たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

あたまのなか

2010-03-31 23:14:09 | Weblog
 さて、今日で僕も大学生じゃなくなります。昨日まで卒論の手直しをしていましたが、今日からは、本格的に新しい場所に移動しました。
 そんなわけで、明日から(たぶん、4/1から4/2に変わるくらいの時間帯になると思います)、このページも、新しい題名にして、更新していきたいと思います。ですので、ここのURLを登録してない常連様は、お早めに。
 えーっと、とりあえず、過去記事は消しませんので。

 ちなみに、割と多くの人に、「頭の中」が「私の頭の中の消しゴム」という映画とかぶると言われるのですが、僕は一切、そのつもりでつけたわけじゃないんです。よーわ、言葉を使っている限り、頭での発言になるわけで、っていう部分で、「頭の中」としていたんですが、なかなか理解されなかったみたいですね。

 っま、僕はまだまだ学生ですし、特に大きくページの方針を変えるつもりはありませんが、一応、一区切りをつけるという意味合いが強いですね。
 ではでは、また、リニューアルした俺のページに遊びに来て下されぃ!
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いつもありがとう

2010-03-30 03:43:12 | Weblog
 ものごとの大づかみを知りたいとき、シンプルにすることを試みる。
 歌だったら、ピアノだけで聴いてみたり、アカペラで聴いてみたり。物理だったら、重要な式だけを2つ3つ切り取ってくればいい。そうすることによって、本当のモノがでてくる。結局コレかぁ、なのか、修飾を剥ぎとっても素晴らしい、なのか。

 「この曲は、雰囲気がスゴイ。歌詞じゃない、メロディーラインじゃない、部分が素晴らしい。」って言った時に、それは編曲がスゴイのか、それとも、それを超える何かがスゴイのかは、とても大事。これは音感を上げていってもなかなか見抜くのは難しい。だから、シンプルなモノを聞いてみる。
 例えば、ピアノとハモらない1人の歌だけのライブ映像なんかがあれば、それでわかる。そのときに、何か足りないって思っちゃうか、それでも凄まじい世界観が残るか。

 日々の生活の中は、ディテールだ。それも沢山の修飾の中で存在している。言葉で誤魔化し、ノリで誤魔化し、ネタや笑いで誤魔化し、連帯感で誤魔化し続ける日々。何がホンモノなのか見抜けない、っと言うよりは、見抜かないほうがイイかもしれない。
 でも、例外な日々がある。修飾を剥がされ、露呈されてしまう、この3月は切ない。言葉による人間関係の結合が1つ離されてしまうとき、その関係が、ディテールからアウトラインへとシフトしていくのだ。その人間関係の重要なアウトラインが浮かびあがる。

 こんな時でも、ヒトという生物は賢くて、形式的なお別れの仕方をもってして、その露呈に立ち向かう。だけど、やっぱり、そんなときは、物理的な現象に思考や感情が勝てない。
 修飾を剥がされ剥がされ、真実が目の前に。。さぁ、みんなに対して、残った言葉は??

 『いつも、ありがとう。これからも、よろしく。』

 これ以上の人間関係の感情は存在しないと思う。
 どんな人間関係の類いでも、いつか、必ず、別れがくる。どんな関係でも。それは擬似的な別れの時もあるし、本当に一生会わない別れであるかもしれないだろう。
 言葉による結合の1つの崩壊を意味する擬似的な別れの時でも、本当の別れの時でも、この言葉が出てくるように、ディテールを築いていきたいと思う。

 新しい場所でも、古い場所でも。
 いくら楽しいんだとしても、誤魔化し過ぎないようにしなきゃだよね。

 (さて、明日の記事をもって、ココを一新しようと思います。過去記事も、いくつか消すかもしれませんが、めんどくさそうなので、しないかも。
 みなさん、本当に、いつもありがとう。そして、これからもよろしくね。)
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SR(t)

2010-03-28 03:06:24 | Weblog
 はじめは、よくある物語。1人の女をめぐる、2人の男の戦い。でも、その攻防は、普通とはちょっと違っていた。

 はっきり言ったらどーだ?えー?!
 ……。でもー。うーん。

 おいおい、もっとはっきりモノを言えよ、ってくらい口下手な男が相手の1人なのだ。しかし、この口下手、ただの口下手ではない。天才的な物理学者なのだ。

 もーいい、いこーぜ。

 っと、強引に女を連れていく。そして、彼は、捨て台詞に、吐いてはいけない一言を、吐いてしまう。

 っけ、お前なんか、2の200乗でも計算してろ!!!
 …、あー、はい、待って下さい。

 まさか。。天才は紙と鉛筆を取り出し、計算し始めた。わずか、5分後、

 えーっと、1606938044258990275541962092341162602522202993782792835301376です。。次は何をすれば良いでしょうか??
 いや、うん、えー、……。

 その後、この3人が、どうなったのか、知る者はいない。。


 これは、俺が勝手に作った話ではない。実話である。この天才物理学者は、確か、量子力学創設者の1人であったと思う(誰だったか忘れちゃった。知っている人、是非、教えてください。)。当時、電卓も無い時代に、2の200乗を、わずか5分で求められるのは驚異的だったんだと思います。
 この話の教訓は、コンピュータ的になりすぎてはいけない、ということではない。こういう言いあいをすべきでない、ということでもない。この話の教訓は、『他人のフィールドに不用意に足を踏み入れてはいけない。』ということである(笑)。プロをなめてはいけない。これくらいの計算は、ふふんって、出来てしまうと覚悟しておくべきだっただろう。したら、微妙な空気にならなかったのに。

 バカと天才は紙一重だと言いますが、これは、天才に振り切っているな。うーん、最近、これくらいの賢さ(一般の人が、ぽーん、って言ってきたことに対して、完備であるくらいの賢さ)が欲しいなって思います。か、賢さゼロがイイですね。もー、中途半端な賢さが一番よく無い。っていうか、辛い。
 だから、SR(t)の関数形も求められない。「助ける」という系に対して、この関数形が必要不可欠なのですが、どーしても、その平衡点や、t依存性がわからないです。

 さて、今日は、問題で終わっておきましょう。このSとRとtは、何の頭文字だと思いますか??
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一番好きなこと

2010-03-27 04:03:36 | Weblog
 明日、1年ぶりくらいにスタジオに行く。やっべっ、スティック持ってかなきゃ(笑)、って、歌うのに、めっちゃ怒られそうだけど…。

 スタジオの雰囲気って、大好きなんです。カウンター横のテーブルと椅子の感じとか、たまんない。あそこで、だべっている時は、その内容に依らず、片手に入る幸せ度。カラオケとは違う大きくて厚いドア、タバコ臭くて(非喫煙者なのに、それも超える)、メンバー募集の紙とかが沢山あって。
 そんなときに、いつも、ふっと思う。『こっちで突っ切ってみても、面白かったかも。』って。

 一般のイメージからすると、正反対なんだよね、理科と音楽って。まぁ、当然、俺の周りには多いけどさ。
 前は、両方取りたいなって思ってた。両方、本業で、ハイパー忙しい日々を送りたいって夢見ていた。そうそ、GReeeeNとか、そういう意味では、理想。でも、次第に、音楽って、趣味の範囲だから面白いのかなって思ったりしていった。不安定なお仕事だし、どんどん音楽が流行んなくなっていっちゃってるし。だからって、音楽をしていきたいという気持ちは残してありますよっ。
 いっそ、音楽なんてやってたらダサい、ってなって(今もある意味ダサいけど)、ほとんど誰もやらなくなっちゃったほうがイイのかも。まぁ、そんなの、やだけどさ。

 そんで、音楽やっている人で、嫌いなタイプの人が多い(笑)。なんてーかな、自分もそうだけど、プライドの塊なんだよね。それだけなら良いんだけど、そのプライドが悪い方向にいきやすい。
 このバンドの曲じゃないとやらないとか、こういう音づくりじゃないとダメだとか、自分が敬愛しているそれ以外全否定なんだよね。
 例えば、俺がバンドやっている人に対してアカペラやっているって言うとそっちの方向でしか俺を見てくれないし、バンドやっているってアカペラやっている人に言うと、これまたそっちの方向で見てくる(ことが、他の分野に比べて、やけに多いってことね)。

 これ、理科だと割と違うんですよ。
 生物学科の人に、物理学科から来ましたーって言うと、へー物理できるんだーってなり、物理学科の人に、生物系に行くんですよーって言うと、あーそれも面白そうだね、って言われる(もちろん、これも、割合の問題で、あいつは、「物理」「生物」ってラベルを張られることもある)。
 
 しかも、言葉悪いですが、音楽は、けっこう、誰でも出来てしまうところがあるので、雑草が多いってのも、ひとつの問題です。理科は、好きでも、忍耐力が無いと出来ないですから。あと、音楽は、かける努力の割にカムバックが少なすぎるので、難しいところもあるんだと思うんですが。
 まぁ、集団の一側面として、そんなのが多い、って程度なんだけど、前にも書いたとおり、統計的な近似は、その近似が標本数nに対して有効である限り、非常に正しいので、意外と重要。って、俺もそういう風に見られているから、か?

 ぶっちゃけ、研究とかは多角的じゃなくても、どーでも良いから、本当はもっと、音楽をやっている人に対して、多角的になって欲しいな、って思います。僕はどちらかと言うとリスナーなので、もうそれ以上は言いません(今日はもう、じゅうにぶんに、書いたけどね)。

 とか言いながら、もっとスタジオとか行きたい、音楽やりたい、っていう、アピールなんですけど??(笑)
 そんで、賢さによる、保険をかけておく言葉を探す。『どーせ、そんなんも、誰もわかってくれないでしょうけど』ってね。
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魚の釣らせ方

2010-03-26 03:06:21 | Weblog
 受かる生徒もいれば落ちる生徒もいるわけで。。あー、なんてーか、高校生も大変なのね。

 俺は、なるべく一般入試での生徒で、っとお願いしてきた。別に、推薦入試で大学を目指す子でも良いんだけど、定期試験対策って、それ自体だけだと、つまらないんだよね。自分でやれば?って思っちゃうし。それができないから来てるんですけど、、ってんだろうけど、やることハッキリしているのに、やらないんだから、それは、俺らの問題じゃないわけでして。
 とか思ってたけど、最近は、定期試験って、あんなにやることハッキリしてるのに、それもわからない子もいる。極端な例だと、俺に試験範囲を聞いてきたりする。知らねーよ、マジで。

 っていうかさ、俺が試験範囲知ってるって、本気で思っているのか??じゃぁ、なんだ?先生って呼ばれている人たちのコミュニティーみたいなのがあって、そこで情報交換が行われてるってーのか?いいかげんにせーよ、高校生にもなって。
 まぁ、だいたい、いきなり持たされる生徒でこんな状態なのが多いので、生徒のせーじゃなくって、普段持っている他の大学生のせーなんですけどね。なんでそんなに他力本願に育てるんだっつーの。教員は、ほら、あれだろ、魚を釣ってやるんじゃなくて、魚の釣り方を教えてあげるようにしないと。

 「なんかさー、こんなにお金かけているんだから、っていうお母さんいない?」
 ≪え?親と話したことあるの??≫
 「うん。」
 『あー、わかるー。俺も親とちょいなら喋ったことあるけど、なんか、お金かけりゃいいってもんじゃないよね。。』
 「子どもの状況とかさ、そっちが把握してないのに、こっちに聞かれてもわからないですよーって思うんだよね。」

 なんてーか、色々なことに関して、考えるのめんどくさいからってんで、他力本願で、表面ばっかり気を使う感じが好きじゃない。親でも生徒でも大学生でも。
 お金かけているところを、たかがバイトに暗に訴えられても、困ります。まぁ、予備校や大学が金取りすぎなのは、問題だと思いますけどね。

 だから、割と長い時間持つことになるであろう生徒に、はじめ、必ず言ってきたのは、『基本的に、おんぶにだっこの面倒はみません。だって、うざいっしょ?だから、こちらを上手く「利用する」っていうことを意識してください。だから、勉強する範囲を選ぶのとかも僕と2人で相談です。』。これは、超重要。
 結局、自分で歩かないと、何をしても達成感は無いんですから。
 そして、その勉強する内容の自由度が高く、より難しい内容を理解しなきゃなのが一般入試なので、そっちの生徒をなるべく選ぶようにする。別に、俺はその道のプロフェッショナルになるわけじゃないし、第一、手取りが少ないんだから、それくらい好きにやらせてよ。

 任意の人に対して、一般入試か推薦入試かなんて、今は、どうでもイイ。だけど、自分と同じような道を歩いている高校生が、昔の自分と同じように、推薦で大学に行こうとしている子の非難をしていると、ちょっと、言葉では表せない感情がこみあげる。悲しいのと懐かしいのと、あとそれから…。これくらいの不条理は世の中には沢山あるわけで、一般入試だって、本当の実力を見ているわけじゃないんだし、ってね。

 でも、実際に自分の生徒が落ちちゃうと、そういうことを通り抜けて、社会に対して、ムカついてきてしまう。そして、あー、別に、他人の事だから、どーでもイイはずなのになー、ってなる。
 本当に大切なのは、受験や勉強そのものの結果ではなくって、チャレンジする心だとか、行動する力だとか、直向きにコツコツ頑張る力だとか、何事も楽しもうとする心意気だとかなのに…、なかなかそんなキレイゴトも通用しなくなってきてしまって、それ以上に、社会は、「言葉」を得ることを求めているらしい。
 オカミが用意したハードルを越えさえすれば、あとは一緒。キレイゴトよりも、そのハードルを、確実に、生徒に超えさせなきゃいけないのだ。

 判断基準がオカシイのに、あぁ、かわいそうに。。

 『とか言いながら、結構、授業してなかったりね…。ずーっと、喋っちゃってるときとか、あるよね?』
 「うん、好きな男の子の話とか聞いてたりしてれば、時間経っちゃう。」

 だって、生徒が、そっちを欲してるんだもん!(笑)
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夢見な現実

2010-03-25 02:21:39 | Weblog
 『りあじゅう、って、リアディゾンと関係があるなんかですよね?』
 『イッキ飲み、って、グラス1杯のビールなんかを、一回のごっくんで、飲み切ることじゃないの??』
 『ひふく、って、非服だから、裸じゃん!やべーじゃんっ!!』

 これだけの言葉が世に溢れている現代、勘違いは日常茶飯事だ。勘違いをしても恥ずかしがることは無い。誰にでも必ずあることだし、こんなに言葉や概念があるんだから、仕方ない。
 勘違いは知らない事よりも怖い。知らない場合は『それはなんですか?』と聞くことができるけど、勘違いしているモノは知っていると勘違いしているわけだから、どこか話がズレているな、って感じとって、体裁を守るためには軌道修正するための演技をしなければならない。「え?ホントに、○○って、わかってらっしゃいます?」『イヤ、別に、前から、知ってたんだけどー、冗談ですよ、冗談。』みたいにね。まさか、勘違いしてました、って正直に言うわけにはいかないシーンもあるだろう。

 だけど、知識についての勘違いは、まだマシだ。
 人の心や発言の解釈の勘違いほど怖いモノはない。

 人の心を完全無欠に読むことができれば、そのような類いの苦悩は無くなるのかもしれない。けれど、そういうことは起こり得ない。どんなにスゴイ解析力だなって思う人でも、少なくとも10パーセントは間違ってしまう。その10パーセントに重要なことが含まれていたりするもので、だから、自分の解析力を信用し過ぎてはいけないのだ。
 ちなみに、その10パーセントの誤差、つまり勘違いが、外部に対して、実質的に影響を及ぼす可能性は、多分にある。時間を進めていったときに、自分が勘違いしていることによって、その勘違いが本物になっていくことがあるのだ。だとしたら、こーであって欲しいな、っていう希望は消さないで、大切にしていったほうがイイのかも。

 そう、間違っていても、勘違いであったとしても、何かの形で具現化していくことによって、本物に変わっていってしまうもんなのである。
 だから、いまだに、被服と聴くと、ちょっとドキッとしてしまう自分がいたりするわけで(笑)。

 っていうか、なんでもかんでも、完全無欠に理解できたとしても、ぜーんぶ、夢物語の可能性だってあるしね。
 だって、自分以外の人間やモノが、自分と同じように動いておらず、自分に幻想を見せ続けているだけなのかもしれないじゃん?

 だとしたら、色々なことに対して、自分の解析も感情も大切にして、本気で扱っていくのが、結果的に幻想であるんだとしても、ホンモノなんじゃないかな。。
 つまり、確実に存在していると言えるのは、自分が思っている、感じている、思考や感情だけなのだから、時間連続的には、そこを大事にしなきゃだよね。その瞬間瞬間では、相手のことを一番に考えるんでもさ。

 っと、今日は、案外、怖いお話をしてみました。
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Millennium Prize Problems

2010-03-24 02:52:12 | Weblog
 おととい、ついに、ペレルマンによるポアンカレ予想の証明が正しいことが確認された。この証明の検証に8年もの時間をかけたかと思うと、数学者ってーのは忍耐強いなって思う。

 ポアンカレ予想は数学のミレニアム懸賞問題の1つだ。よーわ、解いたら、賞金ゲット。しかも、1億円。
 どんな問題だったかというと、確か、、
 「地球から、ロープつきのロケットを発射して、宇宙の果てまで行って地球に戻ってきたとき、ロープが絡まずに全部引っ張ってこれたら、宇宙は丸いはずである」
 って感じだったと思う。それをちゃんと証明しましょ、ってことです。
 なんかの授業で、NHKのビデオ見させられたのだと、こんな感じ。っま、多分、「任意の宇宙の果て」ということであって、宇宙と地球は空間と点の具体例だと思う。

 数々の数学者がこの問題にチャレンジして生涯を終えてきた。そんななか、ペレルマンが1億円を勝ち取ったのだ。
 なんて、スゴイやつなんだ。

 どーしても、数学の問題と言われると、自分でも解けるんじゃないか?って思ってしまう。
 例えば、もう解かれてしまった例だけど、フェルマーの最終定理なんかも、問題自体は、ほぼ誰でも理解できるし、いけそうな気がする。x^n+y^n=z^nをみたす自然数x,y,zはnが3以上で存在しないことを示せ。うむ、別に、理解はできる。
 例えば、四色問題。任意の2次元の地図は四色のペンで塗り分けられることを示せ。これもいけそう。

 っとか思うけど、実際、無理。やってみても、みなくても、無理だってわかるくらいの頭はある。
 何故無理か?というよりも、その1つの問題を解くために、いくつもの研究室があることを思うと、なんとなく、無理そうですよね。それ以上に、俺たち素人は、問題に対する基礎知識が少ない。問題の意味も、理解できたつもりになっているだけだ。

 ポアンカレ予想は、高次元だと証明は簡単らしい。位相幾何学の知識が無ければ、この問題をきちんと理解することはできない。フェルマーの最終定理は、n=4についてなら、無限降下法で求められ、大学入試問題になっていたりする。四色定理はグラフ理論という下地があって、本当の意味で理解できるのだ。

 あーあ、なんかつまんねーな。もっと、こー、高校数学くらいの材料だけで、難しい、しかも懸賞がついてる問題って無いのかなー、って思うけど、ありません。たぶん、無いっす。やっぱり、今までやってきた人たちの積み重ねの理解とすさまじい努力が大切なんですよね。だって、ポアンカレ予想の証明の検証だって、8年もかかるんですから。

 でも、ちょこっとだけフォローしておくと、そういう問題を解いた天才は、だいたい、素人のような、斬新な発想をしているもん、らしいっすよ。
 おー、それなら、まだ解かれていない、残っているミレニアム懸賞問題のなかで、物理っぽい「ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題」でもチャレンジしてみるか。

 っと思って、調べてみたけど、カラー・ゲージ理論って書いてあって、終了(笑)。やっぱり、さよなら。下手にちょっとでも知っていると、自分には無理なのが明らかになってくる。
 知識なんて、いらね。
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さよならは言わないからっ

2010-03-23 02:48:44 | Weblog
 こんなにも悲しい気持ちになるのは、どうしてだろう??
 何もかもが最後の景色を彩っていく。脆弱な心のひとつひとつが重ね合わさって、恥ずかしいから、冗談やネタにして伝わって来ても、その根本が切なすぎるから、本当に面白いのに悲しさが勝ってしまう。なんで、時間なんて惨いモノが存在するの?

 人生なんて時間の浪費に過ぎないんだから、、そのままで、楽しいはずが無い。だからこそ、楽しまなきゃいけない。楽しむことを頑張らなきゃ、楽しいはずがないんだ。
 どんなに色々なモノで誤魔化しても、大切にしたいとか、本当にまだ一緒にいたいのに…とか、楽しみたいとかの気持ちが根底に無いなら、きっと、本当の意味で、満足することも、楽しむこともできないのかもしれない。
 逆に言えば、それさえあって、大事にしていこうと行動していったなら、今の俺みたいな気分をずっと味わい続けられたり、ホンモノを現在形で感じられる?

 その時間をリアルタイムで過ごしていた時だって貴重なことは明らかだった。だけど、時間が無くなっていくにつれて、もっともっと、貴重であることがわかってしまった。ただ、それが、悲しいのかも。
 だったら、こっちにだって、考えがある。

 お別れはしないことにしよう。
 マタアイマショウ、マタアイマショウ。

 この曲の歌詞と違って、そのままの意味でね。

 (色々考えたのですが、新年度のスタートにあたり、このページのタイトルを変え、一新しようかと思います。よーわ、名前の公表を、もう少し、制限しようと思います。
 これは前に言ってたのと違って、決定事項ですので、もし、どこかの検索ページで、いちいち入って来てくださっている常連さまがいらっしゃったら、今のうちに、ここのアドレスを「お気に入り」に入れていただくことをお勧めします。
 4月になったら、一新しますので、お楽しみに。)
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言ってはいけないコト

2010-03-19 02:40:53 | Weblog
 最初っから持ているモノなんて、どうでもイイ。何らかの関係をもたせてもらって、それから何かを求めて、お互いに無理して歩み寄れたんだったら、もともと持っているモノ同士が共鳴していくよりも、ホンモノだと思う。それこそが、持ち物じゃない根底同士の共鳴のしるし。
 用事があるときだけ、やけに調子イイって感じても、結局、自分以外信じられないのかなって思っても、そういう考慮があると、元気になっていく。

 だから、嘘でも、演じてくれているなら、気付かないみたいに黙っているだけの、想いの容量を持っていたい。不自然なことこそ、必要不可欠なのかもしれないし。ただし、何かの言葉を求めているだけじゃない演技なら。
 言葉は要らない。単純に、直観だけで判断できるはず。作っている自分に頑張りながらも、それくらいの判断はできる。。

 例えば、十分に演技して、十分に考えて、振る舞っているのに、思ったことなんでも言ってるでしょ?、とかって言われると、いやいや超選んでますけど?、っと思うんだけど、それをも超えていたりもする。

 ただ、ガチであればガチであるほど、疲れるなっ。心地の悪くない疲れだから、蓄積しても大丈夫…、だと思うけど。。
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メモリーズ

2010-03-17 01:04:37 | Weblog
 真実は繰り返すことで誤魔化される。
 正しくないことでも繰り返すことで正しい気がしてきてしまうし、嘘であっても繰り返されれば心から信じてしまう。移ろい行く心は繋ぎ止められない。

 こんなことから打開してくれるのは、それに関わっていない人間と語るしかない。きっと、こんな風に、人は自分の無力さを知る。このなかでは、時間が長かったのもあって、当然と思ってたけど、外に出ると非常識。
 だからこそ「正しいことを言う時、心底、恐怖する」わけで、きっと、こんな風に終わりはくる、前ぶれも無く。

 それを知って、今、強さになる。あの日、あの場所、あの時間、あの切なさの思い出が今も、よぎるからこそ、強さになっていく。探し続けた答えが解けぬ気持ちとなって結論付けられてしまっても、次に繋がっていくんだと思う。

 さぁ、今飛び出そう。

 (平井堅の曲で一番、雰囲気が気に入っている曲。アルバム「LIFE is...」の中に入っている。
 なんていうか、こういう世界観があるような曲が、好き。音と歌詞以上の何かを感じる曲こそ聴いている価値があるというもんだ。そういう類の曲は一回聞けばわかるから、わかりやすい。)
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直観と覚悟

2010-03-16 01:56:07 | Weblog
 なんでもない瞬間に、ふっと、すでに見たことのある!、って感じる時がある。んで、それは夢だったり。
 おー、正夢か。そんなこともあるもんなんだなー、って思って、それ以上は追及しない。

 こんなことが1年に1or2回くらいはある。よくよく考えてみると、結構、不思議。なんで、こんなことが起こるのかな?環境に依っているはずだから、未来を想像できなくはないけど、あそこまで詳細に、しかも割と重要なシーンが正夢になるのは、何か意味があるのかもしれない。
 あと、直観が冴えるみたいなのも、これくらいの頻度で起こる(好き、嫌いの直観とは違う)。っぱって、空気みたいなのが悪くなったり、感じがおかしくなると、やっぱり何か、いつもと違うことが起きちゃったりする。こういう自分の直観は、イイ時はあんまり働かない。危機が迫っているときに、作用する。

 別に、悪い能力ではない。ただ、この直観や正夢などの不思議なことに、一応、従って、予防線を張っておかないといけないということ。覚悟を持っていなきゃいけないというだけだ。
 そして、、大事な瞬間には、いつも、そういう不思議なことに見舞われるから、、だから。。
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あなたが残してくれたモノ

2010-03-15 04:10:50 | Weblog
 信念をもって、何かに取り組むことは、素晴らしい。
 「こうしなければならない。」「こうじゃないと、なになにをやる意味がない。」「ここだけは譲れない。譲る瞬間があれば、その道を諦める。」
 自分自身を、自分自身が生み出した言葉によって締め付けて、ストイックに生きる。こういう人は、マジメである、っと定義しておこう。

 一方で、自分の信念なんか殆ど忘れてしまったかのように、状態状態に合わせて、フレキシビリティに富んでコロコロ行動する人もいる。
 「いやー、本当はできないけどね。」「まぁ、効率でしょ。なんでも。」「人間関係とか、大事だよね。」
 自分自身に対して、何かの言葉(キャリアや成績や数字)を獲得することに忙しく生きる。こういう人は、真面目である、っと定義しておこう。

 マジメと真面目。音は同じだけど、意味は全然違う。

 おそらく、マジメな人ほど、本当の実力者であると思っている人が多いだろう。だが、その中の何人もの人が、彼ら自身で、そういうホンモノの実力者を潰している。
 ほとんどの人は、ひとまず、真面目を目指しているのだ。特に最近は、色んな事を面倒くさがる傾向にあるから、ぱっぱっと掴みやすいほう、つまり真面目を選ぶ人が多い。

 例えば、、中間テストの成績が期末テストの結果には繋がらない。効率という点において、確かに、繋がる箇所はあるかもしれない。だが、60分の定期試験なんかで、学問上の繋がりは皆無だし、もっと問題なのは、多くの場合、供給している側が、学問上の繋がりがあることを信じている点である。

 さて、こんなことを言うと、俺はマジメ側に立っていると思われるかもだけど、どっちでもない。
 もともと自分はマジメ側でやってきたと思う。明日ある試験のための勉強なんて嫌いだし、覚えれば良いじゃん、って言われるのが一番嫌い。でも、だからこそ、マジメ側の人間に厳しい。

 マジメな人間は、もっともっと社会に対して、世間体なんか気にせず、不満や審査基準の不条理を宣言していかなきゃだし、自分の信念を貫けなくなったら、どんどん他のことに、信念をもちなおして、チャレンジしていかないといけない。
 厳しい言い方をすれば、そこで埋もれてしまう程度のマジメなら、要らないのだ。だいたい、どんなに社会が不条理な審査をしてたとしても、そこに収まりきらないのが、本当のマジメなのだし。それに、統計的に、マジメな人間なんて、社会にとっては、まったくいなかったら困るけど、少なくてイイからね。
 俺の遥か上空には、そういうスタイルで成功している方々が確実にいて、みなさま、きちんと、こういう戦いに挑み続けている。やっぱり、数は極端に少ない。こっちサイドだけで行くとね。
 この路線で行く人は、覚悟すべきだと思うけど、頑張って欲しいし、尊敬する。

 ちなみに俺は、大学の4年間を、学業に関しては、真面目サイドに徹するように努めてきた。基本、マジメなので(自分で言っちゃってるけど(笑))、真面目に徹すると、ちょうど良かったかもしれない。
 その中で、とても大切なことに気がつくことができた。それは、「試験に出ないところは、学問上も、さほど重要ではない」ということだ。というか、やることが膨大すぎて、全部に対して、信念を持つほど、俺はお勉強が好きではない、というのが本音かもしれない。
 ただ、この真面目は真面目で、案外、学問そのものの理解の足しになる、っと実感している。疑問に思っていることを、とりあえず覚えちゃって、使い方もマスターして、その先に進んで、あとで、マジメになっちゃっている瞬間に、残しておいた疑問を片づける。こうすると、沢山のことを、深く学べる気がする。
 だけど、やっぱり、真面目サイドに徹しきれなくて、そこまで振り切っちゃうと、実際ダメなヤツが多いし(笑)、何より、楽しめない。

 いろんな人がいて、いろいろ良いんだと思う。
 なんか「みんな違ってみんなイイ」みたいな一般的な結論になりそうだなぁ(笑)。っていうか、みんな、本当に、そう思っているのかな??

 っま、昔の物理学者の言葉をパクってくるなら、どちらの「真面目、マジメ(=it)」についても、

 "If you are not confused by it then you haven't really understood it."

 と言えるだろう。
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cd Desktop/goodbye/finalfinal.cpp

2010-03-13 02:23:31 | Weblog
 自分が一番得意なコトほど、重要なシーンでは緊張するもんだ。
 今、この、とてつもない緊張感は、ある意味では、かけがえない。だけど、もし、失敗したら??

 緊張とリラックスの間にいるとき、良いパフォーマンスができる。だから、緊張も必要だし、リラックスしすぎてはいけない。
 数々の保険をちりばめてあるし、何より、我々が導き出した解に自信がある。それを、落ち着いて、パフォーマンスすれば良いだけだ。感情的になりすぎず、理性的になりすぎず。
 こんな瞬間、この4年間で、いや中学の時から、何度も何度も経験しているはずじゃないか。大丈夫、成功例のが多いし、いざとなったら、チームだからこそ強い、に偏れる。

 さぁ、この、賞味期限の切れた後の戦いに、今度こそ、決定打を。
 今は、その、戦いに出かける前の一休みを、ゆっくり過ごしていこうと思う。これが、俺に与えられた、この場所での、事実上、最後の仕事だろう。
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雨粒の希望

2010-03-12 03:21:14 | Weblog
 ここ10年で、ケータイ電話はここまで発達し、ほとんどの人が持つようになった。コンピュータやネットワークの世界も、一般にここまでの広がりを見せている。
 もう、これ以上、どの分野においても、発展のしようが無いんじゃないだろうか。ipod以上の音楽機器が発明されるとも思えない。

 しかし、最近、発見したのだ。人類が、とても不便がっている、あるモノを。それは、雨だ。
 こんなに世の中が発達したのに、雨の日は、傘をささなくてはいけない。なんということだろう。なんて、不便なんだろう。だって、21世紀なのに、片手が封じられるんですよ、雨の日は。なんて、屈辱的なんだろう。

 こー、なんか、ケータイサイズくらいの電子機器をカバンに持っていさえすれば、身体や服の表面1mmで、雨粒をはじいてくれる、画期的な商品、どっかででないかなーー。
 まぁ、これができたらできたで、困るんですけどね。もう瞬間移動以外、発展しようが無くなっちゃいますから(笑)。
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継続を力へ

2010-03-11 04:21:47 | Weblog
 努力が実らない。何よりも避けたい現実だが、確実に存在する。

 こんなことを聞いて、「じゃぁ!中途半端じゃダメだから、もっと絶対に頑張らなきゃ!」っと思うか、「努力しても実らないことがあるんでしょー?じゃぁ、いいや。」って思うかは、個人の了解。環境を整えることはできるけど、それ以降は、自分で決めなきゃ。
 そして、頑張ってきた人だけが、この言葉に辿りつく。「継続は力なり」

 継続するというのは難しい。1日、2日だけ頑張るのは、誰だってできる。本当に難しいのは、ずーっと一定以上で、歩き続けることだ。それが、努力であり、力になる。

 そんなことを考えながら、おととい、自分の生徒が、国立大に合格したのを聴いて、思った以上に嬉しかった。もちろん、俺自身がそれに少しでも関われたというオコガマシイ気持ちがあるし、希望の存在確認という意味もあるけど、それ以上に単純に、心から、良かった、って思った。
 ただ、その次、教える子に対して、これで満足してはダメ。俺が力不足なところが沢山あったし、もっと良い、合格できる道を歩くための道作りを続けるための手助けの方法を模索しないと。

 それ以上に重要なのは、もっともっと視野を広げれば、人間同士はすごく競っている試合をしているだけ、ってことも忘れちゃいけない。

 だって、宇宙の殆どの物質は光になって消えちゃうのに、反物質に偶然出会わない「CP対称性の破れ」のおかげで生き残っている物質を使って、ヒトの身体はできていて、分子レベルでの精密さを重ね合わせ、マクロに見ても、こんなにも精密に動いているのだけでもすごいのに、DNA依存性も環境依存性も超えた意志なんてモノを持っているなんて、すっごく高等。生きているだけでね。

 そこを受け止めながらも、めっちゃ競っている試合にちゃんと挑み続けていけ、何事も、続けるからこそ力になることを忘れなければ、受験に限らず、いつかきっと。。
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