たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

変わらないよ、変われないよ

2011-10-31 01:33:01 | Weblog
 最近、本当に、ちょっと色んなことに手を出し過ぎたかな、って思ってきた。笑
 まだ、なんとかまわってるけど、もしも精神状態が完全にダウンしちゃったら、危ない、っていうか、怖いな、マジで。ってのは、ちょっと、なりかけたからだけど(笑)。

 反省する時間を作らないから、本能で動くか機械的に動くか、どっちかだけの時間帯が増えてるんだけど、そういうのって、ホント疲れる。いや、充実はしてるんだけど、マジで疲れる。
 適度に色々と考えないといけない時期だし、忙しすぎるくらいの環境のが、無駄な事考えなくてイイから良いんだけどさ。

 もうあんまり本質的な賢さの能力アップは要らないと思ってるし(そりゃ即物的なのはいくらでも要るんだけど)、向上させる気もないんだけど、他の部分のステータスアップが必要かなって思う。まぁ、別に、このままの世界で上に上がっていく時にそれが必要かって言ったら、俺には他の部分すらも不要だって思うんだけど(わりーけど)、そうじゃない系で必要かなって。

 そんな類いのステータスアップに必要なタネを貰ったりあげたり。
 貰ったら自分のモノだから勝手にしてイイでしょ?とか、あげたら、もうすでにこんだけ与えてやったんだから十分でしょ?、とか、そういう風に思えなくって、割り切れなくて。。
 もし、そこで割り切れれば、もっと上手く、もっと卒なくこなせるのに。

 ただ、戻れる場所なんて、本当に無い、って、よくわかった。もう、そういう風には戻れないのだ。

 こうやって不確実な努力をするようになって、もうけっこうな時間が経ってるけど、よく『どーせダメでも、いつでも、表面的にだけ頑張る、って感じの、前の自分に戻ればイイだけ。』って思ってきた。すごく暗くなって、必要な事しかやらないで、無難にこなしまくる、なんて風なスタイルになることはいつだって出来るし、もともとそっち側なわけだから、そちら側に戻るのは簡単だって。
 だけど、戻りかけて、そっち側になりきれない自分がいることに気がついた。もう、こっちの自分の方が、安定しちゃってるんだ。

 そもそも、無理矢理そっちにいこうとすること自体が、主体的だってことだし。

 自分自身の信念や感覚を一番大切にして、もう一度、頑張ってみようと思う。ゼロスタート気分だけど、全然ゼロスタートじゃないわけだし。

 「高橋君ってさー、そういうの頭でわかってるところがズルイんだよ。」
 『えー、そうかなぁ。だって、そうじゃなきゃ、、(思いっきり)頑張れないんだもん。』
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変わるのが怖い

2011-10-30 02:20:43 | Weblog
 物理現象と生物現象の境界は、平衡状態に、最適化されるか、それだけではないか、な気がしてならない。

 だから、わざわざ、平衡状態を破ってまで、何かをしようとすることは、気持ちがあるってこと。情熱があるってこと。そのために出来ることを行動をし続けたとしても、最適化に敵わない時もあるし、下手をすれば、その最適化から永久に離れて、非平衡状態になって、どこに行くかわからない状態になってしまう可能性もあるから、変わることが怖いんだと思う。

 変わること、って、本当に怖い。変化なんて、なるべくしたくない。

 だけど、最適化から外れないと、気持ちが満足しないから、変わっていかなきゃいけないんだと思うことが多い。
 でも、慣れているはずの俺でも、本当に怖いし、本当に変わりたくない。カワラナイデ。

 なかでも一番怖いのは、拠り所にしていた気持ちを変えることだと思う。

 つねに、自分の気持ちの変化を恐れているだけか?、それともその残酷な物理現象を超えてもガチなのか?、考えていかないといけないと思う。
 それが、情熱を貫くということだと思うから。正解は、いつだって、わからない。でも、わからないから、考えなくてイイというわけじゃない。

 どっちにしても、気持ちが変化するか、状況が変化するか、の違いなんだけどね。
 あらためて、本当に、怖いわ、変わることって。

 だから、いつも、現状維持になって、イライラさせる。
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7割の「頑張ってね」

2011-10-29 01:26:10 | Weblog
 『…ってのが、本音1歩手前くらいかな。言っちゃいたいけど。』
 〈うん。。そっか。でも、そういうことって、絶対に言っちゃいけないんじゃないかな?〉
 『違うよ。そこまで言えてしまうくらい信頼してるってことだってば。』
 〈そうだけど、、もぅ、そんなのわかってるってば。でもね、例えば、…、てこともあるじゃない?どんなに仲良くなっても、言っちゃいけないことって、あると思うし…。〉

 確かにそうなんだけど、そういうレベルじゃねーんだよ。
 もちろん、言っちゃいけないことはある。その発言によって、何が崩壊するかと査定した時に、言っちゃいけないことは沢山あるのだ。だから、逆に言えば、その程度で、崩れてしまうモノだったら良い、っという指標になったりもしてしまう。

 〈だから、このあたりかな、って思うだよね。〉
 『一番したいわけじゃないんだよね?』
 〈そりゃそうでしょ。〉
 『大丈夫なの?そういう環境で、本当に大丈夫?』
 〈大丈夫。どーせ、染まりやすいですし。〉
 『…じゃぁ、頑張ってね。』

 割り切ったはずなのに、7割の「頑張ってね」、心の底で3割の羨ましさが邪魔をする。理想と現実をカケヒキ計算、なんて、まだマシで、理想がまったくの皆無で、物理的に選択していけることが羨ましかった。

 逆に、想いがあると、冷酷になりきれないから、厄介だ。どんなに信頼関係があって(あるように思えて)、だから、本当のことを言ってったとしても、出来ることをしていたとしても、その物理的な寄与に依って、いくらでも変わってしまう。頑張っていれば頑張っているほど、(少なくとも)広義のホンモノであればあるほど、物理的な阻害によって、妙に納得できてしまうからだ。縁が無いんだって。
 それが、一番の敵。だから言ってんだろ?、残酷な物理現象が一番の敵だって。

 ただし、それはいつも一過性のもの。すべてを諦めてはいけない。
 残酷に観えても、後から思ってみれば、必ず良い方向にむかっていて、示唆的だったりする。

 その「後」になったときに、今、周りにいる信頼している人が、変わらず周りにいてくれることを願う。
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気持ちを気持ちで...

2011-10-27 02:45:51 | Weblog
 自分の思考力に絶対の自信を持ってはいけないと思う。それが、どんなに洗練された考え方や理論構築であったとしても、人間の思考力なんて所詮脆くて儚くて、それだけで突破しようとすると失敗する率が高い。

 思考力が数ある選択肢の中のただのひとつの道具に過ぎないことに気がついていない人もいれば、この便利な道具さえ使えばかなり多くのことを解決できるのにそれに気がついてない人もいる。もう少し、思考、ということを、丁寧に扱えば、もっとみんな満足感が得られると思うんだよね。
 たとえば、思考力で救えること、と、思考力だけでは救えないこと、ってのは、ちゃんと分けて考えるべきであって、思考力ですべて救えると思ったり、実際そうなんだけど、それにしても思考力を使いすぎたりしてしまうと、逆効果なんだよね。

 自分が今できることは何か?、って探ることを完璧に近づけるためには、並大抵の試行錯誤では無いし、もっともっと本気になっていかないといけない。

 能力が無い人にほど、即物的なことは効かないし、机上の空論みたいな、ただみんなが言ってるだけの、思考力が非常に低い、馬鹿げた論理展開は通用しない。Self-Consistenceにストーリーが展開していればそれでイイというわけではなく、自分自身がきちんと納得していることを言及しながらも、本当に内在する自信を持っていないと、無知な人にほど薄っぺらさは見抜かれてしまう。
 それくらいの思考力や表現力をもってしても、自分がどこかで間違っているかもしれない、という感情がないなら、そこで終了。いくら、ディフェンスしても、意味がねーんだよ。守っていることそのものが、薄っぺらいんだから。そんなんで、ホントに、今できること、が、ちゃんとできてる??

 ただね、逆に言えば、自分の思考力を磨きながら、今できることを行い続け、自分の思考力への不安感を忘れないでさえいれば、そういう人同士の連係プレーで、かなり助けることを助け合うことができるし、みんな、本当の意味で、直観力が優れている。

 そして、非常に嬉しいことに、一番大切な人ほど、気持ちを気持ちで評価してくれる。俺はそれに甘え切ってはいけないけど、そうであることそのものが、とても嬉しいという感情は、大切にしていきたいと思っている。

 だから、俺も、やっぱり、気持ちを気持ちで。。
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不確実な「トグルスイッチ」

2011-10-25 02:48:51 | Weblog
 きっと、どんな系でも、不確実な方向に一生懸命努力しないと、ホンモノは掴めないんだと思う。どんな系でも。

 誰だって、自分がほんのちょっとでもやった努力は報われたいし、無駄にはしたくない。だから、確実に結果がでる努力ばかりを探してしまうんだけど、それだと、さほど満足できないようになってることも多い。
 俺は、あんまり、みんなが確実だって言ってることについて、本気で努力してきた、というわけじゃない。自分がしたいことについて、一生懸命努力してきただけで、それでも、なんとかやってこれて、その時その時にある程度の満足感が得られてるんだから、そっちのがイイんじゃないかって思っている。

 結果だけが残る、言葉だけが得られる、ってことを、ものすごく怖がっているし、それで痛い目もみてきた。
 今では、みんなが確実だ、って言ってることのほうが不確実だと思ってるし、自分が感じとってることが一番真実に近いと思っている。大人が言ってても、年上の人が言ってても、だいたいは中二病的要素が入ってるし、そんなのよりも、自分が感じとった直観みたいな方が、実際、確実だし、あってる(体調が万全のときに限るけどね)。

 自分の情熱や感情(想い)に由来した頑張りは、どうしたって不確実になってしまう。そんな頑張り方をし続けて、それで具体的に失敗してしまったら、なおさら滑稽になってしまって、みんなが言ってたやり方で努力するんだった、特異的な努力なんてするんじゃなかった、って思ったりもする。
 でも、それで、そこから、どのような努力の仕方をしたとしても、つまり、これまで通り自分の思うような努力をし続けるんでも、みんなの言ってたやり方に変えて努力するんでも、、必ず、そのような情熱や想いは報われる。本当に、必ず。
 このタイプの努力をし始めると、途端に、魅力的になったりするのだ。内面はもちろん、外見も。

 俺は、他人の感情由来の不確実な努力を、一番に認めるような人間になりたいな、って思う。

 ただ、いつ、自分勝手になってしまうかわからないから、ちゃんと信頼できる誰かに本当の想いを言ってみた方が良いよね。それで案外、違かったかも、って思ったり、それでも!、って思ったり、そういうのも、自分の世界に入り過ぎないために大切。そういうことに付き合ってくれる人に、本当に感謝している。

 それこそ、目線を逸らして、冷たく切り捨てるような言い方が、自分が付加しているモノへの自信の無さに由来していることに気がついた時、何が何でも、溶かしてやる、って思った。感情が思考の抵抗値を貫いて、常温でも電気抵抗ゼロになるんだって見せつけるように、曖昧な努力をしたい気持ちでいっぱいになっていく。

 そうなるかならないかのトグルスイッチ(秩序パラメータ)は、両方に、本当の意味で、情熱や想いが正しく存在してるかどうかに依存していると思う。
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真実を超えるためには

2011-10-21 01:51:13 | Weblog
 たとえ、どんな真実を観てしまっても、見つけてしまっても、その現実をちゃんと全部受け入れて、今できることを考えて、実行していくことが大切だと思う。

 その受け入れがたい真実が、1体系からみた現実なのか、2体系にとっての現実なのか、多体系における現実なのか、きちんと解釈しないといけない。2体以上であれば、とりあえずは、どんな真実でも現実でも、最低ライン、幸せだって思えるんじゃないかな。
 しっかりとしたその系の解析をすれば、悩みの半分以上は消える。今できることを思いついた時点で3/4は消え、実行していく頃には、また別の問題を抱えていることになる。慧眼さや聡明さを正しく使えば、ほとんどの不安を消し去ることができると思う。だからこそ、どうでもイイ系である自然科学のお勉強をしていることを忘れちゃダメだよね。

 敵は、残酷な物理現象であることも、同時に忘れてはいけない。どんなにムカつく相手であっても、その人がそういう言動をする心の原因は物理的に仕方のない現象に行きつくんだから、攻めすぎてはいけない。能力が無さすぎることに。
 期待するからいけないんだよね。まぁ、他の誰かが困っているのは嫌だから主張はしていくけど、それこそ物理的に絶対に習得できない無理な事ってのはあるんだと思う。でも、俺くらい諦めの悪い人間が、無理って思って、諦めちゃったなら、それは本当にお終いだと思うけどね。

 まだまだ、そこまでのラインからは程遠くても、普通誰も上手くいかないことを成功させようと頑張る時、俺だって不安になるし、諦めたくなるけど、そこは、基礎に立ち返ろうと思う。

 ・まずはありのままの現実を受け入れること。

 ・そして、今、自分ができることを考えること。

 ・今できることを、実行し続けること。

 これらをしなくならないことが、情熱があるってことで、少なくとも、気持ちはホンモノだってことだと思う。
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怒ってもイイ権利

2011-10-20 01:25:48 | Weblog
 なんでもかんでも意見すればイイってもんじゃ無い。自分の意見によって、どれほどどのように系に影響を及ぼすか、その度合いを考えないといけない。その意見が怒りに起因するものであるなら余計に。
 意見の内容や伝え方以前に、その意見の起因となる怒りを、表に出す権利があるのかどうかを、一度考えてみた方がいいんじゃないの?ってケースも多い。

 自分が、その人に対して、怒ってもイイ権利があるかどうか、ちゃんと考える必要がある。

 ≪だから、あれよね、K君がそのことについて、怒る権利は一切ないよね。≫
 『えー、まぁ、確かに無いけどさー、でも、一般論を言ってるだけなんだけどなー。一般論を言うのもダメなの?』
 ≪それはもちろんイイけど、それをするってことは、ただの一般になっていくってわけで、どんどん離れていくことになっちゃうよね。≫

 物理的に、機械的に、一般論で正しいことから外れてるから、だから怒ってもイイ、その具現化として、意見してもイイ、ってわけでは無いらしい。確かに。
 任意のことに対して常に一般論を言う権利は全員に存在しているけど、怒る権利があるかどうかは別で、一般論を言えば言うほど、その人とは離れていく。

 怒ってもイイ権利があるときって、じゃぁ、なに??

 一番わかりやすくて簡単なのは、お金が絡んでる時。(額にもよるけど)お金を払ってるのに、条件を達成できていなかったら、それは怒った方が良い。怒る権利がある。非常にわかりやすい。忘れがちだけど、すべての教育機関はこれに入ってしまうので、生徒は先生に怒る権利がある。
 あとは、全部の責任がこちらにある場合。責任を取るのは俺(ら)なんだから、勝手なコトするなよ、ってのは、非常に正しいことで、勝手なことをしまくられたら、それはもちろん怒る権利がある。教育に関してだと、さっきと逆。先生は生徒の行動に責任を持つことが多いわけだから、先生は生徒に懲戒する権利がある(教育基本法第11条参照)。っま、懲戒する権利と怒ってもイイ権利は、別なんだけどね(大きな意味で捉えて下さい)。

 他にも、集団に著しい損失を与えるような言動に対しては怒ってもイイと思っている。集団でひとつのモノづくりをするときは、これは必須で、どんどん意見を出しあってダメ出ししないと、高め合っていけない。
 ただし、この場合は、ダメ出しと同じ数以上、集団に対して、イイところを挙げないといけないと思う。じゃないと、イヤになっちゃったら、そこで終わりだから。

 っま、とりあえずは、こんなもんかなーって思うんですが、、あと、皆さん、何かありますかねー?、怒ってイイ権利がある状態。

 ずーっと期待させておいて、それを裏切られたりしたら、それも怒ってイイんですかね?俺は厳密には違うと思うけど、こういうのでめっちゃ怒るよね、みんな。
 その期待が、具体的に何かの言葉になっていたり、何か即物的な事が寄与してるんなら良いけど、ファジーな部分で成り立っているなら、怒ってはいけないと思う。期待する方が悪いし、期待したかったなら、それを具現化する言葉を求めなかった方が悪い。

 これも怒ってイイなら、演技されたら、怒ってイイことになっちゃうし。

 ちなみに、自分自身に怒るのは、オッケーです。どんなことでも。なので、同様に、自分を含めた2人で形成してる空気そのもの(2体系そのもの)に怒るのもオッケーだと思います。集団のケースと似ていて、これも、その2体系をその後も持続させたいなら、怒りと同じ数だけ、嬉しさや喜びや楽しさを確認し合わないといけないですけどね。
 だけど、個人だけに怒るときには制約が色々あるってこと。難しいね。

 あ、でも、一般論を言うのは常に自由だよ。離れていくの覚悟って、知ってるならね?
 …ってコレも自分に言ってるな。笑
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わがままにならないからいけないんだよ

2011-10-18 02:22:51 | Weblog
 俺って結構独占欲が強いんだなって、自分の感情を振り返って思ったりした。

 心とか感情とか気持ちとかそういう類いのモノに、ウソは無い。その存在がいけない、ってこともほとんど無いと思うし、それぞれ時間変化はするけど、確実にブレないモノ(測定の意味でのブレね)だと思う。
 なのに、これらをSelf-consistenceに解くことの材料にしない、無駄に賢いヤツは多い。こういうものこそ、イイ判断基準で、いちいち自分の気持ちに落とし込んでいくことで、信頼性も上がるし、本当の意味できちんとした人になっていく気がする。頭ばっかりで理論構築して、そっちばかりで崇高にまとめあげて、心を介在させないなんて、そんなの、賢くなる意味ねーぜ?

 っで、実際解こうとすると、案外、独占欲みたいなモノに落とし込んでいる自分がいて、ちょっとイヤになった。まぁ、そこまで表立っているモノでも無いし、別に良いんだけど、ほっといてもいけない気もする。
 でも、こういう想いをきちんと前に出さないでいるから、失敗するケースをすでに苦く経験している。中途半端に我慢して、我儘になりきれないのは、上手くいかないのかもしれない。

 それでも、そういうことをもう一歩超越したところで、その感情を押し殺してでも、言わなきゃいけないことはあると思う。頭と心は対等に使うからこそ人らしい。頭を使って次に繋げるような瞬間が、その系の存在にとって、必要不可欠な瞬間はありえてしまう。
 まだ、もう少しだけ時間があるから、ゆっくり言葉を選んで、考究していかないといけないな。最小限の傷で済む言葉とストーリーを。

 それにさ、わがままにならないからいけないんだよ、なんて、そんなの、、ホンモノなわけが無いじゃん。
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研究スタイル

2011-10-17 01:31:57 | Weblog
 そろそろ修士の研究も終わりそうなので、今日は、少し真面目に研究のお話でもしようと思います。
 と思って書いてたんですが、かなり内容がヤバくなりすぎたので、超久々のお蔵入り。笑 あれが公開できるのは、もっと大人になってからね。笑

 修論については、結果も良好に出ているので、あともう少しやれるところまでやって、修了かな。
 あと、博士課程でやりたいテーマもいくつか案があるので、もう少しお話を練って、次の先生のところへ持っていこうと思っています。

 これまで、卒研と修論の研究は、研究室で引き継がれているテーマ以外の新しいテーマでした。っま、必然的にそうなるってのを非常に信頼している友達も言ってたし、テーマがズレていってしまうほうが自然なのだと思ったりします。

 自分が研究室で最初にやる、ってのは、結構楽しくて、勉強になります。プログラムも先輩のを引き継いだりするんじゃなくて、ガチで最初から俺が書いたし、実験プロトコルも、基本的なところから自分で改良していったわけで、モノづくりって本当にお勉強になる。

 自分で、って言っても、卒研の時は博士取る直前の超優秀な先輩に、今は助教の先生に、だいぶ助けられているんですが、まぁ、主体的には動いてこれたとは思っている。ひとつひとつディスカッションをしながら実験計画を立てていくと、経験じゃないと乗り越えられない壁があるので、ある程度は仕方ないと思いますが、どんどん自分で実験計画を立てられないといけないよね。
 そうそ、優秀な人に下につくってのは、かなり大事です(笑)。優秀じゃない人だと、ただ上からモノを言ってくるだけだし(2回以上そういうことをされた時点で関係を断つべき。(あくまで)理系として、ガチ賢さで勝負出来ない人間には用は無い。)、昔、某研究室のPDの方もおっしゃってましたが、上の人が間違っていない考察をしてくれるってのは、とってもイイことです。だから俺は、卒研生なら少なくともD1以上の人につくべきだと思います。M2くらいじゃ、全然ダメだって。っま、俺の性格的に、本当に強い者にしか従わない、ってのがあるから、万人に成り立つことじゃないかもだけど。

 たとえ主体性がゼロだったとしても、完成する過程を時間変化を追って観れるということは、すでに完成が約束されているテーマをやるよりも、面白いです。
 出来ないかもー、って不安感は、ずーっとあったし、それを自分で乗り越えるのが大切ですが、自分では出来なかったとしても、その感じを観ることが大切。これは、研究室が初めてやるテーマじゃないと出来ないことで、唯一最大のメリットだと思います。そのテーマが本当に成功するかどうか、自分だけが責任を持っている状態は、予想よりも遥かに大変ですが、それ以上に楽しい。

 信念を持って、根気強く、成功させてやる、みんなで頑張りたい、良いモノを創ってやる、って思うと、大抵上手くいくし、それって、モノづくりでは、必ずついて回るもの。
 すべてのモノづくりは、誰かへの気持ちがなきゃ、何にも意味は無いからね。

 っで、これくらいなら、公開出来るかな。笑


 そういえば、卒研の時に、調和振動子型のポテンシャルを最初に投げたらイイって思いついたのは、今の場所で初めてゼミに参加していた時だった。それで成功したあの結果、先輩と同様、プログラミングの結果を隠して算出しておいて、卒研発表でどーんてだしたんだよな。根気強さとか、負けず嫌い感は半端無いけど、発表終了直後に、先輩達が、あの結果いったいどーやってだしたの?って聴いてきた時に、その研究テーマへの興味が薄れて行った気がする。

 そして、また。
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なら、ぶっちゃけたくないの

2011-10-15 03:06:06 | Weblog
 あんまりぶっちゃけたくもないのに、ぶっちゃけないといけない感が流れるときが、ちょっとツライ。
 どうでもイイ相手なら、ぶっちゃけることに慣れ過ぎるから、言った後に『俺、よくあの時、あんなん言ったよなー』ってなるのは別にイイんだけど、無用な誤解を与えたくない相手にまでそうなってしまうのはイヤ。

 ぶっちゃけるってのは、イヤなヤツには効果絶大だし、どうでもイイヤツはどうでもいいから考慮して無いんだけど、そうじゃない大切な人達に、フリでぶっちゃけるのは、ちゃんとラインを守っておかないといけないと思う。そして、そのラインをきちんと守ったとしても、あとでちゃんとフォローをするほうがベター。
 だけど、その確認作業が中々しにくい相手だったり、関係がまだまだサチって無い相手だと、そのフォローが意外とあとで出来ない場合があるから、うーん、てなる。

 じゃぁ、やっぱり褒めまくったりしたほーがイイのかな、って思うけど、それはそれで、思って無いことを言ってもなーって思うから、本当に思ってることから探すんだけど、それだと限界があるし。まぁ、それはホントはただの言い訳で、同じイイところを違う表現で何度も繰り返せばイイだけだ。ホントのホントは、どうしても恥ずかしいから、目につく、手っ取り早い、欠点や面白いところをネタにしがちになっちゃうんだよね。
 っで、あとでフォローや確認ができなくて、うわぁー、ってなる。そういう意味では、俺って超即物的だよなぁ、ホントは逆のくせに。

 ホント、自分のキャラ、めんどくせー。

 もっともっともっと、素直な自分の気持ちを、ぶっちゃけるようになりたいな、って思ったりするけど、なかなか出来ないのも自分自身なわけで、ちょっとずつ変わっていければ良いのかなって思っている。
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主体的に楽しめるように

2011-10-14 03:19:47 | Weblog
 やっぱり、誰かの価値観を変えるってことは、なかなか難しいことだなって思う。

 多角的に考え、あらゆる方法を使って、その中で感情も含めた論理性を確実にしていっても、数学みたいに、ひとつでも間違ってしまえば、その解に辿りつかない。ホントに、ひとつも間違っちゃいけない。
 何かについてホントの意味での主体性を持たせてあげたり、楽しませてあげたり、そっち側の価値観のほうが即物的なことよりも大事なんだって、価値観を変えさせようとするためには、即物的な価値観のなかで成功させながらも、ガチで楽しませてあげないといけないから、どっちも出来ないといけないんだ。

 「ほらー、またなおってない。」
 『あぁ。なおそうとはしてるんで、言い続けて下さいね。人には七回って言うじゃないですか。』
 「なんで、そー、上からなの?」

 表面的な事であっても、誰かを変えるなんてことは難しくて、他人には七回、で、7回くらい相手に同じ言葉を繰り返さないと伝わらないと思っていた方がイイ。特に、それも、立場が対等だったり、自分のが下であるときにはね。
 (恣意的になれてしまうような環境であるなら、常に自分に疑問を投げかけていかないとリスクが大きいから、またそれはそれで、難しいんだと思う。基本、日本人は上の人達に逆らわないし、それを善としてるからね。)

 ただ、即物的な価値観から脱させる、というのは、それ自体に、今の即物的な価値観の中でも有意でないといけないし、連続的に価値観は変化するから、7回言えばイイってもんでもない。
 自分自身が即物的な成功+楽しんでる姿をもってることは、最低ライン、前提としてあって、それを人に享受しながら、引っ張っていかないといけないのが、難しいところだ。

 リードボーカルは自分で空気を創れ!、って前にも書いた気がするけど、それと似たようなもんで、ひっぱりながらその人にイイ想いをさせて、楽しませながらも、それが稀少価値の高いモノだってわからせるようにちょっと押しつけて、でも、優しく、そっちのがイイっしょ?、って伝えないといけない。
 そして、このなかの、一個も間違ってはいけないのが、難しいところ。

 でも、難しいからこそ、そういうことが楽しいんだと思うし、結果だけ(ばかり)を求めるよりも、そっちのが、頭だけでも使うし、心も使う。心地の良い疲れを味わうためには、ずっと継続して行動していく、それくらいの努力が必要なんだと思う。

 諦めちゃダメだ、ってよく言うけど、ホントの意味で、最後まで諦めない、がいかに難しいか、知る人は少ない。

 『だって、それだったら、それで満足しようとしちゃったら、ただの普通じゃん?普通で満足しちゃだめでしょ。』

 いま、自分は普通なんかよりもずっと下だから、そんなこと自分には関係ないって思ったりした?
 まさに、その価値観を変えたいってことね。
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「正しさ」の確からしさ

2011-10-13 04:39:29 | Weblog
 『でも、表面的にだけ取り組んでも、意味無いじゃん。楽しくないし。』
 【だからぁ、わかってないなー、楽しいとか、楽しくないとかじゃないんだって。確かにそういう風に頑張ることが、たとえば進学したときに、何年後か先に、役に立つのかもしれないけど、私はそんなに待てないの。】
 『まぁ、わからなくはないけど。。確かに、結果は早く欲しいしね。』

 もう少し、本質的に頑張る、寄りになってみたらイイんじゃない?、って意味だったのに。

 もっと優しくしないと!、って言えば、甘やかすと強くならない、とか、もっと対抗意識を持たないと、って言うと、ダサいから、って。なんで、みんな、ものごとが連続的に変化しているということを知らないんだ?
 そっちに依り過ぎてるから、もっと違う視点で、逆の方向に目を向けたら良いんじゃないか?って言ってるだけなのに、俺だって、甘やかしすぎに偏りまくったらダメだって思ってるっつーの。笑

 満足できるポイントってのは、必ず、中くらいのところにあると思うんだよね。お金がありすぎても不幸だし、環境が良すぎても不幸。その逆は当然不幸なんだけど、どっちにしろ、過ぎ、ってダメなのかな、って思う。

 なにごとも、ほどほどに。

 っていうと、なんでもかんでも、ほどほどって思われそうなんだけど、そういう法則が成り立つ系が多い、ってだけだから。勘違いしないでね。

 あー、俺、めんどくせー。

 うむ、やっぱ、あーいう努力は、役には立たないんじゃないかなって、最近思います。楽しくはなるけどさ。

 確かに、満足できない、ってことは、辛いことかもしれないけど、いつまでも満足できないイコールいつまでも幸せにならない、ってことじゃねーし。
 それは、ある閾値さえ超えればイイ、という物理法則だと思います。

 ただ公式覚えてるだけで、その公式がどのような系や範囲で成り立つか、ちゃんと把握しないからいけないんだよ。
 言葉や公式に騙されるな。
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体験したことのない系を把握できる力

2011-10-12 03:41:58 | Weblog
 観たことも聴いたこともないような系を想像するのに必要なモノはなんだろう?
 俺は、将来的に、想像するのが困難な自分が体験してきていない系についてきちんと考え、適確な組み取り方が出来るようになっていかないといけないと思う。それはもちろん、自然科学以外のためにね。

 まぁ、論理性とか幅広く成り立つ公式を適応させることは絶対に必要だと思うけど、案外、簡略化して考えてみることが大切なのかもしれないな。
 ものすごく複雑でも、シンプルな法則はあるはずで、それを探し出すことを得意になっていければ良いのかも。

 正確さはむしろ二の次で、正しさや答えを持ってしまうことで、深く傷つけるようになっていってはいけない。

 『わかりやすさとか含めたら、全然、俺のがイイっしょ?笑』
 《そりゃそうでしょ。そのなかで、ケイが、誰にでもわかりやすく説明できる、なんて、当たり前じゃん。》
 『確かに。』
 《もっともっと、違う部分だけで勝負しても、それでも勝てるようにならないといけないんじゃない?》

 完璧に理解して、シンプルに伝えることを考える(あ、当然、ブログは別ね(笑))。

 それから、傷つけてしまう部分を省いていけば良いはずだけど、本当の意味での正しさや、ホンモノの正解は、誰も傷つけないようになっている気がする。あくまで傾向だけど。

 助けるために、本当の正しさを追究していくことを、いつまでも忘れないでいたい。

 そうしていけば、自分が体験していないことでも、きちんと系を把握できるようになり、慧眼さと洞察力が向上して、実質的に役に立つことができるはずだと思う。時間を超えるために。
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誤差解析のまとめ 2011

2011-10-11 02:09:02 | Weblog
 最近、誤差解析をずっとしてたので、久しぶりに、誤差解析のまとめでもしてみようと思います。もう、これ以上、誤差について学ぶことは、無い、はず?

 測定によって何かを言うためには誤差解析が必要不可欠で、どのような測定をしたとしても、必ずこの考え方を用いることになる。

 誤差解析で一番よく使うのは、測定によって得られる物理量の平均値や標準偏差を求めるということだ。平均値は高校生でも知ってるので言うまでも無いと思うけど、標準偏差というのは、繰り返しによって得られた値の不確かさというものだ。この標準偏差という値が平均値に比べて小さければ小さいほど精度のよい素晴らしい測定をしたことになる。
 標準偏差を小さく見積もるためには、単純に、繰り返しの数を増やせばイイ。沢山測定すればするだけ標準偏差は小さくなる。当然っちゃ当然だけど。

 ところで、ある値を測定するのに、その種類の物理量、ただそれだけが知りたいということは、稀なケースだと思う。この値の物理量を投げたときに(っと突然のプログラム用語(笑))、他の物理量がどう応じるか、というほうが気になることが多い。
 そのような場合、「最小二乗法による直線への当てはめ」という理屈を用いる。これは、測定によって得られた沢山の(x,y)について、無理矢理、直線を引いてみて、一番良さげな傾きと切片を見つけてちょーだい、ってことだ。これによって得られる傾きと切片によって、公式や物理法則が算出できる。当然、ここで得られる傾きと切片に対しても、残差の二乗を計算して足し合わせることにより、標準偏差を算出することができる(ホントはもうちょい複雑)。
 ちなみに、考えている系の公式が、直線に近似できないとしよう。そうしたら、xをx^2としたりして、どうにか直線のようにプロットしなおし、直線化すれば良い。細かいことを言うと、その場合、xそれ自体の揺らぎは大きく変わってしまうことに注意しよう。

 誤差を見積もる時には、標準偏差を用いるのが最も適当であると思う。確率誤差を用いても良いが、あれを用いる時は、系が正規分布に必ず従っているという仮定が入るので、注意が必要だ。まぁ、誤差の値が67.41%変わるだけだから、特に問題も無いのかもしれないが。

 さて、ここまでが、誤差解析の基本で、理系なら誰でも知ってることだと思う(という緊張感を持たせてみました(笑))。
 今日はこれに加えて、もうひとつ、少しだけアドバンス的な誤差の話をしてみようと思う。

 測定をしていて、人為的なミスや外的な要因によって、明らかに、ある一つの値がオカシイということはよくあることだ。例えば、全部同じモノを測ったはずなのに、21cm,19cm,23cm,18cm,34cm,20cm、といった具合に。そういう場合は、どの値も対等に扱うという、クソ真面目な感じになるべきではなく、34cmについて、データ破棄の理論を用いると良いと思う。
 ショーブネの判断基準といって、その値を破棄するための理論がある。その値を省いてみると、全体の標準偏差がより小さくなることを利用した理論で(もう少し複雑です)、むしろ、こういうのこそ、実際の実験に役に立つ理論だと思う。

 誤差解析のために測定をするということを考えてみると、なるだけ測定は繰り返した方がイイと言うことは、どの理屈についても言えることだ。
 ただその物理量の誤差(標準偏差)を求めたいという場合は、3回以上の測定が誤差解析には必須です。じゃないと、繰り返しの意味がありません(2回だと公式の分母が1になってしまうので)。最小二乗法で線形回帰したいなら、相関関係を得るための測定を4回以上(線形を形成するためには、2点以上が必要です。よって、その誤差は、3点以上の場合に、やっと定義出来ます。なので、4回以上やらないと繰り返す意味がありません)。
 それは、測定によって系が変化しないことが条件ですが。

 っま、測定によって系が変化してしまうような日常生活では、繰り返しても、しつこい!、ってなるだけなんですけどね。

 あと、自分の行動は、常に、標準偏差付きで測定されるということも忘れてはいけないと思う。
 自分にとって不利な値を含んでしまうほどの標準偏差の大きさを持っているのは、いけないことなんだなぁ。疑わしきは罰せられちゃうから。

 ブレない、って、結構、難しっ。
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余計な一言の理由

2011-10-09 03:42:43 | Weblog
 その行動のすべてが無駄にならないように、表面的なことでこちらのメリットを残しておくことは重要な事だ。
 何をするのにも腰が重い俺は、行動が全部無駄だったってなるのが一番イヤだから、ホントの部分がダメなときを考慮して、何かオプションが得られないだろうか?と探してしまう。

 先の先の先まで考えて、最終的にどうすれば、一番、ボロボロにならないかのラインを引いておく。そうすれば、がっつり落ち込むことは少なくなるし。
 でも、だから、ホントの部分がきちんと得られる確率を削ってまで、オプションを少しだけ取ろうとか考えだしてしまうから、マジもったいない時が多いんだと思うんだよね。それって、本当に得たい気持ちの裏返しってだけで、期待を裏切られた時のショックの軽減まで考慮してるって気持ちは、やっぱりホンモノだと思うのに。

 そして、実際に、オプションっていうか、即物的なモノだけが残ってしまうと、最初、やったー、とか、全部無駄じゃないから、まぁ良かったか、イイ経験になったよな、って思うんだけど、なんか虚しいっていうか、悲しくなってくる。何やってるんだろ?俺、って。それも割と継続的にそう思う。

 それは、無駄に、何かの言葉だけが得られてしまう状況と、非常に似てるのかもしれない。

 『物理とか数学とか、暗記だけだとちょっと無理な、本当に頭を使う学問ってのは、マジで理解したいな、って気持ちが無いと続かないと思う。っでね、もし、その気持ちが無くなっているんだとしたら、すぱーっと止めちゃった方がイイ。そういう時期って誰にでも来るし、そうねぇ、一ヶ月くらいなら、そういう学問から一度離れてみるってのは大事かも。無理してやったって、結局何も進まないんだもん。その時期に親とか先生とかに、勉強しろーって言われても、うるさいんじゃぼけー、って言っときゃイイんだよ(笑)。あれだよ?そういう時期は、テストみたいな、何かやらなきゃいけないことがあったとしても、ある程度、ほっぽっとけってことね。それで無理してやったって、嫌いになっちゃうだけだから。嫌いになっちゃうよりは、たとえどんなテストでも、100点だろうが0点だろうが、そんなこと、どうでもイイんじゃないかな、って俺は思うし。っで、やりたくなったら、ゆっくり戻ってくればイイだけのことだよ。』

 なんでもかんでも、ほっぽっといても、系がカワラナイような、(数学や物理などの)学問みたいなお堅い系だったら、イイんだけどね。
 学問の世界だって、即物的な事を求めがちなのに、ホントに重要な、もっと柔らかい系で、即物的なことを捨てて、ボロボロになるリスクを背負ってまで、ホンモノや信念を曲げずに突き進むことって、難しい。

 頭では、俺が我慢したほうが早い、ってわかってるけど、表面的なところではすごく負けず嫌いだから、それも憚られちゃうんだよね。

 本質的な部分で強くなり続ければ、表面的なところで負けても、笑ってられるのかもしれないから、もう少し、頑張ってみようと思う。
 だって、俺が我慢しちゃったほうが早いんだもん、ね。
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