たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「井の中の蛙」肯定化社会

2015-10-31 02:37:12 | Weblog
 大人になると、いつしか細分化された世界に生きることが当然のように感じてしまい、そこに甘んじてしまうようになる。
 たったこないだ、中学3年生までは、同い年の人は、みーんな同じ勉強をしていたというのに、いつの間にか、理系と文系に大別され、理系のなかでは、さらに理学と工学(応用)にわかれ、さらに物理と化学と生物学と地学にわかれ、そして大学院では、たった一つの研究室、たった一つの研究分野しか知らないくせに、長年そこに居続けているということだけを大義名分に、俺を含め多くの研究に携わる人たちが、研究社会のことを自分の経験だけで一般化し始める。

 特にこの国は、井の中の蛙であり続けることを肯定化する。もう、あらゆる分野に跨るような歴史的な大発見は、これだけ学問が細分化されたなかでは不可能だ、という言われ方がされることがあるが、そんなことは決してない。
 きちんとした舞台が整いさえすれば、この国で、たとえば「生命とは何か?」などの本質的な問いに対して、きちんとした答えが導き出すことができるだろうと思う。しかしながら、科研費の申請一つ出すのに分野を気にしなければならず、細分化された分野のなかの、そのなかのさらに小さな研究室というステージ内の価値観に合わせなければ論文を出せないような状況下で、しかも短期的な展望でのみプランを立てさせられ、体裁ばかりが重んじられる研究潮流なのだから、論理的必然として「生命とは何か?」等の本質的な取り組みを探求することは不可能だ。

 みな、こう思っているのだろう?
 「その分野のなかでの無難さを担保していながら、業績をコツコツと積み重ね、いつか権威を手にしたら理想的なことをやれば良い」と。そのようなやる気のない権威的な態度なら、一般企業で奴隷のように働くことに注力したほうが遥かにマシなように思えるし、権威を手にした瞬間に保身と現状維持だけを気にして生きていくことは目に見えている。

 もしくは、こう思うのだろう?
 「そんなに好きなことをやりたいなら、その研究室のなかで、自分の価値観を皆に納得させるように努力したらいいだろう?」
 価値観が凝り固まった蛙たちに、高校生なら誰でも面白いと感じる価値観を、彼らのプライドを傷つけないようにわかりやすく伝えるという、そのくだらない時間を過ごしている間に、同期が「月を目指すぞ!」と目標を掲げながら地球上をただひたすらに堅実に歩き、その過程で東京タワーに昇ったことを「月に少し近づいた!」と誤魔化しながら論文を量産し、終身雇用ポストを得ていく中で、そんな時間がかかりすぎるやり方で理想的なことばかり追っていることが、バカバカしくなってしまうに決まっているだろう。それに、システムの話をしているのに、いつの間にか個人の批判になってしまっている。俺は、統計的に、どうしたら本質的な研究が遂行されやすくなるか?というシステムを考えているのだ。
 そこで、井を抜け出し、自分にとっての本質的な能力を得て、本当に月を目指してロケットに乗るほうが、お得である、というようなシステムを作らねばならないのだ。

 だが、、かといって、今の現状のシステムが気に入らないからと言って、単に反権力になっていても仕方ないと思う。反権力主義は、新たな権威主義しか生まない。今のルールの中でやるべきことはしっかりとやって、そのうえで、言うべきことを言うべきだ。
 だから、どんなにクソだと思っても、あらゆることに、ちゃんと本気じゃないと駄目である。だから例えば、ゼミに来ないとか、一言も発言しないとか、教授会で寝てるとか、そんなことは言語道断である。

 っまぁ、何が言いたいかというと、みんな、何をもってして有能だと思っているのか?ということ。有能って何??
 それを一切考えていないで、自分がいる狭い世界の価値観に合わせることしか考えていないから、「偏微分ができないからフィッティングの原理を知らないでソフトウェアに任せっきり」「実験装置の限界について考えることが習慣化されておらず、実験屋が出した結果を単純にそのまま信じてしまう」という、理科の基礎ができていない、めちゃくちゃファジーな状態で、自然科学の研究者の道を進んでいってしまうのだ。
 そこに対して多角的に考えるべきなのに、あまりに何も考えておらず、小さな小さな、自分が入りこんだ井戸の中の世界の価値観に、いかにアジャストするかしか考えていないヤツが、多すぎるということなのだ。

 考えてみた結果、それが、やっぱり、研究者は文章作成能力が最も大事だ、という結論もあり得るだろう。そこには、訊いてみるべき論理が存在しているはずだ。しかしながら、それは最低ライン、自分の頭できちんと考えてから、話すべきだと思う。

 権威主義も、反権力も、それだけじゃダメダメ。自分が考えたことを、ただそのまま伝えていき、今のルールに則って、体現しようとすればいいのだと思う。シンプル。

 それは確かに理想論だと思うし、机上の空論だとも思う。

 だって、国立大の交付金が毎年1%削減されていくかもしれないなかで、しかも授業料がさらに高くなりそうななかで、次の世代を大学に通わすことが困難になっていき、俺らが研究者として本質的なテーマを追い続けることは無理になっていくのは明らかだ。
 いよいよ、この国から去って研究を続けるか、研究をやめてこの国に居続けるのか、の選択を迫られているのかもしれない。
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Google支配社会

2015-10-29 23:21:49 | Weblog
 『Googleが自動運転で各世帯に無料で食糧配給するようになるのは何年後かな?』

 しばらく前に、この質問をいろんな人たちに、いきなり投げて、反応を確認しましたが、予想よりも早く実現しそうだなっと思いました。
 当然っちゃ当然ですが、若い世代のほうが、すぐに質問の内容を理解して、ツッコミをしたり、何年後!って答えたりしてくれました。俺と同じくらいの世代とその上の世代は、質問の意味が分からない人のほうが多かったです。

 一応少し説明しておくと、ディープランニングがめちゃくちゃ発展していて、Googleマップの最終目標は自動運転だったのだ!というのは、基礎知識。その上で、時代の流れを考慮すると、ゲームがタダになって、電話がタダになって、無料ベースから贅沢やズルやデコレーションをしようとするとお金が要求される、というシステムがかなり一般化してきました(もちろん、スマホはタダじゃないんだけどさ)。

 だとしたら、お食事がタダ!、もありえるんじゃね?っというのは、まぁそれなりに予測できることだと思うんですよ。少なくともラリーペイジはその可能性を考えているとは思うんですよ。
 例えば、Googleから、定食タダで食べて良いから、代わりに、写メとってTwitterでアップしてGoogleTシャツ着てね、って言われたら、このページを観てる人の大半はすると思うのよね。っで、その定食に卵とか付けようとすると、300円くらいとられるの。ベースがタダだからいいや、ってヤツもいれば、タダ飯であることが重要だと思うヤツもいるでしょう。
 たぶん、成り立つんじゃないかなぁと思います。

 資本主義って突き詰めると、実は、共産主義に繋がってるのかなぁ。

 すべてのお仕事は、すべてが自動化することを最終目標にしている気もしますので、仕事がなくなる日も近いかもね。働いたら負け、ってやつか?(笑)

 自動運転は、たぶん、意外と早くて、10年から15年くらいかと思います。
 食糧配給までは、うーん、、20年から30年??

 それから、何をしたいと思うか!それはあなた次第!!
 というわけで、俺からこのラインが来た皆さん、貴重なご意見、有難う御座いました(笑)。
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実力は要らない

2015-10-28 01:31:21 | Weblog
 自分の実力以上の成果を手にしてしまうことの代償は大きい。
 その成果を常に身に着けていなくてはならず、知らず知らずのうちに自分の首を絞められてしまうことになるからだ。そして、その苦しさに耐えかねて、自分よりも弱い人を苦しめる。そして、こう言うのだ「生きるためには!!」

 自分も若い頃はこうやって虐められてきたから、次は俺らが虐める番。ということを正当化しだす前提となっているのは、自分が身に着けている言葉に対しての、圧倒的な実力不足。実力がないから、誰かを上から押さえつけたり、知識自慢をドヤ顔で振る舞い「こんなんも知らないの?」という顔をしてしまうことになるのだ。
 そして、それは、本当に能力がある、若い芽を摘んでしまうことになる。「ズル」を大人風に言い直した言葉である「権威」は、少なくとも、自然科学の研究の世界では、本来、真っ先に除去すべきものであり、いっさい要らないものだ。

 具体的に言えば、指定校推薦で大学に行ったなら、自分の大学の一般入試の問題をきちんと把握して、最低でも赤本くらいは自分の机に飾ってあるようにしなくちゃいけないし(もちろん本当は、問題を解いて、合格最低ラインを突破できるまで勉強するべきだが)、大学院から東大にロンダリングしたのなら、東大の学部入試(とセンター試験)を突破できるだけの基礎力を、自分の専門分野だけでなく、五教科すべてについて、身に着けるべきだと思う。常に、例えば理科一類に受かれ!、とは言わないが(っていうか、それは俺が無理(笑))、前にも言ったことがある気がするけど、最低でも3か月完全フリーを与えてもらえれば受かる、というくらいの最低限の基礎的な実力をつけてなくてはいけないと思う。
 それが、自分の実力を誤魔化していない、ということだと思うのだ。ここに誤魔化しが入ってしまえば、どこかの時点で、自分の実力を奢ってしまうし、人を過度に傷つけることになるだろう。

 謙虚になれば良いというかもしれない。それでも、そういう類の人間が、「生きるために!」という言葉を発しながら、俺を睨め付ける瞳を、どれほどの数、俺が見てきたかを考えると、やっぱり、謙虚になればいいということではないと思う。
 言葉を捨てるか、実力を追いつかせるか、そのどちらかしか道はないように思える。 

 ただ、人の価値、というのは、実力とか、どれほど思考力があるか?とか、知識があるか?とか、能力とか、業績とか、どんな仕事をしているか?とか、そういったことは、いっさい関係ないということを、確実に頭に叩き込んでおかなくてはいけないと思う。
 人の価値というのは、どれだけ他人をより良くしようとしたか?、という一点であり、それは、実力がなくても、思考力がなくても、知識がなくても、能力がなくても、業績がなくても、仕事をしてなくても、可能だ。単純にその人の心や気持ちにこそ、その人の価値があるのだ。

 だから、自分の実力未満の成果しか出せていない、というのは健全であり、ラッキーであり、チャンスだと俺は思う。
 その痛みをもって、他人の痛みを理解しようとした、その瞬間に、あなたの価値は高まるのだから。そして、俺は、その一瞬を見逃さないし、それだけをもってして、他人を評価し続けてきているし、好きな人を選び続けている。

 それは、偶然、自分の実力以上の成果を手にしてしまった不幸な人に対しても、手を差し伸べられる、強力な指針であり、俺は、、世界中で俺だけは、その能力が絶対に高くなくてはいけないと、自分自身に対して思っている。

 なぜなら、いつでも、どの瞬間の、どの状況からでも、大切な人を本当の意味で確実に守れるように。
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Mini-review on the Mario Maker Computing Systems

2015-10-26 00:35:10 | 自然科学の研究
 世の中は頭の固い人たちばかりで、研究の出力が「論文」という時代がもうすぐ終わるということが、なかなかわかってもらえません。
 時代の流れを考えれば、これだけ動画配信するのがラクになってる時代だから文字はなくなっていくと思うし、VRがこれだけ進歩してきているのだから、たとえば研究の出力としてVR作品を残すアウトプットのやり方とかを模索しても良いはずなのに、全然そういった動きが研究の世界では取り組まれない。まぁ、俺的には、(皆さんご存知のように)文字を書くの好きなので、別にこのままでもいいんですが、、理系が、新しい技術にワクワクしないってどうなの?

 しかし、外の世界では、どんどん、そういった動きが出てきています。
 俺らが、井戸の中の蛙になっているうちに、外では、どんどん追い抜かれて行ってしまいます。

 っというわけで、今日は、この動画を見てもらおう。

【論理演算】マリオメーカーに「3+3=6」を計算させてみた


 これ最初に見たとき、『おいおい、マリオメーカーコンピュータかよ。俺、思いついてなかったぞ!』と、正直悔しくなりました。いや、なんつったって、コンピューティングとか、まぁそれなりに自分の専門分野に近いところもあるのに、こんなことも思いつけない自分が駄目だなぁと。
 っていうかさ、これ、マジで論文にしたほうが良いんじゃないですかね?なんなら俺、文章書くよ?いい感じで先行研究挙げられるよ?共同研究ってことでさ(笑)。
 これよりも遥かにくだらなく意味のない研究、俺、いくらでも知ってるぜ?量子コンピュータだって、DNAコンピュータだって、それなりに良いジャーナルに載ってるんだから、しかも、最初のアイディアだから、ScienceやNatureに投稿して、大丈夫だと思うけど。Nature communicationくらいなら絶対にacceptされると思うぞ。まぁでも、YouTubeに負けるくらい、それくらい原著論文って、めちゃくちゃつまんないからなぁ(笑)。こうやって、YouTubeに投稿するのが一番価値があるって評価されちゃうんだろうなぁ、さすがにカネにはならないだろうけど。って、別にジャーナルに投稿しても、カネにはならないんですが(なると思ってる人は、勘違いです)。

 この動画がすごいなって思うのは、基礎に忠実である点です。数学や情報の基礎が、めちゃくちゃしっかりしてるやつが作ってるなぁと思います。
 AND, OR, NOT, XOR, NAND, NOR, XNORという基本的な演算子を作り、そこから半加算器、1bit全加算器、2bit全加算器を作っています。っていうかさ、この作者の人、もしかして教養学部の情報の授業受けた?笑

 これ、たぶんだけど、趣味でやってるんだよなぁ、と思いながら観てると、なんと、これを引用している動画が、いくつか存在していることに気が付きます。

 以下、一部を挙げておきます。ちなみに調べるともっと出てきます。

【スーパーマリオメーカー】「65535+65535=131070」を計算させてみた【Super Mario Maker】


 これは小さくした半加算器を組み合わせることで、16ケタの加算器を作っています。ただ、ちょっと俺が気に入らないのは、入力するときに「つくる」じゃないとできないこと。やっぱり、プログラムの作成と入力は、分けたいよね、なんとなく。でも、これはすごい進歩。

【34bit】マリオメーカー計算機で171億略+171億略の結果を表示してみた【スーパーマリオメーカー】


 この動画によって34bitまで可能になっただけでなく、マリオをあまり動かさなくても済むようになりました。この動画がめちゃくちゃ面白いのは、ストーリー構成が、論文と同じになっていること。背景、問題点、目的、結果、考察、今後の展望、と、明らかに研究を知ってるヤツが作っています。

 よーするに、俺が言ってるのは、すべての研究は、こういう風に、研究発表のアウトプットが多様化してくるだろう、ということ。そこに対して、それこそ「理系なんだから」、恐れちゃダメダメ。

 いやー、しかし、怖いなぁ。こいつら、たぶん、研究室とか研究業界では、そんなにイケてないヤツなんじゃないかなぁと思う。なのに、研究遂行能力そのものは、ものすごく高い。
 こういう人たちをちゃんと評価しなくちゃいけないのに、、うーん、どうしたらいいんだろうね?

 逆に言うと、やっぱり研究職に拘らなくても、いつでも研究ができる環境がセッティングされつつあるわけで、しかも、これからの時代、評価する人は評価がきちんとできる世代になっていくわけで、あまりに業績に拘らなくて良いんじゃないか、と思うけれど、、もう俺も研究業界に洗脳されつくしているから、やっぱり論文書きたいよねぇ、一本でも多く(笑)。

 恐ろしいな、っと思うのは、スピードである。なんつったって、マリオメーカーが発売されてから、まだ1か月ほどしか経っていないのである。マリオメーカーコンピューティングのこれからも楽しみだが、これからもっともっと、このマリオメーカーで、面白いものが作られていくのだろうと思う。税金をかけて、大義名分をつくって、くだらない価値観のために、くだらない繰り返しの作業をして、これが研究なのだ!っと俺らが言い張っている間に。
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"Nuff Said !!"と思うなら

2015-10-24 02:18:57 | Weblog
 もしあなたが、カネのためにくだらないことはしたくない!と思うなら、物理学を勉強する他ないだろう。
 正確に言えば、はじめ、くだらないことに見える事柄のなかで、唯一、その後にも万能な技能を身に着けてくれるのが、物理学と言える。それほど、物理学を勉強することはオススメだ。

 それは、すべての学問に通じる、基礎的な考え方を教えてくれるからだ。というよりも、学問をするときの姿勢における基礎が完璧でなくては、物理学を理解することは、ただの一歩もできないのである。いやすべての学問は本来そうなのだが、物理学はより顕著にそれが出やすく、他の学問はなぜか誤魔化せてしまう、というのが正しいか。(長い笑)

 学問をする上での心構えとして一番大事なのは、「自分で考える」ということだ。
 何を読んでも、何を訊いても構わないのだが、「自分で考える」という非常に基本的なことを怠ってしまっては、絶対に本当の意味での思考力が向上されないのだ。
 この点については、小学校レベルから研究レベルまで、あまり変わらないと思う。自分の頭で考えられない人は、学問には向かない。そして、この性質が顕著にでてしまうのが、物理学なのだ。

慶應大学 理工学部 講義 熱物理 第一回 内部エネルギー


 例えば、物理学科の人であれば、必ず上の動画の51:30~の話を授業中に一度は訊かされる。「すべてを疑え!」ってやつだ。

 これは物理だけではなく、すべての学問の本質なのだが、どうにも物理学以外では、単純に「時間のムダ!」として扱われてしまうような空気であることが多い。いや、そんなんいっても、もうこれでたくさん報告されてるしー、とか、成り立っているからー、とか、正しいことなのにも拘らず、正そうとすると民主制を考慮したときにめんどくさすぎるから、1人をねじ伏せてしまえー、とやりがちだ。そんなんで理系と言えるのだろうか?
 有機化学は、電磁気学と量子力学を基盤とした学問なのにも拘らず、分極ベクトルの書き方がたいてい間違えている。量子化学の教科書の多くは、複素関数ではなく実関数として波動関数を導入していたりする。生化学では、準静的過程ではない現象なのに「静」電相互作用という表現をよく使う(こういうのは挙げてたらキリがない)。それで成り立つからいいじゃん!、この分野ではこう呼ぶのだ!、という言葉は、ただ単純に物理学をきちんと疑って自分の頭で理解しようとする努力を欠いているイイワケでしかない。そして、そういう誤魔化しは、まったく新しい現象の発見に対しての無理解に繋がり、不正確で不確実だがキャッチーではある、というような結果を歴史の汚点として残す、種となっているのだ。

 だから、物理学が理解できて、化学や生物学など、他の学問が理解できないなどということは、絶対にありえない。
 ちなみに、数学科の人が、いやいや物理学は数学科から見るとかなりテキトーだよ、っと言ってくるだろうが、実はそれは的を射ていない。物理学は現実的な自然現象としての正解に対しての柔軟さが半端ない学問なのだ。だから、物理学にとって、精緻なことはとても大事なことなのだが、だからといって、精緻だからそれが即ち一番良い!、というようなバカの一つ覚え的な要素は一切ないのだ。
 そういう意味で、考え方として他の学問にすぐ応用できる。というよりも、他のすべての学問も、本来はこうでなくてはいけないのだ。少なくとも、純粋理学としては。

 このように、物理学を勉強すると、思考力がついて、その絶対的な自信のおかげで、誰かに媚び諂う必要がなくなるし、何よりも自分の思考力をフルで使った決定に対して、絶対的な自信を持てる点でいいんだけど、、、なにせ、めんどくさいよね、物理って(笑)。
 疑え!っていうけどさぁ、エクセルの計算結果をいちいち疑って、線形回帰直線をいちいち偏微分から手計算で求めるわけにもいかないじゃない?(ちなみに誤差解析は物理学の一部だと思っています、俺は。)
 それに、ちょー難しい概念ばかり。その超ムズイ概念について、これまでのベースとして(←それも十二分に難しい)一か所でも理解していないと、足をすくわれる可能性が常に存在しているのだ。

 かといって、電流とは何か?、電圧とは何か?、という問いに、すぐさま一言で答えられない状態で、電気泳動するのもどうかとも思うし、どれだけの理系が、例えば「ロウソクに火が灯る」という超古典的な文明に対しての原理を理解しているか、怪しいものだとも思う。(もし理系の読者でこれらがわからなかったら、前者は高校の物理の教科書を、後者はファラデーの「ロウソクの科学」でも読んでくださいね)

 前置きが長くなりましたが(笑)、、そんなわけで、今日は特別大サービスで、俺が思う、「物理学を学ぶコツ」を一言でお伝えしたいと思います。

 それは、ずばり、「今わからなくても、とにかく、わかったことにして先に進み、わかりそうになったら、わからなかったことに戻ってきて、ひたすら自分の頭で批判的に考える」ということを繰り返せ!

 これ以外にはありませんね。
 ちなみに、戻ってくるまでに、めっちゃ早くて3日、長くて5年(いや、一生?笑)ってところでしょうか?理系はそれくらい根気がないとね。(そうそう、こういう時に、根気って使おうね。ただ同じことを繰り返すことを根気とは言いません)

 物理学をやってしまうとデメリットもあります。それは、なんでもかんでも批判的になって、あらゆることに対して、話が進みにくくなるということです。物理学科出身のみなさん、誰かが何かを言ったら、すぐに、「いや、」「でも、」っと言うのが口癖になっていませんか(笑)?しかも、この病は、治りません。
 そんなこと良いや、とにかく学問的に自由が欲しい!、と思うなら、物理学はマジでオススメです。というか、物理学をやるしかありません。

 予備校時代の物理の授業で
 「こんな基礎的な公式、覚えないで、入試を受けるヤツなんて、いないだろ?でも、点差がつくだろ?それは、、」
 という言葉が印象的だった。

 そこにこそ、暗記と理解の差はあるのだと思う。

 やらないことのイイワケをしていないで、とにかく、理解できるまでやってみてしまう価値が、物理にはある。
 そのうえで価値がない、と思うのなら、もうやめてしまえばいい。実際、俺は、ある意味で、その口かもしれない。しかし、自分が理解できていないことを価値がないと決めつけるのは、おこがましいのである。

 特に、若い世代で、カネのためにくだらないことはしたくない!、と思っている人は、物理学にトライして、思考力を自ら高めるしか、道はないと俺には思える。
 たとえ、あなたが、ミュージシャンになりたいのだとしてもね。

イーロン・マスク 「テスラモーターズ、SpaceX、ソーラーシティの夢」(特に、18:13頃~)

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本当の興味のために

2015-10-22 00:14:11 | Weblog
 メンタルにおけるディフェンスが強靭な相手の本性を確実にディテクトするには、そのディフェンスが緩む一瞬の隙を狙うしかない。
 その一瞬をいかに作るか?というところに、ある程度の先を読む能力と、場を支配する能力と、マルチタスク能力が必要だと思う。

 私がよくやる手の内は、突拍子の無いことをぶつけて、その直後のディフェンスがしづらい一瞬を使う。正確には2秒以内くらい。私は摂動を与えるほーは得意なので、ある程度信頼している誰かに事前にオブザーバーをお願いして、代わりに読んでもらうこともあるけれど、基本的には摂動を加えたら、私自身が自分でディテクトしなくてはいけない。
 ここまでするのに、突拍子もないことを言う能力として先は読めていないといけないし、それなりにコントロールしておかないとそういうチャンスすらでてこなくなるし、摂動を与えながら観察しディテクトするマルチタスクのセンスが必要になる。

 だいたいこれでディフェンサーから本性の部分を無理矢理引っ張ってくることができるが、稀にディフェンスすることに慣れすぎていて本質的な自分の時間が短い人については、これだけでは読めないこともある。
 その場合は、こちらが全力で本性をディテクトしようとしていることを、あえて暗に相手に伝えてしまう。そこまでのディフェンサーであれば、絶対にそれは伝わる。その上で、こちらが油断しているというフェイントをかける。つまり、相手は私がオフェンスしつくしているときディフェンスに全力を使うことになるので、私が別の相手に視点を移し、興味を失ったとディフェンスすることで、安心して油断しているところの表情を読む。先読み、場の支配、ディフェンスとオフェンスを同時にするマルチタスク、すべてが大変。

 まぁ確かに、、これくらいすれば、少なくとも相手が、誤魔化しているか誤魔化していないか、ウソをついているかついていないか、くらいなら、ほぼ確実にわかるけど、これを行使することもめんどくさいので、摂動無しですべてを読むようにできなくてはいけない。摂動を与えるのも、それなりにリスクはあるし。
 しかし、単純に謙虚に反省しなくちゃいけないなぁ。力が落ちてるのか、それとも今までのが甘々だったのか、わからないけど、けっこう本気でディテクトしようとしなくちゃいけないシーンが増えてる気がする。これくらいで本気を使っていたら、ヤツには勝てない。

 もっと真剣に、とっとと環境を変えないと、戦場に戻った時に、これではすぐにやられてしまう。
 自信がないくせにプライドの塊を請け負っている連中に対しても、いかに多角的に動けるか?すべては、本当の興味のために。
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あれれー、おかしいぞぉ?

2015-10-20 23:58:58 | Weblog
 議論しているときに、わざわざ相手をイライラさせてしまうような、絶対に使ってはいけない究極の論破の仕方ってなんだろう??
 まぁ、普段から思っているので最低ラインはすぐでてくるんですが、、

 『いや、そんなこと言ったって、どーせ死んじゃいますよね?』

 これを言うと、身も蓋もないので絶対にやめましょう(笑)。これを最低ラインにおいてるからこそ、思考力と行動力が活性化されることは多々ありますが、思うのと言うのと全然違います。俺が言うのもなんですが、思ったことをなんでもかんでも言やー良いってもんじゃありません。

 あと、論理的な議論の場だと、『それはあなた個人の意見ですよね?』とか『それはあなただけの意見ですか?それとも全体の意見ですか?』とか、こういうのもあまり意味がないです。よーするに、少数派を切り捨てようとしているだけなので、あまりに議論の発展性がないんですよね。っていうか、自分だけが思ってる意見をなんで言うたらアカンねん。その前提なんやねん。
 同じようなのだと、誰かが言ってたような気がしますが、『それあなたの感想ですよね』とかも、煽ってるだけというか。。あ!もう一つ、そういえばこれは実際に誰かに言われた気もしますが、『妄想をずっと聞かされてるんじゃないかという…』とかね(笑)。そんなん言うたら、われ思うゆえにわれあり以外は、全部妄想ですから。

 という、オフェンスしながらも自ら負けを認めてしまうような、でも議論が進まずに相手をイライラさせるような発言は、いくつかあるわけですけど、マジで相手をただイライラさせるのって何かなぁ。

 やっぱりここは、コナン君の「あれれー、おかしいぞぉ」かな。小学生風に。
 今度ふわっと言ってみようかな、学会とかで。ちっちゃい「っ」を入れずにね。

 論理的な議論の場では、冷静なほうが常に勝ちます。どんなにムカついても、冷静さを保ちながら、怒りを淡々と伝えるのがポイントだと思います。
 『あれれー、おかしいぞぉ?それは矛盾してるぞぉ?』

【神回!】灰原哀と江戸川コナンの「あれれ~、おかしいぞ~」 名探偵コナン Detective Conan
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学振に落ちたら

2015-10-18 04:33:28 | 自然科学の研究
 なんか研究ネタばっかり続きまくってますが、これもついでに書いておこうと思います。

 学振ってのは、正式に言うと、学術振興会特別研究員のことで、ガクシンって言った場合は、普通、博士課程1年生から3年間月額20万円貰えるDC1と、博士課程2年生もしくは博士課程3年生から2年間月額20万円貰えるDC2のことを言います。学術振興会自体は、別にそれだけの組織ではなく、基盤研究や若手研究などの予算を出していたりするのですが、なぜか学振って言った場合は、DC1とかDC2のことを言うことが多いです。学振にはPDもあるのですが、その場合は、学振PDと言うことが多い気がします。

 っで、たかはしけいは、学振とってたの?
 いいえ。いっさい。これで話を訊く気が無くなった方は、どうぞ戻るボタンを押してください(笑)。博士課程在学中にDC2を2回出しましたが(D1とD2のとき)、一度目は不採用Bで、二度目は面接になって補欠になって落ちました。

 最初のDC2のときは、素直に自分って実力ないんだなぁと思って落ち込みました。二回目は、DC2なのに面接に回されて(かなり少数派です)、それから12月には結果がでるって聞いてたのに補欠で、2月に最終結果が来ると言われ待たされた挙句、2月の最後の週の前半に採用者向けの通知が届き、どういうことなの?っと思って学振に電話で連絡してみると、かなり待たされて一言、手違いですって言われて、結局不採用でした。

 これのせいで、結構、精神的に不調でした。
 っで、この不調を癒してくれたのは、最初のDC2のときは、教職の介護等体験のデイサービスで出会った職員の方とおじいちゃんおばあちゃん達。自分に実力なんて無くても別に良いや、って思わせてくれたのは、DC2落ちて直ぐに伺った介護施設にいる人たちだ。あの時期に介護体験で本当に良かったと思う(文科省の政策に踊らされてる?笑)。そして二回目のDC2のときに癒してくれたのは、STAP事件(笑)。

 で、落ちるといろいろな人が、いろいろ無意味なことを言ってくれるわけですが、研究業界の人たちは、ごめんなさい、正直、誰のどの言葉も、まったく俺に響いていません。助けてくれたのは、他の人たちです。まぁ、悩みを打ち明けたりしてるわけでもないんだけどね。

 二回目のときは待ち続けるだけの現状に、けっこうイライラしていました(ただ、あの時期は他のことでもイライラしていたので、必ずしも学振だけでも無いけど)。それは、採用不採用の決定が引き伸ばされ続けていたからだと思っています。学振を否定することも肯定することもできませんからね。落ちたとき、1週間休業宣言をして休んでいましたが、そのときが一番スッキリして、いろんな意味で楽しんでいたかも。

 落ちて、例えば、「文章の書き方を、誰にでもわかりやすく、書けるようにならなくちゃいけない」とか「業績項目を増やすために、とにかく論文を出さなくちゃ」とか、よく言われていますが、それに対して俺が『でも、そんなことをするために、大学院に来たわけじゃないでしょ?』というと、たいていの良識ある大人な方たちは「お金を貰うんだから、それは仕方ないでしょ?」的なことを言います。
 たぶん、ここで思考を止めるのは少々もったいなくて、ぶっちゃけ博士課程にいる人って、そんなにお金に困っていないでしょ?本気で緊迫している人って、います?そりゃ俺も例外は幾つかは知ってるけど、学振取らなきゃ、って思うのは、大多数はお金の問題じゃない。よく、科研費をとるときの話を引き合いに出す人もいますが、これも的外れで、研究にしか使えないお金と、自分が完全フリーで使えるお金は、まったくの別物である。

 学振取れないと怖いっていうのは、博士課程というある種のモラトリアムだと世間から思われていることに対して、月額20万円を一過性ながらも安定的にゲットできるという、世間体から来るもの、かつ、有能である自分を認めてほしいという気持ち、だと思う。
 よくよく考えてみると、俺はどちらも要らないので、そう思えたときに、やっと吹っ切れた。もちろん、どうとも思っていないと言ったらウソであるけど、こうしてブログに書けるくらいには、どうでもよいのは本当であると思う。

 学振というのは、まぁ、審査は杜撰だと思うし、だいたいDC1に至ってはM2の5月とかに書くわけで、研究室を変えてストレートで行こうと思ったら絶対に無理だし、論文書いてたら有利って言うけど、学部4年生とM1で論文書いてるって、よほどの天才か、よほど要領が良いか、よほど言われたことをやってる奴隷か、そのどれかだろ。で、よほどの天才の割合は5パーセントに満たないと思う。
 学振の悪口なら(おそらく俺じゃなくても)いくらでもでてくるが、一番大きいのは、そもそも1年後の研究計画を書くって、どうよ?

 「で、この○○の話っていうのは、どう関係してくるわけ?」
 『いや、この式は、そういう意味じゃありません。ここがこうなって、こっちの影響がこれくらいでるだろう、という式です(っていうか、俺、そもそも一言も○○って言ってねーぞ、こいつ俺の話聞いてたのか?)』 
 「じゃぁ、それはいい!!では、□□については、知ってるんですか?」
 『(ぜんぜん関係ないじゃん!俺、そんなことについて、全然何も話してないんだけど?)えーっと、□□については、うろ覚えですが、△△ではないでしょうか?』
 「違う!」

 みたいなやり取りが学振の面接で行われた。学振の複合領域の面接官に選ばれる教授は、高校生程度が理解できる数式を理解しようともせず、ただ自分の知識だけで押し通してくる、知識自慢のバカでも選ばれるのか、と思っていると、なんと他の2人の審査員がコメントする時間がこのバカのせいで無くなってしまった。
 無能な人間に審査されながら、自分の研究を最大限よさげにアピールし、老眼の先生にも見えるくらいの文字の大きさと図の大きさで申請書とスライドを作ることが、月20万円に直結している。

 それを、くだらない、と思うのも、お金は大事だ!、と思うのも、俺次第。

 あれから、本当にいろいろなことを考えた。民主主義の問題性、考えることを諦めたバカが大多数である場合に、本当に重要な研究を遂行していくことは難しいだろう。多数派が正しいということにはならないのがフロンティアラインを広げる行為をしている研究の難しいところで、「医療」って言ったり「環境」って言ったりしてればキャッチーになるかもしれないが、実際問題それを突き詰めたときに、どうなってしまうかをまったく考えていない。キャッチーであるということが、わかりやすい、ということになっているのだ。
 俺は、これはいつも言ってることだが、物事を考えることを停止させた人間に自らの研究内容を一生懸命にプレゼンテーションする必要はない、ただし、考えていることを諦めていない人には自分の研究内容を絶対にわかってもらうようにプレゼンテーションしなくてはいけない。しかし、国の研究の最高機関であるはずの学振の、その未来を担うであろう特別研究員の審査員であっても、物事を考えることを停止させた人間は確実に存在している(俺の審査にいた人のことだけを言っているのではなく、それ以外のあの世代について言っている)。

 それに、そもそも、俺らは、何か(論文や申請書)に「書ける」というために、科学者を志しているわけではないだろう!
 「書ける」「書ける」と繰り返し、それが得意技能、ましてや文章作成能力こそが研究者として必要不可欠なスキルだと得意げに語っている姿は、本人たちが思っている以上に滑稽だ。情けなく語るならまだ良いが。

 だがしかし、すべての怒りは、自分の能力に向けられている、と言われるが、あの時の俺も、自分の能力に対して怒りが向けられていたのだと、しばらくして悟る。

 それは、論文を1本でも書いていれば、とか、文章作成能力が、とか、ましてや研究遂行能力が、とかではなく、俺自身が、自分で金を稼いで、それをサイエンスとして運用するという独自の経済的な原則の必要性をいっさい無視して、誰か(この場合、学振や指導教員)にこの部分を丸投げして誤魔化して、自らの経済原則を確立させようと努力していなかった、ということだ。そういえば忘れていたが、俺は、これに気が付いてから、とりあえず、簿記を勉強し始めた。

 今、論文が3本あると、周りからの評価のされ方が全然違うことに、はっきり言ってムカついている。それまでの俺と、今の俺と、テメー程度が見えている実力については、そこまで変わっていない。

 というわけで、学振をとってるから優秀だとも思わないし、学振をとってるから優秀じゃないとも思わないし、学振をとってないから優秀だとも思わないし、学振をとってないから優秀じゃないとも思わない。
 研究業界にいる、ほぼすべての人間が、国の予算の奴隷であり、そこに縛られている以上、誰もが優秀ではなく、まだまだ、ただのバカだと俺は思う。

 いま学振PDと同じかそれ以上くらいの額を貰っていて、間接的に学振のお世話になっているからこそ、吹っ切れられているのかもしれないが、、それ以上に本心として、自分や誰かが、優秀か優秀じゃないかとか、どうでもいい。そんなことよりも、みんなで楽しく、ものづくりを楽しみたいなと思っている。
 そして、また違う風が吹き始めようとしていて、それが好転すれば、周りからの評価もまた上がるだろう。それが好転しようが暗転しようが、もちろん好転すれば今よりも理想に近くなるであろうが、根本的な問題が何か解決されるわけではない。

 『あの、はっきり言いますけど、あなたたちの手違いによって、俺の学術は、今日、いっさい振興されていませんし、むしろ邪魔です』

 と電話口で言い放ったとき、研究において、いや、自然科学において、独自の経済原則を確立させられるまで、多くの学術は正しく振興されないだろうなぁ、と思った気持ちを、俺は忘れてはいけないと思う。

 今、あなたが学振に落ちて、何らかの形で傷ついているなら、気持ちはそれぞれだろうし、何かの気持ちを汲んであげることはできないが、俺はこう言葉をかけたいと思う。
 『とことん思い悩め!考えつくせ!』

 それが未来を創るし、そこに価値があると思うし、俺自身、その部分にとても期待している。

 (あと、今日はかなり身を削ったはずなんで、アクセス数期待してます笑)

(2016.8.10 追記)
 たくさんのアクセス、有り難う御座います。
 以下、お気軽にどうぞ。

研究室関連での悩みについて、私に直接相談したいと思ってくださる場合は、相談内容を明記の上、こちらにメールしてください(_attoma-ku_を@に変えて送信してください)。基本的にどんな相談もお受け致します。匿名で構いませんが、所属や名前を仰ってくださったほうが、相談にはのりやすいです。相談内容は決して口外しませんのでご安心ください。
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スカイプでの相談もはじめました!ネットでは絶対に書けない裏事情を含め、スカイプであれば、無料で真摯に迅速かつ最大限論理的に、あなたの相談にのります!!私がこれまで実際に接してきた研究分野(物理学、化学、生物学、情報など)や見聞きしている領域、内情を知っている研究室についても、できる限り詳しく回答します。ご希望してくださる方はお気軽に上のアドレスまで、あなたの本名をお書きの上、メールしてください。私から相談可能時間とスカイプIDを送ります。皆さんの相談をお待ちしております。
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研究テーマの見つけ方 -研究テーマを決める上で気を付けるべきこと-

2015-10-14 23:27:29 | 自然科学の研究
 さて、今日は久しぶりに、腹くくって書く感じの記事です(笑)。お前がそれ書くんかい!という皆さんの心のツッコミを極限まで無視して書いていきます。この記事はアクセス数が良ければ、書き足していこうと思います。

 「研究テーマの見つけ方!」

 について、かなり普遍的に成り立つことだけを書いてみようと思います。えーっと、ちなみに僕は理系ですが、今回は文系の方もテーマを決めるときにも成り立ちそうなことを意識しながら書きます(書けてるかどうかは別)。
 卒業研究、卒業論文、修士論文、博士論文等の学位がかかってる研究テーマの設定の仕方についてはもちろんのこと、その先、ポスドクだろうが、助教だろうが、講師だろうが、准教授だろうが、教授だろうが、その後であろうが、どんな立場でどんな分野であっても、研究テーマを決めるときに、これは普遍的だろ!、と思うことだけを、重要度順に書きます。


 1.タイムリミットを意識する

 まず打算的な視点から。

 卒研だったら1年、修士だったら2年、博士だったら3年で、絶対にそれなりの結果を出さなきゃいけません。テーマを決めるときにまず考えるべきことは、「このくらいの時間、研究する時間があるな」ってことです。タイムリミットの設定は、人によるし、分野によるし、立場によるし、プロジェクトによります。でも、学位だったら上に書いたことで確定だし、それを学生に与える場合でもそうですよね?

 つまり、例えば、超すごい研究テーマをする(してる)んだから、ということを大義名分に、あなたは留年します!ということを正当化してはいけません。これは学生側の責任ではなく、完全に教員側の責任です。っていうかむしろ、研究指導をする教員は、教育としては、時間管理だけやってりゃ良いんじゃないかというくらい。あとは各学生が、自分で好きなように能力を身に着けて(そのときに指導教員から能力を盗んでもいいけど)、なんらかの結果を出して、それが学位に値するかを評価すればいいと思います。
 「それはやってもいいけど、卒業が延びるよ?」「そのテーマは時間がかかりすぎるわりに良い結果が期待できないと思うけど、やりたいならやれば?」と現実的な提案をするのが指導教員の役割だと思います。

 この時間内に、最悪でも、これくらいの結果が、これくらい(80パーセントくらい)以上の確率で出るから、タイムリミットには十分に間に合うはず、ということを設定するんだということが、イコール研究テーマを見つけ設定するということなのです。タイムリミットを自らの死にするのだとしてもね。

 かといって、研究は誰もやったことない、上手く行くかわからないことをやるわけですから、この時間で100パーセント絶対にこの結果がでる!、というのだと、研究になっていませんので、ご注意を。それは、研究ではなく作業です。
 まぁ、たとえ上手くいかない割合が20パーセントでも、現実としてタイムリミットまでに結果が出なければ、本人にとっては100パーセントになっちゃうから、この辺りが、研究テーマを決めるうえで、めちゃくちゃ難しいところだと思うんだけどね。

 2.一緒にやる人を決める

 これはあまり説明が不要かもしれませんが、一緒にやる場合は、一緒にやる人を決めましょう。一緒に研究したい人と楽しく研究してね。
 順番が大事ですが、研究する時間を決めた上で、一緒に研究する人を決めましょう。もしくは、一人でやる、ということを確定させましょう。

 これも時間がかなり大事で、極端な話、相手が一生かけてこれをやる、と思っているような人で、こちらが卒研の一年間だったら、上手く行くはずがありません。現実的なことで言うと、例えば、こちらが就職決まっている大学4年生で、共同でやる卒論のペアが、なんらかの理由で留年しようと思っている人だとします。そうだとすると、相手はもう一回卒論してもいいわけですから、あまり上手くいかないんじゃないかなぁということです。
 急いで付け足さなくちゃいけないけど、もちろん、相手が、こちらのことを考慮してくれるような相手だったら良いですけどね。

 これは大事なことですが、タイムリミットに余裕のある相手が、タイムリミットに一切余裕がないこちらに対して、合わせてくれそうか?、ということは、とってもとっても重要です。
 たとえ研究の途中でも、相手が、こちらのタイムリミットよりも、得られる業績の質を選択しようとした時点で、その人との共同研究は強制終了させるべきでしょう。特に学生の場合、1年無駄になるということは最低でも1年間の授業料分は無駄になるわけです。そんな、こちらのことを一切考えていない相手と研究をしていても良いことはありません。新しいことを今からでも始めたほうが満足する可能性が高いです。その相手が指導教員でないことを願うばかりです(笑)。

 3.その環境での最終出力方法から考える

 主に、理系の実験系の研究室だったら、自分が使える実験装置にあたるものを意識しましょう。そこからしかデータは出ません。どんなデータが得られうるのかを、まず考えましょう
 理論研や文系の研究室でも、ある程度、同じだと思います。ソフトウェアや言語、どういう(統計的な)解析or(論理的な)考察をするのか、どういう分野の文献を参考にしようするのか、、テーマのストーリーを決めるのは、そこからだと思います。理論研の場合は、計算時間を意識するという部分もあるかもしれません(って、それは1か笑)。

 現実的に、何を測るのか?、何を掃き出すのか?、ということを決定しないといけません。こういうときに、まだ、目的とか、こういう価値観が、こういう先行研究が、等ということはあまり意識しなくていいと思います。まず、論文として、もしくは発表として、「結果」にあたる部分として、成り立つかどうか?ということが、大事です。

 4.明日、何をどう進捗するかを決める

 ある研究において、常に、次何をするべきか?、がわかる状態である人は、修士号に値します。
 こんなもの測定しよう!、この式とこの式を自己無撞着に解いたらどうなるかな?、これについてアンケートとろう等、とにかく、小さなことでも、これをとことん調べるぞ!、と思ったら、とにかく明日やることを探しましょう。それを毎日積み重ねられたら、いつの間にか研究は終わっています。

 明日何をするか?ということがわかっていないのに、申請書だけは立派に書いても仕方ありません(そんな申請書は通らないと思いますが、、だいたいの審査はテキトーだから通っちゃうこともあるんだろうなぁ)。
 科研費を申請する場合は、あとはカネさえあれば、一気にがっつりと進捗しますよ?、というところを見せないといけないと思います。よーするに、ここでも時間ということはあるのですが、通ったらこれをやるからー、という姿勢ではなく、今のこの時点で、ここまでもうやっちゃってます!というところを、見せたほうが良いと思います(これは研究に限らず、投資してもらう時の基本)。

 明日、あの人と話そう!、でも構いません。とにかく今できることを考えろ!、ってやつです。

 5.そのテーマの最終目標を設定する

 明日やることが常に決まっている状態で、最終目標を模索しましょう。この最終目標は大きければ大きいほど良いです。別にタイムリミットまでに達成される必要はありませんが、とにかく、このテーマはこれを目指しているんだ!ということを考えなくちゃいけません。
 なぜなら、それこそが、あなたのオリジナリティーであり、ここがあるからこそ、研究の方向性があなた色に染まっていくからです。

 だって、どーせ、指導教員や上の人やボスの下でやってるんでしょ?私はそのボスだ!という人も、そのさらに先の目標を考えないといけませんよね??
 例えば、教育社会学でスクールカーストについてテーマを遂行していたとする。スクールカーストの実態とメカニズムを調べることで、何を明らかにしたいのか?、を考える。例えば「人間は平等なのか、不平等なのか」を明らかにしたいと思ったとしよう。だとしたら、さらにそれを生命体のシステムとして考えたいのか、それとも人間の性質としてそうなのかを考えたいのか、それともそれを利用して「いじめをなくす」、さらには「世界中から紛争をなくす」ということが最終目標なのか、それはあなたの個性次第で、いかようにも方向性を定めることができる。

 そういった考察をきちんとし尽くせば、俺は、現在どんなクソみたいな研究テーマであっても、すべての研究テーマには価値があると思います。もしくは、やる人が変われば。

 6.無限に金持ちだったら、自分は何を研究するかを考える

 さて、ここからは、完全に打算ではない部分です。まぁ、テーマ見つけなくちゃ!と思って、ここまで来るのに、めちゃくちゃ早くて5日間はかかると思いますが。
 テーマが決まった!と思ったら、これを考えてください。「無限に金持ちで、今までやってきたことも所属も一切関係ないのだとしたら、自分は何を研究するだろうか?」

 それは、人によっては、今さっき決めた研究テーマかもしれませんし、全然違う分野かもしれませんし、「俺はAKBを研究したい!」と思うオタクさんもいらっしゃるかもしれません(笑)。それは全然いいのですが、大事なのは、今さっき決めたテーマと本当にやりたいこととが、どれくらい乖離しているか?、ということを認識することです。
 これをするかしないかで、方向性がまた変わってきますし、さらに次テーマを決めるときにも、参考になります。

 現実的なことは結構なことで、それはそれで大事ですが、大切な時間を使って研究するわけですから、本当に研究したいことという価値観を大切にしてください。
 研究者は、とにかく俺はこれやりたいんだから、そのために必要な分だけ、カネくれ!という態度で良いと思います。この分野ではこれが必要だから、とか、JSTにこういう領域があるから、とか、そういうことは一切考えずに、とにかく、自分がやりたいのはこれ!、と思うことも必要です。それが実現されなくてもね。

 こう思って、決まりかけたテーマがグラついたら、また初めから考えましょう。決めたから!っと突っ走って、1~数年を無駄にするよりはマシです。

 7.人生であと何回テーマを決めるかを考える

 研究テーマ決めるのって、多い人でも人生で100回以下なんじゃないかなぁと思います。
 研究テーマを決めた瞬間に、どの(レベルの)ジャーナルに載るのか?、ノーベル賞がとれるか?、などは、ほとんど決まっていると言っても、過言ではないと思います。
 もちろん、方向性とかあるので、それだけじゃないですが、それくらい大切なことです。

 あまりにもくだらないことをしなくてはいけない状況の場合、エフォートは最低限でいいと思います。
 よーするに、最後は、エフォートを決めるということでもあるんですが、、他のテーマもいつからでも設定できるし、研究以外にも面白いことはたくさんあります。特に4年生や修士で卒業する人は、旅行に行ったり、友達としゃべることだって、人生において価値あることです。ただし、研究ってことは最後かもしれないから、だからこそ、もう一回テーマの設定そのものを考え直す、っていうことも良いと思います。

 どんな立場であれ、人生でそんなに多い機会じゃない、研究テーマを見つける、という時間帯を尊く思いながら、大切に決めて、楽しく研究してほしいと思います。


 ということで、順番に7つ挙げてみました。
 うーん、やっぱり、テーマ見つけるのって、改めて、大変ね。それは、卒研だから、とか、予算とらなくちゃいけないから、とか、そういうことじゃなくて、本質的に、難しいことだと思います。

 でも、研究って、たぶん、現代で、裕福な人が一番したい行為です。だから、それを幸せに思えたら、勝ちゲーかもね。
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国際化とタメ語

2015-10-13 01:49:54 | Weblog
 当たり前のことだが、国際化と掲げながら、タメ口にイライラしていてはいけない。
 こういうことは研究の世界ではかなり寛大だが、一般社会ではまだまだ成り立たない。

 権威者とかおじさんが、少なくとも表面上は、偉いままの構造をとっていないといけないのである。あと、たいていの女性も、「成り立っている」ということそのものに固執する。こちらが単純に正しいからという理由で、その部分を責めると、偉いままなのが成り立っていない!、私が姑息だと思われた!、ということそのものに対してキレられることもあるのだ。

 まぁ、だからって、タメ口をいっさい使わない、ってのが良いとは全然思わないし、敬語をきちんと使って正しいやり方で正しい部分を主張するってことが大事だとは思うのだけど、、それは俺自身に対してだけ思うようにしようと、心がけている。
 それよりも、空気を読まないで、距離感を一挙に詰められるほうが、ダメダメ。そのほうが、相手がどんな奴であれ、イライラするのである。

【放送事故】ダレノガレ明美「タメ語やめな~(笑)


 「けーくん、ちょっと、これ持ってて」
 『はいはい』
 《っていうかさ、彼。本当に、お前に対してタメ口なんだね》
 『やっぱ、まずいかな?笑』
 《お前が良いなら良いんじゃない?》

 ちなみに、俺よりも年下のみなさん、俺はタメ口でも一向に構いません。ですが、おそらくある(俺が言葉に詰まった)タイミングで『っていうか、なんで、タメ口なん?』と理由は訊きますので、面白い回答を期待しております。
 普段敬語とか使って完璧で、正しいということにも無難さを彷彿とさせる人物が、突然ブチギレするほうが、よっぽどめんどくさいし脅威だし怖すぎるから(そういうシーンはここ数年多い)、それよりは、敬語使えない失礼なヤツのほうが、何億倍もマシ。

 国際色豊かになろう、と心では思ってても、タメ語くらいちゃんと使えよ!、と思ってしまう心の矛盾を、俺の中で、もう少しすり寄らせないといけないなぁと、中途半端に日本語が使える、年上の外国人と話していると、よく思います(笑)。
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The RDF

2015-10-12 03:19:06 | Weblog
 「ねーねー、なんで髪の毛茶色にしたのー?ねー、なんでなんで?」
 『なんで?って言われても。。おめーも茶髪にすればいいじゃねーか』
 「えー、やだよ。だって、学校で、カッコつけだって言われちゃうもん」

 何年か前に小学生の実験教室のアルバイトを、かなり短期間していたことがあるんだけど、小学生は本当に色々なことを教えてくれて、今でも思い出しては、思考すべきだと感じることがあったりする。
 髪を染めるっていう行為がカッコつけだって思われて、異性や友人関係のヒエラルキーを意識している、ってそれ自体の感情が恥ずかしい、って感覚を、大人になってから、すっかり忘れていたのだ。何が恥ずかしくて、何が恥ずかしくないのか。特に俺が、恥ずかしいかもしれない感情を、社会性の中の大義名分として相手に打ち明け続けてきたからこそ、何がどう思われるかの教科書が自分の中ですっかり完備に構築されてしまい、こういった純粋な感情を抱くことを忘れてしまったのだと思う。

 相手が何をどう考えているかはわからなくても、相手がどう思っているか、どう感じているか?、くらいなら、何も言葉を発さなくても、だいたいはわかるものだ。
 もちろん、その予測だけで突っ切って、相手に迷惑をかけることは避けなくちゃいけないけれど、、例えば初見の相手やどうでもいい相手に対して、その先、話を訊く価値があるかどうかの判断を冷酷に下すことに、俺は躊躇いはない。よーするに、俺の前によく現れる類のくだらないヤツ、、つまりは、単純に俺を負かせてやりたい、ヒエラルキーの中でねじ伏せてやりたい、と思っているヤツを、初見で一瞬にして見抜くだけの能力は身につけておかないと、このスタイルではやっていけないっということ笑。

 何をどうしたいのか?、ということに対する価値基準が、競争そのものになっているような感情の場合、俺(ら)は完全に拒絶することが多い。
 なぜなら、それは未来をいっさい創造しないからだ。競争やヒエラルキーそのものが価値基準になってしまっている場合、「髪を染めたら、カッコつけだって言われる」とビビッている小学生とカワラナイんだぜ。

 特に若い世代、特に研究者や芸術家、が、この競争という軸を一番に掲げてくることは、とても滑稽であり、くだらない。あまりにも、カネを得るためには、と言ってみたり(まったく言わないのも、それはそれでどうかと思うが)、研究の世界は厳しいから、とにかく論文をたくさん書かなくてはいけない!、と自分の職が安泰な教授が言っていたりすると、まったくもってキレイゴトで、こちらにとって有益性がないなっと思うのである。
 自分の生活がマジで明日からは存続できないような危機に直面した経験があるのなら、まだ、いざ知らず、そうなってもいないし、そうなる予定もない偉そうな先生、もしくは、そんな先生を崇拝することで生活を成り立たせているような人間が、「研究の世界は競争が激しいから」と言うことは、他の若手にとって、他の学生にとって、現実味がないのである。

 それは、自分はこうやって生きてきたから、それを見本に皆生きるべきだ、という自らの経験を普遍化するための(無駄な)押し付けでしかない。そういうスタイルをとることこそが、若者が(少なくとも短期的な)成果を上げやすいと感じさせてしまう中高年もどうかと思うなら、それを有り難がる若手もどうかと思うのである。

 若い世代、研究者、芸術家は、新しい価値観が創れて、なんぼ、なのだと俺は思っている。

 (最近研究の世界にしかいないので、例え話が研究での例しか出てこなくて、まったく情けないことだが、、)論文を書くということが至上価値となっている腐った研究社会を、価値観として新しい表現手法が創造できなくてはいけない。
 だから、はっきり言って、論文なんて、無駄に書いている暇はないのである。科研費の申請を「誰にでもわかりやすく」とキレイゴトを並べながら専門用語を使いまくり、自然科学の基礎である高校数学や高校物理もまともに理解していない状態で、くだらない大義名分ばかり並べて、有用性を偽にならない範囲で最大限にアピールしているような暇もない。そんなことをしているくらいなら、積分がきちんとできるように勉強するほうが、実験の実情がどのようになっているかをしっかりと知ることのほうが、何十倍も役に立つ。

 どんなにSNSをやらなくても、一回ググれば自分の情報は吸われちゃうし、自販機で飲み物を買っただけでも、情報が吸われてしまう現代。そんなこと、10年前に、誰が想像できていただろう?これから、おそらく、人類が経験したことのないほどのスピードで、もっともっと、あらゆるものが変わっていってしまう。
 そのときに、本当に必要になってくるのは、小手先の、誤魔化すための能力ではなく、本当にきちんと基礎から理解し、それらを応用し、価値観を創発できる力である。そして、そんなこと以上に、もっともっと重要なのは、信頼関係をどれだけ深いレベルであらゆる人と結べたか?、ということだと俺は思う。

 圧倒的な信頼関係のなかで、ものづくりをすることは、本当に楽しい。それが一過性のものであってもね。そして、そういうものづくりを、これからも、たくさんできることが、俺は楽しくて仕方ない。
 この楽しさを知らない人に、どんなに言葉で伝えても、きっと伝わらないんじゃないか思うのだ。人間は、はっきりと具現化して見せてあげないと、自分が欲しいものがわからないのだから。

 俺は、その助けになるような、本当の意味で本当に実力のある人しか、自分の仲間として求めていない。その人たちと、いつか、助けに訪れられたらと思う。
 現実に対して次元を超えて無理矢理に変えられるだけの能力が俺にあるかどうかわからないけれど、、今やらなくては明日は死んでるかもしれないという気持ちと、論理的に相手のことを考えたときに決して今ではないという気持ちを交差しながら、、とにかく、自分の純粋な目標だけは理想として忘れないようにしたいと思っている。
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祝10周年

2015-10-06 20:57:59 | Weblog
 というわけで、ブログ開設10周年です。
 ちなみに、記事は2005年10月7日が最初ですが、開設は10月6日(だったはず)ですので、今日で良いはずです(笑)。

 いやー、あっという間ですね。っていうよりも、浪人してた頃から、いつの間にか10年も経ってることに驚きですが、、そりゃ10年も経ってるんだから、こんなに頭も良くなるわなぁ。。

 ちなみに、10周年をお祝いして、、ってわけでもないんですが、メールアドレスを公開します。

 soudan.atamanonaka.2.718_attoma-ku_gmail.com

 ブログ用にメールアドレスをわざわざ作ったので、お気軽にご意見ご感想を送ってくださいねー。どーせ誰も送ってこないだろうし、レスポンスは良くなるだろうと思います(あまりにも誰も送ってこないと悪くなるだろうけど)。_attoma-ku_を@に変えて送ってきてください。特に「研究室の選び方、やめたい理由」で相談用に作ったのですが、とりあえずは、どんなことを送ってくださっても構いません。
 昔からの人は、懐かしい言葉がアドレスに入ってるなぁと思うかもしれませんが、なんとなくまた使ってみました。

 というわけで、読者のみなさん、これからも、よろしくね。


 っつーか、定期読者は、たまには、10周年おめでとーございます、くらい、コメントしろよなっ!(笑
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石の上にも三年

2015-10-05 02:07:22 | Weblog
 最近、世間体や社会的な無難さによって、仲間を奪われることは多い。
 それは時間の使い方という意味でもそうだし、「言葉」を得るために本当の気持ちを誤魔化して行動をとらなくちゃいけないこともそうだ。理不尽さを当然のことと見做す現代社会において、多くの大人が社会とはそんなものだ!と、そんな理不尽さを享受している自分たちだけで成り立っていると勘違いしている一方で、その不利益を利益のあるものに変えて補っているのは、他でもない俺自身だ。

 不条理さなんてありふれているから、とほったらかしている無難さを最も体現している大人に云いたいことはただ一つ。自分が失敗すれば、相手が死んでしまうかもしれない恐怖を味わったこともないくせに、偉そうなことを言うな。

 まぁ、でも、いくら社会が歪んでいるとはいえ、現代人、特に若者に、辛抱強さが足りないことも事実であると思う。
 自分が描いた夢に対して、ほんのちょっとも信じ切らずに、ただただ世間にアジャストすることを選んでしまうことは、大変情けないことだし、もうちょっと耐えてみろよ、と思ってもいる。

 石の上にも三年。自分の想いと、その場所で、とにかく辛抱強くしていれば、忍耐強くなり、冷たい石でも暖まっていくことを、もっとよく知るべきだと思う。
 どんな場所であっても、やはり何年かは所属していないと、その世界の価値観の本当のところはわからないと思うし、技術も盗めないのだ。

 ただし、、その場所が、本当に「石」の上に成り立っているのであれば、ね。
 石の上ならば、石の上にも三年、であるとは思うが、その場所が、一見「石の上」に見せかけていて、乗ってみたら実はその石が底なしの沼の上に置いてある石だとわかったなら、1秒でも早く飛び降りなければならない。こういう場所ほど、その沼地の支配者を神格化しており、よその世界をまったく別の論理で動いていると信じており、いればいるほど抜け出すことができないような甘い蜜を吸わせるものだ。

 自分の価値や自分の気持ちをきちんと構築していないから、沼の上の石に何十年も居続けるような人生を当たり前に思ってしまうのだ。
 そして、それが人生ってものだ、その泥沼を受け入れるのが大人になるということなのだ、それこそが生き続けるために必要なことなのだ、と勝手にてめーの経験を一般化してんじゃねーぞ。ホンモノの愛に接しながら、自分の気持ちのままに楽しんでいれば、そんなに不安な想いをすることもない。

 そんなときこそ、自分は特別な存在だ、って思い続けることだと思う。
 その覚悟があれば、いつだって自由。

 『これで、当初の目的は達成したな。やはりヤツは手強い。一筋縄どころか、何重にも対策を考えなくちゃ勝てないぞ』
 「高橋さんのわりには、時間がかかりましたね」
 『あぁ。思ったよりも楽しめてるよ。それなりに想定外のこともあったし』
 「ちなみに、どうですか?わかってて沼に入った気分は?」
 『最悪だよ(笑)。まさに、"まさかここまでとはな"、、ってね』
 「ウラは取れたし、高橋さんの言う通り、別の話も来ました。さて問題です。この話と、あの人と、どちらをとりますか?」
 『どちらかしかとれないなら?ってこと??』
 「そうです」
 『俺はどちらもとるつもりだけど、どっちかってんなら、決まってんだろ。自分が好きな対象に対して、どこまで本気でより良くできるか。そこにしか、生きる意味はない』
 「さすがですね。この程度では、高橋さんは、ブレませんか」
 『当然だ。向こうが下手に来なけりゃ、こっちから願い下げってレベルだからな』

 俺自身は、優秀だし、能力もあるし、やる気もあるし、信頼関係の絶対量ももう十分にあるから、変に誰かに媚びる必要もない。
 問題なのは、優秀だが、現在は能力とやる気が欠如している、大好きな対象に対して、どのように自己実現できるだけの環境を紹介すればいいか、もしくは環境を俺が作ればいいか?

 そんなこと言ってるから、所詮、精神構造が小学生なんだよ、という声に対して、どーせ俺はお子ちゃまですよ、っとそっぽ向きながら、意識の焦点だけはあなたに合わせて、冷酷に表情と声色を読み取っている自分を感じると、俺も老けてしまったな、っと反省してみる。

 そして、待ちきれない季節の中、歩き始めてみる。

Yui - My Generation
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情報の再分配を終えた先

2015-10-03 02:41:59 | Weblog
 任天堂がマリオ30周年として発売したスーパーマリオメーカーが面白そうで仕方ない。というか、実況動画とか見てると、見てるだけで面白い。
 アイディアとしては、単に、「自分の好きなようにブロックや敵を配置できて、オリジナルステージを作ることができる」というだけなのだが、本当にすごいのは、これがインターネットに繋げられて世界中の人たちが作ったステージを遊ぶことができるということだ。

 とりあえず、知らない人は紹介動画を見てもらいたい。

スーパーマリオメーカー 紹介映像


 このゲームの登場は、任天堂はもう金輪際、単なる二次元のアクションゲームを作ることはしませんよ、っと宣言したに等しい。

 なぜか?それは、数十人から数百人規模のゲームクリエーターである専門家よりも、圧倒的に数の多い素人集団(WiiUの販売累計が1000万台くらいなので、まぁ数百万人くらいと仮定できる)のほうが、遥かに面白いステージを作るに決まっているからであり、そんなことをプロである任天堂のゲームクリエーター達がわかってないわけがないからだ。

 前に初代のスーパーマリオブラザーズをC言語で書くと7000行ほどで書けると聞いたことがある。マリオメーカーが発売される前にも、自作の改造版マリオは数多く動画サイトに出回っていた。そういったことに詳しくないので具体的にどうやるのかは知らないが、改造版マリオを作れる専門家たちは、もちろん最初から全部を作ったわけではないだろうが、おそらく、それに近い知識がなければできない。それをわざわざ、任天堂本人が、いわば「キット化」してしまったわけだ。
 そして、ゲーム程度のことであれば、(それを長年専門にしてきた人には悪いが)おそらくは、素人がマリオメーカーという名のキットを使ってステージを作成するほうが、遥かに面白いものを作ってしまうだろうと思う。なぜなら、製作者の数が圧倒的に違うからである。

 インターネットというものは、つまるところ、有用な情報である知識を権威者から取り上げ、皆に平等に行きわたるようにしたものである。それが前提となる世界では、本当に有能な者のみが重宝され、「長年それをし続けてきた経験者」というだけのレゾンデートルが無意味化され、「専門家」という言葉が再定義される。今回はその「知識」が、もう少し階層の高い「技術」というもの置き換わっており、「キット」によって平等化されたと言える。

 これからの時代を本気で楽しんで生きていこうと思う人(特に俺らの世代と俺らの世代よりも若い世代)には、この点の有り難さを存分に活かしてもらいたいと思っている。だって昔だったら、知識を得るために、経験してるってだけで、へーこらへーこらしなくちゃいけなかった無駄な媚び諂いを、現在ではいっさい行わなくても、重要な知識や有用な技術を得られるってことだからね。

 この知識というものがどんな人でもある程度は平等化された世界の中で、どういう人が有能になっていくかは俺にもわからないが、少なくとも、どの世界に入り込んでも、自らの勇気と論理性によって、どんなことでも理解し応用していくだけのポテンシャルを持ってることは必須だと思う。
 だから、言葉や先入観に騙されたり流されたりしているようではダメである。高温超伝導と聞いたら300℃を超えるめっちゃ高い温度を想像していたり、人工細胞と聞いたら本当の細胞の一般的な性質が包括されていると思い込んだり、その程度の論理性では、たとえば中身がお粗末だったり不正があったりしたとしても見抜くことなど絶対にできないだろうし、それどころか、そもそもの意義の有無に焦点を当てることもないだろう。

 たとえ機械学習がどんなに発展しても、ディープランニングが「私のIQは53万です」とか言ってきても、「考える」ということは「キット」化できないのだ。
 そこんとこ具体的にはどうなってるの?っと聞かれて、「中身は良く知らないけど、この賢いAIが算出したので」としか言えない研究者を、誰が必要とするというのだろうか?

 だからこそ、基礎が何よりも大事であり、「考える」ということから逃げてはいけない。正しく中身をきちんと考えることができて、はじめて、「価値」についての議論ができる。

 任天堂は、自らのこれまでのレゾンデートルの一部を、自ら「キット」という形で売り出し、その上で、自分たちの生き残る術を模索し始めたのかもしれない(もしかしたら、ただネタがないだけかもしれないが笑)。
 だとすると、次のマリオの作品が楽しみである。次の作品が、彼らの本当の専門性としての答えを提示するはずだからだ。

 というわけで、マリオメーカー欲しいんだけど、WiiU持ってないのよねん。3DSで発売されないかなぁ。
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