たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

タイミングと運命の重要性

2019-01-21 22:21:00 | Weblog
 「時間依存性のないものこそがホンモノ」なんて簡単に言っているけど、実は「時間の定義」というものは、未開であり、難解であり、時間に関するアポリアは挙げればキリがない。

 実のところ、物理学では、絶対時間を大前提としているため、「時間の定義」について曖昧になってしまっている。これまでと同じような時間の流れ(これも時間論でいうところの現在主義的に解釈すれば、俺らの脳が想起し続けているだけに過ぎないのだが…)が、今この瞬間以降も絶対に続くとは限らないのだが、そんな大前提をひっくり返したら、俺らはまともに待ち合わせをすることもできない。

 物理屋は、時間というものの一方向性にとりあえず着目し、時間反転対称性(時刻;t→-tにしても同じ式が出てくるって性質)というもので時間の性質を説明したがる。古典力学(ニュートン力学)において運動方程式は時間反転対称性を有しているし、量子力学における時間発展を記述するシュレディンガー方程式についても時間反転対称性を有している。つまり、一体系においては、時間の方向など存在しなくても良いように思えるのである。
 ところが多体系になると、不可逆性が生じる。エーレンフェストの壺の議論は有名だが(知らない人は各自ググってね笑)、よーするに、数が増えるとめっちゃ戻りにくいよね、ってことで、時間の一方向性の発生を説明しているのだ。

 (このカッコ内は俺の(特に)専門外なので、間違いがあれば教えてほしいし、↑で書いたことすらよくわからなかった人は読まなくていいです。上の説明では、多体系だからこそ不可逆性が発生し、それを時間に向きがあることの説明としていますが、弱い相互作用の研究において、CPT定理より、CP対称性が破れているとき、それを補うようにT対称性が破れるとの議論があります。よーするに、一体系においても時間反転対称性の破れが起こり、時間の向きが発生しうるのかなぁと勝手に思っていますが、何せ私は場の量子論が勉強不足でして、あまりテキトーなことは言えない気がするので、そんなんもあったよねぇー、的な注意だけにしておきます。この文章では別に物理を語りたいわけではありませんので、そろそろ本文に戻ります。)

 でも、不可逆性が俺らが実際に感じている時間なのかどうかは、全く説明しない。 

 さて、ここまで、時間の一方向性などと、時間を一次元で扱うことを当然視してしまったわけですが、物理が専門だったら、一度はその解釈に躓く概念として「虚時間」がありますよね。ローレンツ変換の不変量である4次元距離の式に虚時間を導入すると、虚時間と空間に対称性が生まれる、という、なんともわからない概念です。
 虚時間は実時間と直交している特徴を持っており、虚時間では空間と同じように行ったり来たりということが可能です。

 こういう話をすると、一般の人は、「現実の話をして欲しい」と思うのでしょうが、あくまでもめちゃくちゃ現実の話をしています。
 だって、この虚時間という概念が、我々の身の回りの出来事を間違いなく規定しているのですから。でも、だからといって、それが、俺らが感じている「時間」とどのように関連しているのかは、いまいちよくわからない(多分、誰にもわからない。わかる人がいたら俺に教えて)。

 でも、一つ言えることは、俺らは日常生活において自然と、時間は行ったり来たりすることのできるものだ、と考えていることに、虚時間は性質上、ちょっと近いかもしれない、ということ。
 え?「時間を行ったり来たりできるなんて思ったことない」って?そんなことはないと思いますよ。

 例えば、「ラブ★コン」という少女漫画に次のようなシーンが出てきます。
 主人公の小泉リサの彼氏である大谷敦士が、大学受験の合格発表に出かけるとき、小泉はつい「がんばれー!!」と言ってしまいます。それを大谷は呆れたように「いや、結果はもう出とんねん…」と言うのです。
 作者の中原アヤ氏にどのような意図があるのかは不明ですが、小泉は大谷の"相対的非決定論的過去"に対して、何らかの意義を与えようとしたことに他ならないんじゃないかと思います。もっとちゃんと言ってしまえば、客観的には確かに定まっている過去なのだが、自分たちにとっての未計測な過去に対して、祈りを捧げたわけです。
 (こういうのが虚時間とつながっていたら面白いけどなぁと思うけど、そんなに単純ではないだろうなぁと思います)

 この小泉の行為を笑う者は、テレビでサッカー観戦して本気で応援をしてはいけないです。
 野球なら(100歩譲って)まだわかりますが、サッカーのような、コンマ数秒の判断を競う競技においては特にです。なぜなら、現在の技術では、生中継には約0.5秒以上の時差がどうしても発生しています。これが5Gになると、1m秒にまで短縮することができるそうですが、それでも、自分たちにとっての非決定論的過去に対して、祈りをささげていることには他なりません(でも、5Gだったら、もう少しテレビでのサッカー観戦に意味がある気がするよね笑)。

 ね?決定してしまっている過去に遡って何らかの意義を与えようともがくこと、あるでしょ?

 決して揺るがない決定論的過去における、何らかの不一致によって生じてしまった決別を、俺らは単純に「タイミングが悪かった」と口にすることがある。衝突は、同時刻同座標。確かに、そんなに簡単には起きないからね。
 でも俺は、そこに何らかの本気の想いや"キュン死に"が介在しているなら、それはもう一過性でもホンモノで良いと思うのですよ。ここまでを省略して、「時間依存性のないものこそがホンモノ」と(昔から)言ってるわけです。

 だから、ただタイミングが悪かったくらいで、運命じゃないなんて言わないで。"命"を"運"んで、本気の気持ちであった限り、「運命」で良いじゃないか。ただ、この世界の不合理な物理法則の中で定義される、もう一段上の概念である「結ばれる運命」ではなかっただけ。そう、俺はタイミングという言葉は嫌いだけど、この世界に生きている限り、その重要性は最も深く認識していると思う。
 そのことをきちんと認識すると、ほんの少しだけ、過去の事実そのものに、何らかの寄与が与えられている気がするのだけど、、まぁ、それは俺だけかもね。
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タイミングって言わないで

2019-01-21 00:58:38 | Weblog
 もし、タイムマシンがあったら、何をしたい?

 「邪馬台国がどこにあるか?土偶とは何なのか?」など歴史的な事実を探りたい人もいるだろうし、人類史を超えて生命の起源を見つけてみたい人もいるだろうし、反対に未来に行って人類史がどうなるのか探りたい人もいるだろう。自分の両親の馴れ初めを見に行ったり、過去のある時点に行って自分と話してみたい人もいるだろうし、未来の自分の生活を垣間見たい人もいるだろう。
 俺は、そんなことは、したくない。もしタイムマシンがあるなら、現在中心主義的に、もっとしなくちゃいけないことがあるはずだと思うからだ。

 タイムマシンを扱った作品ではないが、時間観を語る上で好きな話がある。
 ディズニーアニメの「アラジン完結編 盗賊王の伝説」で、どんなことでも一つだけ知ることができるという「お告げの杖」というアイテムが出てくるのだが、その杖を知ったジャスミンが「どんなことでもわかるのよ、私たちの未来のことも!」と言い、それに対してアラジンは「未来はわかっている。僕たちは幸せに暮らしている」と言う。これほどカッコイイセリフがあるだろうか、と思うのだが、そのあとに「でも、過去のことは、闇の中だ」と言う。

 そう、ある意味、未来はわかりきっているのだ。より良くなっているし、楽しい毎日で、有意義なはずだ。
 でも、意外と過去はわからない。それは過去を垣間見たいという安直な気持ちから発生されるのではなく、過去に何らかの意義を与えたいという気持ちなのだけど、その衝動は圧倒的な目の前の現在に束縛されてしまう。過去から想起されることで現在が成り立つという過去中心主義は未来の存在をあらゆる意味で完全に否定するが、現在から過去を想起することで時間を認知することができる現在中心主義では、未来は現在に収束したカタチで理解されうる。
 俺はどちらかというと現在中心主義をとっているのだけど、だからこそ想起され続ける決定論的過去に何らかの意義を与えたいと願ってしまうのだ。

 俺は昔からタイミングという言葉が嫌いだ。
 ただでさえ、我々は空間に支配されているのに、時空間上に支配されることを余儀なくさせられるからだ。タイミングなんて合わなくても、あらゆる可能性を乗り越えて、ホンモノに収束されることは決定論的であった、と信じていたい。

 「奥様は魔女」という海外ドラマで、主人公で魔女のサマンサの母親のエンドラが、サマンサがいない世界を作り出し、サマンサの旦那であるダーリンがどのような相手と結婚をするのか、という話がある。サマンサがいない世界で、別の相手と結婚したダーリンは、結婚式後に一人バーで飲み、その横にサマンサが座る。すると、ダーリンは自らサマンサに話しかけ、「やっぱりこの結婚は間違っているんじゃないか」と言い出す。そのセリフを聴いたサマンサは「やっぱり私じゃないとダメなんだわ」と言い、その世界を去る。

 よくある話ではあるけれど、こういう関係性を望んでいる人は、(少数派かもしれないが)それなりには多いんじゃないかと思う。
 しょせんタイミングだ、ただのステータスの一致だ、という関係性は、恋愛関係に限らず空虚である。唯一無二でなくとも、何かのホンモノが介在していてほしいと願うのである。

 でもきっと、そんなこと以上に、出会う前の大切な人の決定論的過去の不条理に対して、何もできていない自分を自覚すると、不甲斐なさと無能力さを感じてしまうのだろう。
 だったら、タイミングを超えて、過去も未来も現在も超えて、空間さえも凌駕した場合に、抽出された本質に対して、より良くすることを諦めない、というスタイルをとる他ない。

 どーせタイムマシンなんてないのであれば、時間依存性も空間依存性もないホンモノを、磨き上げていくしかないのだ、と思う。
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"能力と評価"を超えて

2019-01-07 22:35:05 | Weblog
 政治力学や即物的なパラメータを除き、自分の本当の能力だけで評価されたいと願っている人は、案外多い。
 権威に媚び諂っていたからとか、若いからとか、逆に年齢を重ねているからとか、性差による差別とか、そういった理不尽な事象を排除して、個々人の能力に即してのみ、成果や仕事を評価してほしいと願うことは、ある意味では自然なことである。

 しかし、実際に、能力だけで評価されてしまったら、なんとも理不尽なのではないだろうか。

 個々人の明確な違いは遺伝情報であるSNPsによって規定される。ヒトであるというだけで、DNAは99.9%同じであり、わずか0.1%の差異によってここまで個性豊かな振る舞いを保持しているのだ。
 DNAと周囲の環境は個人の力では絶対に変えることはできない。だから、単純にどれだけ時間をかけたか?によって、評価される世界。これは、かなり理不尽に思えるのだが、果たして、みんな、そんな世界を本当に求めているの?

 理不尽な評価は世の常である。評価はどこまででも理不尽であり、能力とは一切相関が無いかのようにさえ思える。
 でも、能力だけで正しく評価されることは、果たして本当に平等なのだろうか?高い能力を正しく評価することは、それほどに人類全体にとってより良く仕向けるものなのか?

 10年以上前に聴いた話だが、ドイツのある医学部の入学試験では、定員100名に対して、50名までは学科試験の成績のみで通過させるが、学科試験の成績51-150位からは、まったくのランダムに50名選ぶそうだ。これは、入学試験の評価基準そのものに対する疑いを反映させたシステムであり、かなり示唆的な取り組みに思える。

 極限に公平な評価というのは、評価方法そのものが精緻でなくてはならない。これを審査側にすべて託そうとするのは、理不尽な評価以上に、極めて理不尽である。
 精緻ではない評価方法から承認されることについてself-consistentに解こうとすることを、「頑張った」とか「対策をきちんと練った」と呼ぶのは、ただの最適化に過ぎず、その信仰そのものにそこまでの価値があると、誰が定義できよう?

 そう、我々は、理不尽だからこそ頑張る。理不尽だからこそ、その事実を変えようと、進捗していけるのである。
 そして、もっと言ってしまえば、世の中に理不尽な評価があってくれるおかげで、頼んでもいないのに、この世に突然生まれさせられて、絶対に死んでしまうという圧倒的な理不尽を、一時的に忘れることができるのである。

 そのような圧倒的な理不尽を目の前に、そこにどのような物理現象が潜んでいたとしても、俺個人としてはあまり興味が湧かない。だから、、俺のことを能力で評価されるのは、大っ嫌い。
 承認や評価されてきたという実績なんかよりも、俺が胸をはって誇れるものは、目の前で困っている、自分の改善できる範囲についてはきちんと直向きに改善を促し、誰かにとってより良くしようとしてきた回数である。それは、誰にも評価されなくても、誰からも認めてもらえなくても、この圧倒的に理不尽な世の中を生きていくだけのモチベーションになる。

 貴女が自信にすべき事柄も、実績でも能力でも承認でもない、それ以外の何かなんじゃないかな?
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消したい記憶の原罪

2019-01-04 04:34:57 | Weblog
 消したい記憶を消す方法なら、よく知っている。
 まず重要な認識としては、「消したい過去の事実」と「消したい記憶」とは違うということ。事実は絶対に消せないから、それが受け入れられない人とは決別するしかない。でも、消したい記憶なら、ある程度はコントロールをすることができる。

 一時的な手段で最も効果が大きいのは、皆さんご存知アルコール。アルコールが何かの作用を齎すというよりは、摂取している私自身を自己認識することでフィードバックさせて、別の意志に集中させていく印象に近い。量と度数をコントロールすることによって、時間差を与え、そのなかで泣きたくなる私を抑え込んでみる。
 でも、結果的に泣いちゃってもいい。泣いちゃったのもお酒のせいで、泣かなかったのもお酒のせい。大義名分を最初に与えてくれる点で、アルコールというケミカルな要素はとっても優れている。

 酔いが醒めて、すっきりと目が覚めたときほど、起き上がりたくない自分を感じたりして、人知れず涙を流しちゃう。これがお酒の副作用だったりする。誰にも見られていないなら、何にも代えられないなら、それは無効化されるってことじゃない?
 だから、お酒は、感情を時間に対して狭める効果があるもの、と私は定義している。

 でも、こういうことをやっていられない日常だってある。いつも酔いつぶれることができるなら良いけど、ある程度の年齢を重ねると、そうじゃない日々のほうが長いはず。
 だから、まだお酒が飲めなかった小さな頃みたいに、まったく別の何かに集中して、その世界の中に入り込む。だって、その世界の中に入ってしまえば、消したい記憶と別々でいられるから。別々だと思いながらも、それにすでに出会っている幼少期の自分を羨ましがって、幼い私に「貴女は、まだ、これの本当の価値をわかっていなかったのね」と囁いてみる。

 そう、消したい記憶は、必ずしも悪い面ばかりではなかったはず。
 消えてしまう想い出が、かわいそうじゃない?必ずしも悪い面ばかりじゃないはずで、確実に今の私を形成させているのに、どうしてそんなに消したがるの?

 それは、きっと"消したい記憶"が、直視したくない現実を直視しないために頑張った結果、起きてしまった悲劇だから。
 本当は、元々の直視したくない現実に向き合わなくちゃいけない。その義務から自由になるために努力した結果としての"消したい記憶"。でも、、不変だと思ったからこそ飛び立ちたいと思った。仕方ないでしょ?

 そこまで開示してしまえば、彼はきっと無慈悲に、ただの正論をぶつけてくるのかもしれない。
 『本当にそう?今からでも、できることをしてみたら?今生は一度きりの奇跡。変えられる可能性があるなら、現実に向き合わないと』

 精神面での体力をつけなくちゃいけないのはわかってるんだけどね。
 ちょっと待ってよ、と思っている間に、タイミングを逃す可能性に不安感を抱く。それすらも、『そんなことない。時間依存性のないものこそが、ホンモノだ』って言ってたよね?本当に信じていいの?
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2019年のPrélude

2019-01-01 05:08:36 | Weblog
 2019年になりました。
 今年で、このページも15年目に突入します。びっくりよね。こんなに長くこのページで発信するつもりはなかったのですが、これも読んでくれる人あってのことだと思います、、とか無難なことは書きません。こんなに長くこのページを続けられているのは、俺が、しつこくしつこく、ここで文章を書き続けた、俺の努力の賜物だと思っていますが笑、一応、読者のみなさんにも、感謝をしておきます。ありがとう。そして、これからも読んでね!(笑)

 さて、毎年ここで目標とかこういう年にしたいとか書いていますので、今年も例外にならないように、それをしようと思います。
 今年は、あんまり成果重視を狙わない年になるかなぁと思っています。昨年は、それなりに成果を出したと思うし(それがどういう意味かは賢明な読者に判断を委ねる)、そのぶん今年は、能力向上を目指したいと思っています。

 具体的にお勉強したいことを以下にあげてみます。

 1.Fetter and Waleckaを精読する

 まぁ、原点回帰というか。卒研の時に部分的には読んでいたし、あの頃よりは英語力はあるはずなので、今年はこれを読みつくそうと思っています。そして、重要なのは、「やめないこと」なのですよね。
 おそらく、やめなければ辿りつけるはず。久しぶりに、進みがめちゃくちゃ悪い本を読んでいるので、なかなかダルいですが、もう少しちゃんと多体系の量子力学を理解したいと思っています。

 2.フランス語

 最近サボりがちな二外ですが、今年は注力していきたいところ。
 昨年の4月のあたままではアメリカにいましたので、まぁ英語にだけ注力してていいかなぁと思っていましたが、やはり、フランス語(できればイタリア語も、と思っていますが、混じっちゃうから今年はとりあえずフランス語)もやっていきたいと思います。
 スタンフォード大学の時枝正先生や、海堂尊著の小説「ブレイズメス1990, スリジエセンター1991」にでてくる天城雪彦先生に憧れて、不純な気持ちではじめたフランス語ですが、、二外はやると、意外と英語力が高まる気がするし、価値観が広がっている気もする。頑張りたいけど、、英語もロクにできねーくせに、って感じよね笑。

 3.簿記を勉強する

 なんか、ここまで書いて、4年前に立てた目標とほぼ変わらねーんじゃないか、という気がしてきた笑。
 まぁ、でも、しゃーない。また、ゼロから始めないとあかんなぁと思う。カネ管理のできない理系じゃ、自分で資産運用もできないし、本当の意味での経済的な独立もできない。親からもらうカネが会社からに移行しただけでは、独立とは言えません。そのためには、簿記を少しずつでも勉強したいと思います。

 4.その他

 1-3では、31歳から32歳になるわりには、思考力の底上げを目指すものが中心的でしたが(そこに「25歳限界説」でツッコミをいれたい人はいるかもしれませんが、俺の精神状態は、無職とカワラナイので大丈夫なはず笑)、ここでは、それ以外にマスターすべき事柄・やりたい事柄を列挙しておきます。

 アクセス解析の正確な読み方を会得する、htmlでブログ等を書けるようにする、動画編集の質を高める手法を学ぶ、アカペラ以外の音楽をアップする(たぶんピアノ弾き語り+ハモりみたいなやつ)、いいかげんネット小説を書ききってしまう(小説は最後まで書ききった経験が大事。はじめる能力も必要だが、まとめる能力も必要なので)、大衆ウケの短い動画を作る、絵心を学べる環境を整える。

 というわけで、こんなもんですかね。多すぎるかなぁ。もう少し、選択したほうが良い気がしますが、とりあえずこんなもんでやっていこうかと思います。

 …一年後のたかはしけいよ。

 きっと2019年の終わりを迎えようとしている今、君は毎年のようにこのページを読み返してるよね?Fetter and Waleckaを読み続けているかな?フランス語を続けているかな?簿記を勉強できているだろうか?それとも、それらよりも何か大事な価値に気が付いたんだとか言って、投げ捨ててしまっただろうか?

 どうなっていたとしても、俺は君の判断を尊重するし肯定する。だけど、これだけは忘れないで欲しい。
 「挫折したからといって、何度でも、いつからでも、やり直していいんだぜ?」
 すると、きっと君は、『そんなことはわかっているよ』と思うだろう。ならば、さらに訊こう。

 「本当にわかっているか?」
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