多角的な能力をつけるためには、必要なことから逃げないことが大事だ。必要なことってのは、自分の心によって決められている価値観であり、自分が所属している分野や習慣に依らないものである。
本当に必要なモノを、必要な瞬間に、きちんと選択肢として、選び続けるのは難しいことだ。でも、それが出来れば、実験量が圧倒的に少なくて済む。もちろん、その分考えなければいけないけど、短い人生、実行するってことが少ないほうが、楽しめると思うんだよね。
必要なことで自分が出来なかったら、周りに訊けばイイ。それがパサパサ出来るようにならないといけないし、いちいち自分のモノにしていかないといけない。
こういうことを繰り返していけば、新しいことが怖くなくなる。正確に言うと、怖いっという気持ちが少なくなるって感じだけどね。新しいことに対して、気持ち的に、削り方が少なくて済む能力は高ければ高いほどイイ。そして、いずれは、多角的な能力となるのだ。
最低限、仲間や味方やパートナーには、これくらいの能力を持っていて欲しいし、自分自身も常に、一生、死ぬまで、そうであり続けなければならないし、この能力を向上しようとし続けなきゃなと思う。
歳をとれば、経験を重ねれば、自分の知ってる範囲や専門分野の知識だけは積まれてくる。だけど、その分、自分が全く知らない範囲について、恐れるようになる。
この恐れは、賢ければ賢いほど、地位や学歴が高ければ高いほど、増していってしまう。過去にはできた、というくだらないプライドが邪魔をするから、学がない者に比べて、学がある者は逃げ場がないのだ。だから、年功序列によって、押さえつけるようになってしまう。
この負の連鎖をどうにかしなきゃいけない。俺はやっぱ不器用だから、ずっと一生、多角的な思考力を上げていって、新しいモノを理解し続けるしか術を知らないし、そうしていくしか方法は無いと思っている。実際に、そうしている年配の人は成功しているし、心から尊敬している。
何故能力を上げたいかといえば、それは、俺の能力が足りないがために、変えられなかったり、関係性を保ち切れなかったことに対して、罪悪感を持っているから。
その部分に対して、真っ直ぐ行動できないのは、邪魔なプライドが、くだらない負けたくないって気持ちが、これ以上迷惑をかけたくないって気持ちが、俺だけにあるのか、お互いにあるのか、それともみんなにあるのか、わからないけど、それを感じる時は、どこか切なくて、直視できない。
望みは、ただ一つ、わかっている。淘汰されていった集団全体に対して、個人に対して、まったく違う想いを抱きながらも、また、いつかのように笑い合えること。
それは、決して遠くない、明日にでも起こり得る、近い未来であるのにも関わらず、そうはならない。いつだって、「絶対に負けたくないから」。
でも、もう、どんな想いであっても、とりあえずは、笑い合えてしまうほうが、楽しいんじゃない?って想いながら、今日はまだイイや、って自分達を誤魔化していく。
新しい中に、古豪な笑いが内在するとき、本当に楽しくなっていくって理想を、頭でわかっていても、心がそれを許さないから。
本当に必要なモノを、必要な瞬間に、きちんと選択肢として、選び続けるのは難しいことだ。でも、それが出来れば、実験量が圧倒的に少なくて済む。もちろん、その分考えなければいけないけど、短い人生、実行するってことが少ないほうが、楽しめると思うんだよね。
必要なことで自分が出来なかったら、周りに訊けばイイ。それがパサパサ出来るようにならないといけないし、いちいち自分のモノにしていかないといけない。
こういうことを繰り返していけば、新しいことが怖くなくなる。正確に言うと、怖いっという気持ちが少なくなるって感じだけどね。新しいことに対して、気持ち的に、削り方が少なくて済む能力は高ければ高いほどイイ。そして、いずれは、多角的な能力となるのだ。
最低限、仲間や味方やパートナーには、これくらいの能力を持っていて欲しいし、自分自身も常に、一生、死ぬまで、そうであり続けなければならないし、この能力を向上しようとし続けなきゃなと思う。
歳をとれば、経験を重ねれば、自分の知ってる範囲や専門分野の知識だけは積まれてくる。だけど、その分、自分が全く知らない範囲について、恐れるようになる。
この恐れは、賢ければ賢いほど、地位や学歴が高ければ高いほど、増していってしまう。過去にはできた、というくだらないプライドが邪魔をするから、学がない者に比べて、学がある者は逃げ場がないのだ。だから、年功序列によって、押さえつけるようになってしまう。
この負の連鎖をどうにかしなきゃいけない。俺はやっぱ不器用だから、ずっと一生、多角的な思考力を上げていって、新しいモノを理解し続けるしか術を知らないし、そうしていくしか方法は無いと思っている。実際に、そうしている年配の人は成功しているし、心から尊敬している。
何故能力を上げたいかといえば、それは、俺の能力が足りないがために、変えられなかったり、関係性を保ち切れなかったことに対して、罪悪感を持っているから。
その部分に対して、真っ直ぐ行動できないのは、邪魔なプライドが、くだらない負けたくないって気持ちが、これ以上迷惑をかけたくないって気持ちが、俺だけにあるのか、お互いにあるのか、それともみんなにあるのか、わからないけど、それを感じる時は、どこか切なくて、直視できない。
望みは、ただ一つ、わかっている。淘汰されていった集団全体に対して、個人に対して、まったく違う想いを抱きながらも、また、いつかのように笑い合えること。
それは、決して遠くない、明日にでも起こり得る、近い未来であるのにも関わらず、そうはならない。いつだって、「絶対に負けたくないから」。
でも、もう、どんな想いであっても、とりあえずは、笑い合えてしまうほうが、楽しいんじゃない?って想いながら、今日はまだイイや、って自分達を誤魔化していく。
新しい中に、古豪な笑いが内在するとき、本当に楽しくなっていくって理想を、頭でわかっていても、心がそれを許さないから。