たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

トヘロスの呪文

2011-03-31 02:44:54 | Weblog
 好きな人(達)と好きなことをし続けることが目的だ。それにおける公的な永続的保証を得ることでもイイかもしれない。

 好きなことは出来ることと相関がある。より高いレベルで出来るためにはステータスが必要だ。
 ステータスが高くなればなるほど、より高いレベルで出来るようになり、好きなことはより好きになっていくが、好きになるべき人は判断しづらくなる。

 だから、能力やステータスがある、ということは、必ずしも幸せとは一致しない。自分のステータス目当てに、みんなが寄ってきて、しかも、その全員がイイ人にみえちゃうから、わけわかんなくなる。
 誰でも、即物的なことだけを評価され続けるのは、苦痛でしかないはずだ。

 『だからねぇ、もう、いっそのこと、すべての賢さ要らねっ、って思うわ、最近。』
 「いや、それはそれできついんじゃね?」
 『偏差値30くらいになりたいっ。』
 「クソだな。笑」
 『か、80超え。』
 「超上手くいくか、超上手くいかないか、どっちかになりそう。笑」

 なまじ半端に賢いと、辛いだけ。だったら、能力がゼロか、超スーパー級の能力を持っておけば、問題なさそうな気がしたのだった。

 能力が高ければ高いほど、ステータスが多ければ多いほど、何もしないで受け入れてばかりなら、傷つく率は高くなっていく、ってことだけど、手っ取り早い打開策がある。
 それは、自分自身を一般的には下げるような言葉をちょっとだけ持っておくことだ。そうすれば、その言葉に偏見を持ってるようなザコを一掃することができる。これこそが、実社会のトヘロスの呪文っ。

 キレイじゃない言葉を持っていても、それでも、自分の周囲に残っていてくれる人から、選んでいけばイイ。残ってくれた人達はきっと、ステータスではなく、能力ではなく、心で評価してくれているはずだから、こちらもそれに敬意を払って、相手の心だけを判断基準に選べばイイのだ。
 俺は、この手法を、言葉じゃなくて、「本音」で行うことにしている。ここまで本音を出してしまって、それでも…、を期待している。絶対的な自信を持っていないと、こんな手法は使えない。この意味でも、自信やプライドを高く持っていることは、とっても大事なことだ。

 《この存在に気が付いてる可能性すらある!》
 『えーっ!』
 「いや、そんなことよりも、K君自身を観察していると思うな。」

 難解な試験を突破することを避けて、推薦状を書いてもらうような手法は、受験以外には、ありえない。
 どんな人間関係でも、厳密には対等ではないから、選び選ばれの配役が決まってしまうけど、俺は、驕りを捨てていくように努力したいと思っている。即物的な優劣の本音を言い続けることでね。

 本当は、すぐに本音をさらすことしか。。
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あるなしの寄与

2011-03-29 01:18:57 | Weblog
 ここまで色んなことが立て続けに入ってるのは久々で、ちょっと疲れてきています。っま、身体がまったく動けないわけじゃないけど、一つひとつを反省できないほどってのは、本当に久しぶり。
 色んな方面から色んなことを、みんな持ってきてくれる。

 片手間に済ませようと、ただの能力だけで貫いて、感謝されることもある一方で、本当に一番に頑張っても、フォローされないこともあったりする。解析力だとか、心を感じる心みたいなんを、ほんのちょっとでも追加してれば、その瞬間にすべてが分かることだと思うけど、みんな割と即物的だなぁっと思ったりもする。
 ある系において、通常100分の1しか入って無い物質でも、今回は偶然、何も入っていなかったとしたら、その系は大違いになってくる。量なんかよりも、入ってるか入ってないか、ってのは、かなり寄与がデカい。それは、

 『それは、解析力だとか、思考力だとかで、突破できることだと思うんですけどね。知らないだけで。』
 「えー、でも、知らないって、かなり大きいよー。」
 『ああ、まぁ、知らないってのは、そりゃデカいですけど。』

 知識に関しても言うことが出来る。知ってるのと知らないのと、ただそれだけの差だけで、大きく結果が変わってしまうことは、多々ある。
 だから、なるべく多く、知識を得る必要はある。あるなしの寄与をナメてはいけない。

 でも、片手間にでも、関わっていれば、何も知らなくても、おのずと眼力は育つ。
 時間発展させて育っていけば、なんの問題もない話なのだ。
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「On Time」を超えて

2011-03-28 00:05:22 | Weblog
 正しくても、面白くても、タイミングを間違っちゃうと、効果が薄れるか、もしくは最悪になる。
 On Timeで!、って思うけど、なかなか適確な言葉を適確なタイミングで提出するのは難しいもんだ。

 適確さも、集団によって、個人によって、異なっていくし、簡単すぎれば陳腐だと思われ、難しすぎれば伝わらない。早すぎても、遅すぎても、ダメダメ。だから、なるべく起承転結でお話をして、いきなり答えから言わないようにすれば、一つの言葉で失敗しても、全体としては伝わるようになり、正しくなるし、面白くなる。
 理系だとか、英語だとかが、いきなり答えから言うお話の仕方に慣れ過ぎてしまっているから、そういう人は、きちんと手法を使いわけることが重要になってくるし、実際それができていないから、たいていの企業の研究施設は地方や郊外に追いやられるのである。…って、これは、飛躍が激しいかな(笑)。

 起承転結に喋ることは、リスクを減らすために重要だ、ってことだけど、話そのものに、ある程度の長さが必要であることに留意しておかなければいけない。
 一言だけ言えばイイような重要なシーンは、いつだって突然にやってくるのに、起承転結が使えないから、リスクを減らせられない。だから、可能性がゼロじゃない限りは、いつも気を張って、言葉とタイミングを間違えないようにしないとね。

 でも、『there's always a next time!』
 いつだって、やり直しや言い訳をすることは可能だし、時間依存性の無いモノこそがホンモノであることを、決して忘れないでっ。

 むしろ、振る舞いの教科書である「On Time」の重要性は超えていかなきゃ、なのだと思う。
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不幸ゼロでどこまでいけるか?

2011-03-27 02:54:30 | Weblog
 ガツガツそのまま頑張るのと、すべてを無難にこなしていくのと、両方必要だと思ってる。
 っていうか、生活の中で、ちょうど半々くらいが、他人から「スゴイ!」って言われる気がする。

 何もしない時間をなるべく作らないことが最大のポイントだ。
 あることをやりながら、別のあることをする、っていうのも、できることとできないことを、ちゃんと仕分けられるようになっていかないと、逆効果。

 まぁ、この2つのスタイルを意識的にしてるだけで、たいていの人より、楽しくなっていく気がする。
 ガツガツ頑張り過ぎると、仲間から置いていかれちゃうし、無難にこなしすぎると、全部がつまんなくなる。
 真面目さの中に無難さがあって、無難さの中に真面目さがあって、初めて、大勢から好かれるようになる。

 えーっと、、何もしない時間が割と好きな俺は、どうすればイイの??笑

 どっちにしろ、体力を消費するんだけど、両方やってると、そうでも無かったりします。
 結局、どうやってやってるんだろう?、いつ時間を作ってるんだろう??、スゲーな!、って思う人は、凄まじく努力をしなければならない状況に陥ってるってケースが多いのかもしれません。

 何も不幸がなくて、どこまでいけるか?
 それはそれで、即物的には非常に面白いと思うのです。

 そうそっ。ただのゲームだから、そんなこと、どーでもイイっちゃイイのですけどね。
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考えなくても大丈夫っ

2011-03-26 02:07:48 | Weblog
 本来の自分を隠しながら本来の他人を解析していく能力がもっと欲しくてたまらなかった頃、心のどこかでバカにしていた彼らがいかに賢く、どれほど頑張っていたかを、知る由も無かった。
 ただ、あの頃の彼らより、今の自分のほうが、そっち側の能力においても、長けていると思うし、素の解析力はそんなに変わっていないから、ホンモノなぶん、正解な気がする。自分で自分を一番評価できるのは、ホンモノを確認する手段としてのみ、即物的なことを使っている点だ。ウラハラも含めてね。

 どんなに演技していても、必ず、隠し切れなくなる瞬間が来る。
 隠し切れない、その一瞬を、慧眼の持ち主は絶対に見逃さない。その一瞬から、すべてを崩していく力が、絶対的に必要だと思っていたことにくだらなさを感じていくようになり、あの日々が嘯いていく。

 何も考えなくてもよくなるようになることが、自然科学全体の最終目標。
 それと、自分の目標は、同じだ。

 考えなくても、勉強しなくても、能力をつけなくても、気持ちさえあれば、何かとてつもない実質的ではない価値が得られるのであれば、それこそがホンモノ、俺は、それこそが生きている意味だと思っている。
 もしかしたら、もうすでに、解析力も演技力も、必要無いのかもしれない。
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やってみなはれ

2011-03-25 00:38:05 | Weblog
 周囲の経験者にどんなことを言われても自分が最初に正しいと思った事を信じ抜く手法と、経験者の意見をとにかくそのまま実行し後でそれらの言葉を飲み込む手法を、ケースバイケースで、きちんと使い分けられるようになっていかないといけない。

 でも、それは「俺らは」であって、例えば高校生なんかは、とにかく、自分が思った事を信じて実行し、ぶつかっていって欲しいと思っている。

 だから、相手がどこまで気持ちで押し通せるのか、試してみたくなる。自分の経験からの意見をきちんと言って、それでも屈しないところを見てみたいのだ。
 俺をちゃんと論破できても、できなくても、相手の信じた手法で。。じゃないと、後悔するし、それこそ、俺が言ったまんまやっても、双方つまらないし、それで失敗しても俺は責任を持てない。いきなり海に放り出すようなことをしなくても、確実な安心感の中で、自分で考えて能力をつけていくような能力を得させることは、必ずできるのだ。

 自分が信じたことで、なら、たとえ、小さく失敗しても、大きく失敗しても、何回でも立ちあがれるけど、他人に失敗させられたら、立ちあがるのは難しいかもしれない。どーせ、権威で、誤魔化されるから。
 そんなら、自分が信じてることで貫く方がイイでしょ?若いうちは。

 そして、もしも、自信の中で失敗しちゃったときは、「ほら、だから言わんこっちゃないっ。素直に経験者の意見を訊け!」と言わず、優しく、次の打つ手を一緒に考えてあげられる、それこそが、経験者を一歩超えた、教育者としての技量だと思う。

 だから、頑固にならないように気をつけて、俺も、「やってみなはれ」と言っていこうと思う。
 俺は教育者になる気は無いけど(笑)、その側面は、どんな場所でも必要でしょ?

 (注:僕はサン○リーのまわしものではありません(笑))
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それでも持続するなら

2011-03-24 02:01:48 | Weblog
 すべてが消えた後に、即物的なモノだけが残ってると、逆にちょっと嬉しくなったりする。
 言葉が崩壊し、新しく記憶が追加されていっても、やっぱりその部分はカワラナイのか、って思うと、変な部分の繋がりをそのまま感じることになる。

 それは、まだ残っていて、心のどこかで、そっち側に価値観を示しにいっているわけではない。
 盗み出してきて、今に活かせているから、これでやっぱり正解だったって感じて、嬉しいんだと思う。

 沢山のトスの中で、いくつかの出来事は、確実に自分の手中に入っていくようになる。
 何故、曖昧でリスクの高い、その種類のトスを入れるのかといったら、可能性を0%にしないためではなくって、即物的にはイコールにしておいて、それでも何も無いことを検出し、本当に終わりにできていることを示しにいきたいからだ。

 こういう即物的なことの使い方は、逆にすると、始まりにも言える。
 即物性をゼロに近づけて、それでも進むのであれば、その始まりには、時間依存性が無いのかもしれないから。

 っま、最低限の、能力と共通項は確かに必要なんだけど。
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投げださないで

2011-03-23 02:37:40 | Weblog
 すべてにおいて、自分が出来るベストを尽くさなきゃいけないなんて、思わないほうがきっとイイ。
 確かに最初はその気持ちでぶつかっていかなきゃだけど、完璧主義で、どんどんベストが尽くせない自己嫌悪になっていくなら、途中からは、自分がやれることのちょっとでもできることをして、自分を認めていく、ってやった方が上手くいくと思う。

 [じゃぁ、もっともっと、沢山、口を出していけば、本当にイイの?できるよ。]
 『そうです。ただ、注意しなきゃいけないのは、ここで、こうやって思ってる、この空気とは全然違いますから、あの場は。今とは全然空気が違うあの場で、今思ってることの60%でも出来たら、かなり出来が良いほうだ、って思いながらじゃないと、絶対に続かないです。』 
 [あー、うん。]

 決してあせらない。予定外でも、計算外でも、あきらめないで、その中で自分が出来ることをちょっとでもしていくことが、成功への一番の近道。

 こういうことは、努力についてだけじゃなくって、思い描いている理想や願いに対しても、同じことが言える。
 とにかく、自分が中心となって、ものごとを推し進めようとすること。自分が設定したレベルが、自分にとって、高ければ高いほど、現実は甘くないって立ち阻むことになるから、小さくゼロスタートすることに慣れていけたら良いなっと思う。

 『もうダメだよ。。何もできなかったし、、違いすぎるもん。』
 ≪そりゃ、簡単にはいかないよ。これは、僕の口癖なんだけど、今できることを考えろ!、って。ここでどんなに思ってみても、K君自身が、その場になったとき、どこまでできるか、ってことで、ここで思ってたことの半分でも、できるようにしていけばイイんじゃない?≫
 『…うん、ありがとう、頑張ってみるけど、本当にありがとう。』

 自分の自分勝手な理想や願いからあまりにも違う、現実や、価値観の相違や、誰かの想いや、集団のカラーなどを、目の当たりにすると、すべてを投げだしてしまいたくなるし、諦めたくなる。もちろん、そうしなきゃいけないときもあるけど、そうじゃないなら、完璧主義だからって理由で逃げちゃダメだ。

 だって、自分の理想からは遠い、って痛感させられたってことは、確実に一歩、現実は自分の理想に近づいてるってことだから。
 何事も、いきなり理想だったら、つまんないでしょ?だから、理想とは違うモノをきちんと受け止めて、少しでもできることをやっていくことが大切。

 それに、理想ってのは、レ点をつけて、想いのことわり、ってことだ。想いについて、筋道を立ててハッキリさせることなんて、そもそも不可能。
 理想なんて、みんな、それぞれに時間変化してイイものだし、きちんと理想があることは大事だけど、全体的に、もっと、理想の「たかが」の部分に目を向けるべきだと思う。

 理想や願いを目指しながらも、少しでも、ほんのちょっとでも、できることを。お互い様なんだから、お互いに、自分の想いの容量に、他人の理想を飲み込んで。
 それが、ホンモノへの第一歩だと思っている。
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スイッチが入っちゃった

2011-03-22 03:50:19 | Weblog
 誰でも、いくつかの自分のスタイル、モードを持ってる。
 俺が持ってるのはー、1人でいる時モード、何も怖くないモード、弱気モード、しゃべらないモード、仕事モード、仕切りモード、サブリーダーモード、円滑・無難モード、ジョーカーモード、偽本音モード、やや本音モード、本音モード、ブログ書くモード、やさぐれモード、なんでも楽しむモード、、ってこんなにあるわけないか(笑)。
 どれかとどれかは共通なはずだ。うむ。

 こういう1つひとつの自分を1人の人間に全部みせることは稀だけど、例えば、やさぐれモードとサブリーダーモードだけ比較されたとしたら、相当、腹黒いヤツって思われそうだな。
 1つひとつのモードは、ただの表現手法で、本来の自分は、全部一緒。だから、これは、まだ、扱いやすい。転移もしやすいし。

 人間の性質として、これとは完全に別に、「スイッチが入る」ってのも、あると思う。
 こっちは、スイッチが入る前と後で、本来の自分も変わっている気がする。かなり情緒不安定な時に、スイッチを入れさせるような不可抗力があると、スイッチが入る。何かの防衛手段として、感情が異常な状態になっていく。

 残酷な物理現象が一番で、その二番手、次に人が恐れなければいけないのは、スイッチが入った状態の自分自身だと思う。
 少なくとも、俺がいつも怖いのは、周りの空気じゃなくて、それによってスイッチが入ってしまった時の自分。どんなに違う自分でも、同じ自分がその後の処理をしなきゃいけないから。
 
 円滑・無難モードやジョーカーモード、なんでも楽しむモードでね。
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身の程を知るということ

2011-03-21 02:17:53 | Weblog
 自分の実力からは幾分レベルが低い環境に身を置くとき、きちんと空気を読むことは難しい。何の実力か?にも依るけど、たいていの系で難しくなってしまう。
 学力や体力などの分かりやすい能力であったとしても、それをセーブするべきなのか、それともフルに発揮するべきなのか、状況によっても違うし、1人1人によっても変わってくる。能力の種類が、コミュニケーション能力などの、抽象的な力だったとしたら、もっとだ。

 だから、レベル相応かレベルが高いほうが、安心してその場所にいることができるし、多少、勝手な事をしても許されるからラクだ。こういうことを計算してるのは、ちょっといやらしいけどね。

 レベルが低い場所に長く居続けて、たまにレベル相応の場所に帰ってきたとき、もしくは、やっと帰ってきたとき、自分のレベルが前とは極端に下がっているのを感じてしまう。やっぱり、場所による言葉の依存性っていうのはあるし、持っている言葉が高級なほど、自分の能力が高まる可能性は高いのだ。馴れ合いが一番怖いよね。

 俺は、場所に依る依存性が少ない、と自己評価している。たとえレベルが低い場所に居続けても、自分は一番にならなきゃダメ、か、マジにならない、くらいの謙虚さは持っているつもりだ。
 初心を忘れてしまうと、周りに対して最初はレベルが低いと感じていたくせに、いつからか、自分がその集団の中で落ちていっても、っま、いっかー、になっていってしまう。それが一番ダメだってこと。
 初めに思った事は、だいたい正しい。最初に思った事をいつまでも覚えていることは、とても大切なことだと思う。もちろん、初心のままじゃないからこそ、初心を忘れてはいけないんだけどね。

 自らの強い表面的な部分に身をゆだねて、その表面性を実質的に弱い者に押し付ける「身の程を知れ!」はくだらないけど、自分自身に対して、もっと根源的な部分で身の程を知り、行動することが必要だ。
 自分に対して、何が強みで、その強みがいかにくだらなく、何が弱みで、その弱みがいかに重大であるかを、知れ!ってことだな。

 注意していても、なかなか、曖昧な力に関しては、振る舞いを間違ってしまうこともあるし、本当の意味で身の程をよく知り、自分の身の振り方を解析して、ちゃんと空気を読めなきゃだよね。難しいな。
 っま、他の人を見てると、問題意識がある、ってだけで、だいぶマシなほーみたいだけどっ。って、この計算も、ちょっといやらしいな。笑
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大切シリーズの要約

2011-03-20 17:07:41 | Weblog

………

 過去3回をまとめると、、

  即物的になりすぎちゃいけない。なりすぎると、つまんなくて、しかもボロボロになる。

 →即物的にならないためには、自分の理想という本質的な方の即物的な部分を他人に押しつけるのではなく、他人の感情をリアルタイムで感じとり、発現していくことが大切。

 →でも、自分と他人との2体系を考えた時に、常に相手由来で、自分の思考力や能力だけで突破しようとすると、自分の表面的な方の即物的な部分(能力など)だけがかわれてしまうから、自分の願いや理想を半分くらいは封入して、発現していくことが大切。

 →2体系ではない時は、即物的なモノに支配されている人達のペースに巻き込まれないようにするために、正しいことをそのまま正しいと言っていけるような能力を身につけていくことが大切。

 要約ってキライです。必要だから書いてるんであって、要約したら意味無いじゃん。
 なので、この部分は明日には消します。笑
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種々のトスと明確なスパイク

2011-03-20 05:22:04 | Weblog
 これは前にも書いたことだけど、俺には行動力が無い。
 自分の望みを明確にさらすことは少ないし、それに対してまっすぐアプローチすることは少ない。いくつかの選択肢を提示して、誰かに選んでもらうことのほうが遥かに多い。まぁ、自分に対する決断はめちゃくちゃ早い時もあるけど、特にグループでの決断で俺が引っ張ることは滅多にない(ごく最近は違くなってきちゃいましたけど)。

 だけど、目的まで到達する可能性がかなり低いモノを沢山用意することに関しては、得意なほーだと思う。よーするに、スパイクは苦手だし、スパイクが打ちやすい綺麗なトスを1つあげることも得意じゃないけど、トスの数なら負けません、ってことだ。
 っていうか、、そういえば、これも、前にも書いた気がする(笑)。それはそれで努力。どっちにしても、結局、努力は数をこなせ!、ってね。

 当たり前だけど、沢山の方法を用意すれば、確率は高くなる。宝くじは、券を買えば買うほど当たる確率が高まるのと同じだ。
 目的はたったひとつ。その手法が違うだけだ。

 だから、いくつもの変数に依存しているコト、例えば、どこかに異動したり、誰かの地位を下げたり、誰かを実質的に助けたり、そういうことは、俺はあんまり難しくない。

 一方で、どんなに不器用なセッターでも、必ず、スパイクを打たなきゃいけない時がある。苦手なスパイクを。そういうほーが俺にとっては難儀だ。
 ただ、ホンモノの関係をきちんと築いていれば、下手くそなスパイクでも、みんな、許してくれる。

 スパイクを打った瞬間は明確じゃなくても、考えてくれるから、解釈しようとしてくれるから、にっくき物理現象に対しての、明確化された一撃となる。
 それを信じて、普段は種々のトスをあげ続けている。
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相互の能力の大切さ

2011-03-19 04:22:29 | Weblog
 俺は、感情も能力も両方無い者の下にはつかない。形の上でついたとしても、俺の気持ちをきちんと奪えてない限り、俺は仕事をきちんとしない。何事も無難に済ます。系内の平均的な描像で動ければ、それが、無駄のない、いつもの必勝パターン。
 ここで言ってる能力には、経験は含まれない。実質的に下につくんなら、経験は、あって当然。無いなら、どうして下についているのかわからないから、そんな最低なヤツの下についてしまったんなら、無難さえも時間の無駄。物理的に、さようなら、だ。

 逆の立場として、この判定基準を、自分よりも実質的に目下の方にも、望んでいる。優しい者か強い者に従え!できれば両方を持った優秀なヤツに従え!それ以外のザコに従う必要は無い、ってね。
 「優秀」って言葉は書き下すと「優しくて秀でている」んだから、感情も能力も素晴らしいことを言うのだ。「優れてるし秀でてる」でも良いじゃん?ってツッコミはナシで(笑)。

 でも、世の中そんなに簡単にはいかない。大抵は自分と相手の2体系じゃないから、目上の人がどんなにサイテーでも、ゴマすりヤローがいる限り、空気を読まないと、その集団の中で上手くやってけず、結局負けちゃうことになる。
 もしも、ゴマすりヤローのゴマすり行為を自分の能力だと勘違いしているサイテーなヤツに負けたくないなら、、

 『手っ取り早いのは、より高位の言葉を取りに行くことです。高位じゃなくても、沢山の言葉を持っていれば、相手を翻弄することができる。特に、感情も能力も無い、ただ言葉だけを得てきたバカな人間には、即物的な言葉達は効果的だから。
 あとは、自然科学の世界を選ぶこと。他の世界よりも、自然科学の世界は、権威などではなく、より正しいことを言った人が勝てる世界だと思う。他の世界よりはね。』

 俺は、自然科学そのものはもちろん好きだけど、その副産物である、正しいことを正しいと言うための解析力と勇気が身につくことも、最高だと思っている。
 本当の敵は、もちろん、自然現象や残酷な物理現象だ。
 だけど、権威を振りかざされ暴力を振るわれても、「世間体」という言葉で誤魔化すのが世の常なら、それに対抗出来得る思考力を身につけることが、大切になってくる。

 つまり、他人の感情と自分の感情を守るために、能力は大切。

 本来、感情のベクトルさえ素晴らしければ、能力なんてどうでもいい。
 でも、今の世の中じゃぁ、少なくとも誰か一人は、即物的な、能力や賢さがあることが必要なのだ。感情を守るために。

 「たかが自分の感情だから大丈夫」とか、「好きじゃないからどうでもイイ」とかじゃなくて、どーせ、ほとんどの人が、いつかは守らなきゃいけない日が来るんなら、他人の感情が殺されていくことに慣れないようにしなきゃだよね。
 だからこそ、能力をつけようとすることは、とっても大切なのだ。

 (このシリーズもここまでにしときます。3回にわたって、大切な順に書いてみました。
 『優先順位を間違えちゃいけない』っていつも思っていますが、この優先順位で、やっていこうと思ってから、結構時間が経っていますね。もちろん、これでスベテってわけでもないんですが。
 普段からこのシリーズで書こうと思っていたんですが、なかなか、まとまったお休みが無いとできないですね。っま、そろそろ実験をしない研究の計画でもたててみようかと思っていますが。計画停電が4月末までだったら、それまで実験がフワフワしちゃうなら、いっそ全部止めて、別のアプローチの仕方を勝手にしてみようかと思います。
 これまでもこれからも、いつもの自分っ、ケースバイケースな感じで。いろいろ大変ですが、選択肢が沢山残ってる関東圏の人達は、まだ幸せだよなぁ。)
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自分の感情の大切さ

2011-03-18 03:53:40 | Weblog
 教育的な見地に立つのでなくても、認めたり、褒めたりしようとすることは、意識的にしていかないといけない。他人のイヤなところは勝手に入ってくるけど、良いところはアンテナをはってないと検出できないからだ。

 こういうことに対する教科書って、まだまだ定式化されていない気もする。
 例えば、相手が言って欲しいことを言うのと、本当に相手のスゴイところを解析して、それをそのまま発言するのと、どっちがどういう状況の時に、どれほどイイのか、結構難しい。相手が嫌がったとしても本当のことをそのまま言うことが優しさになる場合もあるし、認めて欲しいところをそのまま言った方が、相手にとってプラスになることもある。

 どっちにしても、気持ちが外に向いていることが大事。内側に向いてる、つまり、それによって好かれようとしたいだけなんだったら、そうじゃない方法のが簡単だし効果的だ。優しいことは、損することだからね。
 っで、この物理法則を超えることが、ホンモノ、だってこった。もし、心から相手やみんなのことを想いやったのに、損しないどころか、何故か得しちゃったなら、その関係はめちゃくちゃ稀少だ。

 ただし、気をつけなきゃいけないことがある。そういう系に対して、自分の能力だけで切り抜けようとしては、絶対にいけない。すると、ただ自分の能力がかわれただけになっちゃう。強く正確な解析力があればあるほど、気をつけなきゃいけないことだ。
 そうならないためには、認める時、褒める時に、自分の解析結果に自分の理想や願いを加えることだ。しかも、みんなにバレバレなくらいに強調して。謙虚さは忘れちゃいけないけど、自分の感情をきちんと封入させていくことが大事。

 だから、極端に子供っぽくても、明確な理想を持っていることは、とっても大切なことなのだ。発現させるときに、それを優先にせず、自分勝手にならないようにすればいいだけで、「持っていなきゃいけない」くらいのモノだと思う。

 時間発展させた時に、この発現が、もし、modulateしていくようだったら、ホンモノ。
 それで離れていくようだったら、ラッキー。自分で選ばずに済むんだから。
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他人の感情の大切さ

2011-03-17 03:15:08 | Weblog
 俺は、「即物的」という言葉を、最近、とてもよく使うようになった。

 「即物的 意味」辺りでググってみると、、「主観を排して、実際の事物に即して考えたり、行ったりするさま」「物質的なことや金銭的なことを優先して考えるさま」などと出てくる。
 もちろん俺も、この意味で使っていて、ここで使う時は割と「即物的なコト≒あんま良くない」で使ってる率が高いですが、主観を排除して考えたり、物質的だったり金銭的だったりすることは、必要だけど、そこだけに囚われてると寂し過ぎるよね、って感じで、いつも使っています。

 ただ、勘違いしちゃいけないのは、学問をやる時は、基本的には、すべからく即物的にならなければならないです。主観を入れちゃぁいけないんです。
 だからこそ、思考力を試すゲームになっていて、面白い。それで、たかがゲームだから、そこに重きを置きすぎてもいけないんだと思っています。

 ところで、ある辞書サイトには、「即物的」は「事物そのものの本質を見きわめようとする態度」と出てきます。
 これは俺の使ってる意味とちょっと違うという印象を受けるかもしれませんが、実は、この意味は、俺が普段言いたいことをとてもよく表してくれています。

 そもそも、即物的には、「表面的」なのと「本質的」なのとがあると思います。

 お金、権威を示す言葉、数字、ルックス、趣味、能力などは、非常にわかりやすい即物的な事柄です。表面的だから。
 それらは、ある意味では、とても悪いことだ、というテーゼすらあるくらいで、新たに問題提議する気なら、少なくとも20年は遅いでしょう。

 これとは別に、俺が特に、気をつけなきゃいけないな、二度と間違ってはいけないな、っと思っているのは、本質を見極めようとし過ぎて、即物的になってしまう、ことのほうです。こういうことのほうが、思考だけで考えると、正解っぽさが漂うので、とても注意が必要です。
 本質を見極めるというだけの目的のために、一つのことだけを突き詰めてみたり、逆に、多角的に攻めてみたり、多角的な視野を持ってみたり、という行為は、周囲から努力していると認められるし、理屈ではすべて正しい行為だから、ボロボロになるまで、いけない振る舞いだった、って気が付かないんです。

 頑張り方に関して、目的から逆算して努力する(本質的)、というのと、ふわふわした目標に対して今できることをやっていく(表面的)、というのが、各個人で同程度に具現化してくるのが、自然な状態です。
 どちらかの独占状態になってしまっていると、誰かにそこをつけ入れられることになります。そりゃ、後者に偏ったほうが騙されやすいだろうし、騙す側としたら後者の方が簡単だろうけど、原理的には、どちらもワナに陥れることができます。

 「言ってることは、あってるじゃん??間違ってるわけじゃないから、そうかなぁ、って思うことも結構あるし。」
 『だからこそ、タチが悪いんですよ。間違ってることだったら、間違ってる、そんなこと言うな、でイイんです。でも、正しいからタチが悪い。』
 「…なるほどね。」

 でも、実質的に対等な立場じゃないほうが、まだ、「騙されない」打開策はいくらでも存在します。
 ヒッコミがつかなくなる、という先生特有の性質や、ナメるから思考力が下がる、という目上の人特有の性質、間違っても正してくれるかも?、という後輩や生徒特有の性質を利用して、そこにつけ入ればイイ。簡単だ。

 『でも、ほら、悪気は無いわけだし。』
 ≪違うよ、K君。悪意が無いからこそ、余計に、タチが悪いんだよ。≫

 ここには書かない策は確かにいくつかはあるけれど、対等な立ち位置のほうが、打開策は、極端に少なくなる。
 っで、気が付けば「走って逃げる」しか手段が無くなる。物理的に離れてしまえば、害はいっさい無くなるから。

 できるだけ、こんな風になる前に、どうにかしたい。だって、本質を見極めようとしたり、稀有な能力をかっていたり、表面的なことを共有するのは、何も悪いことではないんだし、その中で、時間発展させると、ホンモノになるのかもしれないじゃん?
 俺はあんまり信じられないけど(笑)。

 誰かの感情をリアルタイムに感じとった時に、初めて、即物的じゃなくなる。
 自分の理想や感情を優先にせず、誰かの感情依存で言動として具現化したときに、それが、本質的になっていたり、表面的になっていたりしていて、外から観ている分には一緒だけど、もう一歩違うレベルでの、より素晴らしい解答を提出しつづけることができる。
 自分以外の感情を本気で大切にしている限り、本当の意味で優秀な人達は、絶対に助けてくれる。今、それを具現化する能力が無いんだとしても、『能力なんて即物的なモノだから、どうにでもなりますよ』。

 もしかしたら、物理的な意味で走って逃げたつもりが、実はただ、自分勝手な自分の理想や感情から、走って逃げてきているだけなのかもしれない。
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