たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

How do we make it time-independent?

2012-11-27 00:30:21 | Weblog
 実質的に上手く行ったのに何故か満足できていないなら、多くの場合、その成果が受け入れてはもらえない集団をメインに考えているから。
 この程度の論理性じゃぁ、こんなパフォーマンスじゃ、この方向性の成果じゃあ、きっと彼ら彼女らはダメって言うだろう、って考えてしまうのであれば、今いる集団に合っていないのかもしれない。

 ただ、こういう感情の中でも、実質的に上手く行ってるときは、まだイイ。
 問題は、実質的に上手く行かなかったとき。

 ホンモノを求めて、その中枢を審査基準に選んだはずなのに、気持ちの部分に依存して不安感で満ちて揺らいでしまった時に、つい『そんだったら、即物的に勝れているものを、表面的に好みのを、選んだほーが良かったじゃん!!』って思ってしまう。
 思ってしまうということは、イコール、相手に伝わってしまう。

 まだサチって無いのに、ずっと、時間に依らない、って無駄に純粋だから、結果、何も得られないのかも。
 変数が多くなればなるほど、優位性の言葉の中から恣意的に選ばれるようになる。そんな物理現象に打ち勝つようにして、本当に価値あるモノや、ホンモノを抽出できるならば、それは、ヒトとして生きている価値に溢れているのだと思う。

 これは結構難しい問題だ。だって、ビックバンから宇宙が収束まで、世界のすべてはすでに定められているのか、そうじゃないのか、いくつかの現象の中にそうじゃない部分があるとするなら、それはどのような場合なのか、という問いに答えるようなものだからだ。
 最初っから決まっているのか、それとも自分で選べるのか。

 まだ定められていない、定めることはできない、いくつかの物理現象の中に、生命現象が入っていると信じているけど、だとしたら、あんまり最初っから、求め過ぎてはいけないのかもね。
 最初っから定まっているというと、それは運命的で、ロマンチックっぽいけど、実はそんなことは全然無い。ある個体がある対象を自らの意志によって選べるのであるなら、それのほーがよっぽど、ロマンチックだ。

 ちなみに、ここを量子論に落とし込んで、確率的だ、っとするオチの持っていき方がよくあるけど、それもロマンチックでは無い。存在が原理的に確率であるなんて、なんと、くだらない物理法則だろう(だからといって、量子論を否定しているわけじゃないけど)。
 確率論や決定論ということを超えて、意志というものがあって、それによって選ぶことができる、選び合うことができるほうが、楽しそうだし、幸せそうだと思う。

 だとしたら、時間に依らないはずだ!、っと思い詰めるのではなくって、いかにしたら時間に依らなくなるか?、を考えてみたら、素直になれるのかもね。
 そうすれば、一番大事な気持ちを後回しにすることも無く、願いが叶うのかも?

 きっと実質的な結果に満足していないわけじゃない。
 ただ、もっと早くに気が付けていればな、っと想っているだけだ。
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このページについて20121126

2012-11-26 02:32:51 | Weblog
 さて、なんか毎年恒例になってきていますが、先週一週間は、アクセス解析無料キャンペーンの週だったので、皆様が、どんな検索でこちらのページまでいらっしゃっているのか、どれくらいの頻度で何時に観ているのか、かなり詳しくデータをもらいました。
 別に俺が、欲しい、って言ったわけじゃなくて、更新ページに勝手にでてくるんだもん。

 いやー、いろいろ分かるんですけど、一つだけ言っときます。僕の名前で検索してこのページまで来るの、やめてもらっていいですか?笑 確かに俺が悪いんですが、ちょっと怖いです。是非このページをお気に入りにいれてやってください。したら俺にわからないし、誰もあなたのパソコンなんて見ないですから。
 俺、一応、情報系にも強い、一流の理系だからね(笑)。あんまりナメないでね。

 あ、そうそ、かなりの人が、理学専門書の評価の記事で、飛んできていただいていますね、ありがとうございます。今後、このページの方針として、もう少し、理系要素を増やそうと思いました。
 そして、これはなるべく今年中にやろうと思いますが、理系がよく使う本や理学専門書についてのレビューを、もう一度やろうと思います。あの記事は確か3年前だったと思いますが、それよりも、かなり知識も読んだ専門書も多くなりましたし、、数学、情報、物理、化学、生物の各分野から、専門書や便利なサイトを紹介する記事を書こうと思います。

 いつの間にかこのページは7周年をむかえていて、ここから8年目です。これも毎回言ってますが、そろそろ昔の記事は消そうと思います、マジで(4回目くらいの宣言)。精査するのも、全部消すのも、めんどくさくて一切消してないですが、いい加減、恥ずかしくもなってきたので。笑

 イイ機会なので、近況を申し上げます。

 今年の4月から新しい研究室に移りまして、ちょっと忙しさが増しましたが非常に充実した日々です。テーマも、初めてある程度のラインを超えて満足できる内容でして、それらを毎日扱えています。
 同じ学会に出ても、訊きに来る人が俺の研究を単に「利用」しようとするのではなく、理学的な意味として、面白い、と考えるような研究になりました。やはり手法や系の構築よりも、結果を観て、うーん、って考えるような研究の方が、テーマとして高位であると思いますし、そのような研究テーマを一緒にモノづくりさせてもらえてる、親身に指導してくれる人も、一緒に作業をしていただいている人も、本当に心から感謝しています。

 今の環境の人達は、テーマを非常にきちんと進捗してきます。今までは、見えない相手を想像して、外の人たちはこれくらい進捗してくるだろうから、ってやってましたが、その普通が目の当たりにできています。即物的に賢さはさほどないですが、本質的にモノゴトを捉えようとするという点では、今の研究室が一番だと思います。
 あと、これは最近の課題になってきてしまいましたが、守られている時間帯が長いです。もう少し、緊張感を持った方が良いのかもしれない、って想ったりもしますが、まぁ、今まで怖かった分、こういう日々はこういう日々で、上手く行って無いわけじゃないし、イイか、っとも。

 外部の友達と会う機会が減って、それだけが少しさびしい。まぁ、ほとんどみんな就職したから仕方ないんだけどね。その分、博士課程以上の人達との信頼関係は深まっています。やっぱり減った分だけ増えるのかな。。
 音楽も外で全然しなくなっちゃいましたが、音感は、この間に、またもう1ランク上がりました。階段を下りてくる音で誰が来るかを言い当てる率もすごく高くなってるし(笑)。この繊細さを、実験にも、どんどん使っていきます。そういえば、ピアノを弾く時間がちょっと長くなったかな。

 っま、それくらいです。
 では、また、明日以降はいつもの感じの記事に戻ります。
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時空間を超えて

2012-11-25 00:53:05 | Weblog
 『時間使わせて本当にごめんなさいね。。でも、、どうですか?どう思いました??』
 「いや、あれはダメでしょ。わかるよ、あの感じ。あのテイスト。前のとこで知ってるから。」
 『テイストって。笑』
 「良かったね、本当に。もう違うんだもんね。」

 例えば初めて自転車に乗れるようになる時、初めてペーパーテストのみでの受験を控えている時、初めて海外に行く時、経験者や熟練者の本当の意味での優しさによるしっかりしたサポートが無ければ、決して上手くは行かない。
 サポートがほぼゼロのときにそれが出来ないからといって、自分を責める必要は無いし、悩む必要は無い。それを変えられないからといって、未経験者の中の誰のせいでもない。

 『僕が、言ってる言葉も、常に共通です。長い間話していますが、同じことしか申し上げていません。つまり、指導教員には、常に味方であって欲しいと言うことです。』
 【指導教員はもちろん味方ですよ。だってね、教員側だって、能力をつけて、結果を出して欲しいと思うわけですから。】
 『悪いですが、とてもそうには思えません。僕が言ってるのは、本当の意味で味方、という意味で、あなたにレフリーを要求しているわけではありません。』
 【それは違いますね。レフリーであることが、味方であるということですよ。】
 『仰ってる意味がわかりません。僕の言葉の意味は、あなたには理解できないくらい難しいようです。』

 ましてや、それをまったく経験していない人間が、自分以外も含めたその系全体を変えられる能力が無いからといって、何かの責任を背負おうとする必要性も無い。経験しているか、経験していないか、の差が、こんなに大きいなんて、外に出なければ、わからなかったことなのかなぁ。。

 原理的に無理。
 同じ状態をよく知っていて、同じことから逃げてきた人と一緒にいることで、絶対に無理だったんだから大丈夫だよ、っと、言葉にならない言葉を、かけ続けられているような気がする。
 今やっと、それ以前のもとの俺に戻ってこれていて、そして、この系についても、解決の糸口を見いだせているような気がする。それくらい、時間は、簡単に物事を解決してくれるのかも。いや、俺が選んでるのかな?

 少なくとも、俺は、自分が経験したことについて、しっかり未経験者をフォローすることができる。
 例えば後ろを軽く抑えながらペダルをこがせること、落ちてしまったとしてもいくつもの進路を一緒に考えて明日からより良い場所を目指して進ませてあげること、旅立つのに必要な荷物をアドバイスすることも、怠らずに出来ている。
 それだけで、十分じゃないか。十分優秀じゃないか。っと、思考によって得られた解答は、そう言ってくれる。

 パラメータが少なければ、逐次的だから、順番が重要になってきて、時間が依存してしまう。
 パラメータを多くすればするほど、並列化するから、順位が重要になって、時間が依存しない。

 当たり前なのに難解な数学の定理の中で、いかにすれば、自らの絶対的な思考力を、有効に系に寄与していけるか、明確になってゆく。
 そうしてけば、時間も空間も超えられて。。

 時空間を超えてみなければ、ずっと楽しいことが保証されない気がしているけど、、自分だけ安全なところから、実質的に良い方向へ向かえそうな何かをしたとしても、誰も応援してはくれないよね。
 そんなことも、気がつかなかったなんて、やっぱり、この選択で、「良かったね、本当に。」
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気持ちを超えて

2012-11-21 00:41:05 | Weblog
 信頼関係は時間に依存しない。関係が長ければ勝手に信頼関係が強まるものじゃない。
 たった一年や半年くらいでも、きちんとした関係を結べて、それなりの結果を出せて、達成感を得ることが出来る。

 信頼関係の判断の仕方として、俺は、どれだけ本音をぶつけられるか、どれだけ本当のことを言えるかで、評価する。
 だから、傷つくことを恐れていては、いつまで経っても縮まらないし、深まらない。勇気を持って、正しいことを正しいと、間違っていることを間違っている、と、想った事を喋る。これは、なかなか、どのような関係でも、難しい。

 本来はー、とか、注意しなきゃ、とか、どーせこうなんでしょ?、とか、でもココはすごいね!、とか、それら一つひとつが、信頼関係を確認しつつ、深めていくことになる。もちろん、距離を無理に縮め過ぎてはいけないし、間違えればムっとするんだけど。
 正しい距離の詰め方をした関係性の中で、わざと冷淡ぶった一言を言った後に、振り向いてニヤニヤ微笑しながら、俺の表情を伺う、その表情は、一体系に帰着された系としての勝ちを意味している。演技が楽しいのは、この部分だよね。

 俺は、即物的に、こういう綱引きが大好き。そして、そんなやり取りを、俺が心からくだらない、と思ってしまえば、それまでなのかもしれない。
 あくまで、必要条件。お遊びとして好きなのであって、ホンモノが必ずしもそこにあるわけでは無いのだ。

 気持ちを超えて、さらに深い領域に語りかけるようにして、繋がれるかが成果。
 そんな成果を得られたときに副産物として得られた作品は、実質的にも素晴らしく、どんな相手、誰に対しても負けない、Self-consistence性を持っていて、価値があり、有益であることが多い。

 だとしたら、自信を持って、前を向いて、毎日を楽しめばイイよね。
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不条理を超えて

2012-11-19 02:43:12 | Weblog
 とても小さな枠の中の社会では当たり前のようになってることが、外ではまったく通じなかったりする。
 これはこの集団だけのこと、って、頭でわかっていることは、あんまり問題にはならなくて、外の世界の人と接して、それでやっと気がつくことが問題になってくることだったりする。

 みんな、たったひとつの集団しかしらないのに、一般化してしまいがちだ。
 一個の会社しか所属したこと無いのに、社会はー、会社ってーのは。一つの研究室しかいたことないのに、研究はー、研究室ってのはー。それについて、違うんじゃないの?、って問題になるとき、他の場所に行くと、すぐ見当違いであることが正しいことが分かる。

 だから、ある程度は、誰かの話を聞いてみるだけじゃなく、外に出てみて、実際に内情を知って、そういう経験をする必要があると思う。

 ただし、たとえば一個の研究室しか知らないのに、一つしか研究テーマ持ってないのに、研究を一般化して語ってはいけないわけじゃないと思う。
 どんなことでもそうだけど、大義名分を本当のことだと勘違いしなければ、それでイイのだ。あくまで大義名分はイイワケであって、ある事象を本当の自分の心の中に飲み込んでいけば、見失わない。そのようにすれば、決して一般化を間違えることは無いのだ。

 不条理の中で、困難を乗り越えた直後でも、笑って他のみんなを立てられる強さを目の当たりにしたときに、よりいっそう、そう想えた。
 脈々と引き継がれていった優しさの中で、損をしている度合いと貢献度と強さと気持ちが入り乱れるものをすべて超えた、純粋な優しさを、慧眼さを持ってして、見逃さなかった。

 そのときに、なぜ俺が、この人を選んでいるのか、この人達に行きついたのか、骨身に応えた。
 あのときみたいに、この強さを、今あの瞬間に、魅せられる必要があったからだ。

 まったく同じ種類の笑顔で、、なぜか泣きそうになるくらいの、平凡さのなかの脅威的な優秀さを、より小さな枠の中の現実的な系で感じとれることに、幸せを感じられる。

 だって、きっと、結果は後から追いかけてくるから。
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有益な情報の抽出法

2012-11-17 00:03:57 | Weblog
 人生は情報戦。頭のカタイ人が、どんなに全力で否定しても、そうなっているのが、今の社会の現状だ。
 この戦いに勝つためには、有益な情報を得ようとする嗅覚が大事だし、本当に自分を想ってくれる人との関わりを大切にすべきだ。なにも情報のために誰かと仲良くなる必要は無いけれど、必要以上にそういうことに対して抵抗を持っていてもいけないのだと思う。

 インターネットが発達している今の時代、むしろ情報は溢れている。とすると、要らない情報を消す方が大事で、本当の意味での信頼関係がある人からの確実で深い情報を持っているほうが、変に媚びを売って得られるくだらない関係からの情報よりも、遥かにイイ。
 今や、検索すれば何でも出てきてしまう。シチュエーションに適したお店、難しい用語の意味、ラクそうな研究室、就職や進路の情報、そして、俺の頭の中もね。だけど、だからって全員が成功できるわけじゃないし、俺の頭の中だって、ここからじゃ、何もわからないのと同値だ。

 きちんと情報を選出していくためには、絶対的な思考力と信頼関係が、キーとなる。

 (平面)図形問題はどこに補助線を入れるか?がポイント、っと思ってるヤツは、図形問題が解けない。逆だ。補助線を追加できるだけ追加して、どの補助線を消すべきかを考えると、解ける。
 いかに重要な要素を切り出してこれるか?いかに重要な情報のみを抽出できるか?それが真実を知る上での指標である。

 数多くの実験データ(=情報)の中から、どの情報を切り捨てると、見たい真実が抉りだせるかを考えないといけない。その上で、統計学をベースとした解析を行うことによって、新しい理論が発見される。
 なのに、最小限のデータ数しかないのにも拘らず、いかにしてSelf-consistentに話が繋がるかばかりに気を取られていたなら、価値の無いくだらない研究しかできないと思うし、それをすることによって無理矢理研究をするくらいなら、研究をしないほうが幸せになれる。

 それはまるで、大義名分ばかりを追いかけ過ぎて、目の前にあるモノを掴まないままでいるのと、同様なのかもしれない。

 手法や、やり方や、教科書通り、筋書き通りにこだわるのではなく、それを受け入れながらも、気持ちの中でも、大切な部分を抽出していくことが大事なのにね。相手の気持ちも、自分の気持ちも、双方の共通の気持ちも、気持ちの中のどうでもいい表面的な部分にばかり目を奪われていてはいけないよね。

 その視点に立った時、今のこの状況は、少し、違和感がある。
 近々、ここから、大きな意味で、系がいきなりガラっと変わる予感をしている。有益な情報があるわけではないけどさ。
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一縷の望み

2012-11-16 02:12:43 | Weblog
 履歴に依存する現象は解析しにくい。
 ヒステリシス(履歴効果)が効いてしまうと、系を掌握しつくすのに、一歩も二歩も遅くなってしまう。

 それは自然科学だけでなく、俺らが普通に選択することの中にも含まれることで、今、俺がこの集団に所属しているのも、結局は自分の意志ではなく、所詮ヒステリシスによる効果なのかなって思ってしまう時もある。つまり、明確に選んでいると思っていることでも、流されているだけなのかも?
 それと同時に、それはそれでいっか、って気持ちにもなってくる。ほら、ちょっと運命っぽいじゃん?笑、ってね。

 昨日も今日も、きっと明日も、Macブックを持って、ピペットマンを持って、白衣を持って、保護メガネを持って、研究室間を移動していると、確かに俺は、色々な場所を選び、その場所で色んな手段を選んでいるようにも感じるけど、結局は履歴に依存しているのかも、っと思うと、自分の能力と今後について、少しだけ不安になったりする。

 好きなものを選ぶときは、大抵、その好きなものをよく知らないまま選ぶことが多い。
 その好きなものとともに、行動や行為を繰り返す中で、ちょっとでも不安になる時、ほんの少しだけ信じられなくなる時に、自分の好きって気持ちが、結局履歴に依存していて、誰かから与えられたものなんじゃないかという疑念は、そのまま好きなものへも影響するから、いつまでもいつまでも満足できなくって、追求してばかり。
 ほら、もうその辺りで、とりあえず論文にしてまとめたら良いんじゃないの?って、誰かに対して想ったりするくせに、俺自身だって、いつまでも追求して、一歩をなかなか踏み出さず。

 そんなときに、絶対的なリーダーシップ、もしくはたった一人で状況を打開できるような能力で、めちゃくちゃ不安な状況下でも笑い飛ばせたら、っと思ったりする。
 そして、そういうことが出来る人を他の系として観て、少し安心することが出来る。一縷の望みがあるんだ、って思える。

 人がインタラクションする力を信じたいから。人は簡単に好きなものから別れないって信じていたいから。
 常に、そう思いながら眠りにつきたい、たとえ一人で寝るんだとしてもね。

 確かに、履歴現象を掌握することは難しい。
 でも、こちらが思ったように対称性を破っていく(=選択していく)ことは、可能か不可能かで言えば可能だ。目の前にあるのに観えていない、気持ちについての、いくつかの重要な変数を知ろうとすればね。
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優秀な仲間たち

2012-11-12 02:23:23 | Weblog
 どんなモノづくりをするにしても、その中にいる人が大事だし、それによって価値が変わる。
 綺麗なモノや美しいモノだけを目指して、邪魔になる気持ちや感情を無視していけば、確かに美しくはなるが、それだけだ。綺麗な言葉や正しい方法や表面的に楽しい振る舞いで、矛盾なくお話を創ったり、無難さを装ったりすることは、実は非常に簡単で、それに対して真剣になっても、どこか楽しくなかったり、無意味さを感じるようになってしまう。
 そういうことは最後に持ってくればイイ話で、最初からそればかりにとらわれていてはいけない。

 一番ノリが良い集団であるAグループのなかで、その方向性を担う僅かな人は、能力不足の人を排除する働きかけをする人間と、とてつもない能力者であるためにすべての人を受け入れていってしまおうと働きかける人間に分かれる。もちろん後者はレアだけど、Aグループの中で、こういう人を見抜きながら、その稀有な能力の使い方を見させてもらえれば、小さい集団のなかでのより良いモノづくりの仕方に指針を与えてくれる。

 能力に対してプライドが先行していて、それによって全体を引き上げようとする働きかけは、研究などの堅い集団では、ほとんど取り入れられていなくて、成果と対等なプライドを持つ、自分のことしか考えられない人ばかり。
 成果と対等なプライドを持ってしまうことは、ノリが良くない人達が、ついやってしまうことだけど、それでは、本当の心の底ではムカつかれるだけだ。能力で記述される成果の函数がC1級じゃないからそうなっちゃうわけだけど、能力とプライドが対等であれば、誰からも何もムカつかない。
 そして、Aグループのなかの本当に能力がある人は、それをきちんと理解した上で、能力よりも1レベル高いプライドを持ってアピールし、全体を活性化させる。

 つまり、すごく能力があったとしても、ちょっと自信過剰くらいじゃないと、あんまり輝いて観えないんだよね。

 ただし、注意しなきゃいけないのは、これはあくまで手段だということだ。
 それを使って、いかようにも悪い方向にも持っていける。

 良い事と悪事は、いつだって紙一重。それがおおごとになればなるほど、表層上では見えなくなってきて、紙一重になっていく。
 言葉では何とでも言えるし、本質的にはどんなに悪いことでも、即物的に良いことのように響かせることはできる。あの手この手を使って、隠すことだけは、みんな得意だし。

 だから、いちいち、言葉を心に飲み込みながら、喋る必要がある。
 それは、すべての人の心が最終的には優しいことを前提にしながら、いつも使っている言葉だけど、せめて、その願いだけは、真実であって欲しい。

 飲み込めるか、飲み込めないか。

 言葉だけで思考だけで理解することなんて、機会さえあれば、誰でも出来るのだから、自分の心や気持ちに通しながら、本当の意味で、色々な能力を自分のものにしていきたいものだ。

 今現在のモノづくりをするために仲間にしてもらっている集団に対しても、自信と誇りを持っている。
 能力以上のプライドを少しずつだしながら、より良い方向に持って行ければと思う。その根底は優しさで満ちていることを期待して。
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supportable(x1,x2,x3,...,t) → supportable(x1,x2,x3,...) ,t→∞

2012-11-11 04:30:39 | Weblog
 内部観測することで内部の系全体の理解をすることができるのか?難しい問題だと思う。
 離れてみて、その集団の真実が、初めて見えてくることも多い。内部にいる限り、外部では簡単に分かってしまうことすらも、理解できなかったりするのかもしれない。

 俺自身が最近それを感じている機会が多い。残念ながら悪いことばかり出てくるけど、ここまで正確にself-consistentに解けるのか、というくらい、ついこの前までいた集団の真実が見えてくることがある。解決策も含めてね。
 内部にいるままでは絶対に掴めてこないこと。それは、俺の方が数多くの比較となる場所が存在していることに起因していたりするが、それが現場をそのまま見ていると言うことよりもアドバンテージになるということが、面白い。

 理詰めと経験。自然科学の言葉で言えば、理論と実験。
 その両者についてシコウしなければいけないし、そうする手立てとなる指針を誰かに提供できるならば、より良くしようとすることができているのだと思う。そこに、理論研や実験系といった枠組みや、数物化生地といった分野も関係ない。

 それが最終的に系の真相を掴めなかったとしても、誰かに対してそういう風に取り組むことにこそ、意味がある。

 【この近似が上手く行くかわかんないんですよねー。】
 『じゃぁ、描いてみよっか。俺、これで描いてみるよ。』
 【あー、そっか。】
 『っていうかさ、tいくつくらい?』
 【具体的な値を入れて計算するんですね。】
 『おー、やっぱり、計算上もこれくらいであってるから、まぁ、これはこれでいいんじゃない?』

 同じように、あの時せめて今現在の実力が俺にあれば、攻めの一手を、価値のある一冊を提供できたのかもしれない。内部観測問題は、系がユークリッド空間でなくても良い。それが時間の空間でも同じなのだ。
 結局、手ぶらでは帰れない俺を見抜いていた、ウソの無い笑顔によって助けられたのは俺だし、逆に、その表情を創りだせたのなら、俺が助けているのかもしれない。助けることは助けられることで、助けられることは助けることだから。

 本当の意味で、時間を超えることは並の難しいことじゃないみたい。
 ただ、それについてだって、今できることをしていけばイイのだ。その場所を離れてから解決法を思いついたって、ユークリッド空間的に内部にいるときにしか、本質的な解決はできないのだから、思考力と経験を活かして、今できる系について考えなきゃね。

 もちろん、個人を拾いだすことは造作も無いこと。でも、思考の階層なんてどこに定義しても良いんだから、などと言って、内部観測問題を甘くみてはいけないのだと思う。
 それに、明確に望まれない限り、俺はビクとも動けないし、動かないから。

 例えば、ここからまた数年後には、どんどん時間の距離は縮まって、ついには時間を少し超えられるかもしれない。でも、、

 「あなたさー、待てないじゃん?」
 『そんなことないっすよー。』
 「えー、待てないタイプだよ。待ってると寝ちゃうしね。」
 『言いたい放題っすね。笑』
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生きているだけで勉強になる

2012-11-08 01:28:06 | Weblog
 気持ちを一番大事にしたり、そこに誇りを持たなきゃいけないんだけど、とはいえやっぱり、能力を上げることは二番目の実質的なこととして、とても大切だ。
 特にすべての能力のベースとなる思考力を向上させることが大切で、なるべく偏りが無く、思考力を上げていきたいものだ。

 思考力向上について、一番邪魔になるものが決めつけである。特に、自分に対しての決めつけは良くない。
 「自分は○○だから。」ということのほとんどは思考力を上げないイイワケに過ぎない。理論でも実験でも、両者のことをとても良く知らないといけないし、真実を掴むために手段を選んでいる暇は無いはずだ。物理でも化学でも生物でも、必要なときに必要な知識と考え方を拾ってくるのが大事で、分野を意識してはいけない。
 もちろん、理系と文系、男だから女だから、日本人だから欧米人だから、すべて決めつけてはいけない。必要なときに必要な区別をすることは必要だけど、それ以上にそれを追求しだしたらまずいよね。

 本当の意味で思考力を上げる習慣がついていると、生きているだけで勉強している状態になる。
 勉強のためのスイッチを入れなくてもイイ。何を観ていても、何を聞いていても、どんな集団とどんな行いをしていても、自然と考えてしまうから、すべてが勉強になってしまう。

 そういう力を、もっともっと大事にしなきゃいけないし、俺自身も今以上につけていかなきゃいけないと思う。
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Supercalifragilisticexpialidocious -atoning for educability through delicate beauty-

2012-11-05 00:57:43 | Weblog
 自分の判断で行動すると大抵は失敗する。
 レールに沿って、ルールに則って、誰かの言うことを聞いているほうが遥かにラクだ。たとえ不条理なことがあったとしても、傷つくようなことを言われたとしても、怒らないで、自分が我慢すれば、表面的にだけ受け止めていけば、寝れば忘れるようにすれば、本当の能力をつけなくても、成り上がっていける。

 厳格に、物理的に正しく、自らのディフェンスにこだわり、不必要なことを排除していけば、自分にとっては都合が良いし、ある時には優越感を抱けて楽しいかもしれない。
 これを突き詰めちゃうと、目の前にある大切なことが見えなかったりするんだけどね。実質的には少し指を擦るだけで、ものすごい楽しさが得られることがあるのに、その楽しさにノリ切れないために、無視し過ぎた結果は悲惨だと思う。

 俺は、表面的には上手く行っていて、でも心にはボロが来ている、ってほーがツライと思うから、そういうスタイルを取らないけど、根幹は同じようなもんで、そのスタイルがとても理解できる。
 よく勘違いされるけど、俺は言いたいことは全然言えていないし、何かの主張や、自分の意見、思い描く具体的な理想なんて殆ど持っていない。何ひとつ自分一人では決められないし、決めるべきではないとすら思っている。
 思考力によって、あらゆる函数と変数としがらみの中から、物理的に決定されることだけを宣言することはできる。さらに、俺が絶対的に信用している、好きな何人かの意見通りに動くこともできるし、彼ら彼女らの意見を想像して行動することもできる。だけどそれはオリジナルではない。

 ただ、表層的な指示に対して単純にその通りにのみ行動している人と明らかに違うのは、自分の中のモラルの教科書が完成されていて、それと参照し合いながら、大きな問題に対して他人の意見を選別できるところだ。
 もちろん、日々の作業については選択肢さえあれば自分自身の考えだけで決定できることも多いけれど、かなり大きい実質的でない部分を決定するにあたって、俺は、自分だけの考えで決定するには至れていないし、そのせいで普段も、本当の意味での主張はできていないのだと思う。

 モラルの教科書はかなり抽象的に書かれているので、具体的な例に落とし込んだ時に、初めて、その意味の大切さがわかることも多い。
 何が正しいのか、何が美しく、何が全員にとっての平等で、現状からどのように変化することに寄与できればより良い方向に行くのか。特に最後の方法論について、俺が知っている何人かの熟練者よりも俺は圧倒的に劣るので、まだまだ教育されなきゃいけないんだなっと思うことが多い。

 まぁ少なくとも、その高度な教育を受けることを許されている。その能力が、気持ちであったり、モラルの教科書であったり、言葉で色々定義はできるけど、こういう部分には自信を持ってもイイのかもしれない。それは、気持ちを一番先頭に持ってき続けた結果であると思う。

 繊細で美しいこととは何かを高度に教育される能力を償うこと(supercalifragilisticexpialidocious)が、もっともっと今の教育制度の中に必要だと思っている。

 たった数円で、たった砂糖ひとさじで、そのなかでの楽しさや有意義さが、極端に上がる。
 それは、数万円得ることよりも、階層を超えることよりも、新しい言葉を得て成り上がるよりも、人生において、価値があるものだと思っている。
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How to win

2012-11-03 03:03:20 | Weblog
 本来、絶対に負けたくないという気持ちがあるからこそ、前に進める。
 それが、負けたくない→試合に出たくない、という思考になってしまうのは、どうしてだろう?いつからだろう??

 当然だけど、負ける経験が無ければ勝てない。正当な試合じゃなくても良くて、不条理でもなんでも、負ける、ってことが大事で、そこでボロボロになることが大切だったりする。
 レベルが低い試合を繰り返していたとしても、そこに信念があれば、どんな環境でもパワーアップすることが出来る。最後に勝つことが大事で、今がすべてではないし、それどころか今なんて、自分自身の10パーセントも映し出せていない。

 現状を受け入れなければ何もできない。だから、超負けていると認知することが大事だし、どんな現状を見たとしても、現状を受け入れなきゃいけない。
 だけど、気持ちの中で、受け入れることがイヤだった、って感情を無視してはいけない。現状がイヤだなって思った事が信念のカケラであって、そう思い続けることができれば、それは信念に変わる。

 どんどん負けたらイイと思うんだよね。
 あとは、負けることがカッコイイ人を見つけ出してみればイイ。

 一人きり悩んで泣いた日々は無駄じゃない。そう言えるのは、不条理のなか表面的には負けていたとしても、信念を持って、本当の意味での主体性を持って、取り組んできたから。

 冷酷に突き放すように言うなら、
 『形式的に与えられたものだけを孤軍奮闘して努力したって、報われるわけがねーじゃん。』
 それによって残るモノは、しがらみが付随した即物的に崇高な言葉のみ。本当の能力(実力)無くして得てしまった、有能のアカシである言葉の暴走が、いかに怖いか、それを知る者は少ないのかもしれない。

 そのようなことを言葉として心に飲み込んだ時に、絶対に負けたくない→絶対に勝ちたい、に変わってくれたら、と心から願う日々です。
 誰がその人自身に対してどう思っているかはどうでもよく、俺がこういう風に願っていることが大事だと思っている。

 普段、よく言っているようなことだけど、本当に意味があることは何かな?
 それは、言葉を得ることでも、無難さでも、負けないことでも、思考力を上げることでも、穏便に済ますことでも、そのために誤魔化すことでも無くって、誰かの、誰かへの、恥ずかしくて顔を背けてしまうくらいの優しさであると思う。

 「優」しいということが「優」れているということで、だから「優」秀ということで、勝ちなのだ。
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気持ちがHermitianで表せるとき

2012-11-01 00:57:55 | Weblog
 どんな測定をしても誤差を取り除くことはできない。
 たとえ、定規で線の長さを測るのであっても、必ず誤差が生じてしまう。物理計測学によれば、最小メモリの10分の1までは読まないといけないので、まぁ、必ず誤差が生じるってのが、直感的にわかるでしょ?

 ただ、世の中には、計測における誤差とは別に、原理的に(状態が)ゆらいでしまうモノもある。どのようにものすごく努力したとしても観測できないモノがあるのだ。
 それは例えば「気持ち」なんかもそうだし、自然科学で言うなら、「時刻t」なんかである。

 超思考力を高めたとしても、基本的には、その人の気持ちを原理的に確実に分かることはできない。
 それは、能力が低いとか、多角的な視点が足りない、とかそういう観測に関わる問題ではなく、原理的に無理なのだ。

 ただし、気持ちに関しては、例外的に、理論的には誤差無しで完璧に把握できるときがある。
 それは、突発的な変化に対して、対象が演技したり取り繕うまでの時間だ。どんな熟練者であったとしても、突発的な誰かの言動に対して、演技しようとしたり取り繕ったりするまでに1秒はかかる。その一瞬だけは、「気持ち」がオブザーバブル(究極に理想的な実験であれば誤差ゼロにできる物理量)であり、きちんと思考力を高めて実験に臨めば、完璧に掌握しうる。

 測定に誤差はつきものだ。気をつけていても、必ず、誤差はでる。
 オブザーバブルに対して測定を行う時は、それが一瞬しか実験できないのであったとしても、系統誤差はなるべく小さくしたいよね。
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