たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

全部一緒にはなれないから

2011-09-30 02:53:37 | Weblog
 気持ちがあればあるほど、期待することになるから、それと反する出来事を恐れるようになる。
 期待はずれを恐れすぎるあまり、自分や自分の作品に、わざとリスクを付加させて、二体系から一体系に帰着された気持ちがホンモノであることを確かめようとする。自分自身を大切にする気持ちや自分にきちんと価値を置く気持ちが極端に少なければ、縋りつくことしか出来ないから、そんなにメンドクサイことにはならないのかもしれないけどさ。

 いつもいつも迷うのは、そのリスクを超えて選んだからガチ、なのか、ただの習慣でリスクを超えただけ、なのか、、自分でも判断がつかない時がある。あえて付加させてきてるリスクで、しかもそれを見抜いていれば、ただカワイイとしか思わないけど、本当のリスクを感じ取った時、自分の気持ちが、それでもブレていない原因がどっちにあるのかを、ちゃんと解析する必要があると思う。

 リスク付加のさせ方として、やりすぎればやりすぎるほど期待はずれになる率もあがるし、でも最初っから期待はずれである可能性も捨てきれないからって、ふたつの平衡点をとって、付加させないといけない。
 一番簡単な系は、正しさのみに心を奪われているクズを相手にする時で、この系ではすべて物理的にリスク度合いを考えられるからホントに簡単だ。「正しさ」ということを餌にして、どれほど食いついてくるかを観察することによって、こちらの「正しさ」具合を知ることができるという利点だけでなく、さらにその次の系へ、同様の強かさを兼ね備えていることをにおわすことになるから、こちらにアドバンテージを与えてくれる。特に、自然にセカンドシュートを狙ってしまう俺としては、片手間で完璧に出来てしまう。

 でも、多くは、気持ちに心を奪われる気質の、心豊かな人である場合が圧倒的だから、揺らぎの中、しかも時間変動する中で、リスク度合いを考えなきゃいけない。それも、相手も同様のリスク付加をかけてくるから、混沌としすぎてて、その場その場でヒットを打っていくしかないのだ。

 まぁでも、実は、擬似リスクで曖昧になり過ぎる、っというのは、まだ、そこまでのリスクにはならない。話し合えば、止められる可能性も高いから。
 ガチのリスクで不安になりあう、というのが、本当の意味での一番のリスクだと思う。もっと一般的にしてしまば、自分と相手は100%同一ではない、100%同一にはなりえない、という不安が、一番のリスクになる。
 まぁ、100%同じだったら、系を形成する意味が無いんだけど。だって、例えば、音楽として、多重録音のアカペラとかって微妙じゃん?

 そして、その不安を取り除くために、世の中には「即物的な事」や「言葉」が存在しているのだと思う。
 そこが今、同一だから、合わせに行けているから、大丈夫だっ、ってなって安心する。止めてしまわない、諦めないための努力は、しすぎるくらいでちょうどイイ。

 「即物的な事」や「言葉」は、自分に重きを置いていないから、誤魔化すために存在するわけではないし、正しさのみに心奪われ即物的な満足を一番大切にするような人の遊び道具のために存在するのでもない。
 自分に価値を置きながらも、相手との気持ちを大切にしたい人が、出力の不具合や、リスク付加などの曖昧さや混沌で全部わからなくなってしまい、さらに決して100%同一にはなれないんだという不安を抱えてしまった時、その不安さをぬぐうために、「即物的な事」や「言葉」が存在しているのだ。

 逆に言えば、それ以外のための「即物的な事」や「言葉」は、そんなに気にしなくてイイってこと。
 だからこそ、安心して勝負することができるのだと思う。
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Coincidence 2

2011-09-27 23:45:14 | Weblog
 たまに、恐ろしい偶然の一致で怖くなることがある。

 どのひとつでもズレてしまったら起こり得ない偶然が起こると、運命みたいなのを感じるけど、偶然がただの混沌寄りになればなるほど、薄っぺらい。運命を安売りしちゃダメだ。

 でも、混沌では無い時、少なくとも混沌では無いと思っている時、偶然の重なりの多さに怖くなる。近々、それが起こる予感がしてる。
 予感があるってことは予見や考えがあって、必然寄りなんだけど、それでも、またちょっと怖いかな。もうすでにいくつかは起きているし。

 っで、もっと言うと、偶然の一致は、あまりイイ知らせには適さない。悪い知らせに多い。
 今回のこの予感は、悪い知らせというよりは、何にぶつかっていくかを具現化することだと思う。

 大丈夫。何が幸せか、何が楽しさか、について、一番知っているのは自分だって自負しているし、どんな人間が何と言おうと、その定義は、カワラナイし、カワレナイし、「変わる気も無いの」。

 それさえ俺がブレなければ、どんな怖い偶然が重なったとしても、その偶然から何かを示唆されたとしても、根源的な問題から引っ張り出せるはず、助けられるはずだ。
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タイムマシンで行きたいところ

2011-09-27 00:56:42 | Weblog
 さてっ、ニュートリノによって、タイムマシンは理論的には可能、ということになりそうであるので、今日は、具体的にどの時代に行こうか悩もうと思います。

 まぁ、ざっくり、過去か未来か、ってことになると思うんですけど、基本的に俺は未来には行きません。だって、未来は今以上に超幸せであるに決まっているので、わかりきってるとこに行っても仕方ないですから。

 やっぱ過去だよねー。とりあえず、邪馬台国がどこにあったかを調べるかな。九州説じゃないかと思うので、とりあえず、西暦200年代の九州に飛びます。んで、卑弥呼を観て、写真撮ってくる。そういうの、時間犯罪っぽいけど。
 一通り歴史で曖昧なところを確認したら、それから、1980年代に飛びます。このバブルはじける前の時代は、高橋慧にとって、超適している環境だと思うので、一度でイイから、私利私欲に溺れまくってみたい。

 ここで3年くらい過ごした後、好きな人や嫌いな人達の過去と接するため、90年代後半に飛ぶ。それぞれの人達の重要なシーンや分岐点に行って観察し、接触を試みる。それによって、今が変わる?
 いや、待てよ、これをしてるのであれば、もうすでに、その結果による今なわけだから、、あー、どうなるんだろ、やっぱ、めんどくさいから、タイムマシンって、観るだけにしといた方が良さそう。

 だね、時間法の大前提は、タイムマシンで行えるのは、見物のみである、ってことになりそう。

 だから、タイムマシンは未来に確実に発明されるけど、未来人は現代に露わに現れてきていないのです。
 ってことで、本日はSFフィクションをお送りしました。じゃねーし、現実になりうるし!笑
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染まりすぎるデメリット

2011-09-26 02:03:32 | Weblog
 どれだけ周りの人が俺に気を遣ってくれて、今の自分でいられるかを忘れちゃいけない。

 勘違いして、今の自分があるのは、自分の努力だとか、自分の能力だとか、先天的にそうだからとか、そういう風に思いがちになってしまうけど、周囲の人全員の善意でありがたく、今、こうしてられるわけで、それを忘れてしまうと、重要なシーンで失敗しやすくなる。
 って、具現化された即物的な事は本来どうでもよくって、それを忘れてしまうと、何か精神的なモノで満たされなくなっちゃうんだと思う。それが一番怖いこと。

 立場が弱い、しかも、真面目なのに信念がそんなに無い人間を自分の能力の前に崇拝させるようにすることは、非常に簡単だ。
 だからって、手っ取り早さに負けて、それに甘え切っているようではダメだ。それに甘え切っちゃうと、同程度の立場や信念がある人間達に、最終的にバカにされることになるし、どんどん対等に喋れなくなっていく。

 『えー、でもさー、なんていうのかなー、俺のがそっち方面の能力があるわけだしー。』
 《違うよ。能力があるほうが、無い方に合わせてあげるように歩み寄らなきゃダメなんだよ。とりあえずは。》
 『…確かに。能力あるってんなら、そこも考慮しろよ、ってことだよね?』
 《そうそ。》

 信念が無い人、自分よりも能力が無い人には、何か情熱を持たせてあげるようにすること、その情熱をこの先も維持させるようにすることが先決で、自分の思い通りに使う目的にしちゃいけない。
 じゃなきゃ、寂しくない?

 実質的にも、勘違いだけじゃ、その小さな小さな世界でしか、トップに立てない。
 もっともっと広い世界へ行った時に通用する人は、立場が弱い人達に、ホントの意味で、心から慕われている人だと思う。

 だから、なるべくいろいろな世界を日常の中に持って、色んな価値観やルールを知ることが大事なのかも。

 まぁ、勘違いしてても、何かの言葉のせいでどうしてもインタラクションしなきゃな人には、その狭い世界の中でのルールと、広い世界の正論を上手く組み合わせて、対応する。俺と関わってる以上、きちんと目覚めて欲しいから。
 狭い世界の方向だけに信念がありまくる、誤魔化し続けている人の瞳は、共通して怖いから、ラインを間違えないようにしないといけないけどね。
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光速なんておせーよ

2011-09-24 02:35:26 | Weblog
 な、な、なんとっ、ニュートリノは光速よりも速いらしい。

 それも、検出限界のオーダーよりも遥かに大きいオーダーで、光速cよりも速いというデータが存在する。皆さん、光より速いっつってもちょっとでしょ?、って思ってるかも知れませんが、全然、そんなことはありません。もう、めっちゃ速いっす。俺とウサイン・ボルトくらい違います(笑)。
 まぁ、論文の生データさっさと見たいんだけどね、まだ公開されてないのーっ。

 最初聴いた時は、にわかに信じ難かったが、どうやらマジです。というのは、ネットやマスコミ以外の情報も加味しての意見で、そんなにエセではないっぽく、マジらしいです。

 ちなみに、だからといって、アインシュタインの特殊相対論が完全に間違ってるわけではありません。前にも書きましたが、自然科学というのは、これくらいのスケールの自然現象については、この理論で非常に精度よく理解することが出来ます、ということまでちゃんと定量化するので、非常に厳密なんです。
 よーするに、光速以下の速度を持つ物体の物理現象について、相対論は非常に正しいことに変わりは無いのです。ただ、光速よりも速いモノは存在しない、ってことについては、我々人類の物理学での解釈は、間違っていた、っと言わざるをえません。

 っていうかさぁ、マジで、どういうことなんだろーね。今日はこれのせーで、割とガチで困惑していますが、超新星爆発後、光よりも速くやってくるニュートリノと遅くやってくるニュートリノがあるってことでイイの?
 あと、まぁ、光速以上になっちゃったからなんとも言えないけど、ローレンツ収縮の式、L'=L*(1-v^2/c^2)^(1/2)、は、ニュートリノの系の場合、複素解をもつことになるけど、物理的解釈はどうなるんだろ??相対論的質量はどう扱うべきなの?

 そして、重大な朗報があります。今回の発見がマジでマジなら、タイムマシンは理論的には可能である、ということになります。

 これまでは、L=ctという式からわかるように、未来にしか行けないという結論でした(だって、これまでは、絶対的にv<cで、cは非慣性系でも不変ですから、tが小さくなることはあっても(未来に行ける)、マイナスにはなりません(過去には行けない))。当然、未来に行っても、帰ってこれません。
 でも、光速cより速いモノがあるなら、話は別です。どう応用するかは何も考えてませんが、今いる時刻よりも、未来に行く時はウラシマ効果で、過去に行く時はニュートリノを応用した技術で、時間旅行することができます。

 まさか、自分が生きてる間に、相対論が否定されるとは思ってもみませんでした。普通に、光速が、この世で一番はえーだろ、って。こんなに当たり前だと思ってることが覆されることがあるのか、って感じ。いやー、追実験でも、同様の結果がでるといいなー。
 だと、21世紀の物理学の新しい教科書が作られる過程を見ることができます。

 やっぱ、「決めつけないで!」
 だって、相対論ほど、美しい理論だって、教科書だって、それ自体が完備なモノなんかでは全然無いんだし、当たり前だと思ってることのすべては、否定される日が来る。

 もっともっと固定概念から脱しないといけない。

 明後日、また、新しい情報が得られるはずです。論文も次第に読めることになるでしょう。めっちゃ楽しみ。

 Reference
 Neutrinos Travel Faster Than Light, According to One Experiment
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ボロボロから抜け出せ!

2011-09-23 01:05:00 | Weblog
 最近、あらためてやっぱり、自分自身を大事にすることも、自分の身の程を知ることも、両方大事だなーって思うことが多いです。
 もちろん、即物的に、じゃなくって、精神的にorホントの意味で、ね。なんていうかな、絶対的じゃなくて、対ヒトでの、相対的に、って感じかな。

 ボロボロにならないために、どっち寄りになってもいけないんだと思うのですが、どっちがマシなんだろうね。
 物理的に間違った行動をしまくってしまってボロボロ(自分を大事にしない)なのと、いつまでも自分で何も行動しないでボロボロ(自分の身の程を知らない)なのと。

 どっちもどっちかな。まだ感情的に行動しただけ良いか、って、こともあると思うけど、それって、次に繋がる、ってことを考えてるわけで、自分のこと大事にしないなら、次を考える意味はないからね。だからって、何も行動しないんじゃ、次どころか、今回だって無い。まぁ、やっぱ、どっちもどっち。

 もし、そんな状態なら、どうにか打破しないとっ。

 打破の仕方は、助けることと助けられることの等価性に関連してると思います、難しいんだけど。どんなことでも、習慣を変えるってのは、すごく大変っ。
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新幹線座席の「2-3」フォーメーション

2011-09-22 03:00:21 | Weblog
 新幹線って、席のフォーメーションが「2-3」になってるじゃないっすか。
 あれは、なんであーなってるのか、説明しなさい、って宿題を、某超有名中学校で出したらしくて。そこの生徒から聴きました。ちなみに、ググっちゃダメ、って言われたらしい。

 最初、重心とか?って思ったんでが、んなわけないし、考えれば考えるほど、非対称な座席にイライラしてきちゃって(笑)。
 正解は、だいたい何人で乗っても、ひとりぼっちで座ることがないように、「2-3」らしいです。喧嘩しないため、友達や仲間として一緒にいるのに、ボッチ、みたいな、悲しい状況を具現化しないため、らしいです。

 えー、そうかぁ?、って思って、ちょっと考えてみると、、

 2人でやってきても二人席で大丈夫。3人も三人席があるから大丈夫。4人も二人席×2で大丈夫。5人も三人席+二人席で大丈夫。6人なんて、二人席×3or三人席×2でオッケーっ。

 たとえ、EXILEが全員で車内にやって来ても、(二人席×a)+(三人席×2b)で大丈夫。
 (∵b=0,1,2、 a=7-3b)
 AKB48がやってきたとしたら、(二人席×c)+(三人席×2d)で大丈夫。
 (∵d=0,1,2,…,8、 c=24-3d)

 確かに。すげー、JRすげー。めっちゃ考えてますよ。

 でもね、それって、初期状態が、全部空席ってのを前提としてるんです。よーするに、指定席を前提としてるんです。
 僕ら庶民は、1~3号車の自由席が基本です。新幹線のグリーン車なんて、神のまた神の領域、界王神みたいなもんです。

 だから、大抵埋まってます。しかも、俺、新幹線乗る時なんて、だいたい1人です。すると、もう、最初っからボッチじゃないですか。んで、地味に迷うんです。うわー、たぶん名古屋あたりできっと人もっと乗ってくるよー、広々席使えないよーって。すると、三人席と二人席と地味に迷う、どっちに1人で座ろうかって。
 京都以降に行くなら、正解は三人席です。名古屋までなら二人席。まぁ、理由は各自考えてくれたまえ。

 まぁ、こんなんしなくても、普通に、「2-2」とかでイイと思うけどね、俺は。

 3人や7人になったんなら、それは、もう、色んな意味で生存競争が始まっているわけだし、せっかく3人で三人席に座ったとしても、それでもボッチになるって可能性があるってことを、JRはもっと考えるべきだと思う。

 (っと、ネタを書いてみたけど、こういうのは現実の世界のために、とっといてある、ってことを忘れてたよん。笑)
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その一瞬を見逃さないで

2011-09-21 01:08:18 | Weblog
 『ほら、だって、これが終わったら、すぐ次のこと考えないといけないじゃん?』
 《うん。でもね、私、これ終わったら、死んでもイイかも(笑)。…ウソだけど。》

 一つのことだけに、(まさに文字通り)一生懸命になることは大切。そして、それを複数持つことも同時に大切だと思う。
 俺も、終わったら死んでもイイかも、までは行かなくても、それくらいの気合いの入れ方をするときは沢山ある。だけど、それが終わってからの立ち直りは結構早くて、すぐ次のことを考えることはできる。っていうか、次のことを考慮しながらも、普通の人が行えば、そこにしか集中していないんじゃないか?って思われるくらいのパワーを出すことなんて、容易だと思っている。

 <まぁ、昔のソフトウェアややり方でも出来ちゃうからね。だって、実際に、使えちゃえば、できちゃえば、それで良くない?>
 『全然ダメです。そんなんじゃぁ、全然、ダメですよ。だって、大切なのは、今行っているその仕事、ってわけじゃないんですから。次の場所で使っていそうもない昔のプログラムソフトなんて使ってたって、次の場所ではその経験をそのまま活かせない。だから、なるべく新しいモノ、それも、世間のみーんなが使ってるようなモノを使うことが大切なんです。』
 <あー、確かにね、なるほど。>

 当たり前だけど、過去に未来は無い。過去をいくら掘り起こしたとしても、その証や言葉を所有していても、やり方を真似してみても、過去から未来が生産されることは、絶対に無い。古きを訪ねて新しきを知る、ってのは、間違って無いんだけど、きちんと、古きは訪ねる程度にとどめておかないとね、委ねちゃダメ。

 こんな感じで、俺は、そのゴールを奪うために、必ず、2本以上のシュートを用意しておく。癖になってる。ただシュートを打つときも、セカンドシュートを意識したファーストシュートを放つようにしていて、これは、すべての系に共通の手法or癖で、必ず2つ以上用意しないといけないと思ってしまっている。

 この手法は、努力がそのまま評価を受けやすい、堅い系やそれじゃなきゃダメってわけじゃない系に対しては、とても有効なんだけど、柔らかい系、本当に重要度が上がってくる、グレーゾーンが大切な系では、あまり良くは作用しない。

 俺の最大の弱点の一つに、重要な系になればなるほど、心に一点の曇りもない状態じゃないと、たったひとつしか打てない大きなシュートを、いつまでも自分から自発的に打つことができないということがある。タイムオーバーになりがち。
 だいたい方向性が決まっていて、間違いないのに、精神的にも物理的にも、自分の気持ちに、一点でも曇りがあれば、その日は中止してしまう、悪い癖だ。これと関連して、2本以上のシュートを用意するのだと思う。

 っで、演技になって、薄くなってしまう。絶対に掴みたいから2本用意するんじゃないっ、迷ってるから、気持ちに一点の曇りも無いと行動できないからって、先延ばしするためだけに、セカンドシュートを意識しているのだ、っと、最近気がついた。

 まぁ、即物的・現実的にガチでピッタリであり、それしか理由にしない、しかも、それがないとか何も行動ができないような癖よりは、マシか。笑

 『そういうとこも演技してる部分があるっしょ?』
 【そこまで考えると、本当の私はどこにいるの?、ってことになってきちゃうでしょ?】
 『えー、これくらいは演技してそう、っていうか、俺も気がつくくらいだし、完璧に演じきれるんじゃない??』
 【そんなわけないでしょっ。人間なんだから、絶対に、どこかでボロが出るんだと思うよ、本当の気持ちとしてね。】

 あの頃の言葉が本当だとしたら、このままで大丈夫、なのかな。。一瞬であったとしても、見逃されなければ。
 だからぁさぁ、古きを訪ねる、程度にしとかないとね。
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環境下を広げつつ出来ることをする努力

2011-09-18 00:09:56 | Weblog
 まだまだ向上しないといけないな。

 最近、ホントに、ちょっと自分の能力に満足してるところがあったから、反省しないといけない気がする。このままのスタイル、このままの増加率で、能力を上げていきさえすれば良い、って構えていたところがある。もっと加速度をつけて、能力をあげていかないといけないかも。
 上をみたら切りがない、っという状態から、いつの間にか、上には切りが見えてる、になっていた。そんなことはない。本当に、もっと広い視野、世界で観れば、凄い人達が沢山いるし、そういう凄い人と偶然、関われたわけだから、やっぱり向上しろ、ってことなのかもしれない。

 まぁ、何年か前からしたら、ついにここまで来た、爪に引っかかりかけている、っとも言えるけど、もうちょっと気合いを入れないといけないですな。
 それは、目的から逆算する努力が足りないというよりも、とにかく手に届く能力をすべて集めてくる、ってほうの努力が足りない、っと、俺は自分に対して、より思った。
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誰からも認められるということ

2011-09-17 00:15:50 | Weblog
 まったく同じことを、行動として、したとしても、誰かと俺で、違うような感じになることがイヤだって、よく思ってきた。
 それは、誰かだったら許されるのに、俺だったら許されないみたいなシーンが多いからだって思ってたけど、、最近は逆のことも多くて、それはそれで全然イヤだなって思う。

 雰囲気でオッケー、言ってることやってることも物理的にオッケー、になれたらラクなんだけど、なかなかそれは難しいね。

 ただ、このヒト依存性で変わってしまう感じ(個体差がある)は、何をしたか、何を言ったか、だけで判断してしまうよりは、人間らしいからマシだ。
 評価というものをランキング化するならば、

 4流の評価は、物理的に、何をしたか、何を言ったかだけで判断してしまう評価。
 3流の評価は、自分の偏愛をかなり含め、どのヒトが、物理的に、何をしたか、何を言ったかで判断してしまう評価。
 2流の評価は、1~2ヶ月ほどのタイムスケールでのその人の気持ちや習慣を考慮した上で、物理的に何をしたか、何を言ったかを判断する評価。
 1流の評価は、最低ラインの物理的な言動さえ超えていれば、かなり短いタイムスケールでのその人の気持ちのみを評価対象とし、しかも、集団の地位や名誉などを守ることは考慮せず、その評価をすることによって、被評価者の物理的かつ精神的な向上を期待できうるような評価。

 だと思っている。
 一流になれているかどうかはわからないけど、少なくとも、このように頑張って評価したいと思っている。この部分の凄さや素晴らしさを知らないのは、いくら物理的に正しくても、何も意味は無いんじゃないかな。完全なロボットとして生きるなら別だけどね。

 いつか、もっともっと力をつけて、そして、力があるにもかかわらず、一流の評価をし続けられるように、頑張らないといけない。

 それが、雰囲気でオッケー、言ってることもやっていることも物理的にオッケー、ということだと思う。
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助けることは助けられること、助けられることは助けること

2011-09-15 02:56:40 | Weblog
 ただの仕事のくせに、恩着せがましいヤツはムカつく。
 そういうヤツには、『ありがとうございました。』って言う。過去形で終わらせる。お世話になんてなってない、てめーがやってんのは仕事だろ?、何か俺に与えているなんて勘違いしてんじゃねーよ、バカヤロ、って意味をこめて、過去形にするのだ。

 じゃぁ、仕事じゃなければ、お金が介在していなければ、助けること、何かを与えることで、必ず心から感謝されるべきか?っていうと、そういうわけではない。
 何故なら、助けることは助けられることだからだ。

 誰かを助けることによって、必要とされているんだって思うことが出来る、それは即ち、助けている人に助けられているということだ。
 だから、誰かを助けたり、何かをあげようと思う時に気をつけなきゃいけないけど、助ける側も、きちんと、『ありがとう』や『申し訳ないです』って気持ちを持って、それを伝えた方が良い。実質的には与えてるつもりでも、精神的には貰っているんだから。

 逆に、助けられることは助けることだ。
 助けられることによって、助けることが出来る。あえてやるには演技力が必要だけど、そのプレイは、薄っぺらくても、別に構わない。そうしてくれているという気持ちそのものが、助けることになっているし、助けることは、また助けられることだから、そういう演技を見抜きながらもプレイを続行してくれる優しさに、助けられていることにもなっている。

 実質的な事なんて、本当にどうでもイイ。そういう気持ちを持っているということが大事だし、例えば、助ける側が「実質的に特に何も出来なかったかも、無駄な時間を使わせて、ごめん。」という気持ちこそが、助けられる側には一番嬉しい具現化だろうし、助けられる側の「出来ることをしてくれたその気持ちこそが嬉しい」という気持ちこそが、助けることに繋がる。

 誰かから実質的に助けてもらうなんて、ほとんど無いこと。それが、ちょこっとだけ、何かに作用して、本当に実質的に大きく作用することがあるけど、重要なのは、そういう偶然の結果では無くて、必然の気持ちだったりするのだと思う。
 気持ちさえ満足できれば、わかりあえていければ、実質的にいくら上手く行って無くても、幸せでいられるからね。

 そして、こういうことを自然に大事にするような環境、大事にしなきゃいけないと気がつかさせてくれるような環境、こそが、「恵まれている」ということだと思っている。
 いくらお金があっても、何か言葉を持っていても、この部分の大きさが強くなければ、何も意味が無いのよん。

 助けることは助けられること、助けられることは助けること。
 気付いたかもしれないけど、この2つの公式はn回使える。もしnを無限まで飛ばせて、ある収束値に落ち着いたら、二体系におけるホンモノの1つであると思う。
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悪を求める者には悪が訪れる

2011-09-14 03:07:03 | Weblog
 どこまで行っても、頭を使うか、心を使うか、で迷う。
 思考と感情と、どちらが、本当の意味で、正確に系を記述していくのか、難しいところだ。

 ただ、変に考えすぎて、そのせいで失敗するよりも、感情に従って後悔した方が、次に繋がる気もする。って、冷酷な判断も実はただの思考で、すぐに次のことを思えているって部分が、気持ちが足りないんだと思ったりする。
 思考をしないことがポイントというわけじゃない。思考できる、賢い、ということが冷酷であるということでも無い。感情を出す時に、次に繋がるからってことを大義名分とするかのように、その感情に従った行動が出来てしまうということが、気持ちがホンモノじゃないってことだと思う。

 で、その「次」でも結局、即物的なモノの高位度だけを求めちゃうんだろ?
 そうなってしまっていたからこそ、何も言葉が得られないモノに対して、頑張ってみることが大切なんだと思っている。

 なーんにも得られない、無形なことに対して、必死でトライして、頑張っていくことは、本当に本当に大事だ。
 ただ、これも感情の問題なんだけど、心から、そういうことが必要だって思えない限りは、そういうことに対して、ちょこっとだけでもやってみるか、っとすらも思えないんだよね、ホントに何も得られないから。

 何か足りない、その「何か」が無形な事だとは気がつかずに、即物的な結果ばかり。上に行けば違うんだろ?!、上に行けば違うだろ!!、もっと上へ行けば違うはずだってば!!、って、同じだよ、バカヤロー。
 きっと、何も努力しないで、無形な「何か」が得られない限り、自分から主体的に頑張ってみようとは思わないんだと思う。当たり前のことだ。

 どんなにそれが汚い感情であったとしても、気持ち依存で動けている時は、まだまだ大丈夫。怖いのは、気持ちがたった一つの最低ラインの種類だけに束縛状態になって、思考的になりまくる時。そっちになってる時のが、自分が怖い。

 「即物的」イコール「気持ちがたった一種類に限定される」ってことだからね。
 そんな悪を望んでいる状態だと、自然と、悪が訪れることになってしまう。

 だから、複雑に感情が絡み合ってるほうが、本来自然で、普通。まぁ、だいたいこっち、ってくらいの、方向性はきちんと確定している、っという大前提あっての話だけど。
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絶対的なことは正しいの?

2011-09-13 00:09:31 | Weblog
 最近、ちょっと他の研究室でも実験を行っていて、あらためて、当たり前だと思いこんでしまうのって、めっちゃ怖いなって思ったりしている。

 これは絶対同じだろ、どの世界でもそうだろう、ってことでも、すぐそばの隣の扉では違ったりする。
 俺なんか、違う世界に飛び込んでる数は多いはずだし、慣れてるはずなのに。これでも、新しい世界に入る時、まず自分が思っている当たり前はすべて否定してから、その世界に入っていくことを心がけているつもりだ。それでも、混乱することが多いのには本当に驚く。

 だからこそよく思うんだけど、自分たちは、あくまで慣習によって上手く行ってるってことを忘れちゃいけないと思う。手慣れている、当たり前に正しいやり方が、何も論理的に一番優れているやり方などではなく、ただ、そのやり方で収束しているだけで、どんどん開拓のし甲斐はあると思うのだ。

 自分一人でやっていれば、収束していくに決まってる。だから、どんどん違う世界の扉を叩いてみるべきだし、そこでの当たり前を沢山吸収する必要がある。
 あと、新しく入ってくる人の意見をよく聞くことも大事だ。新しく入ってきた人の意見が一番正しいことを言っている確率が高い。それと同様に、自分が最初の頃に思った事も、非常に正しいことが多いから、それも良く覚えておくことが大事だと思う。

 ただね、ここまで来て、お話の全部をひっくり返そうと思うんですけど、、(笑)

 そうやってくのって、どんどん一般的になっていくってことに繋がると考えられるのですが、果たして、なんでもかんでも一般化していって、大衆に認められる必要ってあるのかな??

 相対的なことよりも絶対的なほうが正しいって、それもただの、決めつけじゃない?
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だって、俺よりも…

2011-09-12 03:14:15 | Weblog
 最近、いろいろなことを一度に引き受けても、大丈夫になった。特に院生になってから。

 それまでは、大切な仕事が入るとその期間にそれ以外は何も出来なかったけど、最近は、大切なのがいくつか入っても大丈夫だし、どうでもいい雑多な仕事が入っても出来るようになった、、ってのは全然ウソで、それまでは、大切な仕事があると、それをイイワケに、何もしなかっただけだと思う。

 『なんていうのかな。すぐイイワケを作っちゃうんだよね、俺とは、条件が違うし、俺は、一つやるだけでこんなに大変で、それに、みんなよりもここに賭けてるから、他の仕事しなくても、仕方ないっしょ?って。でも、まっ、結局イイワケじゃん?』
 ≪なんで、そこまで分かってて出来ねーんだよ?笑≫
 『頑張ろうとはしてるのよん。』

 その後、俺が憧れてきた状態にどんどん近くなってはいったけど、必要じゃなくって出来るのと、必要だから出来るのと、どっちが偉いんだろう。
 この、沢山の大切な仕事をこなす、ってのが、ガチで必要で、それが出来ないと終了になっちゃうって人に比べると、俺は好きでやってるから、まだまだ甘いし、出来ていないシーンも多い。あくまで、恵まれてる環境の割には出来ているというだけのことだ。

 『だから、結局、最終的なラインで、お前らみたいなんに勝てないんだよ。まったくもって不幸がないから。』
 ≪いや、むしろ、その方が理想だよ。何にも不幸な想いをしてないのに、それだけ攻撃的に動けるなら、その方が良いだろ。≫
 『そうかなぁ。やっぱり、不幸があって、それを乗り越えられた方が強いと思うんだけど。』
 ≪いやいや、だって、単純に、不幸は不幸だからね。無いに越したことはないし、強くなる必要も無いでしょ。≫

 その通りだと、今は思うし、非常に正しい。強くなる必要は無い。
 けど、いつ、それが自分にもまわってくるかもしれないし、持ってて損は無いっしょ?

 多角的にいろいろなことやってると、それだけオイシイ話も多くなる。そういう即物的な結果をみると、ちゃんと出来ているよね、って確認ができるけど、それをアドバンテージに使いすぎると、自分に対して甘くなるから、ダメダメ。
 まぁ、心許す、許したい、状態の時に、自分を大きく見せてしまったりしてるのが、アドバンテージを使いすぎそうになる歯止めになる、かつ、もっと多角的に動ける起爆剤になるから、大丈夫っちゃ大丈夫だけど。

 そうそ、これは、どんな実験、どんな観測についても言えることだけど、自分が測定しているということが、測定したい系そのものに、絶対に何らかは相互作用しているという事実を、解析の時に考慮しながら考究せねばならないのだよ?

 だから、自分と誰かを比べる必要なんて、本当に無いのかもしれないね。
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自分を介在させなくても『好き』

2011-09-10 00:51:42 | Weblog
 自分が選んだものがとても不安になってきてしまった時、次に取るべき行動の道しるべはまだ決まっていない。
 きっと、現状維持になっちゃう。不安くらいのファクターじゃ、あの時の自分や選んだものそのものを、まだ信じていたいって気持ちのほうが勝ってしまうから。

 どんなに最低そうな発言を聴いても、どんなに最低そうな付属品がついていたとしても、どんなに最低そうな行動を平気で演技していることを知ったとしても、俺が選んでいるという事実を人質にとられているからか、何かと理由をつけて、仕方なかったんだ、ってやっちゃうから、、なかなか、やっぱダメだろ、って発想に行きつかない。

 でも、突然、事実やガチで最低な言動、を目の前に突きつけられると流石に、考えないといけないかな、と思考が思考をしろ、って言ってくる。
 ここで、取るべき行動がやっと2つに分けられる。事実がイコール真実なのかを探究するか、何も行動せずに何かの間違いだったと決めつけるか。

 前者を選ぶ場合、きっと、自分にとって良くないことが真実だと予想できる心の不安が強いから、少し悲しくなりながら行動を取ることになる。
 その事実をイコール真実だということを示す実験をする間、心(気持ち)と頭(思考)は互いにまったく介在することは無い。

 心では、ずっと、どこかで信じている。
 だけど、頭で、全く信じられない物理的現象に愕然とする。

 だから、自分の心に訊いてみることになる、『こんなにダメだって結果が出てるのに、まだ選び続けようとするなんて、ただの、今までの習慣で、割と長い期間そうだったから、これからも連続的になりたいから、それを選んでるだけなんじゃないの?』って。すると、心は自信を持って答えてくる、『いや、その事実を突き付けられたとしても、それを超えて、好きだから、だから、選び続けているのかもしんないじゃん!?』って。

 「そこまで考えるのー?!っていうかさー、なんで、いちいち、そんなに、ホンモノを求めてるの?」

 即物的なことだけで毎日を過ごすのが、本当に本当に怖いから。

 自分の気持ちに対して不安になってしまった時点で、すべてが終わっているんだと思う。だって、即物的な事じゃなくって、本質的な気持ちについての不安は、見逃せないから。

 ≪K君の人間的な能力について利用してるだけかもしれないじゃん?≫
 『うーん、この件に関しては、不安にもならない。変な話、信じきっちゃってるのよね、そんなこと、俺に限らず、誰にも、絶対にしないって。本当に好きだから。』
 ≪だって、それで本当にそうだったら、イヤじゃない?≫
 『だー、それも不思議なもんで、それでもいっか、こんなんでも、本当に利用していただけるんなら、って思っちゃってる自分すらいる。』

 好きって気持ちが、自分をまったく介在させないで考えたときも、好き、だったら、それはホンモノなのかもしれない。

 まぁ、このスタイルにも重大な欠点があって、多くの人に本当に使い勝手の悪い人間だな、って思われてしまう人間が形成されてしまう。
 ホント、俺、どうでもイイって思っちゃってる系についての仕事、超テキトーだからね。笑
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