以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。
前のお話
5. 殺人の根拠/『研究コントローラー』
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2016年6月27日(月)
「その部分についてはまた次の発表で説明してもらうことにしよう。まずは有機化学として、反応がきちんとできているかどうかが重要だ。そうだとは思わないか?戸山くん?」
山岡教授のその言葉に、俺は窓の外の久々の晴天を眺めながら、「確かに、そうですね」とつぶやいた。慶明大学山岡研究室のゼミ。発表者はM2の岸信明くん。発表内容は、医療応用できうる新規ゲルの開発。応用的な事柄が最終目標であるのなら物性評価が重要になってくると思ってコメントしたのだが、物性物理学上のベースを考慮したことが気に障ったのだろう。「化学では反応追跡ができているか?が大事」という目的と方法を裏返してしまっている論法で押し切られてしまった。物理学や数式にアレルギーがある人がいると、こういうことはよく起こる。あの世代なら余計にそうだ。それに、これ以上深入りしてはいけない。権田くんが学推を提出できるよう野崎が山岡教授にブラフをかけてから、ただでさえ山岡教授は俺に何かと厳しい。俺の発言を無力化するように努めているように思える。だとしたら、ここで折れないで発言を続ける意味は無い。
「あ、ちょっといいですか」
振り返ると、ポスドクの豊杉さんが手をあげていた。豊杉さんは山岡研内での空気支配率が高く、上司である高野特任准教授や山岡教授も、豊杉さんの意見には従うようなところがあった。豊杉さんは関西弁のイントネーションを保った標準語で、軽やかに言葉を続けた。
「岸くんは、背景のところで、目標の設定を医療応用だとしていますよね。だとしたら、反応追跡は二の次でも良いんじゃないですか?むしろ、物性評価として、たとえば、皮膚にどれだけフィットしていられるかどうかとか、先にそういうことを調べた方がイイと思うんですよね。もちろん、身体に有害な副生成物ができていたら問題ですから、結局は反応追跡も行う必要がありますが、まずは、戸山くんが今言ってくれたように、物性として適しているかどうかという点を調べることが、重要じゃあないですか」
豊杉さんの発言に山岡教授が白眉をつり上げている。豊杉さんは山岡教授が不機嫌になることを承知で今の発言をしたのだろうか?真意は定かではないが、山岡教授が口を開いた。
「だから、その点については、次の発表で説明してもらうようにしようと、言ったはずですが、私の言葉を聞いていましたか?」
豊杉さんが俺の方をみながら、口角をあげてきた。「ね?」っと言っているようだった。「すいません、わかりました」と豊杉さんは短く述べた。俺はその笑顔に愛想笑いを浮かべながら、スマートグラスに表示された野崎の言葉に本当の笑顔をこぼしそうになった。
“私の指示がなくても、上手くやれるじゃないか”
というよりも、余計なことをしないで、無難に取り繕ってりゃいいんだろ?という部分が拭えないが、それでもこれから行うべき大仕事のことを考えれば、褒められておくにこしたことは無い。
13時5分前、ゼミが収束にさしかかり、連絡事項が伝えられた。学会の予定などについて話している。大した連絡はない。いつも通りであれば、ここで、全員でお昼に行くはずである。秘書の友川さんも含めて。
研究コントローラーと名乗る連続殺人を臭わす手紙が野崎のもとに送られてから1ヶ月。大学院生および若手の失踪事件の僅かな増加を訴え、RC研究生という大学院生のスパイ集団を組織している野崎の意見は、どうやらそれなりに間違っていなかったようだ。野崎は犯行について強アルカリによって死体を溶かしているんじゃないかとする説を出し、その調査となるような手がかりを、RC研究生の一人である俺、都王大の大学院生であり慶明大学の有機合成研究室、山岡研に潜入している戸山渉も、常に探してきた。俺が着目したのは試薬リスト。秘書の友川さんのデスクは山岡教授の部屋にあり、友川さんのパソコンには試薬棚や試薬庫にある試薬リストのデータが入っている。このリストは、友川さん本人が試薬棚と照合してリスト化しているもので、友川さんが犯人じゃなければ、何か怪しいもの、例えば、大量の水酸化ナトリウムが保存されていれば、すぐにわかるはずだ。当然、リストに何もなくても試薬がある場所とクロスチェックするべきだが、あくまで都王大学からの部外者である俺では、試薬棚はともかく試薬庫に行くのは不自然だ。だから、まずは、友川さんのリストを見てみることが先。このお昼のタイミングで、スマホを友川さんのデスク付近にある本棚のところに取り付け、動画を取りっぱなしにする。友川さんがお昼から戻ってきたタイミングでパスワードを解錠する指の動きを撮るためだ。スマホは山岡研のどこにあってもおかしくない有機反応の本の背表紙の裏に取り付けておき、カメラだけが外に露出するようにしたものを、本棚に入れる。そして、今は、絶好の機会。友川さんが、先生達の湯のみを下げにくる。その間、わずか3分だが、スマホが入った本を取り付けるには十分な時間だ。俺は野崎に、スマートグラスで動画撮影を外部にそのまま直接出力できるやり方を提案したのだが、「バレたときのリスクが高すぎる」と言われた。確かに、どこにでもあるスマホが本の背表紙に入っていたのがわかり、それが動画撮影されていたとしても、誰のものかどんな目的なのかわかりようがないが、パラレル回線を使用したり、現在世間にはあまり普及していないシステムを使ったのだとしたら、犯人がどこまで野崎のことを掴んでいるかはわからないとしても、野崎とRC研究生との関係がバレやすくなるだろう。
「すいません、ちょっと、先にトイレに行ってきます。どうしても我慢できなくて」
今度からトイレで席を立つ以外の理由を考えなくちゃいけないな。まぁ、今はとりあえず良い。思い切って教室のドアを開け廊下を出ると、そこにはタイミングよく友川さんと出くわした。ふくよかな身体の割に軽やかな足取り。お茶を片付けるためのおぼんを持っている。「どうも」と挨拶を交わしながら、階段の奥にあるトイレに向かうフリをしている。僅かな時間だけカギが開いているはずだ。急げ。階段を駆け上がり3階へ。試薬リストすべてを見るには大変だが、スマホ付き有機反応本を取り付けるのには容易い時間だ。山岡教授の居室に着き、そっと扉を開けた。誰もいないことはわかっていても、どうしても”恐る恐る”の様相になってしまう。狙っていた本棚を見つけ、お腹に隠していた、スマホ付きの本を本棚に置いた。沢山の本の上に沢山の本が積み上がっており、なんでもない本に紛らわせるのは簡単に思えた。録画をスタートさせ、俺はすぐに部屋を出ようと思った。だが、ここである事実に気がつく。友川さんのデスクのパソコン画面に、ちょうど試薬リストらしき表計算ソフトウェアが開いてあるのだ。スクリーンセーバーにならないくらい短い時間、本当に僅かな時間の隙間を狙っていることに興奮と緊張を覚えた。俺は瞬時にパソコンの今の状態を脳内にスキャンし、日付順になっているリストを上の方へ、つまり過去の試薬記録を見ようと、マウスを動かした。井川さんという行方不明の院生がいなくなったのは、確か去年の11月。そう野崎から訊いている。だとしたら、10月、いや9月、この辺りに試薬記録の更新が・・・。だが、その辺りには、水酸化ナトリウムもなければ、苛性ソーダとも書かれていない。やはり強アルカリで人体を溶かしているから死体が見つからない、というのはあまりにも短絡的な発想なんじゃないか?と俺は思い始めた。そうこうしているうちに、部屋に入ってから1分半も経過しようとしている。早くここから出なくては。俺はパソコンの画面をもとの状態に戻した。山岡教授の部屋のドアを開けて廊下に出ると、自分の気持ちが自然に一息つくのを感じた。少し小走りで歩き出し、階段を下がろうとすると、おぼんの上に山岡教授と高野特任准教授の湯のみを持つ秘書の友川さんに出くわした。
「あら」
俺は友川さんの姿と声にびっくりした。咄嗟に俺は、言葉を探した。
「あ、下のトイレ、偶然、空いてなくて。上のを使ったんです」
わざわざ言わなくても良かったか?そう思いながらも、連絡事項を終えそうになっているゼミ室に戻った。
このあとは皆でお昼ごはんだ。居室に戻り、俺はその僅かな時間で野崎に連絡した。新しいパラレルスマホにも慣れてきた。
“スマホのとりつけは完了しました。このあと午後イチで、回収します。チェックするのは明日の深夜になります。ぱっと見た感じでは、水酸化ナトリウムなどの強アルカリが大量にストックされている様子はありませんでした“
山岡教授の居室のカギは、実験室に置いてある。その実験室のカギは俺も普段から1つ預かっているが、山岡教授の居室のカギを取るには、記録帳にいちいちメモるのがルールだ。カギを必要としない時は、教授室に誰かしらいるということになる。だから、リストを盗み見することはできないし、誰もいない頃を見計らってメモらずにカギを持っていって何か問題があっては面倒だ。どうせ、深夜にだってこの建物には入れるのだから、水曜日は体調不良で休むことにして、誰もいないであろう火曜から水曜にかけての深夜、ここに侵入することにしよう。研究室のgogleカレンダーによれば明日の夜には誰も実験しないはずだし、ゼミは終わったばかり。研究室に遅くまでいる人はいないはずだ。お昼ごはんが終わり次第、秘書の友川さんがパソコンのスクリーンセーバーを元に戻した頃合いに、山岡教授の居室に本を取りにいく様子で伺い、そして、スマホ入りの本を回収しよう。そこに、友川さんの入力の様子が映っているはずだ。これでパスワードゲット。ここまで、何事もなく進めば良いのだが。野崎から連絡が帰ってきた。俺はスマートグラス上の文字を見る。
“お疲れさま。まずは第一段階クリア、ってところか。日本のラボは深夜に実験してもお咎め無しな上に簡単に侵入できる。スパイする側としては楽勝だな”
向こうからの連絡に対しては、スマートグラスをかけているだけで、内容を知ることができる。だが、発信に関しては、パラレルスマホを使わなくてはいけない。当たり前のことなのだが、慣れてくると意外とめんどくさい。そんなことを思っていると、M2の原田さんが話しかけてきた。近寄られる程に、独特な香水の匂いが増す。どうも、こいつは油断できない。なんでもかんでも、すぐに男を利用しようとしそうである。
「ほら、早く行きましょうよー。森下さんも早くしないとー、午後イチに予約したNMRに間に合わなくなっちゃいますよ」
D2の森下さんにも話しかけながら、原田さんはみんなでお昼に行くようにしむけている。このとき、俺は何かの違和感を感じた。何だ?何がおかしいんだ?すると、森下さんが間髪をいれずに言った。
「原田さん、NMRの予約は14時だろ。午後イチだったら、今行かなくちゃ行けない」
原田さんは、髪を後ろに流しながら、ケロっとした表情を作って、言葉を返した。
「あ、そっか」
短い言葉で言い終わると、原田さんは、右側の髪だけ前に流し戻した。先ほど出した野崎のメールに俺も”午後イチ”と書いた。そもそも”午後イチ”が何時なのか知らないが、一般には13時からだろう。どうも研究室の生活が長くなると、お昼休み学部生でいっぱいの学食が空きはじめる13時頃にお昼に行くことが多く、研究行為を再開する14時頃のことを”午後イチ”と言ってしまう。そして、原田さんも俺も、偶然、同じタイミングで間違えた。偶然か?いや、偶然に決まっている。絶対にパラレルスマホは見られていないし、まして、その内容は絶対に誰にも見せていないように気をつけている。野崎に盗撮・盗聴されてから、身の回りのカメラや録音類には気をつけているし、怪しいかもしれないと思ったものに関しては随時チェックするようにしている。ありえない。ただの偶然のはずだ。俺はそう思いながら、山岡研のみんなと学食に向かうことにした。
午後イチ、もとい14時が過ぎた。お昼ごはんは、置いてきたスマホが気になって、ほとんど喉を通らず、その様子を見たD1の同期の権田くんが、心配してくれてしまった。スパイとしては失格だなと反省していると、14時3分。まだ早いか。席に着きながら、論文をサーチしているフリをする。14時20分。私用で使っている通常のスマホからSNSでくだらないことを呟いて、そろそろ居室に向かうかと思い、山岡教授の部屋に向かった。手にはテキトウな論文を持っている。論文内の反応機構について不安があったために本を探しにきた、という大義名分のためだ。
「失礼します」
少し小さく発した自分の声に緊張が走る。大丈夫、自然なはずだ。すると、豊杉さんが共用パソコンを使っていた。どうやら、何かの解析をしているようだ。俺は恐る恐る扉を閉めて、状況を把握した。秘書の友川さんは座ってデスクワークをし始めている。ということは、スクリーンセーバーを解除するために、すでにパスワードを入力したはずだ。それが撮影できているはずである。俺は、とりあえず、スマホが入っていない本のほうへ向かい、右手に取ってみた。左手に持っている論文を確認する。これがいいかも?っという表情を作りながら、スマホが取り付けてある有機反応に関する本を取り出した。背表紙越しにスマホの感触を味わって、安心感を得る。もし、本だけでスマホがなくなっていたら、元も子もない。よし、完璧だ!と思いながら、俺は部屋を出て、すぐに野崎に連絡しようとした。すると、今自分が出たばかりの扉が開き、豊杉さんが出てきた。豊杉さんは俺に近づいてくるなり、小声で囁いた。
「やっぱり、戸山くんは野崎先生のお小姓やったんやな」
俺は、突然の野崎の名前にビックリしながら、豊杉さんを見つめた。
「そんなにビックリしなくてええで。時間あるやろ。ちょっと散歩しよか?」
豊杉さんは一度実験室に入り、高野准教授にアイコンタクトをする様子を見せた。高野先生は「わかった」とすべてを理解した表情をして、俺ら2人を送り出した。
いっさい喋らず歩き続けて10分。慶明大学日吉キャンパスを出て、住宅街に入ってきてしまった。雲は少し多いが、今日は雨の降る心配は無いという予報である。確かに雲と雲の間から少しだけ青空が覗けるくらいには晴れている。豊杉さんはどこまで歩き続ける予定だろうか?俺はキャンパスを出るあたりで、直感的にパラレルスマホとスマートグラスの電源をオフにした。
「ここまでくれば、まぁ、誰かに聴かれる心配もないやろ。あの本、なんかあんねやろ?それ以上なんも訊かんけど、ラボにある本は、一応、俺はすべて把握しているんでね」
そう言いながら、やっと俺に話しかけてきた。表情は穏やかだ。
「井川英治くんの件について、高野先生に相談したのは、もともと俺なんや。そしたら高野先生、研究コンサルタントをしている野崎って知り合いがいるから、彼に相談してみましょ、て言われてな。で、野崎先生の取り組みの資金援助をうちの親父から出してもらうことになってな。斉藤グループと比べると微々たるもんやけど、うちもそれなりに儲けてるからなぁ。ここまでトントン拍子やったで」
俺は、驚きの事実にも拘らず、案外、なるほど、と心から納得できた。金持ちと情報の組み合わせは、何かが創発されるときには必ず共存しているってもんだ。
「井川くんについては、どれくらい訊いてるんか?」
突然の質問に俺は野崎の言葉を思い出してみた。
「えっと、現在D5ですよね。野崎先生から訊いていることとしては、昨年の10月から行方知れずってことくらいで」
「せやな。うちらがお願いしてから、野崎先生がRCを組織するまで、本当に仕事が早くてビックリしたで。俺のSNSにもRC制度の情報が流れてきたときに、マジか?と思た」
なるほど。あれは、かなり大規模に拡散されてたんだな。あの広告に騙されて、今俺はこの人と喋っているわけか。前から、短い道を、小学生数名とおばさん数名が歩いてくる。自然と、俺ら二人は会話を止めた。やり過ごしたのを確認すると、豊杉さんは言葉を続けた。
「俺は実は、博士課程からこの研究室に来てな。もともとは東都科学大やねん。修士までのラボが先生の定年で閉まってしもうて、それで慶明大の山岡研を受験したんや。なんとか合格して山岡研に入ったときに、同期ですでにいたのが井川くん。もうその頃からあんまりラボに来ておらんかったけどな」
「もう、その頃から行方不明のような状態が続いてたってことですか?」
「せやな。決定的だったのは、俺が学推の申請を山岡先生から認められて、井川くんが認められなかったことだったように思える。卒研と修士の頃から山岡研にいたのにも拘らず、俺の方が優先順位高かったことに、井川くんはショックだったんやろ。そんときは、当たり前やん、としか思わんかったけどな。だって井川くん、全然、来てなかったんやから」
二人で歩きながら話すとき、その二人の会話が、歩き方に反映されるという。確かに今、俺らは、ほんの少し早足で、思考の飛躍の仕方がややあるように思えることと一致する。そして、豊杉さんが常に俺より少し前を歩いていて、それも豊杉さんが会話をリードしていることと一致している。
「それでもまだ俺らがD1の頃、そうやなぁ、D2の夏ぐらいまでは、井川くんは研究室に来ていたと言える。なんでかって言うとな、ラボ内で彼が来てないことが噂になっとったからや」
会話の主導権を取り返すために、少し先手を打とうとした矢先、意味が分からないことを豊杉さんは言ってきた。
「え?どういう意味ですか?」
「そら、正しい反応や。俺の説明不足。せやからな、研究室に来てない、っていうのには、レベルがあるっちゅうこっちゃ。あの人研究室に来ないよね、って噂になっとるうちは、そらまだ研究室に来てないことがレアな事実になっとるっちゅうことで、基本は研究室にいるっちゅうことやんか?せやけど、その人が研究室に来てるってことが噂になるっちゅうことは、来てないことは周知の事実になっとって、その上で来た、ってことが噂になったっちゅうことやんか?」
俺はやっと納得した。なるほど、確かそうだ。俺は笑いながら頷いた。
「情報の基本ですよね。あるイギリスのジャーナリストの言葉に、人が犬に噛まれてもニュースにはならないけど、人が犬を噛んだって事実はニュースになる、というのがあります。稀な事実が情報を作るっていうか・・・」
豊杉さんは分かってもらえた嬉しさを笑顔で俺に伝えた。
「D2の終わりには、井川くんは周囲から、研究室に来てることが、噂になっとった。まぁ、末期やな。当然そんな状態やったし、同期やけど一緒には博士号とられへん思ってたんやけど、それでも、ちょこちょこ井川くんとも話しててなぁ。彼、おもろいねん。考え方が」
「と言いますと、どんな風に?」
「ラボオートメーションに興味があったみたいやで。将来的に実験室はこうなるああなる、って言うのを教えてくれて・・・、あ、そういえば、彼に誘われて、一度、そういう学会というか研究会というか、そういう催しに一緒に行ったこともあったで。まぁ、今思うと、自分が手を動かしてないイイワケと連動していたような気もしなくはないんやけど、わからんとこやで」
そう言いながら、俺らは曲がり角を曲がった。
「俺が学位取ると、井川くんはますます来ーへんようになってしもた。まぁ、しゃーない。で、そのまま俺はJTSの研究員として山岡研におるようになって、あまりにも井川くんが来ないから、高野先生とよく相談しとったんや。もう、井川くんのことをよく知ってるのが、俺か高野先生しか残っておらへんしな。ほんで、おかしいな、って思ったのが、9月の終わりの、ある日のことや」
核心を突くであろう言葉がここから出てくる。俺は本能的にそんな予感がした。豊杉さんは真剣な表情になった。
「正確な日にちは覚えてへんけど、9月の終わりやったのは間違いない。その日、珍しく井川くんがラボにやってきたんや。実験ノートを開いとった。俺が、大丈夫なんか?今年は博論いけそうか?、と訊くと、井川くんは逆に質問してきた。研究者として最も大事なことはなんだと思う?、ってな」
研究者として最も大事なこと。あまりに多くの研究者が色々なことを言うあまり、それを一言で表現することは難しいように思える。好奇心を持ち続けること?諦めない心を持って粘り強く頑張ること?思考力の高さ?文章作成力?実験を沢山できること?論文をよく読むこと?そのどれも俺はしっくり来ていない。野崎なら何と言うだろう?研究者として最も大事なことは何だ?
「俺は、自分で考えられることじゃないか?、って応えたんや。本音では、有機合成の分野なんて、ほとんどその成果は実験量に比例するやろ、って思ってるんやで。せやけど、本当のことでも言って良いことと悪いことがあるやんか?せやから俺は、井川くんのスタイルに少し合わせた答えを言ったんや」
「そう言うと、井川さんはなんて応えたんですか?」
豊杉さんは井川くんのモノマネをするように表情を作りながら応えた。
「なるほどね。でも、自分で物事を考えられても、実際にそれを具現化できないと仕方ないじゃないか?って言われた。そこまでわかっとるんやったら、なぜに実験せーへんのや?って思って、そう質問したんや。そしたら、最初からくだらないと分かってることに対して、実験するとか実験しないとか、それ以前じゃん、って言われてしもた」
俺には、豊杉さんは2つの意味で勘違いをしている、と思える。まず一点目は、豊杉さんは、上の立場の人にとって使いやすい若手でいることが研究者として優秀であると考えているようだが、その考え方では自分が上の立場に立ったときに完全に困るということ。一生誰かに媚び諂って生きていくことはできない。これは研究者に限らず、だが。そして二点目。井川さんはおそらくそれをわかっていて、物事を自分の頭で考えられても、それが権威によって具現化できない現状を憂いでいたのだ。それを豊杉さんはわかっていない。
「そう言うから、俺は言ってやったんや。確かに山岡教授は頭が良いほうじゃ無い。せやけども、割り切ってしもたらラクやと思うよ?とりあえず博士取るまでは、そうして見たらどうやねん?って。すると、井川くんはすごく明るい顔になって、なるほどーって感じの表情やったんやで。で、ほんなら、とりあえず、明日から毎日来るってことをしてみたら?って言うて、本人頷いて、かなり納得した表情やったのに、その日から完全に姿を見せなくなって・・・、そんな風になったの初めてやったし、それで野崎先生に相談することになるんやけど・・・」
ちょっと待て!その伝え方が本当だとすると、井川さんは豊杉さんにムカついているだけのはずだ。野崎がそれだけで動くとは思えない。野崎なら、井川くんがそれからずっと来れなくなってしまうのは当たり前だと思うはずで、俺を山岡研に派遣するまでに至るとは思えない。
「え?ごめんなさい、ちょっと待ってください。明日から毎日来てみる約束を取り付けた後、何か言ってませんでしたか?」
「確か、”そうだね。信頼できるかどうかわかるためには、こちらから信頼してみるしかないからね”とか言うてた。状況に対して、あんまりフィットしてる言葉じゃないから印象的で、よく覚えとる。井川くんが何を信頼したいのか?わからへんやん。っていうか、えっらい、上からやなーって」
俺は身体の芯から寒気を感じた。都王大学根津キャンパスの竹田講堂で行われた”科研費における審査の手順改革 2018”説明会の後に謎の女性から言われた言葉、そして研究コントローラーと名乗るこの件の犯人からの手紙にかかれていた言葉、”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them”じゃないか。このヘミングウェイの言葉、何かあるんだ。そして、野崎も、この言葉を豊杉さんから聞き出して、この失踪事件は単なる鬱病患者の引きこもりでは無いと結論づけているのだろう。
「どうした?戸山くん?」
「いえ、なんでもありません。よくわかりました」
豊杉さんは、ため息をつきながら、「そろそろ戻る方向にしよか」と言い出した。時計は15時半をまわっている。
「それで。戸山くんとしては、山岡研で、何か掴めたんか?」
「いいえ、全然。野崎先生が把握されている以上のことはわかりません。僕はただ、野崎先生の手となり足となるだけですから」
それからは、世間話をしたり、山岡研内の人間関係の話をしたり、研究の話をしたり、大した情報のやりとりはしなかった。ひとつだけ言えるのは、豊杉さんは良い人だが、対応至上主義だということ。こういう人が研究者として向いていると研究の世界では言われているが、本当の意味では、研究者に向いていないように思える。それこそ、研究者として大事なことは何か?、と自分自身に問い続けていない。そして、この、研究者として大事なことは何か?、と日々問い続けることこそ、研究者として大事なことなのかもしれない、と俺は思いながら愛想笑いを続けることにした。
2016年6月29日(水)
いくつになっても、真夜中の学校は薄気味悪い。昨日の20時半から共通実験室やリフレッシュルームを転々とさせられている。スマートグラスで野崎から指定された部屋に転々と移動しながら隠れ続けること六時間弱、ほとんど誰とも出くわしていないし、もう十分だろう。RCの収入で新調した腕時計を見る。さて、午前2時過ぎか。野崎からの連絡も30分前を最後に入っていないし、そろそろ実行して良いだろう。俺は実験室に向かうことにした。
あれから、秘書の友川さんがパスワードを打ち込んでいる動画を野崎に送り、解析してもらった。パスワードは、”TornaDo69”。あのおばさん、ジャネオタだったのか。トルネードロックは、低迷が続くJ-POP界で唯一成功している、ジャネーズの5人組アイドルグループ。意外な事実に俺はビックリしたが、そんなことよりも、野崎からの直前の沢山の指示の変更を受けるほうが大変だった。ここに隠れろ、次はここに隠れろ、何時に見に行け、やはり30分待て、試薬リストをスマートグラスで撮ってくれ、いや、やはり、普通のスマホで撮っておいてくれ、と要求がやたらに二転三転した。
ゆっくりと3階の実験室および教授室に向かう。やはり、格式の高い建物が緊張感を煽る。何か知らないが、嫌な予感がする。別に大したことじゃないはずなのに、と俺は思った。よほどJTSシンポジウムのときに質問させられるほうが大変だっただろう?と自分に言い聞かせた。当然ながら、誰もいない。教授室に入るには、実験室から教授室のカギをとらなくてはいけない。実験室の扉を開け、部屋を真っ暗にしたまま、カギをとりにいく。電気をつけてはいけない。これも、野崎から言われていることだ。普段とは違う実験室の雰囲気に緊張感が走る。あった、カギだ。暗くてよく見えない場合は、スマホの明かりを頼りにしてっと。スマホの画面を見ると少し安心した。たわいもないことでさっきまで話していた内容について、彼女の香奈からSMSのポップアップが入っていた。実験室の扉をゆっくりと締め、教授室に向かう。今度は教授室の扉にカギを指し、ゆっくりとカギを回し、ゆっくりと扉を開け、教授室の中を見回してから内カギをゆっくり閉めた。友川さんのPCをつける。ぼーん、という音が鳴り響き、俺はビックリする。だが、これは仕方ない。そんなに大きな音でもないだろう。デスクトップに試薬リストというファイルがあり、それを開く。月曜にチェックしたはずだが、証拠の写メを撮っていこう。2014年4月から試薬の存在記録が購入記録と一緒に残っている。購入記録を日付順にして、2014年4月から写メを撮っていく。”水酸化ナトリウム”という文字は見つからない。やはり、強アルカリで人体を溶かしているというのは、おかしいんじゃないだろうか?そう思っていると、2014年度までの写メが終わる。意外と短い。10分足らずで作業が終わった。さて、去年だ。2015年。4月なし。5月なし・・・。そして、ここは、一昨日も見た、9月だな。ここも、ないはず・・・。何っ!?俺の目に、”洗剤用水酸化ナトリウム”の文字が見える。機械のように写メを撮っていた、右手が止まる。容量は?10Lが4本。薄めて使えば、ヒト一人を溶かせる量ではある。場所は?試薬庫か。何故だ?一昨日見たときには何もなかったはず。何故?そう思いながら、やっと手が動いてくれた。写メを撮る。これだけで十分なはずだ。
どうしてだろう?野崎率いる我々RCチームが水酸化ナトリウムを疑ったら、都合良く水酸化ナトリウムが試薬リストに追加された。こないだは絶対にこのリストには無かったはずなのに。試薬リストの更新日時を見てみる。すると、驚くべきことに、一週間前になっている。いや、絶対にこないだは”水酸化ナトリウム”の表示はなかった、俺はそう思った。化学に疎い俺でも、流石にこれは見逃さない。ここで、ふと、”午後イチ”という言葉を思い出す。あいつ?M2の原田愛菜。スマートグラスに表示された文字を読み取っている?確かに、パラレル回線上で、”水酸化ナトリウム”という文字を使ったのは、一昨日が最初だ。それをどこかで見られているのか?そう思いながら、ひとまず、秘書の友川さんのPCをシャットダウンした。その瞬間に、教授室の扉のドアノブががちゃがちゃと回りだした。俺は、硬直してしまった。内側からカギをしておいたから、ここには簡単には入れないはずだ。内カギと外カギは違うものだからだ。だが、このままではいつドアを壊され、ここに入ってこられるかわからない。どうする?どうする?!
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7. 桜タワー/『研究コントローラー』につづく
関西弁が難しかった6話目でした。
もう、7話目はすでに書き出してますので、次回は早いはずです。ここまで、事前に読んでくださってる、お二人、有り難う御座いました。また、来週も宜しくお願い致します。
というわけで、意外とあっという間に、折り返し地点。12話で完結予定です。完結したら、プロットと、ネタばらしなどしますが、それまで、これに関しては、なるべく文章だけで楽しんでもらいましょ。