たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

基本的な方針 -2013年を振り返って-

2013-12-31 04:34:57 | Weblog
 この一年で状況は確かに変わっていった。それは俺の望む方向であったか、は、まだわからない部分も大きいが、何が理想で、何が現実で、何が受け入れられないか、が明確に縁どられていった一年であった。

 それは現時点での自分の限界をきちんと把握できた点で有意義だった。
 俺は思考のレベルで言えば、どんなに積分が多くても、ベクトルやシグマや直積がたくさん入っていても、式を現象と見比べながら追っていく力はある。量子力学や統計力学をきちんと勉強した頃の思考力そのものは衰えておらず、複素ヒルベルト空間が無限次元になっても、ある程度なら(まだ)イメージできる。だが、前提となる立式から現象論としての式までを自らの計算力でひねり出す力が衰えてしまっていて、やはりいまだに、群論や多様体、テンソルなどは、直観としてイメージすることができないということがよくわかった。

 その分、いま可能な具体的な操作に落とし込むことが得意になっている自分にも気がついた。電子の流れを追ったり、統計的な考え方からどのようなメカニズムが成り立っているのかを正確に予想することが容易いのは当然なのだが、それ以上に、他人の扱いや要素がヒトとなったときの統計的集団を、よく理解し、それらがある程度はコントローラブルになった。
 まぁ、俺が何か物事を言っているのであれば、それは正しいことが自明であり、理学の研究をしている場としては、それには決して逆らえない、という物理法則を利用しているだけなのだけど。ただ、それをするにしても、時間が圧倒的に足りなく、どうでもイイと決めつける人間と集団を早い段階で見極めなければならない、という限界にも目の当たりにさせられた。

 カネ、時間、人(の集団)、にも、思考をたくさん巡らせることになったのが、この一年の大きな変化だろうか。
 地べたを這うように生きている忠実だけが取り柄の研究構成員たちに対して、どうしたら、一人ひとり、自発的な自己実現をするようになり、みんなで共同の作業ができるようになるのか、ということについて、手段を選ばなかった一年。
 ディフェンスではなくオフェンスの発表をして彼らの能力不足を露呈させて気がつかせたり、時に負けたフリをして煽てたり、わざと途中で出ていったり、確かに、、なかなか他人の心配ばかりをしていた気がする。来年は、もう少し、自分のことだけを考えよう。

 どんなに忠実になっても、それを極めても、やはり何も意味が無い。能力がある者に従うようになっているので、そこを上手く利用することで、全員が実益を伴う楽しいモノづくりを目指したい。

 それが、今一度、明確化された。

 「そうそう、私たち、ここから2列、後ろに下がる、って決まったの。」
 『え?そうなの??』
 「うん、みんなが一度は前で踊れるように、ね。」

 高校生の頃の俺は、(俺がどうかは別として)上手い人が前列でパフォーマンスすべきなんじゃないか、と思ったが、その思考は圧倒的な優しさを前にして拙いものであることが、実質的に示された。
 本当の意味で平等化することが、モノづくりでは最も大切であり、各々が優しさを持って発現していなければ、最優秀にはなりようがないということを勉強させてもらった。

 その精神は、その後の音楽やお勉強のなかで、そして今、研究生活のなかでも、生き続けている。

 「…終わったら、死んでもイイかも。」

 俺の中では、まだまだモノづくりの一端として、終わってはいないのだと思う。カタチは変わってもね。
 そういう大切な方針を再確認する機会が多かった。

 どんなに厳しい本当のことを言っていても、俺が目指すのはココであり、それは来年も再来年も、カワラナイヨ、カワレナイヨ。

 (今年も一年ありがとうございました。特に今年から定期的に観て下さっている方が増えたと思います、ありがたいことです。みなさま、よいお年をお迎え下さいね。)
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習慣と論理を…

2013-12-27 02:59:54 | Weblog
 自分が過ごしてしまった履歴や習慣を無理矢理に正当化しながら生きていくことはツライ。
 誤魔化し続けることで隠れていた現実を、俺はきっと、容赦なく明るみにさせてしまっている。そう、俺に対して、権威やノリや体裁よく取り繕うことで、隠し通せると思ったら、大間違いだ。

 『ねぇねぇ、この問題、すごく早く解けたんだね。僕まだわからないから、教えてよ。』
 ≪え?≫
 『だって、ほら、みんなのなかで一番早く答えがわかってたじゃん。』
 ≪そうだっけ??≫
 『まぁ、いいや。ところでさ、さっき授業のとき、服の中に、何隠してたの?』
 ≪えー、私、何も隠してないよー。ほらー。何もないでしょ?≫
 『…。今はね。』

 11歳の頃の俺は、正義感の塊みたいな暑苦しい鎧がとれかかっていて、誤魔化そうとしてる相手にオフェンスすることが楽しくなっていた。
 中学受験の算数は、やたら難しい。おそらく、暗記や慣れを一切無くして、純粋な思考力だけでいえば、大学受験数学の標準問題くらいは、ごろごろ出る。そりゃ、授業中に、解答のひとつでも見たくなる。そして、それを先生にバレないように常備したくもなるわな。

 【これ、全然わかりません。こっからどうすんの?】
 『あ?じゃぁ、さっさと、解答見ろよ。』
 【えー、したらマルつけにくいじゃないですか。】
 『数学や理科は、、いや、ホントは全部の学問そうなんだけど、きちんと理解して、心からそれらを納得することが一番大事なのね。だから、あってるとか間違ってるとか、自力でどこまでできたとか、本来どうでもいいの。』
 【でも、マルとかバツとかつけにくいじゃん。】
 『マルバツつけることがあなたに託されているんだったら、自分が納得したら、マルすればイイだけの話でしょ。もう高校生なんだから、俺や他の誰かや解答集がマルバツを判断するんじゃなくて、自分で好きなタイミングで解答みな。んで、納得できないなら、いつでも、俺に助けを求めろ。』

 誰の評価基準でもなく、自分が納得したなら、それで良いじゃん。こういうスタイルこそが、研究に必要だと思っている。
 実証しようが、論理で考究しようが、判定基準は自分であり、自分(たち)が納得したものを、公の場に持っていけばイイ。誰かが認めないからとか、類似の他の研究ではこうやってるからとか、そんなこたー、一切関係ない。

 自然科学のなかで、物理学だけは、ニュートン力学から脈々と続いている論理のバトンが最前線の現代物理学にまで届いている。これほどの精緻な論理体系を、俺は、他の分野(化学、生物学)の、切手集めでしかない、枚挙主義と同一の価値としては扱えない。
 それを否定する人間のほとんどが、ただ自らが数式を理解できないことに起因している。そして、物理学のことを、「細かい」とか「定量的な」とか「一般大衆にわかりにくい」とか、勝手なイメージで話し始める。

 習慣を排除して考えられない、履歴を無視できない、自らの歩いてきた道を肯定せざるをえない。なんと、悲しいことよ。

 俺もそうなのか?物理学科出身だから、単なるヒトの脳の産物でしかない論理的思考を、物理学によって高めることができたから、だから、物理学を無視できない??
 いやいや、だって今や俺は物理から所属を距離を置いている。習慣からは脱しているさ。

 習慣による問題は他にある。
 好きな人を選ぶとき、そこに想いを馳せるとき、習慣から解離させることが大切だと思い続けている。今まで好きって選び続けてきたからこれからもずっと好き、なんて幻想でしかなく、きちんと現実を観ながら、自分の気持ちを確認しなきゃね。

 俺は、それこそがホンモノだと考える習慣そのものに、囚われているのかもしれない。
 数式を追うことができない人が物理学を無価値なモノだと不当に扱うように、何かを自らで選びとる勇気が無いことを、習慣に依らないことをホンモノだと決めつけて、ただ隠しているだけなのかもしれない。

 考えることを習慣にしてきて、実を伴う論理が必要になる分野を選び続けている。そして、その即物的な目標を達成する過程で、さらなる思考力を得てゆきたい、本来の理由を忘れては、研究者の卵としても、人としても、徳が高くないぜ?

 「お前がずっとしていたことは、カンニングと一緒だぞ!!」
 ≪ごめんなさい。≫

 っと泣いている姿を横目に、11歳の俺は自分がトリガーになっていることに気がついていた。
 『…でも、その先、、受かって欲しいもん。』

 系をより良くするために、思考力を身につけていく。より良い方法を常に考えられることが習慣となるように。
 それだけは、いつも忘れないでいたい。
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クリスマスソング2013

2013-12-24 03:24:11 | Weblog
 さて、今年も後わずか。2013年のクリスマスイヴです。
 ここ何年間か、クリスマスイヴの記事は理系に役立つ記事を書くことを意識してました。昨年なんか「研究室の選び方」の記事を書きまして、すっかり、このページのトップ記事になってしまっています。たぶん、この1年間でこのページを(こっそり)読み始めてくれた人の中で、昨年のクリスマスの「研究室の選び方」から観ている方も多いんじゃないかと思います。

 っで、今年は、、ごめんなさい、マジでネタが思いつきませんでした笑。いや、正確にはいくつかあるんだけど、、ぶっちゃけ、めんどくさすぎるんすよ(言い換えると、ネタがない)。
 なので、今年のイヴは、また好きなクリスマスソングでもアップして終わりにしようかと思ったんですが、、これもクリスマスにやりすぎてて、、しかも今年はあんまりクリスマスソング聞かなかったので、ネタがありません。

 まぁ、それでも、いくつか余ってるのもあるので、そんなんを紹介しておきます。

 この時期になると、僕は、なんやかんやAlly McbealをHuluで観ちゃうので(こないだ、かなり古風、渋いね、っと言われた。この疲れた社会にこそAlly Mcbealが効くと思うのだが笑)、やっぱりVondaから紹介しておきます。

Vonda Shepard - This Christmas


 クリスマスっぽすぎるわけでもなく、普通のテイストでクリスマスを楽しめる曲。けっこう普段も聞いてしまう。
 このバージョンは、ピアノがとってもマッチしている。もともとはDonny Hathawayが歌っていて、かなり多くのアーティストにカバーされています。その中でも、Boyz II Menが歌っているものもあって(いつも彼らのカバーはアレンジのやり過ぎ感がある気がするんだけど)、これもカッコイイです。

Boyz II Men - This Christmas


 アカペラはやっぱイイね。繊細なメロに対して、コーラスがフィットしています。ただintroとoutroが長すぎ、遊びすぎ。

 それから、Taylor Swiftが歌っている

Taylor Swift- Santa Baby (Lyrics)


 も好きになりました。実はこれもAlly Mcbeal役のCalista Flockhartが歌ってるものもあるんですが、ちょっとふしだらすぎるのでここでは紹介しません笑。クリスマスソングなのに。
 ま、Madonnaもカバーしてるセクシーな曲ですが、Taylor Swiftくらいサラッと歌い上げてくれると、クリスマスソングとして成り立っていると思います。アレンジと歌い手によって、曲のイメージがガラッと変わるのも、音楽の楽しいところです。

 はぁ、来年どうしよ。もうやめっか(笑)。
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コスパーの意味

2013-12-23 05:35:08 | Weblog
 如何にコスト(:=カネと時間と人材)をかけずに、価値のあるモノづくりをするか?
 コスパーをよくすることこそが、ホンモノの能力を掴むことであり、心を大切にするモノづくりをする秘訣でもある。

 コストをかけないんだから、賢くしなきゃいけないし、考究しなきゃいけないし、気持ちを入れ込まなきゃいけない。じゃないと、普通にやってる他の事業に負けちゃう。でも、やりきってしまえば、コストをかけずに、今よりも高い能力になろうと頑張って、その過程として創られたモノは、とても尊いし、強い。
 コストをかけて、それらに守られている集団ほど、売られた喧嘩すら買えず、イイワケをして逃げていることが殆ど。まぁ、そりゃ、カネでカネを巻き上げていることに力は注げても、ガチ勝負ができるわけがないですからね。

 では、コストを低くして、個人の資質とチームの強みに賭けている俺らは、どのようなメソッドで動けばイイのだろうか?

 いくつかあると思うけど、まずは「厳密さ」に拘らないこと。
 何かの分野や、こういうモノのこの部分は実はこうだから、コンタミはこれくらい起きかねないから、などと議論したり実験してみても、その厳密さのみに議論が傾き、本質を損ねてしまう。要素技術や誤差解析を細かく突き詰めまくっても、あまり意味は無い(技術と誤差を蔑ろにすべきだと主張しているのではない)。どんな理論も実験も、どんな演奏も歌も、抽出していくべきものは厳密さではなく、本質や論理構造なのだ。
 それを忘れてはいけないと思う。

 そして、相手の気持ちを守る為の意見を沢山だして、その上で、アイディアをみんなで考えること。
 批判したり、潰したりすることは、誰にでもできる。それ以上に大切なのは、純粋な気持ちを維持させながら、どうしたら手っ取り早く、その願いが叶えられるかを考えるということだ。相手の意見を入れ込みながら、自分の意見を伝える。相手の内在していることを変えずにメソッドの方向性だけを少し動かすイメージかな。
 ね、だから、コスパーを考えると、自ずと、気持ちを大切にできるのだ。

 こういうことを繰り返していけば、コストをかけずに高いパフォーマンスをすることができる。
 そして、そういう素晴らしい発表は自然と心を打ち、心から本当に素晴らしいと想えるようになれば、自らもそれに参加することが可能になる。

 Good Listeners Are Good Players.
 そう、それは、まだ、モノづくりには参加していない段階でも、これだけ判断することができるという点で、他の追随を許さない。

 著者の数がやたら多くてデータ数だけは沢山あるNatureの記事や、最初から能力者ばかりを集めたバンドよりも、コスパーを高めるようにして、本質や気持ちを追究するために、本当の信頼関係を大切にしたほうが、人生として、徳が高いんじゃないかな。

 そんなスタイルをとっていれば、コミュニケーション下手になったり、嫌われたりすることも多いだろう。
 しかし、本当に自分の事を好きになってくれる人を周囲に置くことが、原理的に容易くなる。

 そっちのが、ダイナミクスがあって、生命らしく、有意義な時間だと、俺は想うのだ。
 いや、そんな高級じゃない。そういうほうが、俺にとって、俺らにとって、ラクなのだと思う。
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信号は青に変わる

2013-12-22 00:07:19 | Weblog
 俺は、もう、十分に、守りに入ってしまったのかも。

 今どんなにガツガツ本当のことを言っていても、あの頃、何も知らないまま、正しいことを正しいと言えていた自分が、少しだけ羨ましく感じることがある。

 今は信頼関係が精神的にも実質的にもしっかりしているからこそ、どうなっても構わない度胸があって、それで外でも中でも本当のことを言える。でも、それは、無意識の中で経験してしまった事実から抜け出せていないという点では甘く、何も知らなかった頃、この場所に来たばかり、研究テーマも曖昧で決まっていなかった頃の自分のほうが、自発的だったと想う。

 そんな俺の周囲に、今とはまた違う次元の信頼関係があったのだ。完成されつつある今の俺のスタイルを信用してくれたり、事情を知っている俺の意見の上で成り立っているルールに従ってくれているような関係性ではなく、賭け金を溝に捨てるような投資を、俺に沢山してくれていたのだと、今さらながらに気がつかされる。
 もちろん今だって、俺に賭けてくれる人は回収率が圧倒的に悪いこの賭けを一緒に背負ってくれているから、その意味では、同じだ。

 でもね、、何も知らないということでも、完全に無能だったこんな俺にでも、成り立っていてくれた信頼関係のおかげで、あの頃は、本当に何も怖くはなかった。
 今は、自分の能力も少しは含まれる、ちょっとだけ大人の信頼関係。それは怖さを知り、敵の強さを知り、弱者がいることも認知してしまっているという点では、強い。

 世の中には、自然環境に身を置くことで命をかけて実験をしている研究者がいて、その技術に自信と誇りを持っている人達もいる。
 世の中には、米寿を超えても考究を続けている研究者もいて、その1/3も生きていない若者に、全力でオフェンスしてくるほど、自然科学を楽しんでいる人もいる。
 世の中には、即物的な利益も顧みず、無所属で理論研究を進捗させている猛者もいて、人と人の関係性に完全に背を向けている者もいる。

 そうした人に出会えば出会うほど、何故、俺だけが、こういう素晴らしい人達と出会う権利があるのか、っと考えてしまう。
 もう一度。。きっといつか。。と何度、心の中で呟き、去りゆく姿を観てきただろう。笑顔を、、無愛想に、、どんな瞬間だって、もっとこんなカタチじゃなくて、と現実と理想を埋める手立てをいまだに思いつけない自分に気がついて、クールぶってみたりして。諦めているのは、きっと俺で、、他人に、今の一番の信頼関係に、諦めるなんて自分勝手、って言ってるくせにね。

 もうすぐ、信号は青に変わる。
 そのとき、何かが変わるのだろうか。そして、それが何を意味するのか、今の俺にはわからない。

藤岡正明 - 交差点
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根源的な興味

2013-12-19 23:17:15 | Weblog
 理想と現実はいつだって解離して感じられる。それは原理的にそうだし、それを繋げていくことこそが、ものづくりとして楽しい。

 研究のことであれば、理論と実験は解離していると感じとることが殆どだろう。
 どちらの心得も大事にしている俺としては、理論研の場では実験屋の側面が浮き彫りになり、実験研の場では理論屋の側面が現れる。とすると、どれほど解離しているかが、身に沁みてよく分かる。
 実験ベースの人は、理論は所詮、脳の世界だから、机上の空論でしかない、っと理由をつけ、思考力の絶対量の拙い部分をイイワケする。理論研の人は、実験は所詮、枚挙主義だから、ひとつの例でしかないから、と理由をつけ、不器用さや実を伴う賢さが乏しいことをイイワケする。

 数式を自在に操れてそれらが理解できるようになってから、実験技術のひとつでも習得できるようになってから、両者を批判すべきだ。どちらかしかしない!と自らを決めつけた人が、どちら側かの価値観を批判したり、認めなかったりする権利は、本来無い。
 理論と実験、どちらもやっていれば、その共通部分が、時間とともに、次第に濃くなっていき、必ずそれはセルフコンシスタントに繋がるはず。そういうことを目指していきたい。

 ただ、こういうことをし続けられているのは、紛れもなく、俺の周囲の人達のおかげだし、それは俺のことを批判してくれる人も、たまに会う部外者の人たちにも、心から感謝している。こんな俺に付き合い続けてくれる人は、強靭な粘り強さと優しさが同時に存在していることが必要なわけで、その有能さ(能力が有る)とその優秀さ(優しさが秀でる)について、尊敬せざるをえない。

 みんながみんな、俺みたいに、そういうことをし続けられたら、イイのにね。

 いま、この瞬間にも、苦しんでいる人は、確実にいる。それは置いてきてしまった信頼関係もそうだし、まだ観えていない、しかし必要条件としては確実に正しい、あの真実についても。。

 俺は、ある即物的な内容そのものについて以上に、精神的に周囲にいる人達やこういう人達に、自分の論理性と、それを応用している技術を、提供していきたいと思っている。

 それこそが、本当の、俺の根源的な興味。
 そんな理想も現実になるように、頑張りましょ。
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また独りぼっち 2

2013-12-17 02:10:05 | Weblog
 恥をかかなければ、自らの実力を向上させて、系をより良くすることなんて不可能だ。
 わからないことをわからないと言ったり、ちゃんと聞いていなかったせいで僕は理解できていませんでしたと詫びたり、今までそういうことを見て観ぬフリをしてきたからどうやって状態を変えたらイイかわかりません、って恥をかかないなら、それは、あなたが何かの責任を放棄していることに等しい。

 大人の世界にも、いじめは存在している。いじめは、イコール見て観ぬフリをすることだし、自己責任だからと、ディフェンス側や相手の見えない部分に落とし込むことに起因する。それはシッタカをすることでもそうだし、権威を使うことで全面的に弱者の責任と考えることもそうだ。

 まったく、見て観ぬフリをして誤魔化しているくせに、現実を見ろ、と言ったり、弱者に対して、この世界にそもそも向いてない、と言ったり、ふざけたことをぬかしやがる。
 その程度の論理性しかない、てめーのが、論理立てを重視する研究の世界には向いてねーんだよ。

 論理性が無いことは、まぁ、許してやろう。俺は、人のセレクションをかける時に、能力が無いことに依存しないからね。
 でも、何かの悪意が確実にそこに存在していて、そのせいで消滅してしまった個人に対して、どのようなメソッドで対応すればいいのかと、明らかにメソッドを持っている、この俺に、恥を承知で訊いてはこない、研究をしている多くの人の態度には、研究者としての素質に疑問を感じぜざるをえない。

 「人間関係なんて、、そんなことも乗り越えられないようでは、これからの研究を考えると、向いてないんじゃないですか?」
 『それを訊いて安心しました。あなたのような研究に向いていない方にそう言われると、僕自身、向いているんだ、っと言われているような気分です。』
 「何を言っているのかわかりません。」
 『まぁ、あなたの論理性のレベルでは、そうでしょうね。』

 人間関係を大事にできないのなら、何か革新的なモノづくりはできないだろう。そのような考え方に、未来も希望も無い。

 ただし、そんな高級なこととは別に、絶対に切らせてはいけない最終ラインを切らせないように、動いていく必要性はある。
 ここについて、俺はまだ失敗したことは無いけれど、その命を同じように背負っているつもりで、ひとつひとつ対応していくことが、俺の本来の役割。

 このスタイルを取り始めれば、どうでもいい人が俺を嘲笑うことで、また新たなセレクションがかかるから、すなわちそれは、この場所からの解離を意味する。そして、どれほどの人が俺の精神的な周囲として残ってくれるか、楽しみでもある。

 また独りぼっち。でもそれは、本質的に重要な人だけが俺の周囲に残るということでもある。

 それに、あの人が、(少なくとも)あの頃に感じていたことに近い景色を観ることができる点で有意義だ。ごめんね、偉そうなことを繰り返してはいたけど、あの頃はどうすればいいか、俺自身、まったくわからなかったんだよ。
 さぁ、ここから、俺に何ができるか?、我々に何ができるか?、冷酷に考えていこう。恥をかく準備はできているか?

Vonda Shepard - Alone Again, Naturally
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勝てば官軍、負ければ賊軍

2013-12-16 03:03:18 | Weblog
 とにかく思考を停止させない!それが学部時代に習ったスタイルとして、一番的を射ているものだった。
 あるテーゼに縛られている者に、真実を観る権利は無い。この格言がもっとも真実を掴んでいる、などという発想をすること自体、偽りが孕んでいることを忘れてはいけない。

 何かのせーでムカついたんだとしても、その原因の本質を考えてみることが大事だ。
 誰かがいなくなったことに起因しているのか、そのいなくなった原因は本集団の何に起因しているのか、考え抜く力が大事だ。
 とかく理系は、誰かがラボからいなくなったり、誰かが来なかったりすると、その本人だけの責任に押し付ける傾向が強い。そんなわけがない、どんなことでも自己責任など存在しない。我々の集団に問題があるのだ!、と思考をし続けられる強い人は、21世紀となった今の時代、少ないのだ。

 現実を観る、ということを勘違いするな。
 確かに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」、という厳しい法則が多く成り立っている現代ではあるが、いかなる時代でも、めんどくさがって、その論理を弱い者に押し付けた集団と個人は、凋落している。
 そこまで想定して、現実を観ろ!

 理想は、想像している限り、現実になりうる。
 こちらが論理的に考察しても権威によって抑えつけたり、非常識なほど長い時間むかし話を繰り返したり、私の研究人生何十年の勘がそう言っている、などと戯言をほざいたり、そういう人間は、理系の世界から、すぐに退かれる。そして、それを前提として動く人間も、理系の世界では、原理的に生きてはいけない。
 そうそ、理想は、曖昧な世界に論理を持っていって誤魔化すためのものではなく、現実の中で現実をよりよく捉えた時に成り上がる思考だ。そこに、仕事だから、社会だから、などと誤魔化して、思考を停止させている人は、原理的に生きてはいけないのだ。

 そういう人を、少しでもこの素晴らしい世界で、自己実現させてあげられるように、頑張らなくてはいけない。自然の摂理によって退かれる命にある人を、俺の意志によって、引っ張り戻す。

 俺の好きな人だけ、ね。

 それこそが、思考し続けた結果。
 っま、続けるから変わるかもしれないけどね。
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微笑みの爆弾

2013-12-13 01:10:33 | Weblog
 なにをするんでも、仲間は最大の武器だ。
 どんなにぶつかっても、結局のところ許しあえるのなら、それほどの財産は生涯みつからないだろう。

 でも、戦う瞬間はいつだって一人。局面であるときには、どんな人でも、一人で乗り越えなくちゃいけない。
 大勢の中の孤独と、本当にインタラクションが少ない孤独と、どちらがマシ?実は状況は同じなんだぜ、て大人ぶってみたら、きっと怒られそうだから言わないだけで、抱えている難しさは、きっとほとんどカワラナイ。

 俺は、勝負を繰り返して、どんどん踏み出していって、外の世界でも、中の世界でも、自己実現をしていく。
 そこで踏み出せる一歩は、これまでの厳しくも優しい人達のおかげ。その人達との何かを捨てる気は、いつも俺自身はサラサラなくて、どんなカタチであれ、何かを残し続けていきたいと願っている。

 出会った人と別れた人。その両者の差の中に、本質的な自分の性質を見出して、同一だと見なしていくなら、余計に感謝を忘れてはいけないよね。

 『だから、特に、感謝しているんですって。』
 「そんなにしてないし、、なにそれ、ムリヤリすぎでしょ?」

 ムリヤリ一般論に落とすことで特異的な感情を隠すだけなら、もっと違う手段を使うんだけどね。
 優位性以外の何かを託せるくらい俺に能力がついてればなー。

中川翔子 - 微笑みの爆弾(幽遊白書OP)
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自然科学を救う唯一の方法

2013-12-12 01:32:03 | Weblog
 前にまとめて書いたように、ここから10~20年後には、有機合成や分子生物学をはじめとする、ほとんどすべての実験手法について実験ロボットによるオートメーション化が進み、それらが確立されるだろう。
 さらに、プログラミング言語の開発が進み、誰でも簡単にアルゴリズムを書くことができるようになる。

 そう、すべてがシステマティックに行われるようになっていく。

 こうなってしまえば、自然科学の研究に、もはや未来は無い。なぜなら、真実を追究するはずの、自然科学の研究についても、カネでカネが捲き上げられるシステムが確立するということだからだ。
 ただでさえ、意味の無い大義名分ばかりつけて業績を稼ぐための論文が世の中に溢れている。カネと時間と人材をかけた結果であるデータ数の多さと、上手い誤魔化し方をしただけで、インパクトファクターの高い雑誌に載せることができてしまっていて、それが業績になり、それらで次の予算が決まるのならば、それは、本当に必要な研究をしているのではなく、信念のない研究者の存在を容認し、カネでカネを捲き上げることを振興しているに過ぎない。

 よく受験生に言っているが、大学受験で頑張る、なんてーのは、本来オカシイ。普段勉強してきたことを試験で発揮できればいいわけで、力を出し切るための直前の頑張りをしよう、なんていう次元を超えて、何人もの受験生が、ただ受験のためだけに勉強を進める。(それすらしない、ただ上の言うことを訊く能力が高いだけの人が選んでしまう、推薦入試という制度もあるわけだけど)
 これは、就活でも、学振でも、論文を書くことでも、なんでも同じで、それに向けて頑張る、というのは、本来オカシイよね?普段研究していること、普段実験していること、進捗したこと、考えてみたこと、真実を掴んだことを、わかりやすく他人に説明することは非常に大切なことなのだが、それらは決して「研究」や「ものづくり」そのものではないのだ。

 多くの実験とシミュレーションがシステマティックになっていき、自然科学の研究の本質が損なわれる一方で、唯一、そこから脱する、いわば「自然科学を救う方法」がある。

 それは、学会における「公開実験」の導入だ。

 いま、拙い論理や大義名分の研究がまかり通ってしまう最大の原因は、実験操作や技術に強い人間が、正当に評価されていないことに起因している。
 結局のところ、今の研究の出力の仕方だと、論文でも、学会の口頭発表やポスター発表でも、大切なのは論理であり、それがストーリーとして精緻でなければいけなくなっている。だが、果たして、自然科学の研究、というものは、そういうもんだろうか?論理展開は得意ではないが、実験技術が非常に豊かで、細部がものすごく効いてしまう重要な実験をすることができる人は、評価されるべきなんじゃないかな?

 本当に必要で大切なデータは論文にはできない、という話はよく訊くし、俺自身、まとめにくいが重要な話というのは、いくつか抱えていて未発表だ。自然科学の実験系における進捗というのは、むしろ、その部分が大事なのではないか?

 学会の場で、重要な実験については、「公開実験」を行い、それが一度に何百人という研究者や大学院生に観られうるという機会を創ったらどうだろう。学会で「公開実験」を行い成功することが実験系の研究者の最大の業績になるのであれば、自然科学は救われる。
 たとえば、顕微鏡観察なら、それに至るすべての実験装置を学会会場に準備する。企業ブースとの共同をすれば、カネもそこまでかからないと思うし、色んな意味でCMにもなる。

 論文には書かないような細かい実験手法も、実は再現性がほとんど無い実験も、すべてが明るみになる。「公開実験」そのものと、その成功不成功が、論文における査読よりも厳しいものとなるし、ビデオ録画で、何度でも観られるようにすればいい。
 誤魔化しが一切できない「公開実験」を理論家が実際に観ることによって、実を伴わない、現象論として枚挙的に成り立っている、くだらないトイモデルを除去することもでき、何が必要なのか、何が進捗と呼べるのか、が本質的に観えてくる。

 そうすれば、オートメーション以外の必要性が多くの人に感じとられ、生きた実験、が残り、それを基に、論理展開をできる人材も増える。
 そもそも、システマティック(≒定石手法)から脱する行為こそが「研究」なのだよ。

 既存の論理では成り立たない重要な事柄を明らかにするのに、いかに、カネと時間と人材をかけず、考究したか?
 これだけで評価されるべきで、そこに一切の誤魔化しは許されず、カネでカネを捲き上げるようなシステムを作っても、学問の進捗に寄与しない。

 俺は、自然科学と、いま周囲にいる仲間が、大好きだ。
 正当なことをしていった時に、この2つが冒涜されない世の中を、必ず創る。それだけのことだ。
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無回転"フリー"キックのゴール

2013-12-10 01:00:37 | Weblog
 俺を何かの小屋に入れて飼うことは原理的にできない。
 ひとつの世界のなかに閉じ込めても、そう強いれば強いるほど、俺は外の世界に飛び出していってしまうし、真相は、どんなに空を知ることができたとしても、井戸の中には存在していないのだ。

 この地を訪れて最初の発表は、南アフリカワールドカップ日本-デンマーク戦の日、論文紹介だった。
 そこから、やりなおしを2回もくった。1スライドごとに止められて、30分以上も別の話を聞かされる始末。その時、俺は自分の論理性が足りないせいだと思ったけれど、そうじゃないことがすぐにわかった。俺には協力者が多かったのは当時の指導教員にとって予想外だったのだろう。
 もともと紹介して欲しいと言われた論文は、はじめてその分野の内容を扱うには難しすぎるし、彼自身、よく理解してはいなかった。跳ね返しが強そうな俺に対して、圧倒的に強い力で抑えつけなければならないと思ったのだろう。他の先生にその論文の関連文献を教えてもらって、やっと、その意味がきちんとわかった。ごった返して、後から取ってつけたように、これは君のテーマだから厳しくしたんだ、とぬけぬけと言い放つ、あの姿勢には、今さらながら感動する。

 俺はこの論文をネタに他研究室と共同研究をさせてもらうキッカケをつくり、この論文を参考論文として何度か後輩に提示し、何度もこの論文を話のネタとして多くの研究者と喋ってきた。
 っそ、強い力で抑えつければつけるほど、俺は別の場所で、それをネタに成功してしまう強靭な体力を持っている。

 「俺の言うことを素直に訊いてりゃいいんだよ!」っというスタイルをとる人間は、所詮2流以下なのだ。日本がこのまま、そういうことを許し続けてしまえば、このまま凋落し続け、近い未来(10年以内)、没落してしまうだろう。
 俺の周囲は俺のこういうところをよく理解してくれている人が多い。だから、研究やそれに纏わる活動が、(不満は沢山あるが、少なくとも前よりは)やりやすくて仕方ない。

 そして今、逆の立場になって、発表のやりなおしを促す立場となってしまった。

 物理学が教えてくれる絶対的な論理力、生物学が教えてくれる枚挙主義的な考え方の大切さ、そして、化学が教えてくれる分子構造・転移の面白さ、それに加え、グループ性の論理まで掴んでしまっている俺は、もはや、並大抵のヒトでは、論理で敵わない存在になってしまっているのかもしれない。上に対しても、足りない知識と技術、あとは英語を付属してくれりゃイイ、論理は自分でできるから!、と最近は思っている。

 めんどくさくて抑えつけそうになる自分を抑えつけながら、純粋に相手の提出してきた論理を、こちらの論理でレシーブする。
 ね?、無駄なものなんて、一つも無い。反面教師がいなければ、俺は、とっくに誰かを権威で抑えつけて潰している。そうなっていないか常に怖いし、色んなチェックをまだまだしないといけなくて、修正が必要だと思う。色んな意味で責任をとる覚悟がなきゃね。

 『よく言われてましたよ、次の言葉が常に予想できるようにストーリーを組まないといけない、ってね。だから、ここの文章は、こうです。』
 「…。別にいいけど。嫌いなくせに、嫌いな人の言葉をそうやって真似するんだね。」
 『論理が正しいものは、好きとか嫌いとかじゃないですから。それに、あの人の論理性を嫌いになってはいません。感情が幼すぎるところが、俺とは合わなかったんですよ。笑』
 「別にいいけど、同属嫌悪ですか?笑」

 好き嫌いなんて、論理の前に来るもの。
 浮気性に観られることもあるけど、俺の心の中では、いつも着地点は最初から決まっているのだ。無回転フリーキックのように、ボールは真っすぐ、当初の予定通り、ゴールへと吸い込まれていく。
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理系はいつも正しいことを言え!

2013-12-09 01:33:38 | Weblog
 理系は真実を主張することが主な仕事だ。

 真実を言うことに対して、一切の誤魔化しがあってはいけないし、自分の都合のイイことを言うことを前提としてはいけない。これは、研究に纏わらなくても、日常生活や感情についても同様であり、そういったことはカウンセラーや文系の仕事だと揶揄する理系は、最終的には有能ではない。
 それは厳しすぎるし、権威や存在意義を少しだけでも大事にしたい、と感じるのであれば、それは今すぐ、少なくともアカデミズムの世界から、立ち退くべきだろう。

 年齢、性別、研究分野、実験屋理論屋、問わず、あらゆる理系が、知識自慢をしたり、自分のストーリーを強要したり、まったく別のことを持ちだして相手を陥れようとしている。
 特にオフェンスするときは、もっともっと慎重にならなくてはいけない。明確にここに書いておくが、オフェンスとして唯一意味があるのは、「相手が使った言葉のみを使って問題点を示し、そこに解決策を提示する」ことのみだ。全然関係の無い価値観を出してはいけないし、質問者の知識を披露する場ではない(それでイイなら、披露したい知識は、俺には沢山あるぞ笑)。論理性を軸にしながら、研究対象、ものづくりの価値、全員の気持ちなどすべてを考慮した上で、相手のために、みんなのために、自分のために、なるように主張すべきだ。

 それを忘れてしまえば、誰かが傷つき、その誰かはいずれ去ってしまうだろう。
 能力が低いくせに自らの存在意義を主張した、あなたのせーで、誰か弱い者が消え去ってしまう。

 理系には数式と化学式という武器がある。どちらも使えないどうしようもない理系も存在しているが、俺のようにどちらもある程度使える理系もいる。
 理系には論理的思考と実験技術という武器がある。さすがにどちらもできない理系はあまりいないが、実験技術のみしか武器が無い理系は虐げられがちだ。(俺はどちらもできるつもりだけど、どちらかというと論理的思考が得意です、、よね?)

 理系の最大の武器は、数多くの色々な仲間がいるということだ。欠けても大丈夫な人など、少なくともラボ内には存在しない。どんなにどうしようもない人でも、大切な仲間だ。
 仲間の一人が消えそうなとき、気持ちを考慮しきれずに厳しいことを言いすぎてヤバくなったとき、誰かが悲しくなっているとき、「私の知らないところに原因があるんじゃないか?」などと思うのは、理系としての論理性が破綻している。

 本当の理系なら、勇気を出して、自分(たち)の非をすぐに計算し、自らの手によって、なんとかしよう、と考える。それこそが、研究というものだし、教育というものだ。
 そう、、研究は得意だが教育は苦手だ、と言ったり、その逆を言ったりするのは、本質的に言葉の意味を取り違えている。研究と教育は、双方、原理的に、同じものだからだ。

 非常に厳しい真実を突き付けたが、これも、俺の理系として、あらゆる思考をした結果という意味なので、真摯に受け止められるべきだと思う。
 色んな気持ちと状況を考慮しながら、論理性を高めて、正しいことを伝える。

 「ふーん、、いつも自分が一番正しいことを言えてる、って思ってるんだね?」

 そう思って無けりゃ、理系なんて、やってられませんよ。
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俺が行きたいところに道はできる

2013-12-07 00:41:11 | Weblog
 自分が望む方向をしっかり向いていれば、必ずその方向へと道ができる。慣れればいとも簡単に、そしていつしか、俺が行きたいと思うところに道ができるように世界が構成されるようになる。
 俺が望む方向、それは、真実を知る、ということだ。精緻な論理構成(定式化されている物理の教科書)を礎に、自然現象が宿している本質を掴み取ることに興味がある。そして、少なくとも若いうちは、統計的な考え方を使って、ミクロからマクロに論理的に成り立つ理論を構築することに貢献したいと考えている。

 ただ、これは自然科学という条件のなかに興味を入れたときだ。もっともっと大切で、目指していきたい方向性は、純粋な心を守ること。
 それは、俺自身の気持ちもそうだし、大切な人の気持ちもそうだし、周囲の優しい気持ちを守ることでもある。

 心を侵略する事象は、何か精神的な問題が生じる時だ。実質的な問題は精神的な問題に直結し、両者は変調し合う。だとしたら、論理構築を積み上げられるだけ積み上げ、賢さの絶対量を極限まで高めておく必要がある。なぜなら、精神的な問題が抱える実質的な問題を、迅く正確に解く必要があるからだ。
 そのためには、問題の根っことなっているもの、病理学的に言えば悪性腫瘍を、瞬時に掌握できるだけの思考力が必要になってくる。高校数学では図が描ければ半分は解けている、ということと同様に、問題が何かが正確にわかってしまえば、ほとんど問題は解けている。だから、迅速に問題を探ることは大切なことだ。

 今俺が一番解決して欲しい問題について、俺は毎日のように悩むキッカケがある。上の階のラボに帰るとき、その変化の無さに、落胆さえ覚える。やはり自己組織化的に問題は解決されないのか、と。
 それも、俺が問題を掌握できていないことに起因しているのなら、なんと無力なのだろう。それなのに、なんと自分勝手な言葉をかけ続けていたのだろう。

 助けようと思ったとき、特に自分色に染めながら、相手が今は不可能で能力アップを期待するようなことを要求するとき、気持ちには混じりっ気があってはいけない。一切のゆらぎも許されない。
 確かに気持ちが自分に向いて自分のことを考えている節はあったけど、でも半分以上は相手のことを考えていたんじゃないの??…なんてことは、許されないのだ。

 スイッチとして機能するそのメソッドをより精緻にさせることが、差し当たり、具体的に、俺が望む方向?
 なら、そういう方向に向いてさえいれば、俺が行きたいところ、つまりまっすぐな気持ちを持ってしてまっすぐな気持ちを守るための絶対的な思考力を得るための道ができるようになるのだろうか。。

 最近、夜になると、オリオン座が完全に綺麗に観える。
 それすらも叶えられるように、まずは、混じりっ気の一切ないまっすぐな気持ちから、絶対的な思考力を発揮できるまで、修行を続けていこっ。
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ターニングポイント1312

2013-12-06 00:51:28 | Weblog
 いつの間にか年末ですね。
 近況としては一息ついているとこで、ここからもやらなきゃいけないことは多いですが、まあまあ充実しています。

 ここ10日くらい、ずっとアウェーで議論することが多かったので、ちょっと疲れました。みんな自分のホームだと、どうでもいい論理や知識自慢も平気でしてくるから、こちらが絶対的な論理性を発揮しなきゃいけないぶん不利ですが、まぁ、これくらいのハンデで勝てなきゃならないのよね、と思ってもいました。
 前と違って、自分が負けてしまえば、自分と一緒にいる何人かも否定されかねないという意味では、緊張感が増していました。まぁ、おこがましいんだけどさ。

 そして、ここ数年で、観えるべきものが観えてきて、扱いたいことが扱えるようになってはいるものの、何かの期待や希望は凄く薄れているな、っと実感した日々でもありました。
 たとえば2年前なら、もっと学会や研究会に期待していたし、研究そのものが、もっともっと輝かしいモノに観えていた気がする。逆に言えばそれだけ自分がすべきことがわかってきていて、他人任せから脱しつつあるとも言えるけど、なんとなく、切磋琢磨していく仲間となりうる他人が極端に少なそうで不安。それも逆に言えば、今の素晴らしい仲間にある程度満足しているとも言えるんだけどね。

 分野のなかに落とし込むことで大義名分にしたり、研究のための研究をしたり、研究を今後存続するための業績をムリヤリだしたり、みんな誤魔化すことはとても上手で、バカバカしくなることもあるけれど、何よりも俺は自然科学が好きで、それ以上に周囲が尊い存在だから、やっていけている。
 今回勝負した資料の中には、新しい仲間からの意見しか反映させなかった。それはそれで悲しくて、もっともっと多角的に、あらゆる履歴からの助言を俺自身が求めるべきだと思う。期待できないと決めつけるのではなくてね。

 ターニングポイントは、やっぱり今の期間。っそ、それもだいぶ前から予見していたこと。
 ここからは自分の利益も冷酷に考えるし、夢も希望も無い無意味なオファーは一切受けない。その上で、役に立ちたい存在だけを実質的にも精神的にも手助けし、本質的な俺の存在を必要としてくれている他人にとってのみ、よりよくなるように行動していく。このスタイルは期間限定だけどね。

 とりあえず年内は、論文を書き上げることを中心に、頑張りましょ。
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どんな壁でも

2013-12-02 03:12:40 | Weblog
 どんな壁でも乗り越えられる、なんてーのは、金持ちか、よほどの幸せもんの意見でしかない。
 もっとこういう風にできるのに、とか、もっとこうやって行動すればイヤな気持ちにならないかもしれないのに、とか、そういう気持ちを抱くのは実は幻想で、原理的に仕方のないことは世の中に溢れている。

 周囲の誰かが自分よりも上手く行っているなと思うのは誰もが感じることだし、あからさまにそうであっても、色々な履歴と環境が、あなたをその程度にさせているのだから、しゃーないこと。
 幼い頃のほうがそれは顕著で、本人にどうにもできないことは山ほどある。その不条理を乗り越えられたなら、かなりでかい能力を得ることができるかもしれないけど、不幸は不幸。それらの履歴が消えることはない分、損であることにはカワラナイ。

 わかってはいても、ぬぐえない環境を、どう生きていくか?

 ただ耐えていくだけ。プライドを捨て誰かに助けを求める。まったく他の事象に想いを馳せて時間が過ぎるのを待つ。そのくだらなさのなかで作業を繰り返す。言われたことをロボットのように従うことで他人事のように感じて流す。

 レールから落ちたら怖いぞっ、と教育され続けたせいで、先にあるレールが壊れていても、このレールを降りることすらできない自分に気がつきながらも、どうにもできないのであれば、それはあなたのせいじゃない。
 手を差し伸べてみることも考えてはみるけど、今までの履歴に依存したプライドがそれを許さない。それも、あなたのせいじゃないよ。

 どんな壁でも乗り越えられるわけないけど、これだけは言える。
 どんなことでも無駄なことは無いし、失敗は原理的にあり得ない。

 俺の実務的な最大のストロングポイントは仲間。たった一人、自分だけで考えているから、どんな壁も厚く、あらゆることがどうにもならないように感じるが、あらゆる人を味方だと思いきって信じてしまえば、いくらでも助けられる。

 それは、このどうにもならない現実も同じだと信じている。
 だからこそ、「私たちのことをすぐ人に話して」いたし、それが「とても子供っぽ」くても、それこそ仕方のないことだと思っていたのだ。

 っそ、周囲の人さえ大切にしていれば、(心が)幸せになり、その上で、実質的な豊かさを掴みうるのなら、それは、どんな壁でも乗り超えられる。

 そんな大切なことを、どうか、いつまでも、忘れないでいてね。
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