしいよね。
 物理学科なんでモル計算できません!、化学系なんで積分はできません!、生物系なんで統計は苦手です、みたいなのって、イイワケにならないでしょ。
 ただ、そんなに厳しいことは言ってないはずで、高校の内容だったら、本や参考書をパラパラめくって思い出せればそれでいいと思うのよね。学士なら。だから、必要な本をもってこれて、あー、こうやって計算するんだったー、こうやって理解するんだったー、こーいう用語あったあったー、であれば、オッケー。

 地学もですか?もちろん。『じゃぁ、ハドレー循環ってなんだっけ?』『残留磁気、説明して』『ミー散乱って、どんなんだっけ?』どう?できそう??笑
 あー、(地学がとてもよくできる彼に)怒られそう。。

 ちなみに、この能力は、俺が誰かと共同研究するうえで、能力としては、唯一にして一番みるポイントです。なので万に一つ、天地がひっくり返って、今後、俺が研究室を主催することになどなったなら、このポイントだけは、めちゃくちゃ冷酷にみながら、採用したり大学院生をとったりすると思います。
 この基礎がしっかりしてないと、研究として、何事も始まりません。博士号取得者でこれが不安な人は、今すぐにすべての仕事を止めて、まずはこれだけをしっかりとさせるべきです(今日は理想を語るんですから厳しいですよ?笑)。

 3.人類で初めてのことを見つけ出したことがある、もしくは、最先端の事柄を自分なりにまとめた経験がある

 大学って、良くも悪くも論文書いて卒業するところですよね。なので、これは卒論のことです。
 で、数学科や物理学科の理論研は、「論文の再現」で1年間終わってしまうこともあるので、まぁ、そのぶん内容が難しいから、イイんかなぁという意味で「もしくは」以降をつけました。例えば極端な話、超ひも理論とかくらい難しい事柄については、きちんとレビューできるだけで博士号に値するんかなぁと俺は思っています。それを理解している人そのものが稀少なので、何かを発見した貢献が(他の分野に比べて)少なくても、それだけで十分、ってことはあると思っています。そら、あるタンパク質のファミリーをレビューできることと、超ひも理論をレビューできることは、全然レベルが違うわな。

 例えば、枚挙的な価値観の研究者のなかで「人類で初めてのこと」ってことに対して、ものすごく価値があるように言う人がいますけど、、いや、でも、「今日、東京は雨だ!世界で初めて自分が事実を見つけた!」ってことを軸に論文は書けないですよね?博士号や修士号ではこれではもちろんダメです。
 ただ、学部の卒論は、超極端な話、そのレベルでもいい気がします。だから文系のアンケート卒論が認められているわけで。。そのレベルで体裁が整った論文が書けるなら、十分に学士に値します。まぁ、(銅鉄的な)こういう超くだらないことでも、原著論文にしちゃうと、その後の学振とかに効いてくるから、なかなかに厄介なんだけどね。結果だけありゃいいのかよ、みたいな。

 でも、とりあえず、学士における研究の能力はこれかなぁと。とりあえずの体裁は整えられる。これはそれなりには大事なことです。

 <理系の修士号に値する能力>

 4.研究進捗において、常に、「次は何をやるべきか?」がわかり、研究のストーリー構成を自分で作れる

 修士号ってのは、一言で言ってしまえば、「研究できる人の称号」のことだと俺は思っています。
 なので、修士課程の間に、何かのキッカケさえ与えられていれば、自分で研究していき、(逆説的にでも)自分のテーマはこれだ!と思えることが大切だと思います。で、それを2年間の間に、(日本語や英語で)しっかりとまとめるということができる人が修士号に値します。

 逆に言うと、(一部、理論や数学の分野を除き)修士の研究というのは原著論文レベルでなくてはいけません。もちろん、指導教員やその他の環境によって、すぐに論文になったりならなかったり、時間的な運不運はあるかと思いますが、基本的には、原理的に原著論文になりえないような修士論文を提出してきたM2は、審査で落とすべきだと思います。

 だから例えば、博士論文で自分の修士論文の内容を一部含む、なんていうのは、もってのほか。博士論文は博士論文。修士論文は修士論文です。修士のテーマの続きをやるってのは話はまだわかりますが(それも俺は良いとは思っていません)、修士のときの結果を博士論文の結果に含んではいけないですよね。あと、同じようなテーマで何人も修士号を取らせている研究室も見かけ(る気がし)ますが、そんなんも絶対にダメです。
 というわけで、修士課程のときに研究がまとまっていない人は、「博士課程に来てはいけません」とか甘い話ではなくて、そもそも修士号に値しないっと俺は思っています。

 5.自分と同じ分野であれば、サイエンティフィックな議論に参加できる

 ま、簡単に言えば、研究室内のゼミで殆ど喋らない人は、修士号に値しませんよ、ってこと。研究者ってのはお互いに意見を戦わせるためにいるので、戦えない人は研究できない人ですから、この能力は修士号として必須です。
 これはキャラクターも含めて、です。だから、自分は人見知りなんでー、そういうタイプじゃないんでー、シャイなんでー、とかはイイワケになりません。だってそんなに意見ないですしー、んなわけねーだろ。本当に無いなら、それこそ修士号に値しないだろ。

 ただこれができない修士号取得者は、本人の問題と言うよりは、だいたいは指導側の問題であるケースがほとんどです。指導者が、これをしやすい環境セッティングをまったくしてきていないことも、かなりのケースで多いと思います。

 <理系の博士号に値する能力>

 6.新しい価値観、新しい分野を提案できる

 時代とともに物事は変わってしまいますが、それでも、博士号ってのを、むりやりに一言で言ってしまえば、これに尽きるかなと。
 これはサイエンティフィックな事柄だけに限らず、制度やシステムに対してもそうで、だから、博士ってのは、常に誰かと意見を戦わせているソルジャーじゃないといけないと思います。そんなん本気でやってたら疲れてしまいますが。

 だから、博士の審査が無難に終わるってのは本来ありえないことだし、だって新しい価値観を既存の分野の専門家たちにぶつけるわけだから、そら、もめて然るべきだろうと。まぁもちろんみんな、無難に終わりたいだろうけど。
 なので、博士論文が、この分野はすでにありきですよねー、みたいな前提で満ち溢れている書き出しであったら、それは博士論文としては失格なのだと思います。新しい価値観や新しい分野を「いや、これ絶対に必要でしょ?」ってドヤ顔で提案できるってのは、それまでのあらゆる分野に対してある一定の理解をしていないといけないですよね。あらゆる価値観、極端に言えば社会科学や人文と比べて、自分が提案する新しい価値観は、どれほどの影響力があるか?ということを主張できなくてはいけません。かなり広いことから書き出して、俺が提案する新しい分野は超価値があるから!、ってやらないと、それは博士論文じゃないだろ、っというのが俺の意見です。

 その姿はとても滑稽なはずです。そして、この滑稽さを享受できるかどうか、ってのが、博士号に値するのだと思います。
 「博士はカッコ悪い!でもカッコイイ!」みたいな(笑)

 7.どんな場であっても、自分の意見を主張することができる

 国際学会であっても、自分は場違いな場であっても、自分の意見を(日本語や英語やその他の言語で)主張できなくてはいけません。
 調和を求めまくって、なるべく他人とぶつからないように努める、なんていうのは博士号取得者としては怠惰な態度です。(よく勘違いされますが)俺も人と争うのは、まったく全然さらさらもーとーこれっぽっちも、好きではありませんが、争うのがある程度は平常運転にはならなくてはいけないとは思っています。

 意見を戦わすためにいるわけですから、研究者は。それができない人、相手によって意見を抑えてしまう人は、博士には値しないんじゃないかなぁと俺は思います。
 「意見における戦闘民族」それが博士号なんじゃないかなぁと。…と、実は自分の意見があまりない、俺が言うのもなんですが。

 8.研究室を運営できる程度のコミュニケーション能力と演技力

 研究室主催者における称号って無いので、博士号に委ねられてしまいますが、だとすれば、これは必須になってしまうのかなぁと。
 あんまりコミュニケーション能力という言葉そのものは好きじゃありませんが、やっぱり、何かを一緒にやっていったり、学生さんやポスドクに対して音頭をとる人が主催者なのだとしたら、最低限のコミュニケーション能力は必要ですよね。

 そして、ムカつくヤツが学生でいたとしても、それを億尾にもださない演技力も大切だと思います。まぁ教員は審査のとき以外は商売ですから。


 8項目、博士号に値する能力を挙げてみました。うーん、挙げてみて思ったけど、、博士って、たいした称号じゃねーな、と。
 こんなことよりも、もっともっとはるかに大事なことは、他にたくさんたくさんあります。

 日本では、多くの理系の大学院の博士課程において、博士号取得には、自分が筆頭著者である原著論文を要求してきます。
 これは裏を返すと、審査側が、自分たちできちんと、この博士論文を提出したこの人は博士号に値するか?ということを、自分たちの責任でもって考えまくって審査していない可能性が高いのではないだろうか?、ということだと思います。この国には、博士か否かの審査を海外に委ねて、自分たちでは判断できない研究者しかいない、ということなのかもしれません。

 というわけなので、その程度のことで、悩んだり、論文出さなくちゃ!と焦ったり、そのためにあまりにもくだらない原著論文を無理矢理に書いたり、ましてや、不正をしなくてもイイということ。
 だからといって、目の前に存在している不条理な現状をそのままにしていてはいけないと思うが、、それは、俺だけが背負えばいい事柄なのだと思う。

 外は違うはずだ!と思って、外の世界へ飛び出し、ここ数年、外の世界を観てきたはずが、意外とおかしいのは外の世界のほうなのかもしれない、と思ってきている。こういうことは多々ある。
 だが、少なくとも教育というのは、圧倒的な崖を上から「ほら、登って来いよ?それじゃあ博士号に値しないぞ?」とやることではないし、かといって「ここにエスカレーターがあるから、これにただ乗っかっててね。で、このエスカレーターに乗るからには、僕の言うこと絶対にきいてね。文句言うことは許さないから」とやることでもない。これらの偽教育は、マジで優秀な人間を、たったの3年間や4年間や5年間でダメダメにする。ロッククライミングができるような足場を教えることが教育なのだから、、やっぱり今、多くの現場では、おかしいのだ。

 そして、そのおかしさにたいして、俺は新しい提案を仕掛けているのだと思う。
 それは俺が博士号を取得しているから、というわけではなくって、、ただ単純に…。。
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混乱期の訪れ

2016-01-18 02:14:58 | Weblog
 何かの改善点や何かの理想を語ると必ず言われるのは「そんなにすぐには変わらないよ」という言葉。
 確かにその通りで、何事もそんなにすぐには変わらない。その要因は、今得をしている人間が今の権力を行使して今のままであり続けようとする力が働くためである。

 だが、そんな方法で安泰の世を形成していれば、いずれは混乱期がやってくる。時間が進むごとに今得をしている影の権威者が無能になっていくからだ。世代がそうなることもあるし、一個人がそうなることもある。それは常に歴史の流れがそうなっている。
 影の権威者はキャッチーな言葉で制度の平和的な部分を表面的に謳う。「平等なのだ!」と。あるタイミングで突然に平等の軸を切ってしまうことで、本質的な不平等をみかけの平等に化けさせるのだ。

 というわけで、だんだん混乱期に入ってきているのかなぁと思う今日この頃。

 コントロールしようとする人間が考えることはいくつかある。まずは、対象を忙しくさせて思考力を低減させること。次に、そのなかでヒエラルキーを作ること。そして、競争と称して内乱を起こさせること。これまでの政治、新興宗教、団体などが行ってきているのは、だいたいこんな感じだと思う。
 うーん、だから、とにかく論文や申請書を書かせて忙しくさせて、それでIFや低賃金のポストなどでヒエラルキーを作って、若手どーしで仲たがいしているようじゃ、コントロールしようとしている人たちの思うがままなのよね。だから、とにかく手を動かす!みたいな価値観を、とにかく停止させて、まず制度に関心を持ってみないと、いつまでたっても、その奴隷的な研究の身分から解き放たれないのだ。
 「文句言ってないで、とにかく一本でも多く早く論文がでるように、手を動かさなくちゃ」とドヤ顔で俺に言ってくる人を見ると、俺はむしろ憐れんでしまう。いや、そんなにも、奴隷でいること推奨主義、ですか?、みたいな。

 と、、このブログを読んでいるみんなを、論文至上主義から目覚めさせる洗脳をしておいて、ライバルが減速したところを狙って、俺はたくさん、論文を書くぞー(笑)←ウソです

 たぶん正解は、くだらないことに一生懸命にならないこと。てきとーに付き合って、結果を残すために!って一生懸命になりすぎずに、自分の本当の興味に対して一生懸命になること。
 それが希望を見出し続けるコツだと思う。これだと、不純すぎるかな?

 この方針に立っていれば、予想外にすぐに変わるし、どんな混乱期も乗り切れる、、と思う。

参考動画

『神野の世界史劇場』付属CD全公開!(003 / 106) 第一次アーリア民族の大移動 (参考は最初~07:20頃)


『神野の世界史劇場』付属CD全公開!(016 / 106) ペリクレス時代 (参考は03:20~最後)
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「惚れたもん負け」と「惚れたもん勝ち」

2016-01-15 00:38:25 | Weblog
 人が冷酷になって何かを選び出すときに使う能力は、思考と直観の2つ。
 思考は論理によって言葉として理解できる。一方で直観は、サイエンティフィックでないもののように感じるかもしれないが、経験則を論理化せずに適応しているだけなので、(再現性という意味で)実はものすごくサイエンスだ。そして、当然のことながら、直観の精度を高めるためには、論理を使うときに比べて、データ数がものを言うのだ。
 ビッグデータから論理を使わずに、関連させていったり、認識させていったりしていくのは、まさに、機械学習が行っていることである。ただし、機械は一個人よりもデータ数が圧倒的に多いので、人が直観を働かせるよりも、遥かに正確であるというだけである。

 とにかく何かを判断させるのであれば、機械にやらせたほうが絶対に正確だ、ということが当たり前の時代になってしまうだろう。そこに説明が必要だったりするときは、言語化するために思考力が高い人間が必要なことはあるかもしれないが、たいていのことはただ判断すればいいので、人が冷酷になる瞬間というのは、これからの時代、非常に限られたシーンになってくるのかもしれない。
 冷酷になる、っていうのは、言い換えれば、気持ちに多様性がなくなるということだ。目的のために冷酷、っていうのは、とてもロボット的に感じるかもしれないが、実はそうではなくて、その目的を達成したいという気持ち以外の気持ちを排除する行為を冷酷と呼ぶのだから、気持ちそのものは存在するわけで(ロボットはそれすらない)、これはこれで人の一側面である。だから、気持ちのベースになってくる価値観というものは、まだまだ(少なくとも俺らが生きてる間くらいは)人がオリジナルでできる、非常にヒトらしいことだと思う。もしかしたら、それこそが「生命らしい」ということなのかもしれない。

 ところで、何かを判断するときの「何か」について時間依存性を加味することがほとんどであり、思考力をもってしても、あまりに不確定要素や攪乱要素が多すぎるために、あんまりアテにならない。だから、「考えすぎだよ」と、まるでそのほうが考えているかのような意見が流行るわけで、だから、サイエンスの中のことであっても「分野が違うし、そんなことまで考えても仕方ないじゃん」というような、自らの思考力の低さを肯定化する発言を好む研究者が(それなりの割合で)いたりするわけである。
 確かに、これから買おうとしている服を何年着るかなんてわからないし、これから何年日本にいるかわからないし、その職が安定しているのか不安定なのかなんてわからないし、今これを読んでる貴女と将来結ばれるのかもしれない。不確定要素が多すぎる事柄について予測することは不可能だし、考えても仕方がないことなのかもしれない。
 考えてもわからないと決めつけているから、多くの人は大きな力に縋ろうとする。それが両親だったり、権威だったり、マジョリティだったり、宗教だったり、先生や上司だったりする。日本人の多くは、先生や上司を神として崇める宗派なので(笑、、エナイ?笑)、それがマジョリティになって、両親もそこにアジャストするように勧めるから、その縦社会に権威が集中し、結局これらの例はすべて同じことなのかもしれないけど。

 でね、この「マクロからの要請」からの価値観に従いまくる判断をあまりにも取り続けるのって、俺らはヒト(っていう生命現象)なのに、本当にただの物理現象みたいになっていく。周囲に反応だけしていくから、単純で、年もとりやすい。
 これまでだったら、これでやっていっても、表面上は良いかもしれない。目に見える小さな小さな成果をあげることもできるだろうし、いわゆる中流の夢を手にできる可能性は高かっただろう。これからは(おそらくそれ以上の攪乱が来つつあるから)どうか知らないけど。
 その多くの人が何の根拠もなくイイと信じている小さな小さな「成果」を出すために、自分固有の価値観や気持ちを押し殺していくことが習慣化することは、ヒトを早く老化させる。当たり前だよね、だって(ミクロ状態の)圧倒的にありふれた性質が平衡状態を作っていくわけで、平衡状態になりゃ死ぬのだから。

 だとしたら、自分が心から本当に好きだと思う対象が存在するのであれば、飛び込みまくって、すり減らして、最終的に奴隷のように搾取されまくったとしても、単純な無難さのみを判断の主軸に持っていることを信念とする人よりも、生命らしい?だとしたら、現実的には「惚れたもん負け」だけど、気持ちの上では「惚れたもん勝ち」?

 特に対ヒトの場合、思考力と直観力をフルに使って、好きな対象をリアルタイムにとことん解析していったときに、相手の本当の気持ちが見えていなかったから「自分の好きは間違いだった」と判断するのは良いことだが、何かの現実的な要因によって「自分の好きは間違いだ!」とするのは間違いだと俺は思う。
 そして、気持ちを気持ちで評価し、気持ちを気持ちで評価するためだけに思考力と直観力を使い続けている限り、身を滅ぼすということまでにはならないのだと思う。確かに(自分も含め)誰かの気持ちを無理矢理に変えることは決してできないが、環境と習慣を現実的に変えてしまうことはいくらでもできる!(ま、だからこそ、片想いは、原理的に面白く、また残酷なのである(笑))

 だから、世の中が悪いと思った時に、自分一人の責任をどれほど感じることができるか、ということだ。
 例えば、俺が、ここで、もっともっとイイ文章を書けていれば、少なくとも研究社会程度なら、ここ数年の間に、もっともっと、より良く変えられていたはずだ!、とどれだけ心から本気で思えるか?ということだ。だって、研究に携わる人というのは、どんなに無能でバカに見えても、どんなに性格が悪いクソヤローにみえたとしても、ちゃんと思考力と直観力を使って解析すれば、みんな、とっても優秀で、とってもイイ人たちなのだから。

 それは即ち、自分にとってリスクがあることを、世間のために行い続けるということに他ならない。自分のリスクと世間のベネフィットの駆け引き計算を繰り返すリスク論から、決して逃げないということだ。だから周囲が自然と助けてくれる。かといって、他人任せにはなれないのだけど。
 最近、その「世間」というヤツは、種々の事象ごとに、自分の周囲から選出された「たった一人」を代表としても構わないんだ、と思いつつある。なんやったらそれこそが、ありふれていない状態を維持する、マクロからの要請に従いすぎない、ということ。

 その意味で、俺は、ものすごく冷酷だと思う。それだけは、時代がいくら進んでも、カワラナイんだろうなぁと、最近悩んでいたりする。
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親の顔

2016-01-10 03:42:29 | Weblog
 苦労して手に入れたからというだけの理由で、これこそが幸せなことなのだ、と納得することは、俺にはできない。それが誰かと共有する事柄なら尚更で、そこに誤魔化しがあってはいけないと思うし、そもそも、誰かを絶対に幸せにする、とか、絶対に幸せにしてね、とか先手を打つように宣言してしまうことで、幸せを相手に押し付け合って自分の幸せを無理矢理に確立させようとすることは、とても無責任な行為だと思う。

 何かの偶然性と物理的な一致によって成り立ったモノに対して「幸せ」と先に名前をつけてしまうことで、幸せを逆説的に定義しようとする取り組みが公式に存在するだけなのだとすれば、それはむしろ、心で泣いてしまう不幸な人を増やすと思うし、そういう人ほど、自分を納得させるように、「これが幸せってことなのだ」と繰り返し唱えている気がする。
 だから、さしあたり一過性でも構わないから、気持ちそのものの存在を肯定化しないといけないと思うのだ。受け入れるとき、選び出すときに、完璧に自分の理想にフィットすることはありえないが、気持ちだけについては一切妥協することなく、そこに理想的な要素を見出し続けられるようなやり取りを重ねていくことが、ホンモノをリアルタイムで掴むポイントだと思う。

 もしそれでも、気持ちよりもステータスが重要だとして選んでしまう時間帯が長いのであれば、鏡を見ながら「この世にホンモノの愛など絶対に存在しない」と口に出して実際に言ってみることだ。その瞬間に芽生えたほんの僅かな違和感こそがホンモノであり、ホンモノはそれほどにも、すごく小さく儚いものなのだ。
 そのほんのちょっとの価値に対して、突き詰めていったときに、現実との接合がたとえ今は困難だとしても、最終的には上手く行くのじゃないかと思う。

 時にぶつかり合い、罵り合うこともあるだろう。この世は綺麗なことばかりじゃないのだから。だけど、そこに確かな気持ちが存在しているという圧倒的な事実さえ認識していれば、浮世で起こりうることなど、すべて乗り越えられる。俺はそう信じている。

 そしてさらに、やっとここから踏み出せる未来について、時代に逆行した幸せを(自称)経験者から押し付けられることもあるだろう。自分たちの辿ってきた履歴を、普遍的な成功の性質として、幸せのかたちを押し付けられることは、誰にとっても気持ちのいいものではない。
 だが、その行為を、俺らは誰のためにやっているのかを思い出さねばならないのだ。男は奴隷のように働くことで金を稼ぎ、女は美を提供しながら家庭を守るべきだ、というような明らかな時代錯誤の価値観であったとしても、1日くらいは、その瞬間くらいは、「その世代」に合わせてあげるという心が働くとき、ホンモノは、これまで以上に、より鮮明に煌めきだすのだと思う。それが新しい世代の新しい責任なのかもしれないね。

 まずは、気持ちにまっすぐであるということ。
 その事実だけで、あとはなんとかなる。

 そして、それが明らかに具現化している瞬間を直視することで、俺らは幸せを肖らせていただけているのかもしれない。
 これは文字通り「有り難い」ことであり、稀有で尊いことだと思う。

コブクロ 永遠にともに
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1. ことのはじまり/『研究コントローラー』

2016-01-09 02:24:26 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

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2016年1月9日(土)

 「これマジか?!おい戸山、これ見てみろよ。お前にこれ良いんじゃね?ほら、年収2000万円ってやばくね?」
 村川のこの一言がことのはじまりだった。慣れないスーツを着ながら山手線で去年の10月のことを俺は一人思い出していた。

 あのとき、同じ研究科内で唯一の友達である村川晋也と二人で飲んでいると、彼は自分のスマートフォンを俺に見せつけながら、いつものノリの良さで話しをふってきた。俺ら二人は都王大学大学院修士課程2年に在籍している大学院生だ。俺は生物物理学の研究室に在籍していて、彼は素粒子の分野を研究している。俺と村川は、今はほぼ同じ状況だが、来年度からお互いの立場はまったく異なってしまう。村川は来年度から大手企業で技術営業職に就く予定だが、俺は博士課程進学予定でこれからまだ3年間も不安定な学生生活が続くことが決まっている。天下のナンバーワン国立大学、都王大学の大学院生なんだから安泰だとか世間から思われているようだが、実際はそんなことはない。同年代の殆どが働きだしているのに、大学院で博士課程まで進んでしまう者はストレートの大卒よりも5年も長く社会に出ずに学生のまま。そもそも俺は学部は地方公立大学出身だし、世間で思われているよりも遥かにリスクが高い。しかも、博士号がストレートで取れるとも限らない。さらに、博士課程修了後の就職先は全然ないし、就職先のほとんどが有期雇用のアカデミックポストだ。
 そんな博士課程という名の、ある種の絶望的なモラトリアム期間に突入していく感覚を少しだけ払拭してくれるのが、学術推進会の特別研究員だ。通称、学推。有能な博士課程の学生に博士課程3年間の間に月20万円支給してくれる素晴らしい制度が学推だ。修士課程2年の5月に研究計画書やこれまでの研究内容をまとめた書類を提出して審査され10月に結果が出るのだが、残念ながら俺は落ちてしまった。そういえばあの時は、そんな俺を慰めてくれようとして、村川が飲んでくれてたんだっけ。
 村川が見せてくれたのはただの広告だった。この手の募集のわりには派手な広告だ。SNSで出回っている「学推に落ちたヤツ必見!年収2000万!」という文章。そのウェブサイトをクリックすると
 『RC研究振興補助制度。来年度博士課程に進学予定の現在修士課程2年に在学している優秀な理系大学院生に平成28年度より最大で3年間、年額2000万円支給します。研究費も支給します。定員は若干名。希望者はCurriculum VitaeをこちらのE-mailアドレスまで提出してください。Curriculum Vitaeのフォーマットはこちら。〆切は2015.11.30.まで』
 文字にしてこれだけの内容。あとは真ん中にビーカーとか数式とかサイエンスっぽい広告があるだけだ。全体にポップな広告で、はっきり言って怪しい。これなんなんだろう?来年度から就職予定で本来関係ないはずの村川に尋ねてみた。
 「これ、どこが主宰しているんだ?」
 「え?そんなの学推かJTSか、わからんけど。RCって書いてあるけど、これじゃね?」
 「なんの略だろう?リサーチコマンダー?」
 「ちげーよ、Resistor–Capacitorだろ」
 「もっとちげーだろ笑」
 あぁ、話が逸れてしまった。こういうところが村川の良いところであり悪いところだ。ノリが良い分すぐに関係のない方向に行ってしまう。仕方ないので少し自分で考えていると、村川が空気を察して若干の真剣な表情をしながら語りだした。
 「でもさ、お前が落ちた学推って月20万だろ。ってことは年240万円にしかならない。それに比べてこれは年2000万円。超イイじゃん。通れば普通に勝ち組じゃん。出してみろよ」
 「確かに。だけど怪しいなぁ」
 「いや、お前、さっき学推あんなに否定してたんじゃん。あんなの、研究室のPI(Principal Investigator; 研究室のトップの先生のこと)が誰かで選んでるとか、出身大学がどこかで選んでるとか。でも、これは、」
 「ちげーのかよ?」
 「そりゃ知らねーけど。待てよ。ほら、フォーマットダウンロードしてやるから」
 スマホでpdfを読むのは本当に見にくい。読みにくいpdfビューワーでゆっくり拡大しながら見てみると、A4でたった2枚。業績項目を書くところも無ければ、出身大学を書く欄もない。学推では指導教員の評価書が必要だが、これにはそれもない。というか自分の指導教員が誰かすら書く項目が無い。さすがに住所や所属している大学院と研究科を書く欄はあり、修士論文の(予定している)タイトルを書く項目はあったが、あまりにも研究に関することが少なくないか?逆に学推には無かった項目で、このフォーマットにあった項目で気になったのはHobby or Special Skill。
 「これって、"趣味や特技"って意味で良いんだよな?」
 「たぶん。お前ならプログラミングって書けばいいんじゃない?」
 「俺の研究に関係あるかなぁ」
 「あるある。あと、合気道も書いとけ」
 「いや、それはあまりにも研究に関係なさすぎるんじゃ」
 と言ってはみたが、体力があって沢山実験するぜ!ってアピールするために、大学時代ずっとやっていた合気道は確かに妥当な気もしてきた。完全に酔っている。それにしても、英語で書くのは少々面倒くさいが、あまりにも応募書類が簡単すぎやしないか。だが、そんなこと、酔っていたし、学推にムカついていたし、どうでもいいやっと思っていた。俺はえいや!と書いて、それを募集の公告に書いてあったE-mailアドレスに投げた。翌日、自分の応募書類を見直してみるとほぼ完璧ではあったが、完全に酔った勢いだったので、名前だけ「戸山渉」って日本語で書いてしまったのが心残りだ。だがどうせ怪しいし、どっちにしてもあまり期待していなかった。

 12月、俺はこの出来事をすっかり忘れていて修士論文を書き上げるのに必死だった。そんな矢先、12/25のクリスマスにメールが入った。件名は「RC研究振興補助制度の結果」と書いてある。俺は一応おそるおそるメールを開いた。本文は短かった。
 「貴殿はRC研究振興補助制度の一次選考を通過いたしました。二次審査を行いますので、きたる平成28年1月9日13時、品川区大崎6-10-2の3階に来てください。二次審査は面接です。持ち物は特に不要です。厳密に審査する関係から、この件については他言しないことを厳守してください。交通費は当日支給します。以上」
 いったいどれくらいの人が一次通過しているのだろうか?応募した直後、「RC研究振興補助制度」で検索してみたが、何もでなかった。SNSでも「これは釣りだ」という流れだったし、11月に入ってすぐ、まだ〆切の期日を過ぎていないにも拘らず、募集のウェブページも消されていた。だから、俺は二次審査に行くかどうか決めかねていた。修士論文で忙しいし、この怪しい感じはなんとなくイヤな予感がする。正月休みが終わってすぐ、俺は彼女の綾瀬香奈を自分の家に呼び、相談することにした。彼女とは2年前から付き合っている。俺より1つ年上で美大出身。現在はデザイン会社に勤めている。はっきり言って何も考えていないヤツだが、それなりに可愛いし、極たまに秒速で的を射たコメントをする。念のためにとパソコンに保存しておいた応募内容を見せながら、彼女に話しかけると香奈は、
 「うーん、確かに怪しいけど、修論ってそんなに大変なの?」
と言ってきた。
 「そりゃもう。こんなに文章書くのは初めてだし。あー、ダメもとの割に、なんか知らんけど通っちゃったからなぁ」
 「でもさぁ、これって、ただ行くだけでしょ?で、どーせダメもとだったんでしょ?土曜日って、どーせ、渉、寝てるだけじゃん」
 「そうだけど、1/9は修論提出間際だから、なんとなく」
 「ふーん、まぁ私、理系じゃないからよくわかんないけど。もし2000万円ゲットできたら、なんか高いもの奢ってね」
 これだから頭の悪い女は嫌なのだ。2000万円ゲット、ってそういう感覚しか無い。しかも、「美味しいもの奢ってね」じゃなくて「高いもの奢ってね」ってなんだよ。お前、芸術系だろ。もっと自分の価値観に自信を持てよ!と心の中で彼女へのやり取りの不満を呑み込んでいると、ふいに彼女が真剣な表情でこう言ってきた。
 「あとさぁ、最初のこの募集の背景にある絵。これって、そんなに、ぱぱっと作った感じじゃないと思うよ?」
 そうなのか?さすが芸術系、香奈。ならまぁ行く価値はあるか。
 「わかった、ありがとう。微妙だけど、行くだけ行ってみるわ。gogle mapで調べてみたら、大崎駅から徒歩5分くらいで、近いし。絶対になんか無理そうだったり、怪しかったりしたら、途中で帰ってくりゃいいし」
 やはり彼女は何も考えていないように見せかけて、洞察力というか判断力というか、なんというか、そういう類いの才能がある。これからもよろしくお願いしまーす。なんて、調子良すぎるか?

 そんなことを思い出しながら、いよいよ大崎駅に着いた。メールに書いてあった住所に到着すると、そこはかなり古びたビルだった。土曜日ということもあってか大崎駅周辺は閑散としており、都内とは思えないほど周囲に人がいなかったが、間違いなく面接会場はここだ。3階まで階段で登ると、「RC制度面接会場」と書かれた部屋の前まで着いた。明るい日差しが差し込むが、全体に暗いビルの中はかなり冷えこんでいる。そういえば就職活動ではコートは脱いでからビルに入るんだっけ?ま、いいか。誰も見ていないだろう。12時45分。13時まで15分早いがノックして部屋に入ってみるか。怪しかったら帰らなくちゃいけないし。俺は思い切って扉を叩いた
 「失礼します!」
 ドアを開けるとそこには、一人の男が座っていた。年齢は30代?いや20代にも見えるほど若い。座っているがかなり長身なのがわかる。しかし気怠そうな雰囲気で、こちらをまったく見ない。終止、身につけている腕時計のベルトのあたりをいじってる。もしかして俺は部屋を間違えたか?
 「あ、早かったですね、戸山渉さん。まぁ座ってください。他の2人が来たら始めましょう」
 部屋はここで良いみたいだ。俺は左端の席についた。あれ?応募書類には写真を貼るところはなかったはずだぞ?それにあと2人しか候補者がいないのか。っていうか、よく見るとコイツ、どこかで見たことある顔だ。だから、俺のことを知っているのか・・・?
 「失礼します!」
 突然扉が開いた。ドスが効いた声。先ほどの俺の「失礼します!」もこんな感じだったんだろうか。いや、俺はもう少し遠慮がちだったはずだ。入ってきた男は、肩幅がでかくて、筋肉質な色黒。はっきり言って恐ろしい風貌。絶対にコイツを怒らせてはいけない。まぁ背が低いのがせめてもの救いだ。
 「帝都工業大学の吉岡剛志さんですね。どうぞ、座ってください。あと1人か。これなら時間前に始められそうだ」
 吉岡と呼ばれた男は真ん中の席についた。落ち着いたところで沈黙が流れる。部屋は高校とかで使う教室くらいの大きさ。太陽の光がホワイトボードに反射して眩しい。しかしそれ以外は少し暗い部屋だ。電気は着いているが、光が弱い。そのせいか、面接官の男がよりいっそう気怠そうに見える。
 「失礼します、日本茶大の斉藤結衣佳です」
 女性の声が響いた。意を決して扉を叩いたが、途中で恥ずかしくなり、語尾の音が擦れてしまった印象だ。いかにも弱々しい世間知らずのお嬢様って感じの女性がそこには立っていた。よくこんなお嬢がこの古いビルに1人で入ってきたな。ノーメイク。高級そうなコートを手に持ち、これまた高級感があるスーツを着ている。顔はかなり可愛い部類なのに、オシャレにいっさい気を使わないであろう日常が、その所作からスーツ姿でもわかってしまう。雰囲気美人という言葉があるが、その真逆。・・・雰囲気ブス。いや、そういう言葉はよくない。

 「皆さん、そろいましたね。斉藤さん、どうぞ座ってください」
 正面の面接官が喋りだした。俺は次に続く展開がまったく読めず、彼の言葉を待った。
 「さて、皆さんのなかで私をご存知の方はいらっしゃいますか?」
 「はい!」
 「はい、斉藤さん。どうぞ、仰ってください。私は誰でしょう?」
 「貴方は研究コンサルタントで有名な野崎正洋先生です」
 「その通りです。斉藤さんには10ポイントだな」
 面接ということを忘れていた。コイツのことを知らないと落とされるかもしれない。一瞬そんなことを思って、我に返った俺は「そんなわけあるか!何だコイツ、遊んでいるのか」と思った。このやり取りをしている間も、野崎は誰とも目を合わせず、腕時計のベルトばかりをいじっている。それにしても、そうか、コイツは野崎とかいう研究評論家か。研究不正とかあったときに、テレビでコイツがコメントしているのを見る。本職は研究コンサルタント。研究コンサルタントとして、様々な研究室をそれなりに立て直してきた逸材だ。彼が手がけた研究室は必ずしも論文が量産されるようになるわけじゃないが、質の高い研究に従事するようになると言われている。確か野崎のもともとの専門は応用数学で、大学院生の頃から頭がものすごく良かったが、あまりに頭が良すぎて博士号をとるのがばかばかしくなってしまった、とどこかに書いてあった。テレビのときはもっと堂々としているが、実際に会うとこんなにも弱々しいヤツなのか。そんな野崎がまた予想外のことを話し始めた。
 「さて、私が誰かわかったところで、皆さんから何か質問はありますか?」
 面接にも拘らず、最初から候補者に「質問はありますか?」と訊く面接官はまずいないだろう。すると、吉岡がゴツい右手を高らかに挙げた。
 「えーっと、途中で募集をやめたのはなぜですか?」
 「早い者勝ちにしたかったからです」
 野崎はあっさり答えた。吉岡は不満そうだ。「それはなぜ?」と訊きたかったが、それより重要なことを俺は訊いてみることにした。
 「候補者はこの3名だけですか?」
 「そうです。そして、あなた達でほぼ決定です。よほどのことがなければね」
 またも野崎はあっさり答えた。この面接の雰囲気でよほどのこととはどういう事態が想定されるのだろう?
 「他に何か質問はあります?そんなもんですかね」
 「まだあります!」
 吉岡が野崎の質問コーナーの収束に待ったをかけた。
 「そもそも、資金はどこからでているのですか?面接官は野崎先生、貴方だけなのでしょうか?」
 「資金は私の依頼人から出ています。私の依頼人は、是非この資金で、非常に価値のある、この研究目的を達成してくれ、と仰っており、私に一任されました。ですから、面接官および審査官は私だけです。どうぞご心配なく」
 「ちょっと待ってください。研究目的がすでにあるってことは、遂行すべき研究内容は決まっているんですか?」
 「そうです。研究テーマはこちらから強制的に与えます。そもそも、どこぞの審査でもよく行われているように、あなた方にこちらが求めているモノを予測してもらって、プレゼンという大義名分のもと、あなた方がその予測に対してあたかも本当に興味を持っているかのような演技をわざわざしてもらって、その予測と演技を観察することで、私ども年上の人間があなた方の上位互換になれているかどうかを確認する、なんて審査方法、まどろっこしいし、時間の無駄でしょう?だいいち、誰が、学推も取れない、論文も一本も書いてない、博士課程進学予定者と名前がついている、ただの社会不適合者たちが提案する研究内容に、無制限の研究費を渡すと思うんですか?」
 「え?研究費は無制限なんですか?」
 途中までかなりムカついて訊いていたが、最後の言葉が意外すぎて俺は思わず声をだしてしまった。
 「あれ?募集に書きませんでしたっけ?そうか。ポケットマネーの額は書いたけど、研究費は書かなかったのか。まぁ私を通さなくちゃいけませんが、事実上無制限ですよ」
 そんなプロジェクト、他に聞いたこと無い。どんなに大御所の教授でも無制限と言うことは無いはずだ。すると、しばらく黙っていた斉藤が話し始めた。
 「私、確かに自分には能力が足りないとは思いますけど、自分で主体的に研究できないなら、この話からは降ります。そもそも野崎先生は博士号を持っていないじゃないですか?」
 「勇み足は危険ですよ。最後まで話をしましょうよ」
 「でも!」
 「まぁまぁ、とりあえず待ってくださいよ。ところで、あなた方の研究の目的はなんですか?戸山さんから訊いてみようかな」
 いきなり自分に話をふられたので、びくっとしながら俺は答えた。
 「えーっと、大腸菌の分裂に関するタンパク質でMinファミリーと呼ばれる一連のタンパク質があるんですけど、それらの遺伝子の欠損株で・・・」
 「待って」
 「はい?」
 「細かいことはどうでもいい。貴方の研究テーマに私はいっさい興味ないから。意味も無いと思うし。そうじゃなくって、どうして博士まで行って研究したいの?ってことを普通に教えてください」
 研究の目的、と言った場合、研究内容の詳しい説明をするのが普通だと思うが、本格的に、なんなんだ?こいつ。待て待て、落ち着け、俺。こいつは煽っているだけだ。これはあくまで面接。怒ってはいけない。
 「わかりました。僕のモチベーションをお話しさせていただきます。僕の所属している渡辺研究室では、古典的な分子生物学の手法だけでなく、生物物理学的な視点で生命を観察してタンパク質の性質を明らかにすることが、僕にとって非常に斬新で・・・」
 「ダウト!」
 今までそっぽ向いて話していた野崎が、急にこちらを見つめ、人差し指で俺を指しながらそう言ってきた。他の2人も驚いている様子だ。さらに、口調をがらりと変えて野崎は続けた。
 「私が突然予想外のことを喋りだして、答えなくてはいけなくなってから約1.5秒間。右側をチラ見して私の足のあたりを見ながら話し始めた。君は嘘をついている可能性が高い」
 野崎の言う通り、生物物理学的な視点が俺にとって斬新だ、なんて確かに嘘だ。だが、そういう場だろ?興味あるフリをする場だろ?それとも、もしかして、取り繕う場ではないのか?野崎はまた自分の腕時計のベルトのあたりをいじりはじめた。
 「私が訊いているのは、君の本当の進学理由や進学目的だ。博士号取得者の8%は死亡または行方不明、という有名な文章もネットに出回っている。それなのに君は博士課程に行こうとしているんだろう?それを踏まえた上で、もう一度答えてもらおう」
 こうなったら一か八か。
 「そうですね。まぁなんというか。環境ですかね。うち、姉も博士課程に在籍していまして・・・」
 「なるほど。わかりました。最初からそうやって答えてくれれば良いんですよ。私は貴方の能力や貴方が興味を持っていると言っていることに対して、まったく関心は無いんですから。次は吉岡くんですね。貴方は酵母を使って研究してるんですね。まぁ当然、そんなこともどうでもいいですが」
 おい、野崎、待て。俺はまだ答え終わっていないぞ?それだけで何がわかったというのだ?俺の気持ちを無視して吉岡は答えた。
 「僕は死ぬのが怖いんです。だから生命の研究を選びました」
 「おお。まともな理由だねぇ」
 「死ぬのが怖くて仕方ない。だから身体を鍛えることと生命の神秘を探究することの2つを選んできました。でも生物系の研究って、タンパク質の性質を解明するだけで、とてもじゃないけど生命の神秘までたどり着く気はしません。そう思って最近は物理を少しずつ勉強していますが・・・」
 この筋肉質の男が、死ぬのが怖いだと?予想に反してまっすぐなモチベーションで、俺はちょっとビックリした。
 「オーケー。わかった。まぁ、斉藤さんは、別に答えなくていいや」
 「な、なんでですか?!」
 「君の研究テーマはゲルの有機合成か。新しいゲルを作ることに理学的な意味なんてないでしょうし。どーせ、両親ともに博士号持っててアカポスだから、自分も、ってだけですよね?」
 斉藤は何も言わなかった。俺は流石に苛立ちが抑えきれなくなって野崎に言い返した。
 「野崎さん、いいかげんにしてください!俺たちは選ばれているはずなのに、なんでそんなに他人の研究を『興味がない、価値がない』って言いまくるんですか?僕らは僕らなりに、誰もまだ知らないことに対して挑戦して邁進しようとしているんです!」

 「じゃぁ」と野崎が切り出し、
 「少しは能力も試されてみる?」
 「望むところです」
 「そこにさ、ホワイトボードがあるから、ちょっと計算してみてもらっていいですか?私の専門は数学ですから、数学の問題にします。といっても、簡単ですから安心してください。そうですねぇ、何が良いかなぁ。そうだ。では、dx / sin xを不定積分してください。とっても簡単でしょ?面倒だから3人協力でいいよ」
 俺は背筋が凍った。これはランダウが自動車事故で意識を取り戻してすぐに、自分の息子に出した問題だ。結末が読めてしまう。大学院入試以来、こういう緊張感があっただろうか?理論研の大学院生だったら、もしかしたらこの類いの緊張感は日常的にあるのかもしれない。でも、この簡単な問題でこのシチュエーション、まさか高校生ができる問題が自分にできないかもしれないことを認められない。他の誰か、できないのか?きっとできないだろう。吉岡は物理をやりはじめたばかり。斉藤さんの専門はおそらく化学だ。あたふたしている俺を見かねてか、冷酷に野崎は言葉をかける。
 「どうしたんですか?早く立ってホワイトボードまでいって、書いてください。日本の理系大学院生なら誰でもできるでしょう?」
 無理だ。たしかtan (x/2) = tとおけば、あらゆる三角関数で表された関数を積分できたはずだが、sinがどうなるかcosがどうなるか、dt/dxがどうなるか、忘れてしまっている。
 「はい、時間切れ。私のわりに、今日は結構待ったよ?こんなの、分母と分子にsin xかけて、部分分数分解するだけでしょ」
 俺は物理学科出身なのに、こんな積分ももうできなくなっているのか。ぐうの音もでない。だが、言い返さないといられない俺は、とにかく言葉を探してみる。
 「受験の頃はできましたよ。それに、こんなテクニカルな積分、僕の分野ではできなくても問題ないです」
 「戸山くん。君はさっき、誰も未だわかっていないことを自分なりに邁進しようとしている、と言いましたよね?誰も知らないことをやるんだから、人類がマスターしてる基本的な技能はある程度はすべからくできなくちゃ、それが達成される確率は極端に下がることはわかるよね?それもさ、私は何も大学専門課程の内容を訊いたわけじゃないよ?高校数学の内容だよ?」
 わかっているさ。でも、そういう環境じゃないんだ、大学院って場所は。
 「こんな問題もできなくて、どうするんだ、君たちは」
 ほら。やっぱり、ランダウの息子と同様に、こうやって言われる。野崎はまだ言葉を止めない。
 「特に戸山くん。表情から察するに、君はこの問題がランダウの出した問題だって知ってたよね?歴史的な事実だけを表面的にお話だけ知っていて、肝心の中身を自分が本当にできるかどうかチェックしていない。お話だけ沢山訊いて、自分で理解した気になって、自分は知っているから!と、薄っぺらい知識の多さを理由に、自分以外のすべての人間を心の底でバカにし続けている。その態度は、dx / sin xの積分ができないこと以上に、研究者を志すのなら、致命的なんじゃないか?」
 「今の時代に、そんな単純な積分、検索すればいくらでも出てきますよ!」
 俺は言葉を振り絞った。そうだ!俺たちは検索しなかっただけだ。
 「じゃぁ、検索すれば良かったんじゃないですか?スマートフォン持っているんでしょ?」
 「それをしていいか、僕たちはわかりませんでした」
 「じゃあ、私に確認すれば良かったでしょう?その反論はおかしいです。おそらく君は、実際にとにかく答えを引きずり出してきてやるという気持ちよりも、こんな問題くらいで検索してしまうのは恥ずかしいという気持ちのほうが、勝ってしまったのでしょう。違いますか?」
 確かにその通りだ。自分のちっぽけなプライドが許さなかっただけだ。検索してしまえば良かった。そうすれば少なくとも積和の公式から求められた。
 「でもまぁ、これが実際にできなかったのは、あなた達の責任ではないんですけどね。なるほど、適度に研究業界に怒りがあり、適度に無能。私が指示を出しやすそうです。わかりました、とりあえず、こちらとしては、皆さんは合格です」
 え?これだけ恥をさらされて、合格は合格なのかよ。おい。よくわからないぞ、説明しろ。っと思っていると、野崎が予想外の言動にでた。
 「先ほども言った通り、研究費は無制限に出ますし、年2000万円の支給はお約束します。私からテーマを設けて、皆さんには4月から私が指示する共同研究先で研究していただきます。皆さんは全員そのまま今の研究室に所属する予定なわけですが、私が新たに与えるテーマを博士課程のテーマとしても良いですし、今の指導教員と話し合ってテーマを複数持つことも良いでしょう。ただし、このRC制度を通じて皆さんが思考することは殆どありません。私が指示を出すことが多くなってしまうでしょうから。それでも良いのなら、ここに1000万円が入ったスーツケースが3つありますので、1人1つ受け取ってください。もう1000万円に関しましては、出来高払いになります」
 なんだと?今日合否が出て、しかもお金はキャッシュなのか!!なんてイレギュラーなやり方なんだ。ただビックリしていると、斉藤さんが立ち上がった。
 「私、帰ります。研究ができないなら意味が無いですから。お金で揺らぐような野蛮な研究者になりたくないですし」
 そう言い残すと、斉藤さんは部屋から出て行った。あっという間だった。すると野崎が立ち上がり、正面を見つめて言葉をかけてきた。
 「さて、戸山さんと吉岡さんはどうされますか?」
 俺は悩んだ。話の筋は大方通っているし、怪しくはない。野崎はムカつくが、それなりに経験もあるのだろうし、賢さを漂わせている。野崎は確かバークレー工科大学出身だったはずだ。こいつの思考力を間近で見られるのは貴重な経験だろう。それに、おそらく金持ちであろう斉藤さんが、「金で揺らぐような野蛮な」と言ったのが気になる。それは金持ちの意見だ。金が無い一般人である俺には、金は重要だ。と思っていると、吉岡が突然声をあげた。
 「僕、やります」
 「ありがとう。よろしくね。で、戸山さんはどうしますか?」
 「わかりました、僕もやります」
 「それでは決定ですね。わかりました、ではスーツケースをお持ちください。それから、これが交通費です。斉藤さんにも渡さなくちゃいけないな。いいですか、スーツケースのなかは大金ですから、まずは必ず家に直行してください。とりあえず家に持って帰って、それから銀行に預けるなり、ちょっとずつ財布に入れて使うなりしてください。では、お気をつけて、各自、お家まで帰ってくださいね。あ、それと、今日はあくまで内定ということで。正式には3月にまた集まっていただくと思います。それまでこの件はSNSではもちろんのこと、友人や、なるべくならご家族にも内密に。では」
 野崎はそう言って、自ら部屋を出た。俺と吉岡もビルから出て、大崎駅へ向かった。

 吉岡は無口だ。一緒に歩いているのに殆ど何も喋らなかった。せいぜい、都王大と帝工大の立地条件の話とか、そんなもんだった。吉岡はそのまま目黒まで歩くらしい。大崎駅まで行く途中で別れた。しかし変な話だった。変なヤツが、変な提案をして、恥をかかされて、いきなり現金を渡された。現金だ!今、俺は1000万円手にしている。やった!これは学推に落ちたことなんて、比にならないくらい嬉しいことだ。空も青く感じる。晴れやかだ。早く帰ろう。早く帰って、このことをとりあえず彼女の香奈に話してやろう。これで俺が将来性は抜群であることを認識させられるだろう。村川にも話そう。これで俺と村川は対等さを保てるかもしれない。
 しかし良いことは長くは続かなかった。後ろから何者かにいきなり肩を叩かれたと思ったら、思いっきり倒されてしまった。なんだ?俺は一瞬何が起きたのか分からなかった。
 「おい、そのスーツケース、よこせよ」

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2. 野崎の目的/『研究コントローラー』につづく
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ネット小説を始めます

2016-01-06 01:03:41 | Weblog
 少し考えてみたんですが、今年のこのページでのチャレンジとして、やっぱりもっと集客数を増やしたいかなと。
 で、流行ってるブログを一通り見直してみて思ったのは、俺よりも集客しているブログの多くがシリーズものをやってるってことです。むしろ俺、こんなにだらだら意味わからんことばかり書いてるわりには、集客してるほうだと思いました。

 というわけで、結構なチャレンジですが、完全フィクションで「ネット小説」でも書いてみようかと思います。あー、俺、中学のころ、小説とか書いちゃうやつ、すげーバカにしてた気がするけど、まさか自分がするようになるとはなぁ(笑)。ま、もうブログ書いてるから、同じか。やっぱり、どんなに相手がバカだと思っても、人をバカにするべきじゃないっすね(棒読み)。
 自然科学の研究に関することをもっともっと本音で書いてみようとも思ったんですが、その書きたいことをそのまま一本の小説にしちゃったほうが面白いかなっと思いました。
 今年に入る少し前くらいからずっと構想を練っていて、全体の構造を描いていって、少しずつ本文を書いてみました。研究に纏わるミステリーものです。題して、「研究コントローラー」。こんだけ毎日ブログ書いてんだから余裕だろ、って思ってましたが、小説っぽく書くって、なかなか難しいですね。なんつーか、状況をわかりやすく書くのに、俺が慣れてなさすぎる(笑)。

 というわけで徐々に公開していきます。どこまでやるかわかりませんが、、今週中には第一話が公開できると思いますので、研究に関わる人も、関わらない人も、普段から本を読む人も読まない人も、よろしくね。
 あ、かといって、いつもどーりの感じでも更新しますし、研究に関する内容をダイレクトに書くこともやめるつもりはありません。そっちはそっちでよろしくです。
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2016の始まり

2016-01-02 04:53:21 | Weblog
 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 2016年ですか。あっという間ですね、とか思われてるかもしれませんが、こちとらそんなこたーありません。長いっす。それなりに時間経過してるなって思いますよ。俺、新しいことにチャレンジしまくってるから。あ、この言葉は御法度だった(笑)
 「2016年の10年前って2006年じゃないっすか、こないだじゃないっすか?」そうっすか?2006年て、YouTubeもニコニコ動画もまだ流行ってないし、iPhoneも発表されてないし、かなり昔じゃないっすか??

 最近、本当に1ヵ月単位で世界が変わってる気がしますので、ノロノロしてると、あっちゅうまに歳をとったみたいな感じになっちゃうと思います。だからって素養がないのに流行りだけ追ってても仕方ないですけど。
 そういえば昨年は『高校の積分すらまともにできない人が、どんなにそれっぽくサイエンティフィックなことを主張したとしても、薄っぺらいに決まってんじゃん』とホントのことばかり言ってた気がしますので(笑)、この年末年始やたら歴史を勉強してます。その論理で行くと、高校の範囲くらいの世界史や日本史を知らないでニュース見たって仕方ないですからね。
 ま、一方で、眉間にしわを寄せ過ぎず、軽いノリで薄っぺらく生きていくのも重要です。薄っぺらいのが必ずしも悪いわけじゃないですから。バランスとモードが大事。

 というわけで、今年は、よりいっそう好きに生きます。落ち着いて考えてみたら、俺らはこんなに変わりやすい社会を生きているわけで、あるひとつの価値観にアジャストするのは危険すぎるし、それが目標です。無難すぎるかな?
 あと、このブログに関しては、もっともっと多くの人に読まれないと意味がないことが昨年の終わりによくわかりましたので、叩かれるのはもちろん、否定的なコメントを読むだけでもやっぱりちょっと怖いですが、もっともっととにかく沢山の人にまずは読まれるような文章が書けるように、1人でも多くの人が楽しんでもらえるように、本音を書いていくように頑張ります。どうしても、ここに何か込めて書こうとすると逃げちゃうことも多くて、本音の手前になってしまうことも多いですが、やっぱりヒットが稼げるのは本音だけなので、そのように「書こう!」と思った時は、ここは逃げずに頑張ろうと思います。で、炎上したら、黒歴史クリーナーを使って…(笑)

 誰かが決めた価値観に踊らされず、それらは参考にしながらも、あくまで自分自身がこれは重要だと思うことに対して、好きに楽しく邁進していく。簡単なようで難しいことです。
 また1年後、全然違う自分の姿が見られたらいいなと思います。

 では、本年もよろしく。
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