たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

多角的な楽しさの中で

2012-08-28 00:42:51 | Weblog
 多角的な能力をつけるためには、必要なことから逃げないことが大事だ。必要なことってのは、自分の心によって決められている価値観であり、自分が所属している分野や習慣に依らないものである。

 本当に必要なモノを、必要な瞬間に、きちんと選択肢として、選び続けるのは難しいことだ。でも、それが出来れば、実験量が圧倒的に少なくて済む。もちろん、その分考えなければいけないけど、短い人生、実行するってことが少ないほうが、楽しめると思うんだよね。
 必要なことで自分が出来なかったら、周りに訊けばイイ。それがパサパサ出来るようにならないといけないし、いちいち自分のモノにしていかないといけない。

 こういうことを繰り返していけば、新しいことが怖くなくなる。正確に言うと、怖いっという気持ちが少なくなるって感じだけどね。新しいことに対して、気持ち的に、削り方が少なくて済む能力は高ければ高いほどイイ。そして、いずれは、多角的な能力となるのだ。
 最低限、仲間や味方やパートナーには、これくらいの能力を持っていて欲しいし、自分自身も常に、一生、死ぬまで、そうであり続けなければならないし、この能力を向上しようとし続けなきゃなと思う。

 歳をとれば、経験を重ねれば、自分の知ってる範囲や専門分野の知識だけは積まれてくる。だけど、その分、自分が全く知らない範囲について、恐れるようになる。
 この恐れは、賢ければ賢いほど、地位や学歴が高ければ高いほど、増していってしまう。過去にはできた、というくだらないプライドが邪魔をするから、学がない者に比べて、学がある者は逃げ場がないのだ。だから、年功序列によって、押さえつけるようになってしまう。

 この負の連鎖をどうにかしなきゃいけない。俺はやっぱ不器用だから、ずっと一生、多角的な思考力を上げていって、新しいモノを理解し続けるしか術を知らないし、そうしていくしか方法は無いと思っている。実際に、そうしている年配の人は成功しているし、心から尊敬している。

 何故能力を上げたいかといえば、それは、俺の能力が足りないがために、変えられなかったり、関係性を保ち切れなかったことに対して、罪悪感を持っているから。
 その部分に対して、真っ直ぐ行動できないのは、邪魔なプライドが、くだらない負けたくないって気持ちが、これ以上迷惑をかけたくないって気持ちが、俺だけにあるのか、お互いにあるのか、それともみんなにあるのか、わからないけど、それを感じる時は、どこか切なくて、直視できない。

 望みは、ただ一つ、わかっている。淘汰されていった集団全体に対して、個人に対して、まったく違う想いを抱きながらも、また、いつかのように笑い合えること。
 それは、決して遠くない、明日にでも起こり得る、近い未来であるのにも関わらず、そうはならない。いつだって、「絶対に負けたくないから」。

 でも、もう、どんな想いであっても、とりあえずは、笑い合えてしまうほうが、楽しいんじゃない?って想いながら、今日はまだイイや、って自分達を誤魔化していく。

 新しい中に、古豪な笑いが内在するとき、本当に楽しくなっていくって理想を、頭でわかっていても、心がそれを許さないから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする