たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

Aグループのしがらみを超えて

2015-01-30 02:52:35 | Weblog
 あなたが、みんなのためを想って駆け回るその姿は、どの気持ちから発現されてくるのか、今の僕には想像もつかない。
 自分にとって居心地のいい、扱いやすい人だけを配置しておけば、それで集団はラクに活性化されるし、どうでも良いヤツだって空気を読んで別の世界に行くはずなのに、それほどまでに全員に優しい理由はどこにあるのだろう?

 その努力が報われるとは到底思えない。なぜなら、その努力を直接頂ける当の本人である僕らは、その努力をほとんど理解できないからだ。
 僕と同じような多くの人たちは、「ただ自己満足でやってるんだろ」っと思うだけ。しかも、あなたと同じような人たちからは、「なぜそのような集団に手を尽くす?」と飽き飽きされるだけである。
 Aグループのなかにあるしがらみを、僕は想像することもできない。そのリスクを背負ってまで、Cグループにまで手を尽くそうとするその気持ちが、、尊いことはわかるし、正解であることもわかるのだが、心で納得できないのだ。

 だから、今、僕があなたにできることは何も無い。ただただ、価値観を享受することに終始するだけである。


 今になって、君が、とてつもなく冷徹であったことが、よくわかる。
 あれから俺は、君の行動やそこに内在する哲学を具現化しようと、遮二無二努力し続けた。

 冷徹と聞いて、君はびっくりするかもしれない。でも、冷徹というのは必ずしも悪い意味ではないはずだ。頭で考えることと心で思うこととは違う、というのはサイエンスをする上での最も基本的な心得であるが、冷徹とは、思うことの要素を極限まで減らすことで「冷」たくし、その想いが達成されるように思考することに「徹」するということなのだから。

 そう、君が望んでいたのは、即物的で単純な「勝ち」だ。だからこそ、集団の中で最も自分のことしか考えていない人たちを本当の意味で集団に取り込み、準拠集団化していかなくちゃいけなかったのだ。
 それができたとき、君個人の非凡さの証明、この集団の非凡さの具現化になり、ほかの集団を確実に圧倒できる。

 勝つためには手段を選ばない。その言葉の本当の意味を知っていたのは、あの頃、君だけだったのかもしれないね。
 そして、そのリスク、、得られることで失うモノが、いかにデカいかを俺が痛感している今、あの人には決して、こんな思いをしてほしくないとも思う。

 君には悪いけれど。でも、それは、あなたに能力があり過ぎるのが悪いんだ、と懐かしく完全なCグループ寄りの意見を自分の心だけに言い放ってみる。
 まぁ、何かできることがあれば、いつでもなんでもするだけの気概くらいは、今はあるけどね。
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「次いつにするー?」

2015-01-28 02:04:52 | Weblog
 「飲み物、買った?」
 と君は言う。僕は
 『ああ、もう持ってるけど、付き合うよ』
 っと言って、コンビニへと足を向ける。特に待ち合わせをしたわけじゃなく、同じくらいの電車で、駅から一緒になり、駄弁りながら他のメンバーも待つスタジオへと向かう。駅から少し距離があるスタジオに到着し大きいドアを開けると、真ん中の椅子に腰かける。

 「いやー、疲れた」
 『実験だったの?』
 「そう。まぁ、流れ作業だけどね」
 『で、スタジオ練だけど、大丈夫?』
 「ダメかも笑」

 くだらない話の合間に淡々と進められる受け付け作業を横目にしていると、掲示板に目がとまる。色んなバンドが各パートを募集してる。ギター募集、ボーカル募集、などと、とてもじゃないけれど参加したくないような色使いと字の汚さで書いてある。
 タバコの匂いが立ち込める。普段僕はタバコの匂いがするとあからさまに厭な顔をするのに、なぜ今は心地良いのだろう?ココは音楽をする場所なのだから、あの歌詞のように、"タバコの flavor がした、ニガくてせつない香り"、などと表現しても良いかもしれない。いや、ヤローが何人か揃って、タバコの「flavor」がした、はありえないだろう、と思ったが、よくよく考えてみればあの歌詞はどうして「flavor」の後に「切ない香り」と表しているのだろう。などと考えていると、いつの間にか全員揃い、名前が呼ばれ、部屋番号が伝えられる。

 「ミキサー頼むわ」
 と言いながら、それぞれのゴッパーをみんなで繋いでいく。絡まるコードさえ愛しい、この瞬間、、椅子を並べながら音を創っていく前段階を楽しむ。
 機材を設定している時、ここから作っていく、僕は音楽やってるんだ、と気持ちが高揚していく。

 『とりあえず、全部、通してみよっか』
 と言ったのが、嘘のように昔に感じて、いつの間にか終了を告げる赤いランプはともされている。

 そして、
 「次いつにするー?」
 という会話をしながら会計を済ませ、夕食を取る。スタジオ練のあとは、飲み屋じゃなくて、松屋とかに行くのが、まったく売れないミュージシャン、っぽい。

 定食を食べながら、決して定まるはずのない方向性と価値観をぶつけあって、くたくたになりながら帰宅する。どんなに価値観が合わなくても、どんなに喧嘩みたいになっても、心地良い。なぜなら、僕は、スタジオに行くのが好きだし、何よりもみんなが好きだから。

 そんな青春の日々を、まだ望んでいるのかもしれない。まったく違うことで、まったく別の集団で、まったく異なる価値観で良い。
 俺は、あの日々がいつまでも続くことを、きっと心のどこかで願っている。
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片道の燃料で一歩前へ踏み出そう

2015-01-25 04:02:03 | Weblog
 単純なカッコよさを追究する世界では、どの世界でも、みんな、自分が一番すごい、って思いながら入ってくる。たいていの場合は、その世界にしばらくい続けると、次第に現実を受け入れていく自分に気がつく。

 あれ?自分って大したこと無かったんだ。
 あれ??自分ってやっぱり駄目なんだ。センス無いんだ。
 みんなが凄すぎる。とりあえず、この世界のなかで生きていくことだけを考えよう。
 生きていくためには、手段を選ばずに、他人を蹴落とさなくちゃ仕方ない。それが勝負の世界だ。
 厳しいのだ。そんなことを知らずにこの世界にやってくるヤツが悪い。
 自分勝手だとわからないように、こっそり自分を守り、他人を蹴落とそう。

 っといった具合に、どんどん自分のプライドを守ろうとする、それも、ちっぽけなプライドを。

 確かに、理想ばかりを掲げて現実を観ないのでは実りが無い。自然科学の実験研究でなら、理論ばかり勉強して、実験量が落ちてしまうなら意味が無いのだ。しかし、現実を受け入れ過ぎてはいけない。現実を受け入れ過ぎてしまえば、一歩も前へ踏み出せなくなってしまうからだ。そして、無意味なデータを量産化し続けることにしか執着できなくなるだろう。まぁ、こういうのを聴いて、じゃぁ、あんま実験しなくていいや、ってのは、もっと最悪なんだけどね笑。
 理想が心の中にあって、事実をしっかりと直視しながら、受け入れられない現実を肌で感じるとき、人ははじめて成長できるのだと俺は思う。

 "負けてから、ビッグマウスに、なる勇気"
 UAEに負けて、アジアカップ敗退したら、エースたちは、「ロシアでの優勝にむけて、良い経験になった」「中2日でもプレイできるだけの準備の仕方を考えるいいきっかけとなった」とか、言えや!っていうか、泣くなや!!笑

 そう、いかにして先人が作ってくれたエレベーターに乗るか、ということしか考えていない人間に、その後の未来は想定されない、すなわち教育など、絶対にできないのだよ。
 どんなに人を頼っても良い、どんなに人に手伝ってもらっても良い、、しかし、最後は自分の足で山中を歩くほかない、と考えてこなければ、他人に適確に山を歩かせることはできないのだ、ということを学ばねばならない。

 俺は利害関係によって成り立っている関係性に負けることが最も嫌いだ。
 しかし、たとえそれで負けて、惨めでカッコ悪くても、まだ度胸をはって、自分が正しいと思うこと、自分がホンモノだと想うことを、宣言し続けていきたい。

 今度は、俺が、一歩踏み出す番、なのかもしれないね。
 片道の燃料で、もう一歩、前へ踏み出していこう。

しくじり先生 俺みたいになるな!! 動画 さとう珠緒 (2015/1/22) Part 3
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空が高くなってきて

2015-01-23 02:20:01 | Weblog
 つねに感情的になったほうが負けだ。

 相手のことを否定することを前提とした批判の仕方をしていれば、代案なき批判に終始するし、代案を言っていたとしても、誰もがすぐに思いつくが実際にはほとんど不可能な浮世離れしたアドバイスしかコメントできなくなってしまう。
 そもそも、どんな相手の、どんな類いの主張に対する批判であれ、感情的になりさえすれば、どこまでも否定することができることは自明であろう。それはただの「いじめ」であり、誰か強い人が言ったからという理由で同じように共感するのであれば、集団でいじめに参加しているのとカワラナイ。俺はそのような場に、ひと笑いすら、いっさい参加したくないし、、しかし今回は、事前に我々で危惧していたよりは、善意の方向に向いていくのも感じとった。あのなかでも、きちんと空気を戻そうと、きちんとした発言をしようと心がけている人は、年上年下、どんな所属、いっさい関係無く、確実に存在していることは、少し救いだ。

 感情的になる理由、その奥にある確かな背景をきちんと瞬時に掌握し、感情的になる相手に対して、あくまで堅牢にロジックで返そうとすることは快感ではあるが、、それは、とても悲しいことだと思う。
 俺は、これだけをしていてはいけない。俺は、10年前に彼と約束した、あの絶対的な価値観に今も忠実だし、それだけは論理性よりも優先しなくちゃいけないこと。
 ぜったいに切らせてはいけないライン、人として、感情として、誰の何が大切で、誰の心を俺(ら)の掌でとどめるべきか。助けなければいけない対象、助けたい人、大好きな相手、その真っ直ぐさに忠実でありたい。しかも、これを約束した彼本人の息がかかっている相手であれば、なおさらだ。

 10年前と宣言はカワラナイ。
 俺は、お前には負けない。この価値観を習った、お前よりも、系をより良くしてやる。俺が、達成する。

 空が高くなってきて肌寒い空気、、それでも、まだ、俺には信頼できる仲間がたくさんいて良かったなぁと思うし、この集団のなかに誰もいなくなってしまっても、別のフィールドで同じことをしている仲間から勇気を貰うことができる俺は恵まれている。
 俺らは手痛い失敗をしているからこそ、絶対に切らせてはいけない最終ラインに敏感でいられるのだ。

 その上で、俺自身が感情的になるということが足りていないのも感じる。結局俺は、本当の意味で感情的にはならないから、追いかけていく時、決定を先延ばしにしがちで、その行動におこがましさがないことをいちいち確認してしまうのだ。もう少しの勇気が無いと、かなわないことばかりで。
 でも、今はもう、心は心のまま正直に、一番大事な気持ちに嘘はつかないと決めた。

 だって、本気で人を好きになったり、本気で誰かを助けなくちゃと使命感に燃えることは、即ち、その相手に完璧に負けるということなのだから。

 そうなることが、、それが本当の願い。

Perfume「願い」
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壮大なシャンスサンプル

2015-01-22 02:43:03 | Weblog
 俺の目には、殆どの人は、立ち止まっているように見えてしまう。
 それは、自分の能力が向上しうるということを完全に諦めきっているようにみえるということだ。

 俺は、もともと、お世辞にも進学校とは呼べない私立中学から、いまのこの場所にいる。しかもいきなり賢い集団に入っていったわけではなく、徐々に、徐々に、世間で最高峰と呼ばれるこの場所に辿りついた。
 これまで惨めなこともたくさんあったし、それは自分の内在した何かで創発されてくる惨めさではなく、多くの人が、明らかに惨めである、と判断でき、わざわざご丁寧にそれを俺に伝えてくるような惨めさである。もちろん、今でも一定数、必ず確実に俺のことを惨めだと思ってる人はおり、それによって成り立っているところもあるのだが。

 だからこそ、そのあらゆる道の途中で出会ってきた人々に対して、どうしていつまでもそのフィールドのそのレベルにい続けるの?という気分になるのだ。それは同じような研究テーマをずっと持ち続けるマンネリさ、など比較にならないほど、ずっとちっぽけなマンネリであり、呆れてしまう。

 惨めさを味わいながら、本当の意味での能力が向上すればするほど、他人に対して非常に厳しくなる自分を感じる。そして、俺の理想なんて、どうせ現実的なのだから、と選んだ茨の道は、やはり正しかったのだということを実感してしまう。かつての俺の理想を実際に体現している、今でも当然に尊敬している人が俺に対して感情的な振る舞いにでるほどに、それを感じる。

 でも、それは仕方のないことで、所詮はシャンスサンプル。俺が決めることではなく、天が決めることなのだ。
 この壮大な賭けに、俺は勝ったのだろうか?

 その答えはきっと、目の前にいるみんなのなかにある。

 俺はこのみんなが好きだし、いや、好きであることが運命づけられており、最低ライン、もっとも好きな対象は、姿を魅せてくれた。
 それでいいじゃないか、、そこから引き上げられるだけ引き上げれば、ついてきてくれる人だけ楽しませれば、いいじゃないか、、という天命を胸に、これでとりあえず余計なことは終わりにしよう、と心に決める。

 俺はこの場所で、いくらなんでも胡坐をかきすぎてしまった。周囲にいてくれるみんなへの感謝の気持ちを体現するなら、それはきちんと自己実現をしつづけることなのに。

 もっともっと外界に触れなければ、と、何年も前の自分自身達に、言われ続けている。

EXILE DIAMOND
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ルーレット

2015-01-21 02:24:00 | Weblog
 ものづくりの最終局面で、やっぱりいつもの、俺のよくないクセがでてくる。
 構築しきりたくない、終わりたくない、終わるな!、という感情がどんどん芽生えてくるが、これで、たぶん、終わり。

 どうなったとしても、変化は避けられない。
 より良くなる変化しか、今までしてこなかった。

 変化そのものを好きになりつつあるわけで、どうでもいい即物的な事柄は、これまで全部、変化を意味する事柄ばかりじゃないか。Cメロが一番好きなんだろ?ミクロとマクロを論理的に繋ぐための理屈である統計力学が好きなんだろ?室内と室外で温度変化が急な冬や夏が好きなんだろ?
 だったら…???

 いつも、こういうときに、一番良くなるイメージしか想像してこなかった。そんで、その一番良いイメージが常に叶ってきた。この先も、たぶんずっとそうなのだろう。そっちの部分に何も心配はしていない。
 でも、本質的な答えを観るのがとても怖い。自分の論理性と思考力に自信がある分、それとはいっさい介在しない「心」というヤツで生じる不利益が、俺はもっとも怖い。

 だから「心」で問題が生じる場合、あからさまに「心」に依存する場合、俺は相手の心そのものには干渉しない。すべては確率、ギャンブルに落とし込んでいく。
 自分の心は最大限そのままを露出して、それで、相手がどうするかは、相手の自由だし、相手の問題。コントロールしよう、自分のものにしよう、とは一切思わないのが、俺のやり方なのだ。

 論理的な勝負で、俺は絶対に負けない。たとえ一時、表面的に負けたとしても、最終的には必ず勝つことが自明だから、そんなくだらないことは考えなくて良い。 
 問題は、相手の心に依存すること。それを観測者問題なしで抽出すること。

 赤か黒か。

 まぁ、この一瞬が人生で最も楽しいのだけどね。
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新課程初のセンター試験2015 -理系科目をだらだら講評-

2015-01-19 02:47:49 | Weblog
 というわけで、脱ゆとり初のセンター試験が終わりました。受験生の皆さん、おつかれー。学生最高学年である俺が、超上から目線で、理系科目だけ、てきとーに書きたいことをだらだら講評します。
 理系科目を理系が見ると、そこまで脱ゆとりか?って感じがしますが、まぁ、そう呼びたいんでしょ、みんな。

 まず大学生以上のすべての理系に声を大にして言っておきますが、全員、数学ⅠAの第3問を、必ず、見て下さい!!最悪、(1)だけでいいから!!!

 「第3四分位数、、ってなに?」

 第3問は選択問題じゃありません。もう一度言います、この第3問は選択問題じゃないんです!
 今の18歳以下の子たちは、あなたと違って、ここまで数理統計学ができます。この(1)ができない、統計学の知識が希薄な、理系のあなた、、ぜひ危機感を持って下さい!俺はめちゃくちゃ危機感を持ちました(笑)。青チャート買ってこようかな。。まぁ、解けなくはないけど、センターの時間感覚では、解けない。。

 でも、それ以外は、そこまで難しくはないんじゃないかなぁ、数学。っと思いました。たぶん、データ分析の範囲も、受験生がやれば簡単だと思うし。まぁ、ちゃんと解いてないからなんとも言えんけど(審査会終わったら数学だけでも全部解いてみようかな)。
 ⅡBがムズイ、ってヤフーでも2chでも言ってるけど、そうかなぁ?時間が足りないのかなぁ。微分の定義知らない、って、おまえら、微積の何、勉強したんだよ?数列もほぼ誘導通りじゃないの?
 まぁ、実際やると何か違うのでしょう、きっと。まぁ、昔っから、時間足りないし、ⅡBは。

 っで、おい!理科の問題作った、おっさん、出てこい、マジで。俺が3時間くらい説教してやる、マジで。

 俺の大好きな物理を、こんな風にしやがって。問題数少なすぎるだろ。特に、「物理基礎」にいたっては、14分割に実力わけてるだけじゃねーか、ゴラ。俺らんときは、まだ、25問、1問4点だったから、それでもクソだと思ってたけど、目をつむってきたが、13問しか問題ないって、どういう神経してんだ。文系用だからって、良いと思ってんのか。絶対、物理知らないヤツがつくってるだろ、これ。理系用の「物理」だって別に問題数少ないし、受験生の物理の何を測ってるんじゃ、オイ。
 まぁ、物理なんて、そもそもテストをやるのがよくない、とよく物理学科の先生が言いますが、その通りなのよね。。

 あのー、まぁ、5年前から薄々感じてましたけど、有機化学の無い化学って、どうなんでしょう。「化学基礎」ってそれで良いんでしょうか?
 理科は、文系にとって、ある種、ゆとりよりもゆとりで、ラクな試験になるように構成されている気がしてなりません。基礎科目は、もろ知識問題多いし。多くの国立大学で文系では、基礎2科目以上を課していますが、それは知識だけで解ける問題を増やして薄く広く理科を受験させているような感じになっています。
 まぁ、そのぶん、数学ⅡBが難しいから良いかもだけどね。理系の理科は発展科目が強制的に課せられていて、文系の理科は基礎科目でいいのに、理系が日本史Aとかとれないのは、どうしてなんでしょう?どこまでもこの国は、理系に厳しく、文系に甘い、多数決、民主性で成り立っている国ですよね(笑)。

 なにはともあれ、受験生の皆さん、お疲れさまでした。
 センター試験終わって、今日、学校にちゃんといつもの時間通り、遅刻しないで行こうとしている(行った)君は、きっと将来、大成するよ!笑
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抱きしめて誤魔化すな!

2015-01-18 03:46:55 | Weblog
 人が人を評価するということなど、本質的にできるのであろうか?

 大学の教員が学生に対して評価するときに、教員本人が理解できなかったがために、具体的に低評価をつけている、というシーンが偶然見えてしまったことが数回ある。そうなんじゃないか?という疑いがあることは何度もあるので、こういうことは意外と横行していることだと思う。
 内容を理解した上で意味が無いと思ったのではなく、ただ自分が内容を理解できなかったのだとしたら、その人を評価する資格はゼロなのだから、恥ずかしながら私は理解できていないから評価することから降ります、ときちんと宣言するだけの当たり前の謙虚さを、「先生、先生!」といつも崇められている虚構に甘んじて、自分が一番(少なくとも表面的には)偉いと考えても問題ないことが慣れてしまっている愚か者に期待するのは、非常に酷だ。

 理論研の慣習である、先生のことを○○さんと呼ぶ文化は、誰が提唱したのか知らないが、非常に正しい。まぁ、そんなことでしか権威に対抗できないのもどうかと思うが、たいていの研究室にすでに存在してしまっている決まりきったヒエラルキーよりは遥かに本質的なんじゃないかと思うのだ。

 そもそも、理解しているか?、というのを判断するのは、自他に関わらず、とても難しい。

 例えば俺は量子力学を理解しているだろうか?
 そりゃ、たいていの文系よりも、たいていの高校生よりも、たいていの物理学科の2年生や3年生よりは、おそらく理解しているはずだ(と信じたい笑)。しかし、素粒子や原子核や物性理論を研究しているM2以上のたいていの大学院生よりは、理解していないと思う。
 おそらく、70億人いる、この世界の中で、99.9%の人と比べれば、俺は量子力学を理解しているだろう。数の問題で言えば間違いなく、俺は、量子力学を理解していると思う。だけど、そういうもんじゃないだろう、と思うわけだ。かといって、量子力学を理解している人はこの世に1人もいない、私は量子力学を計算として使えるだけだ、などという定型文を中2病のようにカッコつけて言う気もない(し、俺にはその資格もない)。

 日本社会では、こういう煩わしさを、何を知っているか?ということに落とし込んで確認するという、手っ取り早いだけがメリットの非常に愚かな方法を許すことで、解決している気になっている。
 よーするに、これこれ知ってる?とやるわけだ。量子力学なら、「ボーム解釈知ってる?」「ベリー位相って何か言える??」みたいなことで実力を測ろうとするわけだ。そんなの、当人がどれほど理解しているか?という尺度の指標にはまったくならないというのに。
 そして、そのやり方に何も疑問を感じない、これまたルールと同じくらい愚かな学生や研究者が、このやり方を推奨してしまうがゆえに、知識自慢をする。こんなん知ってるから、俺って、私って、優秀でしょー?!、ってね。研究とは、なんとも哀愁漂う場ではないか。

 俺はディフェンス(発表)すると、オフェンス(質問)で知識自慢をされることが多い。ヲイヲイ、そういうのは、友達どーしで勝手にやってろよ、俺はそんな無能な友達いらんけど。ヲイヲイ、二十七八、三十でこぼこ、にもなって、何してんだよ、まったく。
 それらを創発してしまいがちな俺のディフェンスのやり方に問題があるかもしれないが、、この場を借りて、誰であれ、そのような態度をめちゃくちゃ軽蔑しているということを述べておきたい。みんなの時間が無駄になってしまうので、自分勝手な行動は慎むように。

 というわけで、俺自身はいつも、どの分野のどのレベルであっても、理解できるだけの思考力など何もないのではないか?、というところからスタートする。
 量子力学はおろか、電磁気学も、古典力学も、もちろん有機化学も、分子生物学も、高校物理や中学の理科や数学でさえも、自分はまだ完璧には理解できてはいないんじゃないか、と無理にでも思い込むことにしている。
 そのなかで、偶然理解できたものがあれば、こんなんが理解できるなんて、やっぱ俺頭イイんじゃね?、って態度を、どのようなレベルに対しても、いちいちとる。これは中高生にとって(いや全員にとって?)非常にウザいらしく、よく「そんなん当たり前じゃないですかぁ」と言われてきたが、それが大切なのだ。そうでなければ、俺は自分の思考力に今よりももっともっと驕ってしまうだろう。

 理解できないはず、というのは、学問に限らない。誰かのことを完璧になど理解できるわけが無いと思っているし、だから当然に、助けることなんてできるはずが無いと思っている。
 かといって、誰か好きな人、もしくは嫌いな人がいるならば、理解することそのものは決して諦めない。そして、好きな人に対しては、徹底的に論理展開を考え、より良くなるような解をムリヤリ引きずりだしてこようとする。

 俺がこれまでに論理体系としてまとめただいたいのことは、この記事も例外ではなく、誰かたった一人を想定しながらのメッセージである。常に具体的な誰かに向けてしか、発信していないし、考究しない。
 それを伝えてしまえば、当人は傷つくかもしれない。切なくなりすぎて、何もできなくなってしまうかもしれない。

 なぜなら、俺の好きな人というのは、すべからく虚栄心によって成り立っている一過性の美しさを有しているからだ。
 なので少なくとも表面上は、意見が合わないとき、価値観が共鳴しないときのほうが遥かに多く、ここまでして、よく決別しないな、決別したとしても、よくここまで保ったものだ、と思うのだ。

 それは、でも、卑怯な手段を使われていることが、良く分かっている。
 次のシーンで虚栄心が溶けて、前回と今回で言ってることが明らかに変わって、心で抱きしめられてしまうことで、価値観の不一致を誤魔化されてしまうから、いつまでも決別しないのだ。いくら、人格の否定ではなく、これは意見の否定だ、って言い張っても、5回に1回くらいは必ず人格の否定へと繋がってしまう経路があるはずなのに、考えている道の途中で抱きしめられて誤魔化されてしまう。

 でも、それって、論理性を超えたところに惹かれあっていて、なんやったらこの世で一番気持ちいいんじゃないか?
 だから、俺に対して「前に…って言ってたじゃん?」と、まさドヤで自信たっぷりに言い放つ憎たらしい顔に、そっちのがもっと、言ってること変わってるじゃないっすかぁ、などと、俺の確かな記憶力が確かに保証してくれてはいるが、決して言わないようにしている。

 そういう瞬間に、俺が見えないところで、僅か2秒の間、苦しんでいる姿を、おそらく誰も知らない。
 2秒、、人が人を評価することなど、原理的にできない!と決めつけた帰結を迎えるだけの、十分な時間である。
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逃げていい

2015-01-15 00:20:01 | Weblog
 想像できる程度の理想は必ず実現することができると思う。
 だから理想を決して諦めてはいけないが、それは、逃げてはいけないという意味では決してない。

 危険であると感じたなら、むしろ、理想を諦めないために、そこから逃げなくてはいけない。それは我慢できなかったということではないし、その場所に居続けることがイコール諦めないということではないのだ。
 「逃げる」とは、「之繞(道の意味)」に「兆」しと書くことを忘れないで。「逃げる」とは、ムーブメントを起こすために必須なことなのだ。危険な場所に身を置いてしまって、別の道に兆しがあったなら、迷わずに突っ走ったら良い。そして、落ち着いたら、少しずつ、その「兆し」を「手」にすることで、「挑」戦していけば良い。

 危険で時間の無駄であるにも拘らず、「諦めない」「逃げない」の意味を勘違いして、その場所にい続けて、アカデミアの世界の悪習のように、なんでもかんでも、とにかく、「言葉」で誤魔化して、「言葉」に騙されて、「言」の葉を「帝」のように崇め奉ることこそが、「諦」めるということなのだから。

 あなたの理想は、そんなもんじゃないでしょ?野望はもっともっと大きいところにあるはずでしょ?

 危険な環境のなかで上手くいってしまうと、自分が上手くいっていることを合理的に肯定したいがために、あまり上手くいってない人の振る舞いの稚拙さを合理化してしまいがちだ。こういうことをやってるうちは、能力がつかない。
 この世のヒエラルキーに関するすべてのことは偶然であり、俺は、そのことをきちんと受け入れてから、はじめて、本当の能力をつけることができるようになった気がしている。

 だから、道をとりあえず離れてみることをあまりに否定し過ぎないで。無難じゃなくても、他人よりも時間がかかっても、別にいいじゃん。無難さなんて相対的な値でしかないのだし、本当の意味で無難な人なんて、少なくとも理系では1人も観たことがないし、とても少ないと思う。
 それに、無難なことが有難くなることは、論理的に矛盾してしまうのだから。

 本当の意味で諦めないで、本当の意味で理想を手放さないで欲しい、、と願っている。

ゴルゴ松本「少年院で漢字を使った魂の授業」
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スポーツについて思うこと

2015-01-14 01:19:10 | Weblog
 俺は昔からスポーツがまったくできない。スポーツではこの世の誰にも敵わないんじゃないかという気持ちを持っている。
 だから、小さい頃の体育の授業は、俺にとって地獄であった。今なにが一番ラクかって体育が無いことだ。勉強ができないのと違って、体育は自分の出来無さが皆の前で露呈してしまう。なんて不公平なんだ、とよく思ったものだ。

 まず、俺は、大きいボールをまともに投げることができない。
 野球ボールなどの小さいボールは小さい頃お父さんに教えてもらってそれなりに投げられるのだが、ドッチボールとかバスケットボールなど、あんな大きな球形の物体を皆いったいどうやって投げているのか、俺はいまだによくわからない。
 バスケにいたっては、中学ボールじゃないと片手で持てないし、左手は添えるだけの意味が分からないし、でも、リズム感はあるので、なんとなくレイアップはできるのだが、、なにせ背が低いので、かなり限定的なことしかできない。おそらく、出来る人からすると、俺なんて、いるだけ邪魔であると思う。

 徒競走ではいつもビリ。学年で一番遅い組みでビリ。どんだけ走り方をなおしても早く走れない。
 でも、一応泳げるし、スケートとかも滑るだけなら滑れるし、そういうのはなんとなくできるのだが、なにせスポーツ経験が無い。
 人並み以上にまともにできるのは卓球くらい。あと、合気道を習っていたので、いまだに、いくつか返し技をかけられます。この(俺にとって酷く辛かった)訓練により、マジで攻撃を避けるのは得意です。俺くらい意見を言うヤツは、いつ襲われても、いつ殺されそうになっても大丈夫なように、一応、対応できるようになってるわけです(基本的に暴力には屈しますけど笑)。

 そんな俺なので、球技大会なんかは、クラスの人達から離れて、図書室にこもっていたこともあります。皆さんが思っているよりも、俺は、遥かに遥かにCグループなのです。
 それでも学校の行事ですから、一人一種目は出なければならず、しかたなくバレーボールに行くと、もう、何もできないし、バレーだから狙われる狙われる。みんなに迷惑はかけるし、文句は言われるしで、いやになって、1人で図書室にいると、Aグループのなかでも特に目立っている女の子が「次、男子サッカー、うちのクラス、決勝だよ?応援しないの?!」みたいなこと言われるし(これを言ってくれるのは優しいと今では思うが)、余計に厭になって、図書室や教室にこもっていたことがあります。
 当時、スポーツに対して、大きな劣等感を抱いていたので、今となっては俺ってバカだなーと思いますが、当時は自分の存在意義を守るために必死です。俺は、学校の外にはAグループの友達がいたし、この賢い学校に行ってても、ノリが良い部分も知ってるぜ、みたいなところでレゾンデートルを保っていたんだと思います。非常にくだらないですが。

 でも俺はスポーツに対して、劣等感を今は一切持っていません。それはこの一年後の球技大会で、こんな俺なんかに、スポーツの楽しさを教えてくれた友達がいたからです。
 Aグループなのに真面目な人(クズ系真面目)、という矛盾した友達の理想像を(一般企業や若いうちに恋愛を一通り経験した女の子と同じように当時の俺も)望んでいましたが、まさにこういう友達が、10代後半や20代前半の頃、たくさんできたことが、俺の一番の財産です。
 俺もうまい具合に混ぜてくれて、球技大会に向けてサッカーの練習したりして、なんとなく、クラスの親睦をみんなで深めようとしてる心持が俺にとって新鮮で本当に心地良かった。それでもやはりスポーツに劣等感を感じてる俺は、みんなの練習の途中で帰っちゃったりしたこともあって、そういう時もメールくれて「なんで、いつ帰っちゃったの?なんか用事?」ってきた時は、本当に申し訳ないことをしたと心から思えるようになった。
 そして、気が付いたら、あらゆる競技で前線で応援していて、サッカーも、心からその試合の成り行きを楽しめている自分がいた。3-0から、逆転して勝ったときは、泣きそうにまでなった。その前の年は図書室にいたくせに。

 俺はボールが投げられない。足だけを使って大きなボールを転がすサッカーなんて、もってのほかだ。
 だけど、俺に「ポジショニングが上手い」と言ってくれた人がいて、自分のポジショニングの仕方でできることがある、とほんのちょー少しだけ貢献することができたことがあった。これに気がつけば、サッカーのフィールドなど、力学系だ。俺なんてボール運びできないのだからって味方との信頼関係が有れば、おとりになるし、ボールを持っとくことくらいならできるし、他人に指示も出せる。

 何もできなくても、自分が少しでもできることを探して、それをする。という訓練が、俺はスポーツによってなされた。
 俺はスポーツに誘われるし、運動神経のない俺なんかがスポーツイベントを企画していたこともあるし、それらすべての経験が、俺の劣等感を払拭してくれた。

…・…・…・…・…・…・…・…・…

 「お前、俺のこと、そうやって、フィールドワーカーやってバカにして、勘違いしてるけど、今日は、俺も理論研ですから」
 『だって、積分ついてたら式理解しようとしないじゃないですか?それじゃぁ、理論研じゃありません』
 と生意気に言うと、待ってましたと言わんばかりに、 
 「アホか。ややっこしい式に興味はないんじゃ。それにそれが本当に必要になったら、俺の周りにいる賢い奴らが勝手にやってくれるから、ええんや」
 『自分の周りの友達がそれをやってくれるから、自分にはその能力がある、とまで言ってしまうその姿勢が、今の多くの研究者に足りないと僕は感じていますが、、その精神、素晴らしいですね』
 「おまえ、何様やねん?なんで上からやねん?」

 あなたのクソ高い研究費を支えてる納税者様の1人です、っと喉まで出たが、ギリギリのところで抑えた。

…・…・…・…・…・…・…・…・…

 昨年の年末、昔から知ってる悪友2人と、昔の遊び方と同じようにゲーセンで、最新の3Dシューティングゲームを、大人の(カネの)力を使って全クリしたあと、バスケのシュート数を競うゲームをした。彼ら2人は、俺と違って、普通よりもスポーツがかなりできるほうだ。
 昔と同じようにスコアをバカにされながら、俺はこう思った。彼らが俺なんかと一緒にいてくれることが、俺がスポーツやノリの良さに対して、劣等感が一切無いことを、間違いなく、支えてくれている。

 ありがとう、なんて、彼らには絶対に言いたくないし、一切思ってもいないが、俺は幸運だなぁとは思う。
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限界はもうちょっと先にあるかもしれない

2015-01-12 05:20:51 | Weblog
 俺にとってステージに立つことはいつも寂しい。自分の演技力を使って必死に笑ってみるけど、たぶんどのステージでも寂しさが滲み出てしまう。
 その寂しさとは、このステージに立つまでに頑張ってきたみんなとのモノづくりがもうすぐ終わってしまう、という一点だ。だから、寂しさをただ飲んで誤魔化すための打ち上げなんて行きたくないし、ただがむしゃらに一緒に走ってきたその過程が一番楽しいことであってほしい。

 前に立つとオーディエンスから歓声があがり、"最後のとき"に寂しがっている自分が叩き起こされる。そして、色んな人から仲間たちの名前が聴こえてくる。
 そのなかに自分の名前が聴こえてくることはなく、一番大好きだった、俺に対して優しく差し伸べられた右手の持ち主に対して、一番多くの声が聴こえてくる。これほどの人をリードしなくちゃいけない、だからこそ俺は絶対にひとつも間違えてはいけない、と力をこめて左手で応じてみると、最後だからとにかく楽しくやろうよ?、という声が隣から聴こえてきそうで。ステージに立っている時の、声を出さないでメンバー同士で伝え合うこの瞬間こそが、ものづくりの至上のときなのだ。

 今度は俺が優しく手を差し伸べなくてはならない。俺が主導して、がむしゃらに光を探していかなくちゃいけない。

 どれだけ従順さがあるか?ということしか評価しない虚しい日本社会の中で、ほんのわずかな奇跡を信じている。少しだけ自信を無くして、弱気になって、誰かを過剰に傷つけてきた。
 ひとりですべてやってしまうと、本当にラクだ。自分の能力だけをめいいっぱい使って、わざわざ何かができないフリをしたりして他人の価値観を入れ込んだりしなくていいのだから。なのに、なぜか心がすごく痛くなる。目を閉じてこの痛みを感じながら、また一歩歩き出す。希望を握りしめてみる。

 もしかしたら、従順さしか評価しない虚しさを認知できるだけ、俺は幸運なのかもしれない。

 かけがえのない想い出を胸に、、"限界はもうちょっと先にあるかもしれない"って心に刻みながら、本質的な価値観を大切にしながら、もう一つだけ条件をふって、ピペットマンを握ってみよう。

 どんな答えになっても、後悔をしない準備を。

EXILE ATSHSHI 希望の光
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頭イイ奴ってバカだな。

2015-01-10 01:50:18 | Weblog
 僕にとって理解しにくい事柄は、単純さを隠すためにあえて複雑にしている類いのことだ。
 物事を正確に言おうとして難しくなってしまう論理構成は、僕には理解できる。たとえいますぐには理解できないようなことでも、自らを律し思考力を向上させていくことで、いずれは理解できる。
 
 でも、それら精緻な論理構成に安直に憧れてしまった、もしくはそれらと対等でなければならないと決めつけているがゆえに、本当は単純なのだが、あえて複雑に魅せているような事柄は、僕には理解しにくく感じる。

 たとえば、こんな男女がいたとする。

 ○○ちゃんと◎◎さん、毎年GWは海外旅行に行ってるんだってー、いいよねー。
 まぁ、まだお子さんもいないし、○○ちゃん、一回り年が離れた◎◎さんとくっついたから、余裕があるんじゃない?
 確かにそうかもしれないけど。。私たちって付き合ってから、まだ、どこにも一緒に行けてないよね?
 ふうん?まぁ、確かに、そうだね。じゃぁ、今年は僕らもどこか行こうか。有給取れそうだし。
 そんな余裕、本当にあるの?そんなに時間があるなら、少しは本を読んだり、資格とったりしてみたら?っていうか、□□君ってさ、上司から誘われても、飲み会とかの付き合い全然行かないみたいだし、そんな意識で、本当に大丈夫なの?
 え?いや、△△が、○○ちゃんが海外旅行してるって話をするから、どこか行きたいのかと思って。
 そんな風に聴こえたの?まったく、私のこと、全然わかってないんだから。

 まぁ、こんな会話が本当にあるかどうか僕にはわからないけど、、とにかく、こういったシチュエーションで、恋愛は複雑だとか、女心と秋の空だとか、男は振り回されているだとか、そんな帰結をするのはナンセンスだ。
 女は「自分の生活レベルを決して下げたくない」という単純な価値観に基づいて話し、男は「自分なんかと恋愛してくれるのはおそらく目の前の女性だけ」という単純な価値観に基づいて話しているのが本質だと僕は思う。その単純さをお互いにバレたくないから、わざと色々な事象を付加しているに違いない。

 そう、こういう会話が成り立ってしまえば、崩壊することは必然である。だって、価値観が違うのだから。
 まず、人と人とがコミュニケーションするためには、根源的なところでの価値観が共通でなくてはならない。その価値観が異なっていては、いずれは別れてしまうだろう。

 価値観が合う、って本当に大事。っと、帰結しようとすると、もっとも意地悪で上から目線でめちゃくちゃ自信たっぷりなあの人の言葉がふいに蘇ってきた。
 『頭イイ奴ってバカだな。そんな考え方しかできねーから、お前はいつまで経っても、根っからのCグループなんだよ。価値観が合うからその人と付き合ったり、逆に、価値観が合わないからっつって、その人と距離を置く、なんて短絡的な考え方してちゃ、なんも意味がねーだろ』

 意味、意味、意味、って、、意味なんてなー、生きていくうえで、関係ねーんだよ!
 …っと思うけれど、一つだけ疑問が残る。

 上の例に挙げたような会話をしている男女は、いったい最初どうやって付き合ったのか、ということだ。
 Cグループの僕には、よくわからない。そして、よくわからないままにして、何かの希望を見出しておくことにしよう。
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貧困の意味

2015-01-08 01:35:03 | Weblog
 貧困の意味を本当に知っている者は、その辛さを決して口にしない。
 私はそう思っているから、私に対して今の豊かさを維持するための論理の大切さを述べてくる人は、本当の貧困さというものを何も知らない幸せな人達なんだなぁという気分になってきてしまう。

 貧困の辛さを乗り越えた人だけが、貧困さを笑い飛ばせる。この辛い現状をなんとか脱せた人だけが、やっと貧乏自慢できるのだ。
 本当に辛いとき、悲しいとき、寂しいときは、涙すら出ないというけど、それは本当みたい。確かに今、私には泣いている余裕も無いし、涙を流したところで、その涙を拭ってくれる人はおろか、観測してくれる人すらいないのだ。

 世界中を見渡せば、私よりも惨めな人はたくさんいるだろう。でも問題はそうじゃない。そこまで大きな集団を加味してではなく、この辺りの集団のなかで貧困であるからこそ、気落ちするのだ。

 そして、私の周囲にいる、私と同じように貧困な人達が、くだらないことで争いを始める。他人の足を引っ張り合う。愛があればなんでも乗り越えられるのではないの?いいえ、最低限の豊かさがなければ、愛は生まれてもこないのよ。

 あの時、貧困さに対して声を荒げた彼に対して、とてもビックリした。
 それは、乱暴な言い回しをする彼にビックリしたのではなくて、乱暴な言い回しをすることで彼自身が傷ついている、彼の履歴を感じたから、ビックリしたのだ。私に対してまで『ごめんなさい』と言って、誤魔化していたけれど、その一瞬はきっと、何がなんだかわからないほどに、切なくなっていたのだと思う。
 でも、今はもう、それほどの慧眼さを発揮するだけの余裕も無い。あの時のように、たった3文字で、あなたの心を守ることもできないの。

 だって、あなたはもう貧困を乗り越えたかもしれないけれど、私はまだ渦中の中。
 その狡さを考慮して、これまでの不条理は正当化されるでしょ?
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しょせん物理屋は二次方程式しか解けない

2015-01-06 01:54:49 | Weblog
 数式は自然現象を正しく書くための言語である。正しいというのは、それはもう完璧に正しいわけで、めちゃくちゃ厳密でなくてはならず、いっさいの間違いがあってはいけない。
 であるからして、めちゃくちゃ分かりにくくなる。厳密過ぎて、とっつきにくくなるわけだ。

 そこで今夜は、「これが出てきたら、その本やその論文を読むのをやめよう!」と思ってしまうレベルを物理学科の視点で示してみようと思う。これは、完全に俺の偏見であるのであまり参考にしないで欲しいが、俺はこう思っているというのを書いてみようと思う。


 高校生レベル
 「Σ(シグマ)がある」
 「∫(インテグラル)がある」
 「文字に添え字がついてる」
 「lim(極限)の記号がある」
 「矢印や太文字、つまりベクトルがある」

 これらの理由で数式が書いてある文章を読まないことを決めるなら、それは高校生レベル。シグマもインテグラルも、足し算がたくさんあると思えば良いだけだし、添え字がついてる文字は同じだけどわけときたいってだけだし、limはその値に近づけるだけだし、ベクトルは大きさと向きを含む量なだけ。
 理系がこういう理由だけで数式つきの文章を読むのを諦めるなら(そいつは理系ではないのだが)、それ以上のレベルの教科書をすべて捨てて(捨てたことにして)、あらゆる勉強や仕事や業務を中断してでも、高校数学と高校物理をイチからきちんとやるべき。…なのだが、現実に多くの理系(学生、研究員、大学教員)が、これらがあるだけで読むのをやめている、理解しようと努力することをやめていると、俺はよく知っている。

 大学教養課程レベル
 「一つの式にベクトルとインテグラルが一緒についてる」
 「∇(ナブラ)がでてくる」
 「極座標、円筒座標を使ってる」
 「∂(ラウンド)の記号がある」
 「インテグラルの上に∞(無限大)がついてる」

 これらの理由で数式が書いてある文章を読まないと決める人は、高校レベルはしっかり理解しているけど、大学に入ってから一度も計算をちゃんとやらなかったのかなぁ、って感じ。最初の2つはベクトル解析を知ってるか?ってだけだし、xyz以外の座標系を使うことに慣れてないと大学教養課程の種々の物理の問題は解けないし、ラウンドは偏微分したことがありますか?って話で、これ知らないってことは最小二乗法を(エクセルで計算はできるけどちゃんとは)知らないわけで理系としてはかなりマズいし、最後のは別になんてことはないんだけど(大学受験では出るし)無限大から積分してくるって手法を知らないだけ。
 というわけで、これくらいは高校レベルに比べたら簡単にマスターできるから心配ないけど、これくらいで読むのを諦めるのはもったいない。高校レベルをクリアしているなら大したことはないのだから、好き嫌いせずにちゃんと読んでみましょう。

 大学専門課程レベル
 「ブラ-ケットがでてくる」
 「インテグラルやexpのなかにi(虚数単位)が出てくる」
 「フーリエ変換、ラプラス変換、ルジャンドル変換などがでてくる」
 「デルタ関数δ(x)、エルミート多項式、ベッセル関数などがある」
 「シグマやインテグラルの下についてる文字が、ijなどを2文字以上使っていたり、なんか複雑」
 「累乗以外の意味っぽく、文字の右上に添え字がある」

 ブラケットは、ちゃんとヒルベルト空間を理解していて、波動関数を規格完全直交系で書きなおした時に複素数のベクトルでも書けるってことを知ってればいいだけだし、まぁ最初の2つは量子力学の表記に慣れているか、次は○○変換して計算をラクにする方法を知っているか?、その次は物理でよく使う特殊関数を知っているか?、最後の2つは完全に慣れの問題である。
 教養課程よりも、あともう少しだけ背伸びをしたらこれらの記号が言語に見えてくるはずだ。なんとなく、どんな物理学科を卒業したとしても、ここまでは物理学科卒なら誰でも読める気がする。

 俺と同じレベル
 「虚時間がある」
 「空間群の表記がある」
 「テンソルがある」
 「limsup, liminfとか書いてある」

 すいません。勉強不足ですいません。俺、物理学科として最低ラインなので(卒業しているのでせめて最低ラインでありたい)、これらがあると、俺はその文章読まないことが多いです。まぁ、理解してるってのと、めんどくさいから読まないってのは、別なのよねん(それは上に挙げたレベルも同じだと思うけど)。
 え?たかはしけいって虚時間知らないの?相対論苦手なの?ローレンツ変換知らないの?物理学科出身のくせに?はい。すいません。
 空間群で諦めるってまずくない?いま、化学の研究室にいるくせに結晶構造について数的処理ができないの?すいません。
 テンソル諦めるってダメだろ。やっぱり相対論できなさすぎだろ。PIVとかでも使うだろ、テンソル。すいませんです、はい。
 上極限と下極限知らないの?いや、それは知ってるんですけど、こういう書き方してる文章はマジ数学チックなので、、イイワケしない!知らないんでしょ?すいません。
 うるせーーー、いいんだよ、俺はいま、物理系じゃないから!お前と違って有機化学も知ってるし、分子生物の実験も一通りできるし、と物理系の人には物理じゃない側面をみせることで(同じように、化学の人には化学以外、生物の人には生物以外をアピールする、という中途半端感)、俺のレゾンデートルを示す、といういつもの手段(笑)。


 えーっと、俺と同じくらいか、俺よりもほんの少しだけ数式アレルギーな方へ、朗報です。
 これらを凌駕してさえしまえば、物理屋が数的処理でやってることなんて、二次関数の頂点求めるか、二次方程式の解を求めてる、くらいのことしかしてません。微分方程式解いてる?どーせexpかけてるか、二階で特性方程式立ててるだけだろ、二次方程式解いてるのと変わらん!対角化してる?そりゃ、お前じゃなくてコンピュータがしてるんだろ?
 物理プロパーな人は調和振動子が大好きですし、二次式も大好きです。それ以外の現象を見向きもしない、ってのが意外な事実だったりします。

 なので、たいてーの物理屋さんは、"しょせん二次方程式しか解けません"。
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チームワークは実在するか?

2015-01-04 04:45:44 | Weblog
 チームワークで成功したり、連携したコラボレーションで他との差を埋めていきたいのならば、コミュニケーションそのものが得するようなシステム作りをしなくては本当に成功することはできない。

 「俺らはチームだから強い」と心から言えるようなチームを作成するのは本当に難しいことだと思う。ましてや、それらをすべて統括しようとするならば、至難の業という言葉を遥かに凌駕するだろう。
 とかく日本人はチームワークを大義名分にするところがあり、本当はチームでいっさい何もできもしないのに、それを謳っていることが多い。本当は個人の成果でしか個人を評価できないのに、チームワークがありまぁす、などと主義主張を繰り返しても、薄っぺらいだけである。どんな事柄でも一人ひとりをきちんと評価できるだけの能力が備わっているところから、協調性やチームワークは生まれるのである。

 そもそも、人は、自分に対する過去の礎であるプライドと、自分に対する未来への期待である自信、の2つがなければ生きていけない。この2つを唯一裏付けているのは、自分があらゆる状況と環境と言葉を飲み込んで自分で得た(と思っている)成果や結果である。だから、自分のプライドや自信を重視しているのだ、というワンステップ程度の短絡的な思考では、チームワークという選択肢を取るはずがなく、スタンドプレーをしていたほうがラクなのである。
 2人いればチームワークだと思っているならば、それは大きな勘違いだ。二体問題は一体問題に帰着される、というように、理屈の結果ばかりを覚えて実際にきちんと自分で計算しないクセがついてると理解できないかもしれないが、古典力学や量子力学における二体問題は両者の主従関係によって一体問題として帰着されるのだ。これはチームワークではない。監督と選手、先生と生徒、親子、Aグループ(ノリの良い人間の集団)の人間とBグループ(ノリが中くらいの人間の集団)の人間、などの関係性で織り成す典型的な人間関係は、チームワークではなく主従関係である。

 チームワークは対等であれ。というのはコラボレーションの超基本事項である。

 本来は明確な絶対量としての差がある価値観をまとめて一つにしようとして、プライドと自信をお互いに傷つけあうような状況にわざわざ身を置き、さらに成果も結果も完全な自分のものにはならないような、チームワークというクソみたいな手法を、いったい誰がしようというのだろうか?
 賢ければ、誰も、わざわざコラボレーションなどしない。だからこそ、リーダーは、チームワークをしたときに、お得になるようなシステム作りを考えなくちゃいけないのだ。なんとも、無謀で無理な話だが。

 こういうときは、それらが何故かできている集団から学ぶのが手っ取り早い。それは、小中高の頃のAグループの人達だ。
 大学以降になってしまうと、俺が提唱しているグループ性は、表層的には希薄なものとなりがちである。受験勉強を1人で黙々としてやっていた全員Cグループしかいないような大学でも、もはやこの集団では俺がAグループ?、などとAグループを履き違えたCグループが調子に乗って、ハメの外し方も知らないヤツが場を牛耳るからだ。
 だから、小中高のAグループを参考にしなければならない。彼らは、いまだに(本当にいまだに)、仲がよく、まだあの頃と同じメンバーで飲んでいる。はっきり言って、異常だと思う。

 彼らは受験の時、自分が損をしても、このままじゃ落ちるとわかっていても、ファミレスでみんなで勉強していたり、体育祭に燃えたりしているような連中だ。彼らは、実は、コミュニケーション、コラボレーション、という意味では、めちゃくちゃ優秀なのかもしれない。
 いやいや、怠惰なだけだろう、という、Aグループをすぐに否定的に捉えてしまう、そういう考え方そのものが、もうすでに、コミュニケーションに向かない。
 だって、彼らは、今これを読んでいるあなたと違って、自分の利益に走らず、あなたが1人で塾や家で勉強しているときに学校の行事にきちんと参加し、他人を絶対に切り捨てないだけの強さを持っているじゃないか。あれはあれで、(俺もムカつくところはあるけれど)勉強しなくちゃいけないところじゃないのか?

 そう、コミュニケーションの本質は、損をすること。これに尽きる。
 コミュニケーションとは、他人や集団をより良くしようとする活動のことだ。より良くする、というのは、簡単に言えば、優しさである。そして、優しい、というのは、人を憂うと書くわけで、成果主義に立ち帰ると、時間の無駄以外の何ものでもない。
 というわけで、損をしていること、即ちそれが、コラボレーションなのである。

 だから、チームワークを謳っているリーダーが、唯一それらが成り立つ本質的な行為は、主観的にも客観的にも、自分が一番頑張って、自分自身が損をするように努めること。
 それが嫌なら、チームワークを謳うな。

 これでは誰もチームワークを重視しなくなってしまう。まぁ、すべての社会は、その方向だから、俺がコミュニケーションのデメリットを論じても何も問題ないかもしれないけれどね。

 でもね、、生きているという実感が欲しいなら、コミュニケーションやコラボレーションを通じてものづくりをして、チームワークを重視したほうが絶対に良い。その時に見える景色は、損をした分だけ、絶景になる。
 その味をしめちゃったから、チームワークはやめられない。

 損は、長い目で見れば、決して損ではないことを知っているだけの論理性があれば、本質的なチームワークは実在する。
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