気持ちがあればあるほど、期待することになるから、それと反する出来事を恐れるようになる。
期待はずれを恐れすぎるあまり、自分や自分の作品に、わざとリスクを付加させて、二体系から一体系に帰着された気持ちがホンモノであることを確かめようとする。自分自身を大切にする気持ちや自分にきちんと価値を置く気持ちが極端に少なければ、縋りつくことしか出来ないから、そんなにメンドクサイことにはならないのかもしれないけどさ。
いつもいつも迷うのは、そのリスクを超えて選んだからガチ、なのか、ただの習慣でリスクを超えただけ、なのか、、自分でも判断がつかない時がある。あえて付加させてきてるリスクで、しかもそれを見抜いていれば、ただカワイイとしか思わないけど、本当のリスクを感じ取った時、自分の気持ちが、それでもブレていない原因がどっちにあるのかを、ちゃんと解析する必要があると思う。
リスク付加のさせ方として、やりすぎればやりすぎるほど期待はずれになる率もあがるし、でも最初っから期待はずれである可能性も捨てきれないからって、ふたつの平衡点をとって、付加させないといけない。
一番簡単な系は、正しさのみに心を奪われているクズを相手にする時で、この系ではすべて物理的にリスク度合いを考えられるからホントに簡単だ。「正しさ」ということを餌にして、どれほど食いついてくるかを観察することによって、こちらの「正しさ」具合を知ることができるという利点だけでなく、さらにその次の系へ、同様の強かさを兼ね備えていることをにおわすことになるから、こちらにアドバンテージを与えてくれる。特に、自然にセカンドシュートを狙ってしまう俺としては、片手間で完璧に出来てしまう。
でも、多くは、気持ちに心を奪われる気質の、心豊かな人である場合が圧倒的だから、揺らぎの中、しかも時間変動する中で、リスク度合いを考えなきゃいけない。それも、相手も同様のリスク付加をかけてくるから、混沌としすぎてて、その場その場でヒットを打っていくしかないのだ。
まぁでも、実は、擬似リスクで曖昧になり過ぎる、っというのは、まだ、そこまでのリスクにはならない。話し合えば、止められる可能性も高いから。
ガチのリスクで不安になりあう、というのが、本当の意味での一番のリスクだと思う。もっと一般的にしてしまば、自分と相手は100%同一ではない、100%同一にはなりえない、という不安が、一番のリスクになる。
まぁ、100%同じだったら、系を形成する意味が無いんだけど。だって、例えば、音楽として、多重録音のアカペラとかって微妙じゃん?
そして、その不安を取り除くために、世の中には「即物的な事」や「言葉」が存在しているのだと思う。
そこが今、同一だから、合わせに行けているから、大丈夫だっ、ってなって安心する。止めてしまわない、諦めないための努力は、しすぎるくらいでちょうどイイ。
「即物的な事」や「言葉」は、自分に重きを置いていないから、誤魔化すために存在するわけではないし、正しさのみに心奪われ即物的な満足を一番大切にするような人の遊び道具のために存在するのでもない。
自分に価値を置きながらも、相手との気持ちを大切にしたい人が、出力の不具合や、リスク付加などの曖昧さや混沌で全部わからなくなってしまい、さらに決して100%同一にはなれないんだという不安を抱えてしまった時、その不安さをぬぐうために、「即物的な事」や「言葉」が存在しているのだ。
逆に言えば、それ以外のための「即物的な事」や「言葉」は、そんなに気にしなくてイイってこと。
だからこそ、安心して勝負することができるのだと思う。
期待はずれを恐れすぎるあまり、自分や自分の作品に、わざとリスクを付加させて、二体系から一体系に帰着された気持ちがホンモノであることを確かめようとする。自分自身を大切にする気持ちや自分にきちんと価値を置く気持ちが極端に少なければ、縋りつくことしか出来ないから、そんなにメンドクサイことにはならないのかもしれないけどさ。
いつもいつも迷うのは、そのリスクを超えて選んだからガチ、なのか、ただの習慣でリスクを超えただけ、なのか、、自分でも判断がつかない時がある。あえて付加させてきてるリスクで、しかもそれを見抜いていれば、ただカワイイとしか思わないけど、本当のリスクを感じ取った時、自分の気持ちが、それでもブレていない原因がどっちにあるのかを、ちゃんと解析する必要があると思う。
リスク付加のさせ方として、やりすぎればやりすぎるほど期待はずれになる率もあがるし、でも最初っから期待はずれである可能性も捨てきれないからって、ふたつの平衡点をとって、付加させないといけない。
一番簡単な系は、正しさのみに心を奪われているクズを相手にする時で、この系ではすべて物理的にリスク度合いを考えられるからホントに簡単だ。「正しさ」ということを餌にして、どれほど食いついてくるかを観察することによって、こちらの「正しさ」具合を知ることができるという利点だけでなく、さらにその次の系へ、同様の強かさを兼ね備えていることをにおわすことになるから、こちらにアドバンテージを与えてくれる。特に、自然にセカンドシュートを狙ってしまう俺としては、片手間で完璧に出来てしまう。
でも、多くは、気持ちに心を奪われる気質の、心豊かな人である場合が圧倒的だから、揺らぎの中、しかも時間変動する中で、リスク度合いを考えなきゃいけない。それも、相手も同様のリスク付加をかけてくるから、混沌としすぎてて、その場その場でヒットを打っていくしかないのだ。
まぁでも、実は、擬似リスクで曖昧になり過ぎる、っというのは、まだ、そこまでのリスクにはならない。話し合えば、止められる可能性も高いから。
ガチのリスクで不安になりあう、というのが、本当の意味での一番のリスクだと思う。もっと一般的にしてしまば、自分と相手は100%同一ではない、100%同一にはなりえない、という不安が、一番のリスクになる。
まぁ、100%同じだったら、系を形成する意味が無いんだけど。だって、例えば、音楽として、多重録音のアカペラとかって微妙じゃん?
そして、その不安を取り除くために、世の中には「即物的な事」や「言葉」が存在しているのだと思う。
そこが今、同一だから、合わせに行けているから、大丈夫だっ、ってなって安心する。止めてしまわない、諦めないための努力は、しすぎるくらいでちょうどイイ。
「即物的な事」や「言葉」は、自分に重きを置いていないから、誤魔化すために存在するわけではないし、正しさのみに心奪われ即物的な満足を一番大切にするような人の遊び道具のために存在するのでもない。
自分に価値を置きながらも、相手との気持ちを大切にしたい人が、出力の不具合や、リスク付加などの曖昧さや混沌で全部わからなくなってしまい、さらに決して100%同一にはなれないんだという不安を抱えてしまった時、その不安さをぬぐうために、「即物的な事」や「言葉」が存在しているのだ。
逆に言えば、それ以外のための「即物的な事」や「言葉」は、そんなに気にしなくてイイってこと。
だからこそ、安心して勝負することができるのだと思う。