この一年で状況は確かに変わっていった。それは俺の望む方向であったか、は、まだわからない部分も大きいが、何が理想で、何が現実で、何が受け入れられないか、が明確に縁どられていった一年であった。
それは現時点での自分の限界をきちんと把握できた点で有意義だった。
俺は思考のレベルで言えば、どんなに積分が多くても、ベクトルやシグマや直積がたくさん入っていても、式を現象と見比べながら追っていく力はある。量子力学や統計力学をきちんと勉強した頃の思考力そのものは衰えておらず、複素ヒルベルト空間が無限次元になっても、ある程度なら(まだ)イメージできる。だが、前提となる立式から現象論としての式までを自らの計算力でひねり出す力が衰えてしまっていて、やはりいまだに、群論や多様体、テンソルなどは、直観としてイメージすることができないということがよくわかった。
その分、いま可能な具体的な操作に落とし込むことが得意になっている自分にも気がついた。電子の流れを追ったり、統計的な考え方からどのようなメカニズムが成り立っているのかを正確に予想することが容易いのは当然なのだが、それ以上に、他人の扱いや要素がヒトとなったときの統計的集団を、よく理解し、それらがある程度はコントローラブルになった。
まぁ、俺が何か物事を言っているのであれば、それは正しいことが自明であり、理学の研究をしている場としては、それには決して逆らえない、という物理法則を利用しているだけなのだけど。ただ、それをするにしても、時間が圧倒的に足りなく、どうでもイイと決めつける人間と集団を早い段階で見極めなければならない、という限界にも目の当たりにさせられた。
カネ、時間、人(の集団)、にも、思考をたくさん巡らせることになったのが、この一年の大きな変化だろうか。
地べたを這うように生きている忠実だけが取り柄の研究構成員たちに対して、どうしたら、一人ひとり、自発的な自己実現をするようになり、みんなで共同の作業ができるようになるのか、ということについて、手段を選ばなかった一年。
ディフェンスではなくオフェンスの発表をして彼らの能力不足を露呈させて気がつかせたり、時に負けたフリをして煽てたり、わざと途中で出ていったり、確かに、、なかなか他人の心配ばかりをしていた気がする。来年は、もう少し、自分のことだけを考えよう。
どんなに忠実になっても、それを極めても、やはり何も意味が無い。能力がある者に従うようになっているので、そこを上手く利用することで、全員が実益を伴う楽しいモノづくりを目指したい。
それが、今一度、明確化された。
「そうそう、私たち、ここから2列、後ろに下がる、って決まったの。」
『え?そうなの??』
「うん、みんなが一度は前で踊れるように、ね。」
高校生の頃の俺は、(俺がどうかは別として)上手い人が前列でパフォーマンスすべきなんじゃないか、と思ったが、その思考は圧倒的な優しさを前にして拙いものであることが、実質的に示された。
本当の意味で平等化することが、モノづくりでは最も大切であり、各々が優しさを持って発現していなければ、最優秀にはなりようがないということを勉強させてもらった。
その精神は、その後の音楽やお勉強のなかで、そして今、研究生活のなかでも、生き続けている。
「…終わったら、死んでもイイかも。」
俺の中では、まだまだモノづくりの一端として、終わってはいないのだと思う。カタチは変わってもね。
そういう大切な方針を再確認する機会が多かった。
どんなに厳しい本当のことを言っていても、俺が目指すのはココであり、それは来年も再来年も、カワラナイヨ、カワレナイヨ。
(今年も一年ありがとうございました。特に今年から定期的に観て下さっている方が増えたと思います、ありがたいことです。みなさま、よいお年をお迎え下さいね。)
それは現時点での自分の限界をきちんと把握できた点で有意義だった。
俺は思考のレベルで言えば、どんなに積分が多くても、ベクトルやシグマや直積がたくさん入っていても、式を現象と見比べながら追っていく力はある。量子力学や統計力学をきちんと勉強した頃の思考力そのものは衰えておらず、複素ヒルベルト空間が無限次元になっても、ある程度なら(まだ)イメージできる。だが、前提となる立式から現象論としての式までを自らの計算力でひねり出す力が衰えてしまっていて、やはりいまだに、群論や多様体、テンソルなどは、直観としてイメージすることができないということがよくわかった。
その分、いま可能な具体的な操作に落とし込むことが得意になっている自分にも気がついた。電子の流れを追ったり、統計的な考え方からどのようなメカニズムが成り立っているのかを正確に予想することが容易いのは当然なのだが、それ以上に、他人の扱いや要素がヒトとなったときの統計的集団を、よく理解し、それらがある程度はコントローラブルになった。
まぁ、俺が何か物事を言っているのであれば、それは正しいことが自明であり、理学の研究をしている場としては、それには決して逆らえない、という物理法則を利用しているだけなのだけど。ただ、それをするにしても、時間が圧倒的に足りなく、どうでもイイと決めつける人間と集団を早い段階で見極めなければならない、という限界にも目の当たりにさせられた。
カネ、時間、人(の集団)、にも、思考をたくさん巡らせることになったのが、この一年の大きな変化だろうか。
地べたを這うように生きている忠実だけが取り柄の研究構成員たちに対して、どうしたら、一人ひとり、自発的な自己実現をするようになり、みんなで共同の作業ができるようになるのか、ということについて、手段を選ばなかった一年。
ディフェンスではなくオフェンスの発表をして彼らの能力不足を露呈させて気がつかせたり、時に負けたフリをして煽てたり、わざと途中で出ていったり、確かに、、なかなか他人の心配ばかりをしていた気がする。来年は、もう少し、自分のことだけを考えよう。
どんなに忠実になっても、それを極めても、やはり何も意味が無い。能力がある者に従うようになっているので、そこを上手く利用することで、全員が実益を伴う楽しいモノづくりを目指したい。
それが、今一度、明確化された。
「そうそう、私たち、ここから2列、後ろに下がる、って決まったの。」
『え?そうなの??』
「うん、みんなが一度は前で踊れるように、ね。」
高校生の頃の俺は、(俺がどうかは別として)上手い人が前列でパフォーマンスすべきなんじゃないか、と思ったが、その思考は圧倒的な優しさを前にして拙いものであることが、実質的に示された。
本当の意味で平等化することが、モノづくりでは最も大切であり、各々が優しさを持って発現していなければ、最優秀にはなりようがないということを勉強させてもらった。
その精神は、その後の音楽やお勉強のなかで、そして今、研究生活のなかでも、生き続けている。
「…終わったら、死んでもイイかも。」
俺の中では、まだまだモノづくりの一端として、終わってはいないのだと思う。カタチは変わってもね。
そういう大切な方針を再確認する機会が多かった。
どんなに厳しい本当のことを言っていても、俺が目指すのはココであり、それは来年も再来年も、カワラナイヨ、カワレナイヨ。
(今年も一年ありがとうございました。特に今年から定期的に観て下さっている方が増えたと思います、ありがたいことです。みなさま、よいお年をお迎え下さいね。)