たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

期待を期待で相殺させて

2018-10-27 00:22:34 | Weblog
 傷ついてしまうのは、期待してしまうから。

 このことに気がついたら、対策は大きく2つに分かれる。まず思いつくのは、「とにかく誰にも何にも期待しない」ということ。引きこもって、できるだけ他者と関わらないように生きて、周囲との接触面積を限界まで小さくすることの努力を怠らないことだ。
 でも、できるだけ他者と関わらないように生きられる人って、結局幸せなんじゃないかと思う。だって、「引きこもれるだけの環境」が長く続くことが保障されているから。多くの場合、その保障を背負ってくれるのは家族。そうじゃない人は、別の方法を取るしかなくなる。

 それは、他者との接触面積をあえて大きくして、私のことをアクティブな人だと周囲に思わせながら、自分自身の抑えきれない期待をあらゆる箇所に分散させてしまう方法だ。
 そうすると、確かに他者からの期待を不自然なカタチで受けてしまう確率も高いけれど、愛想笑いと忙殺のバリアで、上手く回避する術を自然と身に付けてもいける。

 期待は、期待で相殺させてしまえ。それが、私の傷つかないための定石なのだ。

 この手法の最大のデメリットは、自分でさえも、気がついていなかった「本当の期待」が崩れ去ったとき、予想外のパンチを食らってしまうということ。分散したつもりの期待が、分散しきれず本当はそこに堆積していた場合、崩れ去ってはじめて、"私は本当はココに期待していた"ということに気がつく。
 泣きそうになりながらも、周囲はそれに気がつかず、「でも、貴女は他のこともあるから、大丈夫でしょ?」という顔をしている。もはや、そうじゃない!、と叫べない状態に自分自身を追い込んでいる私には、誰も気がついてくれないのだ。

 私は、そんなとき、とことんダメになってしまうやり方を、知っているわけではない。そんな状態の時ですらも、誰かからの期待を体現しようと、どこか、清く正しく美しく、のやり方になってしまっている自分自身に絶望したりして。ダメなときにちゃんとダメになれるのも能力なのに、その方法を、誰も私には教えてくれなかった。不公平だよ、って思うけど、そんな私を羨ましがる誰かもいるのだろう。

 完全なパターン形成から崩れかけたところに美しさがあるのだとすれば、それを維持できないギリギリの最後に、分裂したり継承したりすることが生命の本質を感じさせる。
 だから、この不公平さも、きっとどこかに複製されていくのだろうけど、誰もこんな想いをしてほしくないから、あまり気持ちを分かってもらいたくないのだ。完全に分かられたら、誰かにパスされてしまうから。

 そして、そんな不公平さを、どうにか超えられないだろうかと、他者に期待し始めてしまっている自分を感じる。
 その期待を、また一生懸命に分散させながら、深く考えてしまう時間を消し去るように、くだらない誰かの冗談に愛想笑いしてみる。・・・でも、カラ元気も元気のうちでしょ?きっと、引きこもってるよりも、本当に笑えることも、多いよ??
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向かい風を追い風に変えながら

2018-10-18 23:29:22 | Weblog
 「賢くなりたい」と言う若い子は案外多い。
 賢いことが得であると騙されているのだ。

 「賢くなりたい」と言ってくる子に、俺が何度も繰り返す言葉は、「賢くなっても、何一つ良いことは無い、むしろ賢くなるための修行でツラいだけ損だけど、それでも良いの?」ということ。
 これだけ更新頻度が落ちて、Twitterでアナウンスしなくても、いまだに「このページ」を定期的に見てくれている、賢明な読者にはわかるだろうが、自分の胸に手をあてて考えて欲しいのよね。「賢かったから、得をしたことが、はたして、これまでに一度でもあっただろうか?」と。

 民主主義国家では、多数決によってモノゴトが決定される。多数決とは、すなわち「みんながやっている普通」が採用され続けるということだ。多くの他人よりも賢くなってしまった人にとって、平均的なみんなはただのバカなので、いちいちバカの考えそうなことを考えながら選択をしなくてはいけなくなる。極端に言ってしまえば、「バカが普通だと思っている、極めて生産性が低いバカげたことに対して、付き合ってやれる」賢いヤツ(それは即ちバカ)や、その構造だけはよくわかっているバカが、決定権を持ちやすいということである。

 そして、賢くなればなるほど、この構造の絶望感に打ちひしがれる。
 「どんな場所に行っても、どんな時代であっても、この構造が保存されている」ってね。

 だったら、最初から、こんな構造に気がつかないほうが良い。意識できないように、井の中の蛙で一生過ごすほうが良いじゃないか、と思うのだ。

 系を正しくみるためには、系外へと「引いてみる」ことが重要になる。でも引いて見すぎてしまうと、目に余るほどの、不平等や理不尽を実感するようになってしまう。そして、構造を認識することはできても、何もできず、何も変えられそうもない自分自身の無能さに、また絶望するのである。

 ならば、目の前のことを、自分自身が好きなように、とことん楽しむほか無い。賢くて楽しむためには、スマホが急に壊れても「スマホが壊れた」とただ嘆くのではなく、せっかくだからと分解して修理しようと楽しむような、向かい風を追い風に変えながら、空を飛んでいくしかないのだ。
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ユニバーサルな絶望

2018-10-09 01:27:43 | Weblog
 いかに回り道をせず、最短距離で立場を掌握するかということに最適化することが正義であると信じられている現代社会では、そのスタイルをとりがちな権力者全体の実力不足を公に笑うことは、社会から孤立した流民になることを意味すると捉えられている。
 では実際、最短距離が書かれた攻略本をすぐ見ることをせず、真面目で堅実な能力のある流民が多いかというと、そんなことはない。流民は権威に従う者を「奴隷」と見下すが、舞台を与えられ続けていない流民の多くは、能力向上の機会も同時に奪われているため、むしろ最適化することで選ばれた奴隷達よりも、無能であることが多い。

 全体にとって、あまりに発展性がない選択を取り続けることが、常態化しているのだ。
 「きちんと従ってくれる」ということを最低ラインにおいた上で、ある一本化した基準のもとにレースをさせる。

 それだけでは飽き足らず、あらゆる評価のなかで、賢さの平均値(すなわちバカ)にとっての「わかりやすい」テーマを目標に掲げさせられ、そこに愚直に最適化できる者こそが「有能だ」と定義付けされ続ける。
 これでは、本当に賢い者から「勝手にやってれば?」とその場を離れていくだろう。そうでなくとも、「まぁ、とりあえず席だけ置いておいて、てきとーに(彼らが耳心地の良い)正しいことだけ言ってりゃいいか。責任だけとらないように気をつけながら」というやる気の無さへとシフトしていくだろうと思う。

 奴隷のフリをした自由民は、利口だとは言えるが、聡明だとは言えないだろう。
 人生のかなり多くの時間を、くだらないことに消費されるのだから、カネは得れても、生きる目的にそぐわなくなるだろうし、時間が経てば経つほどに、もはや自分自身もフィードバックして賢さが削られていくことに気がつけなくなる。

 このような絶望の深さは、時空間を超えて、心に重くのしかかってくる。時代が違えど、場所が異なれど、ユニバーサルに成り立つ法則を、恨むようになる。
 時間をかけあらゆる場所で研がれた知見を総括した結果、気持ちから罪悪感を引き算してみたらそこまで多くは残らなそうであることに直面したり、これだけのパワーを得てこんなにくだらないことに注力してしまっている自分を再発見したり、かけがえのないはずの愛情がただ自己愛から生じる投影なだけだと認識したり、なかなかに原理・原則の見えなかった事象が、ユニバーサルな絶望へと変わる。

 だから言ったじゃん。『知るってことは、幸せになるよりも、不幸になることのほうが多い』ってね。
 でも、幸せになることよりも、知りたいという欲望が勝ってしまうのが人間なのだとも思う。

 何かの決定的なキッカケで他者に対しての期待を完全にやめるとき、それは、その人の問題ではないし、俺の問題でもないのかもしれない。自らも普遍性からは逃れられないことへの絶望に屈しているのだ。
 本当の意味で「諦めている」からこそ、決定が早いし、冷酷に正しく、躊躇が無いし、怒りも抱かない。

 だからこそ、欺き続けることができてしまうのかもしれないよね。
 そんな類いのものづくりを仲間達と楽しみ始めている俺は、「またひとつ、中学の頃に想像していた夢が叶っている」と、昔の自分に羨望と自慢の感情を同時に向けながら、嬉しくも悲しくも涙している。
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