大人になると、いつしか細分化された世界に生きることが当然のように感じてしまい、そこに甘んじてしまうようになる。
たったこないだ、中学3年生までは、同い年の人は、みーんな同じ勉強をしていたというのに、いつの間にか、理系と文系に大別され、理系のなかでは、さらに理学と工学(応用)にわかれ、さらに物理と化学と生物学と地学にわかれ、そして大学院では、たった一つの研究室、たった一つの研究分野しか知らないくせに、長年そこに居続けているということだけを大義名分に、俺を含め多くの研究に携わる人たちが、研究社会のことを自分の経験だけで一般化し始める。
特にこの国は、井の中の蛙であり続けることを肯定化する。もう、あらゆる分野に跨るような歴史的な大発見は、これだけ学問が細分化されたなかでは不可能だ、という言われ方がされることがあるが、そんなことは決してない。
きちんとした舞台が整いさえすれば、この国で、たとえば「生命とは何か?」などの本質的な問いに対して、きちんとした答えが導き出すことができるだろうと思う。しかしながら、科研費の申請一つ出すのに分野を気にしなければならず、細分化された分野のなかの、そのなかのさらに小さな研究室というステージ内の価値観に合わせなければ論文を出せないような状況下で、しかも短期的な展望でのみプランを立てさせられ、体裁ばかりが重んじられる研究潮流なのだから、論理的必然として「生命とは何か?」等の本質的な取り組みを探求することは不可能だ。
みな、こう思っているのだろう?
「その分野のなかでの無難さを担保していながら、業績をコツコツと積み重ね、いつか権威を手にしたら理想的なことをやれば良い」と。そのようなやる気のない権威的な態度なら、一般企業で奴隷のように働くことに注力したほうが遥かにマシなように思えるし、権威を手にした瞬間に保身と現状維持だけを気にして生きていくことは目に見えている。
もしくは、こう思うのだろう?
「そんなに好きなことをやりたいなら、その研究室のなかで、自分の価値観を皆に納得させるように努力したらいいだろう?」
価値観が凝り固まった蛙たちに、高校生なら誰でも面白いと感じる価値観を、彼らのプライドを傷つけないようにわかりやすく伝えるという、そのくだらない時間を過ごしている間に、同期が「月を目指すぞ!」と目標を掲げながら地球上をただひたすらに堅実に歩き、その過程で東京タワーに昇ったことを「月に少し近づいた!」と誤魔化しながら論文を量産し、終身雇用ポストを得ていく中で、そんな時間がかかりすぎるやり方で理想的なことばかり追っていることが、バカバカしくなってしまうに決まっているだろう。それに、システムの話をしているのに、いつの間にか個人の批判になってしまっている。俺は、統計的に、どうしたら本質的な研究が遂行されやすくなるか?というシステムを考えているのだ。
そこで、井を抜け出し、自分にとっての本質的な能力を得て、本当に月を目指してロケットに乗るほうが、お得である、というようなシステムを作らねばならないのだ。
だが、、かといって、今の現状のシステムが気に入らないからと言って、単に反権力になっていても仕方ないと思う。反権力主義は、新たな権威主義しか生まない。今のルールの中でやるべきことはしっかりとやって、そのうえで、言うべきことを言うべきだ。
だから、どんなにクソだと思っても、あらゆることに、ちゃんと本気じゃないと駄目である。だから例えば、ゼミに来ないとか、一言も発言しないとか、教授会で寝てるとか、そんなことは言語道断である。
っまぁ、何が言いたいかというと、みんな、何をもってして有能だと思っているのか?ということ。有能って何??
それを一切考えていないで、自分がいる狭い世界の価値観に合わせることしか考えていないから、「偏微分ができないからフィッティングの原理を知らないでソフトウェアに任せっきり」「実験装置の限界について考えることが習慣化されておらず、実験屋が出した結果を単純にそのまま信じてしまう」という、理科の基礎ができていない、めちゃくちゃファジーな状態で、自然科学の研究者の道を進んでいってしまうのだ。
そこに対して多角的に考えるべきなのに、あまりに何も考えておらず、小さな小さな、自分が入りこんだ井戸の中の世界の価値観に、いかにアジャストするかしか考えていないヤツが、多すぎるということなのだ。
考えてみた結果、それが、やっぱり、研究者は文章作成能力が最も大事だ、という結論もあり得るだろう。そこには、訊いてみるべき論理が存在しているはずだ。しかしながら、それは最低ライン、自分の頭できちんと考えてから、話すべきだと思う。
権威主義も、反権力も、それだけじゃダメダメ。自分が考えたことを、ただそのまま伝えていき、今のルールに則って、体現しようとすればいいのだと思う。シンプル。
それは確かに理想論だと思うし、机上の空論だとも思う。
だって、国立大の交付金が毎年1%削減されていくかもしれないなかで、しかも授業料がさらに高くなりそうななかで、次の世代を大学に通わすことが困難になっていき、俺らが研究者として本質的なテーマを追い続けることは無理になっていくのは明らかだ。
いよいよ、この国から去って研究を続けるか、研究をやめてこの国に居続けるのか、の選択を迫られているのかもしれない。
たったこないだ、中学3年生までは、同い年の人は、みーんな同じ勉強をしていたというのに、いつの間にか、理系と文系に大別され、理系のなかでは、さらに理学と工学(応用)にわかれ、さらに物理と化学と生物学と地学にわかれ、そして大学院では、たった一つの研究室、たった一つの研究分野しか知らないくせに、長年そこに居続けているということだけを大義名分に、俺を含め多くの研究に携わる人たちが、研究社会のことを自分の経験だけで一般化し始める。
特にこの国は、井の中の蛙であり続けることを肯定化する。もう、あらゆる分野に跨るような歴史的な大発見は、これだけ学問が細分化されたなかでは不可能だ、という言われ方がされることがあるが、そんなことは決してない。
きちんとした舞台が整いさえすれば、この国で、たとえば「生命とは何か?」などの本質的な問いに対して、きちんとした答えが導き出すことができるだろうと思う。しかしながら、科研費の申請一つ出すのに分野を気にしなければならず、細分化された分野のなかの、そのなかのさらに小さな研究室というステージ内の価値観に合わせなければ論文を出せないような状況下で、しかも短期的な展望でのみプランを立てさせられ、体裁ばかりが重んじられる研究潮流なのだから、論理的必然として「生命とは何か?」等の本質的な取り組みを探求することは不可能だ。
みな、こう思っているのだろう?
「その分野のなかでの無難さを担保していながら、業績をコツコツと積み重ね、いつか権威を手にしたら理想的なことをやれば良い」と。そのようなやる気のない権威的な態度なら、一般企業で奴隷のように働くことに注力したほうが遥かにマシなように思えるし、権威を手にした瞬間に保身と現状維持だけを気にして生きていくことは目に見えている。
もしくは、こう思うのだろう?
「そんなに好きなことをやりたいなら、その研究室のなかで、自分の価値観を皆に納得させるように努力したらいいだろう?」
価値観が凝り固まった蛙たちに、高校生なら誰でも面白いと感じる価値観を、彼らのプライドを傷つけないようにわかりやすく伝えるという、そのくだらない時間を過ごしている間に、同期が「月を目指すぞ!」と目標を掲げながら地球上をただひたすらに堅実に歩き、その過程で東京タワーに昇ったことを「月に少し近づいた!」と誤魔化しながら論文を量産し、終身雇用ポストを得ていく中で、そんな時間がかかりすぎるやり方で理想的なことばかり追っていることが、バカバカしくなってしまうに決まっているだろう。それに、システムの話をしているのに、いつの間にか個人の批判になってしまっている。俺は、統計的に、どうしたら本質的な研究が遂行されやすくなるか?というシステムを考えているのだ。
そこで、井を抜け出し、自分にとっての本質的な能力を得て、本当に月を目指してロケットに乗るほうが、お得である、というようなシステムを作らねばならないのだ。
だが、、かといって、今の現状のシステムが気に入らないからと言って、単に反権力になっていても仕方ないと思う。反権力主義は、新たな権威主義しか生まない。今のルールの中でやるべきことはしっかりとやって、そのうえで、言うべきことを言うべきだ。
だから、どんなにクソだと思っても、あらゆることに、ちゃんと本気じゃないと駄目である。だから例えば、ゼミに来ないとか、一言も発言しないとか、教授会で寝てるとか、そんなことは言語道断である。
っまぁ、何が言いたいかというと、みんな、何をもってして有能だと思っているのか?ということ。有能って何??
それを一切考えていないで、自分がいる狭い世界の価値観に合わせることしか考えていないから、「偏微分ができないからフィッティングの原理を知らないでソフトウェアに任せっきり」「実験装置の限界について考えることが習慣化されておらず、実験屋が出した結果を単純にそのまま信じてしまう」という、理科の基礎ができていない、めちゃくちゃファジーな状態で、自然科学の研究者の道を進んでいってしまうのだ。
そこに対して多角的に考えるべきなのに、あまりに何も考えておらず、小さな小さな、自分が入りこんだ井戸の中の世界の価値観に、いかにアジャストするかしか考えていないヤツが、多すぎるということなのだ。
考えてみた結果、それが、やっぱり、研究者は文章作成能力が最も大事だ、という結論もあり得るだろう。そこには、訊いてみるべき論理が存在しているはずだ。しかしながら、それは最低ライン、自分の頭できちんと考えてから、話すべきだと思う。
権威主義も、反権力も、それだけじゃダメダメ。自分が考えたことを、ただそのまま伝えていき、今のルールに則って、体現しようとすればいいのだと思う。シンプル。
それは確かに理想論だと思うし、机上の空論だとも思う。
だって、国立大の交付金が毎年1%削減されていくかもしれないなかで、しかも授業料がさらに高くなりそうななかで、次の世代を大学に通わすことが困難になっていき、俺らが研究者として本質的なテーマを追い続けることは無理になっていくのは明らかだ。
いよいよ、この国から去って研究を続けるか、研究をやめてこの国に居続けるのか、の選択を迫られているのかもしれない。